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予知情報:ジーン・ディクソン

予知情報:ジーン・ディクソン
お次に紹介するのが、アメリカの予言者・占星術師ジーン・ディクソン(1918年~ 1997年)です。ウィスコンシン州メイフォードの裕福な家庭に生まれたジーン・ディクソンは、幼いときから、得意まれなる予知能力を示していました。8歳の時にロマ族の女性から水晶球を与えられたのをきっかけにして予言を行うようになり、10歳を過ぎた頃には、ジーンの名はカルフォルニア一帯に広がり、ハリウッドの有名俳優たちも彼女の予言を聞きに来るようになっていました。こうしてジーンは、「水晶球の予言者」と呼ばれ、ついには合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトのアドバイザーなども務め、裏での第2次世界大戦終結への助言を提言したのでした。ほかにもケネディーやガンジーの暗殺、ウォーターゲート事件など、アメリカ現代史上の主要な出来事を悉く的中させました。
そんな彼女のアセンションがらみの予言があります。
1962年2月4日早朝、彼女は次のようなビジョンを見ました。
太陽の昇ってくる東の地平線の中に、金色の光とともに古代エジプトのネフェルタイトの王と女王が現れました。
女王は腕の中に、光に包まれた赤ん坊をジーンに差し出してきたのです。
「1962 年、地球上に新しい救世主が誕生し、やがて彼は世界を救うために活動を開始するはずです。彼の特徴は、東洋哲学に融合した教えをもっていることです。ただし注意しなければならないのはこの人物は『偽りの救世主』だということです。
人々はこの人物の愚行に振り回され、破滅の道を突き進むことになるでしょう。彼は10代で、すでに自分の悪魔的使命を自覚するようになりに、暴力によって世界制覇を目指すようになります。」
しかし、極めて悪知恵が発達したその人物は、用意周到に準備を進めるなかなか世界史の表舞台には登場しようとしません。
その人物は、歴史の表舞台で初めて姿を見せるのは2000年頃、やがて彼は地球を2つに切り裂くような戦争をしかけて来るといいます。
ただしその戦争は、これまで人類が繰り返してきたような流血の惨事とは限りません。1962年に生まれた偽の救世主は、人類を、残すべき存在と抹消すべき存在に振り分でもける使命を負ってこの世にように使われされたことです。
そしてこの事は2030年まで続くといます。
20世紀末に、偽の救世主が出現することは、聖書の中の予言の書「ヨハネの黙示録」にも記されているますし、ノストラダムスの予言にも登場しています。
但しジーンはこのように続けます。「激動の時代を経て2030年を迎えると地球は再び秩序を取り戻し、人々に平和で安らいだ日々が訪れます。こうした世紀末構想を「神の計画」と呼び、世界が神の魂で満たされて、地球は天国そのままの楽園になるのです。人類はよみがえり、新しい生命の種子を宇宙の果てまで広めるでしょう。」

心&身魂のアセンション
http://ascension.mikosi.com/

サラエボで雪

Winter returns to Bosnia: Sarajevo hit by latest snow storm in 50 years
Posted on May 15, 2012 by The Extinction Protocol

The Extinction Protocol: 2012 and beyond
http://theextinctionprotocol.wordpress.com/





(要約)
サラエボで雪
2012年5月15日
AFP
14日、サラエボの首都ボスニアの気温が氷点下に下がり、雪が降った。この時期に雪が降ったのは50年ぶり。ボスニアの中、東部では、12日に摂氏28度(華氏82度)だった気温がわずか2日で摂氏0.3度まで下がった。季節はずれの寒波で多くの果樹園は損害を受けたという。
サラエボ気象学会 Dzenan Zulum氏
「午前5時(GMT)で降雪量は9センチメートル(3インチ)以上。サラエボでの5月の降雪は、過去50年ぶり。」。
1962年、1953年、ボスニアでは5月に雪が降った。2005年5月にサラエボにも降ったが積もるほどではなく、すぐに溶けたという。

