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産業時代

1952年、大学を卒業した私は、本を詰めたトランクを手に深夜運行の長距離バスに乗った。当時の産業界の中心で仕事をしたいと思ったからだ。
1950年代、米国は世界の心臓部だった。その心臓部の中でも五大湖周辺エリアは産業界の中心である。
心臓の中の心臓といえるこのエリアでは、工場が激しい鼓動の音を響かせていた。製鋼工場、アルミニウム工場、工作機械工場、製油所、自動車工場等の黒ずんだ建物が、行けども行けども続いていて、その中の機械があたりに轟き渡っていた。
工場こそは、産業時代の象徴であった。
中流家庭に育ち、大学でプラトンやエリオットに接し美術史や社会学を学んだ若者には、工場のような世界は珍しいものだった。
トフラー「第三の波」(1982年) 要約
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石炭、鉄道、繊維、鉄鋼、自動車、ゴム、工作機械-それらは第二の波の世界の古典的産業である。
本質的には、電気と機械の単純な組み合わせで生産を進め、大量のエネルギーを食い、膨大な廃棄物と汚染物質を吐き出す。その特徴は、長時間生産、低い技術的必要条件、反復作業、規格製品、高度集中管理等だ。
1950年代後半から、こうした産業が先進工業国で明らかに後退、衰退の色をみせてきた。例えば、米国では、1965年から1974年の間に労働力は21%上昇したのに、繊維関係の雇傭はわずか6%の伸び、鉄鋼関係では実質的に10%落ちた。同様な傾向はスウェーデン、チェコ、日本、その他の第二の波諸国で顕著に現れた。
時代遅れの産業は、次第に発展途上国に移行された。そこでは労働力が安く、技術が遅れているからだ。
量子電子工学、情報理論、分子生物学、海洋学といった新しい産業が新たに頭をもたげてきた。
これら新入り産業はいくつかの点で新入り産業とはっきり違う特色がある。 基本的には機械と電気の組み合わせ方式から脱却し、第二の波古典科学基盤から脱却した。
トフラー「第三の波」(1982年) 要約
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第一の波世界以前
マスメディア到来以前、変化の緩やかな村落に育った第一の波の子らは、教師、牧師、役人、家族のような、一握りの小さな情報源から得たイメージから「現実の心象モデル」を作っていた。
村の子ども達の持つ世界像は極度に狭いものだった。その上、子ども達の得たメッセージは二つの点で過剰だった。即ちメッセージは何気ない会話の中で警句の形で語られ、一方で様々な情報源により一連の思想の形で強められた。
子ども達は教会でも学校でも「汝、--するなかれ」を聞かされ、家族や国家が教えたメッセージがさらに強化された。
地域世界の世論の服従を強いられた子どものイメージと行動の範囲は狭いものだった。
トフラー「第三の波」(1982年) 要約
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第二の波の世界では、ものを各要素に分解していく能力をやたらに重視したが、その要素を統合する力はあまり重視されなかった。
たいていの人間は統合よりも分析が得意である。だから我々の描く未来は断片的で、つまり正しい未来は描けない。
我々が実行すべきなのは、各分野を専門的に見て行く事ではなく、全体を包括的に捉えていく事だ。
トフラー「第三の波」(1982年) 要約
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太陽と星の交叉

予知情報:紫苑の山
淡路ユダヤの「シオンの山」が七度目《地球大立て替え》のメイン舞台になる!
《内容紹介》
かつてイスラエル人が辿り着いた135度線の淡路島。
なぜ出口王仁三郎もそこを注目したのか。また、なぜ今も古代ユダヤの文化・風習が今も残っているのか?
今スピリチュアル界で大注目、淡路「シオンの山」の全貌がついに解き明かされる!
太古からマザーシップもここを目指した宇宙の大聖地には、今も宇宙船が飛来するという。日本人がシオンの民であると目覚める時、淡路「シオンの山」は、新たな文明の出発点となる。ユダヤと日本の結びは、ここに成就した!
ヒカルランド《誕生4周年》感謝作品(ヒカルランド的奇想天外なネタ満載の書)! !
