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スラヴ諸種族との戦い

0950
ИсторияКиевскойРуси
キエフ・ルーシの歴史 
伝説から歴史へ
一歩前進・二歩後退
1、ポリュージエの時代
『帝国統治論』という書物があります。ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトス(在位913~959年)が息子ロマノスのために書き記したもので、その標題が示す如く、帝国の舵取りをおこなう上で指針となる様々な方策を納めたものです。巧みな外交術を誇ったビザンツのこととて、周辺の諸「蛮族」をいかに操るべきかが事細かに述べられているのですが、その中にはルーシについての興味深い情報も含まれています。
コンスタンティノスによれば、ロース(ルーシ)の人々は厳しい冬の間、次のような生活を営んでいました。
すなわち彼らは自らの指導者に率いられてキエフを出、スラヴの諸種族の居住地をまわり、そこで「養われて」すごす。
4月、ドニエプルの氷が溶けると再びキエフに戻り、船を艤装して船団を作り上げると、そのまま川を下って帝国にやって来る。
その先のことについては皇帝は記録していませんが、おそらく彼らはコンスタンティノープルで商いをおこなった後、冬になる前に北へと戻っていったのでしょう。
皇帝はまた、「ポリュージエ」(πολυδια、полюдье)という言葉を紹介しています。
これは通常「巡回徴貢」と訳されています。すなわち冬の間、公に率いられた人々が各地を訪れて税の取り立て、または寄食を行ってまわることを意味する用語なのです。
通信・流通の手段が話にならないほど原始的であったこの時代、首都に居ながらにして税を集めるよりは、各地をまわって直接集める方が確実だったのです。これはルーシ特有のものではなく、初期中世の西方においても「移動宮廷」方式が行われていました。
冬は支配地をめぐり歩いて寄食生活をし、また貢税を取り立て、夏にはそれを持ってコンスタンティノープルに行き、そこで交易を行う…これが当時のキエフ公の生活サイクルであったと思われます。
2、イーゴリの戦い
『帝国統治論』にはルーシの公としてイーゴリ(及びその子スヴャトスラフ)の名が挙げられています。
半ば伝説的存在であったオレーグに比べて、イーゴリの歴史的実在性ははっきりしています。
ただし年代記に見える彼の事績は、前任者オレーグのそれと非常に類似したものと言えます。
オレーグと同様、イーゴリもまたキエフ周辺のスラヴ諸種族との戦いを始めています。
代替わりしたばかりの新しい公がその権威を周囲に認めさせるためには、武力に頼ることが必要だったのでしょう。
とりわけドレヴリャーネ族は強力な集団で、キエフの権威をなかなか認めようとしない頑強な抵抗者でした。
イーゴリは彼らを打ち負かし、「オレーグのときより」高い貢税を課しています。
一方この時代には南方遊牧民の世界にも変化が生じています。ステップ地帯の雄であったハザールの弱体化に伴って、新たな遊牧民であるペチェネグ人が東方からやって来たのです。ルーシがペチェネグと交戦した最初の記録はイーゴリ時代のものです。対ペチェネグ関係は、11世紀に至るまでキエフ公の課題の一つとなりました。