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アポロ計画

隠されたアポロ計画、太陽系
2008/9/13(土) 午前 6:23
更新日時:H19年3月1日(木)
(一)アポロ計画とは
1954年2月20日アイゼンハワー大統領は 
エドワード空軍基地で 太陽系の惑星から来たという 5機の宇宙船で降り立った5人の宇宙人(人間)と会見をしている 
そこでは 物体移動 空中浮揚 テレパシー などの超能力を見せられ また月や火星 金星その他の太陽系の惑星の実態を教えられて たいへん驚き さらに宇宙人から 核実験の中止 を強く要請されている。
そこで翌年の1955年7月18日 米 英 旧ソ連 仏の四大国巨頭会談が行われた、この会談は当時の新聞各紙に軍縮会議の名目で掲載されていますが、
会談の中身は月や惑星の実態そして 宇宙人からの要請をどうするか ということでありました。
会談終了の翌日にアイゼンハワー大統領は 宇宙開発計画を発表し、その数日後、 各国もそろって 宇宙計画を発表しております。 
これは まず彼ら(宇宙人)の言う事が本当かどうかを確かめよう ということになったのでした。
 その内容とは
(1) 月や太陽系の惑星には、地球人と同じ姿で 超能力を有する人間が住んでいるのだろうか
(2) 彼らの文明は地球人より はるかに進化し 貨幣経済のない 戦争も犯罪も病気もない 平等平和な理想社会を作っているのだろうか
(3) 彼らは地球人の知らないエネルギー(宇宙エネルギー)を使ってUFOに乗って地球にやって来ている などである。
アイゼンハワーの後をうけてアメリカ大統領になった 
若き ジョン F ケネディは1962年3月24日ラングレイ空軍基地でジョージアダムスキー(コンタクティーとして有名 火星や金星を訪問している)の仲介で
太陽系内の惑星から来た宇宙人と会見しています 
ケネディは なんとアダムスキーを政策ブレーンにして地球改造計画をスタートさせたのでしたその一つがアポロ計画でありました。
ケネディの考えていたアポロ計画の本当の目的は、月に人間を送り込み 月の実態つまり月の裏側には都市があり高度に進化した人間がすでに住んでいること 
また金星や火星にも地球人よりはるかに進化した人間が住んでおり平和な理想社会を築いていることを全世界に知らせて 
地球人の意識改革を促し ローマ法王とも協力して世界の平和を実現しようとしたのでした 
しかし なんということか1963年11月22日ケネディはダラスで暗殺されてしまったのでした 
この事件は公式発表のオズワルドの単独犯行ということではとても納得できないことは周知の通りであります。
そして一番不可解なことは司法当局の詳細な調査記録は2039年まで封印されたことです 
これはなぜなのでしょうか。これについては新たなコラムで述べたいとおもいます 
ケネディ大統領暗殺事件こそ 人類の未来を決めるターニングポイント(分岐点)であったと思います。
非常に残念であります。
(二)アポロ13号事故の真相
トムハンクス主演のアポロ13号の映画がありましたが 
月へ向かう途中で酸素タンクの一つが原因不明の爆発を起こして月着陸を断念し命からがら地球に帰ったという内容でした 
しかしこの事故の真相は アポロ13号は月面で核実験をしようとして小型の核装置を積んでいたのでした 
それを察知した宇宙人が阻止するために酸素タンクを爆発させたということであります 
UFO 宇宙情報が隠蔽工作されている理由の一つにそれらが軍事機密と一体だからなのです 
他国より優位にたつため 最先端の科学技術を極秘に莫大な資金を投入して研究しているのが軍事というものだからです 
日本人宇宙飛行士も参加していろいろな実験をしている様子がテレビで見ますが
あれは表向きで裏では秘密の軍事的実験をしていると見るべきでしょう 
今日大国の宇宙開発は実態は軍事目的がほとんどなので反対すべきと考えます。
(三)月の真相 
ケネディ暗殺後に アポロ計画は 完成した宇宙船が10機も用意されていたにもかかわらず 
納得できる説明もないままに突然 17号で中止になりました 月は重貴金属の宝庫であることがわかっており 
まして人類は月へ行く科学技術をすでに手にして 人類の夢とアメリカの 国をあげての巨大プロジェクトだったのです 
突然中止する理由はどこにもありません 宝の山が目の前にあるのに手にしない人がいるでしょうか 
以後30年経った今日でも月にはぜんぜん行っていないのです これほど不思議なことも他にありません 
世界のマスコミはどうしてなにも言わないのでしょうか
月の真相は 高校 大学でも新聞 テレビやNASAの発表でも判りません
宇宙飛行士が月面に立てた星条旗が風になびいていることから空気があることが判っています 地球人も慣れると宇宙服なしで生活できます