(出版社から)
今、国内外で覚醒した人々が集う聖地、淡路島の「シオンの山」について初めて書かれた本です。
淡路島にはなぜか、古代ユダヤの文化・風習・地名・遺跡が多く残っています。日本建国神話も淡路がキーポイントであり、ユダヤと日本には深い縁がある。あの出口王仁三郎も白山義高に裏神業を託したのが淡路島でした。その忘れられた神業を引き継いでいるのが著者魚谷氏で、数奇なシンクロに導かれて「シオンの山」をお祀りしています。
ワイタハ族のポロハウ議長(『世界に散った龍蛇族よ!』弊社刊参照)によれば、「かつてここをマザーシップが目指した場所」だそうです。また弊社刊『ガイアの法則』で、135度線が文明転換の期点として注目されていますが、それがより明確にわかります。日本人がシオンの民としてのルーツに目覚めるきっかけとなる本です。目次から抜粋して紹介します。
・王仁三郎聖師と先祖亀太郎の霊的遺志を継いで
・名もなき山を「紫苑の山」と名付けたわけ─神のシンクロに導かれて2007年、神座を祀る
・記紀の編纂に影響を与えた淡路の海人族
・日ユ同祖論─失われたイスラエル10部族と大和朝廷の成立
・古代ユダヤ人が日本の歴史の表舞台から消された理由
・ゆら=ユダヤ! ?─隠されていた日本のトライアングルが明らかに!
・ユダヤ教大司教も驚いた古代ユダヤ遺跡─ホト(女陰)を象徴する石室
・古代ユダヤ人の足跡を今に伝える淡路島の風習─由良「ねり子まつり」=ユダヤ「過越しの祭り」
・四国剣山に伝わるアーク伝説
・白山義高の裏神業を引き継いだ浪之上千代鶴(宮本千代鶴)の「桃之宮」
・7個のダビデ紋の霊石を発見し「桃の宮」を再建する
・地軸が修正されてムー(右脳)とアトランティス(左脳)の意識が融合された!
・ユダヤ遺跡からダビデ紋、指輪、ヘブライ語の石板が発見されていた!
・沼島(ぬしま)は、ヘブライ語「シュシマ」に由来する! ?
・7度目の立替の時期が来る時、暗闇に光を放つ14万4000人
 さて、本日は6月18日。ちょうど1年前のこの日に数年ぶりに関西へと訪れ、六甲山の《瀬織津姫》の御神体ともいわれる磐座を参拝しましたが、その晩には京都を訪れてデザイナーの《さとううさぶろうさん》と初めてお会いすることになり、そこでキーワードして伝えられた「失われたイスラエル10支族」の話など、この日を境に今に繋がり、また渦中でもある大きな新しい流れが始まることになりました。
あれから封印が解かれたように不思議と度々関西にも訪れることになり、そして翌月の7月15日から始まった“日本の開闢”の祭祀にあわせて7月18日から淡路島に訪れた際に、この地で古代イスラエル人の聖地であり、縄文の聖地、出口王仁三郎とも縁の深い《紫苑の山》へと最終的に導かれることになりました。そこで知った淡路島と古代イスラエル人の関係。母国を追われた古代のイスラエルの民は遠く東の果てにある約束の地「日本列島」を目指し、そこで辿り着いた最初の地である淡路島。もちろんそれより以前から日本にはユダヤからの渡来人が度々訪れて日本の文明に大きな影響を与えていたのだと思いますが、少なくとも現在の日本とも関連が深い古代イスラエル人の部隊が到達した場所として、この淡路島は最も縁の深い地の1つであり、日本神話のイザナギ、イザナミの国生み物語の原点となる場所であるのは間違いないと思います。そして、自分が淡路島を訪れた際に主要な地へのナビゲートして下さり、こういった淡路島とユダヤの真実を細かく説明して下さった方に《魚谷佳代さん》という方がいます。この度、その魚谷さんが淡路島に隠された秘密や、ご本人がこの地において体験した不思議な流れなどを一冊にまとめた本が出版することが決まり、タイトルは《淡路ユダヤの「シオンの山」が七度目《地球大立て替え》のメイン舞台になる!(ヒカルランド)》として明日19日に発売されるようです。
