ラベル #1919 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル #1919 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

猪年「 亥・垓・核 」

猪年「 亥・垓・核 」
2019年・己亥
明けましておめでとうございます。
このブログの右側メニュー:タグから「 暦 」の一連のエッセイを読んで頂ければお分かりのように、この2000年に亘って「 時 」が歪められています。
■時を征するものが世界を征す
時を征したものが、2000年の永きに亘ってまやかしの時を民衆に教え込んできたために、いつまでたっても民衆は奴隷のままなのです。
( 本当は一般的にはとりあえず中国から始まったことになっているこの「 陰暦 」も歴代中国王朝によって微妙に歪められているのでそれを正確に補正する作業も必要ですが:詳細は「 暦 」シリーズを参照のこと )
とりあえずは、この500年間に亘って世界中で残虐の限りを尽くしてきたコーカソイド共の嘘八百の「 しきたり 」から決別することが肝要です。
僕はすでに21世紀に入ってからというもの、グレゴリオ暦の正月も、X’mas にも、バレンタインにも、ハロウィンにも無関心になっています。
特にX’mas の来歴などはヒドイもんな訳で「 暦 」シリーズをじっくり読めば、よく解るかと。
習近平中禍皇帝は、僕を見習ったのか、昨年、X’mas 禁止令を発令しましたね。
なかなかよき心がけであるぞよ。ういやつじゃのぉ〜♪
昨年の「 戊戌の年、2018年とは? 」のサブタイトルに書いた「 シヴァがダンスを舞う / 戉(まさかり)かついだ狂犬=歳男トランプが暴れまわる年 」は、笑っちゃうほど、ドンピシャでしたね。(^o^)b
昨年の今頃はと云うと、マスゴミの阿呆ドモは、北朝鮮からいつミサイルが飛んでくるかと戦々恐々の大騒動だったのが、一転、米鮮和平会談となり、その後もトランプに世界中が引っ掻き回される一年で、最後はカショギが文字通り戉でバラバラにされてしまいました。
では、今年はどんな年になるのか、見ていきましょう。2014年から始まった十干十二支60年周期も6年目。
2014年60年周期の意味については
  丁酉の年、2017年とは?
  乙未の年、2015年とは?
に詳しいのでそちらをお読みください。
1954年に始まった、コンピュータ&DNA時代から、AI( Artificial Intelligence )& AL( Artificial life )への移行に関して書いておきました。
己亥( つちのとい:土の弟 )は、十干では6年目の晩夏の時期に当たり「 陽 」から「 陰 」の世界に切り替わります。
十二支では、2008年から始まった12年周期最後の年で、死滅と再生の年となります。
「 己 」の字はお腹の中に宿した象形ですが、由来は「 説文解字 」でもよく解っていません。
※ 説文解字( せつもんかいじ )
後漢の許慎が編纂し、西暦100年に成立。史記の200年後のものであり、始皇帝によって定められた篆書を分析の対象としている。
が、甲骨文字の発見に依って誤りがあることも判明。己「 土の陰性 」は、実りを育む柔らかい土であり、「 土用:季節の狭間 」。大樹がすくすくと大きく成長して成長を止め、その形を整えている状態。性質は規則正しく、おとなしく温和だが、二面性があり、暴力的であったりもする。 人体で云えば下腹部:腎臓・十二指腸・小腸に該当する。
年齢で云えば、23〜31歳、「 力 」に象徴され、理性と煩悩が相半ばの生命体。来年からは煩悩が勝るようになり、癸( 2023年 )で煩悩最大となった処で、「 陰極まって陽転す 」と、甲で理性最大に逆転します。
「 己 」は、仏法で云う処の人間界の段階にあり、人間のヒドい欲望の温床とも云え、高尚な欲望以外のあらゆる欲望と感情を備えています。妬みや嫉妬、独占欲、見栄、虚勢などの感情や欲望の支配から抜け出すことが難しく、個人の器から脱して全体へ貢献する意志を持たない、自分のことで精一杯な生命体。
紆余曲折を経て、己を反省し、堅実の学びを深めて己の成長を完成させる段階。
約束の意味でもある。
「 己 」から派生した漢字の中でも代表的なのが「 紀 」。
「 紀 」は、「 すじ 」「 整える 」の語源でもある。紆余曲折の中で、紀を糺す段階で、欲望の低劣化/高尚化の分岐点ともなる。他には、「 改 」「 巻 」「 遷 」「 選 」「 忌 」がある。「 忌 」は己の心がいまわしいこと。忌しく遷ろい行く心を改めて紀を糺して選ぶ段階とでも云いましょうか。。。。
さて十二支の最終段階。
一般には「 猪 」とされていますが、本義は「 猪 」とは全く関係ありません。
これは十二支全てに言えること。でもまぁ、それぞれに性格をよく表す動物を配したトンチセンスには脱帽です。
