ラベル #0862 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル #0862 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

ルーシのはじまり

ルーシのはじまり
どこの国でも建国神話ははっきりしないもの
1、ロシアのノルマン・コンクエスト
「…9世紀、リューリクに率いられたノルマン人たちがロシアに到来してノヴゴロド公国を建設した。
彼らは更に南下してキエフ公国をたてたが、その後急速にスラヴ化していった」
高校世界史の教科書に出てくるロシア史のはじまりは、概ねこんな感じだろうと思われます。
非常にあっさりしたもので。で、現実にはどうだったのだろうかというのが本章の話題の中心です。
ロシア人自身の手による最も古い歴史書、『原初年代記』によれば、この事件はだいたい次のような経過をたどるものでした。
862年、それまでヴァリャーギに支配されていたスラヴ人が立ち上がり、彼らを海の彼方に追い払った。
しかしスラヴ人たちは自らを治めることができず、諸種族の間に争いが起こった。
そこで彼らは合議の結果、再びヴァリャーギのもとに使いを送ってこう言った。「私たちの国全体は大きく豊かですが、その中には秩序がありません。
公となって私たちを統治するために来て下さい」(※)。
そこでリューリクとその弟シネウス、トルヴォルに率いられた「ルーシ」がスラヴの地にやって来た。
リューリクはノヴゴロドに座し、人々を治め始めた。ここから「ルーシ」の国はその呼び名を得たのである(※)。
一見したところ、「ノルマン人によるルーシ国家の建設」には疑問を差し挟む余地がないかのように思われます。しかしながらこの記述は見かけほど単純なものではありません。
まずリューリクその人についても、ロシア以外の資料でその存在を確認することはできず、その実在はかなり疑わしいものとなっています。またノルマン人の中に「ルーシ」という種族名が存在したこともはっきり確認できるわけではありません。要するにこの記事は、半ば伝説的なものであって、そのまま事実を記録したとは考えられないのです。
ただ、具体的な人名などは除いて、この時期ルーシ北部に現れたノルマンの一隊が土着のスラヴ人を支配していたこと、彼らがノヴゴロドを根拠地としたこと、は事実と見ていいと思われます。伝説のように彼らが平和的に「招かれて」来たのか、或いはスラヴ人の抵抗を排除してその上に君臨したのかはわかりません。確実なのは、今や「ヴァリャーギからグレキへの道」の北端がノルマン人政権の支配下にはいったということでした。
ところで『原初年代記』はまた、リューリクの家臣であるアスコリドとジルという者が、ドニエプルを下ってコンスタンティノープルに向かう途中、ハザールの支配下にあったキエフの街を発見してここに住み着いた、と書いています。
これもまた事実としては疑わしい記事ですが、ノルマン人の中でもより南方に達していた者がいたことは確かでしょう。
ただ彼らはノヴゴロドからの統制には服していなかったようです。
つまりルーシの北と南は、いまだ一つにまとめられてはいませんでした。
2、ノヴゴロドからキエフへ
こうしてノヴゴロドを手中にしたリューリクですが、年代記でも彼の事績はほとんどまったく伝えられず、早くも879年には死んでしまうことになっています。この辺りのいい加減さも彼の実在性にマイナスの印象を与えていますが、しかしその後を継いだオレーグの活躍は年代記でも大きく取り上げられています。
伝えられるところによればオレーグはリューリクの一族の出身で、リューリクの遺児であるイーゴリがまだ幼かったために摂政のような形で公の位についた人物でした。原初年代記にはイーゴリが成長してからも「彼の言うことを聞いていた」とあり、オレーグによる支配が正当なものと見なされていたことを物語っています。
882年、彼はイーゴリを奉じて南へ向かい、ドニエプルを下ります。アスコリドとジルは奇計によって殺され、キエフはオレーグの手に落ちました。彼は街に向かって「お前こそルーシの町々の母となれ」と呼びかけ、こうしてキエフはルーシの首都としての地位を約束されたのでした。
この事件は、ロシア史上において大きな意義を持っています。有名な「リューリク招致」よりも、その重要性においては上だと言うことさえできるでしょう。リューリクのノヴゴロド制圧は、例えそれが事実であったにせよ、ロシアを貫く「ヴァリャーギからグレキへの道」の北端をノルマンの一隊が押さえたに過ぎません(地図でもう一度確認することをおすすめします)。しかしオレーグのキエフ入城は、今や南北の水系が一つの権力の支配下に入ったことを意味するものであり、ルーシ全土の統一が行われたに等しいのです。
実際のところ、「882年」という数字も、またこの事件の具体的な経過も、依然として「伝説」というオブラートにくるまれており、これが事実であるというはっきりとした証拠はありません。
