中島梓: 小説『1984年』の虚構と真実〜1984年に小説『1984年』を考える
中島梓
かくて1984年は開けた。かつて我々はベルン,ウェルズに我々が「追いついた」ことを知ったものであった....今度はオーウェルだ。なんだか恐ろしく先にあるように思われていた1984年。その途端に今や我々は足を踏み入れたのである。後はただ残こされているものは2001年しかない。
それは確かに極めて刺激的な体験であった。あるいは大多数の人々はそう言うだろう。1984年は特別な年である。オーウェルが『1984年』というタイトルの小説を書いたからである。別に彼は1987年を選んでも2018年を選んでも良かった。しかし彼が選んだのは1984年であった。それには別に深い意味はないと私は感じる。なぜならオーウェルがこの小説を書いた1946年〜1948年から見れば1984年と1999年とのあいだにはさしたる違いはなかった。 オーウェルが「84」を「48」を逆さにする事でつけたということ自体にもさして意味はない。
要するにそれはどんな付け方をされてもよい「未来」,ただ単に未来でしかなかった。「追いついた」のは我々の方なのである。そしてまさに今我々をわくわくとさせているの実はそのことなのである。
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このように見ていくとアンチユートピア小説の位置というものが明らかになっていく。オーウェルにはハクスリーのサヴェジのシェイクスピアに当たるいわば「溺れる者の藁」が存在しない。サヴェジは『華氏451』のごとく書物の中身を口ずさむ人と出会いはせずに孤独に首をくくっていくのだが,しかしそれはハクスリーにとってシェイクスピアに象徴されるいわば人間の精神文化というものそのものの敗北ではなかったはずである。シェイクスピアを読むムスタファモンド,そしてダメな男であるところのマルクスの存在は,サヴェジが正しいことへの心ひそかな共感であり,この共感をもっとSFのオプチミスティックな伝統に従って突き詰めていくとそれはヴァンヴォークトの『スラン』で新人類スランを駆り立て追い詰める旧人類のボスでありながら実は彼自身も新人類であるところのキアグレイの存在までつながっているのである。
しかしオーウェルの厳しい認識はこのようなおオプチミズム/楽観性を許さない。ムスタファモンドと同じく『1984年』には初めウエストに理解者として現れるオブライエンがいる。しかしそのオブライエンはウィンストンの拷問者であり,そして「私もずっと前から捕まっているのだ」という男であって ,そして彼は拷問者,告発者,洗脳者でありながら父のような存在でもあるのであった。
ひと一人一人の固有の決定的な弱点を見抜いてそれを苛み続けているオブライエンの前でウィンストンもジューリアもモンターグやサヴェジのように体制に反逆するヒーローたることを許されない。それはあまりにも徹底したアンチヒーローぶりであり,ウィンストンはサヴェジのようには言わばシェイクスピアに殉じる事も許されない。彼はビッグブラザーを愛することを知って,そしてその瞬間に死んでいくのである。それは仮借ないアンチの構造であって,それこそはおそらくオーウェルの根源的な絶望の実体なのだが,人間は救われないー体制によっても,革命によっても,殉教によってすら救われない存在なのであるーという。その意味でオーウェルほどいわばアンチ SF的な作家も実はいないのである。
オーウェルとはひとつの大きな「アンチ」だったのであって,その行き着くところは東洋人であれば無常観というものはまだ存在してるのだが,オーウェルは英国人であって,それ故に彼にとっては絶望の最も深い形とは結局アナーキズムでしかなかったったのである。そうしたオーウェルの絶望を1984年にある我々が未来予測,予言,あるいはスターリニズムへの風刺ーまたはレーガン体制へのーと見る事それ自体が言ってみれば一つのジョークのようなものだ。『1984年』のウインストンスミスはオセアニアにも,イースタシアにも,ユーラシアにも間違いなく存在したはずなのである。
ーSFマガジン, 1984.3号
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