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De Quincy「阿片常用者の告白」~無限幻想の地獄

De Quincy「阿片常用者の告白」~無限幻想の地獄
阿片を使ってから久しい。
もしそれが私の人生の子細な事件であったとしたら,私はその月日を忘れたかもしれない。
しかし大きい出来事は忘れられるものではない。そしてそれに関係する事情からして,私の阿片使用は1804年の秋に帰さなければならないように記憶している。
■阿片との出会い
その季節の間,私はロンドンにいた。大学に入学して私は初めてこの場所へ来たのである。
そして私の阿片使用は次のように起こった。
幼い頃から私は少なくとも一日に一回は冷水で頭を洗う習慣を持っていた。ところがある時突然歯痛に犯された私はこの瞬間を一時中止した。怠惰のせいに帰して寝床から飛び出して冷水のはいった鉢に頭を突っ込んで,手と髪を濡らして眠った。翌朝は言うまでもないが目が覚めると頭や顔に激しいリュウマチ的な痛みを覚え,その後約20日あまりその苦しみから解放されなかった。
21日目の日曜日,私は通りへ出た。明確な目的がっあったわけではなく,むしろ苦痛から逃げ出したいためであった。
偶然私は阿片を薦める一人の学友に出会った。阿片!思いもよらない快感と苦痛と呼び起こす恐るべき力!
私は阿片についてはアンブロージアについて聞いていたと同じ程度に知っているだけで,決してそれ以上の情報は知らなかったのである。
それは今や私の魂に何という壮麗な和音を聞かせるのか!また何という悲しいかつ楽しい思い出の魂を打ち揺るがす振動を奏でることであろう!
しかしこれらの事実を顧みる時,私は楽園を最初に自分に開いた時と所と人間と関係する微細な事情にまつわる神秘的な重大さを感じるのである。
それは湿っぽい人気の日曜日の午後であった。実際この我々のイギリスの大地においてロンドンの雨の日曜日ほど陰鬱な光景を示すものはない。
私の帰り道はオックスフォード街を通るのであった。そして「英雄なるパンテオン」の近くに私は一軒の薬商を見つけた。薬商は自ら知らずして天上の快楽を与えるものは 日曜日の雨に同情しているかのように,しかもこの世の薬商が日曜日に期待されるような陰鬱な顔付をしていた。
私が阿片を乞うと,店主は普通の人間がなすのと違わないさまで,事務的にそれを私に与え,さらに私にが渡した代金のつり銭として 真実の銅貨とおぼしきものを真実の木造のレジスターの中から取り出して私に渡した。かかる人間的性質の情報を入手するににもかかわらず,彼は私に対して特殊な使命を帯びて地上に遣わされた天上界の薬商の麗しい近影としてそれ以来私の心の中に存在している。
さて私が再びロンドンを訪れた時に「雄大なるパンテオン」の近くで 彼を捜したがついに発見することができなかったというこの事実は,先ほど述べたように彼を見なす私の確信を一層強固ならしめるのである。
しばらくして彼の名前を知らなかった私には彼が何かしら肉体的な仕方で移動したと言わいうよりは,むしろオクスフォードの町から消え失せたかのように思われた。
読者はおそらく彼を地上の薬屋以上のものではないと見なしたいのであろう。おそらくそうかもしれない。しかし私の信念の方が正しい。私は彼が焼失したがさもなければ 蒸発したと信じている。それゆえ,最初に霊薬を私に知らせいた時と場所と人間とにいかなる人間的記憶を揉む主義をつけたくないのである。
■服用
宿に帰って私は直ちに指定された分量を飲んだと想像されるかもしれない。私は服用する方法や技術を当然何一つ知らなかった。そして私が服用したのは事実に不利な状態においであった。しかし私はそれを飲んだ。そして1時間ほど経つと 非常に大きな激変が起きた。内的に精神が沈底から高揚に至ったのである。
私の内部世界の何という啓示があったことだろう。私の苦痛が消失したことは,私の目には子細な問題であった。この消極的効果よりも面前に開かれた積極的効果の無限の中に突然啓示された聖なる優越の神への中に飲み込まれてしまった。ここに一切の人間的災いの処方があった。ここに哲学者達が幾世代に渡って論争しあった幸福の秘訣がたちまちに発見された。「幸福」は今や1ペンスの値段で購入され,胸のポケットを詰めて携帯できることができるのである。持ち運びのできる幸福が1ピント入瓶に詰め込まれ,心の栄養は郵便馬車によってガロン宛で送られることもできるのだ。。
