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ヘティ・グリーンの人生

ヘティ・グリーン(Hetty Green)の人生
ヘティ・グリーン(Hetty Green)研究
『The Witch of Wall Street Hetty Green』翻訳
1885年1月、ウォール街59番地にジョン・J・シスコ・アンド・ サン銀行があり、人々から尊敬を受けていた。
ジョン・J・シスコは、 南北戦争の間、政府の財政を助け、国債を ウォール街に売り込んだ。
その後、ジョン・J・シスコは死んで、彼の息子と、1人のパートナーが 銀行を経営していた。
当時、預金業がゆっくりと発展していたが、大部分の金融機関は、証券を保管する空間を顧客 に提供する必要があった。
ジョン・J・シスコ・アンド・ サンの預金者の中には、金持ちが何人かいたが、エドワード・H・グリーン夫妻はずば抜けて 金持ちだった。
エドワード・H・グリーンの妻の有価証券は特に多く、証券の束は 大きな金庫の棚を、 いくつも埋め尽くした。
彼女の父、エドワード・マット・ロビンソンは 南北戦争の間、ジョン・J・シスコ・アンド・サン銀行の得意先であり続け、 500万ドルを超える有価証券を銀行の金庫に貯め込んだ。
ロビンソンが死んでからの20年間、彼の娘は、銀行に証券 を預け続けた。
その証券は、鋼鉄の部屋をぎゅうぎゅう詰めにし、少なくとも 父が所有していた証券の5倍のスペースを占めた。
事務員と客を分けるガラスの仕切りが、建物の端から端まで及んでいる。
その仕切り越しに、会社の金庫が見える。金庫は、普通の部屋のように大きく、 長方形のドアを持つ。
そのドアは夜に閉められる。
ドアには、白鳥が 池にいる風景が半分ずつ描かれ、ドアを閉めると1つの風景画になる。
ドアの開き目が、いつも絵に境界線を作った。
それは、その芸術作品の 欠点の中の1つだ。しかし、そんなことは重要ではない。
ドアの後ろに 置かれているものの方が重要だ。
暗い宝箱の中に、多くの貴重な紙があった。
シカゴの不動産ローンの 証書、ニューヨークの6階建ての建物と8階建ての建物の権利書、国債、 工場、倉庫、鉄道の所有権の証書、借金の証書があった。
未亡人が 住んでいるような5番街の不動産信託が入ったマニラ紙の重い封筒に寄り添い 、より豊かな醸造業者が住んでいるような3番街の不動産信託の束がある。
そのすぐそばには、紙幣、金貨、原料の状態の銀がある。
証券の利子は、街に住む多くの家族への支払いに充てられる。
その街の大通りのそばに、 つりあいのとれた一組の馬が尾をつながれている。銀の馬具が騒音をたて、 馬車を引く短い手綱が、馬のつやつやした首を残酷に曲げる。馬車に乗る女性は、 レースのついたきついコルセットのせいで、泡を吹く馬と同じぐらい激しく苦しんでいる。
グリーン夫人は、数十の借家人に不動産を貸していることを証明する証券の束 を、シスコ銀行の大金庫に置いているにもかかわらず、馬車を持っていなかった。
証券取引所の取引終了の鐘が鳴った後、ウォール街に群がった仲買人は、 グリーン夫人が最も優れた投資家だとうわさした。
二人の取引員が、ウォール街の 建物の前面の大理石の壁にもたれて、うわさ話をした。取引所での売りと買いの 衝突ですり減ってしまった靴を人に磨かせている間、彼らはグリーン夫人の名を挙げた。
ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株とエリー株の不可解な上昇と下落は、 しばしば間違ってこの女性投資家の謎めいた力のせいにされた。グリーン夫人は、 まだ多くの人に知られていなかった。
弁護士ジョセフ・チョエイトは、時々、グリーン夫人のケチ、貪欲、 悪賢さについての面白い小話を語った。
ニューベッドフォード の鯨漁船団からお金が来たと彼は言った。
チョエイトは、グリーン夫人が 初めて社交界に出たときからずっと知っていると言った。
2代目シスコはもちろん、 グリーン夫人を知っていたが、グリーン夫人のことを話題にしたとき、 それほど注意を払わず、グリーン夫人の奇行をほのめかされても取りあわなかった。
しかし、ウォール街の取引員のほとんどは、グリーン夫人の夫を知っていた。 彼はワインを嗜む大男だ。グリーンの体重は約250ポンド(112kg)。 身長は群を抜いて高い。彼は、ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道 の社長を1期3ヶ月つとめたことがあった。その前に、ルイスヴィル・アンド・ ナッシュヴィル鉄道の副社長だったこともあった。グリーンは東洋で20年 近く貿易業に携り、1865年にアメリカに帰ったとき、百万長者として 知られていた。すでにグリーンの妻は、多くのうわさ話の種になっていた。 ある者は彼女をウォール街の女王と呼んだ。その称号をめぐって彼女と 争えるほど、ウォール街で十分な結果を残した女性はいなかった。そしてこれが グリーン夫人に関する伝説の一部になった。
1885年の初めの経済見通しは、前年ほど悲観的ではなかった、景気対策 が行われないことに人々が失望したことを除けば。大統領選挙に当選したグロバー・ クリーブランドは、1885年1月7日までニューヨーク州知事を辞職 しなかった。悲惨な年―1884年の後、経済不況は社会不安の原因となり、 その社会不安は、大統領選挙でクリーブランドの勝利をもたらした。 ニューイングランドの町は、まだ、工場労働者の賃金の10%削減を 郵便で発表していた。ホッキングバレー(鉄道会社)は、炭鉱労働者の ストライキを恐れていた。小麦価格は、数ヶ月の間、生産者をがっかり させるような水準だった。ストライキと賃金切り下げの情報が、ニューヨーク から、アメリカの多くの地域に電信で伝えられた。鉄道会社は少ししか 収入を得られなかった。ピッツバーグから、アメリカ最大の製鉄会社が、 債務不履行に陥ったとの情報が届いた。オリヴァーブラザーズ・アンド・ フィリップスは、労働者の賃金を1日あたり98セントにして操業しようと 試みた後、債務不履行に陥った。同時に、オリヴァーブラザーズ・アンド・ フィリップスの子会社のオリヴァー・アンド・ロバーツ針金会社は、 工場を閉鎖した。

題名省略
https://daimeisyouryaku.web.fc2.com/sgt164.html
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/4449/sgt164.html
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/4449/sgt114.html
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/4449/index2.html








第1章ヘティ・グリーン、ウォール街に来る
1885年1月、ウォール街59番地にジョン・J・シスコ・アンド・ サン銀行があり、人々から尊敬を受けていた。ジョン・J・シスコは、 南北戦争の間、政府の財政を助け、国債を ウォール街に売り込んだ。その後、ジョン・J・シスコは死んで、彼の息子と、1人のパートナーが 銀行を経営していた。