上記の甲骨文に注目。漢字は全て甲骨文字から発展( 変形 )したものです。亥の甲骨文字の左側、横棒は地面を表し、その下は「 人 」。右側は、上の横棒も左の縦棒も地面。つまり、地面に埋められた人を表しています。「 骸骨 」「 骸:なきがら 」の「 亥 」です。右側文字の上横棒のない甲骨文字が現在の「 亡 」です。本来は元の原型( 種子 )を表す文字で、大地( 垓:がい )から誕生した木の芽はやがて大樹にと成長するが、最終的には形を失い元の大地に戻ってしまう。 しかし、大地は既にその腹の中に木の核( 種子 )を孕んでいて、次の木の芽を誕生させる原点となる。
「 亥 」は、その意味の象徴として使われるようになり、物事の終着点であると同時に出発点を意味する言葉でもある。1年に例えれば12月の大寒であり、冬至でもある。地球磁界12段階目の、地球磁界から太陽系磁界へと遷移する人智を超えた輪廻転生の生命体です。
或いは、人間が死んで霊となり、更にその霊が広大な宇宙エネルギーに帰納した時、再び生命として生まれ変わることも「 垓(がい)」と呼びます。
10段階目の「 申 」に三途の川があり、その外側は「 死 」の領域にあります。「 戌 」でマサカリで首切られて屍・骸となり、転生する「 核:種 」を孕む段階。或いは、たわわに実った稲や果実が刃物で刈られて、地中で来春の「 核:種 」を育む段階。自己形成と魂の初期化が特徴。空漠たる自己を持つと同時に、一点に対して吸核的に自己形成する段階:次世をもたらす新しい生命の原点にある。人間的には赤い血の通うまともな神経の持ち主ではなく、神様なのか単なる物体や胎児以下の原始動物なのか、表現・評価に困る宇宙人であって人間ではない生命体と云えるでしょう。
一般的には、温厚篤実な雰囲気を感じさせる人物が多く、角の尖ってない円球の如く安心できるタイプで、度量が大きなものの、その振る舞いは自分勝手で独断専行・猪突猛進。やたらと馬力のある暴走巨大ダンプカーが原始本能をむき出しにして突っ走るのですが、あまりにも茫漠としていて周囲はおろか、本人自身も実はさっぱり解ってない生命体。なにかに集中してないと生きていられない人で、いつも何かを夢中になって追いかけているが、しかし集中力が途切れるとただボーッと何も考えていない。優れた集中力を持つ半面、飽きっぽく執着していたものもガムを吐き出すようにポイッと捨ててしまう。 また、大変な欲張りで、小を卑しみ大を得ようとするタイプで、自分のためならバラバラと札ビラを切るが、人のことになると途端に財布の紐を締める。
何事にも全身全霊で取り組むので何でも出来るが、物覚えの悪さは天下一品!
また神経の厚さが1mもあるのではないかと疑いたくなる程、鈍感・無神経で、周囲に対する気配りや配慮も足らず、身体の感覚もショートしていて暑さや寒さに対しても動じない鈍感さ。運動能力も最低。
しかし、愛情は広く大きく、人間も動物も差別することなく、自分の子どもより犬の子の方を愛したり、自分の女房よりも隣の奥さんを愛したりしがちなタイプ。
世界は自分の為に周っている大将。
感覚的人間で、論理より感情でものを考えるタイプ。家庭愛・祖国愛・社会愛に献身し、伝統を重んじる。
底知れない馬鹿さ加減が売り物の原始無垢な原初の生命体。独裁欲と仏心の世界。
有名人では、田中角栄、明石家さんま、タモリ、王貞治、大川隆法、ユーミン、林真理子など。
12年前の亥:2007年には下記の様な大事件が発生しています。
2007年の重大事件
 —————————————————————————
 ・ サブプライム問題
 ・ 原油価格大高騰
 ・ ハマスがガザ制圧
 ・ 最後の北朝鮮6カ国協議
 ・ 国連事務総長に韓国:潘基文
 ・ アル・ゴアにノーベル平和賞( 不都合な真実 )
 ・ 郵政民営化( 小泉純一郎&竹中平蔵による売国)
 ・ 安倍首相、下痢辞任( 当時、安倍下痢三と呼ばれた )
 ・ 横綱白鵬誕生
 ・ 中越沖地震で柏崎原発放射能漏れ
原油価格( 1983〜2018年11月30日 )
出典:楽天証券
原油価格は11月底値で反転してきています。
そしてこれらの事件が孕んだ「 亥・垓・核 」が、翌年12年周期の初年度に世紀の大事件を炸裂させ、12年間の状態を規定する調べとなっています。
時代はスパイラルに繰り返します。赤文字で記した事件は、今まさにスパイラルに次元上昇してより大きな火種となりつつある項目です。
韓国は昨年、日本を完全敵国視。近く誕生する統一朝鮮は核ミサイルを保有し、日本に照準を合わせることになります。
では、1996年に始まり2007年に「 亥・骸・垓・核 」となって、翌2008年はどんな「 子 」となって発芽したでしょうか?
12年周期の最初の年:2008年は時代の幕開けにふさわしい年でした。来年の「 庚子 」にも似たようなことが起きるでしょうか?