しかしながら「リューリク招致」伝説と同じく、重要なのは事件の具体性ではなくそれが象徴する内容であると言っていいでしょう。すなわち9世紀末期頃、南北の水系はキエフを中心として統一され、ここにルーシ国家はその第一ページを開いたのでした。
ちょうど同じ頃の日本は平安時代にあたります。中国文化圏では辺境であった日本でも、この時代には華やかな貴族文化が咲き誇っていました。また目を西方に転ずると、強大なフランク王国はすでにその統一期を過ぎ、今まさに分裂せんとするところでした(870年メルセン条約)。
従って、この時代にようやくスタートラインに立ったルーシは確かに「遅れてきた」国家であったのですが、それだけに先進的な文明国にはない「若さ」を持っていたと言えます。
3、諸種族の統一に向かって
こうしてキエフを押さえたオレーグでしたが、その権力がすぐに周囲のスラヴ諸族の上に及ぼされたわけではありませんでした。従って、まずは反抗的な種族を武力で服属させることが、キエフの新しい政府に求められた最初の仕事だったのです。
『原初年代記』によれば、オレーグはドレヴリャーネ、セーヴェル、ラジミチといったいくつかの種族と戦い、これを打ち負かして貢税を課すことに成功しました。ここで注目すべきは、キエフの建設者であるポリャーネ族が戦いの対象になっていないことです。
これは、ポリャーネが「体制派」としてキエフの側にあったことを物語っています。おそらくはオレーグが引き連れてきたヴァリャーギだけで数的に優勢なスラヴ諸族をまとめきれるものではなく、在地の勢力の力も借りていたのでしょう。言われるところの「ノルマン支配層のスラヴ化」も、この辺りからすでに始まっていたと思われます。
また同じ年代記の記事では、それまでハザールに貢税を治めていた種族に対して、オレーグは「ハザールには納めないで私に納めよ」と言っています。当時ハザールの影響は意外なほど広く東スラヴ諸族に及ぼされており、ルーシ世界はいわば南方(ハザール)と北方(ヴァリャーギ)双方向に引き裂かれていたと言えます。従って南方からの引力を断ち切り、キエフを中心とした求心力を新たに創り出すことが緊急の課題となっていました。
さらにハザールに治めていた貢税からの「開放」は、諸族に対してキエフの支配を認めさせる大義名分となり得ました。実際オレーグはハザールに貢納していた種族をうちまかした後で「軽い貢税を」課したという記事もあります。このように硬軟を巧みに使い分けながら、オレーグは徐々にルーシの支配権をその手に集めていきました。
4、コンスタンティノープル遠征と対ビザンツ条約
907年、オレーグはルーシの軍勢を率いて南に征し、ツァーリグラード(コンスタンティノープル)を攻撃します。彼らは街の周りで戦い略奪と破壊を繰り返した後、船を陸上に引き揚げて車輪に載せ、城壁への攻撃に使用するという大胆な作戦を思いつきました。これが事実なら「オスマン艦隊の山越え」に500年も先立つ壮挙ですが、ともあれこの光景を見てビザンツ人は恐れをなし、使者を送って和を請うたのでした。
オレーグのファンにとっては残念なことに(?)、この情報は『原初年代記』に見えるだけで、ビザンツ側にこれに該当するはっきりした記録は残っていません。しかし、当時ルーシ・ノルマンによるビザンツへの略奪的遠征が何度かあったことは確かで、そのうちの一つがオレーグの「遠征」に反映されている、と考えることはできるでしょう。
より重要なのは、遠征後に結ばれたとされるルーシ・ビザンツ条約の内容です。例えばルーシからやってきた商人への食料の支給、難破した船の積み荷の扱い、逃亡した奴隷の追跡など、ここで取り決められているのは、主にルーシとビザンツとの商取引について、でした。
戦士であると同時に商人でもあるという、ノルマン人の性格がこんなところにもよく表れています。戦争というアブノーマルな事態になれば武力がすべてを解決しますが、平時に行われる商取引についてはどうしてもルールが必要となります。ルーシの支配者たちもそのことはよく認識していて、わざわざ国家間の条約を結ぼうとしたのです。
912年、条約締結のすぐ後にオレーグは亡くなります。半ば伝説的な彼の生涯にふさわしく、その最期も神秘的なものでした。後継者はイーゴリ、あのリューリクの子とされる人物です。彼の存在は他国の史料からも確かめられ、実質的なリューリク朝の創始者と言えます。
東スラヴ諸種族の統合、ハザールの影響力の排除、そして対ビザンツ外交を有利に押し進めること…オレーグはこれらの政策を成功裏に押し進めました。しかし彼一代のうちにすべてが成し遂げられたわけではなく、イーゴリもまたこれらの課題に取り組んでいくことになります。
(98.11.22)
(※)以後、原初年代記の引用は古代ロシア史研究会約『ロシア原初年代記』(1988年、名古屋大学出版会)から行う。ただし固有名詞の表記については必ずしもこれに従わなかった。

洞窟修道院
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/hajimari.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/zenshi1.html