ラベル #1945 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル #1945 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

ナチス崩壊

ナチス崩壊
75年前のナチス崩壊とサイトカイン・ストーム
2020年05月10日 | 共産党
孫崎 享
今日の漫画。米国高レベルの感染者と死者継続の中,ホワイトハウスは感染予防のためのガイドラインを次々削除し,経済再開に向けてまっしぐら。
新コロ騒動から半年「分からない」ということだけが分かったガラパゴス島
何しろPCR(遺伝子)検査でしか感染が分からないが,日本では検査数が少なすぎると大騒ぎになっている。議論の出発点の段階で「検査すれば医療崩壊」なる謎の宗教が国家主導で跳梁跋扈。政府やマスコミ,医学会などを乗っ取って百鬼夜行。日本だけが,世界と大きく隔絶された特殊なムラ社会(ガラパゴス島)だったのである。
ところが慈恵医大では700円の牛丼定食のような「上手い」「速い」「安い」の3拍子揃ったPCRの検査が出来る体制を作ったらしい。しかも,韓国とかフランスなど外国ではとっくの昔から行っているが,これが日本製機器だったとのオチ。アビガンも日本製だが何故か認可は後回し。
そもそも利権の確保しか考えていなかった今までの感染研とか保健所の古いPCR機種は職人技が必要で検査数を増やすのは無理だった。(★注,だから世界で日本だけ「検査すれば医療崩壊」の謎の宗教が生まれたのかも知れないが,感染研などの利権が先か,カルト組織の誕生が先かは不明)
怖いのか?怖くないのか?不可解なSARS2
この新型コロナの厄介なのは回復しても後遺症が残る。重篤化した人は肺胞がかなり破壊されてしまっていて,もう元には戻らないらしい。
微小な血栓で脳を含む多臓器が損傷したり,中枢神経など神経節まで破壊されるが,もっと恐ろしいのは経済がマヒして失業率が半分にも達するのでエマニュエル・トッドは封鎖解除を訴える。
感染力がべらぼうに高くて,しかも9割は自覚が無いので根絶は無理,そもそも人類はウイルスと仲良く共生していたとの説と,大勢が死ぬとんでもなく怖いウイルスなので共存(集団免疫)などあり得ない。目先の経済などを無視しても人命優先,断固封鎖を継続すべきとの真逆の説(必ず一方は根本的な大間違い)が同時に共存共栄している不思議。しかもフランス人患者のサンプルから,コロナウィルスは武漢発見よりも早い可能性(FT紙)まである。
ナチスドイツ崩壊75年目の珍事。ナチが悪いのか?悪くないのか?全く不明な日本共産党(赤旗)
人間なら誰しも間違いを犯すが,ただし,全く同じ間違いならカンニングとか手抜きコピペが疑われる。科学的に正しい場合は必ず「同じ」になるが,これが間違いなら逆に「同じ」は論理的に「あり得ない」。
2009年の豚インフルエンザ(新型インフルエンザ)時とは大違いで,今回だけ日本だけ限定で「検査したら医療崩壊」との摩訶不思議な謎の宗教が医学会に蔓延したのですから個人的なカンニングや手抜きコピペではなくて,間違いなく政府キャンペーンですよ。(★注,別々の場所の別組織の別人が,まったく同じ間違いを犯した比率が過半数を大きく超える7割なので,個人云々ではなく新しい国家宗教)
もちろん当たり前ですが共産党(志位和夫)も「検査すれば医療崩壊」なる政府プロパガンダの存在を十分承知しているが,なぜか一番大事な部分を指摘しない。残念ながら相手の一番の弱点を攻撃しないのですから,これでは勝てないでしょう。 (★注,所属議員の全員が自民党入りしたい維新が隠れ与党として行動するのは当然だが,なぜか政界最左翼の共産党も政府の悪事を暴きたくないらしい。政府自民党の悪事を挙国一致で隠している八百長プロレスなのである)
歴史に学ばないウルトラ歴史修正主義の赤旗(共産党)の怪
1945年5月9日ナチスドイツ敗北の翌10日の共産党機関紙しんぶん赤旗第一面のコラム「潮流」には腰を抜かすほど驚いた。(第一面のコラムは通常,新聞編集部の姿勢を反映している)
赤旗コラムは,
『民間人もまきこみ,数千万人もの命が犠牲となった両国の絶滅戦争はヒトラーが「皆殺し闘争」と形容したほど。』と,ヒトラーが今回のコロナ騒動で死んだ保守の論客ではあるが一番公正でリアルな評論家で元外交官の岡本行夫と勘違いしているらしい。
ナチスドイツ(優秀なゲルマン民族)が劣等なスラブ民族(ソ連)の奴隷化と共産党絶滅を目指したバルバロッサ作戦(独ソの総力戦)が「どっちも悪い」戦争だったと描いているのですから恐ろしい。
★注,もしも,独ソ戦が「対等にどっちも悪い戦争」だったと主張するなら,同じ意味で日中15年戦争も「どっちも悪い対等な戦争」(日本は悪くない)との歴史修正主義の百田尚樹や小林よりのりなど低能ネトウヨと同じ。瓜二つなのである。
赤旗コラムは
「両軍の残虐行為は合わせ鏡に憎悪を映したかのように拡大され,現代の野蛮ともいうべき凄惨な有様を呈していた」▼ロシアでは毎年5月9日に戦勝を祝う・・・国威発揚の場にもなっています▼一方ドイツではナチスからの解放された記念日。シュタインマイヤー大統領は・・・とナチスのナの字もないし,勝者も敗者もない完璧な相互主義。
人類の輝かしい歴史遺産の冒涜
人類の共通の敵であるナチスとの「反ファシズムの戦い」をここまで相対化すると,もはや天晴れで感動的ですらある。
他愛のない子供の喧嘩でもどちらかに正義はある。歴史も思想もない驚きの「喧嘩両成敗」的赤旗コラムでは当事者は誰も納得しない。怒って当然でしょう。
同じ5月10日第一面,コラム上の赤旗記事
中国公船が,尖閣諸島の領海侵入のうえ,日本漁船に接近・追尾するという行動をとったことに強く抗議する。 全世界が協調してコロナ禍に立ち向かうべき時に,東シナ海でも,南シナ海でも,中国指導部が覇権だった。(志位和夫委員長)
そもそも日中国交回復時に「尖閣棚上げ」で落ち着いていたのを棚上げはなかったと虚偽の閣議決定をしたのが民主党管政権(日本版ネオコン前原誠司)である。棚上げが無いなら中国側も主権を主張せざるをえない。
尖閣で日本側に不利な小渕書簡や日中漁業協定を頭から無視する超愛国の日本共産党。何が起きたのだろうか。
★注,隣国である中国やロシアに頭から歴史や正義を無視して喧嘩を吹っかける日本共産党,これで韓国の悪口を書けば百田尚樹以上の完璧なネトウヨが出来上がる。
共産党(左翼)として自殺行為で,到底合理的な説明がつかないのである。
それで生命を守る免疫系が暴走して,逆に生体を攻撃するアレルギー症状のようなサイトカイン・ストームを考えてみた。そもそも政界最左翼の共産党は炭鉱のカナリアというか,生命を守る免疫系として我が日本国に存在していたのである。(★注,半年経っても正体が不明の今回の新型コロナの死亡例の大部分はサイトカインストームらしい)
サイトカイン・ストームって何? 2009-06-24 生物史から,自然の摂理を読み解く
1918年に世界的に流行したスペイン風邪当時の人口が18億人の3分の1が感染し5000万人が死亡した。15歳~35歳の若年層がウイルスによる急性肺障害で死亡したが,ウイルスに対する自然免疫の異常反応(サイトカイン・ストーム)であることが確認されています。(★注,免疫力は思春期にピークになり,40歳代では5割に70歳代には1割まで低下する)
サイトカインとは細胞から放出されて,免疫作用・抗腫瘍作用・抗ウイルス作用・細胞増殖や分化の調節作用など,特定の細胞に情報伝達するタンパク質の総称をいい,免疫とは細胞内に異物が進入した際に,異物を非自己として認識し防御する働きのこと。免疫機能を担う白血球・マクロファージなどの各細胞が共同作業を行う為の相互作用を司っているのがサイトカインです。
体内に免疫を持たない新型ウィルスが進入すると,体内で過剰免疫反応を起こすことがあり,サイトカイン・ストームとは,免疫系への防御反応としてサイトカインが過剰生産されアレルギー反応と似たような症状を起こし,最悪の場合死に至る。
アスピリンはスペインかぜが流行する3年前(1915年)から一般用薬剤として市販され急速に使用されるようになり,WW1当時解熱剤として大量のアスピリンが使われた。
アスピリンを使用した人と使用しなかった人の死亡率は30倍もの差があるという調査もあり,これが正しければ,当時第一次世界大戦中という状況を鑑みて,若い軍人などがインフルエンザ対策として多量のアスピリンを使用し,副作用としてのサイトカイン・ストームが起きたという仮説も立てられます(現在WHOではアスピリンの18歳未満への使用は制限)。
本来ウイルスに対抗すべき免疫反応が過剰反応を起こし自らの体を蝕む。(★注,消火器が大火災の原因になったような皮肉)
(抜粋)
害を及ぼすのはウイルスではなく自分の免疫システムの暴走(サイトカイン・ストーム) 2020年4月9日COURRiER
未知のウイルスに遭遇したらサイトカインなど免疫システムが働くが,あらゆる重症患者の15%ではウイルスの脅威が去ってからも免疫システムが自動的にオフにならない。免疫システムは体を消耗させるサイトカインを誤って無制限に放出し続け,体を守ろうとして肺や肝臓などを含む複数の臓器を攻撃した結果,健康な若者が死に至る。
サイトカインストームはあらゆる年齢の人を襲う可能性があるが,一部の科学者は1918年のインフルエンザのパンデミックや最近のSARSやMERS,新型インフルエンザ流行時に健康な若者が亡くなったのはサイトカインストームであると考えている。
イタリアや中国からの報告では危険な暴走状態にある免疫システムを落ち着かせる(★注,関節リウマチの免疫抑制剤)トシリズマブが使われ,新型コロナウイルスに対する有効な治療薬である可能性を示している。(★注,コペルニクス的転換。アッと驚く大どんでん返し)
(抜粋)
                 
逝きし世の面影
                
                
                
                
                
                
                

千賀一生: シュメール文明の遺産~「16」の秘密,1611年/22.5°の文明周期


千賀一生: シュメール文明の遺産~「16」の秘密,1611年/22.5°の文明周期
シュメール文明の叡智は日本へと・・・
2012/3/28(水) 午後 10:44
書庫ガイアの法則
#周期説
シュメールという言葉は、日本という国と非常に深い繋がりがあることが解る。
一つの仮説ではありますが、スメラ尊(超古代の天皇)のスメラとはシュメールが訛ったものであるということです。超古代のスメラミコトの中心地は飛騨の高山であったという説もあります。東大寺のお水取りは、シュメールの文化のゾロアスター教の流れを汲んだものであることさえ言われております。
 古事記や日本書紀以前の「竹内文書」の中には、聞いたこともないようなそれこそ八百万(やおよろず)の神々が出てきますし、その神々、スメラミコトは「天浮船(あまのうきふね)」という現代のスペースシップ(円盤)という概念の乗り物で世界各地を視察することまで記されております。
 今考えられている以上に古代のおいてはシルク=ロードの交流がさかんであったということだそうです。1945年の第二次世界大戦敗戦以前には、原田敬吾、三島敦雄、石川三四郎、中田重治などによる「日本人シュメール起源説」が、論じられていました。
スメラミコト(天皇)は、古代バビロニア語のスメルと同語で、シュメールとも発音されました。古代の日本に天皇をいただいて渡来した(天降った)民族は、シュメールの王族とその民だったという説であるのです。最大の渡来民族、秦氏とされるものです。
 シュメール文明の中心地であったエリドゥは、今現在のイラクにあります。このシュメールの最高神官の言葉を綴ったものが、「ガイアの法則」という千賀一生氏の書籍で明らかにされています。
 この書籍の荘厳なる真実と地球という生命体のリズムが我々人間だけでなく、文明そのものも支配している驚愕の事実を知ることとなる。
それも地球という生命体はスピン(回転)が、1/16のリズムで成り立っているらしい。こんなことを云ってもそれこそピンと来ないでしょうが、音楽で言えば16ビートであり、その音律は我々人類にとっては、魂に響く誠に癒される音律であるらしい。私は音楽に詳しくないのでこれ以上説明できないが、なにせこの16分の1という概念を頭に刻んで考えていただきたい。
 まず、文明の転換期はシュメール文明(メソポタミア)を起点(東経45°)から東へスピンすること22.5度の位置、即ちインダス文明へと変わり、そのまた22.5度スピンしたガンジス文明へと移行、それから22.5度移動した黄河文明がAD400年頃なのです。この規律正しい文明の転換は、東経に一度の狂いもなく1611年ごとに繰り返されている厳然とした事実があります。お疑いなら歴史書で調べていただきたい。必ず合致します。
では、AD400年の黄河(唐)文明の1611年後と22.5度とはどこで何時なのか・・・・
それは現在であり、位置は東経135度の日本、それも淡路島の付近であることが判明します。2012年と日本というキーワードが浮かび上がるのです。阪神淡路大震災はこの合図であったとのことだそうです。そういえば、思い出しましたが、ジョン・タイターの未来の日本の地図には、首都は「岡京」とか載ってましたね。
 これが東廻りスピンであるのに対し、これとは、逆に西周りスピンの文明が、アングロサクソンのフリーメーソンが築いた文明であるのです。この文明はギリシャ、ローマ文明から遡ることやはり1611年後であり22.5度スピンした場所で栄えていることに気づく。この文明の中心地はロンドン。つまり、文明は1611年の半分の800年で終焉を迎えていることに気づく。
 彼ら、ユダヤの育んできた文明が終焉を迎えていることは、目に見えてきていることは明らかで、その予兆である金融界のトップの大量辞任や逮捕などもこれにあてはまるのではないでしょうか。
そこで16分の1とはなんぞや、ということになります。16という数字の暗号はシュメールの象徴である16放射状の形、即ち天皇家の16菊花紋に継承されていることを知らされる。
地球という生命体を16等分すると、ちょうど22.5という数字が現れます。
≪「ガイアの法則」から抜粋します≫
「あなたは、近代の歴史しか知らないが、これは近代の歴史に限ったことでは
ない。人類の全ての歴史は、一つの例外もなく一つの法則に導かれてきた。
それこそが我々が【聖なるリズム】と呼ぶ至宝の力なのだ」
≪抜粋終了≫
この聖なるリズムが16ビートであり16等分であり16菊花紋であるのです。
また1611年という数字を16で割るとおよそ100年という単位がでます。
この百年のリズムで、驚くべき事実を明かされております。
≪書籍から抜粋≫
「こうしたリズムは、ある条件が重なると、類似の役割を果たす特定個人の運命に類似の運命パターンを生み出すことになる。歴史を探せば、100年を単位として出現する類似運命パターンの人物を多数見いだせるだろう。」 
リンカーンとケネディーの類似点は余りにも驚愕の運命パターンがある。
大統領就任の年    
リンカーン:1861年
ケネディー:1961年
死亡原因         
リンカーン:暗殺
ケネディー:暗殺
暗殺者の生まれ年  
リンカーン:1839年
ケネディー:1939年
秘書の名前        
リンカーン:J・ケネディー
ケネディー:A・リンカーン
暗殺現場 
リンカーン:フォード劇場
ケネディー:フォード社製乗用車
暗殺者の行動後     
リンカーン:劇場で撃ち倉庫に逃げ込む
ケネディー:倉庫で撃ち劇場に逃げ込む
暗殺者の死  
二人とも裁判前に暗殺された。
後任の大統領名 
リンカーンの後はアンドリュー・ジョンソン
ケネディーの後はリンドン・ジョンソン
ちょうど100年後に、全く同じような運命を歩む大統領が出現するとは、宇宙のリズムというものが、恐ろしくさえ感じられる。
≪抜粋----- 終了 --------≫
私たち人類は、今ちょうどこの文明の大きな端境期に生きていることになります。それも、西回りスピンと東回りスピンの合致点でもあるのですから、それは大きな今までにないくらいの転換が起こることが予想されるのです。
 以前にも何かの書籍で800年ごとに東洋文明と西洋文明が入れ替わる法則があるということを読んだ記憶がありますが、やはりそうであったのかと、改めて驚きましたし、1611年と22.5度のリズムには新鮮さを覚えました。
世界人類が、この転換を拒めば拒むほど大きな地球生命体の破壊とも取れるエネルギーまたは、聖なるリズムがこれを打ち砕くことになります。これが、日月神示にも再三に渡り私たちに語りかけられているように、御霊を磨くことと神性に目覚めることに繋がるのでしょう。余りにも目が点になるような法則があったことを知ったとき、すべてが明かされます。地球という星は生きているということを、まざまざと感じます。兎に角生かされているということですし、地球生命体と我々は繋がっているのです。一人一人が切っても切れない深い絆で・・・
そう考えると、希望と光がさします。いまの日本に生を受けていることは、奇跡でもあると思いますが、いかがだろうか。ユダヤという民は選民思想を掲げ、自分たちこそが、神から選ばれし民であるというシオニズムに凝り固まっており、そのドグマは「タルムード」という誠おぞましい、排斥思想でもありますが、全ては善も悪もないそれぞれの役目というものがあるのでしょう。
日月神示にも同じことが述べられています。まずは、「ガイア」という地球生命体に感謝の誠を捧げることから始めましょう。私が説明するまでもなく、千賀一生氏の「ガイアの法則Ⅰ」と「ガイアの法則Ⅱ」が出版されておりますので、こちらの方で確認されることをお薦めします。
りょう(≧▽≦)