2008年の重大事件
 —————————————————————————
 ・ 北京オリンピック
 ・ 中国の有人宇宙船「神舟7号」で飛行士宇宙遊泳
 ・ 四川大地震
 ・ オバマ大統領誕生( 核全廃+世界の警察官辞任宣言 )
 ・ iPhone発売( 馬鹿フォン・スマ阿呆時代始まる )
 ・ リーマンショック
 ・ 1ドル=80円
 ・ 日銀総裁に白川方明就任
 ・ 田母神空幕長更迭
 ・ インド、ムンバイで同時多発テロ( NSA/CIAのテロ活動が以降世界中で激化 )
 ・ ロシア・グルジア戦争( グルジア、CIS脱退 )
 ・ コソボ独立
 ・ キューバ議長に弟のラウル・カストロ就任
 ・ 台湾:馬英九総統誕生
2007年の上記赤文字事件だけを拾い出してみると、サブプライム問題が、翌年リーマンショックとして噴火、原油価格急騰とスマ阿呆&SNSの蔓延がオバマ大統領下で引き起こされた12年に及ぶカラー革命を呼び、ハマスのガザ制圧がパレスティナ〜イスラム世界の弱体化を招き、6カ国協議の終了がテポドン祭りから核ミサイル開発へと移行して、パンドラの箱:北朝鮮埋蔵ウランが世界史に登場し、韓国国連事務総長の下で、慰安婦問題が煽られ、インド太平洋戦略をぶち上げた安倍首相が退陣に追い込まれ以降、日本政府はアメリカの完全支配下に置かれてしまい、、、、と、まさに「 核 」となる事件が頻発しています。
2007年の「 核・種 」から発芽した12年間を見てみると、
オバマは「 アメリカは世界の警察官を辞める 」と宣言したものの、プーチン頼みで実現できなった為、トランプにスウィッチして実力行使で米軍の全世界からの撤退を進めています。12年後の来年「 庚子 」では大きなテーマになることでしょう。
引くアメリカに対して、北京オリンピック以降の12年間はまさに「 中国の時代:G2の時代 」でした。
そしてiPhone( 馬鹿フォン )の発売はmacに追従したWindewsの如きスマホ( スマ阿呆 )の追従と共にGAFA全盛時代を築き、世界中が洗脳・白痴化の波にさらわれ、洗脳された白痴に依って石油が産出される国々ではカラー革命・フラワー革命が次々と展開されて国家崩壊の惨状を招いています。並行してムンバイの超プロフェッショナル大規模テロを革切りに世界中でテロが頻発するようにもなります。
白川元日銀総裁はつい先日、金融緩和政策の失敗を批判。9月7日の平野貞夫:元自民党事務局長による「 安倍晋三・内乱罪告訴 」と関連して大きな問題となる可能性を秘めています。FRB・ECB・日銀がリーマンショックの傷口に貼った絆創膏( 金融緩和 )はすでにボロボロになり、より強烈なマグマ溜りが誕生しています。
では、「 己 」と「 亥 」が合わさるとどうなるか?
十干十二支60年周期に亥年は5回ありますが、それぞれに特徴があります。
 乙亥 天皇猪 法身期 山頭火  仏智を持った天上の支配者
 丁亥 会長猪 初老期 屋上土  社会に悪影響を及ぼす偽善者
 己亥 情熱猪 壮年期 平地木  体裁の仮面を被った原始人
 辛亥 家猪  思春期 釵釧金  自己満足の為に生きる夢星人
 癸亥 極楽猪 幼年期 大海水  やりたい放題の必殺遊び人
ことしは壮年期の情熱猪。平地木は、昨年の「 戊戌 」と2年間続きます。平地木に関する解説は昨年の「 戊戌の年、2018年とは? 」を御覧ください。己亥の星命は「 報身 」の壮年期に当たる生命で、亥の仲間では3番目に若い生命体であり、鈍感鈍重で無神経な報身の生命に於いては珍しく感受性の強い見栄っ張りである。平地木とは、平地に聳え立つ一本の大樹のことで、堂々とした自己の境涯を世界に打ち出すことが出来る人の意である。
対面上の体裁を一番気にする亥ではあるが、内面に燃え上がる情熱の炎は強く、その為「 情熱猪 」と呼ばれている。興味の湧かないものには見向きもしないが、一旦対象物が定まると偉大な集中力で猛スピードでトコトン追求していく為に、いつの間にか一角の存在に成ってると云う感が強い。
平素は思慮深く気迷いの多い性格で保守に徹した生命であって表舞台には立ちたがらない性分であるが、一旦動き始めると徹頭徹尾やり抜く習性で、人をあてにせず最初から最後まで自分一人で片付けてしまうと云う独行型の性癖を持つのが特徴。度量の大きさは長所だが、人の存在を無視した自己中な発想をしがち。
己亥は、土性の最高位に当たるが、土性は五行の中心で黄色、中国皇帝の色でもある。
知性や教養を重んじ、自己を戒め改善する能力を持つので、つまらない物欲や嫉妬、見栄を卑しみ、それを恥とするプライドの高い生命体だが、かなり権威主義的でもある。
昨年は「 戉かついだ狂犬トランプ 」に引っ掻き回された一年だったが、上記の性質からトランプはややおとなしくなることが予想される。
戉で剪定された大樹は堂々たる姿を誇って鷹揚に構えるものの、獲物を定めると独断専行・猪突猛進で一気に粉砕してしまう世相が顕れている。
もちろん表の役者はトランプだが、戦略・戦術立案は、トランプを大統領にした連中だ。
トランプはレーガン以来の名役者と云えるだろう。12年前の亥年の重大事件が、次の十二支年間の種を植えたことは既に見た。
では、過去の「 己亥 」の年に何が起きたか見てみることにしよう。
1959年( 昭和34年:60年前 )