北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされたのがBC721年。その後に「失われたイスラエル10支族」は母国を追われ東方に向かったとされており、また日本書紀によると、初代天皇とされる神武天皇が日本国(大和朝廷)を創建したのがBC660年とされています。イスラエル王国が滅ぼされて約60年後に遥か東方の地に生まれた日本国。直線距離にして1万キロ以上も離れた両国は、一見何の縁もゆかりもない関係性であれば、これも単なる偶然の時期の巡り合わせかもしれませんが、実際のところ、日本とイスラエルは切っても切れないほど深い関係性が残された遺跡、文化や風習、言葉までもが残っており、いわゆる「日ユ同祖論」という言葉が生まれるほど、双方は同じ民族によって作られた可能性が高いという説が有力となっています。そして、この魚谷さんの著書の中では、度々「出口王仁三郎」の名前が登場しますが、王仁三郎氏は今の時代に日本とユダヤの関係を世に出し、日本とユダヤが1つにならないと世界の戦争を終わらせ、真の世界平和の樹立は不可能であると伝えていたようです。以下は魚谷さんの新著からの抜粋です。
出口王仁三郎が白山王朝(天皇家に滅ぼされたとされる縄文系の王朝)の末裔(白山義高氏)に託した言葉
「現代は加速度的に、一途に世界は破局に向って進んで行く。如何なる理由を持たせるにせよ、戦争は戦争へと、全世界は戦場化して、神定の世の終末の審判が始まる。どうした機会で戦争が収拾されるかは、ユダヤと日本の完全な提携によることは、既定の事実である。さうしないと限り、戦争の原因動機となるユダヤとアラブの宗教戦の収拾はつかない。眞の宗教は岩戸隠れであるから、これが世に出ない限り、思想戦も肉弾戦も、世に無くすることは出来ない。眞の宗教を世に出す業は、今の宗教家の手では絶対に出来ない相談である。今日の宗教はニセ預言者の迷信教であって、眞の宗教を知る者はない。これからの世界は益々覚有情の人間味を離れた氣違ばかりの世界となる。皇道大本は、唯一の救世主(キリスト)を知らせ、宗教の本質(咒)を知らせ、更に直後に、立替立直しの業をする立役者(菩薩)を仕立てるところであるが、方便の上には、立替立直しの雛形を以て教えを示すところである。
雛型では、出雲系の大本で、ユダヤを世に出し、日本系の皇道でイスラエルを世に出すところで、いまのところ、この筋書きを本当に知らせて置く適材が見つからぬ。然しまだ帝国日本が崩壊するには、十年の間があるから、腰を据えて一仕事してみる氣は起らないか」(転載終了 )
出口王仁三郎氏は、こういった内容で白山氏に声をかけて相談し、そして「宇宙創造神より命を受けた大司令官である大国常立大神(艮の金神=元津神)を目覚めさせるための霊的な働きをなす大井戸(元井戸)を発掘すること」と「古代イスラエルの遺跡を発掘して、ユダヤと日本の関係を世に出すことによって、無条件降伏という敗戦に帰した日本の立直しを通じて世界を救わんとすること」という2つの目的のある裏神業を淡路島の地で白山氏に託したそうです。そして、元井戸と古代イスラエルの遺跡の双方の発掘を実現した白山氏は、その意義について以下のように伝えているそうです。
太陽と星の交叉
(記念すべき昭和27年10月14日)
世界の暗黒を照らす太陽と星は遂に交叉した。日本の国旗日の丸と、イスラエルの国旗ダビデ章とが、1952年10月14日に淡路の聖地太陽の国にヘンポンと、ひるがえったのである。太陽は昼かがやき、星は暗黒を照らす。この2つが、提携する時、世界は始めてやみから救はれる。世界の平和と幸福とは、この2つの旗が交叉することから始まるのである。日本帝国が建国された頃ユダヤは滅亡した。日本帝国が滅びた頃、ユダヤ国は再建されたのである。
すでに日本とユダヤが1つになる準備は、王仁三郎氏の時代から脈々と続けられ、それが現在も魚谷さんをはじめ、日本全国で様々な形になって受け継がれており、昨年の天皇家による“日本の開闢”の祭祀をピークに、いよいよ2つが1つになった本当の「ニホン(ニッポン)」が始まろうとしています。
「この国はやがて崩壊する。イザヤよ、イスラエルの代表者を連れてタルシン船にアークを載せ、東の日出る島へ落ち延びよ。そこで、このイスラエルのことを全て忘れ、新しく本当の神の国、第二エルサレムを設立せよ」
(イザヤ書、ヨハネの黙示録)
日本の古名である「豊葦原(トヨアシハラ)ミズホの国」。