941年、イーゴリは大軍を率いてコンスタンティノープル遠征の途につきます。略奪と賠償金によって富を獲得し、また遠征の成功によってキエフ公の威信を上昇させるまたとない機会だったのですが、この度の結果は散々でした。年代記によれば「グレキ(ギリシア人)は自分のもとに天の稲妻のようなものを持っており」、これを用いてルーシの艦隊を焼き払い、撃退することに成功します。ビザンツ軍は有名な秘密兵器(形容矛盾か?)、「ギリシアの火」と呼ばれる一種の火炎放射器を持っており、この時もそれを有効に使用したようです。
しかしその数年後(945年)、イーゴリは新たに帝国と通商条約を結んでいます。
ルーシにとって対ビザンツ貿易は重要なものであり、遠征の失敗によって帝国から有利な条件を引き出すことには失敗したにせよ、この種の条約を欠かすことはできなかったことがわかります。
『原初年代記』に見える以上のようなイーゴリの活動は、『帝国統治論』の記述とちょうどコインの裏表の関係にありました。
『統治論』に見える巡回徴貢や貿易は平時の、いわばノーマルな状態のもので、もし諸種族が(例えばドレヴリャーネのように)税の貢納を拒否すればそれに対しては「懲罰」として戦いが行われたであろうし、またコンスタンティノープルへの貿易行も、条件が整えば大遠征に転化することもありえたのです。従って、公にとっては常に「有事」に備えることが必要だったのです。
3、もしも狼が絶えず羊たちのところへ…
こうした武力のみに頼っての支配政策は、当然のことながら不安定なものでした。
他ならぬこの弱点が、イーゴリの命取りにもなってしまったのです。
945年、イーゴリは例のドレヴリャーネ族のもとへ貢税を取り立てにいき、却ってその反撃にあい殺害されてしまいます。
『原初年代記』によれば、イーゴリはドレヴリャーネからすでに取り立てがすんでいたにもかかわらず、再度徴収に向かったのでした。
あるいはビザンツ遠征の失敗をここで埋め合わせようと焦ったのかも知れません。
しかしドレヴリャーネはイーゴリの貪欲に黙って耐えることはしませんでした。
彼らは「もしも狼が絶えず羊たちのところへやって来てそれを人々が殺さなければ、それは群全部をくわえ出す」だろうと考え、実際そのように行動したのです。
またこの時イーゴリにつき従う従士団の数が少数であったことも、この悲劇の原因でした。
ビザンツ史料によるとこの時イーゴリは二つの木に縛り付けられ、真二つに引き裂かれるという残酷な殺され方をしたようです。
もってドレヴリャーネ族の憎しみの程がわかるのですが、軍事的な優位のみによる支配は、そのバランスが崩れた時にこうなる危険性も充分あったのです。
年代記はこの時のドレヴリャーネをマルという名の公が率いていたと書いています。
つまり彼らは自前の指導者を持つ強力な集団でした。
一方残されたイーゴリの子・スヴャトスラフはいまだ幼く、状況次第によってはキエフ中心の支配体制が、言い換えるならルーシ国家そのものが存亡の危機を迎えていたわけです。
さてドレヴリャーネを初めとする諸種族はキエフの桎梏を逃れて自由を回復することができるのか、はたまた巻き返しを計るリューリク家の力の前に屈するのか。それは次回のお楽しみであります。
(98.12.19)

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0600
キエフ・ルーシ前史1(最古の時代から9世紀まで)
もしくは記録がなくても記録に値するものがない訳ではない、という話
1、最古の時代
どうでもいいことですが、「です・ます」文体と「だ・である」文体とではどちらが読みやすいものでしょうか?