 ———————————————————————————
 ・ キューバ革命( ゲバラ&カストロ ) 
 ・ チベット蜂起、中国侵攻でダライ・ラマはインド亡命
 ・ 中ソ対立表面化( フルシチョフ vs 毛沢東 )
 ・ シンガポール独立
 ・ アメリカ、アラスカ・ハワイ・グァムを自国州に
 ・ ド・ゴールが初代フランス大統領に
 ・ 日米安保阻止でデモ隊2万人が国会に突入
 ・ 明仁皇太子・美智子さん成婚( ミッチー・ブーム )
 ・ 日産、ブルーバード発売
 ・ NHK教育、朝日、フジTV放送開始
 ・ ヤン坊マー坊天気予報 / 頓馬天狗 / 少年ジェット / おかあさんといっしょ
 ・ ザ・ピーナッツがデビュー
 ・ 第1回レコード大賞
 ・ 週刊少年マガジン・少年サンデー、創刊
 ・ バービー人形発売
 ・ 王貞治1号ホームラン
 ・ ニコンF発売
 ・ カミナリ族 / 神風タクシー
 ・ 個人タクシー登場
 ・ 東海道新幹線の起工式
 ・ メートル法実施( 尺貫法廃止 )
 ・ 水俣病の原因物質が有機水銀と判明
 ・ アウストラロピテクス発見
1899年( 明治32年:120年前 )
 ———————————————————————————
 ・ 米西戦争
 ・ フィリピン独立運動( 対スペイン )
 ・ アメリカ、ハワイ・グァム・プエリトルコ・フィリピンを自国領に編入
 ・ 第2次ボーア戦争( 英 vs 蘭 )
 ・ イギリス、香港99年間の租借権を獲得
 ・ 中国山東省で義和団が蜂起
 ・ 西太后、光緒帝を幽閉
 ・ アメリカの対清(中国)門戸開放宣言( 市場開放を強要 )
 ・ オーストリア皇后エリーザベトを無政府主義者が暗殺
 ・ キュリー夫人、ラジウム発見
 ・ グッドイヤー創業
 ・ 豊田佐吉の自動織機
 ・ 東京~大阪間の長距離電話開通
 ・ 東京に初の近代水道( 淀橋浄水場創業:現西新宿 )
 ・ 夫婦別姓から夫婦同姓へ( 明治民法:家族法制定 )
 ・ 西郷隆盛像の除幕式( 上野公園 )
 ・ 大隈重信 → 山縣有朋内閣
60年前は、戦後15年で、日本を始め世界はようやく新しい歩みを始めた時期。
120年前は日本の中国進出が始まり、やがて大東亜戦争で亡国寸前に追い込まれる種が植えられた年でもあるようです。
1960〜72年は、日本の輝ける高度成長期となり、米欧日では「 未来世紀21世紀 」に夢を膨らませていました。「 鉄腕アトム 」は、その象徴と云えるでしょう。確かにロボットは登場してるのですが。。。。。。
一方の1900〜12年は、日露戦争〜朝鮮併合の時代となり、その後日本ではイケイケドンドンに傾斜して行く裏側で、ユダヤ・アメリカは中国と結託して日本消滅のシナリオを描き、日本はマンマとその罠にはまり込みます。
今年はどんな「 亥・骸・垓・核 」が準備されているのか?
 ・ 新天皇即位 / 百数十年ぶりの上皇誕生
 ・ ローマ法王来日
 ・ トランプ・金正恩会談( 北朝鮮の核&ミサイル )
 ・ アメリカ大統領選挙
 ・ 米軍の世界撤退( 警察官不在の世界に )
 ・ 米露中を中心とする軍拡レース
 ・ ベネズエラ・クーデター危機
 ・ イラン vs サウジ戦争
 ・ ISIS(イシス)の世界拡散
 ・ 南沙諸島・尖閣・竹島問題
 ・ 日露平和条約( 北方領土問題・日露安全保障条約 )
 ・ 中国破綻危機( 反一帯一路のうねり )
 ・ 米・中・欧、世界経済のブロック化
 ・ BREXIT
 ・ ドイツ銀行破綻危機
 ・ 韓国大統領夫人贈賄疑惑
 ・ 安倍晋三・内乱罪
 ・ 憲法改訂
 ・ 水道民営化問題
 ・ TPPの始動( 迂回内国条項に依る治外法権の横行 )
 ・ AIとAL( ミニマルセル )&クリーンミートの開発レース
 ・ 暗号通貨の行方と、金・石油価格動向
 ・ ビル・ゲイツの超危険な超小型原発と既存原発廃炉ガポガポ・ビジネス
 ・ 多発する火山噴火と大地震( だんまりを決め込む太陽活動サイクル24 )
 ・ 小氷河期入り( 農業問題:食料供給と民族移動:太陽活動サイクル24 )
 ・ 衰亡する民主主義( インターネット )と隆盛するナショナリズム監視社会
まぁ、ざっと挙げただけでおっとろしい状態です。。。。。
ちなみに100年前:1919年には何が起きたのか、見てみましょう。
 1919年( 大正8年:己未 )
 ———————————————————————————
 ・ ベルサイユ条約( 第一次世界大戦 戦後処理 )
 ・ ドイツでヴァイマル憲法成立( ユダヤの軛始まる:日本国憲法の雛形 )
 ・ 第3共産主義インターナショナル( コミンテルン )誕生( 1917年:ロシア革命 )
 ・ ムッソリーニ「 戦士のファッショ(後のファシスト党)」結成 
 ・ アメリカが金本位制に復帰
 ・ ガンディー、非暴力・不服従運動を開始
 ・ アフガニスタンがイギリスから独立
 ・ 関東軍発足
 ・ 朝鮮で三・一対日独立運動
 ・ 中華民国で五・四運動( 1918年のウィルソン米大統領「 十四か条の平和原則 」民族自決 )
 ・ 孫文、中国国民党を創立
 ・ 裕仁皇太子と久邇宮良子女王の婚約発表
 ・ カルピス販売開始
史上類を見ない残虐な非人間的な第一次世界大戦の戦後処理と共に、味をしめたアメリカ( 実際にはユダヤ国際金融 )は次の世界大戦の仕込みに入っていることが上記からも窺えます。