本物を探す旅
https://blogs.yahoo.co.jp/ryo_smileforme/13363766.html




文明800年周期説: 東洋と西洋の文明は800年周期で交代する
2009/7/31(金) 午後 5:47
文明800年周期説,村山節

夢日記
http://datasea.seesaa.net/article/467839147.html
http://datasea.seesaa.net/article/464902938.html



バミューダトライアングル:俺の後を追うな,空に呑まれた航空機

バミューダトライアングル:俺の後を追うな,空に呑まれた航空機
バミューダ・トライアングルの名は1945年12月5日水曜日,6機の海軍航空機とその乗員が消滅した事件に由来する。
同時に消滅したらしい最初の5つの戦闘機は,その時三角のコースを取るように決めた飛行プランに従って,日課的な訓練飛行を行っていた。
それはフロリダのフォトローダーデール海軍航空基地を飛び立って,東へ160マイル,北へ40マイル飛んでから,南西進路をとって南西へ帰還するというプランであった。
これまで
「悪魔のトライアングル」
「災難の海」
「大西洋の墓場」
などとさまざまに呼ばれてきたものに,新たに
「バミューダ・トライアングル」
という名前が加わった大きな理由は,フォート・ローダーデールを起点とする三角形の飛行プランの頂点が,ぴったりバミューダと一致することが当時注目されたからである。
またバミューダはそれ以前も以後も極めて異常な状況下で船や航空機が消滅する海域の北限にあたるように見えたからでもある。
訓練中の飛行編隊が丸ごと14人しかもその救助に向かった巨大な救助機マーティン・マリナーまで,13人の乗員もろとも不可解な消滅を遂げたこの完全消滅事件ほど,世間の耳目をそばだてたものは後にも先にもない。
フライト19。
それが1945年12月5日の午後,フォトローダーデール基地を離陸したこの部隊の呼び名である。
搭乗員は士官パイロットが5人,下士官兵が9人。後者は各機2人ずつに分けられた。本来ならもう1人のはずなのだが当日その人物が不吉な予感を理由に航空機搭乗任務の免除を希望して,代替要員の派遣されなかったために欠員となったのである。訓練機はネイビーグラマンTBM3型アヴェンジャー爆撃機。各機とも1000マイル以上の飛行に耐えるだけの燃料を積んでいた。
気温は華氏65度。太陽が輝いて,雲はまばらで穏やかな北東の風が吹いていた。当日先に飛んだパイロットの報告では,理想的な飛行日和である。
この飛行の所要時間は2時間と算出された。
午後2時,離陸開始。10分後には全機が空中に舞い上がっていた。
飛行時間2500時間以上の指揮官チャールズ・テイラー中尉は隊機をビミニ北方のチキン浅瀬に誘導した。
そこでまず標的の爆撃訓練を行う予定であった。
パイロットも同乗員もベテランぞろいで,飛行中に異常な事態が発生しそうな気は微塵もなかった。
しかし起こったのである。それまでひどい形で。
午後3時15分,爆撃訓練を終え,隊が東に進んでいる頃,部隊からの帰還予定時刻報告と着陸指示を仰ぐ連絡を待ち受けていたフォート・ローダーデール管制塔の無電手は部隊の隊長からただならぬ報告を受けた。
隊長(チャールズテイラー) 管制塔へ。緊急事態だ。コースを外れたらしい。陸地が見えない。道が見えない。陸地が見えない。
管制塔 現在地はどこだ
隊長 ハッキリしない。どこにいるかもわからないんだ。迷ったらしい。
管制塔 真西を目指せ。
隊長 どっちなのかもわからない。何もかもおかしい。奇妙だ。。。方向がさっぱりわからない。海の様子もいつもと違う。
3時30分ごろ,フォト・ローダーデールの主席飛行教官は飛行実習生の1人パワーズを呼んでいる誰かの通信を傍受した。彼は羅針盤がどうなっているか聞いていたが,パワーズの返信はこうだった。
「どこにいるのかもわからない。。最後にターンして方向を見失ったらしい」。
フライト19の教官を呼ぶと応答があった。
「羅針盤が2つともいかれた。フォートローダーデールを探している。。
フロリダ小島の小島帯の中にいるのは確かであるが,どこにいるのかどの辺なのか全くわからない」。
そこで教官は太陽を左に見ながら北へ飛べば,ローダデールに出られると指示したが,相手は続けて言った。
「たった今小島帯の上を取りすぎた。他に陸地が見えない」。
これは教官の飛行機がフロリダ小島地帯にいるのではないことを示していた。
普通なら小島帯に続いて陸地があるはずなのに,それが見えないというからには,部隊全機が迷ってしまったのである。
フライト19からの連絡は空電のために,次第に聞き取りにくなった。
明らかに向こうではもう管制塔の声が聞き取れないらしいが,管制塔の方では部隊の飛行機同士の会話をかなり傍受できた。
「燃料切れーあと75マイル分しかない」とか,
「時速75マイルの風だ」とか,
「どの機も羅針儀が狂いをきたして,目盛りがまちまちだ」
というふうな会話もあった。その間,フォート・ローダーデールの強力な通信機をもってしても5機とも連絡を取ることができなかったものの,機間の会話だけはかすかに聞こえ続けていた。
その頃すでに基地ではフライト19が非常事態に遭遇したと言う知らせが広がって,てんやわんやの騒ぎになっていた。
敵の攻撃(とはいえ数ヶ月前に第二大戦世界大戦は終戦していたのであるが),あるいは新たな敵の攻撃などあらゆる可能性を考慮したうえで,ツインエンジンのマーティン・マリナー機が13人の乗員を乗せて,ハバナリバー海軍航空基地から救助に飛び立った。
午後4時,管制塔はテイラー中尉が上級海兵隊パイロットのスティーブ大尉に指揮を頼んでいるのを聞いた。
空電で聞き取りにくく,緊張に上ずってはいたが,ちゃんとした通信が彼から届いた。
「現在地がはっきりしない。北東225マイルの地点のはずであるが。。。
もうフロリダを通過してメキシコ湾に来ていなければおかしい。。」。
隊長はまもなくフロリダ上空へ戻れるのではないかと180度方向転換を決意したが,いざターンしみると無電は遠ざかるばかり。
その方向転換が誤りで彼らはフロリダ海岸から公海方面へ東へ飛び始めたようであった。。
報告によればフライト19日の最後の通信は
「我々のいる場所はどうやら。。。」。
だったという。
もっとも
「白い水に突入。。われわれは完全に迷った。」。
などと,もっと詳しく聞いたものもいるらしい。
一方その地点と遭遇する予想される海域に向かってマーティン・マリナーが機の乗員の1人コーム中尉から離陸数分後すぐに
「上空6000フィートは強風状態である」。
と言う連絡がはいった。救助機からの通信はこれが最後であった。
まもなく全捜索隊は遭難したのは5機ではなく6機であるとの緊急連絡を受け取った。救助機までが姿を消してしまったのである。
以後,フライト19からも救助機からも通信は来なかった。
しかし午後7時をまわった頃,マイアミの海軍航空基地は
「FT,FT,,」
というかすかな通信を傍受している。
これは発信者が本当に遭難機だったとすると,この部隊の燃料が切れたと推定される時刻から2時間もあとということになる。
失踪当日に始まった空からの捜索は日暮れとともに中断されたが,沿岸警備隊の部隊による捜索は夜を呈して続けられた。
翌木曜日,朝日のさすのと同時に大規模な捜査活動が開始された。
しかし
航空機249機,空母ソロモンから応援に駆けつけた67機,駆逐艦4隻,潜水艦数隻,沿岸警備隊18隻,
調査艇・救助艇多数,民間機,ボート数百隻,ハバナリバー海軍航空基地のPBM機数機,
バハマ諸島の英国空海軍
からの応援を含めた史上未増の大捜索陣が出動したにもかかわらず何一つ発見されなかったのである。
ー謎のバミューダ海域完全版,チャールスバーリッツ著,徳間文庫

nwnoopff pc










異次元への通路=魔の三角海域
2008/5/7(水) 午前 6:17
「魔の三角海域」で消えた米軍機、火星に出現?
【大紀元日本7月30日】
最近、インターネットサイトでは第二次世界大戦中にバミューダトライアングルで失踪した米軍の4機の爆撃機が火星の上空で飛行しているとの説が流れている。
米国「世界ニュース週刊」は、
「1995年、米国の天文学者コフント・ロディン博士は自分の発見を公表、火星を観察する際に、第二次世界大戦中に失踪した4機の米国爆撃機が火星上空で列を作って飛行しているのを発見したという」と報じた。
ロディン博士によると、彼はコンピューター制御の天体望遠鏡で火星を観察する際に、長年前に失踪した5機の米軍魚雷型爆撃機のうちの4機が、火星の数キロ高さの空域で列を作って飛行していたのを発見。コンピューター自動追跡機能で撮影した画像を分析した結果、これらの爆撃機の時速は4万キロだという。
同博士は、「飛行機は緊密な列を作って飛行している上、飛行状態は極めて良好。有人操縦の可能性が高い。機体にある米軍のマークもはっきりと見える。これを根拠に、1945年にバミューダで失踪した爆撃機であるのを判断した」と説明していた。
米国政府はこのことについて、コメントを拒否している。スウェーデンの科学者ウェルハム・グレード博士は、「ロディン博士が火星で観測した爆撃機は、旧ソ連が月で発見した飛行機と関連があり、「魔の三角海域」バミューダトライアングルとも関係がある」と見解を示している。
52年前に、第二次世界大戦が終戦直後の1945年12月5日、米国海軍第19爆撃機チームの5機の魚雷型爆撃機は、大西洋を巡回するためにフロリダ州のフォート・ローダーデール(Fort Lauderdale)空軍基地から発った。
この日は快晴だった。
しかし、爆撃機がマイアミ、プエルトリコとバミューダの三つの地点が構成する、いわゆる「魔の三角海域」バミューダトライアングル海域で忽然と消えた。
失踪する前にはまったく救援信号を発しておらず、失踪後もいかなる痕跡を残さなかった。
基地との連絡が中断したのは午後5時。現地の海域を調査するために派遣したPBM巨型水上飛行機も二度と戻らなかった。
失踪してから2時間後の19時4分、フロリダ州の空軍基地は微弱な救援信号「FT…FT…」を受信できた。
そのときには、爆撃機の燃料がすでに完全に使い果たしたはずで、居場所を確定できなかったため、捜索はできずに、5機の爆撃機と乗員が永久に軍の名簿から抹消された。
当時の現地メディアが報道したこの失踪事件
発見当時、ロディン博士は、「自分のこの発見は、旧ソ連が月で米国の爆撃機を見つけた以来の一大天文ニュース」と興奮気味に語った。
1987年3月、旧ソ連は、「衛星スキャン」で、月の上で第二次世界大戦中の米国旧式爆撃機を発見したと公表。
翌年の7月22日、旧ソ連の衛星が再び現地を経由、スキャンするときに、爆撃機の姿がなかった。
公表された衛星写真には機体の米軍マークが鮮明に写っていた。
また、ロディン博士の発見にも、コンピューター写真が証拠として残っている。
科学界からは、捏造ではないかと疑う声があがっているが、同博士は、「私は非難と障害に直面するのを予期していた。
しかし、私は迷わない。自分がなにを見たかははっきりと分かっている。
残念なのは、爆撃機はどうやって地球から宇宙に入り、宇宙でなにをしているのかを判明できないことだ」と話した。
2007年3月13日夜から14日の朝方にかけて、米国海軍のロサンゼルス級攻撃潜水艦San Juanは、この「魔の三角海域」で9時間失踪した。
艦内の乗員らはまったくこのことを知らなかったという。
魔の三角海域で9時間消えた米軍の潜水艦(米海軍サイト)
米国海軍の潜水艦指令センターは声明で、この一件は「空騒ぎ」だったと説明したが、外部からは疑問視する声が浮上。
この「魔の三角海域」では、100年以上前から100を超える船や飛行機、1000人以上が消息不明となっているという。
その原因について、様々な説があるが、ある学者は、ここは人類と異なる空間に通じる通路と解釈している。
(07/07/30 08:23) http://jp.epochtimes.com/jp/2007/07/html/d26550.html