自分で書いていてもよくわかりません。とりあえずこちらの書き方でやっていきます。
それでは、始めることにしましょう。
ロシア(ルーシ)人自身が自らの歴史を記し始めたのはキエフ国家が成立して後のことであり、年代にすると11世紀以降になります。それまでの長い期間、例えば地中海世界でギリシア・ローマの文明が栄えていたころ、現在のロシアに当たる地方で何が起こっていたか、については、周辺民族からの観察による限られた史料しか残っていません。
これはロシアのみならず全てのスラヴ民族についても同じことで、彼らは歴史に登場することの遅かった、いわば若い民族であったのです。
さて、スラヴ人は当時の記録者であったギリシア人やローマ人から非常に離れたところに住んでいたため、その記録はしばしば具体性を欠き、不正確なものでした。また僻地に住む「野蛮人」への偏見ゆえ、記述が歪められた可能性もあります。
例えばギリシアの歴史家である有名なヘロドトスは、「黒海の北にネウロイと呼ばれる民が住んでおり、彼らは一年に一度狼に変身する」という情報(うわさ話?)を伝えています(紀元前5世紀頃)。これはスラヴ人のことだと考えられています。ほとんど怪物扱いです。もっとも、スラヴ世界に広く存在する「人狼伝説」を研究する上では貴重な証言になるのですが。
2、草原の住人たち
ここで強引に時代を下らせましょう。ローマ帝国末期、いわゆる「民族大移動」が始まると、ロシアの地も大きな変動に見舞われることになります。それにはロシアの地理的条件が大きな意味を持っていました。
ロシアのランドスケープというと「地平線まで広がる広大な草原」を思い浮かべる人も多いと思います。実際、南ロシア・ウクライナ(つまり黒海の北岸地方)には険しい山地もなく、また温暖な気候にも恵まれて、さえぎることのない草原が広がっていました。
この草原地帯はまた中央アジアのステップと連続しており、それゆえ昔から東方の遊牧民たちの活動の舞台となってきました。この事実は記憶しておいていいと思います。後にヨーロッパ世界へ進入した遊牧民たちは、皆この地を通過して西方に進んでいます。つまり南ロシアの草原は、東方の遊牧民たちにとって恰好の通り道であるか、または西へ進む前に力を蓄える休息地であったのです。
さて、「民族大移動」のきっかけとなったといわれる有名なフン族の西進(4世紀)以降、南ロシア平原は騒がしさを増すことになります。フン族に続いてアヴァール人、そしてマジャール人などといった遊牧民が次々にこの地に現れました。しかし彼らはいずれも西方に戦いを挑む道を選び、南ロシアに定着することはありませんでした。
ちなみに、その状況を地図で表すと下のようになります。黒の矢印が遊牧民の流れだと考えて下さい。彼らはこうして、南ロシアのステップを横切り、西の彼方、ヨーロッパ世界へと向かっていったのです。
キエフ国家成立前夜(8~9世紀)において、南ロシア平原を支配していたのはハザール人でした。
「ハザール」とは耳慣れない民族名かもしれません。
彼らは完全な遊牧民というよりは半定住民で、商業をも営んでいました。
また彼らは、支配層の宗教としてユダヤ教を選択するという、世界史上まれな民族としても知られています。
しかしながら、彼らがロシアの北部にまでやって来ることはありませんでした。
ここには鬱蒼たる森林が広がり、遊牧生活に慣れた彼らの行く手を阻んでいたからです。
森林と草原、この二つはロシアの歴史にそれぞれ異なる影響を与えた二大元素であると言えます。
キエフ国家を築いた東スラヴ人が生きていたのはこのような森林の中でした。
元来農耕民族であるスラヴ人は、森林を開墾し、耕地に変えることで、自らの生活空間を広げていきました。
彼らが「ルーシ」の名で歴史に登場するのはもう少し先のことです。
「土台作り」はそろそろ終わり?
1、ビザンツ帝国
かつて地中海世界を支配していた大ローマ帝国も、前章で触れた「民族大移動」が始まる頃には、すでに昔日の面影を失っていました。
その後も続く内憂外患の中で、帝国は東西に別れ、そしてその西半部は476年に早々と消滅してしまいました。しかし新たな首都コンスタンティノープルを含む東半部は、この後1453年に滅亡するまで生きながらえることになります。これが、今日東ローマ帝国ともビザンツ帝国とも呼ばれている国家です。
