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近衞篤麿


近衞篤麿
2020年02月06日
中国実体経済の問題とユーロ爆発の危険性 仕掛けられた様々な罠(東京タワー)
2015/09/04 20:08
中国では1999年から西部大開発プロジェクトが進められています。
これはこれで経済成長には欠かせないのですが、これが大公害を発生させ、例のPM2.5等の大気汚染、水質汚染、土壌汚染を引き起こし、四日市ぜんそくなど比較にならないくらいの規模に発展しています。この公害を無くさないとさらなる経済の発展は難しい。
日本でも、日本初の本格的な石油化学コンビナートである四日市コンビナートが建設された事によって、1960年代に四日市市は急速に工業化され、工場の生産活動で大量の亜硫酸ガス(硫酸ミスト)が大気中に排出されました。
この話を名無し先生が私に教えてくれた当時、私は何故、四日市ぜんそくという過去の問題にこだわるのかわからなかったのですが、下記の説明を受けました。
福井藩と富山藩の間は加賀藩です。誰がいますか?前田キリシタン大名です。ガラシア夫人でしょう?
近衛家が結婚したのは前田。なんで北陸の田舎大名が力を持ってたか?東京タワーのオーナーになったか?イエズス会が後ろに居たんでしょう?イエズス会が前田の後ろに居て、いろいろ操作した。
徳川幕府が終わる時の戦争に、武器供給をした商社は前田を挟んだ福井、富山。朝鮮戦争に米軍が行く時も富山湾から出る。
富山湾の米軍艦と横須賀基地の通信をする為に東京タワーを建てた。日本で最初の頃の石油コンビナート基地である四日市は富山藩の飛び地(所有地)。
こういうことをいきなり言われても何が何だかわかりませんでした。調べてみると長い長いストーリーでしたよ。
細川ガラシャ。
1563年、明智光秀と妻・煕子の間に三女として越前国で生まれる。
1578年 15歳の時に父の主君・織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ。
1579年 長女が、1580年には長男(細川忠隆、後の長岡休無)が2人の間に生まれた。
1582年 父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、「逆臣の娘」となる。
1584年 信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉により、忠興はガラシャを細川家に戻し、厳しく監視した。
忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれていった。もっとも忠興の前ではそ知らぬ風を装っていた。
1586年 忠利(幼名・光千代)が生まれた。
1587年 夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は身を隠しつつ教会に行った。
大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名を受けた。それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという。バテレン追放令が発布されていたこともあり、彼女は夫・忠興にも改宗したことを告げなかった。
1600年 忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。
西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。
ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。細川屋敷から逃れた婦人のなかには、ガラシャの子・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もいたが、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当・廃嫡した(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。彼女の死後、忠利が興秋を差し置いて家督を相続、不満を抱いた興秋が大阪の陣で豊臣側に与する原因となった。
ガラシャが死を選んだことによる他家への影響は非常に大きく、西軍に味方するものが減り、東軍に恭順するものを増やした原因となっている。
