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ジム・ペニストン: 未来人のメッセージ~幻の古代ハイブラシル島の記録

ジム・ペニストン: 未来人のメッセージ~幻の古代ハイブラシル島の記録
■レンデルシャム事件
1980年12月25日から28日の朝にかけて,英国サフォーク州にあるウッドブリッジ空軍基地(Woodbridge)に隣接したレンデルシャムの森の上空に色とりどりの光を放つ UFO が出現して,軍人や民間人による目撃が相次いだ。
当時ウッドブリッジ基地は米空軍によって使用されていたが,光る物体が森に降下していくのを見た警備兵が 「UFO が墜落していった」と通報。調査のために現場に赴いた兵士たちの証言で,実際は UFO の着陸であったことが明らかになった。その後「レンデルシャムの森のUFO着陸事件(レンデルシャムUFO事件)」として世界的にも知られるようになったこの事件は,米空軍基地近くで起きたこと,軍が事件を隠蔽したことから「イギリス版ロズウェル事件」と例えられているが事件の真相は謎に包まれたまま今年で40年を迎えている。
ウッドブリッジ空軍基地は かつて核兵器保管施設であって,ヨーロッパ最大のアメリカ陸軍所属戦闘機の駐機場でもあった。こうした背景がある場所で起きた驚くべき UFO着陸事件。
それを目の当たりにした友人の一人がジム・ペニストンだ。三等軍曹として長い間空軍に勤務してきたペニストンは1982年にサフォーク州のベントウォーターズ空軍基地の第81戦術戦闘機団に配属された。任務はアメリカ空軍基地における警備担当・地域管理であった。勤務地はウッドブリッジ空軍基地から約6.4 km 離れたレンデルシャムの森の中にあった。 
レンデルシャムUFO事件は翌年1981年1月13日,ウッドブリッジ空軍基地の副司令官チャールズ・ホルト中佐が公式報告書を作り,英国国防省に提出後そのまま極秘文書として処理されていた。
ところが1983年にアメリカの情報自由化法によって,この通称「ホルト文書」が一般に公開され注目を集めた。一早くこのホルト文書を入手してこのレンデルシャムUFO事件を初めて世に伝えたのがイギリスのゴシップ紙「ニューズオブザワールド(News of the World)」紙であった。
異星人の情報を紙に流したのは当時頻繁にマスメディアに登場した元兵士ラリー・ウォーレンである。彼は森の中で物体を間近に見たばかりではなく,調査のために事件現場に派遣されていたと公言し一躍脚光を浴びることになった。その後彼は1984年10月日本テレビの招きで来日。 筆者は彼に直接インタビューする機会を得ている。 
■未来人の文字コード
1982年12月26日,同じレンデルシャムの森でもう一つの事件が起きていた。これはジム・ペニストンの証言で詳細が明らかになった事件である。 
ジムは下士官のジョン・バロウズとレンデルシャムの森の中で三角形のUFOと接近遭遇していた。
ペニストンによれば1980年12月25日~26日にかけて夜勤のシフト中に事件が起きたという。最終シフトは12月26日午前6時30分に終了する予定であった。しかしハプニングが起きた。 UFOが出現したのである。
ペニストンは現場空域で民間機・軍用機ともに飛行していなかった事実を確認後,墜落事例用検査キット,懐中電灯,無線機などを用意してジープで現場に向かった。 
舗装のない道路をしばらく走って森に入った。森の中の開けた場所を走り続けたがやがて木々に遮られて前に進めなくなった。ペニストンたちはジープから降りて前方に見える光に向かって歩いていった。途中無線機での交信が不安定になって,空軍下士官をジープに待機させ,CSCに報告するように指示を出した。 
ペニストンは光に近づいていった。 森の中でパチパチと焚火の木が弾けるような音が聞こえ,針で突き刺されるような感覚に見舞われた。 周囲に静電気がみなぎっていた。 なんとか体を動かして光に向かって進んでいくが,方向感覚がなくなって,奇妙な陶酔感と時間が歪んで流れが緩やかになったような感覚に陥る。 明らかに光の周囲が異常空間と化していた。光に進むと黄色がかった白い色の光のドームが地表に出現していた。その明るい光が暗くなって灰色・白・黄色っぽい泡が暗い色の物体から発せられていた。 
ペニストンは勇気を振り絞って光のドームの中に入った。するとそこには表面がガラスに似た滑らかな黒い物体つまりUFOが存在していた。球根のような形で宙に浮いていた。ペニストンは機体が3箇所から発する光に支えられていることを確認した。地表には光の位置と一致する形で深さ5cmほどの円形の穴が三つあった。 物体の観察中に機体の左側に象形文字のような模様とも記号もつかないものがあるのに気づいた。 それぞれの記号の大きさは縦60cm横7.5cmほどだった。 
その後12月26日,ペニストンはUFOが着陸した地点を2度訪れた。2度目に行った時は現場の土壌に残っている少しへこんだ部分の石膏型を取った。丸く直径17.5cm,深さは3.5cmほどであった。注目すべきは三つ残されていた着陸脚部の痕跡の位置が3 m間隔で完全な正三角形を描いていたことである。
ペニストン調査チームは空軍特別捜査局の面談を受け,軍部が準備した証言書類の内容を暗記して,どんな組織や人から質問されてもその通りに対応するように命令された。
そして 1981年1月の終わり計画プログラムという新しい部署への配属に配属された。ペニストンは昇進したのである。しかしペニストンには特別捜査局の自白剤まで使った厳しい尋問にも屈服せずに明かさなかった秘密があった。
それはUFOの機体に触れた際に脳内に数列が刻印されてしまった事実についてである。ペニストンがUFOの機体に直接触れた時の状況を今一度再現しておく。まるで誘導されるように機体に近づいて手で触ったその瞬間眩しい白い光に包まれた。そして瞬間的に脳裏に0と1の数列が浮かんだというのである。ペニストンが触ったのは三角形が描かれている部分であった。どのくらい時間が経ったのかわからない。次に気付くと彼は機体のすぐ横に立っていたという。