ビザンツ帝国は当時のキリスト教世界で例外的とも言えるほどの高い文化を誇っており、特に首都コンスタンティノープルは、その莫大な富と繁栄ぶりとで有名な存在でした。ビザンツ人は同時代の西ヨーロッパ人を粗野な田舎ものとしか見ていませんでしたが、その傲慢な態度もまったく根拠のないものではなかったのです。
コンスタンティノープルの繁栄ぶりは、比較的近くにあったキエフにも当然届いていました。ロシアでは長いことコンスタンティノープルを「ツァーリグラード」、つまり「皇帝の街」という名で呼んでいましたが、これにはこの街に対するロシア人たちの、一種独特の敬意が込められていると思われます。
ただしビザンツ人にとっては、ロシアの地など北の彼方の「暗黒大陸」にすぎず、そこの住人へ関心を持つこともありませんでした。しかしこの大帝国とルーシとは、将来において重要な関係を持つ運命にありました。
2、ノルマン人がやってきた
8世紀から11世紀にかけて、西欧諸国はスカンディナヴィア半島に住むノルマン人たちの襲撃に悩まされます。いわゆる「ヴァイキングの襲来」ですね。ただし彼らは必ずしも略奪だけを目的としていたのではなく、同時に商人でもあるという側面を持っていました。いずれにせよ、彼らは優れた戦士であり、航海者であり、そして恐れを知らない冒険者でした。その一部は遠く北アメリカにまで達したと言われています。コロンブスの航海より400年以上も前のことです。
この当時、ノルマンの冒険商人たちはロシアにも現れました。ただしその最終的な目的地は例のコンスタンティノープルであり、ロシアは単なる通過地点にすぎませんでした。
「海の民」という印象の強いノルマン人(ヴァイキング)たちが、どうやって広いロシアを通っていったのか、と思われるかもしれません。しかしロシアの自然条件は彼らに便利な通り道を用意していました。それは川です。
ロシアの川は概して幅広で、流れがゆるく、船の航行には適していました。また川の数が多く、かつ山地が少ないため、一つの川から別の川に移るのは容易なことでした。
従ってノルマン人たちは、その気になれば川をさかのぼり、適当な地点から船を陸揚げし、それを引きずって別の川(水系)に移動することもできました。彼らはこの方法で、バルト海から川をさかのぼり、そして黒海に流れ込む南向きの川に「乗り換えて」、ビザンツを目指したのです。
ノルマン人たちが、「通り道」にいるスラヴ人たちよりも軍事的に強力であったことは間違いありません。従って彼らはコンスタンティノープルに向かうとき、スラヴ人からここでとれる商品を調達したり、また自らの配下として連れ去ったりしました。当然ながら、わざわざ遠いスカンディナヴィアに戻るよりは、この地に腰を据えるグループもいたと考えられます。彼らはまた、地元のスラヴ人からは「ヴァリャーギ」という名で呼ばれていました。
3、キエフの3兄弟
今まではルーシよりもその周辺の住民について多く語ってきました。ここで、肝心の東スラヴ人について書く必要があるでしょう。
キエフ国家成立直前の東スラヴ人については、すでにある程度の記録が残されています。それによれば、彼らはいくつかの種族に別れて生活していたようです。当然ながらこれは血縁的な集団であり、外部に向かって広がることはありませんでした。
年代記によれば、かつてポリャーネという種族にキー、シチェク、ホリフという3人の兄弟がおり、人々は長兄キーの名にちなんでキエフの街を築いた、のだそうです。これが一応都市キエフに関する最も古い記録とされています。ちなみにこれが起きた年は記されていませんが、初めて年代が記される852年よりも前の箇所なので、少なくともこれ以前の出来事として設定されていることになります。
このエピソードは、現実の出来事かどうかはおくとしても、非常に興味深いものと言えるでしょう。まず第一に、ここでキーはポリャーネ族の「公」と呼ばれ、また彼らの死後にその一族がポリャーネの中で権力を持った、とされています。つまり、すでに種族集団の中で世襲の権力が現れたことが示唆されているのです。