徹底検索、堀進
http://blogs.yahoo.co.jp/horisusumu8/
















世見2016年12月10日
バハマ諸島沖
松原照子氏のスピリチュアル情報
<世見>
2016/12/10
バハマ諸島沖の海底は、実にロマンが広がります。
こんなことを書いたからといって、私自身すぐにはバハマ諸島がどこにあるのかわかりませんし、
冒頭に書いた言葉も自分でわかっているような、わからないような変な気分が残るものの、
興味津津で心の奥が動き始めます。
バハマ諸島沖にいったい何があるのか、心をくすぐるものに素直について行きたくなりました。
「未だに発見されていない寺院あり」こんな声も聞こえます。
「以前発見されたものより大きい」こんな声も聞こえます。
「えぇ! 発見されたんだ」私から出てしまった声。
「バミューダ島からイスパニョラ島の右沖にかけて真実が見える」
「四次元ミステリーゾーン」
いったい何のことなのだろうか?
フロリダ半島は、今日も美しい海とお日様とが仲良くしています
バミューダ海域と云えば“魔の三角地帯”。
私が今年にしたこととの関係はわからないものの、
マヤとの関わりのある何かが、今もあの海のどこかで眠っている気持ちがします。
ただ、多くの遺跡は固い花崗岩ではなく粘土のように軟らかな石だったので、
発見されにくいかもしれません。
もしも陸ならば空気と合体すると固くなるのですが、
海水に長い間浸かっていると細工された部分も消えているとも言われます。
玄武岩 花崗岩 それと粘土のように軟らかい石は、きっと大昔のことを覚えていることでしょう。
そういえば、随分と前に石を集めている方に見せてもらった“コンニャク石”を思い出しました。

あほうどりのひとりごと 幸福への近道
http://www.xn--l8ji6b8dbd9a6a7e0hd.com/article/444754856.html



ツロ=日本~旧約聖書に預言されていた日本の使命

ツロ=日本~旧約聖書に預言されていた日本の使命
旧約聖書に預言されていた日本の使命
投稿者:Legacy of Ashesの管理人  
投稿日:2015年 1月24日(土)16時31分7秒     
http://p.booklog.jp/book/15603/read
関連記事:ツロと日本
http://p.booklog.jp/book/15603/page/179128
地の果て日本へ
http://p.booklog.jp/book/15603/page/178539
本編は昨年末(平成22年)に書き終わっていた。
けれど何か大切なことを書き忘れている気がして、公開する際に「完成」のボタンを押せずにいた。
書き忘れているのは、旧約聖書の視点から見た、「新約聖書・ローマ帝国・ヨーロッパ・ユダヤ人・キリスト教・聖パウロ・そしてイエスキリスト」の位置関係の解説ではないのかと思い、
本編の付録として、「天井裏のイエスキリスト」を書きあげた。
その小説の中で、「この小説は末日の直前に明らかにされるよ」と、イエスキリストに語らせ公開した。
そして公開の3時間後に東日本巨大地震が発生したのだった。
当初、今回の震災が旧約聖書に預言されていたことを書き忘れていたのかと思い、日本に関する預言を再検証してみた。
エゼキエル書のツロに関する預言、26章19節~21を見てみよう。
立ち読み部分に記述したが、イザヤ書ではツロ=日本となっている。
したがってエゼキエル書に記載されたツロに関する預言も日本を語っているかも知れない。
実に、主ヤハウェイはこう言った、
「わたしがお前を住む人のいない町々のように廃墟の町とするとき、大水で覆う混沌の海をお前に向かって来らせるとき、
わたしはお前を穴に下る者たち(死者)と共に、永遠の民(死者)のところへ下らせる。
穴に下る者たちと共に、永遠の廃墟にも似た地の底にお前を住まわせる。
お前が再び生者の地に立つことがないためである。わたしはお前を恐怖に渡し、お前は消えうせる。
お前は尋ね求められても、もはや永遠に見いだされまい。-とは主ヤハウェイの御告げ」
(旧約聖書翻訳委員会訳)
他にもツロに関する気になる聖句は色々ある。
一例をあげると、日本聖書協会訳によるエゼキエル書26章11節には「汝の栄の柱地にたふるべし」とある。
栄の柱が、日本の繁栄を支えてきた福島第一原発と考えるならば、「東風がお前を打ち砕いたのだ」(エゼキエル書27章26節)が、
東風による放射能の内陸拡散を意味することとなる。
結論を言うと、全体の流れからエゼキエル書は今回の災害を預言してはいない。
災害で亡くなられた方々には罪はなく、神によって被災を受けさせられるいわれはない。
詳細は煩雑になるので書かないが、むしろエゼキエル書に預言されたツロ=韓国と解釈した方が当てはまるように思われるくらいだ。
わたしはエゼキエル書を日本とツロの「両義預言」とは認めない。
とはいえ、イザヤ書に預言されたツロ=日本との解釈をしてるのは私だけかもしれないが。
なにを書き忘れていたのか振り出しに戻った。
そんな時、原子力安全・保安院と東電のずさんな管理体制が続々と明らかにされていった。
武田邦彦中部大学教授がYou Tube上で語った「原子力保安院の大ウソ暴露」では、武田氏がウラン濃縮研究所の所長だったときの経験談が公開されている。
原子力発電所の配管ミスを武田氏が見つけた時の話である。
「このままだと事故が発生すると放射能が海に流出する」と、原子力安全・保安院にパイプの撤去を申し出たところ、
「国が認可したものは改造できない」との理由で却下されたそうである。武田氏によると、原子力安全・保安院の仕事の中身は「自分の責任は認めない」ことにあるという。
なにが狂っているのだろうか。
そこには「官僚主義」の一言では片付けられない根の深い問題が横たわっている。
ここに至って、「旧約聖書に預言されていた日本の使命」になにが足りなかったのかが解った。
旧約聖書に預言されていたのは、日本に巣くっていた「国民を奴隷化する資産家たち」「工作員」「中国に進出した日本企業」が日本から逃げ出した後、
残された日本人と海外から移住してくる日系人とが力を合わせて新しい社会を築くという内容である。
そして本編に足りなかったのは、その「新しい社会を築く」人々が、戦うべき相手だったのだ。
旧約聖書が明らかにした「敵」は、「官僚主義」ではない。「官僚主義」を蔓延させた「何か」である。
それを浄化させない限り、新しい社会はやってこない。
その敵とは、ロックフェラーやロスチャイルド、工作員といった組織ではない。
共産主義やイスラム教という思想でもなく、まして悪魔などという訳のわからない者でもない。
旧約聖書とキリストが明らかにした我々の敵は、「早期教育」である。
ただし、早生(わせ)の子が飛び級をして、中学生なのに大学卒の資格を取ることを「早期教育」とは言わない。
「早期教育」とは、その子の発達段階を無視して教育することである。
人生はマラソンなのに、いきなり全速力で走り続けることを求めるが「早期教育」なのだ。
早期教育された人間は、「最大公約数的模範解答」の「記憶マシン」と化し、ひとの心が育たないのだ。
以下の本編は平成22年末から一切手を加えていないので、ご覧頂けたならば、
私が思いつきで「聖書によると、日本の敵は早期教育である」との結論を出したのではないことを理解して頂けると思う。
被災された子供たちが、自分を信じることを願って、「完成」のボタンを押します。
平成23年4月3日
本書は旧約聖書に記述された日本に対する預言を読み解くことにより、これからの日本と世界に何が起こるのかを明らかにしていく預言解説書である。
「旧約聖書に日本の近未来が預言されていた」などという話は初耳だと思う。
初耳以前に、そもそも旧約聖書と日本に何の関わりがあるのだと、いぶかることだろう。
ところが、関わりがあるのだ。
いや、関わりどころではない。
旧約聖書の預言は近未来の日本に集約されていくからだ。
旧約聖書には大きな「謎」がある
「失われた十支族」という謎である。
旧約聖書は「イスラエル民族=アブラハムから分かれた十二支族」に対して書かれた書物である。
その十二支族のうち、十支族が聖書の歴史から忽然と姿を消したのだ。
その残された二部族の末裔がユダヤ人である。したがってユダヤ人国家であるイスラエルは、兄弟である十支族を現在進行形で捜索中である。
そして彼らの探索は日本に向けられている。
「失われた十支族」は、日本に来たのではないのか」と、ユダヤ人は思っている。
「日ユ同祖論」で検索を掛ければ26000件余りヒットするので詳細は避けるが、
その共通点は「言語」「文字」「風習」等多肢にわたり、ゾロゾロ出てくるからだ。
「だからどうなの」と思われるかもしれない。
「日本は雑多な人種の終着駅なのだから、ユダヤ人と共通の祖先が日本にたどり着いたとしても不思議ではない。だからどうなの」と…
後述するが、聖書の歴史に残されたユダヤ人を含む二支族に比べ、消えた十支族、
特にマナセ族とエフライム族に対する「祝福」は比べ物にならないほど豊かで多い。
祝福文を見る限り、マナセ族とエフライム族が旧約聖書の主人公なのだ。けれど、主人公である十支族は聖書の歴史から忽然と姿を消した。
主人公がいつの間にか、何の説明もなく消えてしまったのだ。
だからこそ、「消えた十支族」は謎とされている。
もし失われた十支族が日本に来たのであれば、旧約聖書は日本に対する書物と言っても過言ではないことになる。
「だからどうなの」で済むことではない。
聖書を読んだことのない方でも、聖書が分厚い書物であることは知っていることだろう。
旧約聖書は1326ページ、一ページ当たりの文字数は1200、新約聖書は409ページである。
旧約聖書の「預言書」だけでも384ページに及ぶ。そこに書かれた内容をすべて細かく解説するためには、
ブリタニカ百科事典全巻に相当するボリュームの情報量でも足りないことだろう。
しかし、「日本に関連する預言」に限定するならば可能である。
本書が解き明かすのは、基本的に「日本に関連する預言」という検証可能範囲に限定することにする。
問題なのは、旧約聖書に日本が預言されていることをどのようにして検証できるかである。
逆算して考えればよい。つまり、聖書の預言が正しく、「神」から来ているのであれば、当然世界に大きな影響を与えている日本の未来がそこに描かれているはずなのだ。
だとしたら、日本の歴史上最大の事件である1945年の終戦について、その理由も含めて預言されているはずだ。
1945年、日本はただ一国で世界中を敵に回し、戦争に負けた。
それは第二次世界大戦終焉の年でもあるし、なにより人類に初めて核兵器が使用された年でもあるのだ。
聖書の預言を検証するにあたって、1945年がキーとなる。
道路標識は目的地まで誘導するためにある。
けれど目的地に近付くと今まで連続していた標識が途切れ、道に迷ってしまうことがある。
最後まで責任を持って目的地を示せよと言いたい。
同様に、聖書の預言は「目的地を示す看板」である。
聖書の預言が神からの「目的地を示す看板」であるならば、道が交差する曲がり角には必ず看板が立てられているはずだ。
だとしたら、近代史にとって最も重要な1945年という、大きな道が三つ交差する曲がり角を、ピンポイントで聖書が特定していなければ、預言書としての聖書の威厳は保たれない。
私は三十年前、聖書が天地創造の神からの預言書であると仮定(命題)して考えた。
そしてどこかに日本の命運が書かれているはずだとの思いから、聖書を虱潰しに調べた。
その結果、イザヤ書に預言されている「古代貿易都市ツロ」に行き着いた。
当時はツロと日本との、空恐ろしいまでの類似性に当然誰かが気づいているだろうと思っていたのだが、
平成二十二年現在、いまだツロを通じて日本の命運が描かれているとの考えに出会ってはいない。
   第一章「なぜ故郷を捨て、日本へ向かったのか」では、イスラエル民族の一部が日本を目指さなければならなかった「理由」を解き明かす。
   第二章「ツロについての託宣」では、イザヤ書に描かれた「ツロ」が、1945年、終戦時の日本を示していることを明らかにする。
  第三章「祟り神」では、旧約聖書の「怒れる神」が、何者なのかについて。
  第四章「バビロンについての託宣」では、「1945年」をキーとして、核兵器により一夜にして滅ぶアメリカと、分裂すると預言された中国の運命について。
  第五章「幼形成熟の果てにあるもの」では、「旧約聖書」に描かれている人類の未来はどこへ向かうのかについて。
  第六章「日系人」では、日本がどのようにして末日を乗り越えるのかについて。
  終章「安息日の主」では、我々が存在する意味について考察する。
関連記事:ツロと日本
http://p.booklog.jp/book/15603/page/179128
 三大預言書といえば、旧約聖書のイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書である。
そしてツロ(ティルス)についてはイザヤ書とエゼキエル書に預言されている。
ただしエゼキエル書に預言されたツロは、ツロのみに対する預言であり、日本との関連はないと考える。
問題なのは、難解とされるイザヤ書に預言されたツロである。
なぜイザヤ書が難解とされているのかといえば、聖書学でいうところの「両義預言」となっているからだ。
イザヤの時代から見た近未来の有様(ツロの没落)が、はるか遠い未来に起る出来事(日本の終戦時)のひな型となっている。
つまりツロと日本が入れ子になって預言されているので、すべてが日本には当てはまらないし、
逆にツロに当てはまらない個所もある。ただしツロと日本とは奇妙にリンクしている。
エゼキエル書はツロを「あなたの境は海の中にあり」「海の入り口に住んで、多くの海沿いの国々の民の商人である」(エゼ27章3、4)といっているが、
それはそのまま日本に当てはまる。地球儀を眺めるまでもなく、
日本は貿易国としてアジア大陸の入り口に位置しているのだ。
ツロは加工貿易と輸出入品の大きな集散地として栄華を極めた古代フェニキアの都市で、
特にティルス紫の長い衣には最高の値が付き、貴族たちはツロの高価な織物を競って求めたという。
日本においては絹製品が幕末の開港後から終戦までの間、重要な輸出品だったことを考え併せると、オーバーラップしないだろうか。
さらにこの都市は軍事面での強さも備えていた。
スプラグ・デ・カンプによれば
「フェニキア人は特に戦争が好きだったわけではないが、都市の守備にかけては熱狂的なまでの勇敢さと、頑強さを示した。
そうした特質と海軍力が相まって、ティルス(ツロ)人は、当時最強のアッシリア軍の攻撃にも最後まで持ちこたえたという。
イタリヤ、ドイツが降伏しても、最後までアメリカと戦い続けていた日本とオーバーラップしないだろうか。
奇妙なんてもんじゃない。紀元前571年と紀元1945年、ツロと日本という地球儀で3分の1も隔てた場所がこれからイザヤの預言により同期してゆくのだ。
前章では、「マナセの部族が、東の果てに国を作ろうとして向かった先が日本である」事と、
「預言は成就する」との二つの命題をたてて話を進めてきた。
本章ではそれに加えて、「イザヤ書に預言されているツロは、終戦時の日本である」との命題を加えて検証していく。
地の果て日本へ
http://p.booklog.jp/book/15603/page/178539
時は出エジプトの時代。
①~④の時代から約500年経っているのだから、ヤコブの十二人の息子たちは死に、その子孫である十二支族に対する祝福文である。
神の人モーセは死ぬ前にイスラエルの十二部族を祝福した。以下、申命記33章13節から17節
 ヨセフについては言った、
「どうぞ主が彼の地を祝福されるように。
 上なる天の賜物と露、
 下に横たわる淵の賜物、
 日によって産する貴い賜物、
 月によって生ずる尊い賜物、
 いにしえの山々の産する賜物、-
 とこしえの丘の尊い賜物、
 地とそれに満ちる尊い賜物、
 しばの中におられた者の恵みが、
 ヨセフの頭に臨み、
 その兄弟たちの君たる者の頭の頂にくだるように。
 彼の牛のういごは威厳があり、
 その角は野牛の角のよう、
 これをもって国々の民をことごとく突き倒し、
 地のはてにまで及ぶ。
 このような者はエフライムに幾万とあり、
 またこのような者はマナセに幾千とある」
 *④のヤコブの祝福(十二人の息子に対する祝福)に比べ、モーセの祝福(ヤコブの十二人の息子から派生した十二支族に対する祝福)は宇宙を語ってはいない。
はっきり言って、スケールが小さい。が、現実的でもあるのだ。
おそらく、当時マナセ族が上記の祝福を受けた時には、その祝福の意味がわからなかった事だろう。
けれどモーセから祝福を授かってから約600年後、上記の祝福がマナセ族にとって重要となる局面が生じる。
それは紀元前721年の出来事だ。
十支族の北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、捕虜としてアッシリアに連行されるという事件が起こる。
十支族は自分の国と財産を奪われ、アッシリアの奴隷となったのだ。
想像して頂きたい。
何もかも失ったマナセの支族に最後に残された希望の光は、アブラハム、ヤコブ、モーセから授かった祝福である。
アブラハムやヤコブからは、自分たちが繁栄するとの祝福を得た。
そしてモーセからはその具体的方法を指示されたのだ。
月や日は方角を表す。
太陽や月の昇る方向へ、「いにしえの山々」「とこしえの丘」を越えてゆくならば、いいことあるよという神からの約束である。
何も心配はいらない、邪魔する諸国民はあなたがた「野牛の角」で突き刺され、「地のはて」にたどりつくことができるとの祝福なのだ。
彼らは新天地を求めて日の昇る方角へ向かった。
イスラエルから東へ向かうとどこへたどりつくのだろうか。
そう、シルクロードの両端はイスラエルと日本なのだ。したがってイスラエルの地の果ては日本である。
地球儀をながめたならば解って頂けると思う。
日本の場所はとても特異な位置にあるのだ。
南北アメリカ大陸やオーストラリア大陸を除いたほとんどの可住地域から、日の昇る方向を目指し続けて移動すれば、やがて日本に行き着く。
マナセの部族は日の出る方角に夢を託し、モーセの祝福文に従って旅立った。
そしてたどり着いた日本は災害の地であった。
地震、噴火、なにより毎年のように襲ってくる台風。
どんな災害にもめげず、常に希望を持ち続け、子孫をつないでいったのが我々のご先祖たちなのだ。
自分が不幸な目にあっても、それを笑いながらつい話してしまうのは、ユダヤ人と日本人だけだと聞いたことがある。
ユダヤ人はその迫害の歴史にめげず、子孫をつないでいった。
ユダヤ人も日本人も、自分の不幸を笑えるバイタリティがなければ生き延びることはできなかったのだ。