月の裏側には多くの水があり植物があります 
また月面の静かの海の近くに8本の尖塔状の人工構造物が整然と立っており 
ドーム状の人工構造物があることをアポロ飛行士が報告しています(私は この尖塔状の物はマイナスイオン発生装置ではないかと思います 火星地上には高さ数十キロの同じような尖塔が建っています)
アポロ8号のボーマン飛行士が月の裏側にサンタクロース(宇宙人の月基地)が実在したと報告しています
アポロ11号のアームストロング船長とオルドリン飛行士は 月面で宇宙人とコンタクトしたということをアームストロング船長の親しい友人が外部にもらしています
アダムスキーや他の情報によりますと月の内部は空洞になっており 
人工太陽や湖があり 快適な居住空間に人工的に作られていて多くの宇宙人が住んでいるという 
また月の裏側には大研究所があり 地球人の一人一人をたえず監視しているようです
NASAが写した月面での写真は数万枚に及びますが 公表したのは約千枚にすぎません これは写っていては こまるものが写っていたからに違いありません 空間物理研究家のコンノケンイチさんはNASAに乗り込んで 写真の修整や隠蔽工作などを詳細に本に著しています。
(四)火星や金星 その他の太陽系惑星の真相
アメリカの火星探査機バイキング1号がパラシュートを使って軟着陸に成功していますので火星は充分な空気があります 水もあり雲もあって気温も地球と変わらない バイキング マリナー マースオブザーバーなどの火星探査機から送られてきた膨大な数の写真には 幅数キロ長さ数千キロの大運河が縦横に交差した高度な農業灌漑システムが構築されています また多くの人工構造物や巨大ピラミッド(エジプトの10倍以上)も写真にはっきりと写っていたがNASAは画像修正して数値も改ざんしてすべて なし と公式発表しています
金星にはアメリカと旧ソ連で20機以上の金星探査機を飛ばして調査している 金星は太陽に近い為に摂氏470度の高温と発表しているが 探査機が軟着陸に成功して写真を送ってきているので コンピュータのICが正常作動した証拠なので 大気温度が470度のはずはない その他NASAの発表は検証していくとおかしなことが多く 嘘の発表と思われます。アメリカは月 火星 金星の他に水星 木星 土星 天王星 海王星などの惑星探査をしているが詳しい本当のデータは発表していません アダムスキーやそのほかの多くのコンタクティーたちは 太陽系のpすべての惑星には いずれも大気と水があり たくさんの生物が住む穏やかな環境で いずれの星にも 地球人よりはるかに進化した人間が住んでいる と言っております。さてあなたはアメリカや旧ソ連の公式発表を信じますか 信用できる国と思いますか。
(五)UFO情報も隠蔽工作されている
第二次世界大戦中に丸く輝く不思議な飛び方をする飛行物体 (これは無人小型UFOで調査専用 映像収集が目的) が数多く目撃されているが 米国ではこれをフーファイターと言って  敵の最新飛行機かもしれない ということで調査をしていましたが 1947年ニューメキシコ州ロズウェル近郊の牧場にUFOが墜落して四人の宇宙人の死体と一人の生きた宇宙人を回収するという事件が起きました その後に同様の墜落事故が何度も起きています。これはUFOは けして衝突 墜落事故は起きないように超高度な科学で作られていますので 宇宙人がワザと墜落させて 地球人にはとても理解不可能な高度な科学力を有する宇宙文明のあることを教え おごり高ぶる地球人を戒めようとしたものと思われます UFOに乗っていた宇宙人は実は生体ロボット(アンドロイド)で知能は地球人よりも高く とても地球科学ではチンプンカンプンであります 米軍の最新型爆撃機ステルスがUFOテクノロジーを搭載しているという噂がありますが 地球科学ではまだまだ無理と思いますので おそらく嘘と思います。今まで UFOは太古の昔から世界中で目撃されており 特に戦争地帯 大事故 大地震などの自然災害時に多く目撃されています 9・11米国同時多発テロの時も ツインタワーのすぐそばで半透明のUFOがビデオにとらえられています UFO出現の目的は おそらく事件事故の調査と 目撃者にとっての覚醒にあると思われます UFO目撃情報はたくさんあるのですが それが軍事機密と繋がっているために公式発表されません それどころか当局が わざとデマ情報を流してその後それはインチキだったと発表したりして情報のかく乱を行ったりしているのが実情です そのようにして専門家ですら 嘘か本当か判らなくしているので 一般人はUFOの存在と実態を当然知らないし否定しているわけであります。
http://www.hpmix.com/home/sennsinn2005/C6_1.htm#3