翌日12月27日の朝,ペニストンは勤務後に帰宅したものの,とても眠れる状態ではなかった。前の晩の光景が脳裏を離れず,なぜか1と0という数列が繰り返し思い浮かぶ。それは心の目に映っていたというほうが真実に近いかもしれない。フラッシュのように目まぐるしく訪れるイメージに突き動かされて,彼はひたすら手帳に数字を書き込んだ。それは16ページにも及んでいた 。
この時点ではもちろん膨大な数列が何を意味しているのか全く分からなかった。不思議なのは,数列を書き終えたところで言葉では 表現できない焦燥感が完全に消えて全身が達成感で満たされたことであった。それ以来数列が脳裏に思い浮かぶことは一度もなかった。
賢明なる読者諸君は0と1から構成されるそうですという意味で「バイナリコード」を思い浮かべるだろう。これは0と1の組み合わせに意味を持たせるシステムであって,人間が作ったプログラムをコンピューターに理解できるように二進法のコードに翻訳したものである。コンピューターは二進数しか理解しないために,文字データも0と1で表現する。
1993年ペニストンは軍を退役した。 しかし数字を記録した手帳の存在は誰にも伝える事もなくひたすらに隠していた。その間 UFO事件に関する書籍やドキュメンタリー番組に関する書には接したもののペニストンが満足できるものは何もなかった。ペニストンの願いはただ一つ。全くバイアスがかけられない形で自分の体験をありのままに伝える方法を見つけることであった。
2010年,ペニストンはかねてよりコンタクトのあったリンダ・ハウに初めて数列を記録した手帳を見せた。リンダはフィールドワークを主体として活動中の UFO研究家で一方ではジャーナリストとしても第一線で活躍していた人物。 レンデルシャムUFO事件とペニストンの体験に着目していたリンダは手帳を見て瞬時にこれは事件の決定的な要素となると確信。この数字の羅列こそバイナリコードである可能性をすぐに悟った。リンダはその道のエキスパートとして名高いジョー・ルシアーノに数列の解読を依頼。物事が大きく動き出すことになった。2012年。ついに16ページにわたるバイナリーコードの内容がついに明かされた。
■ハイブラシル島
バイナリコードはペニストンがUFOの機体に刻まれた象形文字のような記号に触ったからこそ手に入れることができた情報に他ならない。記号に触れたことでバイナリコードを脳内にダウンロードできるシステムが作動したのだろう。
コードに示されていたのは,世界各地の聖地とされる場所,それも歴史的に大きな意味を持つ場所ばかりである。
ただし不明な座標があった。
北緯52.0942352
西経13.131269
という座標である。現在何もない北大西洋上の一点だったからだ。 なぜ何もない洋上の地点が含まれているのだろうか?それが2度も示されているのである。二度目は起源地となっており後日その場所にこそ事件の核心となる最重要な存在が示唆されていることが分かったのである。。
この座標は「ハイブラシル」という名前の伝説の島があったとされる。
アイルランドの西の沖合320kmの北大西洋上の位置を示していたハイブラシルこそ「アイルランドのアトランティス」「第二のアトランティス」と呼ばれる謎の島だ。1374年~1595年に作られた地図では必ずハイブラシル島が描かれている。 ハイブラシルは数年に一度深い霧に包まれた状態でしか姿を現さないと伝えられている謎とロマンに満ちた幻の島だったのである。しかしアトランティスと違いハイブラシルに関する文献は数多く残されている。
そこは豊かな自然に恵まれた島で,高度な文明が栄えた。島を訪れた人は口をそろえて,壮麗な建物が並ぶ都について熱っぽく語ったという。黄金のプレートが敷き詰められた屋根。まるまると太った牛の群れが飼われている広大な牧草地。そして裕福で知的な島民たち。島に関する神話や伝説は枚挙に暇がない。
 ペニストンが受け取ったメッセージには世界各地の有名遺跡や聖地が含まれていたということは,ハイブラシル島もまた聖地であって,同じ遺跡が存在したのではないか? 解読された座標には「起源地」と示されていた。つまりハイブラシル島はレンデルシャルUFOの起源だったことになる。
レンデルシャム UFO がタイムマシーンで,その乗員が異星人ではなくて地球の未来人だったとするならば,彼ら地球の未来人は1980年のイギリスだけに特化してやってきたとは思えない。バイナリーコードの座標に示された遺跡や土地にはその時代ごとにことごとく訪れていたはずである。。
その訪問は人類が誕生した過去にまで遡っているかもしれない。 フォン・デニケンやセカリア・シッチンが提唱するこの宇宙考古学では,異星人が大昔からこの地球に干渉して人類創造にまで関与したと言うか説が唱えられている。しかしそれは実際は異星人ではなく特には神として崇められた彼ら地球の未来人だったのではないだろうか?
その起源となるのがハイブラシル島である。この島の座標が念を押すかのように2度も書かれている。彼らの起源=故郷である。ハイブラシル は彼らタイムトラベラー達が太古~現在~過去の時代まで時空連続体をタイムワープしてきた原点であって,特別な場所なのである。
グーグルマップで見ると,ハイブラシルの場所はヤマアラシ錐とヤマアラシ海曲部といわれるアイルランド大陸棚の一部が盛り上がった海底地形になっている。現在はサンゴ礁が密集した絶好の漁場でもある。約12000年前に氷河期が終わって海面が上昇する以前は海面に出ていた可能性が高いという。海底地形が海面に出ていれば地図に描かれたハイブラシルの形状に近いといわれる。
伝説の島といわれるハイブラシルであるが,その名前は古くから文献に記録されており,1674年にはフランスからアイルランドへ航海中の船員がハイブラシル島に上陸したという記録を残している。上陸した船員は,島に石で作られた巨大な城のような構造物があって,馬や牛や黒ウサギがいたと証言している。さらに音楽や音波で大きな物体を動かしていたという目撃証言があり,ハイブラシル島には高度な科学技術と膨大な富が眠っていると信じられてきたのである。ハイブラシル島は宇宙のすべてを知り尽くした魔法の力を持つ聖職者が支配していたと言われる。
ー雑誌ムー,2020年,     