■苦痛
慇懃なるそして望むらくは寛容になる読者様。ここまで私に同行してくれたからには,約8年ほど,すなわち1804~1812年に至るまで私に同行して進んでいただきたい。
学生時代は今ではすでに過ぎ去って,ほとんど忘れられてしまった学生帽は今や私の頭を押し付けることもない。
阿片を飲んで以来,身体の加減はどうなったのか?あっさりといえば機嫌はどうなったのか?読者諸君ありがとう。かなり達者に暮らしている。婦人達の言葉を拝借して言えば「期待されうる限り達者である」。
ありのままを白状するなれば,医師の理論を満足させるためには当然病気であるはずなのに,1812年の春ぐらい健康の優れていた時期は今までになかったのである。
1804~1812年の八年に飲んだ阿片の量が私の健康を害しなかったのと同様,少しも処分の健康を害しいなかったことを希望する。アナスタシア(Percy Shelley)から医学上の忠告をお受け取りになるのがいかに危険であるかは自ずとわかるだろう。
私の知る限りではあれは神学や法律にかけては良き助言者であるが医学に関してはそうではないのだ。 この方面ではバカン博士に相談される方が遥かにマシである。私はあの人の忠告は決して忘れることはない。25オンス以上の量を決して飲まないように特別に気をつけていた。少々くらいはよかろうからとそれを良いことに 濫用する人々への復讐を,少なくとも1812年において私が知りもしないというのも適度に使用したからだと考えていた。と同時にこれまでのところ十分間を置いて使うように用心して,未だ日常の食料品となるには至らなかったということも念頭に留めていただきたい。
ところが今や別の時代が来た。
読者様1813年へ進んで頂きたい。1812年の夏の甚だ憂鬱な事件と結びついた精神の状態。大いに体の健康を害したこの事件はそのために健康を害したという他に別段目下の問題とは関係がないからこれ以上詳しく言う必要もないだろう。
1812年のこの病気が1813年のそれと何か関係があるかどうかは知らないが,ともかく私はこの1813年に実に恐ろしい胃の痙攣に襲われた。それはすべての点において青年時代に私を苦しめた頭痛と同様にまた昔の夢の再現を伴うものであった。
これは私の告白物語の要点であって,阿片服用に対する自己弁明に関して私はこれから述べようとする全部が専ら依存するといって言っても良いものである。~
■幻影
これから私はこの私自身の手記の主題ともいえる,夢の中で起こった事柄の歴史と日記とに話をうつそう。その理由はこれらが私に最も激しい苦痛の一番直接に近い原因であったからである。
私の肉体組織の内の夢に関係ある部分において進行していた重大な変化において,私が最初を気づいたことは,概して少年時代もしくは極度の焦燥状態において起こりやすい目の状態の 再発であった。
多くの子供,いやおそらく子供は大抵あらゆる種類の幻影を暗黒の表面に描く力を持っている。ある子供にあってはその力は単に目の機械的変調である。ところで,他の子供達はそういった幻影を放置したり共感したりする任意あるいは半ば任意な力を持っている。あるいはかつて私がある子供にこの事において訪ねた時その子供が言ったように「私は幻影に向かって行けと命令することができる。すると幻影は行ってしまう。しかし時とすると彼らは私が来いと命令もしないのにくることもある」。
この力が私にとってたまらなく苦しいものとなったのは1817年の半ば頃のことだったと思う。
夜分,床についたまま目を覚ましているとたくさんの幻の行列が憂いに沈んではいるが華やかに装って通り過ぎていった。果てしもなく続く物語の彫刻はエディパスやプライアもよりもタイアよりもメンフィスよりも前の時代から来た物語であるかのように悲しくもまた荘厳な気がした。
またそれと同時にそれに関連した変化が私の夢の中に起こった。ある劇場がにわかに私の頭の中に開かれて明るく照らし出された。しかもそれは現世のそれよりももっと華麗な夜景を呈するのであった。
そして次の四つの事実は日常平時における注目すべき事柄として申し述べて差し支えなかろう。
1 目が幻影を想像する状態が進むにつれて脳の目覚めた状態と夢見る状態との間にある共鳴が一点において起こるように思われた。