徹底検索、堀進
http://blogs.yahoo.co.jp/horisusumu8/

ドイツGleiwitz事件

New Material Controls Magnetism With Electric Fields
Tue Aug 23 23:03

Before It's News
http://beforeitsnews.com/story/993/842/New_Material_Controls_Magnetism_With_Electric_Fields.html








(要約)
歴史的事件のウラ
The Intel Hub
2011年8月29日
1939年8月31日
イベント:ドイツGleiwitz事件。ポーランド兵に装ったドイツ兵たちがドイツのラジオ局
を襲撃。ポーランド人の囚人開放を要求。
ウラの意味:ドイツ軍のポーランド侵攻の口実作り。
1941年12月7日
イベント:日本軍によるハワイ真珠湾侵攻。
ウラの意味:真珠湾侵攻を工作したのは米軍。米軍は暗号解析により侵攻を前もって知っ
ていたが基地の交通や電気やオイルの供給を遮断、日本軍の標的となるように仕向けた。
1946年
イベント:米ソ冷戦。米国とソ連( U.S.S.R. )の2国の関係悪化。
ウラの意味:でっち上げ。軍産複合体の構築発展。
1950年6月25日
イベント:南北戦争。北朝鮮と韓国の紛争。韓国による北朝鮮の空爆。初の国連軍( UN
global police force)介入。国連軍は韓国側を援護、中国、ソ連は北朝鮮側を援護した。
ウラの意味:国連にとり韓国を援護する事はメリットがあった。第一に間接的にではある
が北を援護するソ連と関われる。第二にロックフェラー一族、デューリー一族、その傘下
企業による韓国投資の口実。
1962年5月13日
イベント:米国防省によるノースウッド作戦(Operation Northwoods)。航空機テロ爆破事
件。リモート操作による航空機爆破による米市民殺害計画。米国防省上官とスタッフが画
策。キューバ人によるテロ事件とされた。
ウラの意味:キューバ戦争の口実作り。ケネディ大統領はこの作戦に反対、暗殺の原因の
ひとつになった。
1963年11月22日
イベント:ケネディ暗殺事件。ダラスでおきた大統領暗殺事件。殺されたのはJohn F.
Kennedy氏。暗殺者はLee Harvey Oswaldだとされた。
意味:Lee Harvey Oswaldは社会主義者だとされた。John F. Kennedyの次の大統領Lyndon
Johnson下、米国はベトナム戦争に向っていった。ベトナム戦争は「世界規模の社会主義
革命」に抗するための戦争であるとされた。Kennedyはベトナム戦争がおきないよう、CIA
が解散するよう、工作していた。
1964年8月4日
イベント:ベトナムのトンキン湾でベトナム船籍の船が米軍攻撃。
ウラの意味:McNamara氏の文献によると、この事件は偽装災害( a false flag operation
)。報道はされたが、実際におきていなかった。
1967年6月8日
イベント:イスラエル沖で船が沈没。
ウラの意味:Lyndon Johnson大統領が命令、イスラエル政府が実行した。犯行はエジプ
ト人によるものとされ、中東戦争の口実となった。
1968年4月4日
イベント:イスラエル沖で船が沈没。米テネシー州メンフィスでMartin Luther King牧
師暗殺。James Earl Rayによる犯行とされた。
ウラの意味:暗殺は米政府による。Martin Luther King牧師は存命中米政府による脅迫
をうけつづけていた。1999年、James Earl Ray氏は裁判で無罪とされ、米政府が有罪とされた。
1977年4月19日
イベント:ストックホルムで開催された国連会議で温暖化問題が議題になる。Maurice
Strong氏、政治アジェンダGreen Global Governanceを設立。後1992年リオサミットで「
気象異常」が議題になる。Al Gore氏は「気象異常」を訴えた。
ウラの意味:ホッキョククマの頭数はふえている。CO2は温暖化の主要因ではない。
1995年4月19日
イベント:オクラホマシティビル爆破事件。政府のビルが爆破された。容疑者はTimothy
McVeigh。
ウラの意味:世界的規模の独裁体制をつくるための基盤。
2001年9月11日
イベント:ニューヨーク貿易センタービルで同時多発テロ事件。
ウラの意味:世界的規模の独裁体制をつくるための基盤。第三次世界大戦の口実作り。
Clinton政権で計画されBush政権で実行された可能性がある。
2005年7月7日
イベント:ロンドンで列車爆破テロ、52人が死亡、700人が負傷。
ウラの意味:世界テロ戦争( GWOT、Global War on Terror )のシナリオの一環。恐怖に
よる人口削減計画、警察国家構築のための一手。
2008年11月26日
イベント:ムンバイでテロ、164人が死亡。
ウラの意味:西側情報エージェントによる計画。
2009年12月25日
イベント:デトロイトでジェット機爆破テロ未遂事件。若いナイジェリア人が機内に爆
弾を持ちこんでいた。パスポートはもっていなかった。
ウラの意味:世界テロ戦争( GWOT、Global War on Terror )のシナリオの一環。米国
で力を増すTSA、DHS、国内警備の理由付け。警備予算の増強の理由付け。
2010年から2011年
イベント:ファースト&フリアス作戦( Operation Fast & Furious)。米軍がメキシコ
製薬カルテルに武器を直接販売した。
ウラの意味:将来の北米同盟( North American Union )の防衛力強化に米政府が介入
するための口実作り。米国政府の薬品購入のルート作り。
2011年3月2日
イベント:Osama bin Laden殺害。
ウラの意味:CIAメンバーOsama bin Ladenが殺害されたと報道された。
2011年7月22日
イベント:ノルウェイオスロ(Oslo)で市民による銃乱射事件。右派のコーカサス系ノ
ルウェイ人の犯行。
ウラの意味:軍による工作。市民捕集の口実。