当時、預金業がゆっくりと発展していたが、大部分の金融機関は、証券を保管する空間を顧客 に提供する必要があった。ジョン・J・シスコ・アンド・ サンの預金者の中には、金持ちが何人かいたが、エドワード・H・グリーン夫妻はずば抜けて 金持ちだった。
エドワード・H・グリーンの妻の有価証券は特に多く、証券の束は 大きな金庫の棚を、 いくつも埋め尽くした。彼女の父、エドワード・マット・ロビンソンは 南北戦争の間、ジョン・J・シスコ・アンド・サン銀行の得意先であり続け、 500万ドルを超える有価証券を銀行の金庫に貯め込んだ。 ロビンソンが死んでからの20年間、彼の娘は、銀行に証券 を預け続けた。その証券は、鋼鉄の部屋をぎゅうぎゅう詰めにし、少なくとも 父が所有していた証券の5倍のスペースを占めた。
事務員と客を分けるガラスの仕切りが、建物の端から端まで及んでいる。 その仕切り越しに、会社の金庫が見える。金庫は、普通の部屋のように大きく、 長方形のドアを持つ。そのドアは夜に閉められる。ドアには、白鳥が 池にいる風景が半分ずつ描かれ、ドアを閉めると1つの風景画になる。 ドアの開き目が、いつも絵に境界線を作った。それは、その芸術作品の 欠点の中の1つだ。しかし、そんなことは重要ではない。ドアの後ろに 置かれているものの方が重要だ。
暗い宝箱の中に、多くの貴重な紙があった。シカゴの不動産ローンの 証書、ニューヨークの6階建ての建物と8階建ての建物の権利書、国債、 工場、倉庫、鉄道の所有権の証書、借金の証書があった。未亡人が 住んでいるような5番街の不動産信託が入ったマニラ紙の重い封筒に寄り添い 、より豊かな醸造業者が住んでいるような3番街の不動産信託の束がある。 そのすぐそばには、紙幣、金貨、原料の状態の銀がある。
証券の利子は、街に住む多くの家族への支払いに充てられる。その街の大通りのそばに、 つりあいのとれた一組の馬が尾をつながれている。銀の馬具が騒音をたて、 馬車を引く短い手綱が、馬のつやつやした首を残酷に曲げる。馬車に乗る女性は、 レースのついたきついコルセットのせいで、泡を吹く馬と同じぐらい激しく苦しんでいる。 グリーン夫人は、数十の借家人に不動産を貸していることを証明する証券の束 を、シスコ銀行の大金庫に置いているにもかかわらず、馬車を持っていなかった。
証券取引所の取引終了の鐘が鳴った後、ウォール街に群がった仲買人は、 グリーン夫人が最も優れた投資家だとうわさした。二人の取引員が、ウォール街の 建物の前面の大理石の壁にもたれて、うわさ話をした。取引所での売りと買いの 衝突ですり減ってしまった靴を人に磨かせている間、彼らはグリーン夫人の名を挙げた。 ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株とエリー株の不可解な上昇と下落は、 しばしば間違ってこの女性投資家の謎めいた力のせいにされた。グリーン夫人は、 まだ多くの人に知られていなかった。
弁護士ジョセフ・チョエイトは、時々、グリーン夫人のケチ、貪欲、 悪賢さについての面白い小話を語った。ニューベッドフォード の鯨漁船団からお金が来たと彼は言った。チョエイトは、グリーン夫人が 初めて社交界に出たときからずっと知っていると言った。2代目シスコはもちろん、 グリーン夫人を知っていたが、グリーン夫人のことを話題にしたとき、 それほど注意を払わず、グリーン夫人の奇行をほのめかされても取りあわなかった。
しかし、ウォール街の取引員のほとんどは、グリーン夫人の夫を知っていた。 彼はワインを嗜む大男だ。グリーンの体重は約250ポンド(112kg)。 身長は群を抜いて高い。彼は、ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道 の社長を1期3ヶ月つとめたことがあった。その前に、ルイスヴィル・アンド・ ナッシュヴィル鉄道の副社長だったこともあった。グリーンは東洋で20年 近く貿易業に携り、1865年にアメリカに帰ったとき、百万長者として 知られていた。すでにグリーンの妻は、多くのうわさ話の種になっていた。 ある者は彼女をウォール街の女王と呼んだ。その称号をめぐって彼女と 争えるほど、ウォール街で十分な結果を残した女性はいなかった。そしてこれが グリーン夫人に関する伝説の一部になった。
1885年の初めの経済見通しは、前年ほど悲観的ではなかった、景気対策 が行われないことに人々が失望したことを除けば。大統領選挙に当選したグロバー・ クリーブランドは、1885年1月7日までニューヨーク州知事を辞職 しなかった。悲惨な年―1884年の後、経済不況は社会不安の原因となり、 その社会不安は、大統領選挙でクリーブランドの勝利をもたらした。 ニューイングランドの町は、まだ、工場労働者の賃金の10%削減を 郵便で発表していた。ホッキングバレー(鉄道会社)は、炭鉱労働者の ストライキを恐れていた。小麦価格は、数ヶ月の間、生産者をがっかり させるような水準だった。ストライキと賃金切り下げの情報が、ニューヨーク から、アメリカの多くの地域に電信で伝えられた。鉄道会社は少ししか 収入を得られなかった。ピッツバーグから、アメリカ最大の製鉄会社が、 債務不履行に陥ったとの情報が届いた。オリヴァーブラザーズ・アンド・ フィリップスは、労働者の賃金を1日あたり98セントにして操業しようと 試みた後、債務不履行に陥った。同時に、オリヴァーブラザーズ・アンド・ フィリップスの子会社のオリヴァー・アンド・ロバーツ針金会社は、 工場を閉鎖した。
ウォール街の取引員は神経質だった。恐慌が再び起こる条件が整っていた。 そして、そのとき、老舗の銀行であるジョン・J・シスコ・アンド・サンは 債権者に利益を譲渡した。
この行動は、ウォール街の営業日の終わりと同時になるよう注意深く時間設定 されていた。20分後、3人のジョン・J・シスコ・アンド・サンの事務員が、 郡の役所に姿を現し、譲渡の証書を提出した。証書によると、譲渡された 相手の名は、ルイス・メイだった。彼は、ニューヨークの有力なユダヤ人の うちの一人だった。
。。。

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第24章ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株買占め
ニューヨーク証券取引所の古い建物の構造は、まるで、才能ある菓子職人が贅を尽くして作ったかのようだ。
外部装飾の汚れは、1865年の竣工から、1901年に現存の建物の用地の一部にするために取り壊すまで積み重なった。
しかし、そこで起こった出来事についての伝説の方が、建物についたスス汚れよりも黒かった。
この古い建物は、ブロード・ストリートとウォール街の角にはなかったが、L字型だった。
ニュー・ストリート4番地、ブロード・ストリート10・12番地、又は第三の地番で呼ばれたが、いずれも間違いではなかった。
この場所の向かい側は、政治屋、労働組合活動家、牧師など国中の扇動家に好まれた。
なぜなら、彼らは、聴衆の煮え立った感情に火をつけるには、この場所が適していることに気付いたからだ。
ウォール街13番地には、いつも演説する人がいた。
そこで活動する多くの投機家は、実際のところ、13という数字の呪いに取りつかれているようだった。