大恐慌は1929年に起きました。
そして日本では1923年に関東大震災が起きています。
1990年代から地球の向心力が減衰して、マグマが吹き出し易くなったため、特に環太平洋の海溝・海嶺で大規模地震・大噴火が頻発するようになっています。北米プレートが太平洋プレートとフィリピンプレートを圧迫してるために、東海・東南海・南海3兄弟連続地震が懸念されています。
GHQ白痴化政策( 特に文盲省:寺脇の「 ゆとり教育 」)で、腑抜けの白痴化された日本に、「 迂回内国条項 」を盛り込んだTPPや「 種子法・種苗法・森林法・漁業法・水道法 」が施行され、日本消滅の瀬戸際まで追い込まれました。
が、非常にソフィストケイトされているのでほとんどの日本人はこの惨状に気がついてない。。。。
 陰極まって陽転す
そろそろ日本と日本人は目覚めねばならない時期かと。。。。。

Neuq Lab
https://nueq.exblog.jp/29239503/

1918年スペイン風邪

日本はパンデミックをいかに乗り越えたか~100年前のパンデミック・スペイン風邪の教訓
古谷経衡  | 文筆家/著述家
2/28(金) 23:17
1918年のスペイン風邪でマスクをする女性(豪州メルボルン・パブリックドメイン)
新型コロナウイルス禍がパンデミックの模様を呈している(2020年2月29日、WHO事実上のパンデミックを宣言)。パニックや流言飛語も相次いでいる。しかしこのようなパンデミックは、20世紀を含め過去に何度も起こり、そして人類はその都度パンデミックを乗り越えてきた。今次の新型コロナウイルス禍への対策と教訓として、私たちは人類が遭遇した過去のパンデミックから学び取れることは余りにも多いのではないか?
本稿は、20世紀最悪のパンデミックとされ、世界中で2000万人~4500万人が死亡し、日本国内でも約45万人が死亡した「スペイン風邪」を取り上げる。そして日本の流行状況と公的機関の対策を追い、現在のパンデミックに抗する教訓を歴史的教訓から得んとするものである。また本稿の執筆にあたっては、日本に於けるスペイン風邪を詳細に分析した第一級の書『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界大戦』(藤原書店、速水融著・以下速水)と、スペイン風邪が去った後に当時の内務省が編纂した『流行性感冒 ”スペイン風邪”大流行の記録』(内務省衛生局編、平凡社から復刻・以下内務省)の2冊を参考とした。
速水(左)、内務省(右)
■100年前のパンデミック「スペイン風邪」とはなにか
1918年から1920年までの約2年間、新型ウイルスによるパンデミックが起こり、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。そのうち2000万人~4500万人が死亡したのがスペイン風邪である。現在の研究では、そのウイルスはH1N1型と特定されている。
スペイン風邪の発生は、今から遡ること約百年前。1918年春。アメリカ・カンザス州にあるファンストン陸軍基地の兵営からだとされる(速水,38)。当時は第一次世界大戦の真っ最中で、ドイツ帝国は無制限潜水艦作戦によって中立国だったアメリカの商船を撃沈するに至った。このドイツの粗暴な振る舞いがアメリカの参戦を促し、アメリカは欧州に大規模な派遣軍を送ることになる。
アメリカの軍隊から発生したとされるスペイン風邪は、こうしてアメリカ軍の欧州派遣によって世界中にばら撒かれることになった。当時のパンデミックは、航空機ではなく船舶による人の移動によって、軍隊が駐屯する都市や農村から、その地の民間人に広まっていった。
ちなみに、アメリカから発生したのになぜスペイン風邪という呼称なのか。それは第一次大戦当時、スペインが欧州の中で数少ない中立国であったため、戦時報道管制の外にあったからだ。そのためこの新型ウイルスの感染と惨状が、戦時報道管制から自由なスペイン電として世界に発信されたからである。
スペインでは800万人がスペイン風邪に感染。国王アルフォンソ13世や政府関係者も感染した。日本では当初「スペインで奇病流行」と報道された(速水,49)。
■「スペイン風邪」、日本に上陸
日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。そののち、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がった(速水,328)。当時、日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」である。
速水によれば、日本に於けるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に別れるという。「前流行」は1918年の感染拡大。「後流行」は1919年の感染拡大である。どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。