第二に、このポリャーネと呼ばれる集団は年代記作者によって「特別扱い」をされています。ポリャーネ以外にドレヴリャーネ、ラジミチ、セーヴェルなどの種族の名が挙げられていますが、彼らは穏和なポリャーネとは違って野獣の如き粗雑な連中であった、ときめつけられています。
これは、実際にポリャーネの性格がどうであった、という問題ではなく、キエフの建設者であった彼らポリャーネこそが、後のルーシ統一の中心となった事実の反映であったと解釈すべきでしょう。つまり後世の年代記作者によって美化されている、というわけです。ノルマン問題とのからみで、興味深い記述と言えます。
ところで森の住民であった彼らスラヴ人は、今までに述べた強力な隣人に取り巻かれていました。年代記によれば、ポリャーネを含む南方のスラヴ諸族は南方遊牧民のハザール人に、北方の諸族はノルマン人に貢税を払っていたようです。
スラヴ人たちにとってこうした状況が不本意であったことは間違いないでしょうが、彼らが種族ごとに分散し、国家としてのまとまりを欠いているうちは、そこから抜け出すことは出来ませんでした。
さて、次回はいよいよ「キエフ公国」建国(のハズ)です。正直、前史でこんなにかかるとは思いませんでした。やっと世界史の教科書に出てくるレベルの話になりそうです。乞うご期待。

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0862
ルーシのはじまり
どこの国でも建国神話ははっきりしないもの
1、ロシアのノルマン・コンクエスト
「…9世紀、リューリクに率いられたノルマン人たちがロシアに到来してノヴゴロド公国を建設した。
彼らは更に南下してキエフ公国をたてたが、その後急速にスラヴ化していった」
高校世界史の教科書に出てくるロシア史のはじまりは、概ねこんな感じだろうと思われます。
非常にあっさりしたもので。で、現実にはどうだったのだろうかというのが本章の話題の中心です。
ロシア人自身の手による最も古い歴史書、『原初年代記』によれば、この事件はだいたい次のような経過をたどるものでした。
862年、それまでヴァリャーギに支配されていたスラヴ人が立ち上がり、彼らを海の彼方に追い払った。
しかしスラヴ人たちは自らを治めることができず、諸種族の間に争いが起こった。
そこで彼らは合議の結果、再びヴァリャーギのもとに使いを送ってこう言った。「私たちの国全体は大きく豊かですが、その中には秩序がありません。
公となって私たちを統治するために来て下さい」(※)。
そこでリューリクとその弟シネウス、トルヴォルに率いられた「ルーシ」がスラヴの地にやって来た。
リューリクはノヴゴロドに座し、人々を治め始めた。ここから「ルーシ」の国はその呼び名を得たのである(※)。
一見したところ、「ノルマン人によるルーシ国家の建設」には疑問を差し挟む余地がないかのように思われます。しかしながらこの記述は見かけほど単純なものではありません。
まずリューリクその人についても、ロシア以外の資料でその存在を確認することはできず、その実在はかなり疑わしいものとなっています。またノルマン人の中に「ルーシ」という種族名が存在したこともはっきり確認できるわけではありません。要するにこの記事は、半ば伝説的なものであって、そのまま事実を記録したとは考えられないのです。
ただ、具体的な人名などは除いて、この時期ルーシ北部に現れたノルマンの一隊が土着のスラヴ人を支配していたこと、彼らがノヴゴロドを根拠地としたこと、は事実と見ていいと思われます。伝説のように彼らが平和的に「招かれて」来たのか、或いはスラヴ人の抵抗を排除してその上に君臨したのかはわかりません。確実なのは、今や「ヴァリャーギからグレキへの道」の北端がノルマン人政権の支配下にはいったということでした。
ところで『原初年代記』はまた、リューリクの家臣であるアスコリドとジルという者が、ドニエプルを下ってコンスタンティノープルに向かう途中、ハザールの支配下にあったキエフの街を発見してここに住み着いた、と書いています。
これもまた事実としては疑わしい記事ですが、ノルマン人の中でもより南方に達していた者がいたことは確かでしょう。
ただ彼らはノヴゴロドからの統制には服していなかったようです。