しかし、もっと不運なのは、ウォール街13番地と電線でつながった厄介な自動電信機が、人間の理解の枠組みをはるかに超えた悲惨な情報をもたらすことだ。コネチカットの工場主、テキサスの鉄道会社の株主たち、コロラドの金鉱の労働者たちは皆、合理的に説明し難い、非難されるべき一日の激しい値動きで犠牲になっただろう。これは、農業者が温度計を見て早霜を非難するように無意味なことだ。しかし、自動電信機が時々、カチカチと音を立てて、陰謀家たちの経済的不正を記録していたことは否定できない。取引規則の量が増え、表面上の厳しさが増したが、新しい規則はどれも、投機家の陰謀を抑え、取引を本当の経済状況に対応させることを意図したものだった。取引所が新しい規則を公布すると同時に、抜け目のない人が、少数の者が得をして、多数が損するような方法を考案した。それでも、取引所会員組織の中で、株の買占めが非難されるべきと信じた者はわずかだった。もし、証券取引所で売ることができる量を上回る株を買うほど機敏な投機家がいたなら、売り方を打ち負かすことができただろう。このような状況に対応する法のすべては、しばしば語られる1つの句に要約された。
「空売り屋買い戻さねば 牢屋行き」
ヘティ・グリーンのお金が、ウォール街の金融機関に流れたとき、しばしば、ヘティが何らかの株を売買しているとのうわさが流れた。フィラデルフィア・アンド・リーディングはヘティのお気に入りの株の一つだと言われていた。しかし、このような時、ヘティは表に出ようとしなかったので、誰も確かなことは知らなかった。ヘティは、株式市場の混乱を招いたとして何度も非難された。ヘティとは何の関わりもなかった時でさえもだ。ジェイ・グールドその他数人は、ドレイク・ブラザーズがグリーン夫人の仲買人だと思っていた。従って、ドレイク・ブラザーズの場立ちが、何らかの鉄道株を大量に買ったとき、一般にその注文は、ヘティ・グリーンの口座でなされたと報告された。
アディソン・カマックという名の南部人は、株式市場の一貫した売り方だった。
彼は南北戦争後にニューヨークに現れたおびただしい数の同類のうちの一人だった。
アトランタのジョン・インマンのような多くの元南軍兵士たちが、綿花の知識を使って商売を始めた。
しかし、彼らのほとんどは失敗し、綿花関係の仕事から離れていった。
大多数の者が南軍と共に崩壊していった一方で、ごくわずかの者がなんとか財産を増やすことができた。ケンタッキー生まれのアディソン・カマックは、南北戦争後に南部を離れた裕福な移住者のうちの一人だった。ウォール街のうわさで彼の経歴を知ることができる。カマックは、南北戦争中に投機的な事業で100万ドルを稼いだと言われている。ハバナの司令部で北軍の海上封鎖をかいくぐっていた、あるいは、1863年に自身はロンドンにいて、封鎖破り船団に出資していたとも言われているが、カマックはウォール街で歓迎された。行儀のいい億万長者はどこでも歓迎されたのだ。カマックは、1876年に証券取引所の会員権を買い、1897年まで持ち続けた。
ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道の幹部は、会社の利益が過去数年間の平均に比べ減少したことをカマックに打ち明けた。
カマックは、ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道が配当を減らそうとしていることに気付いた。
蹄鉄のような髭を生やし、刺しゅうのある亜麻の服を着たカマックは、ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株を大量に空売りした。
カマックが仕掛けた売りの圧力で、ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株は30ポイント下落した。
ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株はたやすく下がるので、株価が底値に達したとき、カマックは当初の2倍の額の空売りをしていた。
そのため、さらなる値下がりを予測しているカマックの含み益は数百万ドルに達したように思われた。
後日、カマックは語った。
「全て俺の言った通りになった。公報は全て悲観的だった。取締役会は配当を取りやめた。これを喜ばずにいられようか。」
「その時、その時だ。ちくしょう!俺は、もう借りる株がどこにもないことに気付いた。
俺は屠殺場の中にいたんだ。俺はどのみち、俺自身の血しぶきを見ることになった。」
カマックはこの冒険の詳細を金融街の記者、ハリー・アロウェイに打ち明けた。
取り乱したカマックは、翌日の株式市場が開く前に、手練の仲買人アル・コームズをグリーン夫人のもとに差し向け、空売りを決済するのに必要な数の株を貸してくれないか、または売ってくれないか頼ませた。コームズはケミカル・ナショナル銀行に行き、戻ってから報告した、グリーン夫人は、今日は忙し過ぎて商売の話ができないと言い張ったと。ヘティは、コームズに翌朝、会うことを約束した。そして、翌朝、コームズは、次のような皮肉を聞かされた。
「前に、カマックさんは、ルイスヴィルは持っているのが恥ずかしいような株だと言ってなかったかしら。」
コームズはもう一つ伝言を持ち帰った。その内容は「明日の早朝、カマック自身がヘティの家に来るように」だった。カマックは約束の時間に遅れまいとするあまり、夜も寝なかった。ヘティ・グリーンの鋭い視線の下、カマックは花嫁のように神経質になった。
ヘティは切り出した
「そういえば、私はルイスヴィル株を持っている。必要なら譲ってもいい。
この紙に、4万株の高値と底値の差額を計算して書いている。
お急ぎなら、1株あたり10ドル上乗せしていただけるとありがたい。いかがかな、カマックさん。」
カマックは多くを語らなかった。
カマックは、ヘティにちょうど40万ドルの利益をもたらす小切手を手渡した。
カマックは少なくとも100万ドルを失うとみられていたため、この事件の後、カマックの前でヘティ・グリーンのことを冷酷だと言う者はいなかった。ヘティは、ルイスヴィル株を買い占めた。したがって、ヘティが望むなら、カマックを身ぐるみ剥いでしまうことができた。もしも、カマックがコリス・P・ハンティントンだったなら、話は違っていただろう。ハンティントンはヘティの敵だった。
ヘティは、アディソン・カマックに情けをかけたことが、ウォール街での彼女の性格に関する評判からかけ離れていたことをよく知っていた。
ある時、ヘティは、ケミカル・ナショナル銀行の事務室で訪問者を応対して語った。
。。。
グリーン夫人に関するスティルウェルの小話は、ベロウズフォールズの歴史家ヘイズによって注意深く記録された。
ヘティがよくホテルの一室で自分の服を洗い、洗濯物の束を窓の外に投げた後、1階に降りて、ホテルの窓ガラスに洗濯物を広げて乾かしていたことについて、スティルウェルは事実だと保証した。しかし、ヘティに洗濯係として雇われた女性が流行らせた次の小話のほうがずっと公平だ。グリーン夫人が、洗濯係の賃金を彼女が仕事をやめる準備をするまで値切ったというものだ。グリーン夫人は最後の譲歩として、ペチコートの全部を洗う必要はなく、床や道に触れて汚れる裾の部分だけでよいと断言した。