ともあれ、このスペイン風邪によって、最終的に当時の日本内地の総人口約5600万人のうち、0.8%強に当たる45万人が死亡した。当時、日本は台湾と朝鮮等を統治していたので、日本統治下全体での死者は0.96%という(速水,426.以下、図表参照)。1945年、東京大空襲による犠牲者は10万人。日露戦争による戦死者約9万人を考えるとき、この数字が如何に巨大なものかが分かるだろう。単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になる。これは大阪市の人口の約半分にあたる。
■「スペイン風邪」の凄惨な被害~一村全滅事例も
「前流行」と「後流行」の二波による日本でのスペイン風邪の大流行は、各地で凄惨な被害をもたらした。以下速水より。*適宜筆者で追記や現代語訳にしている。
福井県九頭竜川上流の山間部では、「感冒の為一村全滅」という見出しで、面谷(おもだに)集落では人口約1000人中、970人までが罹患し、すでに70人の死亡者を出し、70人が瀕死の状態である旨報道されている。
(1919年)2月3日の東京朝日新聞は、東京の状況を「感冒猛烈 最近二週間に府下(当時は東京府)で1300の死亡」という見出しのもと、警視庁の担当者談として「今度の感冒は至って質が悪く発病後直肺炎を併発するので死亡者は著しく増加し(中略)先月11日から20日までに流行性感冒で死んだ人は289名、肺炎を併発して死んだ人は417名に達し(後略)」と報道している。各病院は満杯となり、新たな「入院は皆お断り」の始末であった。
(岩手県)盛岡市を襲った流行性感冒は、市内の各商店、工業を休業に追いやり、多数の児童の欠席を見たため、学校の休校を招いた。(1919年11月)5日には厨川(くりかわ)小学校で2名の死者を出し、さらに6日の(岩手日報)紙面は「罹患者2万を超ゆ 各方面の打撃激甚なり 全市困惑の極みに達す」との見出し
神戸には、夢野と春日野の二箇所に火葬場があったが、それぞれ100体以上の死体が運ばれ、処理能力を超えてしまい、棺桶が放置されるありさまとなった。など、日本を襲ったスペイン風邪の猛威は、列島を均等に席巻し、各地にむごたらしい被害をもたらした。とりわけ重工業地帯で人口稠密であった京都・大阪・神戸の近畿三都の被害(死亡率)は東京のそれを超えていたという。だが、上記引用を読む限り、大都市部であろうが農村部であろうが、スペイン風邪の被害は「平等」に降りかかっているように思える。
■「スペイン風邪」に当時の政府や自治体はどう対処したのか
さて、肝心なのは当時のパンデミックに日本政府や自治体がどう対応したかである。結論から言えば、様々な対処を行ったが、根本的には無策だった。なぜならスペイン風邪の病原体であるH1N1型ウイルスは、当時の光学顕微鏡で見ることが出来なかったからだ。人類がウイルスを観測できる電子顕微鏡を開発したのは1930年代。実際にこのスペイン風邪のウイルスを分離することに成功したのは、流行が終わって十五年が過ぎた1935年の出来事であった。つまり当時の人類や日本政府は、スペイン風邪の原因を特定する技術を持たなかった。当時の研究者や医師らは、このパンデミックの原因を「細菌」だと考えていたが、実際にはウイルスであった。当時の人類は、まだウイルスに対し全くの無力だったのである。それでも、政府や自治体が手をこまねいたわけではない。今度は内務省を中心に当時のパンデミックに対し、公的機関がどう対処していくのかを見てみよう。
大正8年(1919年)1月、内務省衛生局は一般向けに「流行性感冒予防心得」を出し、一般民衆にスペイン風邪への対処を大々的に呼びかけている。驚くべきことに、スペイン風邪の原因がウイルスであることすら掴めなかった当時の人々の、未知なる伝染病への対処は、現代の新型コロナ禍における一般的な対処・予防法と驚くほど酷似している。以下、内務省から抜粋したものをまとめた。*適宜筆者で追記や現代語訳にしている。
■はやりかぜはどうして伝染するか
はやりかぜは主に人から人に伝染する病気である。かぜ引いた人が咳やくしゃみをすると眼にも見えないほど細かな泡沫が3、4尺(約1メートル)周囲に吹き飛ばされ、それを吸い込んだものはこの病にかかる。
・(はやりかぜに)かからぬには
1.病人または病人らしい者、咳する者に近寄ってはならぬ
2.たくさん人の集まっているところに立ち入るな
3.人の集まっている場所、電車、汽車などの内では必ず呼吸保護器(*マスクの事)をかけ、それでなくば鼻、口を「ハンカチ」手ぬぐいなどで軽く覆いなさい
・(はやりかぜに)かかったなら
1.かぜをひいたなと思ったらすぐに寝床に潜り込み医師を呼べ
2.病人の部屋はなるべく別にし、看護人の他はその部屋に入れてはならぬ
3.治ったと思っても医師の許しがあるまで外に出るな
(内務省,143-144)
部分的に認識違いはあるが、基本的には「マスク着用」「患者の隔離」など現在の新型コロナ禍に対する対処法と同様の認識を当時の政府が持っていたことが分かる。そして内務省は警察を通じて、全国でこの手の「衛生講話会」を劇場、寄席、理髪店、銭湯などで上演し、大衆に予防の徹底を呼び掛けている。またマスク励行のポスターを刷り、全国に配布した。マスクの無料配布も一部行われたというが、現在の新型コロナ禍と全く似ていて、マスクの生産が需要に追い付かなかったという。