掲示板
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3117

ナグ・ハマディ写本

ナグ・ハマディ写本 - Wikipedia
ナグ・ハマディ写本の一部(コーデックスII収録の「ヨハネのアポクリュフォン」の末尾と
「トマスによる福音書」の冒頭部分)
ナグ・ハマディ写本(ナグ・ハマディしゃほん、The Nag Hammadi Codices)
あるいはナグ・ハマディ文書(ナグ・ハマディぶんしょ、The Nag Hammadi library)とは
1945年に上エジプト・ケナ県のナグ・ハマディ(エジプト・アラビア語版)
(より正確には、ナグゥ・アル=ハムマーディ[1])村の近くで見つかった
初期キリスト教文書のことである。
ナグ・ハマディ写本は、二十世紀最大の考古学的発見に数えられており、
事実、初期キリスト教の研究を飛躍的に進展させた。
ナグ・ハマディ写本は、古代キリスト教を知るための原資料としては
死海写本につぐ重要性を持つと見なされている。

Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC






概要
写本は、農夫ムハマンド・アリー・アッサーマン(Muhammad ʽAlī al-Sammān)が偶然土中から掘り出したことで発見された。
発見時、文書は壷におさめられ、
羊の皮でカバーされたコーデックス(冊子状の写本)の状態であった。
ナグ・ハマディ写本は全部で13冊からなっている。
より正確に言うと、12冊の写本と8枚の断片からなっており、
後者は13冊目の写本から破られたものと6冊目の裏表紙に挟まれていたものである。
写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、
グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本や
プラトンの『国家』の抄訳も含まれている。
ナグ・ハマディ写本研究の第一人者ジェームズ・M・ロビンソン(英語版) (James M. Robinson)
 による『英訳ナグ・ハマディ文書』の解説によると、
本写本はエジプトの修道士パコミオス(英語版)がはじめた修道士共同体(後世の修道院に相当する)に所蔵されていたのかもしれないという。
写本はコプト語で書かれているが、
ギリシャ語から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。
写本の中でもっとも有名なものは新約聖書外典である『トマスによる福音書』である(同福音書の完全な写本はナグ・ハマディ写本が唯一)。調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見されたオクシリンコス・パピルス[注 2]の内容と共通することがわかっている。そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる。写本が作られた時期に関してはほとんど議論の余地がなく、西暦350年から400年の間と推定されている[7][9]。この年代は、カートナージ[注 3]やコプト語の字体から決定できる[12]。写本が土中に埋められたのは4世紀よりも以前である[13]。
一方、写本に収録された各編の原本の成立時期については異論があり確定できていない。
ナグ・ハマディ文書そのものはカイロのコプト博物館(エジプト・アラビア語版)に所蔵されている。
ナグ・ハマディ写本の発見以前、少数の例外を除くと
キリスト教グノーシス派由来の直接的な文献はほとんど発見されていなかった。
そのため、グノーシス派に関する研究は、反異端の立場からグノーシス派を非難した
古代の正統教会の教父たちが残した文献に頼らざるを得なかった。
ナグ・ハマディ写本は古代キリスト教の異端としては最初で最大の勢力だったキリスト教グノーシス派の原資料にあたり、
キリスト教グノーシス派の教理・神話論などを正統教会の偏見を通さずに知ることが出来ることから重要な写本である。

Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC







発見の経緯
写本が発見されたナグ・ハマディの位置
ナグ・ハマディ写本が発見された経緯について
最初に調査したのはフランス人古代オリエント学者ジャン・ドレス[19] (Jean Doresse) で、
1950年1月のことである。
この時の結果は1960年に
『ナグ・ハマディ文書の発見―キリスト教の基盤を揺るがす現地調査の記録』
として出版された。
ドレスの調査した時期は写本が発見されてから5年しか経っておらず、
写本発見に関する証人たちの証言内容は信頼できるものだったというが、
ドレスは厳密に言えばコプト学の専門家ではなかったことから、
J.M.ロビンソンはその調査結果に不満足だった。
そこでロビンソンは、1970年代初めに数ヵ月に渡って調査を実施し、
その結果をまとめて、
『ファクシミリ版ナグ・ハマディ文書』の最終巻の序文で公表した。
ロビンソンによる調査結果の概要は以下の通りである。
ただし、ロドルフ・カッセル(スイスのコプト学の第一人者)、
マルチン・クラウス(ドイツ・ミュンスター大学の著名なコプト学者)らのように、
ロビンソンによる調査内容に対して批判的な者も存在することにも留意する必要がある。
カッセルは、エジプトの農民は報酬を得ようとして話をでっちあげる傾向があり、
地元住民にとって何の重要性もない、取るに足らない出来事を、
発見から何十年も経っているのに詳しく覚えているのは不自然であると批判している。

Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC







ジャバル・アッターリフ
文書発見の経緯は、アラブ人農夫ムハマンド・アリー・アッサーマンが偶然土中から壷を掘り出したことにさかのぼる。
1945年12月、ムハマンドは、弟のカリファ (Kalīfah) と共にラクダに乗って、
ジャバル・アッターリフ(Jabal al-Tārif) の南側へ出かけた。
ジャバル・アッターリフは、ナイル峡谷の北壁を下限として北側に連なる石灰岩からなる山岳地帯で、
その南斜面には150以上の洞穴がミツバチの巣のようにあいている。
これらの洞穴はもともとは自然にできたものだったが、
既に第6王朝の時期には中をくりぬき彩色を施して墓所として使っていた。
この地方では、サバッサ(硝酸塩を含んだ軟土)をジャバル・アッターリフから掘り出して肥料として使っていた[3]。ムハマンドがジャバル・アッターリフからの落石と思われる巨大な石の周りを掘ってサバッサを採取していたところ、鍬の先に何かが当たった[4]。掘り下げてみると、4つの把手が付いた高さが1mもある素焼きの壷が現れた[4]。この壷が出てきた場所は、ジャバル・アッターリフのふもとの第六王朝時代の墓地跡(ケノポスキオンからほぼ真北に約30km北上した付近)から東に約1km離れた場所である[19]。
当初、ムハマンドは壷を割ることをためらっていた。
ムハマンドの証言によると、中にジンが入っているのではないかと恐れたからである[26]。しかし、金(きん)が入っているかもしれないと思い直して、鍬で壷を割ってみた[26]。壷の中から出てきたのは13冊の本で、パピルスでできており皮で装丁されていた[25]。ムハマンドはその本を服でくるんでから肩にかけて、家に持ち帰った[26]。この本が現在ナグ・ハマディ写本と呼ばれているものである。ムハマンドは持ち帰ったあと本をばらして、かまどの隣に敷いてあったわらの上に置いた[25]。これらの写本は最終的には全てコプト博物館の収蔵品になったが、そこに至った経緯は複雑である。
この発見の半年前の1945年5月7日の夜に、2人の兄弟の父親アリー(畑の灌漑の夜警の仕事をしていた)が、見回り中に1人の泥棒を殺した[26]。アリーはその仕返しを受けて翌朝までに殺された[26]。この事件が、後のナグ・ハマディ写本の運命と関係してくる。
ムハマンドが写本を発見した1ヶ月後、
家の近くの道端で日中の暑さで眠りこけている男がいた。
隣人がこの男を見かけると、男を指差してムハマンドに、
お前の父親を殺したのはこの男だ、と言った。
この男は、アーマド・イスマイル (Ahmad Īsmāʻīl) という名で、
警官イスマイル・フセインの息子だった。
アーマドはハワラ族で、父親はアル・カスル (al-Qasr) 村の外からやってきた人物だったので、
村では疎外されていた。
ムハンマドは、家に駆け込むと兄弟と母親にこのことを告げた。
アーマドを捕まえると、一家で、アーマドの手足を徐々に切り刻み、
心臓をえぐり出して全員でむさぼり食い、
血の復讐を行った。
ハワラ族はジャバル・アッターリフのふもとに村を作って住んでいたので、
復讐されることを恐れて、この後ムハマンドは壷を見つけた場所に近づこうとはしなかった。
後に、ムハマンドを説得して壷を発見した場所まで案内させたのだが、
そのためには変装をさせ、政府の護衛を付け、更に金品を見返りに与えねばならなかった。
コーデックスIII
アーマドが殺されたことをアル・カスル村の住人は喜び、
警察の捜査でも目撃者が証言しようとはしなかったが、
警察はムハマンドに目をつけ、毎日夕方になると殺害に使った武器が見つからないかと家にやってくるようになった[27]。ムハマンドは写本が警察に見つかることを恐れた[28]。
壷から発見された本がコプト語で書かれていたことから、
キリスト教のものであると言われたムハマンドは、村のコプト教の司祭、
アックンムス・バシリユス・アブド・アッマシー (al-Qummus Basīlīyūs 'Abd al-Masih)に相談して、これらの本のうち1,2冊[28]を司祭の家で預かってもらえないかと頼んだ[27]。(なお、別の文献の説明では、村を離れることになったときに司祭に文書を託した[29]ことになっている。)
バシリユスは結婚しており、義兄のラジブ・アンドラウス (Rāghib Andrawus) が、
コプト教会の学校で英語と歴史を教えていた。
村々を巡回して生徒たちに教えており、アル・カスル村にやって来てバシリユスの妻の家に泊まったときに、バシリユスは現在コーデックスIIIと呼ばれている写本を見せた[27]。
その価値に気づいたラジブは司祭を説得して写本のうち1冊を手に入れカイロへ持っていき、
友人でコプト語に興味を持っていた医者ジョージ・ソビイ (Goerge Sobhi) に見せた。
コーデックスIIIを三百ポンドで買い取ることで話はまとまったが、
支払いは遅れに遅れた。
最終的にはラジブに二百五十ポンド、コプト博物館へ五十ポンド寄付することで決着がつき、
コーデックスIIIはコプト博物館に収蔵されることになった。
収蔵されたのは1946年10月4日のことである。
13冊ある写本の中で、最も早くコプト博物館に収められたのがこのコーデックスIIIである。
コーデックスIとIII以外の行方
一方、無価値だと思ったか、もしくは災いを招くと思ったかして、
ムハマンドの母親は写本の一部を、わらと一緒に炊きつけとしてかまどで燃やしてしまった。
現在わずかの断片しか残っていないことから、
コーデックスXIIが燃やされたものと見られる。
また、中には捨ててしまったものもあった。
コーデックスIII以外の写本は、近隣の文盲のムスリムとの物々交換に使われたり
二束三文で買われたりしていった。
写本を手に入れた者の1人がナシド・バサダ (Nāshid Basādah) で、
ナグ・ハマディの金商人と計ってカイロで写本を売り、
代金を山分けした。
また、伝えられるところでは、ある穀物商(アル・カバルの複数の村人によると、フィクリー・ジャバライル (Fikrī Jabarā'īl) のことだという)が別の写本を手に入れてカイロで売り、
手に入れた代金でカイロに店を構えたとも言われている。
この話はよく知られているらしいが、
フィクリー自身は断固として関与を否定している。
写本の大部分を手に入れたのはバヒジ・アリ (Bahīj ʽAli) で、アル・カスル村のならず者だった[30][32]。この地方では有名だった古物商と一緒にカイロに行き、まずシェファード・ホテルのマンスーアの店に行き[30]、次にカイロ在住のベルギー人古物収集家[32]フォキオン・J・タノ (Phokion J. Tano) の店で売った[30]。タノは全て買い取り、また、ナグ・ハマディにまで出かけて残っている写本を全て入手した[30]。
一方、コプト博物館長(当時)のトーゴ・ミナ (Togo Mina) はタノが写本を買い取ったことを聞きつけて、国外流出はさせない、写本は全て博物館に売れと説得した[32]。1948年、エジプト公教育省はタノと交渉して、写本を買い取りコプト博物館に収納しようとしていた[32]。しかし、タノは、写本はカイロ在住のイタリア人収集家ダッターリのものであると主張して政府の介入を避けようとした[32]。国外流出を防止するためにエジプト考古最高評議会(考古最高評議会の前身)はダッターリ所有の写本を接収した[33]。写本は、1948年にコプト博物館に保管された[34]。ダッターリは対価として十万ポンドを要求したが、政府は一切支払わなかった[32]。そのため、所有権がどちらにあるのかエジプト政府とダッターリの間で裁判沙汰となり[32]、1952年まで争われた[34]。裁判は政府側の勝訴に終わった[32]。
ナセルが大統領になってからは、4千ポンドの形ばかりの代価と共に写本は国有化され、最終的にコプト博物館の所有物になった[35]。この段階でコーデックスIを除く写本がコプト博物館に収納された。
ユング・コーデックス[編集]
コーデックスIの大半は、カイロ在住のベルギー人古物商のアルベール・エイド (Albert Eid) を通じてエジプト国外に流出した[27][注 6]。
1949年、エイドは政府の介入を恐れ、大量の輸出品の中に写本を紛れ込ませてアメリカへ密輸出した[37]。同年、エイドはニューヨークで[27]、二万二千ポンドで売却しようとしたが失敗した[37]。エジプト政府が売却に反発することを顧客が恐れたのが失敗した理由らしい[32]。エイドはベルギーに戻り、写本をパスワード付きの保管箱にしまいこんだ[37]。その後、アン・アーボール (Ann Arbor) でこれらを売却しようとしたが同様に失敗した[27]。また、パリでも売却しようとした[38]がこちらも失敗している。エジプト政府はエイドを考古物の密輸出の罪で訴追し、六千ポンドの罰金刑の判決が出たが、判決前にエイドは亡くなった[37]。
一方、エイドの未亡人は秘密裏に写本を売却しようとしていた[37]。古代キリスト教史家のG.クィスペル(ユトレヒト大学教授(当時))によると、自身はこの写本が密輸出されたものだとは知らなかったとのことだが、ユング研究所を説得して、写本を購入するように急がせた[37]。写本は、1952年5月10日になって、エイドの未亡人から[27]、クィスペルを介して[34][28]チューリヒのユング研究所の手に渡った[27]。これらは、誕生日祝いのプレゼントとして研究所からユングへ贈られた[34]ため、コーデックスIの整理番号が付けられるまでは「ユング・コーデックス」と呼ばれていた[34]。
ユング・コーデックスは、1956年から1975年にかけて6巻にわたって出版された[30]。1961年にユングが亡くなると写本の扱いを巡って議論が起こった[39]が、少しずつエジプトに返却されていき、最終的にユネスコが買い取って1975年に[36]ユング・コーデックスの全てがコプト博物館に収蔵された[27]。こうして1945年の発見以来、30年ぶりにカイロに全ての写本が揃うことになった。写本の総ページ数は1000ページにも及ぶ[38]。
「トマスによる福音書」の発見
ナグ・ハマディ写本の中で最初に世間に公表されたのはコーデックスIIIの一部である。
コプト博物館の研究員(当時)だったジャン・ドレスは1947年にコーデックスIIIに含まれる
「エジプト人福音書」を解読し、
翌1948年にその内容を学会誌に公表した。
また、「ユング・コーデックス」には失われたページがあることに気づいたクィスペルは、
1955年の春にエジプトに飛んで、コプト博物館にそれらのページがないかどうかを調べた。
博物館から写本の写真を借り受けてからすぐにカイロのホテルに戻って、
クィスペルは解読を始めた[28]。この時に発見したのがコーデックスIIに含まれていた
「トマスによる福音書」である。
「トマスによる福音書」の断片は1890年代にギリシア語版が発見されていたが、
福音書全体が発見されたのはこれが初めてだった。
ドレスとクィスペルは「トマスによる福音書」を含む
ナグ・ハマディ写本の一部を学会誌に発表したり、
新聞紙上で紹介し世界のジャーナリズムにセンセーションを巻き起こした。

Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC





広島原爆

広島原爆
2016/6/5
「マヤ歴の修正と1260日」  
この記事の前にちょっとだけ......。
これは10キロトンによるシュミレーションです。
広島は80キロのウランの10キロが核分裂を起こし16~18キロトンの炸裂でした。
こんな小さな炸裂の場合クレーターはほんのわずかです。翌日数千人の科学者などが広島を訪れたこと自体おかしいとは思いませんか。
大きなクレーターは水爆の地下核実験の場合のみ出現するのです。
http://labaq.com/archives/51067767.html
1946年春頃の広島市。三村明が参加した米軍映画撮影隊による映像
 以下はタマちゃんちから
(4)「私、空中から爆弾を落としたとは思ってないんですよ。下から爆発」
元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏の証言!
https://youtu.be/o1dKP3cv9zw
 ↑動画 「私、空中から爆弾を落としたとは思ってないんですよ。下から爆発」
元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏の証言! 
【戦士の証言】元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏に聞く Part3[桜2010/8/13]
https://www.youtube.com/watch?v=07eSQ82V15U&list=PLBF239C1C967DFAD8&index=2
 ↑動画 【証言シリーズ】元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏に聞く 後編[桜2010/8/5] 15分くらいから原爆証言
肝心な発言は以下にある~地上起爆の決定的な証拠
https://youtu.be/o1dKP3cv9zw?t=233
こんな事、また起きるんじゃないかな、こんな事を許しとったら
長崎原爆投下の5時間前に軍の指導者は知っていた。
66年経って真実を伝えられた本田稔さん
「分かってた!?なんで命令出さんのですか。5時間もあれば十分待機できたはずですよね。
これが日本の姿ですかね。
こんな事、また起きるんじゃないかな、こんな事を許しとったら 」
そして、日本の降伏が決まり、証拠資料は燃やされ、灰は粉々にされた。
本田さんの地上起爆の発言はカットされていますがこのビデオは長崎の原爆。
一応投下5時間前に紫電改に迎撃を準備させB29(ボックスカー)を迎撃していたら原爆投下の大義名分が成り立たなくなるからです。
これが地上起爆させた裏の真実です。
http://www.dailymotion.com/video/xkfcgf_20110808%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%81%AE%EF%BC%95%E6%99%82%E9%96%93%E5%89%8D%E3%81%AB%E8%BB%8D%E3%81%AE%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%80%85%E3%81%AF%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F_news#tab_embed
関連記事~
http://ameblo.jp/tamaichi2/entry-12166559208.html
http://cosmic-dance.blogspot.jp/2016/03/blog-post_62.html
<転載開始:すべて原文のまま>
幾多の実際の戦闘で、爆弾や爆発状況を見ていた軍事的に専門的知識のある彼が広島原爆の爆発の瞬間に広島城上空を紫電改で単独飛行しており
目撃体験、その生々しい証言では「私は空中から爆弾落としたとは思ってないんですよ。
下から爆発、何で何が爆発したと思って上を気をつけてませんから全然知りませんねB29に対しては・・・」の一言。
彼がウソの証言をしているとは思えません。
この発言後の日本の戦争への取り組み方への疑問も、彼の軍人としてのまじめさ、冷静な判断の持ち主であったことが伺えます。
2つのユーチューブの証言、どちらもインタビュアーがB29からの投下についてとあえてB29を絡めて聞いているのですが、
彼は完全にB29については存在をスルーしています。
戦闘機乗りならまずは上空をチェックしたり爆撃機を探すはずです。
つまりは、彼が目視できる範囲に爆撃機は見当たらなかったということでしょうね。
爆発前にも、もしB29が上空にいて投下したとしたら飛行気乗りとして目の前の状況を捉えるはずです。
この大和のことも含めて、戦後の敗戦処理のために、とにかく本来の家族を守ろう、故郷を国家を守ろうとしていたクソまじめな優秀な軍人たち(陸軍、海軍それぞれに)を一同に集め
一瞬で大量抹殺する。
それがずる賢い敵国とも手を結んだ支配者層の考えていたことでしょう。
だからそれまでも日本の軍人の多くが派遣された現地で戦闘することもなく本国からの援助も薄く餓死や病気で殺されていた。
戦争の本質目的は、支配者層を将来脅かすことになるであろう目覚めた軍人たちと、同じ国民でも違う民族たちの浄化殺人であると思います。
敵国との戦という茶番を使ってごまかして。
この証言ビデオ、地上起爆に疑問のある方に見ていただきたいです。何しろ戦闘のプロの見識ですから。<転載終了>
 以下は上のブログから
『要するに私が言わんとすることは、これはほとんどの人には受け入れがたいことであるが、
あの戦争は日米共同で演じた一大イベントで、ヒロヒトもヒトラーもこのイベント劇の役者であったことだ。
それに連合国・枢軸国といった対立構造も戦争劇のシナリオライターが描く典型的なパターンである。
だからこの視点から考察すると、以下のことが浮かび上がってくる。
日米がもっとも隠してきたかった事は負ける役を演じることになった日本が自ら原爆をしかけ、
あたかも仮想敵国から落とされたかのごとく装うことである。
このことは、ヒロヒトどころかほとんどの大将が米国側に、
しかも開戦当初から寝返っており、負けいくさを演じていたことからも導かれる。
勝ち負けのいくさ劇でマインドコントロールを受けていたのは大将以下下級軍人と平民だったのである。
以下は、私の直感から導かれることでもある。
結論から言えば、大和自体が実は建造当初から原爆製造工場だったということである。
当初から非常に極秘に建造が進められ、戦後になってようやくその存在が知らされるようになった大和。
その中では人形峠から発掘された精製ウランが濃縮されて幾つもの原爆が製造されていたに違いない。
その内の二つが広島そして長崎に持って行かれた。
起爆は地上にて行い、米軍とあらかじめ綿密に組んだイベントが行われた。
終戦直後に残っていた原爆は北海道美幌の今の自衛隊駐屯地の地下基地にある』
本物黒酒 ‏@honest_kuroki · 5時間5時間前
なにしろ明治以降天皇に成りすました箕作の郷里が、薄暗い所で緑色に発光する露頭ウランの宝庫・人形峠ですからね。
ウラン鉱の採掘権者だし。
そのウラン238に加速器で高速中性子を照射した結果が1940年のネイチャ―に発表されたしね
@roro101577 @horiguchikesazo
本物黒酒 ‏@honest_kuroki · 5時間5時間前
その、広島上空からのきのこ雲の映像に、急降下する紫電改は映っていないでしょ?
撮影したのは紫電改だからです。
@applec
戦艦大和はなぜ引き上げられないのか
http://qa.itmedia.co.jp/qa9051449.html
引き上げに遺族が反対しているなんて嘘八百。
原爆実験で真っ二つになり3000人の兵隊もろとも八の字になって沈んでいる。
引き上げれば放射能が検出されるからです。
原爆の地上起爆に反論する記事がありましたが~クレーターがない?
http://blog.goo.ne.jp/beingtt/e/ecd4886cdbdc0a2ab1ba6bb9d1b34805
以下も原爆は空中投下説で今後地上起爆を否定する記事が増えると思います
 その1
http://ameblo.jp/ghostripon/entry-12160554315.html
 その2
http://ameblo.jp/ghostripon/entry-12166639855.html
 本物黒酢さんのツイッター
https://twitter.com/honest_kuroki
 これが、日本が実施した広島の核実験、1945年8月6日朝8時満潮の元安川。
https://twitter.com/honest_kuroki/status/739522052239958016
 本題に戻ります
 聖書の時間周期
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51987478.html
 元記事;http://yournewswire.com/end-date-of-mayan-calendar-is-june-2016-says-scholar/
 End Date Of Mayan Calendar Is June 2016
 The baktun is 144,000 days.
これはイルミナティカードですがなんて書いてありますか?
FUCK YOU (FUKU)SHIMA
管理人注:わたしは,刻印を押された人々の数を聞いた。
それは144000人で,イスラエルの子らの全部族の中から,刻印を押されていた:ヨハネの黙示録7:
4)~144,000を単数化すると9ですがM9とは考えたくない。
3.11でM5.63を急遽M9に変えたのはなぜか。M5.63で30Mの津波が来ては困るからです。
 There are 13 baktuns in the Mayan Calendar.
 144,000 days x 13 baktuns = 1,872,000 solar days
 Now the Gregorian calendar solar year is 365.2425
 The Julian calendar solar year is 365.25
 The Haab Mayan calendar solar year is 365
 1,872,000 days/365.2425 (Gregorian solar year) = 5125.36 years
 1,872,000 days/365.25 (Julian solar year) = 5125.256 years
 and then here is the big difference….
 1,872,000 days/365 (Haab solar year) = 5128.76 years
 Subtract 5128.76 years (Haab) from 5125.256 years (Julian) =
 READY……..
 =3.504 year difference and that makes 1260 days
 翻訳は金玉さんのところで
http://golden-tamatama.com/blog-entry-2405.html
End Date Of Mayan Calendar Is June 2016, Says Scholar
マヤのカレンダーの終わり日付は、2016年6月であると、学者は言います
マヤの学者はマヤのカレンダーの終わりが実は、2016年6月-4日に起こりそうであると主張しています。
そして、専門家が最初の2012年12月の日付が間違って計算したと言います。
元々マヤの暦と現在の西暦(グレゴリオ暦)は閏年の考え方が違って日付がずれている。
「グレゴリオ暦」
1年を365日とするが、400年間に97回の閏年を置いてその年を366日とする。
これによって、400年間における1年の平均日数を365.2425日とするのがグレゴリオ歴。
「ユリウス暦」
グレゴリオ暦の先輩、紀元前45年1月1日から実施され、1582年2月24日以降はグレゴリオ暦にバトンタッチ。
1年を原則として365日とするが、4年ごとに閏年を置き、その年の2月末に1日を加えて366日とする。
ユリウス暦では、1年の平均日数365.25日。
マヤ暦は1,872,000日で終わりが来ることになっている。
マヤ暦で1年は単純に365日と計算していたので2012年12月22日になった。
しかし現在の西暦のグレゴリオ暦で割ると1,872,000のdays/365.2425= 5125.36年
ユリウス暦で割ると1,872,000のdays/365.25= 5125.256年
マヤ暦との差が1260日あった。
以前2012/12/21に終わりが来ると言われていた。
日付は本当は1260日の差があって2016/6/3or4が本来の日付だった。
管理人注:なのですが気になるのは1260日という数字です。
その数字はスー君の記事のなかにありました