すなわち私が休み休み有意的意識的な動作によって暗闇の中に呼び出したりしていた幻影が夢に移動しがちであった。それゆえに私はこの力を働かせることを恐れた。マイダスがあらゆる物を黄金に化したがそれがかえって彼の希望を虚しくしてまた彼の人間的欲望を欺いたように,何によらず目に映るもの全てが闇の中でちょっと考えただけですぐその姿が目の幻影と化してしまった。そして明らかにそのそれと同様に必然的な過程によって,その幻影がしばらくして一度かすかなぼやけた色彩で描かれると,あたかもあぶり出しインキで描いたかのように,その幻影は私の猛々しい科学効果によって引き出されて私の心をイライラさせた。
2 私の夢の中で起こったこれらの事や全ての変化には言葉によっては表現しえないような深い心配と暗い憂鬱が伴った。
私は毎晩比喩的にではなく全く文字通りに岩の割れ目や太陽の照らない深い闇の中に深みから深みへとどんどんと落ち込んでいくような気がして,しかもそこから再び登ってくるのは全く絶望という気がした。そして目を覚ましてもそこから再び登ってきたという感じがしなかった。と言ってこのことを私は詳しく述べようとは思えない。なぜならこれらの華やかな風景に伴う暗黒状態には,暫時その暗黒の度合いを増していて,ついには自殺を招きかねない絶望の闇のような暗黒状態になるものであって,言葉には 表現することが、 できないからである。
3 空間の観念とそしてついには時間の観念とは両方とも強く影響された。建物とか風景といったようなものは肉眼で見えるのが困難なほどに非常な大きさで表現されて空間は膨張していき,名状しがたい無限の範囲にまで拡大された。
しかしこれとしても時間の広大な膨張ほどには私を煩わせなかった。時として私は一晩の間に70年あるいは100年もの間生活したような気がした。ある晩は一晩の間に2000年も経過したように感じて,あるいはそれほどでもないにしても経験の限度をはるかに超えた長い時間が経過したような感じがした。
4 子供の時間の極めて悲惨な出来事,もしくはその後年の忘れられた色々な場面がしばしば蘇った。しかし私もそれらのことを自分で思い出したとは思えなかったが,その理由は誰て目覚めている時にそれらの事は語られたとしても私はそれらを私の過去の経験も部分として承認することができなかったからであろうから。~
ー阿片常用者の告白,De Quincy,岩波文庫,

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Q:なぜ大英帝国は明治日本にアヘンを売らなかったのでしょうか?
紳士の国として知られるイギリス…しかしそのイギリスが、アヘンという麻薬を使って大儲けしていたことをあなたはご存知ですか?
19世紀初頭の話です。
なんと、7つの海を制し、陸地の4分の1を支配していたイギリスの原動力は麻薬だったのです。
大量のアヘンが欲しいイギリスは、植民地にしたインドの子供たちを農奴にし、朝から晩まで作らせました。
インドで麻薬を栽培して…それをどこに売ったと思います?答えは、私たちのお隣、中国です。(当時は清という名前でした)
歴史の教科書で、イギリスとインドと中国の三角貿易って習ったのを覚えていますか?あれはそれです。(学校では詳しくは教えてもらってないですよね?)アヘンを中国に売ってお金儲けしたいイギリス…どれくらい売ったと思います? ヒント:アヘンは一回1グラム、2グラムとかそういう単位で使います。
正解は8000万トンです。
一回1グラムで考えると80兆回分です。そんな量の麻薬が中国に流れ込んだのです。そして、それを買う訳ですから、それだけの量のお金が中国から出て行きました。中国は崩壊するに決まってます。アヘンを売ってほしくない清(中国)とアヘンを売りたいイギリスの戦争 それがみなさんご存知のアヘン戦争です。(学校では詳しくは教えてもらってないですよね?)
イギリスは、アフリカ大陸を周って、インドを奴隷にして中国を麻薬ずけにしました。(もちろん、途中のアフリカ諸国や東南アジアのミャンマーとかインドネシアとかは植民地にされました)
皆さんがイギリス人だったら…そのまま日本に行くに決まってますよね? しかし、日本の歴史を教えてもらった限り、日本人のほとんどが麻薬中毒になったなんてことはありません。何かおかしいとは思いませんか?
