ラベル #0477 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル #0477 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

倭人と韓族

中国文明を日本に伝えたのは半島にいた日本人たちだった・・「日韓がタブーにする半島の話」室谷克実氏(3)
2017-05-16
古代の朝鮮半島について学びたいと思い、室谷克実氏の「日韓がタブーにする半島の歴史」を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
この本をどう読むかは、それぞれの方のお考えによると思いますが、
わたしは、どちらが偉いかということでは読んでいません。
朝鮮半島と日本は古来から深いかかわりを持ってきたという、当ブログでも今までたくさん取り上げてきたテーマの一環として、
一つの資料としてご紹介したいと思います。
           *****
         (引用ここから)
半島の西南端にあたる栄山江地域に、十数基の前方後円墳があることに着目すべきだ。
これらが発見されたとき、韓国のマスコミは「日本独特の墓制とされてきた前方後円墳も韓国が起源だったことが明らかになった」と報じた。
しかしその後の調査で、その地の古墳は5~6世紀の築造と明らかになった。
日本の前方後円墳は、3世紀には出現している。
つまり5~6世紀の半島最西南部には、100メートル近い墓を作る倭人の強力な勢力があった。
「後漢・韓伝」は、馬韓の領域について、「その北は楽浪郡と、南は倭と接する」と書いている。
後漢の時代には、すでに倭人が支配する領域だった、と言っているのだ。
倭国も新羅も、3世紀後半までには盆地国家を次々と勢力圏におさめ、両者の勢力圏が接した。
そうでなければ、倭国勢力と新羅の本格的対峙は起こりようもない。
「新羅本記」の前半部分には、倭人「脱解(タレ)」の子孫である倭人の王が次々に出てくる一方で、
倭国に攻め込まれる記述がすこぶる多い。
倭の軍兵とは、倭人だけの部隊だったとは想定しがたい。
指揮官は倭人だっただろうが、弁韓にいた韓族、ツングース族が、純粋倭人よりずっと多かったはずだ。
闘いは、倭の侵攻から始まる。
新羅は、攻め込まれる側だ。
そして王都どころか、「王城が、何日も倭兵に包囲された」との記述も、複数個所ある。
異民族主導の兵隊が、首都の防衛線を破って侵入し、王城を包囲する。
これは、一国にとって大変な事態だ。
5世紀半ばの時代まで、倭の軍勢は、よほど強かったのだ。
半島の倭兵は、なぜこうも強かったのだろうか?
古来、武器と指揮系統を持つ軍団同士の長期的な戦いは、文明力の差により決まってきた。
「新羅本記」が描く3世紀後半からの倭の圧倒的攻勢も、文明力の違いによったと見るのがすなおな解釈ではないのか?
1世紀半ばには、倭国は漢・楽浪郡と直接のつながりがあった。
楽浪郡の遺跡からは、贅を尽くした品々が出土するが、それが韓族の領域に広く流れ出ることはなかった。
特に、新羅の場合は楽浪郡との間にツングース族の居住地域があったから、楽浪郡と新羅はほとんど交渉がなかった。
となると、倭人は韓族から何を習ったのだろうか?
「中華文明は半島を通して列島に入ってきた」と言われる。
〝日本の常識″だ。
しかし、半島南部に倭人が確固たる地歩を築いていて、韓族を後目に早々と漢と直につながっていた。
であれば、「中華文明を列島本国へ伝えたのは、韓族ではなく、半島にいた倭人だった」と見る方が自然だ。
では、漢字や寺院の建設技術はどうだろうか?
「記紀」が伝えているのは、大和朝廷に対する公式伝達のことだろう。
1世紀に漢と交渉をした倭人が、文字を見なかったはずはない。
卑弥呼が漢字を読めなかったなら、魏の皇帝の「みことのり」を持参することも意味をなさない。
「隋書・倭人伝」の「倭国に文字なし」とは、固有の文字のことではないのか?
そもそも、「隋書」が伝える「倭王」とは、阿蘇山の近くにいた。
卑弥呼と同じ王朝なのだろうか?
では、寺院建設の技術はどうなのか?
半島の古刹を初めて見た日本人は、その柱のゆがみの醜さに仰天する。
地震がある国では、とてももたない。
日本の大工分野の技術用語にも、韓語の面影は発見できまい。
列島(おそらく九州)にいた倭王には、狗邪韓国などの「弁韓」諸国も、新羅など「辰韓」諸国も、韓族と倭人、さらにツングース系、中国系流民などが雑居しながら混血が進むという点で、
同じような国々としか見えなかったことだろう。
そうした中で、新羅が他国と違う点は、領域が広く、早い時代から倭種が王位にいるのに、しぶとく屈服しないことだったろう。
しかし4世紀後半になると、北方から高句麗が新羅を本格的に攻撃してくる。
新羅は、高句麗に人質を送る。
そして高句麗から戻った人質が、王位につく。
「新羅本記」は、漠たる筆致で描いているが、「三国遺事」は「新羅にいた高句麗軍兵がその王を殺し、新名王をたてた」と明確に記している。