ヘブライの民にとって「東方の日出づる国」は「天国」を意味しており、ヘブライ語で天国を「ミズホラ」と呼ぶそうです。また「アシノハラ」は「約束の地(カナン)」を意味します。日本はイスラエルにとって「東方の日出づる国カナン」。また、大和朝廷などで使われる「ヤマト」という言葉は、ヘブライ語アラム方言では「ヤ・ウマト」と分解され、これは「神の民」という意味にもなります。そして「神武天皇(カムヤマトイワレビコノミコト)」とは、ヘブライ語で「神の選民を集めた偉大な開拓者」という意味になるようです。さらに淡路島にも関わり、日本神話の国生み物語の主役の1人である“イザナギ”とは、ヘブライ語で「イシュアナギ」と読み「守りたまえ、ダビデの王統を」という意味になり、また“イザナミ”とは、ヘブライ語で「イシュアナミ」と読み「守りたまえ、ナミの血筋を」という意味になるそうです。“ナミ”はダビデの祖母の名前となるそうです。今もなお、遥か遠い昔に母国を追われて理想郷を思い描き続けてきた古代イスラエル人の意志は、この日本という国と民が存在していることで脈々と受け継がれており、これから始まる本当の日本の持つ世界平和を実現する役割によって、その意志と想いや成就するものだと思われます。
2014年の夏至を目前に控え、今こそシオンの民が目覚める時がやって来たのだと思います。
希望(あけぼの)や
神国(シオン)の民よ
十六(いざ) 目覚め
真光(ひかり)のみてや
汝(な)が 魂(たま)を
情熱(あつ)き真(まこと)で
輝(ひか)らせよ
神ぞ 導く
民こそは
日の出 愛でたる
民なれば
和合(やはす)心の
清(さや)かなる
世界平和ぞ
礼拝(いの)る民

天下泰平
http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51891511.html







 さらに祇園祭の行列の中に、「7つの腕のある道具」を持ち歩いている人たちを見ました。これはイスラエル神殿で用いられていた7つの腕を持つ燭台(メノラ)に非常によく似ている、と彼は考えたのです。
また日本文化において12という数字が、いろいろな場面において用いられていることをも、発見しました。天皇は12人のお妃を持ち、京都の御所には12の門がありました。宮城には12の飾り付けがあり、神社の祭では12本の棒がゆわえつけられていました。こうしたことは、イスラエルで神の民や神殿に関するものに12という数字がよく用いられていたことを、ただちに連想させるものでした。
祇園祭について、ユダヤ人ラビ・トケィヤー氏はこう言っています。
 「いずれにせよ、ユダヤ人がこの祇園祭を見たときに感じることは、「ギオン」という名前はエルサレムの別名である「シオン」ではないか、ということである。 ・・・その祭自体が、古代イスラエルの歴史を、ドラマ化したものであるように感じるのである」。
このように、イスラエルの習慣に精通している人々にとって京都の祇園祭は、イスラエルの祭を連想させるものであるようです。しかしこれはイスラエルの正統的な宗教行事の場合ですが、そうでない場合もあります。たとえば、日本の神社の中には、牛を祭神としているところが多くあります。さきに、神道は基本的には偶像崇拝ではないと述べましたが、一部には偶像崇拝も事実入っているわけです。この風習は、古代イスラエル民族が行なった異教の偶像崇拝の名残りではないか、とマクレオドは考えました。
聖書にも、古代イスラエル人は唯一の神を信じながらも、しばしば「子牛礼拝」などの偶像崇拝に陥ったことが記されています。とくに失われた10部族は、そうした偶像崇拝に陥っていましたから、偶像崇拝が一緒に日本に持ち込まれたと、考えられるわけです。また、「山伏」に関する様々のことが、古代イスラエルの習慣に非常に良く似ていると、指摘されています。
山伏——頭につけているのが兜巾。
たとえば山伏は、額に「兜巾」(ときん)と呼ばれる黒いものをつけます。これは古代イスラエルの祭司が額につけた黒い聖なる箱「ヒラクティリー」にそっくりだ、と指摘されているのです。今日もユダヤ教徒は、祈りのとき、ヒラクティリーを額につけます。こうした習慣は、ユダヤ教徒と日本の山伏にだけ見られるものです。山伏が吹く「法螺貝」も、イスラエル人が祭のときに吹く「ショーファー」という笛に、よく似ていると言われています。 イスラエル人のショーファーは、ふつう雄羊の角で作られますが、必ずしも雄羊の角である必要はありません。実際には、手に入る材料で作ってかまわないのです。