ヘイズ氏の記録によると、スティルウェルがよく語っていた別の小話がある。それはヘティが、夜遅く馬預かり所に行った時のことだ。ヘティは非常に興奮し、スティルウェルに馬を手配させ、郵便切手を落としたと思われる所に戻った。ヘティが探していたのは、2セントの切手だった。切手は見つからず、グリーン夫人は鬱々として家に帰った。数時間後、ヘティは馬預かり所のドアをたたいて、スティルウェルを起こし、翌朝の捜索の指示を取り消した。ヘティは幸せそうに微笑んでいた。なぜなら、着替えの時、服の中から切手を見つけたからだ。
スティルウェルは、村で評判の有名人だ。
スティルウェルは自分自身のことを才能ある話し手だと思っていた。そして、スティルウェルは聞き手の興味を引くため、ヘティに関する話を脚色した可能性がある。確かにスティルウェルは、雇い主のヘティのために多くの仕事をした。ヘティが都会に行った時の馬の世話、ヘティの飼い犬の世話、そして、その他ヘティが留守の自宅に放置しておけない所有物の管理をした。
以前、ヘティがニューヨークに行った時、デービッドの馬小屋使用料をぐんと値切った。
ヘティが不在の間にベロウズフォールズでエピゾーティックと呼ばれる謎めいた馬の疫病が流行した。スティルウェルは馬の治療のため88セントを使い、グリーン夫人が戻った時、治療行為のおかげで老馬デービッドの命が助かったと説明した。しかし、ヘティは請求の支払いをしようとしなかった。ヘティは、デービッドがやせたのは、スティルウェルがエサを十分やらなかったからだと言った。
ある年の春、スティルウェルは、ヘティが飼っていたニューファンドランド犬の世話を放棄したためヘティとけんかになった。ヘティは旅行で村を立つ前、ジュノーという名の犬を注意深く世話するようスティルウェルに言い含めた。村のお節介屋が、スティルウェルが犬の世話を怠けているとの手紙をヘティに送った。それはジュノーではなく、村の雑種犬のことだった。
ヘティは、スティルウェルに悪意のある手紙を送り、ジュノーをニューヨークにいるヘティの許へ送り届けるよう指令した。 ジュノーは4匹の子犬を産み、それぞれが25ドルで売れた。そしてヘティが態度をやわらげたとき、スティルウェルはジュノーをヘティの許に送り届けた。スティルウェルは、ヘティが、子犬を産ませるために素晴らしい血統の犬を仕入れ、犬の相場が上がった時にジュノーも売却したとの印象を受けた。
ヘティの子供たちが人格形成期を過ごした村、ベロウズフォールズの人々が、ヘティについて覚えている事柄はこういったものだ。 にもかかわらず、ヘティは村人から好かれていた。ヘティが村を出るたび、村人たちはヘティがウォール街とかいう場所に行っていると思い込んだ。ヘティが戻ってくるたび、村人たちは、当然のようにヘティがさらに金持ちになったと思い込んだ。しかし村人たちは、ヘティの富または権力の大きさについて正当に評価していなかった。40万ドル以上のお金をアディソン・カマックからもぎ取る冒険を終えて家に帰った後、ヘティは、スティルウェルに小言を言うようになった。それは、スティルウェルが長い馬屋の列の外に馬糞を熊手で投げ捨てることに対して、デービッドの売値が下がるとの内容だった。村人たちは、ヘティは変わった人だと思った。
ヘティは、村のある貯蔵庫に途方もない数の宝石を蓄えた。
ベロウズフォールズに蓄えられた宝石については、あらゆる種類の伝説がささやかれた。
その量は1ブッシェルのかごを満たすといわれた。
快晴の日の海のように青いサファイア、
望遠鏡で見た星々のように輝くダイヤモンド、
鯨の鮮血よりも赤いルビー、
バーモント州の村々と世界を隔てる急勾配の草深い丘のように緑のエメラルド
があった。真珠もあった。
ヘティは、後年ロッキングハムの判事になったT・E・オブライエンに宝石を全部見せた。
オブライエンはヘティがどこで宝石を手に入れたのか知りたがった。
「いくつかは相続で、多くのものは取引で」とヘティは説明した。
盗難防止のため宝石の隠し場所の鍵穴をパテで埋め、その上に封印紙を貼るのがヘティの習慣だったとオブライエン氏は言った。

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第26章ヘティ、テキサスの鉄道を買う
グリーン夫人は、かつて祖父や父が船を海に送り出したのと同じ気持ちで息子を事業に送り出した。
ヘティは、息子を信頼できると感じられるようになって初めて息子に鉄道事業家になる道を歩ませた。
ヘティが知るところでは、グールドは7年で鉄道事業界での地位を築き上げた。
ヘティの支持のもと、息子はどこまでも遠くに行けそうだった。
全ての母親は息子に幻想を抱くが、ヘティは息子が巨大な富を手に入れると約束されていると思った。
グールドは鉄道業で財産を増やした。
ウィリアム・ヴァンダービルトは同じ分野でより多くの財産を築いた。
総延長6486マイルのサザン・パシフィック鉄道は、1892年の1年間で、4900万ドルの利益を上げた。
ヘティは、ペンシルヴァニア鉄道によって運ばれる無煙炭と瀝青炭の利益も知っていた。
ヘティは、シカゴのミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道沿線の小麦と材木の産地が鉄道の所有者に利益をもたらしていることを、完全に理解していた。グリーン夫人は、鉄道会社を所有・経営する機会を徹底的に活用した。
ヘティは、ネッドのためにオハイオ・アンド・ミシシッピ鉄道の機会を見つけた。その鉄道は単線で、ケンタッキー州シンシナティとルイスヴィルから東セントルイスまで、そして、イリノイ州ベアーズタウンからイリノイ州ショーニータウンに伸びていた。1887年、ヘティは、発行済株式20万株のうちの2200株と7万6千ドル相当の社債を持っていた。2つの集団が鉄道の支配権をめぐって争っていた。ボルチモア・アンド・オハイオ・サウスウェスタン鉄道は、オハイオ・アンド・ミシシッピ鉄道を必要としていた。東部の金融界で「沈黙スミス」として知られるジェイムズ・H・スミスは、その意図に気付いていたが、ボルチモア・アンド・オハイオ・サウスウェスタン鉄道が、もっと高い代価を支払わざるを得ないようになるまで売り渋ろうと思った。グリーン夫人は、スミスを代表とする株主の集団に味方した。
争いの決着は、シンシナティで開かれた1891年の年次株主総会に持ち込まれた。3人の取締役が選ばれることになっていた。ある候補者の集団は、ボルチモア・アンド・オハイオ・サウスウェスタン鉄道との連結を望む関係者を代表していた。別の集団は、連結に反対する株主の代表だった。連結反対派の候補者は、沈黙スミス、セントルイスのエドワード・ウィテカー、ヘティの息子グリーン氏だったが敗北した。しかし、彼らは争いを最高裁判所に持ち込むことを決めた。J・F・バーナード社長は、ボルチモア・アンド・オハイオ・サウスウェスタン鉄道との合併から、自身の仕事を守ることにグリーン夫人が協力してくれることを期待し、ネッドに取締役優待乗車証を送った。
現在、ある東部の鉄道会社の副社長を務めている紳士が、当時、バーナード社長の秘書だった。彼は、ある日、帽子のつばと顔がススで汚れた、片足が不自由で背の高い若い男がシンシナティの事務所に来たことを覚えている。それは、グリーン夫人の息子で、彼の取締役優待乗車証は、ちょうどイリノイ州ベアーズタウンからシンシナティへの旅で欄が埋められていた。ネッドは全区間通して貨物列車の乗務員車に乗った。