ただ失敗だったのは、内務省が推進した予防接種である。病原体がウイルスであることすら知らない当時の医学は、スペイン風邪の予防に苦肉の策として北里研究所などが開発した予防薬を注射させる方針を採り、接種群と未接種群との間で死亡率の乖離を指摘しているが、これは現代の医学から考えれば全くの無意味な政策であった。だが、当時の技術ではそれが限界だった。
■100年前も全面休校
各自治体の動きはどうだったか。とりわけ被害が激甚だった神戸市では、市内の幼稚園、小学校、中学校等の全面休校を決めた(速水,198)。1919年には愛媛県が県として「予防心得」を出した。人ごみに出ない、マスクを着用する、うがいの励行、身体弱者はとりわけ注意することなど、おおむね内務省の「流行性感冒予防心得」を踏襲した内容である。学校の休校や人ごみの禁忌など、これまた現在の状態と重複する部分が多い。そしてこれもまた現在と同じように、各地での集会、興行、力士の巡業、活劇などは続々中止か、または閉鎖されていった。このようにして、日本各地で猛威を振るったスペイン風邪は、1920年が過ぎると自然に鎮静化した。なぜか?それは内務省や自治体の方針が有効だったから、というよりも、スペイン風邪を引き起こしたH1N1型ウイルスが、日本の隅々にまで拡大し、もはやそれ以上感染が拡大する限界を迎えたからだ。そしてスペイン風邪にかかり、生き残った人々が免疫抗体を獲得したからである。つまり、スペイン風邪は突然の嵐のように世界と日本を襲い、そして自然に去っていったというのが実際のところなのである。
残念ながらヒト・モノが航空機という、船舶よりも何十倍も速い速度で移動できるようになった現在、新型ウイルスの伝播の速度はスペイン風邪当時とは比較にならないだろう。だが100年前のパンデミックと違うところは、私たちの医学は驚くべきほど進化し、そして当時、その原因すらわからなかったウイルスを、私たちは直接観察することが出来、なんであれば人工的にウイルスすら制作できる技術力を保有しているという点だ。
このような状況を鑑みると、100年前のパンデミックと現在。採るべき方針はあまり変わらないように思える。すなわちウイルスの猛威に対しては防衛的な姿勢を貫き、じっと私たちの免疫がウイルスに打ち勝つのを待つ。実際にスペイン風邪はそのようにして終息し、日本は内地45万人の死者を出しながら、パンデミックを乗り越えている。
ウイルスの存在すら知らなかった当時と違って、現在の私達の社会におけるパンデミックは、伝播速度の違いはあれど集落が全滅したり、火葬場が満杯になったりするという地獄絵図には向かいにくいのではないか、というのが正直な感想である。
■100年前もデマや流言飛語
最後に、スペイン風邪当時の日本で起こったデマや流言飛語の事例を紹介する。現在ですらも、「57度から60度近いお湯を飲めば予防になる」などの根拠なき民間信仰が闊歩しているが、人間の恐怖の心理は時代を超えて共通しており、当時も様々な混乱が起こった。
曰く、「厄除けの札を貼ったり」、「ネズミを焼いて粉末にした”薬”を飲んだり」したという(速水,178)。
とりわけ医学的には無意味な神頼みは尋常ではなく、例えば現在の兵庫県神戸市須磨区にある多井畑(たいはた)厄除八幡宮では、神戸新聞の報道として、「善男善女で…非常な賑わいを呈し兵庫電鉄は朝のほどから鮓(すし)詰めの客を乗せて月見山停車場に美しい女も職工さんも爺さんも婆さんも十把ひとからげに吐き出す」(速水,198)で、駅から神社まではさらに二キロ程度の山道で、社務所が用意した護符は飛ぶように売れた(速水,同)という。
人ごみを避けろ、と言っておきながら満員電車はOKというダブルスタンダードまで、現在の日本の状況と何ら変わらない。
日本に於けるスペイン風邪の大流行から、私たちは時代を超えた共通項を見出すことが出来る。そして人間の心理は、100年を経てもあまり進歩がない、という側面をもさらけ出しているように思える。どうあれ、私たちはスペイン風邪を乗り越えていま生きている。デマや流言飛語に惑わされず、私たちは常に過去から学び、「スペイン風邪から100年」という節目に現出したパンデミックに泰然自若として対応すべきではないか。(了)
*WHO事実上のパンデミック認定に際して、2/29,AM1:30追記

Yahoo!ニュース
https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/bylines/all/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9uZXdzLnlhaG9vLmNvLmpwL2J5bGluZS9mdXJ1eWF0c3VuZWhpcmEvMjAyMDAyMjgtMDAxNjUxOTEv










1918(大正七)年に世界でまん延した「スペイン風邪」が広がり、その後、離村へと追い込まれた集落が福井県大野市和泉地区の山奥にあったそうです。ここは私の曽祖母の生まれ故郷の近くです。その集落跡に石碑が立っており、住民の一割近くが死亡し、壊滅的な被害を受けたと克明に記されています。新型コロナウイルスの感染が広がる今、約百年前の惨状を繰り返してはいけないと、不住の地から訴えかけているようです。(かわ)