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ソビエト映画「戦争と平和」

世界映画史上、最大の超大作!
ソビエト映画「戦争と平和」
タイトルで“世界映画史上、最大の超大作!”となっているが、これは大げさな表現でなく、まじりっけな しの本当なのだ。
超大作を得意とする過去・現在のハリウッドでさえも、ソビエト映画「戦争と平和」 の規模にはおよばない。
「戦争と平和」は、現在のロシアがソビエト時代に国家プロジェクトとして 制作された。
国家予算を使って文豪レオ・トルストイの原作を、国家の威信を賭けて映画化し世界に公開した作品。
この国家プロジェクトを指揮したのは、「人間の運命」のセルゲイ・ボンタルチェク。
ボンタルチェクは制作・ 監督・脚色・主演・ナレーションをこなすという天才ぶりを発揮した。
上映時間7時間半。
公開された時、その巨大なスケール、内容の深さに世界の映画界は震撼した。
【物語】
時代は1805年のロシア、貴族の間ではナポレオンの話題でもちきりだった。
ナポレオンはフランスの皇帝になり ロシアに侵攻するのは時間の問題になっていた。
貴族のアンドレイ・ボルコンスキーは、社交界は見栄とおしゃべり の退屈な世界であり、志願して戦争に行く決意をしていた。
アンドレイには身重の妻リーザがいたが、リーザの反対 もその決意を変えるものではなかった。
アンドレイの親友ピエール・ベズーホフは進歩的なナポレオンの思想を評価していた。
ピエールは私生児であったが なにも人生の目標がなく生きているようで、毎夜悪友達と酒を飲みバカ騒ぎしている毎日であった。
ある日ピエールは、社交界でも特に有名なロストフ家を訪れた。
その中に13歳になったナターシャを見つけた。
ナターシャは屈託のない少女で自由にその愛らしさを振りまいていた。
その時、ピエールは自分とナターシャの運命を 知るよしもなかった。
ピエールに父であるベズーホフ公爵が亡くなり、その遺言で財産はすべてピエールのものになった。
ナポレオンが侵攻し、戦争が始まった。アンドレイは戦地に赴く。
ロシアの運命はどなっていくのか、またピエール、 アンドレイ、ナターシャの運命は...。
【スタッフ】
原作: レオ・トルストイ
脚本: セルゲイ・ボンダルチュク/ワシリー・ソロヴィヨフ
監督: セルゲイ・ボンダルチュク
撮影: アナトリー・ぺトリツキー
戦闘シーン撮影: アレクサンドル・シェレンコフ/イォランダ・チェンユーラン
美術: ミハイル・ボグダーノフ、ゲンナジー・ミャスニコフ
音楽: ビャチェスラフ・オフチンニコフ
編集: タチアナ・リハチェワ
【キャスト】
ナターシャ・ロストワ: リュドミラ・サヴェーリェワ
アンドレイ・ボルコンスキー: ヴィヤチェスラフ・チーホノフ
ピエール・ベズーホフ: セルゲイ・ボンダルチュク
クトゥーゾフ将軍: ボリス・ザハーワ
ナポレオン: ウラジスラフ・ストルジェリチク
リーザ・ボルコンスカヤ: アナスタシア・ヴェルチンスカヤ
エレン・クラーギナ: イリーナ・スコブツェワ
アナトリー・クラーギン: ワシリー・ラノヴォイ
イリヤ・ロストフ伯爵: ヴィクトル・スタニツィン
ナターリャ・ロストワ: キーラ・イワーノワ=ゴロフコ
ニコライ・ロストフ: オレグ・タバコフ
ソーニャ・ロストワ: イリーナ・グバーノワ
マリヤ・ボルコンスカヤ: アントニーナ・シュラーノワ
バグラチオン将軍: ギウリ・チョホネリーゼ
プラトン・カラターエフ: ミハイル・フラブロフ