それ以来、ネッド・グリーンは時々、シンシナティの事務所に顔を見せるようになった。ネッドは専務取締役を自称した。1893年、グリーン夫人とその同盟者たちはボルティモア・アンド・オハイオ株を全部売った。
しかし、その時までに、ネッドはシカゴ・テキサス間の旅行に多くの時間を費やしていた。成功の見込みが薄く、長年、ヘティの悩みの種となった事業案件が、ネッドのために作り出されようとしていた。もし、誰かが、アメリカ国内の町と町をでたらめに結ぶ無数の短い路線をまとめて大陸横断鉄道を作ろうとすれば、どこを起点にするかが重要になる。そして、テキサスは、他のどのような場所よりも起点にふさわしかった。たった1年前に、グールドとハンティントンは、互いにテキサスに手を出さない一種の休戦状態に入った。それはあたかも、中国の群雄が州の支配をめぐって争うかのようだった。ネッドの機会の一つは、ヒューストン・アンド・テキサス・セントラル鉄道の支線だった。コリス・P・ハンティントンもそれを必要としていた。
1892年12月のある日、テキサス州ワコのマクレノン郡裁判所の階段は人ごみであふれていた。最上段には、合衆国巡回裁判所の事務員、クリストファー・ダートが立っていた。彼は、ワコその他のテキサス州の自治体に重大な結果をもたらす鉄道資産競売の委員長だった。しかし、その大群衆の中に買値を提示した者は4人しかいなかった。供託金2万5千ドルを預けることができない者は買値を提示できなかった。
4人のうち2人は早くも沈黙した。残りの2人は競りを続けた。競りを続けている者のうちの1人はジュリアス・クラットシュニットで、当時、コリス・P・ハンティントンの助手だった。クラットシュニットは後日、ハリマンの補佐役になる。この時、クラットシュニット氏はヘティ・グリーンの息子の競争相手だった。結局、ネッドは、クラットシュニットが付けることを許された値よりも高い買値を提示し、鉄道資産は、137万5千ドルでグリーン夫人の代理人ネッドが落札した。ヘティが買ったものは、ワコ・アンド・ノースウェスタン鉄道として知られるヒューストン・アンド・テキサスセントラル鉄道の58マイルの区間だった。それは、ブレモンドからロスまで走り、27万7230エーカーの土地(鉄道建設を奨励するための補助金の一部)とテキサス州の北の境界であるレッド川まで鉄道を建設する特許権が付属していた。
ハンティントンは、自分の代理人がその支線を落札できないとは全く思っていなかった。加えて、ハンティントン本人はカリフォルニアに行っていた。クラットシュニットは自ら競売に出席せず、弁護士を代理人として競売に行かせていた。にもかかわらず、グリーン夫人の息子が、ハンティントンが代理人に許した金額のはるか上まで買値をつり上げ始めた時、ハンティントンの代理人たちは、ハンティントンに電報を送ろうとしたが、無駄に終わった。その日はグリーン親子の勝利だった。しかし、それは、ただの前哨戦に過ぎなかった。コリス・P・ハンティントンは敗北の味を極端に嫌った。
グリーン夫人が新たな鉄道区間を買うまでに2ヶ月もかからなかった。ヘティには疑いなく、以前の投資を守ること以上の深い動機があった。それは息子のためだった。新たに買収したのは、テキサス・セントラル鉄道の北東支線でギャレットとロバーツという52マイル離れた2つの自治体を結んでいた。ギャロットとロバーツは、鉄道が操業を開始した1882年には、町というよりむしろ村と呼ばれていた。
テキサス・セントラル鉄道には75万ドルの債務があったが、ヘティは、買収するにあたって75万ドルも支払わなかった。
その時、鉄道は極度の財政難に陥り、裁判所の命令によって競売にかけられた。
債券保有者を代表する委員会が買値を提示した。この買付委託者の団体として組織された委員会は、グリーン夫人を除く全員が会社の清算を強く望んでいることに気付いた。売却価格に対するヘティの取り分は11万3537ドル50セントになるはずだった。グリーン夫人は、その取り分を受け取るよりも、北東支線と呼ばれる鉄道区間およびその付属地からなる資産を買う方がいいと言った。ヘティは時価11万3537ドル50セント相当の債券と現金7万5千ドルを代価として支線の資産を手に入れるつもりだった。ヘティの提案は受け入れられた。
その後まもなく、グリーン夫人の鉄道会社は合併してテキサス・ミッドランド鉄道となった。
それは、1892年12月のことだった。
ヘティは何人かの取締役を指名した。彼らには見識がなく、会社にとって必要なのは若者だと考えた。結局、取締役会でエドワード・ヘンリー・ロビンソン・グリーン氏(ネッド)が社長に選ばれた。彼は27歳だった。ネッドの後ろのどこかで、ヘティは新聞記者から取材を受け、取締役が息子の能力を認めたことについて喜びを表現していた。
テキサス州テレルは、1928年までに人口1万人に達し、主な収入源は周囲の綿花畑だ。
しかし、グリーン若社長が母親の52マイルの鉄道会社の事務所に落ち着いた時、テレルの人口はごくわずかで、新参者は住民と知り合うことなく、2日と持たずに去っていくだろうと思われた。
町の女性たちは、その若者が大学卒業後12年間独身でいる誓約を交わしていることを知らなかった。その結果、ネッドは彼女たちの人気者になった。町の男たちは、ネッドが鉄道を拡張しようとしていたことを知っていた。その結果、ネッドは彼らの人気者になった。ネッドはつばが自分の肩幅ぐらい広いテキサス帽をかぶった。暑いときは(だいたい暑いのだが)コートなしで行動し、町の一員であることを示した。ネッドは郵便切手と珍しい硬貨を収集した。日曜日には教会の奉仕活動に参加した。ネッドは疑いなく、遠く離れた人口の少ないこの地で、他のどの新住民よりも歓迎された。人の話を聞いたとき、ネッドの巨体は深い笑い声でふるえた。
明らかに、ネッド・グリーン氏はテキサス州テレルの住人に好かれた。ネッドはうわさ話の種となり、その驚異的な人気は町の自慢になった。全米一金持ちの女性の息子!大げさな住民は、ヘティは世界一金持ちの女性だと旅人に自慢した。他のテキサスの町々は嫉妬に狂った。
グリーン社長の鉄道拡張計画は野心的だったが、実現する見込みはなかった。当時、彼はエニスからグリーンヴィルまでの73マイルの鉄道を持っていた。その列車は、綿花地帯の線路を14マイル走り、そして、パリスからコマースまでの37マイルの新しい線路を走った。世界大戦中にグリーン氏は綿花地帯に平行に走る路線を敷設して2つの路線をつなげたため、結局、グリーン氏は125マイルの鉄道に加えて、引込み線と操車場を含む148マイルの鉄道を所有することになった。
テレルの人々と線路沿いの町に住む人々は、当初、大きな成長を期待した。
1897年にオクラホマ準州のガスリーから、重要な鉄道建設計画が進行中との至急電が届いた。
ニューヨークのヘティ・グリーン夫人は、オクラホマ州に通じる鉄道を建設すると述べている。提案された路線はロックアイランドのメドフォードからテキサス州シャーマンに伸び、そこでE.R.グリーン(ネッド)の路線につながる。この路線は、カンザス州ハッチンソンからオクラホマ州ハッチソンとガルベストンにつながり、湾岸への交通の便となる。その路線は、1898年に建設されると言われている。