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.........
       ↓
・1ページ
EXPLORATION OF HUMANITY
(人間性の探求)
666 8100
・2ページ
北緯52.0942352
西経13.131269 
・3~5ページ
COUNINOUS FOR PLANETARY ADAN??
(惑星の進化のための連続的な4つの座標 )
・6ページ~13ページ
北緯16.763177
西経89.117768
(ベリーズのピラミッド)
北緯34.800272
西経111.843567
(米国アリゾナ州セドナの南,モンテズマ城)
北緯29.977836
東経13.1649
(ギザの大ピラミッド)
南緯14.701505 
西経75.167043
(ペルーナスカの地上絵)
北緯36.256845
東経117.100632
(中国山東省)
北緯36.110195
西経25.372281
(ギリシアナクソス島アポロン神殿の門)
・14ページ
EYES OF YOUR EYES
(汝の目の目)
・15ページ
北緯52.0942352
西経13.131269
ORIGIN
(起源地)
・16ページ
ORIGIN YEAR 8100
(起源の年8100年)

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ムー 2020年5月号 [雑誌] - ムー編集部
ムー 2020年5月号 [雑誌] - ムー編集部

スーパーマーケット人気





[市場]スーパーマーケットが進出
1981年
1930年代アメリカに生まれたスーパーマーケットは,第二次世界大戦後,流通革命の中心としてヨーロッパに波及して,わが国にも1960年代から生まれだして, 1970年代から1980年代に入ると,巨大スーパーは百貨店の売り上げを超えて全国に支店をはりめぐらせるするようになった。
ダイエー
イトーヨーカドー
長崎屋
ジャスコ
などがこれである。
スーパーマーケットは,セルフサービス方式をとることによって人件費を少なくして,これによるコスト低下によって薄利多売を図ろうとするだけではない。
百貨店の場合,10万種類程度の品物を揃えて,返品が効く形で問屋からものを仕入れて,問屋との了解をもとに価格を決めている。
ところがそれに対しスーパーマーケットは品物の種類を大きく制限して,ほぼ1万種類以下,本店に仕入れの専門家を置いて,これが大量買い入れ/仕入れる。従って低価格で仕入れ,これを各スーパーマーケットに回すなど,価格を自らの責任で決めていく。
こうしたシステムであるために,支店長制度の下,ベテランを配置しなければならない百貨店に対して人材供給が容易であって,また付近の商店よりも一段と安い価格で売ることができて,急速に支店網を広げることができた。
他方,既存商店はスーパーの進出によって脅威をうけるところから,一方でこれらの規制を求めて,1973年,「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律(大店法)」を整備させた。
このような規制法を成立させた背景には,1973年の第一次石油石油ショック以降,地方に進出するスーパーマーケットは都市中心部に立地するだけではなく,マイカーに便利な郊外の新興地に立地して,そのために伝統的な繁華街が衰退すると言う状態が見られた事もある。ファミリーレストランなどの普及もこうした傾向を強めている。
こうしたスーパーの攻勢に対して,夜遅くまで開店してるセブンイレブンや24時間営業を続けるサンチェーン等,連鎖店組織も生まれた。
また,スーパーマーケットをそれ自身も一方で高級化して,百貨店化する店を作って,他方でさらに安く売ることができるようにと商品を段ボール箱に入れたまま並べると言うボックスストアなども出現させた。
こうした流通業界の激しい競争の中で,1980年代にはスーパーマーケット最大のダイエーがフランスの名門百貨店オ・プランタンと提携して一方で百貨店への進出を用意すると同時に,アメリカのディスカウントストア・Kマートと連携して,国際的に共同仕入,共同開発体制を敷く反面,日本最大のボランタリー・CGCジャパンと連携して共同仕入,商品の共同開発法を図るなど,流通業界は競争と再編が進んで,新しい時代が訪れようとしている。
ー学研百科事典Brummell,1981年,       

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スーパーの販売額ランキング, 1979年度
ランク,会社名,販売額,テンポス,
01,ダイエー, 10兆2594億円,159
02,イトーヨーカドー, 05兆7353億円, 092,
03,西友ストアズ, 05兆2654億円, 144
04,ジャスコ, 05兆0238億円,127,
05,三越, 04兆9055億円,014
06,大丸, 04兆1277億円,007,
07,ニチイ, 03兆9692億円, 148,
08,高島屋, 03兆7501億円,005, 
09,西武百貨店, 03兆4111億円,010,
10,松坂屋, 02兆9869億円,009,
ー学研百科事典Brummell,1981年,       