■ガラシャからつながる近衞篤麿
近衞篤麿は、明治時代後期の華族・政治家。号は霞山。
近衛家は五摂家筆頭の家柄で、公爵。
第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長。本姓は藤原。
近衞篤麿は、自らの地位や身分とそれが社会の中でどのような姿であるべきかを深く自覚していた。ヨーロッパの貴族社会を参考に、近代日本においても社会的に優越した立場にある華族が単に「皇室の藩屏」として存在するのだけではなく、政治や社会福祉などのより広範な分野で地位相応の役割を果たす義務を負うべきであること(ノブレス・オブリージュ)を早くから考えていたのである。そうした見地から、学習院の院長としては学習院が高い水準の教育機関であるようその組織を整備し、そのために必要な財源の確保と財務のあり方を確立することに尽力した。その学習院で学んだ華族の子弟が、やがては日本を支え、日本を世界に代表するような外交官や陸海軍人になることを望んだのである。
公家の中でも最高の家格をもつ五摂家筆頭の近衛家の当主である篤麿は、その出自とは裏腹に率直で剛腹な人となりで知られていた。貴族院の公爵議員として政治の世界に入った篤麿は、1892年(明治25年)から1904年(明治37年)まで貴族院議長の要職を担ったが、当時の藩閥政府には常に批判的な立場をとりつづけた。第一次松方内閣が樺山資紀海軍大臣の「蛮勇演説」を廻って紛糾し空転した衆議院を初めて解散して行われた第二回総選挙では、品川弥二郎内務大臣が中心となって行った極めて大規模かつ徹底した選挙干渉の結果、弾圧された民党側に死者25名・負傷者388名を出すという空前の惨事になったが、篤麿はこれをうやむやにすることを決して許さず、政府の姿勢を舌鋒鋭く追及し、さらに政党も猟官主義に走ればそれは単なる徒党にすぎないと、当時の政治には批判的であり、松方正義、大隈重信、山縣有朋、伊藤博文からの入閣の誘いを全て断っている。
■アジア主義の盟主として活躍
篤麿の外交政策は、中国(当時は清朝)を重視したものであった。特に日清戦争後に積極的に中国をめぐる国際問題に関わっていく。
1893年(明治26年)に東邦協会の副会頭に就任。日清戦争後、西欧列強が中国分割の動きを激しくしていく中で危機感を抱く。
1898年(明治31年)1月に雑誌『太陽』第4巻第1号に載せた論文「同人種同盟附支那問題の研究の必要」で「最後の運命は黄色人種と白色人種の競争にして此競争の下には支那人も日本人も共に白色人種の仇敵として認められる位地に立たむ」と日本と中国は同文同種と主張して同年に同文会を設立したが、同文会は、犬養毅の東亜会や興亜会、東邦協会と善隣協会の一部などを吸収して東亜同文会となり近衛篤麿は同会の会長に就任する。かくて、民間諸団体を糾合し国家主義、アジア主義大同団結運動を企み、康有為との会談ではアジア・モンロー主義を主張した。東亜同文会はアジア主義的色彩の強い立場に立脚し、中国・朝鮮の保護と日本の権益保護のため、外務省・軍部と密接に提携しながら、
1900年(明治33年)に南京同文書院(後の東亜同文書院、その後身愛知大学)を設立するなど対中政治・文化活動の推進を図っていく。また、清朝内で強い権力を持つ地方長官の劉坤一(両江総督)や張之洞(湖広総督)などにも独自に接近、日清の連携をもちかけた。
そうした中1900年(明治33年)6月、中国の華北や満州(現在の中国東北部)を中心に義和団の乱が勃発、これに乗じたロシアが満州を占領下に置いた。これに強い危機感を抱いた近衛は政府元老の伊藤博文や山縣有朋らにロシアに対して強硬な姿勢を取るよう持ちかけたが一蹴された。
そこで篤麿は犬養・頭山満・陸羯南・中江兆民ら同志を糾合して同年9月に国民同盟会を結成し、日本政府に対する批判をますます強めた。さらに長岡護美に書簡を託し、満州を列国に開放することで領土の保全を図るよう、劉坤一や張之洞に働きかけた。張が特にこれに大きく触発され、劉とともにこの篤麿の案(根津一などがゴーストライターとして考えられるが)を清朝の中央に上奏し、採用を求めている。この時は却下されたものの、満州開放案はその後袁世凱も採用し、日露戦争後にはむしろ権益独占を図る日本に対する障害となった。
また、1903年(明治36年)には玄洋社の頭山と平岡浩太郎や黒龍会の内田良平も名を連ねる対露同志会を結成。貴族院議長を辞任、枢密顧問官に任命された。戸水寛人らの七博士建白事件にも関与していた。