私の好きな映画
http://www.geocities.jp/qqppk513/war_and_peace.html







【制作データ】
企画から完成まで:
1955年の企画から1967年の完成まで、12年の歳月を要した。
製作費:
130億円(現在に換算すると480億円。
映画「タイタニック」が2本作られる規模。)
使用フィルム:
513万フィート(1,540キロメートル)。
映写すれば約760時間(32日間映写しっぱなし)、「ベン・ハー」の4倍。
登場人員:
595,193名。このうち、重要な役は36名。セリフのある役は599名。
セット:
302。
このうち、118はオープンセットで、最大のセットは、10万平方メートル、モスクワ炎上シーンのために作られた。
その他オープンセットは、クリムリン宮殿、モスクワ、ペテルブルグの町、ロシア軍の野営地、ボロジノのラエフスキー砲台、砦、ロシア貴族の庭園などが作られた。
衣装:
  20,900着。ロシア、イタリア、フランス、オーストリア、ポーランド軍の征服、貴族の衣装、僧
  侶、農民の服、下着、帽子など47の工場で生産された。また、馬具や革製品など2つの工場
  で生産された。
美術品:
  257点。ソビエト国内外の博物館・美術館から保険をかけて借用した。協力した博物館・美術
  館は、エルミタール美術館、クリムリン博物館、トレチャコフ画廊、レーニン図書館、ノボジェビ
  チ尼僧美術館、ボロジノ戦闘博物館。いずれも国宝・重要文化財の絵画、彫刻、聖像、図書が
  貸し出された。
武器・車両:
  160門の大砲。8,000本の小銃、拳銃、刀剣を製造。205台の馬車、荷車、トロイカを
  製造。空中撮影のためにヘリコプター30機とジェット輸送機3機。他に無数のトラック、弾
  薬輸送車両、バス、乗用車、トレーラー、ブルトーザーを使用。52トンの発煙用火薬、23
  トンの銃火薬、16,600発の手榴弾、6,600発の発煙弾、4,500個の信管および導火
  線。40トンの灯油とガソリン(モスクワ炎上シーンは含まず)。
ボロジノの戦闘シーン:
  制作全体の3分の1に近い48億円が費やされた。これは「史上最大の作戦」を上回る数
  字だ。戦闘シーンはソビエト軍124,533名が35日間にわたり投入された。他に馬が35,0
  00頭。撮影で重傷者10名、軽傷、かすり傷など多数の負傷者が出た。
銃砲:
  フランス軍、ロシア軍がボロジノの戦闘で持ち込んだとおりに、フランス軍695門。ロシア軍5
  87門の大砲、手榴弾を準備。そのうち20門は博物館から借用した当時の本物を使用。3,0
  00挺の小銃、拳銃。7,000本の刀剣。
火薬:
  トラック12台分の発煙用火薬と輸送車8台分の銃火薬。9台分の白煙弾。
映画機材:
  テレビのリモコン指令装置つき70ミリカメラ7台を動員。このうち2台はボロジノの戦闘シーン
  のために開発された手持ち用。クレーン車5台、ヘリコプター3機。
モスクワ炎上シーン:
  モスクワ北東150キロの地点に2年をかけてオープンセットを建築。教会、官庁街、商店街、
  住宅を再現した。これをドラム缶40本のガソリンと50本の灯油をかけて炎上させた。
【原作者 レオ・トルストイ】
本名は、レフ・ニコラーエヴィチ・トルストイという。
1828年8月26日ロシア中部ヤースナヤ・パリャーナに トルストイ伯爵家の四男として生まれた。
2歳で母を失い、9歳で父も失った。
13歳の時に兄妹は親戚に引き取ら れた。
肉親の死のために瞑想的な少年になると同時に、刹那主義的な心境のめりこむこともあった。
16歳でカザン 大学に入り2年で退学した。その後、3年間放浪の生活をモスクワで送った。
1851年、兄のニコライをたよって コーカサスへ行き、自然の中で生活した。
自然の中の生活で自分をとりもどし、文学を執筆するようになった。
18 62年結婚、妻と3人の子供に恵まれた。
1869年から5年をかけて「戦争と平和」を執筆した。
その後、「アン ナ・カレーニナ」を執筆した。
「アンナ・カレーニナ」の執筆中に3人の子供と2人の伯母を相次いで失い、妻まで もが重態におちいる不幸に見舞われた。
人間の不幸、人間の運命、人生の意義、真理とは何かという問題に苦悩する 毎日が続いた。
トルストイは文学を捨て、宗教に解決を見出した。
愛と勤労の生活が唯一の真の生活であるという、 トルストイ主義に到達した。
晩年は放浪の旅に出て、病気にかかり、リャザン・ウラル鉄道のアスターポヴォ駅の駅長官舎で82年の生涯を終えた
【映画化の歴史】
「戦争と平和」は現在では映画化されなくなったが、映画草創期から1960年代にかけて映画制作者達の夢であった。
帝政ロシア時代の1912年、サイレント映画で2人のプロデューサーが足掛け4年がかりで完成した。
以来、アメリ カ、フランス、イタリアの映画制作者達がいく度と無く企画したがトーキー、カラーで完成したのは、1956年のパ ラマウント映画。ディーノ・デ・ラウレンテス制作、キング・ビダー監督、主演オードリー・ヘプバーン、ヘンリー・ フォンダ、上映時間3時間26分の1本だけである。
【時代背景】
「戦争と平和」の時代背景は、ナポレオン戦争で、ナポレオン率いるフランス軍が、ロシア侵攻した時。
トルストイは戦争前の1805年6月から1820年までの時代を小説にした。
ナポレオン戦争は、1805年から始 まり1807年のティルジット講和を経て、1812年のフランス軍によるモスクワ占領から冬将軍による退却までを 小説化している。
【映画の制作】
クランク・インは1962年9月7日から入った。
しかし、ヒロインであるナターシャが決まっておらず、ヒロインの いないままの撮影が1年続いた。
ナターシャ探しはソ連時代の文部省が音頭をとり芸術関係すべての少女をあたった。
これによりレニングラードのバレエ学校を卒業したばかりのリュドミラ・サベーリエワに決定した。
後にサベーリエワ は、ビットオ・デ・シーカ監督の「ひまわり」に出演した。
「戦争と平和」の映像化に関しては徹底した完璧主義が貫かれた。
これは、トルストイの精神を伝えるためである。
当時の芸術品、国宝級の品物であっても借用した。
また、大道具、小道具、当時の社交マナー、衣装のヒダのとり方、 机の中にある手紙まで当時そのままを再現した。
ナターシャとピエールが舞踏会で出会い踊るシーンには、巨大なセットを組み70ミリカメラを移動車に積み、車は 椅子に付けるような車を取り付け移動撮影を行った。
映画のクライマックスになるボロジノ戦闘シーンには、ソビエト陸軍2個師団が投入された。
撮影には70ミリカメ ラが5台使用され、クレーン、ヘリコプター、手持ち用カメラによる収録がなされた。
セルゲイ・ボンタルチェクの意図は、徹底的な歴史の再現とロシア人による小説の映画化はロシア人しかできないと いう精神である。
戦争が人々に何をもたらすか、攻め込まれる国はどのような運命をたどるのか。
戦争は、途方もな いエネルギーの浪費である。
戦争後に復活していく人々のたくましさを、ナポレオン戦争をつうじて映画化した。
【音楽】
「戦争と平和」の音楽を作曲したのは、ビャチェスラフ・オフチンニコフ。オフチンニコフは当時29歳。セルゲイ・ ボンタルチェクにその才能を認められ作曲を依頼された。
アメリカ版「戦争と平和」の作曲をしたニーノ・ロータに負けないワルツを書き、ロシアの壮大さを表現した音楽を 作曲した。
演奏はオフチンニコフ指揮、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団と国立ラジオ・テレビ管弦楽団・合唱団。
サント ラ盤は公開当時、日本コロムビアから2枚組みLPが発売された。CD化はいまだにされていない。
【日本での公開】
ソビエト本国では「1805年」、「ナターシャ・ロストワ」、「1812年」、「ピエール・ベズーホフ」の4部 で公開された。
日本では前半の「1805年」、「ナターシャ・ロストワ」が前編として1966年7月に上映され、
後半の「1812年」、「ピエール・ベズーホフ」が完結編として1967年12月に上映された。
チケットが入手 できない騒ぎまであり、1年で250万人を動員した。
また、本作は7時間半のフィルムを、セルゲイ・ボンタルチ ェクが日本の観客の希望で3時間55分にまとめた総集編があり、1971年にロードショウされた。

