ラベル #0700 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル #0700 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

藤原不比等


藤原不比等
「日本史上最大の功労者か、又最悪の大悪人か、、、」15.03.15
あとで読む
2015/3/14(土) 午前 6:04
書庫古代の話
さてそのである。偉大な政治家と言われ、この国を、未開の習慣法の国家から成文法の近代国家に築き上げた人物と讃えられる。又その反面にこの国の皇室を乗っ取った大悪人とも呼ばれる。
そもそも藤原家の前は中臣氏と呼ばれていた。中臣氏の元は天御中主尊(あめのみなかのぬしのみこと)と云われる。それから12代目が鎌足だ。別名鎌子とも呼ばれ、中大兄皇子と手を結び蘇我一族排除に協力した。大化の改新を断行し歴史上の大人物と崇められた。そしてその死に対して藤原姓の名前を与えられ、藤原の土地は与えられ、大職官、内大臣、の地位まで送られた。不比等はその鎌足の二男である。
不比等の誕生は斉明4年、(658年)の生まれ、白村江の戦いの五年程前の生まれである。鎌足の長男定恵は不比等五歳の秋にこの国に帰ってくる。勿論中国に勉強のためにだ。が帰国後すぐ死去する。23歳の不思議な死だ。そして不比等が藤原の相続者になる。そして20歳になり、初めて出仕する。最初の名前は中臣連史(なかとみのむらじふみと)と呼ばれる。そして蘇我臣連子(そがのおみむらじこ)の女(むすめ)娼子(しょうし)と結婚する。そして長男武智麻呂(むちまろ)が生まれる。不比等14歳の頃天智天皇が崩御する。そして彼の有名な壬申の乱がおきる。そして弘文天皇は自死し、天武天皇が即位する。そして天武7年、初めて出仕する。そして房前(ふささき)が生まれる。がその娼子が死去してしまう。
そして加茂の君の女(むすめ)加茂比売(かもひめ)と再婚する。そして長女宮子(きゅうし)が誕生し、その宮子は長じて文部天皇夫人になり、次女長蛾子(ちょうがし)が生まれる。長我子は長屋王(ながやのおおきみ)の夫人となる。次に宇合(うまかい)が生まれる。このころ氏長者藤原朝臣大嶋薨去、不比等が氏の長者になる。そのころ美努王(みぬのおおきみ)の妻だった県犬養美千代(あがたのいぬかいのみちよ)と再婚する。この年正三位大納言になる。晴れて公卿入りだ。そして後に孝謙、称徳天皇となる安宿媛が生まれる。犬養美千代との間に光明子(こうみょうし)が生まれる。そのころ他の夫人五百重姫(いおえひめ)との間に麿呂(まろ)が生まれる。そして41歳の時、藤原姓を名乗れるのは不比等一家のみ、あとはすべて元の中臣に戻るよう詔を出させる。
さて武智麻呂は南家と呼ばれ、房前は北家と呼ばれ、宇合は式家とよばれ、麿呂は京家とよばれる。この四人が不比等の思想を盤石に基盤を支える。犬養美千代との間に生まれた光明子、のちに聖武天皇の皇后となる。そもそも天武天皇の命令で皇后になれるのは皇室の出身者でなければならなかった。それを強引に皇后に立てる。
加茂比売との間に生まれた宮子を文武天皇の夫人(ぶにん)に入れる。そして娘の宮子に首皇子(おびとのおうじ)、が生まれる。後の聖武天皇である。つまり不比等はここで初めて天皇の外戚になるわけだ。此処ではまだ皇后ではなく夫人の名前だが,その後娘の光明子を聖武天皇の皇后に入れる。そして光明皇后と名乗らせる。そこでこの功績をたたえて二階級特進する。およそ臣下から皇后になったのは初めて、如何に不比等の威光が強かったか、何人も不比等に逆らえないような権力を完成していた。
不比等には6人もの夫人がいた。が最初の夫人昌子は武智麻呂と房前を生んで早死にし、次に再婚したい加茂比売女(かもひめ)との間に宮子、文武天皇夫人を産み、五百重姫の間には麿呂を生み、県犬養美千代との間には光明子を残している。その光明子が聖武天皇の皇后になる。此処からこの国の歴史は大きく変わって行く。その光明子は後の孝謙、称徳天皇になる安宿姫(あすかひめ)を生む。つまり皇后になる資格の無い娘を強引に皇后に知るほど権力を掌握していたのだ。不比等の専横はここに極まる。
長男の武智麻呂は後に正一位左大臣になり、次男房前も正一位左大臣になっている。宇合も正三位太宰の師(そち)になっている。そして麿呂は従三位、参議兵部卿時節大使として奥羽開発に務めた。しかしその四兄弟が突然天平9年、(737年)同時に流行病にかかって急死する。だが既にその子たちが既に政治の重要な役職についていた。武智麻呂の次男仲麻呂は孝謙天皇のお気に入りで引き立てられ、恵美押勝の名前を与えられ、後に道鏡が出てきて仲麻呂は失脚するが、一番栄えた北家の房前は枝を隅々まで伸ばし、この国の基盤を盤石にする。この後天皇の皇后とか妃夫人になるのは藤原家出身者でなければなれないような法則を作る。これにより自由に皇室を操れる権力を手に入れる。
正に日本はこの藤原家を筆頭に、源氏か、平家か、橘氏しかない中で混血してゆく。その中でも藤原が一番栄える。後年藤原はあらゆる名前に変わりこの国の中で広がって行く。武家になった藤原氏は武藤と云い、御所の後衛を務めた藤原は後藤と名乗り、左衛門丞の藤原は左藤と名乗る。かくのごとく藤原はこの国の隅々まで広がって行く、そのすべての元はかの不比等だ。その不比等の企みは大成功する。その不比等は養老4年(720年)正二位右大臣を持って薨去する。だがすぐ正一位太政大臣を追贈される。死後もこの国の先駆者としての敬意は与え続けられる。後年1020年ごろ一族を代表するようにかの藤原道長をしてこのような歌を詠ませる。
「この世をば 我が世と思う望月の 欠けたることをなしと思えば」と云わせるほど栄華を極める。
中でも房前の北家が最も栄える。珍しいところでは有名な紫式部も房前の末裔である。勿論田原の藤太秀郷も北家の出、近衛も藤原摂関家関白忠道からの別れる。つまり北家から分かれて出る。

Roshyの独り言
https://blogs.yahoo.co.jp/rizrizriz30/46878533.html
https://blogs.yahoo.co.jp/rizrizriz30/46869459.html