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浅草猿若町


1911

1911
浅草猿若町
江戸時代の猿若町の出入り口は南、北と南東の三カ所のみで木戸が設けられていた。
町内は芝居小屋や芝居茶屋だけでなく役者の住宅もあった。
ほかに、料理屋、土産物屋、大道具、小道具屋などがあった。
江都名所之内猿若街図
天保12年(1841)老中水野忠邦の天保の改革で江戸市中にあった芝居小屋は風紀を乱すからと猿若町という閉鎖された空間一カ所に集められ遊郭のように閉じこめられてしまった。
猿若町の名は江戸歌舞伎の始祖、猿若勘三郎に由来しているという。
猿若町は一丁目から三丁目まであり、
一丁目には中村座、
二丁目には市村座
三丁目には守田座
があった。これがいわゆる江戸三座である。
このうち守田座は休座が多く控え櫓の河原崎座が代って興行していた。
猿若町に移転時も河原崎座が公演している。
明治5年(1873)になると
守田座が新富町に移り、
他の二座も明治25年までに
鳥越町、
下谷ニ長町
へと移っており芝居町としての役目を終えてしまった。
芝居町の時代もわずか30年ほどであった。

旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/chizu-zatu/saruwaka/saruwaka.htm
http://www.geocities.jp/kikuuj/chizu-zatu/12kai/12kai.htm


1911年の猿若町
2005年の猿若町





江戸の遊郭
江戸時代,幕府容認の遊郭と言えばまず「元吉原」,吉原から移った浅草田圃の「新吉原」が挙げられる。
その他,品川,新宿,板橋,千住のいわゆる「江戸四宿の遊郭」をはじめ,音羽,根津などもぐりの遊び場もあり,こちらは「江戸岡場所」と呼ばれていた。
「岡場所」の「丘」は「他」のことである。
「岡目八目」と言えば「他人がよく見ればよく気づく」と言う意味であり,「岡惚れ」は惚れてはいけない他人の女房に惚れること。
また「岡っぴき」と言えば公では無い私立刑事みたいなものである。
「岡場所」はしたがって官公庁の許可のない潜りの場所であった。
江戸の歴史を見ると,火事の多さには到底かなわないが,岡場所の弾圧や禁令もかなりの数になる。
例えば享保8年(1723年)5月3日には,音羽の護国寺門前/根津宮永町の娼婦が検察を受け,
享保3年(1746年)2月6日にも根津宮永町から50人の娼婦が捉えられて浅草の吉原に移されている。
ことに有名な水野忠邦による天保12年(1841年)の改革で,日本橋堺町と葺屋町にあった芝居小屋を浅草観音裏の猿若町に移し,府内25ヶ所の岡場所の壊滅を図った。
しかし叩かれても叩かれても遊里は不死身であった。
おそらく江戸に単身赴任の男性が多くいたためである。
ー東京路上細見,林順信,初版1987年

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浅草六区興行街
言問橋をわたってきたトロリーバスが,猿若町の入り口の隅田公園前をすぎると,つぎは馬道,それから浅草観音の停車場につく。
ちょうど観音堂の横から後ろにあたるこのあたりは,かつて樹木が鬱蒼としげり,その周辺に手品・居合・独楽まわしをはじめとする曲芸・雑芸など多くの見世物が,小屋掛け・御簾掛けで客を招いていた「浅草寺奥山」の跡だ。ここが「奥山」とよばれるようになったのは享保2年(1742年) 以降のことらしく,それ以前は単なる遊山地帯で,しだいに娯楽地帯に変わっていったようだ。
「奥山」は現在の浅草六区興行街の先駆というべきものだが,明治にはいるとこの界隈もガラリと様相を変えるにいたった。
すなわち,明治6年6月の「太政官布告」による,日本初の公園地設定がそれで,浅草公園は7区に区画された。
奥山付近は5区となり,6区は瓢箪池の西側,つまり凌雲閣があったところから映画街のはずれの日本館にいたるまでの間で,
明治17年(1884年) 11月に開業された。
―高橋真一,新東京歴史案内,

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猿若町跡の通り
浅草猿若町碑
江戸猿若町市村座跡の碑
江戸猿若町守田座跡の碑
消えた地名は電柱にその名を残している