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江戸中期予言書「をのこ草子」...2045年,米国支配の終わる日がシンギュラリティのAI予測と一致




江戸中期予言書「をのこ草子」...2045年,米国支配の終わる日がシンギュラリティのAI予測と一致
日本の恐ろしい予言書「をのこ草子」の未来予言が的中!
TOCANA
日本の恐ろしい予言書「をのこ草子」の未来予言が的中! コロナ、戦争、貧困…解決するのは20XX年!
2021.02.19 14:00 
関連キーワード:をのこ草子
『をのこ草子』という予言書がある。成立年代にはふたつの説があって江戸中期に書かれたという説と、昭和初期に江戸時代の書物を装って書かれた偽書であるという説だ。
仮に後者の立場をとってみたところで、そこには不思議に合致する未来予言が書かれている。
「今より250年を経て、世の様変わり果てなむ」というのは江戸中期から数えてちょうど昭和初期の時期を指す。そこに
「切支丹の法いよいよ盛んになりて、空を飛ぶ人も現はれ、地をくぐる人も出るべし」
とあるのは、日本でもキリスト教の布教が進み、飛行機や地下鉄が出現するという記述だ。
これについては、昭和初期に書かれた偽書説の立場をとれば「さもありなん」という記述である。
しかし、そこから先の未来の予言が不気味に合致しているところが恐ろしい。
..................
この先、時局はつぎつぎと悪化し、やがて戦争が起きて日本は敗北すると書かれている。
「かくていよいよ衰えぬるそのはてに、地水火風空の大いなる災い起こりて、世の人十が五まで亡び異国の軍さへ攻め来るべし」
というのは昭和初期から見たとしても東京の未来を記した箇所であり、まさに太平洋戦争の終結はその通りとなった。
戦争終盤に東南海地震、三河地震、南海地震と立て続けに大地震が起き、大空襲により東京は焼け野原となり人口の半分は焼失し、枕崎台風は終戦直後の日本列島を蹂躙した。大混乱の中で日本は進駐軍によって占領された。
これが1945年についての予言であるとすれば、非常に正確に的中している。
そして本当に恐ろしいのは、それに続く予言である。
「世の人狂い苦しむこと百年に及ぶべし」、つまり戦後世界はそこから百年の苦しみを経験する。
日本だけを見れば表面上復興し、幸せな世界に戻ったように見えるけれども、そこから神国日本はニューワールドオーダー(新世界秩序)の支配下に入り、狂気と偽りの平和の時代を経験するのだと予言されている。
現実には日本はいまだにアメリカの属国である。
そして日本を永遠の被占領国と捉えて世界の観点から戦後史を眺めれば、アメリカの業(ごう)とも言える狂った戦争の時代は今日までの戦後75年間、いまだ止むことはない。
冷戦やベトナム戦争に代表される大国の代理戦争、共産圏の崩壊の後にはテロとの戦争やイスラムとの戦争が続く。
日本はそれらの戦争にアメリカに次ぐ規模の巨額資金を提供し続け、本当の意味で国民が富むことも自由に国を統治することもできていない。これが影の戦後史と呼ばれる属国日本の歴史だ。
そして救済がやってくる。
『をのこ草子』によればこのアメリカによる狂った世界支配が2045年に終わると予言されている。
「この時神のごとき大王いでまい、人民悔い改めてこれに従ひ世の中再び正しきに帰りなむ」
というのが最終的に日本が救済される日についての予言であり、それは前の戦争の終戦から百年後、つまり西暦2045年だと明示されているのだ。
2045年にアメリカ、ないしは新世界秩序の世界支配から日本を救ってくれる「神のごとき大王」とは何だろう? 未来予測を専門とする理系の同僚と議論をしてみた。
「ああ、その予言はたぶん当たりますよ。2045年でしょう。科学技術の発展予測とぴったりと合致しますから」
この2045年は未来予測界では非常に有名な年である。それはレイ・カーツワイルが1990年代に予測した一台のコンピュータの計算能力が全人類の頭脳を合わせた能力を超えると予測される年。シンギュラリティの年である。
「神のごとき大王というのはおそらく世界最高性能の人工知能でしょう。AIの思考が人間が考えるあらゆる政策や謀略を上回る。世界の支配者たちの作ったルールの欠陥や、政治家が決めた欺瞞がすべて白日の下にさらされ、わかりやすく過去百年の支配の構造が解明されるとともに、AI支配によって世界は正されるようになることでしょう」
その後の政策はすべからく最大多数の最大幸福から大きく外れることができなくなり、結果として世界は正しい場所へと戻ることになるだろうというのが、現時点での未来予測科学の一致する意見なのだそうだ。
つまり『をのこ草子』は、シンギュラリティの到来までの戦後100年間を正しく予言していたのである。
文=ホラッチェ