 日本は羊は少なく、海洋国家なので、法螺貝が用いられたのではないかと言われています。両方とも同じような音をたてるのです。
そのほかにも、山伏の習慣には古代イスラエルの習慣を思わせるものが多々あり、両者には、「偶然とは言えないほどの一致点が存在している」と、トケィヤー氏は述べています。


古代日本とユダヤ・キリスト教
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/032kodai.htm








日本の習慣とイスラエルの習慣の類似
ユダヤ人ラビ・トケィヤー氏はまた、日本の古来からの習慣の多くがイスラエルの習慣によく似ている、と指摘しています。たとえば外国人が、日本の国技である相撲を見に行ったとしましょう。多くの外国人は、力士が土俵に「塩をまく」習慣を見て、違和感を感じます。なぜ塩をまくのか、意味が理解できないのです。ところがトケィヤー氏によると、こうした「塩をまく」習慣に対してユダヤ人は、全く違和感を感じないと言います。ユダヤ人は「塩をまく」のは「土俵を清めるため」である、と即座に理解します。ユダヤ人の家庭では古くから、母親が同じようなことをして家の中を清める習慣が、あったのです。また日本の公衆浴場では、日本人は浴槽に入る前に、流しで体を洗います。ユダヤ人はこうした習慣を見ると、自分たちの習慣と同じだと感じて、リラックスします。 ヨーロッパ社会においては、ユダヤ人を除いて誰も、このような習慣を持っていないのです。また日本には、古くから「お守り」を持つ習慣があります。日本人の中には車の運転席に、お守りをぶら下げている人々がいます。東北地方へ行けば、どの農家もたくさんのお守りを、家の入口や神棚のわきに張りつけています。同様な習慣が、古くからイスラエルにもありました。旧約聖書外典には、古代イスラエルの兵士たちが、呪文を書いた護符を見につけていたことが書かれています。これはアミュレットと呼ばれるもので、幸運を祈る日本のお守りと同じようなものでした。またユダヤ人には、今もメズザと呼ばれるお守り札を、家の入口に張りつけておく習慣があります。これは羊の皮で作られた薄い紙で、旧約聖書の言葉が記されています。メズザは、もともと神をおぼえるために家の入口につけられたのです。しかし人々は、しばしば神ご自身よりも、メズザ自体を「お守り」として用いました。「お守り」に頼る習慣は、正当派ユダヤ教の指導者らによって、いつの時代にも「迷信」として禁じられてきました。
 私たちは、神に対しての信仰がある限り、たった一枚の紙に書かれた魔力に頼ってはいけないのです。
 しかし人々はいつも何かを信じたがっているので、こうしたお守りの習慣は、古くからイスラエル人の間にも存在していたのです。
祇園祭とイスラエルの祭との類似
日本では毎年、7月17日に、「夏祭」と称する「祇園祭」、別名「天王祭」が全国一斉に行なわれます。とくに総社である京都・祇園神社の祭は、大規模に7月17日から1週間にわたって行なわれます。じつはこの7月17日という日は、イスラエルにおいても、非常に重要な日でした。かつてノアの箱舟がアララテ山に着いたのが、まさにこの日なのです。
 「箱舟は第7の月の17日に、アララテの山の上にとどまった」 (創世8:4)
 と聖書に記されています。そのため古代ヘブル人は、この日に謝恩祭を行なっていたようです。
 しかしモーセ以後は、ちょうどこの時期に収穫祭 (仮庵の祭ともいう)が行なわれるようになりました (第7の月の15日から1週間)。
 京都で行なわれている祇園祭は、こうしたノアの箱舟の記憶や、イスラエルの収穫祭を思い起こさせるものがあります。
 祇園祭では、「舟車」といって舟の形をした山車が、町内をめぐります。また神輿には、鳩に似た小鳥の彫刻や、榊の小枝をくわえた鳥の模型がついています。
 これらのことは、ノアの箱舟や、箱舟にオリーブの小枝をくわえて戻ってきた鳩の話を、思い起こさせるものであるわけです(創世8:11) 。