実はその頃、日本ではこんな大きな出来事が起こっていました。
「明治維新」(1864年)
そういえば龍馬が乗っていた軍艦はイギリス製でした。江戸時代の終わりに突然、長崎にグラバーというイギリス人が来ました。明治維新とイギリスの侵略政策とどのように関わっていたのでしょうか…
ps.
イギリスがインドに作った麻薬農場の広さは…
南北300km
東西150km
よって、4万5000㎢
それが2つなので、9万㎢
東京ドームは0.05㎢なので東京ドーム180万個分です。

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ソビエト映画「戦争と平和」

世界映画史上、最大の超大作!
ソビエト映画「戦争と平和」
タイトルで“世界映画史上、最大の超大作!”となっているが、これは大げさな表現でなく、まじりっけな しの本当なのだ。
超大作を得意とする過去・現在のハリウッドでさえも、ソビエト映画「戦争と平和」 の規模にはおよばない。
「戦争と平和」は、現在のロシアがソビエト時代に国家プロジェクトとして 制作された。
国家予算を使って文豪レオ・トルストイの原作を、国家の威信を賭けて映画化し世界に公開した作品。
この国家プロジェクトを指揮したのは、「人間の運命」のセルゲイ・ボンタルチェク。
ボンタルチェクは制作・ 監督・脚色・主演・ナレーションをこなすという天才ぶりを発揮した。
上映時間7時間半。
公開された時、その巨大なスケール、内容の深さに世界の映画界は震撼した。
【物語】
時代は1805年のロシア、貴族の間ではナポレオンの話題でもちきりだった。
ナポレオンはフランスの皇帝になり ロシアに侵攻するのは時間の問題になっていた。
貴族のアンドレイ・ボルコンスキーは、社交界は見栄とおしゃべり の退屈な世界であり、志願して戦争に行く決意をしていた。
アンドレイには身重の妻リーザがいたが、リーザの反対 もその決意を変えるものではなかった。
アンドレイの親友ピエール・ベズーホフは進歩的なナポレオンの思想を評価していた。
ピエールは私生児であったが なにも人生の目標がなく生きているようで、毎夜悪友達と酒を飲みバカ騒ぎしている毎日であった。
ある日ピエールは、社交界でも特に有名なロストフ家を訪れた。
その中に13歳になったナターシャを見つけた。
ナターシャは屈託のない少女で自由にその愛らしさを振りまいていた。
その時、ピエールは自分とナターシャの運命を 知るよしもなかった。
ピエールに父であるベズーホフ公爵が亡くなり、その遺言で財産はすべてピエールのものになった。
ナポレオンが侵攻し、戦争が始まった。アンドレイは戦地に赴く。
ロシアの運命はどなっていくのか、またピエール、 アンドレイ、ナターシャの運命は...。
【スタッフ】
原作: レオ・トルストイ
脚本: セルゲイ・ボンダルチュク/ワシリー・ソロヴィヨフ
監督: セルゲイ・ボンダルチュク
撮影: アナトリー・ぺトリツキー
戦闘シーン撮影: アレクサンドル・シェレンコフ/イォランダ・チェンユーラン
美術: ミハイル・ボグダーノフ、ゲンナジー・ミャスニコフ
音楽: ビャチェスラフ・オフチンニコフ
編集: タチアナ・リハチェワ
【キャスト】
ナターシャ・ロストワ: リュドミラ・サヴェーリェワ
アンドレイ・ボルコンスキー: ヴィヤチェスラフ・チーホノフ
ピエール・ベズーホフ: セルゲイ・ボンダルチュク
クトゥーゾフ将軍: ボリス・ザハーワ
ナポレオン: ウラジスラフ・ストルジェリチク
リーザ・ボルコンスカヤ: アナスタシア・ヴェルチンスカヤ
エレン・クラーギナ: イリーナ・スコブツェワ
アナトリー・クラーギン: ワシリー・ラノヴォイ
イリヤ・ロストフ伯爵: ヴィクトル・スタニツィン
ナターリャ・ロストワ: キーラ・イワーノワ=ゴロフコ
ニコライ・ロストフ: オレグ・タバコフ
ソーニャ・ロストワ: イリーナ・グバーノワ
マリヤ・ボルコンスカヤ: アントニーナ・シュラーノワ
バグラチオン将軍: ギウリ・チョホネリーゼ
プラトン・カラターエフ: ミハイル・フラブロフ

私の好きな映画
http://www.geocities.jp/qqppk513/war_and_peace.html