私の好きな映画
http://www.geocities.jp/qqppk513/war_and_peace.html








ソルジェニーツィン処女作「イワン・デニーソビチの一日」(1962)

ソルジェニーツィン処女作「イワン・デニーソビチの一日」(1962)
ソルジェニーツィン、アレクサンドル・イサエヴィチ
1918.12.11-
Solzhenitsyn, Alexander Isaevich
Солженицын, Александр Исаевич
作家。
北カフカスのキスロボツク市に生まれ、両親が農民出身にもかかわらず、高度な教育を受けていた。
第一世界大戦勃発直後父イサーイ・ソルジェニーツィンはモスクワ大学修学途中、志願兵として戦争に参加、
優れた功績をあげ勲章を三つも得るが、その後、狩猟事故のため、息子が生まれる半年前に死亡。
息子ソルジェニーツンが生まれた年はロシアで内戦勃発の年であり、内戦はレーニン率いるボルシェビキーの全面的勝利で終わった。
母は一家を支えるため秘書の仕事をはじめ、ソルジェニーツィンが6才の時、ドン河畔のロストフ市に移住する。
ソルジェニーツンは、小、中、高等学校で優勝な成績をおさめ、文学に深い関心を持ったが、将来の安定した報酬を確保するため、1938年、ロストフ大学の物理・数学科に入学する。
1940年同級生のナタリヤ・レシェトフスカヤと結婚。
1941年数学科の卒業証書を受け取ると共にモスクワの哲学・文学・歴史大学文学科の通信課程も終了した。
卒業後ロストフの中学校で数学を教たが、同年6月、第二次世界大戦の独ソ戦開戦により軍に召集された。
そして、砲兵学校の教程を終た後、砲兵大尉としてロシア、ヨーロッパ各地を転戦した。
1945年2月、東プロイセンのケーニヒスベルグ(現、カリニングラード)で、政治的告発を受け、反ソ扇動と宣伝の罪で8年の刑を宣告される。
前線から友人にあてた手紙と、私物のなかで発見された小説の下書きが、暗にスターリンを批判していたという理由である。
最初の1年をモスクワの刑務所で過ごし、その後、囚人数学者としてモスクワ郊外マールフィノにある特殊研究所へ移動される。
後に”数学卒業証書が命を救った”と作家はのべている。
マールフィノ特殊刑務所の監理体制は他の刑務所よりはるかに緩かったからである。
最後の3年間は北カザフスタンの政治犯専用の収容所で炭鉱で働いた。
そこで胃ガンが発見され、絶望的とみなされたが、1953年3月5日(スターリン死去と同日)、8年の刑期を終え、タシケント病院で奇跡的にレーザ治療で完治した。
その後は、シベリア追放のため、学校教師をしながらシベリア各地を転々とした。
そして、1956年の第20回共産党大会の翌年、ようやく完全な名誉回復を得、中部ロシアのリャザンに移り住み、
中学校の数学教師のかたわらひそかに文筆活動をはじめた。
1956年フルシチョフの反スターリンキャンペーンがはじまったが、それまでに、30年以降スターリンの手によって概算でも1000万人以上の人々が弾圧、獄死させられたというから、ソルジェニーツンは、まさに幸運だったといえよう。しかし、彼の苦難は、まだまだ続く。
1961年の第22回党大会での激しいスターリン批判をみて、ソルジェニーツンは、
処女作「イワン・デニーソビチの一日」(Один день Ивана Денисовича, 1962)
の発表を決意、文芸誌《新世界》にフルシチョフの許可のもと、掲載される。
スターリン時代の収容所の一日をリアリスチックなスタイルで描いたこの中編小説はドストエフスキーの
「死の家の記録」
に匹敵する傑作と評され、一躍世界のベストセラーとなった。
1年後、
「クレチェトフカ駅のできごと」(Случай на станции Кречетовка, 1963)、
「マトリョーナの家」(Матрёнин двор, 1963)
など優れた短編を発表、揺るぎない作家の地位を確立した。
しかしフルシチョフの失脚以降、彼の著作の出版は次第に不自由になっていく。
ソ連で最後に出版された作品は短編の「ザハール・カリタ」(Захар-Калита, 1966)である。
1967年5月、ソルジェニーツンは、第4回作家同盟大会へ公開状をおくり、当局による検閲の廃止を公然と訴え、
自分の原稿を当局に没収されたことを述べた。
この公開状は当局によって黙殺されたが、以来ソルジェニーツィンはマスコミから総攻撃を受け、作品は発行禁止処分にされた。
しかし、国内で発表できなかった長編
「ガン病棟」(Раковый корпус,1968-69)、
「煉獄のなかで」、原題「第一圏のなかで」(В первом круге, 1968)
の原稿のコピーが西側にわたり、著者の許可なしに海外で公刊され、当局との対立を一層悪化させた。
「ガン病棟」
はタシケントのガン病棟を舞台に死に直面した人々を、
「第一圏のなかで」
はモスクワ郊外の囚人研究所の生活を、自らの体験を踏まえて描いた秀作である。
後者にみられる、先入観にとらわれない、スターリン時代の深く鋭い分析は西側批評家の絶賛をあびた。
1969年10月、反ソ的イデオロギー活動との理由で、ソ連作家同盟を除名されたが、翌1970年10月にはノーベル文学賞に輝いた。
彼は、最初、ストックホルムでの授賞式に出席する予定でいたが、その12年前のパステルナクのノーベル賞と同様に、
ソ連政府がノーベル賞委員会の決定を”政治的敵意のあるもの”とみ、海外に出ることによりソ連市民権を剥奪されることを恐れがあるとして、授賞式出席を断念した。
1971年には、海外での作品出版を決意、翌年ロンドンで英語版の「1914年8月」(Август четырнадцатого)、ロシア革命を描いた、偉大な歴史的長編作品の第1巻を発表する。
1973年KGBにより、彼の最大の作品であり、ソ連史の書換えともいうわれる
「収容所群島」(Архипелаг ГУЛАГ)
の原稿が没収される。
幸い、原稿には密かにパリに持ち出されたコピーがあり、彼は、その発表を許諾。
73年12月に出版された。
その結果、1974年2月12日、売国行為の疑いでモスクワで逮捕され、13日に市民権を剥奪されて西ドイツへ国外追放された。
国籍を奪われたとき彼は、”嘘によらず生きよう”とのメッセージを国民に残した。
1973年に結婚した二人目の妻ナタリヤ・スベトローバと3人の子供が、彼のもとに行く許可が出たのはさらに後のことである。
ソルジェニーツンは家族とチューリヒで平和な2年間を過ごした後、アメリカのバーモンド州に移り、
「収容所群島」第3巻(ロシア語版1976、英語版1978)
を書き終え、「1914年8月」ではじまる、”ロシア人自ら自分達の過去と未来を減滅させた、悲劇的なストーリ”である長編
「赤い車輪」
の執筆に没頭する。
「収容所群島」全3巻(1973-75)
は、10月革命後60年におよぶ共産党独裁による民主弾圧の歴史を、文学のあらゆる可能性を駆使して描いた膨大なドキュメントであり、
文学的価値の面でも分量的にもトルストイの「戦争と平和」にまさるとも劣らない大作である。
1982年9月にはひそかに来日し、約1ヶ月にわたり日本各地を旅行し、その後台湾を訪れて帰米した。
1983年5月には宗教界のノーベル賞というわれるテンプルトン賞をうけ、ロンドンでの授賞式に出席、
”現代の悲劇はすべて われわれが神を忘れたことに原因がある”
とキリスト者の立場で現代文明を鋭く批判した。
ソルジェニーツィン肖像 文壇に登場以来、チェーホフ以後の最も優れた作家との評価がロシア国内でもあったが、今や現存する最も偉大な世界的作家の一人として多くを期待されている。

ロシア文学
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/7795/pis20/solzhenitsyn/solzhenitsyn.html
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/7795/history/kigen.html
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蝸牛庵