 明治維新の頃、日本に来た商人で、N.マクレオドという人がいます。彼も京都で祇園祭を見たとき、ひじょうに強い印象を受けました。
 たとえば祇園祭の中で、人々は木の枝を持ち歩いていました。古代イスラエルの収穫祭でも、人々はたくさんの木の枝を持ち、また農業の収穫物を持って行列に参加しました。
 またマクレオドは、祇園祭で使われる香炉が、イスラエル神殿で用いられていた香炉に非常によく似ている、と観察しました。
 さらに祇園祭の行列の中に、「7つの腕のある道具」を持ち歩いている人たちを見ました。これはイスラエル神殿で用いられていた7つの腕を持つ燭台(メノラ)に非常によく似ている、と彼は考えたのです。
また日本文化において12という数字が、いろいろな場面において用いられていることをも、発見しました。天皇は12人のお妃を持ち、京都の御所には12の門がありました。宮城には12の飾り付けがあり、神社の祭では12本の棒がゆわえつけられていました。こうしたことは、イスラエルで神の民や神殿に関するものに12という数字がよく用いられていたことを、ただちに連想させるものでした。
祇園祭について、ユダヤ人ラビ・トケィヤー氏はこう言っています。
 「いずれにせよ、ユダヤ人がこの祇園祭を見たときに感じることは、「ギオン」という名前はエルサレムの別名である「シオン」ではないか、ということである。 ・・・その祭自体が、古代イスラエルの歴史を、ドラマ化したものであるように感じるのである」。
このように、イスラエルの習慣に精通している人々にとって京都の祇園祭は、イスラエルの祭を連想させるものであるようです。しかしこれはイスラエルの正統的な宗教行事の場合ですが、そうでない場合もあります。たとえば、日本の神社の中には、牛を祭神としているところが多くあります。さきに、神道は基本的には偶像崇拝ではないと述べましたが、一部には偶像崇拝も事実入っているわけです。この風習は、古代イスラエル民族が行なった異教の偶像崇拝の名残りではないか、とマクレオドは考えました。
聖書にも、古代イスラエル人は唯一の神を信じながらも、しばしば「子牛礼拝」などの偶像崇拝に陥ったことが記されています。とくに失われた10部族は、そうした偶像崇拝に陥っていましたから、偶像崇拝が一緒に日本に持ち込まれたと、考えられるわけです。また、「山伏」に関する様々のことが、古代イスラエルの習慣に非常に良く似ていると、指摘されています。
山伏——頭につけているのが兜巾。
たとえば山伏は、額に「兜巾」(ときん)と呼ばれる黒いものをつけます。これは古代イスラエルの祭司が額につけた黒い聖なる箱「ヒラクティリー」にそっくりだ、と指摘されているのです。今日もユダヤ教徒は、祈りのとき、ヒラクティリーを額につけます。こうした習慣は、ユダヤ教徒と日本の山伏にだけ見られるものです。山伏が吹く「法螺貝」も、イスラエル人が祭のときに吹く「ショーファー」という笛に、よく似ていると言われています。 イスラエル人のショーファーは、ふつう雄羊の角で作られますが、必ずしも雄羊の角である必要はありません。実際には、手に入る材料で作ってかまわないのです。
 日本は羊は少なく、海洋国家なので、法螺貝が用いられたのではないかと言われています。両方とも同じような音をたてるのです。
そのほかにも、山伏の習慣には古代イスラエルの習慣を思わせるものが多々あり、両者には、「偶然とは言えないほどの一致点が存在している」と、トケィヤー氏は述べています。


古代日本とユダヤ・キリスト教
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/032kodai.htm














古代日本とユダヤ・キリスト教
古代日本とイスラエル10部族の謎
イスラエル人(ユダヤ人)は古代の日本に来たか
イスラエルの契約の箱は、神社のお神輿によく似ている
——契約の箱がエルサレムに戻ったとき、ダビデは契約の箱をかつぐ者たちと共に町をめぐり歩き、その前で踊った。   
 「今から2千年ほど前、日本にようやく人が住み始めた頃、古代イスラエル人(ユダヤ人)もはるばる日本に渡来し、日本の文化形成に大きな影響を与えた」