【制作データ】
企画から完成まで:
1955年の企画から1967年の完成まで、12年の歳月を要した。
製作費:
130億円(現在に換算すると480億円。
映画「タイタニック」が2本作られる規模。)
使用フィルム:
513万フィート(1,540キロメートル)。
映写すれば約760時間(32日間映写しっぱなし)、「ベン・ハー」の4倍。
登場人員:
595,193名。このうち、重要な役は36名。セリフのある役は599名。
セット:
302。
このうち、118はオープンセットで、最大のセットは、10万平方メートル、モスクワ炎上シーンのために作られた。
その他オープンセットは、クリムリン宮殿、モスクワ、ペテルブルグの町、ロシア軍の野営地、ボロジノのラエフスキー砲台、砦、ロシア貴族の庭園などが作られた。
衣装:
  20,900着。ロシア、イタリア、フランス、オーストリア、ポーランド軍の征服、貴族の衣装、僧
  侶、農民の服、下着、帽子など47の工場で生産された。また、馬具や革製品など2つの工場
  で生産された。
美術品:
  257点。ソビエト国内外の博物館・美術館から保険をかけて借用した。協力した博物館・美術
  館は、エルミタール美術館、クリムリン博物館、トレチャコフ画廊、レーニン図書館、ノボジェビ
  チ尼僧美術館、ボロジノ戦闘博物館。いずれも国宝・重要文化財の絵画、彫刻、聖像、図書が
  貸し出された。
武器・車両:
  160門の大砲。8,000本の小銃、拳銃、刀剣を製造。205台の馬車、荷車、トロイカを
  製造。空中撮影のためにヘリコプター30機とジェット輸送機3機。他に無数のトラック、弾
  薬輸送車両、バス、乗用車、トレーラー、ブルトーザーを使用。52トンの発煙用火薬、23
  トンの銃火薬、16,600発の手榴弾、6,600発の発煙弾、4,500個の信管および導火
  線。40トンの灯油とガソリン(モスクワ炎上シーンは含まず)。
ボロジノの戦闘シーン:
  制作全体の3分の1に近い48億円が費やされた。これは「史上最大の作戦」を上回る数
  字だ。戦闘シーンはソビエト軍124,533名が35日間にわたり投入された。他に馬が35,0
  00頭。撮影で重傷者10名、軽傷、かすり傷など多数の負傷者が出た。
銃砲:
  フランス軍、ロシア軍がボロジノの戦闘で持ち込んだとおりに、フランス軍695門。ロシア軍5
  87門の大砲、手榴弾を準備。そのうち20門は博物館から借用した当時の本物を使用。3,0
  00挺の小銃、拳銃。7,000本の刀剣。
火薬:
  トラック12台分の発煙用火薬と輸送車8台分の銃火薬。9台分の白煙弾。
映画機材:
  テレビのリモコン指令装置つき70ミリカメラ7台を動員。このうち2台はボロジノの戦闘シーン
  のために開発された手持ち用。クレーン車5台、ヘリコプター3機。
モスクワ炎上シーン:
  モスクワ北東150キロの地点に2年をかけてオープンセットを建築。教会、官庁街、商店街、
  住宅を再現した。これをドラム缶40本のガソリンと50本の灯油をかけて炎上させた。
【原作者 レオ・トルストイ】
本名は、レフ・ニコラーエヴィチ・トルストイという。
1828年8月26日ロシア中部ヤースナヤ・パリャーナに トルストイ伯爵家の四男として生まれた。
2歳で母を失い、9歳で父も失った。
13歳の時に兄妹は親戚に引き取ら れた。
肉親の死のために瞑想的な少年になると同時に、刹那主義的な心境のめりこむこともあった。
16歳でカザン 大学に入り2年で退学した。その後、3年間放浪の生活をモスクワで送った。
1851年、兄のニコライをたよって コーカサスへ行き、自然の中で生活した。
自然の中の生活で自分をとりもどし、文学を執筆するようになった。
18 62年結婚、妻と3人の子供に恵まれた。
1869年から5年をかけて「戦争と平和」を執筆した。
その後、「アン ナ・カレーニナ」を執筆した。
「アンナ・カレーニナ」の執筆中に3人の子供と2人の伯母を相次いで失い、妻まで もが重態におちいる不幸に見舞われた。
人間の不幸、人間の運命、人生の意義、真理とは何かという問題に苦悩する 毎日が続いた。
トルストイは文学を捨て、宗教に解決を見出した。