ハムレットの水車小屋
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/94.html
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/371.html
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/372.html

wisdomkeeper
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51987478.html


異次元への通路=魔の三角海域

異次元への通路=魔の三角海域
2008/5/7(水) 午前 6:17
「魔の三角海域」で消えた米軍機、火星に出現?
【大紀元日本7月30日】
最近、インターネットサイトでは第二次世界大戦中にバミューダトライアングルで失踪した米軍の4機の爆撃機が火星の上空で飛行しているとの説が流れている。
米国「世界ニュース週刊」は、
「1995年、米国の天文学者コフント・ロディン博士は自分の発見を公表、火星を観察する際に、第二次世界大戦中に失踪した4機の米国爆撃機が火星上空で列を作って飛行しているのを発見したという」と報じた。
ロディン博士によると、彼はコンピューター制御の天体望遠鏡で火星を観察する際に、長年前に失踪した5機の米軍魚雷型爆撃機のうちの4機が、火星の数キロ高さの空域で列を作って飛行していたのを発見。コンピューター自動追跡機能で撮影した画像を分析した結果、これらの爆撃機の時速は4万キロだという。
同博士は、「飛行機は緊密な列を作って飛行している上、飛行状態は極めて良好。有人操縦の可能性が高い。機体にある米軍のマークもはっきりと見える。これを根拠に、1945年にバミューダで失踪した爆撃機であるのを判断した」と説明していた。
米国政府はこのことについて、コメントを拒否している。スウェーデンの科学者ウェルハム・グレード博士は、「ロディン博士が火星で観測した爆撃機は、旧ソ連が月で発見した飛行機と関連があり、「魔の三角海域」バミューダトライアングルとも関係がある」と見解を示している。
52年前に、第二次世界大戦が終戦直後の1945年12月5日、米国海軍第19爆撃機チームの5機の魚雷型爆撃機は、大西洋を巡回するためにフロリダ州のフォート・ローダーデール(Fort Lauderdale)空軍基地から発った。
この日は快晴だった。
しかし、爆撃機がマイアミ、プエルトリコとバミューダの三つの地点が構成する、いわゆる「魔の三角海域」バミューダトライアングル海域で忽然と消えた。
失踪する前にはまったく救援信号を発しておらず、失踪後もいかなる痕跡を残さなかった。
基地との連絡が中断したのは午後5時。現地の海域を調査するために派遣したPBM巨型水上飛行機も二度と戻らなかった。
失踪してから2時間後の19時4分、フロリダ州の空軍基地は微弱な救援信号「FT…FT…」を受信できた。
そのときには、爆撃機の燃料がすでに完全に使い果たしたはずで、居場所を確定できなかったため、捜索はできずに、5機の爆撃機と乗員が永久に軍の名簿から抹消された。
当時の現地メディアが報道したこの失踪事件
発見当時、ロディン博士は、「自分のこの発見は、旧ソ連が月で米国の爆撃機を見つけた以来の一大天文ニュース」と興奮気味に語った。
1987年3月、旧ソ連は、「衛星スキャン」で、月の上で第二次世界大戦中の米国旧式爆撃機を発見したと公表。
翌年の7月22日、旧ソ連の衛星が再び現地を経由、スキャンするときに、爆撃機の姿がなかった。
公表された衛星写真には機体の米軍マークが鮮明に写っていた。
また、ロディン博士の発見にも、コンピューター写真が証拠として残っている。
科学界からは、捏造ではないかと疑う声があがっているが、同博士は、「私は非難と障害に直面するのを予期していた。
しかし、私は迷わない。自分がなにを見たかははっきりと分かっている。
残念なのは、爆撃機はどうやって地球から宇宙に入り、宇宙でなにをしているのかを判明できないことだ」と話した。
2007年3月13日夜から14日の朝方にかけて、米国海軍のロサンゼルス級攻撃潜水艦San Juanは、この「魔の三角海域」で9時間失踪した。
艦内の乗員らはまったくこのことを知らなかったという。
魔の三角海域で9時間消えた米軍の潜水艦(米海軍サイト)
米国海軍の潜水艦指令センターは声明で、この一件は「空騒ぎ」だったと説明したが、外部からは疑問視する声が浮上。
この「魔の三角海域」では、100年以上前から100を超える船や飛行機、1000人以上が消息不明となっているという。
その原因について、様々な説があるが、ある学者は、ここは人類と異なる空間に通じる通路と解釈している。
(07/07/30 08:23) http://jp.epochtimes.com/jp/2007/07/html/d26550.html

徹底検索、堀進
http://blogs.yahoo.co.jp/horisusumu8/

第二次世界大戦後に消滅した国

消滅した国々
ひとえに「消滅した国」といっても、殷だの西夏だのチャガタイ汗国だのローマ帝国やカルタゴだなんて言い出したらキリがないので、
いちおう第二次世界大戦後に消滅した国限定です。
また、革命や政変によって名称が変わっただけの国(カンボジア王国→クメール共和国など)や、
同一領域の正統政権の地位を争って並立していた国(民主カンボジアとカンボジア人民共和国など)は除きます。
1960年4月発行 誠文堂新光社『世界地理風俗大系 第8巻インドシナ半島』より このページの一番下に続きがあります・・・
「消滅した国々」が本になりました。
吉田一郎の新刊
『消滅 した 国々』
~第二次 世界大戦以降、崩壊した183ヵ国~
全国書店で発売中!
社会評論社刊 711 ペー ジ 税込2940円
こんな感じの本ですヨ!  書評など
上田清司埼玉県知事も賞賛!

世界飛び地領土研究会
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/shometsu.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/korearepublic.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/index.html










■国際的に広く認められていた国
 南 ベトナム   
 マラヤ連邦   
 北イエメン、南イエメン  
 アラブ連合共和国    
 ソ連 
 東ドイツ 
 チェコスロバキア 
 旧 ユーゴスラビア 
 新 ユーゴスラビア 
 ソ マリランド 
 カ メルーン共和国 
 マリ連邦   
 ザンジバル、タンガニーカ 
■わずかな国には認められていた国
 パレスチナ 
 ビアフラ 
 コソボ 
■改めて独立したら併合された国
 チベット 
 ハイデラバード藩王国 
 カラート藩王国(バルチスタン)
 マニプール 藩王国 
 ブガンダ 
■併合されたくて独立した国
 内モンゴル人民共和国(東モンゴル自治政府、ホロンバイル自治省政府) 
 シンガ ポール 
 自由ヤナム、自由マヘ、自由ダドラ、自由ネロリ、自由ダド ラ・ナガルハベリ  
 ギルギット・イスラム共和国 
 ラスアルハイマ 
 ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国  
 クライナ・セルビア人共和国 
 アンジュアン、モヘリ  
■植民地に戻った国
 ローデシア 
 アンギラ 
 アドゥアン人民共和国、スバディバ連合共和国    
■ソ連崩壊で独立しようとした国
 クリミア 
 タタールスタン 
 ガガウズ  
 チェチェン   
 タリシュ・ムガン(タリシュスタン) 
 アジャリア 
 パミー ル・バダクシャン 
■ソマリア崩壊で生まれた国
 アウダル 
 南西ソマリア、ジュバランド、マーヒル 
■国家連合
 フランス共同 体
 ア ラブ連邦  
 アラブ連合 
 アラブ連合共 和国連邦 
 アラブ共和国 連邦 
 セネ ガンビア国家連合 
■首長国・土候国・藩王国
 サラワ ク王 国   
 ムスタン王 国とジャジャルコット、サリャン、バシャン 
 パ キスタンの藩王国 
( バハワルプール、カイルプール、カラート、ラスベラ、マクラン、
 カラン、アンブ、ブルラ。チトラル、ディール、スワート、ナガール、フンザ)
 南 イエメンの首長国  
 ( ラヘジ、サッバイハ、ファドリー、上アウラキ・スルタン、上アウラキ・シャリフ、
 下アウラキ、ワーヘディ・バルハーフ、ワーヘディ・ビルアリ、ワーヘ ディ・バッハン、
 アワーゼル、上ヤーファ、下ヤーファ、アラウィ、コタイビー、ハワーシェブ、
 アクラビ、ダーラ、クアイチ。カシーリ、マハラ)
 カ ルバ首長国と休戦オマーンの「非公認」首長国 
( マスフット、ディバ、ダフタ、ダイド、ラムス、シャーム、
 ジャジラット・アル・ハムラ、ハムリヤ、ハイラ、アル・ハン)
 オ マーン・イマーム国 
 ケル・アハ ガル 
■保護国・準独立国
 シッキム 
 元祖「アラブ首長国連邦」 
 南アラビア連邦 (南アラビア首長国連邦) 
 中央アフリカ連邦 
 西インド連邦  
■いわゆる傀儡国
 東トルキ スタン共和国  
 コー チシナ共和国
 東インドネシア、バスンダン、東ジャワ、マドゥラ、東スマトラ、南スマトラ   
 アゼルバイジャン自治共和国 
 クルディスタン人民共和国 
 自由レバノ ン共和国     
 キレナイカ  
 ベニン共和国 
 南アフリカのホームランド 
( トランスカイ、ボプタツワナ、ベンダ、シスカイ、クワズールー、
 レボワ、カザンクル、クワクワ、クワンデベレ、カングワネ)
 南西アフリカのホームランド 
( ヘレロ、オバンボ、カバンコ、東カプリビ、バスターランド、ナマランド、
 ダマラランド、ツワナランド、カオコランド、ブッシュマンランド)
 アル ティボニット   
いわゆる独立勢力
 朝 鮮人民共和国 
 西 パプア   
 東 ティモール 
 南 マルク    
 ア チェ 
 コートレイ 
 シャン邦共和国    
 ナ ガランド 
 ミゾラム   
 タミール・イー ラム 
 ド ファール   
 西ボ スニア共和国   
 フェ ロー諸島共和国   
 アザワド
 ル ウェンズルル王国   
 カタンガ、北 カ タンガ、南カサイ      
 カビンダ    
 マーチャ ゾ   
 ア イレク 
 タ ンナ、ナグリアメル、タフェア、ベマラナ 
 北 ソロモン、ブーゲンビル 
 カナキー共和 国   
 ロ ツマ   
作り損ねた国
 アトランティス、大カプリ共和国 
 ニュー アトランティス  
 アバロニア、タルガ 
 ローズ島  
 ミネルバ共和国
 アバコ 
 ア ゾレス諸島

世界飛び地領土研究会
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/shometsu.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/korearepublic.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/index.html