とする説が、わが国において、幾人かの学者によって唱えられてきました。いわゆる「日本文化=ユダヤ起源論」とか「日本・ユダヤ同祖論」と呼ばれる説ですが、一見奇妙に見えるこの説も、その証拠とされるものの多彩さのゆえに、多くの人々に興味を引き起こしてきました。本誌でもこの説について、いくつかの検討を加えてみることにしましょう。
イスラエル人は古代日本に来たか
はじめに、本誌がこれから何を述べようとしているのかを、はっきりさせましょう。第1に本誌が述べようとすることは、日本の文化のどのような事柄に、古代イスラエル文化の影響が見られるか、ということです。たとえば、日本の皇室の紋章である「菊の紋」が、古代イスラエル神殿の壁にも残っています。また伊勢神宮の灯籠には、ユダヤ人の印である「ダビデの星」が刻まれています。これらははたして、古代イスラエル文化の日本への流入を、示しているのでしょうか。また、神社のお神輿がイスラエル神殿の契約の箱によく似ていること、神社の構造自体が古代イスラエル神殿によく似ていること、日本古来の祭の幾つかが古代イスラエルの祭によく似ていること、などが学者によって指摘されていますが、これらについてはどうなのでしょうか。
神社の神輿      
さらに、日本語の中にヘブル語の影響が見られる、とも言われています。私たちが数をかぞえるときに言う「ひい、ふう、みい・・・」がヘブル語である、と指摘する人もいます。第2に本誌が扱う問題は、こうした事柄が、いわゆる「イスラエルの失われた10部族」の行方と関係あるのかどうか、ということです。あるいは、A.D.70年に祖国を失って世界中に離散したユダヤ人の行方とも関係があるのかどうか、ということです。
B.C.721年、イスラエル10部族から成っていた「北王国イスラエル」は、アッシリア帝国に滅ぼされ、民は捕囚となって捕らえ移されました。その後イスラエル10部族は、ユーフラテス川の東側地域に離散しました。そこである学者は、イスラエルの「失われた10部族」の一部は日本にもやって来て定着し、日本の文化形成に大きな影響を与えた、と考えています。またA.D.70年に、南王国ユダの人々(イスラエルの残りの2族から成り、一般にユダヤ人とも呼ばれる)は祖国を失い、世界中に離散しました。彼らの中には、シルクロードを通って、はるばる東洋の地までやって来た人々もいました。そこである学者は、彼らユダヤ人の一部は日本にも渡来し、日本にユダヤ文化を持ち込んだ、と考えています。これらの考えについても、検討してみましょう。

失われた10部族はユーフラテス川の東側に離散した
まず、イスラエルの「失われた10部族」の行方について、少し詳しく見ておきましょう。
聖書によると、B.C.10世紀に、北王国イスラエルの10部族に関して次のような予言 (預言) がなされました。
「主(神)は、イスラエル(北王国のこと) を打って、水に揺らぐ葦のようにし、彼らの先祖たちに与えられたこの良い地からイスラエルを引き抜き、ユーフラテス川の向こうに散らされるでしょう 彼らがアシェラ像 (偶像) を造って、主の怒りを引き起こしたからです」 (Ⅰ列14:15)。
この予言は、約200年後のB.C.721年に成就しました。その年、アッシリア帝国が北王国イスラエルに攻め入り、民の主だった人々を、みな捕囚としてユーフラテス川の東側に連れ去ったのです。こう記されています。
 「 (北王国最後の王) ホセアの治世第9年に、アッシリアの王はサマリヤ(北王国のこと)を取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザン川のほとり、メディアの町々に住ませた」(Ⅱ列17:6) 。
考古学者は、この捕囚を行なったアッシリア王が古代碑文に残した記録を、発見しています。その碑文によると、このとき捕囚された民の数は約3万人でした。アッシリア王は北王国イスラエルの主だった人々を、捕らえ移したのです。祖国に残されたのは、貧しい人々や、庶民だけでした。これは被征服民を無力化し、彼らが二度と反乱を企てないようにするための、アッシリア帝国の占領政策だったのです。人々が捕らえ移された地「ハラフ、ハボル、ゴザン川のほとり、メディアの町々」とは、ユーフラテス川の東側の地です。北王国イスラエルの10部族は、アッシリア帝国が滅びた後も祖国に帰らず、ユーフラテス川の東側の地域に離散しました。