つまり、この一時期、新羅は高句麗の属国になっていたのだ。
その間も南方からは倭国の進撃が続いて、ついには高句麗と倭国の勢力圏が新羅の王都で接した。
そうした状況を生々しく伝えてくれるのが「広開土王の碑文」(高句麗19代王=在位391~412年)だ。
「高句麗の大群に追われた倭兵は、半島南部の本拠地である「任那加羅」に向けて敗走する。
しかし深追いした高句麗軍の脇腹を、「安羅」の軍兵が突いてきた。
そして「安羅」軍が、慶州を占領してしまった。
圧倒的な勢いの高句麗軍と、遁走する倭兵。
「安羅(今日の韓国ハマン郡)」が、倭国に屈服させられた単なる属国=韓族の国だったなら、
これは倭の支配を脱する絶好の機会だったはずだ。
ところが「安羅」は、この戦いでは全く分の無い倭国を、積極的に助ける軍事行動に出た。
「安羅」もまた、明らかな倭種の国だったからだ。
「新羅本記・477年の条」には、「倭人が挙兵し、五道から攻めてきた」とある。
その一つは「任那街道」と呼ばれていた。
半島東南部で、倭人がどんな拠点を占め、どんな指揮系統が機能していたならば、
五道から同時に新羅に侵攻するようなことができたであろうか?(=相当な組織力を持っていたと考えられる)。
         (引用ここまで)
           *****
wikipedia「好太王碑(広開土王碑)」より
好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた中国に存在する石碑である。
広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われ、4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史・古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。
この碑は好太王の業績を称えるために子の長寿王が建てたもので、碑文には「甲寅年九月廿九日乙酉」(西暦414年10月28日)に建てたとある。
好太王碑は現在の吉林省集安市の好太王陵の近くに位置している。
高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の石碑で、その四面に計1802文字が刻まれ、
碑文は純粋な漢文での記述となっているが、風化によって判読不能な箇所もある。
●日本と碑文
碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、
三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。
そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、以下がある。
             ・・・
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。
そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、
大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。
新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。
ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
           ・・・
『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」
と新羅が倭へ人質を送っていた記録等があり、他の史料と碑文の内容がほぼ一致している。
碑文では、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこず、遠く離れた倭が何度も出てくることから、
倭国と高句麗の「17年戦争」と称する研究者も存在している。
その一方で、韓国などには高句麗が百済征伐のために倭を「トリックスター」として用いただけであると主張する研究者も存在している。
倭の古代朝鮮半島における戦闘等の活動は、
日本の史書『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』、朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、中国側の史書『宋書』においても記録されている。
また、2011年に発見された職貢図新羅題記にも「或屬倭(或る時は倭に属していた)」という記述があり、議論を呼ぶだろうとした。
               ・・・・・

始まりに向かって
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/12c33cffcae6d1409c52429aacf5abc9