朝鮮人民共和国

アメリカ軍に認められなかった左右ごちゃ混ぜ統一政権
朝鮮人民共和国
首都:京城(ソウル) 人口:2500万人
1945年8月15日 日本の敗戦により朝鮮人による 建国準備委員会が発足
1945年9月6日 朝鮮人民共和国の建国を宣言
1945年9月8日 米軍が南朝鮮に上陸
1945年9月11日 在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が発足。朝鮮人民共和国を否定し軍政を開始 
1945年10月10日 軍政庁が改めて朝鮮人民共和国にた だちに解散するよう命令
朝鮮全図 日本の植民地時代(1942年)の地図
「朝 鮮人民共和国って、北朝鮮のこと?」
と思えばさにあらず。
北朝鮮は正式名称「朝鮮民主主義人民共和国」で、朝鮮の北半分を領有する左翼政権だが、朝鮮人民 共和国は朝鮮の南北一緒、そして左右一緒の政権だった。
もっとも、世界中どの国からも認められず、アメリカ軍に弾圧されてわずか数日で消滅してしまった。
戦前、朝鮮が日本の植民地だった頃、日本からの独立を求める運動が続いた。しかし朝鮮では日本の官憲に弾圧されたので、海外を拠点とす る組織ができた。
1つは大韓民国臨時政府で、1919年に 朝鮮全土で起きた
「三・一独立運動」
が鎮圧されたのを契機に、上海で設立された亡命政府で、自 由主義者の李承晩(イ・スンマン)が大統領に就いた(※)。
1932年に日本軍が上海を占領すると、蒋介石の国民政府とともに中国各地を転々と移動し、最 終的に重慶に拠点を移した。
※李承晩はアメリカ政府に朝鮮の委任統治を請願したとして 批判され、1925年に失脚。ハワイへ移りアメリカ政府へのロビー活動を続けた。
もう1つは抗日パルチザンで、これも 「三・一独立運動」の鎮圧を契機に、満州やソ連の沿海州を拠点に武力闘争を続けた。パルチザンを率 いたという「伝説の英雄」が金日成(キム・イルソン)だ (※)。
※金日成(本名:金成柱)は1912年生まれだが、抗日パ ルチザンを率いた「金日成将軍」の名は1920年代から知られており、金成柱は「伝説の英雄」金日成の名を襲名したものと 思われる。
さて1945年8月10日、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏することを決めたが、これによって日本は朝鮮の独立を認め なけれ ばならないことになった。そこで朝鮮総督府は8月12日に呂運 亨(ヨ・ウニョン)と接触。行政権を渡すので在留邦人の安全を保障してほしいと打診した。
朝鮮総督府が大韓民国臨時政府や抗日パルチザンと接触せず、呂運亨を交渉相手に選んだのは、当時、満州を占領しつつあったソ連軍がその まま朝鮮全土も占領すると予想されたので、ソ連軍による占領前に朝鮮人に権力を引き渡してしまおうと焦っていたことや、2つの組織は海外で活動していたの で急に連絡が取れなかったこと、抗日パルチザンは八路軍(中国共産党軍)とともに日本軍と長年戦闘を続け、臨時政府も米軍の特殊訓練を受けながら日本に宣 戦布告していたが、朝鮮で憲兵隊に睨まれながらも政治・文化活動を続けていた呂運亨なら、朝鮮総督府と協調しながら「平和的」な権力移譲が望めそうだった こ と・・・などの背景があるようだ。
呂運亨は1886年生まれで、1914年に中国へ亡命し、大韓民国臨時政府が樹立されると外務次官に就任したが、帝政ロシアが中国に 持っていた租界や利権をソ連が中国へ返還したのを見て共産主義運動に共鳴。23年に臨時政府を離れてソ連に渡り、レーニンと会見(※)、その後上海のタ ス通信社(ソ連国営の通信社)で働いた。
※レーニンは呂に「朝鮮では共産主義運動ではなく、民族主 義運動に力を注ぐべきだ」とアドバイスし、呂はそれに従ったという。
しかし27年に蒋介石が反共クーデターを起こし、上海で白色テロが吹き荒れると、呂運亨は朝鮮に戻り、「民族主義運動の高揚は、まず言 論とスポーツから」と朝鮮中央日報の社長や朝鮮体育会の会長に就任した(※)。
※1936年のベルリン五輪で、「日本代表」として出場し たマラソン選手の孫基禎(ソン・ギジョン)が金メダルを獲得した際、朝鮮中 央日報は東亜日報とともに孫のシャツに描かれた日の丸を抹消した写真を掲載して廃刊となった。
そして太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった44年8月、呂運亨は「朝鮮独立の日は近い」と建国同盟を結成していた。
「占領軍はソ連じゃなくてアメリカ!」で態度を 変えた総督府
総督府との交渉結果を民衆に報告する呂運亨(8月16日)
さて1945年8月15日、呂運亨は再び朝鮮総 督府に招かれ、政務総監の遠藤柳作は治安維持に対する協力を要請。
呂は
(1)政治犯の釈放、
(2)京城(現:ソウル)の食糧の3ヵ月分確保、
(3)治安維 持活動への不干渉、
(4)青年・学生の訓練への不干渉、
(5)労働者・農民の組織への不干渉
など5項目の条件を出して了承し、その日のうちに建国同盟をも とに朝鮮建国準備委員会(建準)を発足させた。
同時に治安隊 を組織して警察署の接収に乗り出した。
建準の支部と治安隊は数日のうちに朝鮮各地で結成されていった(※)。
※呂運亨は民衆に日本への 報復を控えるよう自制を呼びかけ、混乱にもかかわらず日本人に対する暴行事件は少なかった。
建準は朝鮮総督府から行政機能を引き継ぐつもりだったが、朝鮮総督府は18日に米軍から
「38度線以南はアメリカ軍が占領する」
と通告 を受けると態度を一変。
行政権の移譲を拒んだうえに、建準の解散も命じた(※)
※これには建準が猛烈に抗議して2日後に撤回。
また建準内部でもゴタゴタが続いた。委員長に就任した中道左派の呂運亨は「左右合同による統一政権」を目指して、幅広い有力者に結集を 呼び掛けたが、副委員長に迎えようとした右派の宋鎮禹(ソン・ジヌ=東亜日報元社長)は、「朝鮮総督府と勝手に交渉して政権を作ったら、日帝の傀儡だと非 難される」「大韓民国臨時政府の承認を待つべきだ」と主張して参加せず、安在鴻(アン・ジェホン=朝鮮日報元副社長)が副委員長に就任したが、左派の勢力 が強まると保守派との提携を主張した安も離脱。宋鎮禹は韓国民主党を結成し、安在鴻は韓国独立党を結成して、建準を批判し始めた。
呂運亨もテロリストに狙 われて姿を隠さざるを得なくなり、建準内部ではまずます左派の力が強まり、副委員長には許憲(ホ・ホン)が就いた(※)。
※明治大学を卒業した弁護士で、「三・一独立運動」で逮捕 者らを弁護。25年には朝鮮共産党の結成に参画した。
一方、各地の建準支部でも、当初は日本統治下で議員などに任命された有力者や資本家、民族主義者、共産主義者らが集まっていたが、やが て治安隊を掌握した左派の力が強まると、保守派は離脱して韓国民主党などに加わっていった。
アメリカ軍が上陸する前に「豪華メンバー」で独 立宣言したが・・・
左右の大同団結が崩れ、総督府から行政権を引き渡されなかった建準だが、9月6日に全国人民代表大会を開き、朝鮮人民共和国の建国を宣言した。これは9月に入って米軍の飛行機が飛 来し、「近日中に上陸」「布告及び諸命令は現存する官庁(=朝鮮総督府)を通じて発布する」というビラをまいたため、米軍がやって来る前に政府を樹立し、 朝鮮人の団結と自治能力をアピールしようというのが狙いだった。
発表された朝鮮人民共和国の閣僚名簿は、
大統領に李承晩、
副大統領は呂運亨、
国務総理(首相)が許憲、
内務部長(内相)は金九(=臨時 政府大統領)、
外交部長(外相)に金奎植(=臨時政府副大統領)、
財務部長(財相)は曺晩 植(「朝鮮のガンジー」と呼ばれた朝鮮北部のキリスト教民族主義者)
で、55人選出された人民委員には金日成も含まれるなど、大韓民国臨時 政府から抗日パルチザンまで国内外の左右両派を網羅したそうそうたるメンバーだったが、実際には李承晩や金日成、臨時政府の関係者など大部分のメンバーはまだ海外にいて、本人の承諾なしに勝手に閣僚名簿に載せられていた のだった。 
もっとも、呂運亨と許憲を除いてはいずれも 本人の承諾なし。
同時に
(1)朝鮮の自主独立、
(2)反帝反封建の民主主義実現、
(3)民衆の生活向上、
(4)国際平和共存
という政綱4原則と、日帝や 民族反逆者の土地没収と農民への無償分配、諸企業の没収と国有化という施政方針を発表したが、これらは呂運亨と許憲、朴憲永(パク・ホニョン=朝鮮共産党 再建派の指導者)がまとめたもので左派色が強く、反発した宋鎮禹ら右派は翌7日、国民大会召集準備会を開いて
「大韓民国臨時政府が唯一の存在である」
と宣 言。
呂運亨を「血を流さずに政権を奪取しようとする野望を抱いて乗り出した、日帝の走狗」と非難した。
9月8日に米軍が仁川港に上陸すると、呂運 亨は米駐留軍司令官のホッジ中将に面会を申し入れたが、「日本の手先」だと拒否され、「朝鮮独立を助けてくれた米軍を歓迎しよう」と集まった建準治安隊や 労働者は、警備していた日本軍に発砲されて死傷者が出る事態になった。
朝鮮総督府を接収した米軍は、9月11日に軍政庁を発足させて「軍政庁が南朝鮮(38度線以南)における唯一の政府である」という布 告を発表。朝鮮人民共和国は政府としての実態がないまま存在も否定された。
ポツダム宣言で朝鮮の独立を日本に求めたはずのアメリカが、なぜ朝鮮人民共和国を認めなかったかと言うと、独立を認める政府はあくまで 連合国の主導の下で作られるべきであって、降伏した日本の総督府と勝手に交渉して作った政府など、認めるはずはないから。そしてポツダム宣言に先立つヤル タ会談 はで、米英ソが「朝鮮は信託統治を経てから独立させる」と決めていたのだ。
こうして朝鮮人民共和国と建準はアメリカ軍の弾圧を受けるようになった。朝鮮人民共和国は「来年3月に総選挙を実施して、独立しよ う!」と呼びかけていたが、米軍政庁は10月10日「総選挙は軍政庁に対する最も重大な干渉であり、公然たる敵対行為である」という声明を発表し、朝鮮人 民共和国の解散を改めて命じた。建準は再び「建国同盟」を名を変え、各地の建準支部は「人民委員会」と改称して活動を続けた。地方では人民委員会が自治を 行い、治安隊が日本の敗戦で崩壊した警察に代わって治安維持を担っていたが、10月から11月にかけて米軍は南朝鮮各地に進駐して軍政庁を樹立。日本時代 に官僚や警官だった朝鮮人を再登用していった。呂運亨を当初「日本の手先」と警戒していた米軍は、や がて「容共主義者」とみなすようになっていた。
呂運亨は海外にいる李承晩や臨時政府関係者らが朝鮮人民共和国に加わってくれることを期待していた。しかし、 10月16日にアメリカから米軍機で帰国した李承晩は、米軍政庁への協力と「反共統一」を訴えて朝鮮人民共和国を非難。自らが中心となって新たに独立促成 中央協議会を結成し、総裁に就任した。一方で、11月下旬から12月にかけて中国から帰国した臨時政府の関係者らも朝鮮人民共和国を無視し、「大韓民国臨 時政府こそが政府の役割を担う正統組織」だと主張した。
李承晩にしても臨時政府の関係者にしても、終戦まで海外を拠点に独立を掲げて闘い続けた自負があり、呂運亨たちは「終戦のドサクサで朝 鮮総督府と手を結び、血を流さずに独立の主導権を握ろうとした連中」と映った。朝鮮人民共和国に合流することはプライドが許さなかったのだろう。
一方、38度線以北を占領したソ連軍は、8月下旬に38度線を跨ぐ交通や通信を遮断した。朝鮮北部の建準支部は曺晩植を中心に北朝鮮五道人民委員会連絡会議を結成し、朝鮮共産党と協力しながらソ連 軍から行政権を移譲されていたが、10月にソ連から金日成が帰国し、民衆から熱狂的に歓迎されると、主導権は金日成の手に移って行った。
南北統一による即時独立が不可能になった呂運亨は、軍政下で政治活動を行う道を選び、11月に朝鮮人民党を結成した。しかし地方では人 民委員会による自治活動が続いていた地域もあり、米軍政庁は12月12日に改めて朝鮮人民共和国は不法だと宣言。「「『政府』として行動を企てるような 組織の活動は違法行為となる」として、人民委員会を非合法化した。
呂運亨はUP通信のインタビューに対して、「アメリカが軍政府を樹立すると知っていれば、人民共和国を創設するようなことはしなかった だろう」と述べたという。
植民地から解放されたのに、混乱の中で命を落と した「英雄」たち
その後、朝鮮ではヤルタ会談による信託統治案が明るみになり、各政治勢力は賛成と反対に分かれて争い、左右合同や南北統一をめぐる動きも、李承晩派や金九 ら臨時政府派、韓国民主党、朝鮮人民党、朴憲永や許憲らが結成した南朝鮮労働党などが入り乱れて激しい抗争が続いた。呂運亨は46年7月から再び左右合作 運動に取り組み、米軍政庁の支援を取り付けて南朝鮮過渡立法議会を 創設したが、1947年に入ると右派の韓国民主党と左派の南朝鮮労働党が離脱して頓挫した。
結局、朝鮮の独立は南側が1948年8月に大韓民国として独立し、李承晩が大統領に就任。北側は翌9月に朝鮮民主主義人民共和国として独立し、金日成が首相に就任した。
朝鮮人民共和国の閣僚に名を連ねた主要メンバーのうち、許憲は北朝鮮へ移り最高人民会議の議長に就任したが、朝鮮戦争最中の51年に病死。
金九は李承晩に とって最大の政治的ライバルと目されたが49年に暗殺され、金奎植は朝鮮戦争中に北へ連行され病死、曺晩植は信託統治案に反対したことで45年末に金日成と対立して軟禁され朝鮮戦争中に殺害された。また、宋 鎮禹は45年末にテロで殺され、安在鴻は朝鮮戦争中に北へ拉致され65年に死亡、
朴憲永は南朝鮮労働党を率いて北朝鮮へ渡り金日成の最大のライバルになっ たが53年に失脚し、「朝鮮戦争を失敗させた米帝のスパイ」として55年に処刑された。
呂運亨も47年7月に右翼のテロで暗殺された。
しかし、左右合同と南北統一に最後まで情熱を傾けた人物として、今日の韓国と北朝鮮の双方で高い評価を受け ている数少ない存在だ。

世界飛び地領土研究会
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/korearepublic.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/index.html







上海の大韓民国臨時政府

満州の抗日パルチザン

呂運亨

米軍を歓迎するため仁川へ出迎 えた朝鮮人民共和国の支持者たち







李承晩大統領
呂運亨副大統領
許憲首相
金九内相
金日成
曹晩植財相





参考資料:
パク・チョルギュ 馬淵貞利訳 「朝鮮解放直後の社会運動"慶尚南道馬山地域を中心にして"」『東京学芸大 学紀要第3部門第55集』 (東京学芸大学 2004)
ラテンアメリカの政治 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/
ナルゲ http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/index.html
wikipedia   http://ko.wikipedia.org/

世界飛び地領土研究会
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/korearepublic.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/index.html