小川平吉と頭山らが篤麿を首班にした内閣をつくろうとした中、1904年(明治37年)1月1日に42歳の若さで死去した(満40歳没)。中国に渡航したさいに感染した伝染病が原因であった。近衛家の菩提寺である大徳寺(京都市北区)に葬られた。
篤麿の死後、多額の借財があり、頭山や五百木良三ら国民同盟会のメンバーが債権者を退散させたこともある。
長い文章ですが、頭山、内田といった登場人物、玄洋社、黒龍会といった、おなじみの3つの地球アジア支部といいますか、満州国を建国を目指すメンバーです。
欧米列強に虐げられていたアジアを統一し、対抗しようとする熱い想いが、逆に3つの地球という欧米のヘッセン陣営によって動かされたという一例です。
右翼、頭山満はご存知の通り、渋沢栄一とともに資金を提供して国士舘大学を作らせました。現在の国士舘は北朝鮮への送金窓口になっています。
右翼の構図ですが、国士という言葉で愛国者を演じ、実は国の名誉を傷つけ、しまいには国益を低下させるどころか、敵に資金提供するという、裏の裏をかいた自作自演です。また、出口王仁三郎と共に北京に「世界宗教連合会」を設立しました。
出口王仁三郎は1929年(昭和4年)10月、出口すみと共に世界紅卍字会の協力を得て朝鮮・満州の布教に努めた。抗日運動が激しさを増していたが、夫妻は熱烈な歓迎を受けたと伝えられる。
国内での活動が制限される中、王仁三郎はアジアでの活動を重視して中国の軍閥や日本の右翼頭山満や内田良平と関係を結び、北京に「世界宗教連合会」を設立した。続いて「人類愛善会」を発起、これらの動きは第一大本事件と満蒙での失敗から、実際の権力ではなく思想・信仰における改革への方針転換とされる。特に満州に対しては、世界紅卍字会と提携して積極的に進出した。また中国大陸だけでなく、教団内に「大本開栄社」を設立して、日本の委任統治領となった南洋諸島への布教を行った。アジア、南北アメリカ、ヨーロッパにも進出し、各国の宗教団体・心霊主義団体と連携する。宗教活動が制限されたソビエト連邦にも働きかけを行っている。大本と王仁三郎は民族主義(天皇中心主義・日本至上主義)と世界宗教性の振れ幅が大きく、対応に苦慮した日本政府は警戒を強めていく。
四日市からここまで繋がりますから、日本の闇は深いです。
さらに東京タワー、朝鮮戦争、富山湾、横須賀基地、四日市コンビナートが全て富山藩で繋がります。そして四日市コンビナートで平田佐矩から九鬼喜久男と繋がり、時代は再び700年前の南北朝時代まで遡り、結局は大昔、大化の改新の藤原氏の時代までつながります。
中国内陸部、西部大開発プロジェクトですが、これも日本の闇の歴史同様、昔からの繋がりで行われています。結果的には総体的に賃金の上昇が起こり内需の拡大につながるというのがパターンです。
それと共産貴族の存在。これは文化大革命後の新興財閥。鄧小平は客家の出自ですから、昔からの貴族(商人)の出です。彼らを批判し追い出そうとしたのが毛沢東です。でも結果的に鄧小平の時代に中国が社会主義経済の下に市場経済の導入を図るなど、同国の現代化建設の礎を築いたわけです。
ニクソンの訪中を機にアメリカとの国交正常化交渉を前進させ、さらに田中角栄と日中共同声明に調印して日本との国交正常化を実現した周恩来も、江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれました。
ですから、文化大革命後も昔からの客家(旧商人貴族)が存在し、共産貴族(新興財閥)も存在する。
さて、ここからがグローバル化した現在の世界経済のジレンマです。ある程度の成長を果たすと製造業はもっと安い賃金を求めて出て行ってしまう。中国をはじめとする新興国は、世界の工場から自国の製品を輸出し売ることができるかどうか?日本が経済成長を果たし、先進国の仲間入りを果たしたのは日本人が優れているということもあったでしょうが、欧米から技術支援があり、莫大な資金が投入されたから。
最初は安い製品から始まり、次第に欧米の製品を凌ぐほどの品質を達成しました。これは国際的な組織による技術、資金、市場をもらい、引っ張り上げられた結果です。
さて、まだまだこれからの中国経済がここで失速するのは、いかがなものでしょうか?まずは公害問題を解決しなければ本当に終わってしまいます。

コアな情報
http://utg.sblo.jp/article/179325461.html