つまりルーシの北と南は、いまだ一つにまとめられてはいませんでした。
2、ノヴゴロドからキエフへ
こうしてノヴゴロドを手中にしたリューリクですが、年代記でも彼の事績はほとんどまったく伝えられず、早くも879年には死んでしまうことになっています。この辺りのいい加減さも彼の実在性にマイナスの印象を与えていますが、しかしその後を継いだオレーグの活躍は年代記でも大きく取り上げられています。
伝えられるところによればオレーグはリューリクの一族の出身で、リューリクの遺児であるイーゴリがまだ幼かったために摂政のような形で公の位についた人物でした。原初年代記にはイーゴリが成長してからも「彼の言うことを聞いていた」とあり、オレーグによる支配が正当なものと見なされていたことを物語っています。
882年、彼はイーゴリを奉じて南へ向かい、ドニエプルを下ります。アスコリドとジルは奇計によって殺され、キエフはオレーグの手に落ちました。彼は街に向かって「お前こそルーシの町々の母となれ」と呼びかけ、こうしてキエフはルーシの首都としての地位を約束されたのでした。
この事件は、ロシア史上において大きな意義を持っています。有名な「リューリク招致」よりも、その重要性においては上だと言うことさえできるでしょう。リューリクのノヴゴロド制圧は、例えそれが事実であったにせよ、ロシアを貫く「ヴァリャーギからグレキへの道」の北端をノルマンの一隊が押さえたに過ぎません(地図でもう一度確認することをおすすめします)。しかしオレーグのキエフ入城は、今や南北の水系が一つの権力の支配下に入ったことを意味するものであり、ルーシ全土の統一が行われたに等しいのです。
実際のところ、「882年」という数字も、またこの事件の具体的な経過も、依然として「伝説」というオブラートにくるまれており、これが事実であるというはっきりとした証拠はありません。
しかしながら「リューリク招致」伝説と同じく、重要なのは事件の具体性ではなくそれが象徴する内容であると言っていいでしょう。すなわち9世紀末期頃、南北の水系はキエフを中心として統一され、ここにルーシ国家はその第一ページを開いたのでした。
ちょうど同じ頃の日本は平安時代にあたります。中国文化圏では辺境であった日本でも、この時代には華やかな貴族文化が咲き誇っていました。また目を西方に転ずると、強大なフランク王国はすでにその統一期を過ぎ、今まさに分裂せんとするところでした(870年メルセン条約)。
従って、この時代にようやくスタートラインに立ったルーシは確かに「遅れてきた」国家であったのですが、それだけに先進的な文明国にはない「若さ」を持っていたと言えます。
3、諸種族の統一に向かって
こうしてキエフを押さえたオレーグでしたが、その権力がすぐに周囲のスラヴ諸族の上に及ぼされたわけではありませんでした。従って、まずは反抗的な種族を武力で服属させることが、キエフの新しい政府に求められた最初の仕事だったのです。
『原初年代記』によれば、オレーグはドレヴリャーネ、セーヴェル、ラジミチといったいくつかの種族と戦い、これを打ち負かして貢税を課すことに成功しました。ここで注目すべきは、キエフの建設者であるポリャーネ族が戦いの対象になっていないことです。
これは、ポリャーネが「体制派」としてキエフの側にあったことを物語っています。おそらくはオレーグが引き連れてきたヴァリャーギだけで数的に優勢なスラヴ諸族をまとめきれるものではなく、在地の勢力の力も借りていたのでしょう。言われるところの「ノルマン支配層のスラヴ化」も、この辺りからすでに始まっていたと思われます。
また同じ年代記の記事では、それまでハザールに貢税を治めていた種族に対して、オレーグは「ハザールには納めないで私に納めよ」と言っています。当時ハザールの影響は意外なほど広く東スラヴ諸族に及ぼされており、ルーシ世界はいわば南方(ハザール)と北方(ヴァリャーギ)双方向に引き裂かれていたと言えます。従って南方からの引力を断ち切り、キエフを中心とした求心力を新たに創り出すことが緊急の課題となっていました。