愛と勤労の生活が唯一の真の生活であるという、 トルストイ主義に到達した。
晩年は放浪の旅に出て、病気にかかり、リャザン・ウラル鉄道のアスターポヴォ駅の駅長官舎で82年の生涯を終えた
【映画化の歴史】
「戦争と平和」は現在では映画化されなくなったが、映画草創期から1960年代にかけて映画制作者達の夢であった。
帝政ロシア時代の1912年、サイレント映画で2人のプロデューサーが足掛け4年がかりで完成した。
以来、アメリ カ、フランス、イタリアの映画制作者達がいく度と無く企画したがトーキー、カラーで完成したのは、1956年のパ ラマウント映画。ディーノ・デ・ラウレンテス制作、キング・ビダー監督、主演オードリー・ヘプバーン、ヘンリー・ フォンダ、上映時間3時間26分の1本だけである。
【時代背景】
「戦争と平和」の時代背景は、ナポレオン戦争で、ナポレオン率いるフランス軍が、ロシア侵攻した時。
トルストイは戦争前の1805年6月から1820年までの時代を小説にした。
ナポレオン戦争は、1805年から始 まり1807年のティルジット講和を経て、1812年のフランス軍によるモスクワ占領から冬将軍による退却までを 小説化している。
【映画の制作】
クランク・インは1962年9月7日から入った。
しかし、ヒロインであるナターシャが決まっておらず、ヒロインの いないままの撮影が1年続いた。
ナターシャ探しはソ連時代の文部省が音頭をとり芸術関係すべての少女をあたった。
これによりレニングラードのバレエ学校を卒業したばかりのリュドミラ・サベーリエワに決定した。
後にサベーリエワ は、ビットオ・デ・シーカ監督の「ひまわり」に出演した。
「戦争と平和」の映像化に関しては徹底した完璧主義が貫かれた。
これは、トルストイの精神を伝えるためである。
当時の芸術品、国宝級の品物であっても借用した。
また、大道具、小道具、当時の社交マナー、衣装のヒダのとり方、 机の中にある手紙まで当時そのままを再現した。
ナターシャとピエールが舞踏会で出会い踊るシーンには、巨大なセットを組み70ミリカメラを移動車に積み、車は 椅子に付けるような車を取り付け移動撮影を行った。
映画のクライマックスになるボロジノ戦闘シーンには、ソビエト陸軍2個師団が投入された。
撮影には70ミリカメ ラが5台使用され、クレーン、ヘリコプター、手持ち用カメラによる収録がなされた。
セルゲイ・ボンタルチェクの意図は、徹底的な歴史の再現とロシア人による小説の映画化はロシア人しかできないと いう精神である。
戦争が人々に何をもたらすか、攻め込まれる国はどのような運命をたどるのか。
戦争は、途方もな いエネルギーの浪費である。
戦争後に復活していく人々のたくましさを、ナポレオン戦争をつうじて映画化した。
【音楽】
「戦争と平和」の音楽を作曲したのは、ビャチェスラフ・オフチンニコフ。オフチンニコフは当時29歳。セルゲイ・ ボンタルチェクにその才能を認められ作曲を依頼された。
アメリカ版「戦争と平和」の作曲をしたニーノ・ロータに負けないワルツを書き、ロシアの壮大さを表現した音楽を 作曲した。
演奏はオフチンニコフ指揮、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団と国立ラジオ・テレビ管弦楽団・合唱団。
サント ラ盤は公開当時、日本コロムビアから2枚組みLPが発売された。CD化はいまだにされていない。
【日本での公開】
ソビエト本国では「1805年」、「ナターシャ・ロストワ」、「1812年」、「ピエール・ベズーホフ」の4部 で公開された。
日本では前半の「1805年」、「ナターシャ・ロストワ」が前編として1966年7月に上映され、
後半の「1812年」、「ピエール・ベズーホフ」が完結編として1967年12月に上映された。
チケットが入手 できない騒ぎまであり、1年で250万人を動員した。
また、本作は7時間半のフィルムを、セルゲイ・ボンタルチ ェクが日本の観客の希望で3時間55分にまとめた総集編があり、1971年にロードショウされた。

私の好きな映画
http://www.geocities.jp/qqppk513/war_and_peace.html