A.D.1世紀に生きたユダヤ人歴史家ヨセフスは、こう書いています。
 「イスラエルの10部族は、今でもユーフラテスのかなたにおり、膨大な民衆となっている」 (古代ユダヤ誌11巻5章)。
彼らは、この後どうなったでしょうか。彼らの行方に関する正確な資料はほとんどありませんが、各地の言い伝えの中には、幾つかのヒントがあります。たとえば、ソ連のグルジヤ共和国あたりに住む山地ユダヤ人の間には、自分たちは「失われた10部族」の子孫だ、という言い伝えがあります。カスピ海北方に住むカザール人の間にも、自分たちは10部族の子孫だ、という言い伝えがあります (現在のユダヤ人の九割を占めるアシュケナジー・ユダヤ人は、このカザール人の子孫である、との説もあります) 。ペルシャの一部族の間にも、同様の言い伝えがあります。アフガニスタンのユーフザイ人は、自らを「バニ・イスラエル」 (イスラエルの子孫) と呼んでいます。その他、インドやミャンマーの部族の間にも、同様の言い伝えがあります。また中国の史書によると、B.C.2世紀(漢の時代)に、中国にイスラエル人がいました。彼らには割礼の風習があったので、中国人は彼らを「刀筋教民」と呼びました。さらにバハラ地方の少数ユダヤ人の間には、10部族は長年アジア大陸を流浪し、あげくのはてに「中国のかなたの神秘な国」に定着した、との伝説があります。『エズラ第4書』という、A.D.1世紀頃に記された古代ヘブル文書(旧約聖書外典) にも、次のような興味深い記述があります。「幻に現われたその群衆は、アッシリア王が川を越えて他の国に連れていった10部族であった。
イスラエル10部族の渡来伝説のあるところ
【Martin Gilbert "Jewish History Atlas" 1973, London 等参照】
彼らは異教徒の群れから離れ、人類がいまだかつて住んだことのない土地へ行き、自国では守ることのできなかった規則を、せめて守るようにとの計画をお互いに持ちあって、さらに遠い国へ進んだ。そして彼らがユーフラテスのほとりの細道に来たとき、神は彼らに驚くべきことをなし、彼らが渡りすぎるまで川の源を止められた。その国を通過してから、1年半という長い道のりが待っていた。そしてそこはアルツァレト(この地名については不明)という地方であった。
彼らは、そこに最後まで住み、そして彼らが帰ろうとするとき、神は彼らがユーフラテスを渡れるように、再び川の源を止められるであろう」。この文書は聖書ではありませんから、そのすべてを無条件に受け入れることはできません。またこの記述は、著者が見た「幻」という形をとっています。
 とはいえ、こうした文書が記された背景には何らかの歴史的事実があった、と考えられなくもありません。もしそうなら、「10部族が、ユーフラテス川から1年半の道のりの遠い地に行った」という記述は、たいへん興味を引きます。たとえば10部族が、もし時速4キロの徒歩で毎日5時間ほど歩き、1年半のあいだ旅を続けたとすれば、ほぼ日本ぐらいまでの距離に到達できるのです。
 このように、イスラエルの失われた10部族の一部が日本にまでやって来た可能性は、全くないとは言えないでしょう。
もう一つ、南王国ユダの人々の行方についてはどうでしょうか。南王国ユダの人々も、A.D.70年に祖国を失い、全世界に離散しました。彼らユダヤ人の一部は、シルクロードを行き来する商人となり、はるばる中国にまでやって来ていたことが、知られています。シルクロード内の絹の取引などは、ユダヤ商人がほぼ独占していました。A.D.3世紀には、すでに中国の開封に、ユダヤ人コミュニティがありました。A.D.12世紀にはそこにユダヤ教会堂もあり、中国のユダヤ人社会は最近まで存在していたことが知られています。ですから彼らの一部が、古代の日本に渡来した可能性も、充分考えられるわけです。

古代日本とユダヤ・キリスト教
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