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原敬総理大臣暗殺


原敬総理大臣暗殺
原敬総理大臣⬅︎イスラム教徒による東京駅での暗殺、1921.大正10年11月4日
2020/01/16 18:10
🔻🔹原敬総理大臣⬅︎イスラム教徒による東京駅での暗殺、
1921.大正10年11月4日🔹🔻🔹
 ■東京駅での暗殺
駅長室でしばらく休んだ後、7時25分改札口に向かった。
先頭が高橋駅長、次が原首相、その後に小川国勢院総裁、中橋文部大臣、
元田鉄道大臣、高橋書記官長などが続いた。
12、3歩ほど進み小荷物取扱場をまわったあたりに差しかかったとき、大円柱の蔭で人込みに紛れて潜んでいた青年が、飛鳥のごとく飛び出した。
原敬がその方を向いた途端、首相に突き当たったと思うと同時に、その青年と折り重なって倒れた。
原敬は横向きに倒れていたが、すでに口も利けなかった。目はまだ開いていたようであった。
原敬はすぐ駅長室に運ばれたが、目を細く開いてかすかに呼吸をしていた。血も出ていなく、傷も分からなかった。胸を明けてみたら赤縞のシャツに、9センチ四方にわたって血が染み出ていた。その下をみると約3センチほどの傷が左胸部に発見された。
最初の医師がきたのが、20分ぐらいたってからであった。カンフル注射、人工呼吸。その後、医師たちが続々と駆けつけいろいろ手をつくしたが、どうすることもできなかった。
夫人とともに到着した正木主治医が、「おかくれになりました」と最後を告げた。
死亡時刻は、午後7時35分ということであった。遺体は、浅夫人の主導によって、芝公園の自宅に運ばれた。
運を天に任せ 「原敬日記」 大正10年2月20日
夜、岡崎邦輔、平岡定太郎、各別に来訪。余を暗殺するの企てあることを内聞せりとて、余の注意を求めくる。余は厚意は感謝するも別に注意のなしようも無 し。また、度々かくのごとき風説伝わり、時としては、脅迫状などくるも、警視庁などに送らずしてそのまま捨ておくくらいなれば、運は天に任せ何ら警戒等を くわえおらざる次第なり。
狂犬同様の者にあらざるかぎりは、
余を格別憎むべきはずもこれ無しと思うなり。
■この日遺書を書く
平岡定太郎(三島由紀夫の祖父)が、暗殺情報を
もたらした20日の夜、原敬は有名な遺書をしたためている。 
皇太子御成婚問題が、婚約内定をせずと発表して一段落し、皇太子の外遊が公表されてまもなくの時期である。
皇太子の外遊に対しては、頭山満一派らの右翼の
反対運動がさかんに行われており、このころには、
原敬の身辺にも不穏な動きについての風評が流れはじめていた。

地球市民点描・麻川明(黙雷)
http://blog.livedoor.jp/ail01u9j10taw/archives/5147746.html