1962
寺島蝸牛庵
年譜によると,幸田露伴が鍛冶町から寺島村大字寺島1716番地にうつったのは明治30年(1897年)となっている。
その1716番地というのは,「甲州屋」という酒類商を営む雨宮千松という人の裏離れになったような家で,ここで婦人喜美子との間に長女歌(明治34年,1901年),次女文(明治36年,1903年),長男成豊(明治40年,1907年)が生まれ,
露伴の文名もいよいよ高く,門弟として田村松魚,神谷鶴判らがおり,そこで書生として同居していた。
明治40年(1907年)になると露伴は同じ寺島町の新田にうつり,そこには小石川にうつる大正13年(1924年)まで住んだ。
以上の明治30年(1897年)~大正13年(1924年)までの26年間が露伴の寺島町時代であり,寺島町の蝸牛庵時代であった。
前著「新東京文学散歩」でも寺島町蝸牛庵の事を書いたが,当時の私には調べる便もなかったのは事実で,なおもう一歩の努力と根気が足りなかったのは事実であった。
しかし今年(昭和27年,1962年)になって,思い切ってその調べにかかり,幸田文子さんの協力もあってようやくその本望を達する事ができた。
寺島町の白鬚神社から桜堤道のバス道路を向島公園にむかってすすむと,左手に子育地蔵がある。
その前から左の町にはいる下り坂は地蔵坂だ。
それを下らずに向島公園に沿ってあるく。
すると間もなく右手に大きな邸宅がみえる。
これは元の大蔵喜八郎の向島別荘で,いまは「大倉」という高級料亭だ。
このあたりの人はこれを今でも「大倉別荘」と呼んで,バスの停留所もその名前になっている。
ようやく大倉別荘屋敷がおわったその先の左側に,さっきの地蔵坂よりももっと急な坂道がある。
このあたりは戦災をまぬがれた寺島町の一角で,ほとんど昔のままといった感じだ。
坂は途中正面の家で左にほそく右に大きく2つに分かれているが,その右の大きい坂のやや左によった正面に,
いかにも古風ながっちりした2階建ての雑貨商がある。
酒・タバコ・その他を売る老舗らしく,表札には「雨宮庄兵衛」とある。
現在の番地は44番地だ。
これが,当時の寺島町1716番地の「甲州屋」で,この店の左横に門があり,裏離れのようになった50坪ほどの二階家がある。
露伴が最も盛んな時代の十年間を暮らした蝸牛庵の名残である。
「甲州屋」の店主庄兵衛さんは三代目の庄兵衛さんで,
初代は明治維新の時代に青山から士族を捨ててうつってきた人だという。
露伴が蝸牛庵を借りていたころは,「甲州屋」は二代目の主人で,現在の庄兵衛さんはそのころに生まれた人だという。
そして幸田文子さんとは遊び友達であったという。
さいわい,二代目の妻女にして当代店主の母にあたるむめ(梅)さんは76歳でまだ元気であった。
むめさんは昔の露伴の書斎であった裏の10畳の部屋にひとりつくねんと座って暮らしている。
「甲州屋」の店からはいると,勝手を抜けてすぐに蝸牛庵の10畳の書斎の前にでる。
表門からも玄関脇にいくと同じ場所にでる。
何しろ家の前の坂をみればわかるが,この辺りは地がひくく,頻繁な洪水で有名なところである。
形だけは昔のままのこの蝸牛庵もそうした湿気のために荒れているのが一見してわかる。
雨宮むめさんは眼のみえないままに,じっと顔をあげて,いろいろと思い出,それも心から一家をあげて尊敬していた露伴やその婦人喜美子の思い出をはっきりした若々しい声で話す。
土蔵や茶室を除いては露伴の思い出を語るいろいろなものが残っているが,私の気をひいたのは,
裏の廊下に面した壁際に3尺ばかりの開き戸のついた物置があって,そこは当時露伴が興味をおぼえ凝っていた写真の現像室であったとの事だ。
その中にはいって戸をしめると,息もつまるような真っ暗の中に壁のほうから赤い光が差す。
見れば5寸四方の赤いガラスだ。
現像用の採光窓で,露伴自ら壁に穴をあけてつくったそのままに,白い埃をつけたまま,今もなおその日の赤い思い出を語り続けているというわけだ。
むめさん,庄兵衛さん,甲州屋の皆さんに別れをつげて蝸牛庵を出る。
そしてふたたび大倉屋敷の坂道に立って,あらためて甲州屋の全貌と横の蝸牛庵のたたずまいを見る。
蝸牛庵の門脇には昔は風呂屋があって,前の坂道を下ってきた荷車などが,運転をあやまって風呂屋の前の塀にぶつかり,棍棒を風呂場の中までつきさして入浴中の露伴を驚かせたという。
そこに今は風呂場はないが,形は当時のそのままだ。
そのままといえば,こうして坂から見る蝸牛庵も当時そのままであるのに私は驚かないわけにいかない。
最近見つけた明治40年の洪水にあった蝸牛庵の写真と寸分違っていないのは,物のほろび易く変わり易い東京としてはまことに珍しい事だ。
―野田宇太郎著「東京文学散歩」,角川文庫,

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1962
白鬚橋(しらひげばし)をわたると向島である。
右の堤防は言問橋付近につづく向島桜堤。
その川岸の端にある,昔は桜並木のあった堤道のようなひなびた焼け残りのような町筋をしばらくゆくと,白鬚神社が左下にこんもりとした森に包まれるように残っている。
その前から左へ町中の小路をゆく。
幸田露伴の寺島町蝸牛庵は丁度このあたりにあったときく。
―野田宇太郎著「新東京文学散歩」,角川文庫,

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佃島付近,1920