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2118年に行ったことがあるタイムトラベラーの告白

0:10 / 26:46
2118年に行ったことがあるタイムトラベラーの告白
ApexTV チャンネル登録83万

YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PIp5xKRsSck





(要約)
Alexander Smith氏は2118年にタイムトラベルをして戻って来たと主張している。
以下,Smith氏の話。
+++++++++++++++++++++++++++++++
こんにちは。私の名前はAlexander Smith。
長い長い間,この問題について私は沈黙を守ってきた。
今,この動画をご覧の皆さんのほとんどが,このような話は認めないだろうということは分かります。
ただ注目を浴びたいために作り話をしていると思うかもしれません。
しかし,私はそのような人間ではない。
私は長い間真実を話したいと思っていました。
自分の子供たちや孫たちにさえ話したことのないことを,私は皆さんにお話しようとしています。
私が皆さんにお話しようとしていることは,私の妻さえ知らないこと。
長い間沈黙を守ってきた,その理由は脅迫によるものでした。
彼らは私に真実を語らせたくないのでしょう。
しかし,このまま全てを封印したままで墓場には行けない。
私がこれから生きてゆく唯一の道は,未来に何があったのかについて真実を語ること。
1981年のことからお話しようと思います。
1981年の時点で,私は地元で車の修理の仕事をしていた。
その10年位前の1970年代にCIAで働いていた事があるが,その時点では,軍ともCIAとも何の関係もなかった。
軍に入隊した頃の事ははっきりと覚えている。
私は,妻と家で椅子に座りテレビを見ていた。
ドアをノックする音がして,ドアに向かう。
ドアを開けると,外には黒服の男が二人。
黒服の男たちはCIA。
一緒に来るように言われ,目隠しをされ,トラックの後ろに乗る。
出かけることを妻にさえ話してはいけないと言われたので,座っていた椅子をそのままにして,妻に言伝をする間もないまま出かけた。
車で移動中,黒服の男たちは,どこに行くのかを伝えることはできないと言った。
到着。
ヘリコプターの音。
目隠しをされたまま男たちに付いていく。
ヘリコプターに乗り離陸。
だいたい45分で目的地に到着。
私は目隠しを解かれた。
そこは軍の最高機密基地だった。
数人の別の黒服の男があらわれ,基地の地下施設に入ることを許可,
私は地下基地に連行された。
地下基地は深い地下にあり,通路は非常に長いはしご,それにつかまり降りていく。
到着。
周りを見渡すと長い廊下がみえる。
その廊下をすすむと中央諜報機関があった。
状況がおぼろげながらわかってくる。
CIAでは,空間と時間の制限についてテストするプロジェクトがすすめられていた。
プロジェクトは,地球が直面する大きな問題に対処する方法を見つけるのためもので,
私は最高レベルの科学者らと共にそのプロジェクトに参加せよという事らしかった。
正確にどのようなものかは分からないが,私は契約をして軍に入隊,CIAのポストに就いた。
長い廊下をすすむと,右側に部屋。
その部屋に入ると,中にはワイヤーのついた金属製の大きな機械があった。
大きな立方体の機械。
横には計器が付いている。
科学者が来て,他の黒服の男たちに部屋から出て行くように言う。
部屋には,私とその科学者だけになった。
科学者は私に言った。
「これはタイムマシーンだ」。
私はショックを受けた。
CIAがそのようなテクノロジーを既に造り上げていたことは知っていた。
そして,それが,まさにそれだった。
今あるスマートフォンのような技術は,発売の30年位前に開発されていた。
つまり,現在彼らが持っているテクノロジーがどんなものか皆さんは想像がつくでしょう。
私はそのタイムマシーンのテストパイロットになるようだった。
放射線被ばくがあり,怪我をしたり,死ぬ可能性は非常に高いと言われた。
そして辞退はできないだろうとも言われた。
最終的にタイムマシーンのテストパイロットの契約をした。
私は殆どボール状の僅かなスリットしかないヘルメットをかぶり,スズ製のスーツを着た。
いずれも放射線被ばくを防ぐもの。
実験にあたり,何度もミーティングを行う。
最初のテストの準備期間は終わった。
私は機械の中に入り,リハーサルのとおりに手順をすすめる。
CIAは,以前強制的に私をスカウトしたのと同じ語気で,妻や子供や孫や他の誰にも決してこの事は話すなと言った。
彼らが最も私にして欲しくないことは,今日ここで今皆さんにお話をすること。
しかし,実際私は皆さんにお話をしている。
タイムマシーンの中は真っ暗で,何も聞こえない。
入って5分くらいすると,頭痛がし始める。
突然明るい光がフラッシュ。
あたかも瞼の内側で起こったことのように感じた。
仰向けの状態で周りを見渡したが,何も見えない。
ただ私の目の中で白い光が2.3秒ごとに点滅していた。
最終的に意識を失う。
意識がフェードアウトするような感じ。
意識がもどった場所は,病院のベッドの上だった。
実験が失敗して,まだ1981年にいるのだと思った。
周りを見回す。
部屋に私一人きりだ。
ベッドの左側には窓。
窓にはカーテンが掛かっていて,外を見ることができない。
しかし,光が隙間から差し込んでいたので,日中だと分かった。
窓を見た後,自分のすぐ前を見る。
私の前には,今までに見たことのないものがある。
ガラス製のスクリーンだ。
それは,一枚のガラスのようだ。
壁から数インチ離れた所で浮いている。
そこが軍の病院の内部だと思う。
一般人が知らないような発展進歩したテクノロジーがあるから,1981年の軍の病院の内部だと思う。
しかし,私が周りを見渡した時,非常に変ったもの,非常に違ういるものがある。
左側を向き,病院のベッドに腰掛けると,そこにはガラスのテーブルがある。
床を見ると,テーブルは足がないガラスの天板のみのテーブルだ。浮いている。
何も支えるものは見当たらず,およそ2フィートほどのところで浮いている。
ガラスの天板のみのテーブルの上には,数個のコップがあり,その1つは水が一杯入っているようだ。
これは,1981年現在のどんな進歩したテクノロジーでもないはずだ。
一人の看護士が部屋に入ってきた。
出来事の後,初めて会った人だった。
彼女は私におきた事を説明し始めた。
私は道路脇で意識不明で倒れていたようだ。
彼女は私が自動車事故か何かで意識を失ったと思い,この病院に連れてきた。
私は彼女に自分の話をした。
彼女はそれが起きた日付はいつなのかと尋ねた。
私は,
「1981年だ」
と答えた。
そして,次の瞬間に彼女が私に言った言葉を私は忘れることはないだろう。
「今は2118年ですよ」。
2118年だって?私は彼女が軍の時間を言っていると思った。
しかし,彼女は,あなたは今が何年か知らないのですか?と逆に言い返した。
私は,最初彼女が言っていることが信じられなかった。