それは、決して実現しなかった、少なくともグリーン夫人のお金によっては。
ヘティはネッドに最高のエンジン、最も重いレール、その他の良い設備を買うことを許可したが、ネッドが鉄道事業家として路線を拡大することは、あまり奨励していなかった。これは、ヒューストン・アンド・テキサス鉄道の区間を裁判所の手続きで買った時、コリス・P・ハンティントンと争った経験によるのだろう。
この路線は、元々ガルベストン・アンド・テキサス・セントラル鉄道として知られていた。
それは、テキサス州で最初の鉄道企業の一つであり、州の中心部をデニソンまで直進した。その蒸気機関は、南北戦争以前は長年、メスキート木を燃料にしていた。1880年代初めには、利益とスポーツのために貨物列車の一つを襲撃して壊滅させることを考える人もいた。彼らは時刻表に関して十分に知らされておらず、彼らが線路上に置いた障害物に旅客列車が衝突した。死傷者は多数にのぼり、裁判所は損害賠償のためその鉄道会社を管財人の管理下に置いた。
列車が壊れたことが、鉄道会社が債務不履行に陥った真の原因だった。
そして、その結果、ニューヨークのジョン・J・シスコ・アンド・サン銀行で、あの悲惨な事件が起こった。グリーン夫人がウォール街に出向き、夫を追放した。時は流れ、列車を取り巻く状況が魅力的になった今でも、食べ物その他の物を狙って列車を前へ後ろへと追跡する解体業者がいるのは面白い。
グリーン夫人は、全部ハンティントンのせいだと何度も何度も言ったが、彼に対し列車事故の責任を問うことは難しい。他の事故に対してどんなに責任を問えたとしてもだ。再編委員会は、1885年以降、ニューヨークでヒューストン・アンド・テキサス・セントラル鉄道を建て直し不動産賃貸料を支払えるようにするため奮闘した。農業金融信託会社は一番抵当に対し貸し付けしてきたが、資金調達のため債券保有者を募集するようになった。その債券は不動産担保を裏づけとして発行された。農業金融信託会社はヘティ・グリーン夫人に宛てられた古い封筒を受け取った。ヘティの名前の上には「25万ドル」と鉛筆で書かれていた。職員はそれを見ただけでグリーン夫人が額面1000ドルの債券を250通、所有していることがわかった。一日ほどたってから、ヘティは農業金融信託会社の利子を独立して扱うことを提案したと債券保有者委員会に通知した。
1892年3月にワコの裁判所は54マイルの鉄道区間を競売にかけ、12月にネッドはハンティントンの代理人クラットシュニットより高い値を付け落札した。
この時からハンティントンは戦いを始めた。ハンティントンはその鉄道区間を手に入れたがっていた。グリーン夫人は単にハンティントンの進路に足を踏み入れただけだった。ハンティントンの最初の行動は、合衆国巡回裁判所への請願の提起だった。それは鉄道の管財人(ハンティントンの速記者の一人)が鉄道不動産について96313ドル87セントの抵当権を保有していたという内容であり、それらの抵当権は売却資産として記載されていなかった。
グリーン氏、というよりむしろテキサス・ミッドランド鉄道のグリーン社長は、入札した資産に抵当権は記載されていたと返答した。ネッドは、もし抵当権の記載がない場合は入札を撤回したいと言い、そうするために裁判所の許可を求めた。
ハンティントンはグリーンが撤退することは許されないと強く主張し、第二の訴訟を提起した。そこで、グリーン親子が入手した鉄道に対して(表向きは)様々な告訴人から訴訟の洪水が提出された。ワコの議会に国から会社に供与された州内の鉄道付属地を全部没収することを許可する法案が提出された。新しい所有者は、明らかに絶望的な訴訟の激流に巻き込まれた。それはヘティ・グリーンとその息子にはあまりにも大きかった。ハンティントンは事件を酷くもつれさせたので、新しい所有者は、掘り出し物に関する疑惑をはっきりさせることを望んだ。
ハンティントン氏はテキサス州に強い影響力を持っていると思われた。1893年3月14日、裁判所は売却を承認し、ネッドが買った資産には抵当権の記載がなかったと判決した。
ヘティ・グリーン夫人は、生涯でたった一度の不注意な買い物をしてしまったかに見えた。テキサスの鉄道は、1マイル当たり1万240エーカーの気前のよい土地供与に助けられ建設された。当時、土地は鉄道会社の資産のかなりの部分を占めていると思われた。グリーン氏は、支線と一緒に買った土地の権利はひどく混乱しているので、所有しているとは言い難いと報告した。謎の人物がわざと混乱させているように思われた。1人の相手どころではなく、テキサス州の2、3の郡の中に千人の敵がいるようだった。ネッドは助言を求めるため、母に電報を送った。
ネッドは契約した金額の支払いを渋ることにした。それは、多分、へティの指図だった。ヘティはネッドにお金を渡さなかったのだろう。とにかく、裁判記録によると、ハンティントンが裁判所に提出した書類はE・H・R・グリーンに軽蔑の念を抱かせた。しかし、ネッドは、安すぎる買値を提示したために発生した損害は全て負担するという条件で鉄道の売却を依頼した。
サザン・パシフィック鉄道を邪悪なタコと見なすカリフォルニアの人々は、ハンティントンと戦うグリーン夫人を英雄視した。グリーンとハンティントンの戦いの最中、グリーン夫人がケミカル・ナショナル銀行で玉ねぎをかじり気炎を上げていたある日、カリフォルニアから1個の小包が届いた。その中には、44口径の回転式連発拳銃と革袋が入っていた。それは、西海岸に住む熱心な支持者からの贈り物で、もしサンフランシスコに来ることがあれば盛大な歓迎を約束するとの手紙が添えてあった。その約束についてヘティは「もし、私がサンフランシスコに行ったら、1万人以上の人が駅に集まり、ハンティントンに対する勝利に向かって共に行進し、太平洋岸の人々に対する彼の極悪非道な仕打ちを罰しただろう。」と何度か語った。グリーン夫人がその強敵とあいまみえた日、手に取ろうとした拳銃は、その時贈られたものだっただろう。
期日到来によって、ひどく困難な状況にある息子を助ける気がグリーン夫人にあるかどうか確かめるため、ハンティントンは、ケミカル・ナショナル銀行に行った。グリーン夫人は友人のチャールズ・W・オグデン夫人に語った。彼女の夫は、ダラスの弁護士で、テキサスでのネッドの法律顧問だった。
。。。

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ヘティ・グリーンと1907年恐慌
1901年、J.Pモルガンは約2億5000万ドルでカーネギースチールを買収しUSスチールを設立した。
モルガンは、繊維産業などでも企業買収によって巨大企業を作っていった。
その中のいくつかでは、関係企業の株価がつり上げられた後、買収資金をまかなうための新株が発行された。
その結果、株式ブームが起こった。好景気はやがてバブル化した。
その間、ヘティが批判めいた発言をしても、古臭く退屈な考え方としか受け取られなかった。
1907年、ニッカーボッカー信託銀行の破綻をきっかけにして、恐慌が起こった。
好景気の時には気前よくお金を貸していた銀行が、不景気になると急に 貸し出しを渋るようになった。
ニューヨーク市は資金繰りに窮し、市の清掃部門にさえ給料を支払えなくなった。
そのときヘティが現れ、ニューヨーク市にお金を貸し付けたため、ニューヨーク市は急場をしのぐことができた。
