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池上競馬場ほか設立

[東京行徳] 池上競馬場
池上競馬場
池上競馬場は明治39年(1906年)~明治43年にかけて東京競馬会が運営していた。。
明治43年には、
東京競馬会(池上)、
京浜競馬倶楽部(川崎)、
日本競馬会(目黒)、
東京ジョッケー倶楽部(板橋)
の4団体が合併し東京競馬倶楽部が設立され本拠地は目黒競馬場となり池上競馬場は廃止された。
地図は大正14年のものであるが競馬場の痕跡がまだ残っている。
池上線は当時文字通り池上止まりとなっている。
池上本門寺は駅の北側に位置している。
この地図を初めて見た時多摩川の流路の変遷で出来た池か沼の跡かと勝手に想像していたがまるで違っていた。
競馬場であったとは驚きである。

旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm



[東京千住] 千住競馬場
千住競馬場
千住仲組の緑町ではいわゆるヤミの草競馬が行われていた。
明治39年(1906年)馬券を発売する競馬を開催したが千住警察署長は馬券は賭博にあたると発売を禁止する措置をとりレースを中止させてしまった。
以後明治41年(1908年)正式に馬券発売は禁止となった。
地図では輪士會競走場となっており自転車倶楽部の競走場であるが競馬はここで開催されいたのではないかと想像している。
場所は千住神社(古地図では氷川社)の西側の千住緑町三丁目に相当する。

旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm






千住競馬場







[東京川崎] 川崎競馬場
川崎競馬場
京浜競馬倶楽部は明治39年(1906年)9月に板垣退助を中心に設立され、翌年の明治40年(1907年)7月に川崎競馬場で競馬が開催された。
明治43年には他の3団体と合併し、東京競馬倶楽部が設立され目黒競馬場へ移っている。
廃止された川崎競馬場はその後、富士紡績川崎工場となった。
地図は残念ながら競馬場時代のものは無く、紡績工場の時のものである。
川崎歴史ガイドより
大正の始め、競馬場の跡地に東洋一の紡績工場を建て、川崎の工業都市化を決定づけた富士紡績。
女工2000人。
沖縄出身者も多く、沖縄芸能が川崎に根付いた。
戦後、跡地は再び競馬場に。

旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm




川崎競馬場








[東京板橋] 板橋競馬場
板橋競馬場
板橋競馬場は東京ジョッケー倶楽部が明治40年(1907年)認可を受け運営した。
明治43年目黒競馬場へ他の競馬場と共に統合されている。
当時馬券は一枚十円で庶民には手が届きにくい高価なものであった。
写真上は競馬場東南部に当たる氷川図書館前のものである。
豊島病院は競馬場の敷地内の一角に出来ている。

旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm





板橋競馬場