しかし,状況から判断して,私は徐々に状況を受け入れ始めた。
彼女が病院の他のスタッフと親しいようで,部屋から出た後にいろいろ雑談していたが,どうも私の事は,頭がおかしい患者だと話していたようだった。
彼女は気晴らしにテレビでも見てはどうかと言う。
脇にリモコンがある。
1981年の世界のリモコンとは違うリモコンだ。
ガラスのテーブルも同様。
リモコンを持ち上げる。
一番上に電源ボタンがある。
そのボタンを押すと,壁の前に浮いているガラスがスクリーンに変化した。
スクリーンには今まで聞いたことのないテレビ番組が映し出された。
ニュースにチャンネルを変えると,日付が目に入る。
2118年11月17日。
信じがたく,受け入れがたい。
夢を見ているのではないかと思う。
そしてこの未来の世界では誰一人信じてくれない。
体調は万全だったので,この病院からでなくてはと思う。
病院のベットから出る。
手首の下の方にチップがつけられている。
チップは私の心拍数やその他生命維持に必要な器官をモニタリングするものだあるようだ。
窓の方に歩いて行く。
カーテンをを開けると街が見える。
今までに見たことのある街とは違う街。
街はとても大きく,いくつかの乗り物が超高層ビルの上を飛んでいる。
何が起こっているのかを理解するために,病院を出なくてはならない。
自分の運命を受け入れ始める。
もう二度と妻には会えないかもしれない。
病室のドアの方に歩いていく。
カギが掛かっていない。
私はドアを開ける。
私はまだ1981年に着ていたのと同じ服を着ていた。
部屋を出て,長い廊下を歩いていく。
エレベーターがある。
1981年のエレベーターと同じ感じ。ボタンは少しだけ未来的。
そのエレベーターに乗り,1階のボタンを押す。
私は6階にいるようだ。
しかし,そのエレベーターの昇降速度は非常に早い。いつのまにか1階につく。
エレベーターのガラスのドアが開き,病院のロビーが見える。
皆白い服を着ている。
彼らは私を変な目で見ているようだ。
病院の受付に行く。
患者は皆,白い服を着ていたが,受付で働いている人は全身青い服を着ていた。
他の病院の職員も皆,青い制服を着ている。
現在の病院で見られるような青い制服ではなく,袖の長い青いシャツと同じ色の青いズボン。
近くにいる全身青の服の女性に,自分が今どこにいるのかを尋ねた。
彼女は,
「あなたは508地区にいます」
と言う。
「508地区とはどういう意味だ」
と訊くと
「どういう意味だとはどういう意味ですか,あなたのいる場所は508地区です」
という答え。
私は自分がいる場所について,あらゆる質問をした。
ガラス製のスライドドアのある玄関に向かう。
スライドドアは通り抜ける際に自動的に開いた。
景色を見るかぎり,街の郊外であるようだ。見たことのないようなビルが林立している。
「508地区」という看板が見えた。
その看板の下の方にはとても小さな文字で
「イャービス帝国 508地区」
と書いてある。
どうやらここはアメリカ合衆国ではないようだ。
「イャービス帝国 」
が何なのかはわからないが,もとの世界に帰らなければならないのは分かっていた。
街を歩き回る。
上を見上げるとバスが空に浮いている。
バスや車が空を飛んでいる。
どのようなテクノロジーでそうなっているのかは分からない。
下の地上の通りは歩けるようになっている。
地上の通りは人が歩くことができ,通行人や自転車に乗った人々がたくさんいた。
しかし,地上の通りに車はない。
車や交通機関は全部上空にあり,超高層ビルの間を行きかう。
超高層ビルは皆透き通って,ガラスでできているかんじ。どれも高い。
どのビルも,ニューヨークの超高層ビルよりもずっと高い。
自分が2118年の世界にいるのだということを認識しはじめる。
自分がどこにいるのかという新しい手がかりを得ました。
家族に会いに戻れるかもしれない。
街は基本的にビルの谷間に1本の大きな歩道があって,人はそこを歩く。
大きな歩道や通りにいる人々を見ていると,中にはロボットもいる。
ロボットは地面から浮いているように見えた。
足がなくて,地面から浮いている以外は,見た目は人間によく似ている。
私は通りにいる人に近づいていき,言った。
「私の言うことを信じないでしょうが,聴いて下さい。私はタイムトラベラーです」。
彼は聞きなれたような感じで
「分かった」
と言った。
彼に尋ねる。
「タイムトラベルが開発されたのは何年ですか?」
「2028年だ」。
という答え。
私は言う。
「それは間違いだ,私は1981年から来たタイムトラベラーなんだ。
だからタイムトラベルが開発されたのは1981年だという事になる」。
彼は怪訝な顔をして私を見て言う。
「タイムトラベルは2028年に開発されたと勉強した」。
私たち二人はわけが分からなくなった。
元の世界に戻らなければならない。
夜の街を歩き,ロボットに近づいていき言う。
「すみません」
ロボットは振り向いて,私を見た。足がなくて,地面から浮いている以外は,普通の人に見えた。
「どうすればタイムトラベルができますか」
と言うと,
「近くのタイムトラベルエージェンシーに行く必要があります」。
との答え。私は,
「タイムトラベルエージェンシーはどこですか」
と訊くと,ガラスのタブレットPCのような物を渡され,場所が分かる。
タブレットPCを持って歩く。
タブレットPCはとても軽い。また傷つきにくい。
タブレットPCには2028年の現在時刻が表示されていた。
小さな地図が表示されており,私の居場所を示す紫色の線が入っていた。
リアルタイムでその線に沿って,数本の通りを進む。
数ブロック先にビル。
超高層ビルのひとつ。そのビルの一番上にタイムトラベルエージェンシーの看板がある。
そのビルに入る。
カウンターに,本物の人間かロボットか分からない人がいる。
地上から数フィート浮いているが,足が隠れていると人間かどうか区別できない。
受付の男性に,タイムトラベルエイジェンシーについて尋ねる。
1981年にタイムトラベルする必要があると言うと,
「457ドルかかる」
との答え。
私はあらかじめ科学者から帰り賃の5万ドルを貰っていた。
現金のアメリカドルを受け付けるのかどうか分からないままお金を払う。
彼は何も言わずにそれを機械に差し込む。
それを受け付けたようだった。
おつりをもらう。
最終的にかかった費用は6,000ドル。
私は尋ねた。
「イャービス帝国とは何ですか?」
「それはあなたが今いる場所だ,着ている物もおかしいし,どうしてそれを知らないのか」
という答え。
私の話を聴きたい未来人などいるかずもないと思っていないと思っていたが,彼に言う。
「私は1981年からやってきたタイムトラベラーだ」
彼は心底信じたようだった。
そしてタイムトラベル機の中に案内される。
タイムトラベル機は,窓のない四角柱の機械。おそらく50人は入れそうな大きさで,白と青のとても派手なデザインだ。
私は階段を何段か昇って,機内に入った。
その時代に行く乗客は私一人だった。
機内に座ると,振動が始まる。
そして最終的に意識を失う。
目を覚ましたら,そこはロサンゼルスの道端だった。