さらにヘティは、ラカワナ鉄道が、いち早く燃料に無煙炭を使って乗客にすすが付かないようにした こと(参考)に注目して、
恐慌下にもかかわらずラカワナ鉄道への貸付を増やした。
話は前後するが、 1905年11月ヘティは、ニューヨークタイムズの記者に次のように語った。
「安値で誰も欲しがらないときに品物を買う、
そして、それが値上がりして、人々が買いたいと強く望むようになるまで、相当な数のダイヤモンドを持つように、持ち続ける。
これが、事業で成功する一般的な秘訣だ。」

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ヘティ・グリーン死後の話
現在、アメリカにはヘティ・グリーン系の財閥は残っていない。
ヘティ・グリーンの子孫も残っていない。
ヘティ・グリーンの死後、巨大な遺産はどうなったのだろうか。
ヘティの死後、遺産は息子のネッドと娘のシルビアに半分ずつ相続された。
ネッドは、ヘティの死後、無茶苦茶にお金を使った。
豪邸を建て、豪華客船を買った。
また、ネッドは新奇なものには何でも手を出した。
自動車、飛行機開発に熱中し、自分のラジオ局、テレビ局を作った。
そこまでは、一般人でも理解できるのだが、極めつけは、マサチューセッツ工科大学の教授を呼び寄せて粒子加速器(参考、ネッドが作らせたものはもっと小さかったと 思う。) を作らせたことだ。
自動車や飛行機やテレビ、ラジオは日常生活で使うかもしれないが、粒子加速器を日常生活で 使うことはない。
ネッドはよほどお金の使い道に困ったようだ。
それでもネッドは世界大恐慌の直前に鉄道会社を売却し、世界大恐慌直後に買い戻したりして儲けていたので、財産は減らなかった。
やがて、ネッドが子供なしで死んで、遺産は全てシルビアのものとなった。シルビアにも子供がなかった。
ネッドにもシルビアにも子供がいなかったのには原因がある。
ヘティはネッドの恋人が金遣いが荒いことを嫌った。
そのため、ヘティが死ぬまでネッドはその恋人と結婚できなかった。
一方、シルビアに求婚する 社交界の男性も多かったが、ヘティは
「そういう男は、金儲けをしたこともなければ、お金の価値も知らない。」
と言って認めなかった。
そして、シルビアは38歳で結婚した。
だから、ネッドにもシルビアにも 子供がいなかったのは偶然ではない。
シルビアの死後、遺産は遺言により140に分割され、大学、病院、図書館、シルビアの知人などに 分け与えられ社会に還元された。
2006.6.10
ヘティ・グリーンの死亡記事
アメリカの一部の教会関係者は、今だに日曜日の説教で信者に向かって、ヘティ・グリーンは不幸な人で、 苦しみながら死んだ、と中傷しているらしい。
しかし、余り信用できない。
『Hetty:The Genius And Madness of America's First Female Tycoon』
の記述では、 ヘティは普通に脳卒中で倒れて衰弱して、息子と娘に看取られて81歳で死んでいる。
1916年のことである。
僕の印象に残ったのは、
「ヘティは毎日、息子のネッドに会った。ネッドは、ちょうど数十年前 ヘティが父と祖父にしたように、その日の経済ニュースを詳しく話した。」
という記述だ。 普通の人なら、死ぬ前にお金を 使ってしまおうと考えると思うが、ヘティはそういう考えを超越してしまっている。
一種のさわやかさを感じる。生活を派手にすることと結びつかない金銭欲は、無欲に等しいのではないか。
ヘティ・グリーンの死亡記事に関しては
「もし、ヘティが男性だったなら・・・ 莫大な財産を増やすために身も心も費やしたとしても、 人は特にそれを変わっているとは思わないであろう。」
が有名だが、 他にも何種類かある。
「ほとんど全ての町、小さい町にさえ、ヘティ・グリーンに 似た女性がいる。
ヘティがお金を貯めこむために払った犠牲は平均的なものである。
ただ、他の女性が数千ドル貯めこんだのに対して、ヘティが数千万ドル貯めこんだことが違うだけだ。」
「たぶんへティは幸せだっただろう。 ヘティは勇気を持って自分の生き方を選び、好きなだけケチな生活をした。
彼女にとって正しく 役に立つと思えるような世の中の慣習に従い、その他の全てを冷たく、または穏やかに無視した。」
2006.5.13
ヘティ・グリーン対宗教
ヘティ・グリーンは政府や企業にお金を貸していたが、善意で多くの教会にお金を低利で貸していた。
あるとき、シカゴの第5長老教会は、借金を返せなくなってしまった。
その教会の牧師は、他の教会の牧師 にまで呼びかけて、信者に向かって、ヘティは情け容赦ない金貸しだと中傷させた。
さらに、その牧師は、 ヘティに手紙を出して、担保物件を売りさばくと、天国へ行けなくなると脅した。
(まったく、ひどい宗教もあったものだ。)
この手紙に対して、ヘティはこう返事した。「脅すつもりなら、新しい教会の礎石の 上で祈ったほうがいいですよ。担保物件は売りさばきますので。」また、多くの教会関係者がヘティを弁護する側に回ったらしい。
2006.3.18
ある日、ヘティは仕事上の用事で不動産会社に行った。
ある社員は、ヘティの質素な服装を見て、雑用の仕事を求めて来たに違いないと思った。
その社員は「お手伝いさんは雇わないよ。」 と言ってヘティを追い出そうとした。
仕方が無いので、ヘティは「私はヘティ・グリーン。あなたの会社が私から50万ドル借りたいと言うので、商談のために来た。」
と言った。お金を借りようとする相手を追い出そうとするのだから、失礼極まりない社員だ。
その後の記述は無いが、きっと社長が出てきて社員に怒りつつヘティに謝るという 具合になったのではないか。
2005.12.4
へティ・グリーン対コリス・ハンティントン
『バブルの歴史』にヘティ・グリーンが鉄道事業家のコリス・ハンティントンをピストルで脅したという 謎めいた記述がある。コリス・ハンティトンは、スタンフォード(スタンフォード大学設立で有名)とともに 大陸横断鉄道の建設に関わった超大物である。 この事件には次のような背景がある。 1892年、ヘティはアメリカ西部の小さな鉄道を競りで買収した。 ハンティントンもその鉄道を 狙っていたが、提示額が少なく買えなかった。ハンティントンは何としてもその鉄道 を手に入れようとしてヘティに嫌がらせをした。 ハンティントンは裁判所を操作してヘティが買収した鉄道には土地が付属していないということにしてしまった。 当時の鉄道会社には沿線の土地が政府から無償で与えられ、その土地を売って会社の利益にすることができた。 そのため、買収した鉄道に土地が付属していないことはヘティにとって大損だった。 嫌がらせはさらにエスカレートして、ハンティントンはヘティの事務所に押しかけ、 鉄道を手放さなければヘティの息子( へティの事務を代行するためアメリカ西部に 派遣されていた。) を警察に逮捕させると脅した(無茶苦茶だ)。その時、ヘティは机からピストルを取り出しハンティントンに 向けて
「Up to now ,Huntington,you have dealt with Hetty Green,the business woman.Now you are fighting Hetty Green,the mother.