TOCANA
https://tocana.jp/2021/02/post_199867_entry.html


多摩川の渡し場






渡し場の名称現在旧道の名称その他
沢井の渡し
楓橋  廃止年不明 
軍畑渡し軍畑大橋鎌倉街道山の道
秩父鎌倉道
徒渉地
昭和14年奥多摩橋の架設で廃止
竹の下の渡し
奥多摩橋 
昭和14年奥多摩橋の架設で廃止
日向和田の渡し
神代の渡し
神代橋御嶽神社への参詣路万年橋の渡し
大柳の渡し
駒木野の渡し
万年橋 
明治30年木製の万年橋の架設で廃止
千ヶ瀬の渡し
調布橋
 二ツ塚峠を経て五日市と青梅を結ぶ道
千ヶ瀬村と河辺村を結ぶ渡船場
大正10年調布橋の架設で廃止
河辺の渡し
下奥多摩橋 
昭和8年下奥多摩橋の架橋で廃止
友田の渡し
小作の渡し
多摩川橋 大正元年1912 友田の渡しに横断索道が架設される。
大正9年多摩川橋ができ廃止
川崎の渡し羽村大橋鎌倉街道大正末頃まで存続。 
福生の渡し永田橋 
昭和36年永田橋の架設で廃止
牛浜の渡し
(石浜の渡し)
森山の渡し
多摩橋五日市街道太平記に出ている石浜の戦いの古戦場の説がある。
多摩橋ができた大正14年廃止
明治8年(1875 )牛浜渡し官許。毎年11~3・4月土橋、常備船1艘、後森山渡しとなる。
小川の渡し
熊川の渡し
南の渡し
睦橋古い五日市街道
伊那道
小川村と熊川村を結ぶ
明治年間に廃止?
滝の渡し   廃止年不明
拝島の渡し拝島橋日光道八王子千人同心が日光警護のため通った道
拝島橋の架設で昭和24年に廃止されている
平の渡し
大神の渡し
   平村と大神村を結ぶ
拝島の渡しが開設される前からあった古い渡し
福島の渡し
築地の渡し
多摩大橋大山道、八王子道江戸期は築地村の管理で「築地の渡し」と呼ばれ、明治になり福島村の管理となり「福島の渡し」となる
昭和15年ごろ廃止
柴崎の渡し立日橋古鎌倉道
日野の渡しの立川での呼び名でもある。
日野の渡し日野橋甲州道中大正15年日野橋の完成で廃止
満願寺の渡し
(谷保の渡し)
中央自動車道古甲州道江戸初期の古い甲州街道の渡し場ともいわれている
大正15年日野橋の完成で廃止
石田の渡し石田大橋
古甲州道
石田村と三屋(府中)結んでいたという
一宮の渡し府中四谷橋 明治14年の迅速測図に記載あり
明治13年1880 南多摩郡一の宮村(多摩市)の渡場新設により中河原渡しの通行は減ずる。
昭和12年の関戸橋の開通まで
関戸の渡し
(中河原の渡し)
関戸橋鎌倉街道上ノ道関戸村と中川原村を結ぶ、古往還
昭和12年関戸橋開通により廃止
是政の渡し
(大丸の渡し)
是政橋鎌倉街道中ノ道と上ノ道を結ぶ支道大丸村と是政村を結ぶ
昭和16年木橋が出来るまで続く
常久河原の渡し  作場渡   農作業用の渡し
押立の渡し稲城大橋  押立村と南岸の向押立村を結ぶ渡船
昭和17年廃止
上石原の渡し
矢野口の渡し
多摩川原橋矢之口渡道大正7年(1918) 矢野口の渡し開通
昭和10年には多摩川原橋が開通で廃止
菅の渡し  昭和10年矢野口の渡しと下菅の渡しが統合 菅の渡しとして昭和48年まで存続
下菅の渡し
上布田の渡し
 新渡道昭和10年には多摩川原橋が開通で廃止
中ノ島の渡し多摩水道橋 作場渡 廃止年不明 
登戸の渡し多摩水道橋津久井往還
鎌倉道中道
古い時代の大山道
昭和28年多摩水道橋の開通で廃止
宇奈根の渡し  作場渡宇奈根村(世田谷区)と対岸の宇奈根を結ぶ
二子の渡し
瀬田の渡し
新二子橋鎌倉街道中ノ道
矢倉沢往還
大山道、相州街道とも呼ばれた
大正14年に二子橋ができて 渡しは廃止
野毛の渡し
下野毛の渡し
多摩川橋鎌倉道中道下野毛村(東京)と対岸の下野毛(川崎)を結ぶ
昭和30年代頃まで利用されてきた
等々力の渡し
宮内の渡し
第三京浜
多摩川橋
  江戸時代から明治、大正にかけて利用された
宮内の渡し 大正5,6年頃出来る
昭和10年丸子橋の開通で客は激減
丸子の渡し丸子橋中原往還上丸子村と下沼部村を結ぶ
昭和10年丸子橋が完成で廃止
平間の渡し
下丸子の渡し
ガス橋古い東海道である池上道
相州鎌倉道、平間街道
1766年(明和3)より始まった
上平間村と下丸子村を結ぶ
昭和初期頃まで存続
矢口の渡し
古市場の渡し
多摩川大橋古代の東海道
鎌倉街道下ノ道
昭和24年、多摩川大橋の完成で廃止
太田区内最後の渡船場として 昭和24年(1949)まで存続
小向の渡し 作場渡小向村(川崎)の対岸への渡し
大正10年ごろ廃止された
六郷の渡し六郷橋東海道江戸時代初期には橋が有ったという。1688年流出以後渡し船となる。
明治6年廃止。
大師の渡し 中瀬と本羽田を結ぶ明治29年に開業
昭和14年(1939年)に大師橋が出来廃止。
羽田の渡し
六左衛門の渡し
大師橋羽田と殿町を結ぶ江戸後期には川崎大師への参詣客に利用される
昭和14年に大師橋が出来るまで続く。