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予知情報

2012年03月26日14:06
地球や人類の滅亡はないと30年前に確定されています。
再び、今日の記事も、「オイカイワタチとは何か、宇宙からの黙示録」からの引用となります。
驚いたことに、地球や人類の運命は既に30年前に決まっていたというのです。
ここで、私の勝手な推測が始まりますが。。。これは、スピリチュアル界での現象を表しているのではないかと思っています。つまり、スピリチュアル界で起きた現象が、その後、3次元の物質界に顕現されるのです。
今、その時が来ているのです。銀河連邦からのメッセージにもあるように、3次元物質界の聖戦、儀式が終わりつつあるのです。今、銀河連邦から毎日のように歓喜のメッセージが送られてきているのは、彼等は近未来に地球や人類の次元上昇後の姿が既に見えているからでしょう。そして、もうじき、地球や人類はその通りにここに現実化されていきます。
今まで地球や人類が滅亡するなどという情報を流して人々を怖がらせてきた団体・組織・個人は、悪の存在に操られていたか、その仲間だったのでしょう。悪の存在(ルシファー、オリオン等、そして、イルミナティ・カバル)は、30年前に神様が既に決めた事(地球・人類は救われるということ)に従わずに、どこまでも抵抗して私たちを滅亡させようと企んだのでしょう。
銀河連邦からの情報によりますと、今まで長い間、地球の周りや太陽系内で、善の宇宙人艦隊は悪の艦隊と戦いを繰り返し、今やっと終わりがきているようです。もちろん、この聖戦には善の宇宙人艦隊が勝利しました。そのため、悪の宇宙意識体は地球から去りました。地上に残った者達が、残党勢力と人間の持つ悪の想念・意識です。これから、善の宇宙人が3次元の密度に自分自身を下げて、人間の姿となり、私たちの前に出現してくれるのかもしれません。
ただ、地上のワンダラーや日本のオイカイワタチは、まだまだ、今後も地球や人類の次元上昇のために非常に大事な役割を担うことになるでしょう。
<引用開始>
まず、オイカイワタチとは何か?
これは、宇宙語で、ワンダラーの中の、ある役目を担った人たちの集まりのことを意味します。
ワンダラーは、統帥者とする大長老サナンダ(AZ)の下、神様の命を受け、神様の手足となることを一人ひとりが心に誓って、進化の大周期を迎えた地球をより良く、高く変化させ、神の国とするために地球に生まれ変わったのですが、オイカイワタチとは、地球の終わりの時に神が行う儀式「湧玉の祝事の儀式」に参加し人々のカルマを明らかにし、根のカルマを取り除く役目を持つ(日本の)ワンダラー集団のことを言います。
驚くべきことに、この「湧玉の祝事の儀式」は、既に30年も前に日本で執り行われていました。
「日本は、永遠に神様の降り給う地であり、今までも降りられたことがあります。日本は神様を崇めることが役目です。また、ワンダラーが日本に多いのは、神様をを守るためです。ワンダラーは生きている天の使いです、。」とサナンダが語ったそうです。
1960年から20年間、世界中の多くのワンダラーが集結し、悪の存在(ルシファーとオリオン)と聖戦を繰り返し、既に悪の存在に勝利しました。そして、1981年に日本にて「湧玉の祝事の儀式」が行われました。
太古の昔に、ワンダラー達は、悪の存在に負け、地球のカルマを浄化することができず、地球は何回も破壊されました。レムリアやアトランティスがそれです。しかし、今回、ワンダラー達が目覚め、見事に聖戦に勝ち、地球や人類のカルマは浄化され、必要な”儀式”を行えたために、地球や人類は滅亡せず、救われることが確定されました。
大宇宙の中にある一遊星地球が大周期を迎え、世の終わりと同時に新しい地球・神の国の誕生が行われることは人類にとってだけでなく、地球にとっても、また宇宙全体にとっても大変な出来事なのです。