Harm one hair of Ned's head and I'll put a bullet through your heart!」
と言ったとされる。
日本語に訳すと
「ハンティントン、あんたは今まで実業家としての私と取引してきたけど、今、あんたは母親としての私と戦っているんだよ。
ネッドの髪の毛一本でも傷つけたら、 あんたの心臓を撃ち抜くよ!」
といったところだろうか。ハンティントンは叫び声をあげて逃げ去ったらしい。
その後、ヘティは自分の買値より高い値段で鉄道をハンティントンに売却して利益を上げた。
2005.8.14
1886年初夏、ヘティ・グリーンは、ジョージア・セントラル鉄道の株を1株あたり70ドルで 6700株買った。近いうちに、ジョージア・セントラル鉄道株をめぐる買収合戦が起こるという情報を聞きつけたからだ。 ジョージア・セントラル鉄道は多数の鉄道路線の寄せ集めで、非効率経営が行われていた。 ニューヨークの投資家グループはジョージア・セントラル鉄道を買収して利益が出る会社に作り変えようと画策した。 ヘティ・グリーンがジョージア・セントラル鉄道株を買った後、買収合戦は過熱化した。 ニューヨークの投資家グループは、ジョージア・セントラル鉄道の経営者を、非効率で株主に報いていないと批判した。 これに対して、ジョージア州民は、ニューヨークの投資家グループは短期間の利益しか考えてないと批判した。 (現代日本に外資が入ってくるときの論争そっくりだ。)さらに、約20年前の南北戦争の 記憶が両陣営の対立をいっそう激しくした。「南北戦争研究室」によると、南北戦争時、 北軍は、ジョージア州で、 大都市から農村・田畑に至るまで進撃路の南部人資産をことごとく収奪・焼却したといわれる。 ジョージア・セントラル鉄道株の買収合戦が過熱化した結果、株価は1886年11月に100ドルまで上がった。
株主総会の時期が近づいたとき、ニューヨークの投資家グループは取締役選挙に勝つために、 ヘティ・グリーンが持っているジョージア・セントラル鉄道株を買い取ろうと考えた。 ニューヨークの投資家グループの一員で、取締役選挙に勝った場合、 ジョージア・セントラル鉄道の社長になる予定のE・P・アレクサンダーがヘティ・グリーンとの交渉にあたった。 アレクサンダーは、ヘティ・グリーンに1株あたり115ドルで ジョージア・セントラル鉄道株を買い取ると提案した。ヘティ・グリーンは1株あたり125ドルを要求した。 アレクサンダーは、1株あたり125ドルで買い取る現金が無いので、いったん断ったが、後に、取締役選挙で自分の陣営に投票してくれたら、 選挙に買っても負けても1株あたり125ドルで買い取ると妥協案を示した。 アレクサンダーにとっては信じられないぐらい寛大な妥協案だったらしい。 しかし、ヘティ・グリーンは、現金が手に入るまで時間がかかる料金として1株あたり5ドルを加算して1株あたり130ドルを要求した。 結局、1株あたり127.5ドルで合意に達した。 1887年1月株主総会が開かれ、アレクサンダーは選挙に勝った。 この取引でヘティ・グリーンは、 38万5200ドルの利益を手に入れた。
2005.6.19
2005.4.24の補足
「南北戦争研究室」の「南北戦争時の貨幣価値について」 に、 グリーンバックス(アメリカ紙幣)の値動きの資料がある。 グリーンバックスは1864年に底値をつけた後、 値上がりし続け、1879年に金との兌換が再開された(つまり、1ドル紙幣を銀行に持っていけば、 1ドルの金貨と交換できるようになった)。 『Hetty:The Genius And Madness Of America's First Female Tycoon』 によると、ヘティ・グリーンは、 南北戦争終結後、1865年から1867年にかけてグリーンバックスを買っているので、どの時点 で売ったとしても、かなりの利益を得たと思われる。
2005.6.5
ある日、ヘティが雑誌記者に、なぜケチな生活をするのか、と聞かれた。ヘティは 、自分の家は5世代にわたって金持ちなので、富を見せびらかして社会的地位を上げる必要がない、 と答えた。この発言のため、ヘティは当時のマスコミに、金持ちは金持ちでない人より偉いのか、と批判された。たぶん、 へティは、金持ちは金持ちでない人より偉いと言いたかったのではなく、 『バブルの歴史』に出てくるような、富を誇示するにわか金持ちと自分は違うと言いたかったのだと僕は思う。
2005.5.8
ヘティ・グリーンが、銀行で大量の預金を一度に引き出せと要求して、 銀行を潰したというエピソードがある。 また、ヘティの夫、エドワードが事業で破産したが、 ヘティは結婚の条件として、夫婦の財産を別管理にしていたので無事だったというエピソードがある。 実は、この二つのエピソードは関連していた。1884年、ヘティの取引先の銀行が鉄道投資に失敗して、 経営危機に陥った。それを知ったヘティは、銀行から預金を引き出そうとした。 しかし、エドワードはその銀行から大量の借金をしていた。 ちょうど、ヘティはその銀行の最大の預金者で、エドワードは最大の借り手だった。 銀行側はヘティにエドワードの借金を払うよう頼んだが、ヘティは聞き入れず、 銀行から預金を全て引き出した。こうして銀行は潰れ、エドワードは破産した。 何の落ち度もないのに、ヘティはこの事件でずいぶんマスコミに叩かれたらしい。
2005.4.24
「J_Coffeeの株式投資日記」では、南北戦争中にヘティ・グリーンがアメリカ国債を買ったとされているが、 『Hetty:The Genius And Madness Of America's First Female Tycoon』によると、 ヘティは南北戦争後にアメリカ紙幣を買ったことになっている。 南北戦争中に北軍は戦費をまかなうために大量の紙幣を発行した。 南北戦争後、経済の先行き不安から、アメリカの紙幣の価値が下がり、 1ドル紙幣が50セントの金貨と交換されるようになった。 ヘティは、このアメリカ紙幣を大量に買った。 鉄、石炭、石油などの資源開発が押し進められ、 アメリカの戦後復興が順調に進んでいるとヘティは考えたからだ。 この本では、その後、アメリカ紙幣がどうなったかの記述がない、 アメリカ史の常識なのだろう。アメリカ史の基礎知識を身につけようと思った。
これまでの研究
2005.1.30
『Hetty:The Genius And Madness Of America's First Female Tycoon』購入。 ヘティ・グリーンの生涯を扱った洋書である。『Witch Of Wallstreet』がどうしても手に入らなくて困っていたが、 2004年11月に新しいヘティ・グリーンの伝記が出版された。早速、Amazonで注文して取り寄せた。 いちいち辞書を引くと、全く先に進まなくてつまらないので、小学生が大人向けの歴史の本を読むような感じで読んでいる。 まだ投資手法のところまで読み進んでいないが、ヘティの幼年期のエピソードで面白いものがあった。 ヘティが6歳か7歳のころ、歯医者に行かされた。普通の子供にもよくあることだが、ヘティは歯医者を怖がって泣き叫んで治療を受けようとしなかった。 歯医者が困っていたところ、召し使いがヘティの母から渡された50セント硬貨をヘティに見せた。そうするとヘティは泣き止んで、おとなしく歯の治療を受けたという。 しかも、ヘティはそのとき受け取った50セント硬貨を全く使わず貯金箱に入れたらしい。素晴らしい。
2004.3.21
大学4年の夏の話になるのだが、株式投資の研究のため「バブルの歴史」を図書館で借りて読んだ。オランダのチューリップ投機から日本のバブル経済まで世界史上のバブルを紹介するという内容の本である。ほとんどの登場人物が、バブルの発生ともに大金持ちになって贅沢な生活をするようになり、バブルの崩壊とともに破滅した。その中で、一人だけ違うタイプの人物がいた。ウォール街の魔女と呼ばれたヘティ・グリーンである。何が違うかというと、まず徹底的なケチ(ギネスブック公認らしい)。どんなに金を儲けても浪費することがなかった。そして、投資手法。ほとんどの人は暴落時に破滅するのに、ヘティ・グリーンは逆に暴落時に買うことが得意だったようだ。彼女は死ぬまでに1億ドルの財産を築いたらしい。このヘティ・グリーンの生涯と投資手法についてもっと詳しく知りたいと思っていたが、適当な本がなかった。今年の3月になって、洋書を買うことにした。
アマゾンで
「Witch of Wall Street Hetty Green」
を注文した。英語が読めるかどうか分からないが、時間をかけて読もうと思う。
到着は3月末か4月初らしい。またホームページで
「Witch of Wall Street Hetty Green」
の紹介をする予定。

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