さらにハザールに治めていた貢税からの「開放」は、諸族に対してキエフの支配を認めさせる大義名分となり得ました。実際オレーグはハザールに貢納していた種族をうちまかした後で「軽い貢税を」課したという記事もあります。このように硬軟を巧みに使い分けながら、オレーグは徐々にルーシの支配権をその手に集めていきました。
4、コンスタンティノープル遠征と対ビザンツ条約
907年、オレーグはルーシの軍勢を率いて南に征し、ツァーリグラード(コンスタンティノープル)を攻撃します。彼らは街の周りで戦い略奪と破壊を繰り返した後、船を陸上に引き揚げて車輪に載せ、城壁への攻撃に使用するという大胆な作戦を思いつきました。これが事実なら「オスマン艦隊の山越え」に500年も先立つ壮挙ですが、ともあれこの光景を見てビザンツ人は恐れをなし、使者を送って和を請うたのでした。
オレーグのファンにとっては残念なことに(?)、この情報は『原初年代記』に見えるだけで、ビザンツ側にこれに該当するはっきりした記録は残っていません。しかし、当時ルーシ・ノルマンによるビザンツへの略奪的遠征が何度かあったことは確かで、そのうちの一つがオレーグの「遠征」に反映されている、と考えることはできるでしょう。
より重要なのは、遠征後に結ばれたとされるルーシ・ビザンツ条約の内容です。例えばルーシからやってきた商人への食料の支給、難破した船の積み荷の扱い、逃亡した奴隷の追跡など、ここで取り決められているのは、主にルーシとビザンツとの商取引について、でした。
戦士であると同時に商人でもあるという、ノルマン人の性格がこんなところにもよく表れています。戦争というアブノーマルな事態になれば武力がすべてを解決しますが、平時に行われる商取引についてはどうしてもルールが必要となります。ルーシの支配者たちもそのことはよく認識していて、わざわざ国家間の条約を結ぼうとしたのです。
912年、条約締結のすぐ後にオレーグは亡くなります。半ば伝説的な彼の生涯にふさわしく、その最期も神秘的なものでした。後継者はイーゴリ、あのリューリクの子とされる人物です。彼の存在は他国の史料からも確かめられ、実質的なリューリク朝の創始者と言えます。
東スラヴ諸種族の統合、ハザールの影響力の排除、そして対ビザンツ外交を有利に押し進めること…オレーグはこれらの政策を成功裏に押し進めました。しかし彼一代のうちにすべてが成し遂げられたわけではなく、イーゴリもまたこれらの課題に取り組んでいくことになります。
(98.11.22)
(※)以後、原初年代記の引用は古代ロシア史研究会約『ロシア原初年代記』(1988年、名古屋大学出版会)から行う。ただし固有名詞の表記については必ずしもこれに従わなかった。

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ИсторияКиевскойРуси
キエフ・ルーシの歴史 
●キエフ・ルーシについて
●とりあえずの地理的前提
目次
第1章 キエフ・ルーシ前史(最古の時代から9世紀まで)
第2章 キエフ・ルーシ前史(その前夜)
第3章 ルーシのはじまり 
第4章 伝説から歴史へ 
第5章 征服と改革 
第6章 「英雄時代」の終焉 
第7章 異教最後の時代 
第8章 ルーシの洗礼(1) 
第9章 ルーシの洗礼(2) 
第10章 キエフ国家の発展 
第11章 内乱と再統一 
第12章 ヤロスラフの治世(1) 
第13章 ヤロスラフの治世(2) 
第14章 ヤロスラフの治世(3)(01/11更新)
補説 (03/12更新)

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白頭山の噴火確率

富士山より怖い白頭山の噴火確率99%だって
早川由紀夫教授のホームページに見つけた資料を下記に転載します。
また、東北大学名誉教授である谷口宏充氏は、
「白頭山の過去1100年間の噴火を調査した結果、10世紀に大噴火した後、14-20世紀の間に6回噴火したことが明らかになった」
という公式発表を2012年にしています。
なぜかというと、
「2011年3月の東日本大震災で、プレート運動が起き、白頭山が噴火する確率は、2019年まで68%、2032年までは99%」
と述べているのです。