国鉄経営状況

国鉄経営の現状
1981年
経営的には満身創痍
国鉄は1963年まで黒字を実現できていたが,1964年以降今日まで常に赤字,1971年からは償却前赤字に陥って,今日まで改善されるところはない。
ここ数年,赤字は年8000億円から9000億円を続けている。
1976年にはそれぞれの累計赤字3兆1600億円余りのうち2兆5400億円余りを棚上げして,資本金のうちの5604億円を減額して累積赤字の大部分を消した。しかしその年も9000億円を超える赤字を生んで,1979年には再び3兆5000億円の累積赤字となって,再びこれらの額の棚上げを余儀なくされた。
200を超える国鉄路線の家で黒字は
新幹線,
山手線,
他5社
のみ(1980年度),他はすべて赤字である。 
その内容を見ると,
1978年度の赤字8664億円
のうち,
貨物の赤字は6076億円,
営業ケースは297
となっている。つまり100の収入を上げるのに実に3倍近い費用を要しているのである。
なぜこのような状態になっているのであろうか。理由は明白である。1965年以降のわが国の自動車輸送の発達が国鉄貨物の競争者としてこれを圧迫したため,国鉄の使用は年々落ちて,しかも国鉄貨物は自動車との競争上料金を引き上げることが難しい状況に追い込まれたからである。
しかし国鉄の赤字のうち貨物の赤字が他を離して大きく,貨物の再建なしに国鉄の再建はないところから,国鉄再建は極めて困難であることがわかる。
国鉄貨物の全面廃止,それによる大幅経営縮小,これ以外経営の立て直しは考えられないのかもしれない。
確かに赤字に悩む国鉄の中にあって,新幹線は営業係数60前後を続けており黒字である。しかしそれは新幹線だけをとったからであって,山陽新幹線ができることによって従来まで経営が良かった山陽本線が大きく落ち込んだことを新幹線の投資効率の中に勘定しなければ,真の意味での新幹線の投資効率にはならない。
こうした計算の第一次接近として,もし山陽新幹線5在来線の複々線化と考えると,前者のみの営業件数約90に対して,両者合計130前後,つまり100の収入に対して130の経費を必要としているのはここ数年の平均的姿である。確かに東京〜大阪間は新幹線だけだと営業ケース50以下で在来線と合計した場合でも90付近であって,黒字である。しかし山陽新幹線にしてしかり,東北新幹線,北陸新幹線など営業は決して国鉄経営上プラスにはならないのである。
21世紀を担う国鉄。それは新幹線網であり,それのみがモータリゼーションの波と戦えるものであるにもかかわらず,経営的にこうした問題が存在するのである。
在来線の国鉄旅客を見ると,ここでは経営が過密・過疎の影響をまともに受けている。
地方交通線では沿線人口の減少,自家用車の普及などによって乗客は減少して,また定期客が全体の2分の1,そのうち割引率の大きい通学が約60%を占めている。こうした結果,地方交通線の営業係数は平均して427(1979年度)であってこれが1000を超えるところもある。
他方大都市においては人口集中に伴う混雑を緩和させるために,巨額の投資を必要として,これかろ経営を大きく圧迫する一因となっている。
加えて東京などのように国鉄と私鉄が平行して走っているところでは,国鉄の運賃は私鉄に比べて著しく高くなって,この面からも運賃の引き上げが難しくなっている。ただし地方の私鉄は概ね国鉄の2倍であって,国鉄の全国一律賃率が現状にそぐわなくなった面を無視することができない。
このような国鉄経営の悪化に対処して1980年11月「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」が成立, 1981年,経営改善計画が発足した。
この計画は,
経営の合理化に努め, 1980年度41万9,500人の職員数(予算人員)を1985年には35万人に縮小する,
鉄道特性の発揮しがたい路線輸送密度1日1キロ平均4000人以下の特定地方交通先は,順次バスに転換して縮小を図る(当面は輸送密度2000人以下を転換する),
地方交通線については特別運賃を設定してこれを引き下げる,
関連企業の利益のうちで1985年までに5000億円程度を吸い上げて,国鉄の赤字を埋める,
などを骨子とするもので, 1985年度には幹線における収支均衡を達成しようというものである。
この計画を「後のない計画」と国鉄自らが呼んでいるように,従来ない大胆なものであるが,こうした計画をもってしても,今後開業する新幹線(東北新幹線,北陸新幹線)に伴う赤字は除外されている。また特定人件費の増加によって7700億円の赤字が単年度で発生するなど,経営の改善は事実上実現できないものと思われる。
モータリゼーションの進行によって客と貨物を奪われて,飛行機の発達によって遠距離客を失う,という国鉄の姿は日本だけではなく,先進資本主義国一様の姿である。
しかし日本ではドイツ・イギリスなどの鉄道が輸送する重量貨物の多くを内国海運が分担して,加えてドイツ・イギリスの石炭のような特定物質をエネルギー革命その他によって失っている。しかも先進国のように鉄道特性のない路線からの撤収が政治的に制限されており,思うにまかせない。加えて,政治的要求が不採算の新規路線の建設をしている。
先進国では政策割引に相当する金額を鉄道に保障しているか,これも日本では実現されていない。
しかし問題はこうした客観的条件だけではない。
今もし首都圏等の過密対策として20年間にわたって年60億円程度の黒字を生んできた山手線の利益をこれに投入していたならば,第二山手線をはじめ一大都市交通網が整備されてそれなりの収益を得ていたであろうしかし実際にはその利益を吸い上げて地方線に授入していた。大都市から金を吸い上げて,それを地方が使うと言う戦後の政治がこれを加速したのである。
それと同時に地方交通線にしても私鉄の場合には(合理化のために運賃が国鉄の2倍であるため)に乗車密度4000人以上は黒字であるのに国鉄は8000人以下で赤字である。
大井川鉄道のごときは乗車密度2000人以下でも関連企業を含めることによって経営を維持している。もし地方交通線を国鉄から分離してそれぞれの地域で独立の形態として経営にいれれば廃止することなく維持出来る路線も多いと思われる。
またバスに転換すれば赤字が縮小すると言うけれども,その実態は両者の運賃,特にその定期代の違いである。
過疎地域で国鉄バスに転換すると1日何便も出せるようになって,しかも停車間隔も縮まる等の利便が生まれるが,運賃を定期代で見ると何倍にも跳ね上がる。もしこれだけの運賃を国鉄に支払う用意があるならば国鉄路線を維持することも可能であることをに注意する必要があろう。
国鉄再建計画では地方交通費のうち輸送密度1日8000人以下4000人以上の約2000キロは鉄道の方がバスなどよりも経済的であるために経営を続けて,また輸送密度4000人以下でもバス転換不可能な約2000キロも国の補助で運営を続ける。それ以外のもののうち輸送密度1日2000人以下のもの約2000キロは1985年度までに残りの約1000キロ(輸送密度1日4000人以下 2000人以上でバス転換可能なもの)は1985年以降にバスに転換することにしている。しかしこれに対する反対は政治家を巻き込んで実現は容易ではない。
それに国鉄経営上,大きな問題は労使関連である。
それは単に繰り返される春闘をめぐる対立を言うのではない。それは表面上の対立に過ぎない。なぜならもし労使のペースアップをめぐって合意したとすれば予算の修正を伴うことになって,国会でこれらを通すことが難しくなるのである。
しかし交渉が決裂して,公共企業体労働委員会が仲裁裁定を引き出すと,その決定を労使が尊重しなければならないならない事は法的に決められているために,予算修正が容易である。このため春闘がスト突入,直ちに中止と言うパタンを含んでいるのである。
しかしこの事態を知らない株労働組合は反発して一部は民社党組合のようにストに反対して, 一部は新左翼の組合のように労働組合幹部日批判を強めて,労働対立問題が起きている。これが「山猫スト」を生み,貨物輸送を混乱させて国鉄日木貨物衰退の大きな要因となったのである。
それゆえに国鉄再建計画では労使関係の改善が改めて問題にされて,労働組合の協力の上に合理化が行われようとしている。このことが反面では地方交通線の分離など大きな構造改善政策を難しくしたしたのである。
ー学研百科事典Brummell,1981年,       