妄想の衝突
2019年09月12日 (木) 18:17
カテゴリ : 未分類
韓国人が1950年代以降、受け続けている歴史教育を概括的にいうと、
【李朝以降、朝鮮には「大韓帝国」という立派な独立国家があって、善政が敷かれ、国民は豊かな生活を謳歌していた。その素晴らしい国に、19世紀末に、突然、日本人がやってきて軍事力で朝鮮を占領し、文明を破壊し、資源を略奪し、植民地に変えた結果、朝鮮民衆は、幸せな生活を壊され、日本人の奴隷としての塗炭の苦しみに追い込まれた。朝鮮は、古代から優れた民族で、文化的にも高く、日本人に文字をはじめ文明を授けた。】というところで、こうした歴史観を、5歳くらいから、「パブロフの犬」のように、繰り返し繰り返し、教育によって洗脳され続けるのである。これでは、半数以上の韓国人が、「日本を懲らしめる」と、反日姿勢に凝り固まるのも当然だろう。
https://news.livedoor.com/article/detail/12846317/
https://ncode.syosetu.com/n4357cw/73/
実際のところは、どうか?
日清戦争の勝利を受けた下関条約で、それまで清の冊封体制隷属国であったのを、日本の介入によって独立させたのが大韓帝国で、李氏の血統を残して、日本皇室の血を入れるため、梨本宮方子が李垠=李朝27代=大韓帝国初代に政治的に嫁がされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%B9%E5%AD%90
18世紀の韓国は、ソウルでさえ、トイレのない家が大半で、道端がトイレ代わりになり悪臭に満ちていた。つまり、公共インフラらしき道路も上下水道もほぼ存在しなかった。およそ、文明国とはいえない現状はイザベラ・バードの探訪記にも詳しく書かれている。
https://www.youtube.com/watch?v=iWk3YmWQL5w
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B4%80%E8%A1%8C
為政者の両班階級は、とても残酷が好きで、激しい階級差別と奴隷制度があった。両班と手先は底辺の民衆を捕らえては拷問にかけ殺害したり強姦したりが日常茶飯だった。
https://hinode.8718.jp/photo_korea_torture.html
李朝は、見栄ばかりで無能な官僚によって自滅し、欧米が植民地にするために虎視眈々と侵攻を準備している現実を知り、日本政府は慌てて朝鮮を自国領とする工作を開始した。それまで、文明らしい文明の存在しなかった朝鮮社会に、短期間で近代文明のインフラを構築し、李朝下の奴隷制度や、「試し腹」といわれる近親相姦を禁止した。
https://leisurego.jp/archives/236281
日本が朝鮮社会を近代化したのは紛れもない事実である。その結果、わずか30年で、ソウルは見違えるような近代都市になり、世界のあらゆる文明都市と比肩しても見劣りしないまでになった。
https://www.youtube.com/watch?v=RMe07oF02Fg
https://www.youtube.com/watch?v=iWk3YmWQL5w
20世紀初頭、大韓帝国には小学校が40校しかなかったが、1940年代には1000校を超えている。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi02.htm
この結果、大半の朝鮮人は、日本人に対して、台湾と同様に、近代文明をもたらした日本に対し、強い好感を抱いていて、反日思想はほとんど存在しなかったともいえる。この時代、1920~30年代は、朝鮮の被差別下層大衆にとっては、日本社会は憧れの別天地であり、賃金が日本人の半分であっても、年間5万人もの人々が我先に日本に移住しようとした。徴用工・慰安婦問題には、こうした背景がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E5%BE%B4%E7%94%A8
しかし、日本が世界を相手に第二次世界大戦に突入すると、様相が一変し、1944年からは、徴兵代替としての強制徴用が開始される。戦争中の朝鮮民衆に対する扱いは、日本人でさえ450万人もの犠牲者が出たことから類推できよう。日本人は一等国民、朝鮮・台湾人は二等国民と区分され、日本人は生活を追い詰められるほどに朝鮮人を敵視し、友好的な姿勢を失っていった。こうした差別姿勢は、私の子供時代、1950・60年代ですら「チョンコロ・チャンコロ」などの差別用語が残るほど顕著であった。
すでに何度か書いたが、在日者は激しく差別され、まともな就職口はなく、唯一、プロスポーツ、芸能界、土建業界、ヤクザ社会、博打や歓楽街などの享楽業種のみに従事するしか生きてゆく手段がなかった。日本社会を熱狂させた、戦後、芸能界、プロスポーツ界のスーパースターの大半が在日者であった。力道山(金信洛)はもちろんだが、月光仮面のモデルも、原作者によれば大山倍達(崔永宜)だったそうだ。芸能界に至っては、今でも圧倒的な在日者の世界である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
当時の朝鮮・韓国人に対する差別の風潮を、私は、大阪西成区に類似した名古屋市中村区で、幼い頃から見聞きし続けた。同級生にはパチンコ産業開拓者であった正村の娘がいたし、歓楽街の頂点だった大門という赤線地帯を支配していたのは、大半が在日系ヤクザであり、同級生にも必ずたくさんの在日者がいた。彼らが、一様に在日者特有の差別を受けていた事実を私は目撃し続けた。だから、事情を知らない軽薄なネトウヨが、「在日差別は存在しなかった」などと主張するのには、怒りと軽蔑以外の印象はない。
だが、韓国本土の日本敵視は、李承晩時代から激しさを増した。それは、おそらく、戦時中の強制徴用労働者に対する人権無視の奴隷扱いに対する怒りが根底にあったのは間違いない。
日本人が韓国人と同等の待遇だったというのは、真っ赤なウソである。それは、例えば松代の天皇防空壕問題や雨竜ダム問題、など全国各地で、朝鮮人に対する虐待や虐殺があり、私の若い頃は、それを直接目撃した人もたくさん生きていて、証言している。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/23704/20170503/matsushiro-daihonei.htm
https://toyokeizai.net/articles/-/185509
http://eigyou.korea-np.co.jp/j-2008/06/0806j0121-00001.htm
https://johonage.exblog.jp/13655715/
これほどの国ぐるみの憎悪を引き起こすほど、戦時中の朝鮮人に対する扱いは苛酷だった。
「日本人と同等だった」と主張する者は、「日本人は偉大な民族だ」と勘違いしているネトウヨばかりで、実態をカケラも知らない者ばかりである。だいたい、今でもネトウヨが「チョン」という蔑称を多用している現実から歴史に向き合ってみたらいい。
しかし、一方で、韓国人による大韓民国発足後の歴史歪曲も甚だしいものがある。冒頭に紹介したように、「大韓帝国は素晴らしい国で、文化も高く人々が幸福な生活を送っていたのを日本人がやってきて、ぶち壊した」という主張も、ひどいウソであることは、上の方にリンクしたイザベラバードの紀行文を見れば一目瞭然だ
李朝も大韓帝国も文化的に極めて素養の高い国で、日本人に文明を教えた。古代でも、百済は王仁という博士を日本に派遣し、言語や、あらゆる文化を教授した。 https://www.shoai.ne.jp/hirakata-s/minwa/f151001/f151001.html
出口王仁三郎が名前を取った王仁博士というのは、実在の真偽は不明であるが、これは日本書紀に記録されている弓月氏らのことを指すのだろう。現実には、王仁博士が実在したとしても、百済人であるとするなら、それは韓国人の先祖ではない。むしろ、天皇家=騎馬民族の先祖であり、女真族である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B
すでに、このことは何度も書いているが、現在の韓国人の先祖は、DNA検証によって、濊族=エベンキ族であることが明らかにされているが、この研究成果を韓国人学者が公開してから数日以内に、あらゆる文献から、このことが削除されてしまった。韓国は、自分たちを彩る空想小説に合致しない歴史的事実は、たちまち隠蔽し尽くすのである。あくまでも、自分たちを讃美し続ける夢の世界に住み続けたいのだ。
https://kirari-media.net/posts/184
http://check.weblog.to/archives/4051080.html
夢の世界に生きる「夢追い人」が韓国人の本質なのである。しかし、それを日本人が批判できるだろうか? 否!日本人もまた、優越的空想・妄想に酔い痴れ、ナルシズムに夢中になってきた。だからこそ、妄想どうしの衝突が起こり、日韓対立が生まれるのである。そもそも、平泉澄東大史学部教授が作り出したといわれる皇国史観は、優越妄想に満ちた虚構にすぎない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A6%B3
そもそも、万世一系、2600余年前に高千穂に降臨したという日本武尊なんて存在は、漫画の世界だけに存在する虚構であることは誰でも分かるはずなのに、本気で信じている人がいまだにいる。
私の推理では、2600年前に呉越戦争があり、呉国が破れ、当時の戦争の掟では、敗戦国住民は生き埋め(坑刑)で皆殺しにされることが多かったので、水郷地帯(蘇州)にいた呉人は、大量の船で日本や朝鮮南岸に移住したと考えるべきである。これは中国の史書にも、たくさん掲載されている歴史的事実である。
中国では早くから、日本は太伯の末裔だとする説があり、たとえば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝、『梁書』東夷伝などには、倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とある。同様の記述は南宋の『通鑑前編』、李氏朝鮮の『海東諸国紀』や『日東壮遊歌』等にもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2
つまり、呉は国ぐるみ敗戦により、船で移住し、一部は朝鮮南岸へ、多くは九州北岸や有明海に上陸し、弥生人国家を作り、やがて邪馬台国が生み出された。それから、ヤマト国・倭国(朝鮮南岸を含む)の800年くらいの歴史を経て、こんどはAD300年くらいから、百済が国ぐるみで日本列島に移住し、高句麗・百済由来の女真族=騎馬民族が大量に日本列島西部に流入し、江上波夫が明らかにしたように、ヤマト王朝を簒奪したと私は考える。反江上説については、DNA解析上の証拠が出されているが、私は信用できないでいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC
理由は、江上説を誹謗する学者の多くが、皇国史観系の影響を受けている人物ばかりだからである。そもそも、皇国史観=平泉澄の本質は、「豚に歴史がありますか?」なのだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-827.html
つまり、神武以来の万世一系伝説を壊す江上波夫説に対する敵意が満ちていて、DNA解析を根拠にしていても、いくらでも突っ込みどころがあり、民族学・民俗学と完全に矛盾する論理を見せているし、弥生人を蘇州由来でなく、朝鮮人とするようなトンチンカンな学説もあり、私には信用に値するものではない。私に言わせれば、皇国史観もまた、朝鮮・韓国人の「偉大な大韓帝国」とよく似た夢想・妄想にすぎない。どちらも、現実を無視した夢追い人であるから、夢同士が齟齬を起こし、矛盾の連続で不協和音を奏でている。
そもそも、民俗学をきちんと学んだ者なら、天皇が切れ長の目、一重瞼で、感想耳垢で、すらりとしていて、と知るだけで、ツングース由来とピンとくるものだ。由緒正しき皇族で二重瞼がいるか? つまり彼らは源平藤橘の末裔だからだ。目の大きな二重瞼の小柄で小太りな体型を見ただけで、これこそ弥生人と理解できるのであり、彼らこそ、日本に稲作を持ち込んだ救世主だった。だからこそ、天皇が高句麗由来の騎馬民族末裔であることなど一目瞭然なのである。こんな基礎的な民俗・民族検証も無視して、何が皇国史観だ、笑わせるな!そもそも、いずれも、人間は「ただの人」であるという究極の本質的な現実認識からかけ離れ、雲間を泳ぐ殿上人であるかのような勘違いの妄想から抜け出せないでいるのだ。
「この世には、地球と人しかいない」
という現実を直視できず、「偉大な大韓国」とか、「偉大な皇国日本」とかの現実には存在しえない軽薄な妄想に酔いしれているのだ。その意味では、「偉大なアメリカ」を連発するトランプも同じ穴の狢である。我々は、地球と人しかいない現実の上に論理を組み立てなければならない。イムジン河の上を飛び交う鳥も、魚も、獣も、国境など何の関係もない。実は人も関係ないのだという現実を認識することが、日韓共和の第一歩であり、妄想の夢から覚めて、惨めな弱い人間である価値観を共有することこそが、日韓問題解決の第一歩である。
 
東海アマブログ
http://tokaiama.blog69.fc2.com   









北朝鮮建国


朝鮮人民軍誕生史
お待ちかね、北朝鮮シリーズの第一弾「朝鮮人民軍の誕生」である。
朝鮮人民軍、ひいては北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の歴史を語る上では北朝鮮の公式史観も紹介しつつ、同時にそれが歴史的事実とそぐわない場合はその旨も特記しておく。
しかし北朝鮮の公式見解を何が何でも虚構と断じたい一部人士のようにはならず、公平な視点から著述していきたい。
・金日成の抗日武装闘争
朝鮮人民軍の誕生については、北朝鮮の公式史観と実際の経緯とでは大きな相違がある。
北朝鮮の公式見解では、数年来、抗日革命の道に立っていた金日成が1931年12月に『日本帝国主義に反対する武力闘争を組織し展開することについて』
と題された演説を行い、これを踏まえて1932年4月25日に抗日パルチザン部隊「朝鮮人民革命軍」が創建されたのを以て朝鮮人民軍の創建記念日(建軍節)としており、これ以前には組織的な抗日闘争は存在しなかったとされている。世にいう「抗日パルチザン神話」である。
金日成が朝鮮で最初に組織的な反日運動を開始したという神話は歴史的事実に反するが、金日成の抗日運動が全て否定されたわけではない。
このころ韓国併合から20年を経て朝鮮人の自主独立への渇望と自らを抑圧する大日本帝国にたいする憤怒は大いに高まっており、
すでに朴憲永などの共産主義指導者や、曹晩植などの民族主義指導者らが朝鮮独立のため有形無形の闘争を展開しており、共産主義に基づく武装革命路線も盛んに行われていた。そのひとつに中国共産党が指導する部隊「東北人民革命軍」があった。そしてその隊員名簿に一中隊長として金日成の名が見られる。
従って、朝鮮人民革命軍の創建が神話・虚構であっても、金日成が抗日武装闘争へと身を投じていたという事実は否定しようがないのだ。
当時の多くの朝鮮人青年たちと同じように金日成もまた祖国解放の熱情にあふれていたことだろうし、そうした日々のなかでマルクス=レーニン主義に朝鮮解放と共産主義革命の希望を見出したのも、当時の青年としては至って普通の動機だったろう。
さて、中国共産党指導のもとで反日運動を展開し1938年の普天堡戦闘で大きな戦果を挙げた金日成だが、1940年ごろには日本の軍隊と官憲による激しい攻撃を受けてソ連領内への逃亡を余儀なくされた(もちろん北朝鮮の公式見解では、この時期も白頭山に根拠地を築き朝鮮領内に踏みとどまっていたとなっている)。
ソ連領内での金日成は同じく朝鮮人共産主義者でパルチザン部隊員だった金策、姜健、、金一、崔健、呉振宇ら(彼らは「満州派・パルチザン派」と呼ばれ建国後は党と軍と国家の要職を独占する)や崔庸健などの甲山派(朝鮮共産党からの合流組、のち粛清)の一部とともにソビエト赤軍「第八十八偵察旅団」に所属し、将来起こるであろうソ連の対日参戦に備えた。
またこの時期、金日成の後継者として権力を継承することになる金正日(ロシア名:ユーリ・イルセノビッチ・キム)が誕生している。
・日本降伏と金日成
1945年8月15日の日本降伏後、金日成と満州派は密かにソ連軍用船「プガチョフ号」に乗船して元山港に到着して帰国した。
(金日成の帰国について北朝鮮の公式史観はソ連軍の対日攻勢が発動されている有利な状況の下で金日成以下の人民革命軍が祖国を解放した、と説明する)
また解放後ソウルに帰還した朝鮮共産主義運動の大物・朴憲永が戦時中に日本によって解体されていた朝鮮共産党を再建すると、金日成は10月10日にソ連の支援のもと朝鮮共産党北部分局を組織。これが後に北朝鮮労働党を経て朝鮮労働党となる。
そして10月14日には平壌でソ連軍を解放者として歓迎する祝賀大会が行われ、そこで初めて金日成が朝鮮群衆の前に立った(北朝鮮の公式史観では、この祝賀大会もソ連軍の歓迎ではなく、あくまで金日成将軍の凱旋を祝賀する大会だったとされる)。
この大会は朝鮮近現代史のうえで重要な意味を持つ。
すなわちソ連側が金日成を公式に北朝鮮の指導者に据えることを表明したからである。
北朝鮮地域におけるソ連軍政のトップであるチスチャコフ大将や政治局のレベジェフ少将は、反抗的な民族主義者である曹晩植などよりもソ連に従順にふるまう金日成こそが共産主義の朝鮮に最もふさわしい指導者と考えたようで、チスチャコフのバックにいるソ連内務大臣ベリヤを通じてスターリンがOKしたという話である。
しかし金日成はソ連の後押しだけで指導者の地位に就いたわけではなく、やはり銃の力があってこそだった。
・ソ連軍政下の金日成
8月15日の日本敗戦後ソ連軍が朝鮮北部に進駐する24日までの間、朝鮮北部は一時的に無政府状態となった。
そこで民族主義者の曹晩植が16日組織した建国準備委員会は、機能を喪失した日本官憲に代わり治安維持組織として「自衛隊」をつくった。
また共産主義者の玄俊赫は「治安隊」を組織したが、自衛隊も治安隊も所詮は自警組織にすぎず、将来の軍隊に発展する素地は見当たらなかった。
だが同じ共産主義者でも33歳の若き金日成は一味違っていた。接収した日本軍の武器を手に「赤衛隊」を編成したのである。
これらはソ連軍が公布した武装団体の解体命令によってほどなく解体され、代わりにソ連主導の「保安隊」が生まれ指導者に金日成が選ばれた。
保安隊は主に平壌を中心とした部隊であったため地方都市の治安維持が不安になってきたのと、朝鮮領内にある工場を戦利品としてソ連本土に鉄道輸送する必要から、新たに鉄道保安隊(のち鉄道警備隊に再編)が結成され、やはり金日成が隊長に指名された。
金日成は他の政治指導者が林立する国内でただ一人、13個中隊もの軍事力を手中におさめ、実力の点で他のライバルより有利な位置に立った。
こうしてソ連の強い影響下のもとで進められていく新国家建設に中国共産党は危機感を抱き、個々人ごとに武装解除した上で編入するとの条件付きで
中国共産党の息がかかった朝鮮人部隊(司令官:武亭)を送り込んだ。
・朝鮮人民軍の誕生
1947年までには装備や軍制をソ連式に整備、鉄道警備隊はミニソ連軍の様相を呈すまでに成長した。
すでに米ソ間で協議されていた朝鮮半島の統一国家を建設する米ソ共同委員会が決裂し、朝鮮半島分断が決定的となった以上、軍隊の保有は早急に行わねばならぬ事態であった。
1948年2月8日、朝鮮民主主義人民共和国の建国に先駆けて朝鮮人民軍の建軍が宣言された(ただし公式史観では前述のとおり1932年4月25日が創建日である、また朝鮮労働党の創建日も南労党などを吸収する以前の1945年10月10日に設定されている)。
事実上の国防省である民族保衛省が設置されて崔庸健が大臣に任じられ、朝鮮人民軍最高司令官には金日成が着任した。
ここにソビエト軍の思想・装備両面からの支援を受け、マルクス=レーニン主義で武装する革命的軍隊・朝鮮人民軍は誕生したのだった。
建軍当初は2個師団と1個混成旅団の戦力だったが、1950年の朝鮮戦争開戦までには10個師団に各1個戦車旅団・連隊を保有するまでに増強された。
なお1948年9月の建国直後から開始された在朝鮮ソ連軍の撤退は同年12月までには完了し、以後の北朝鮮は北南統一に向けた戦争へと向かっていく。
・参考文献
金日成の軍隊 朝鮮人民軍の全貌(青田学、教育社)
超軍事国家 北朝鮮軍事史(塚本勝一、亜紀書房)
北朝鮮 遊撃隊国家の現在(和田春樹、岩波書店)
北朝鮮 軍と政治(塚本勝一、原書房)

総力戦研究所
http://www.geocities.jp/totalwar1939/koreanarmy.html
http://www.geocities.jp/totalwar1939/socialism.html
http://www.geocities.jp/totalwar1939/index.html