以下早川教授記載のもの転載
青森県内の十和田湖915年火山灰の上には,白頭山 Baitoushan から日本海をわたって飛来してきた火山灰(苫小牧火山灰)が認められる(町田・他,1981;Machida and Arai, 1983)
両テフラの間にはクロボクまたは泥炭が約3cm堆積している。
苫小牧火山灰は,アルカリ長石を含むというきわだった特徴をもつ。
北海道・青森県・秋田県北部のほか,八戸沖および日本海北部の海底にも見いだされる。
白頭山は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国の国境にあり,中国では長白山 Changbaishan とよばれている。
長白山の地表直下では,次のような堆積物の積み重なりが観察される(Machida et al., 1990):上位より,
白山 Baishan ⇒火砕流
円池 Yuanchi ⇒降下軽石
両江 Liangjiangラハール/長白 Changbai ⇒火砕流
白頭 Baegudu ⇒降下軽石
二道白河 Erdaobaihe ⇒岩なだれ
なお,町田・光谷(1994)は上の層序を若干修正し,白山火砕流を長白火砕流の上部に含め,円池降下軽石を10世紀ではない後世の噴火堆積物としている。
また,町田・白尾(1998)は,苫小牧火山灰を長白火砕流から立ち上った灰かぐらと考えている。
白頭山の10世紀噴火のマグニチュードは7.4であり,過去2000年間では,インドネシア・タンボラ火山の1815年噴火(M7.1)をしのいで,世界最大級である。
日本列島の上に降り積もった苫小牧火山灰の厚さは5cm以下であるから,北海道・東北北部が受けた被害は軽微なものだったろう。
しかし,噴火規模・噴火様式から考えて,当時の白頭山周辺地域が受けた被害は甚大であったと想像される.
Machida et al. (1990)は,少なくとも4000km2の森林がこの噴火によって破壊されたとみている。
青森県小川原湖の堆積物中に,厚さ13cmの泥を挟んで,苫小牧火山灰と十和田湖915年火山灰があることを福澤・他(1998)は認め,その間に22枚の葉理を数えた。
この葉理が年縞であるとみなすと,苫小牧火山灰は937年に降ったことになる.しかし泥の堆積速度が一様だったと考えると,13cmの泥の堆積時間として約40年が期待され,22年では短すぎる(池田・他,1997)。
『高麗史』の世家巻第二の高麗定宗元年(946年)条に「是歳天鼓鳴赦」,および志巻第七に「定宗元年天鼓鳴」とある。
また,『朝鮮史』は同年条に「是歳,天鼓鳴ル.仍リテ赦ス」と記し,その引用元として『高麗史』および『高麗史節要』を挙げている。
天にかなりの鳴動があったため,罪人の大赦をとりおこなったのだろう、鳴動が聞こえた月日は,いずれの史料にも記されていない。
鳴動の聞こえた場所にかんする記載もないが,大赦をおこなうほど深刻に受けとめられたのであるから,おそらく高麗の都であった開城(Kaesong,現在のソウルの北西)付近で為政者らが直接体験した事件であったと想像される。
当時の高麗の領土は白頭山のある威鏡道地方に及んでなく,火山灰の分布軸からも外れている.このため,鳴動の原因を知るには至らなかったようだ。
なお,『高麗史』と『朝鮮史』をみる限り,10世紀前半に他の鳴動・降灰事件の記録は見られない。
まとめ
史料に書かれた記録にもとづいて火山学的に検討した結果,以下の結論が得られた。
白頭山の噴火クライマックスは947年2月7日で,噴火開始は946年11月(あるいは944年2月)だったと思われる。
以上 
早川氏のホームページには、十和田湖の噴火についても書かれてあります。
十和田湖の噴火と白頭山の噴火には相関関係があるとも推察されています。
ふと869年に起きたという貞観地震と関連があるのかもしれないと思ったりします。
白頭山付近には中国の赤松原発があります。
もし、白頭山の噴火が起きれば、規模は1980年のセント・へレンズ山噴火レベルと推定されると谷口教授は言います。

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