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[イベント] マディ・ウォーターズ&ザ・ローリング・ストーンズ(1981)






[イベント] マディ・ウォーターズ&ザ・ローリング・ストーンズ(1981)
「マディ・ウォーターズ&ザ・ローリング・ストーンズ」(DVD)
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2013/10/7(月) 午前 0:01 MUSIC CD&DVD 練習用
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「マディ・ウォーターズ&ザ・ローリング・ストーンズ ライブ・イン・シカゴ1981」(DVD)を見ました。
正式タイトルは、「ライヴ・アット・ザ・チェッカーボード・ラウンジ・シカゴ 1981」。
2012年、活動50周年を迎えた「ザ・ローリング・ストーンズ」。
バンド名は、シカゴ・ブルースの父と呼ばれる
「マディ・ウォーターズ」の「Rollin’ Stone」から付けられた。
ブルースを根底に持つ「ザ・ローリング・ストーンズ」の面々は、
そんなとっても憧れだったアーティスト「マディ・ウォーターズ」と
1981年11月22日にシカゴのライブハウス「ザ・チェッカーボード・ラウンジ」で
奇跡の夢の共演を果たしている。
「ザ・ローリング・・ストーンズ」にとっての「原点」ともいえる
「マディ・ウォーターズ」との共演は特別なもので、
「マディ・ウォーターズ」に呼びこまれてステージに上がる
「ザ・ローリング・ストーンズ」のメンバーの表情は緊張感に満ち、
とりわけ子どものようにはしゃぐ「ミック・ジャガー」のパフォマンスは印象的。
座っていた「マディ・ウォーターズ」も影響され立ち上がって力みなぎるパフォーマンス!
まさにファーザーズ&サンの共演。
それに「バディ・ガイ」・「ジュニア・ウェルズ」・「レフティ・ディズ」という
シカゴ・ブルースの実力派プレイヤー達も参加して、
とんでもない一夜限りのスペシャル・ライブを盛り上げている。
惜しくもこの2年後に当たる1983年に「マディ・ウォーターズ」がこの世を去ったため、
このライブが生前最後のライブ映像になっている。
抑制の効いたボーカルにときどき力強く激しいギター・プレイをする
「マディ・ウォーターズ」の存在は圧倒的!まさにシカゴブルースの父の風格でした。
カテゴリ>Yahoo!サービス>Yahoo!ブログ>練習用

東京散歩研究5
https://blogs.yahoo.co.jp/mhkamenao1959






[兵庫神戸] 神戸博,ポートピア81










[兵庫神戸] 神戸博,ポートピア81
ポートピア81
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2011/7/13(水) 午前 0:16
エキスポ その他テーマパーク
今年で30年になる。大成功した大規模地方博。以降の地方博ブームの火付け役になった。
テーマ:新しい海の文化都市の創造。海上の人工島ポートアイランドの街開きとして行われた。
カテゴリ>エンターテインメント>テーマパーク>その他テーマパーク

若葉マークの都市建築研究所
https://blogs.yahoo.co.jp/momonakai










ポートピア81と鉄道
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2011/7/17(日) 午後 4:58
エキスポ 鉄道、列車
会場輸送は、当時全国初の新交通システムとして誕生したポートライナーがその多くを担った。
オートメーションの無人運転が話題を呼んだ。
国鉄三ノ宮駅から、発着しており、市民広場、南公園が最寄駅だった。
大阪市のニュートラムと開通を競っていたため、強引な開業で故障が相次いだものの、
その後、昭和天皇もわざわざ乗車するなどVIPを輸送も行った。
初乗りの印象は、バスみたい。いかにも遅く、小さくて物足りない感じがしたものだ。
記念切符
記念切符が発売され、阪急やポートラーナーを買ってもらった記憶がある。
阪急のものは写真がなく、小学生には、嬉しくないものだった。学校で作ったステンドグラスに似ていた。
その阪急は、会期中、車輌にHMを掲げて走行していた。側面にもステッカーが貼られていた。
会期中の三宮交差点。中央は交通センタービル。右に、国鉄のホームと、阪急のレトロ駅舎。
なつかしいような・・・建物はほとんど替わってしまったが、基本的な構成はなんら変わっていない。
連続的に変遷を知るものとっては、30年経っても、あまり変わり映えしないようにも感じる。
 “海上未来都市”と今となっては大袈裟な感じ。夢があったが、今となっては、陳腐化した感じをぬぐえない。

若葉マークの都市建築研究所
https://blogs.yahoo.co.jp/momonakai