集落は、大野市和泉地区の九頭竜湖南側に位置する面谷(おもだに)。同市教委文化財課によると、かつて、良質な銅を産出する鉱山町だった。幕末は大野藩の財政改革に寄与し、明治に入ると財閥の合資会社が鉱山経営を引き継ぎ隆盛を極めた。当時の大野市街地にはなかった電気も通り、「穴馬の銀座」と称されたほど。海外から安価な銅が輸入されるようになっていたところにスペイン風邪のまん延が追い打ちをかけ、鉱山は二二年に閉鎖。集落も解散した。
石碑はいつ、誰が建てたかはっきりしないが、集落の関係者らが後年、火葬場跡につくったとみられる。記述は「南無阿弥陀仏」で始まる。集落で「成金風邪」と呼ばれたスペイン風邪に襲われたのは一八年十月中旬。医師が悪性の流行性感冒(インフルエンザ)に注意するよう住民らに伝えた直後だったと記されている。
当時、人口千人ほどだった面谷で「流行が始まって一か月余りの中、九十余名の死者が出たので、鉱山の機能は一時中止をしたような状態」に。診療所には院長や薬剤師ら五人がいたが「患者数が多いため医師の往診もままなら」なかった。死者が続出し火葬や棺おけの準備が間に合わず、ほとんどが十分な弔いも受けられなかったという。
当時の資料は他になく、山奥の集落への感染ルートは分からないが、同課主任学芸員の田中孝志さんは、銅の搬出や鉱山会社関係者らの出入りとの関連に注目する。集落内の劇場が今で言う「クラスター」(感染者集団)となり、「三密」の環境だった鉱山の坑道内でさらに感染が拡大したと推測。「鉱山は賃金が出来高払いで、五~十人が一班で働く。休むと生活に影響し、住民のつながりが強かったので周りに迷惑を掛けられないと、無理に働いた人もいたのでは」とみる。
田中さんは「スペイン風邪の石碑を建立しているのは、それだけ繰り返してはいけないという強いメッセージ」と指摘。東日本大震災の被災地では、石碑や地蔵で先人たちが津波からの安全地帯を教えていたことにも触れ「災禍の歴史を遺物が教えてくれている。それをいかに生かすか、考えなければならない」と話した。>

Facebook
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2941428049275459&id=100002248797702








100年前のスペイン風邪の経験に学ぶ新型コロナ対策と日本の出口戦略
5/1(金) 9:01配信
NRI研究員の時事解説
■強い感染拡大抑制措置は多少長い目で見れば経済にプラス
新型コロナウイルス対策では、その感染拡大抑制の効果と経済への悪影響とのバランスが、常に議論されている。強い感染拡大抑制策によって人々の生命や健康が損なわれるリスクを軽減できるメリットと、経済に悪影響を及ぼすというデメリットとを比較して、最適な施策を決めることは簡単ではない。最適解は、個々の価値観によって異なるためだ。
経済活動の悪化が飢餓、治安悪化などを通じて死者の増加につながるような低所得国では、経済に配慮して緩めの感染抑制措置がとられるケースが見られる。一方主要国では、総じて、感染拡大抑制の効果に重きを置いた政策が相対的に講じられやすいように思われる。
先進国においては、「強い感染拡大抑制措置は、多少長い目で見れば経済にプラスになる」という認識が、徐々に広がってきたようにも見受けられる。この際には、感染拡大抑制の効果と経済への影響とが必ずしもトレードオフの関係にならないことになる。
以下で紹介する論文“Pandemics Depress the Economy, Public Health Interventions Do Not; Evidence from the 1918 Flue(パンデミックは経済を悪化させるが、公衆衛生対策はそうではない。1918年スペイン風邪から得られる証拠), Sergio Correia, Stephan Luck, and Emil Verner, April 10, 2020“が示す結論の一つがこの点である。
■スペイン風邪流行時と変わらない感染拡大抑制策
感染拡大抑制策と経済への影響については、世界で数多くの学術論文が出されている。その多くは、理論モデルを用いた分析であるように思うが、上記の論文の特徴は、1918年のスペイン風邪という、現実に起こった現象に基づいて分析をしていることだ。
新型コロナウイルスへの有効な治療薬やワクチンが生み出されるまでは、ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)などの感染拡大抑制策については、1918年スペイン風邪当時と変わらない。また、14世紀のペストの大流行時とも大きく変わらないのである。学校、劇場、教会の閉鎖、集会や葬儀の禁止、店の営業時間制限など、対策は当時と基本的には同じだ。
スペイン風邪は1918年1月から1920年12月まで、ちょうど2年間続いた。発生地は、米国のカンザス州というのが有力な説となっている。世界では約5億人が感染したとされるが、これは当時の世界の人口の実に3分の1程度である。そして、世界では少なくとも5,000万人、米国では55.0~67.5万人、日本では38.6万人が死亡したとされる。
現在の新型コロナウイルスと大きく異なるのは、18歳から44歳という若年・壮年層や健康な成人の致死率が高かったことである。
■低い死亡率と安定した経済の両方をともに手に入れる
同論文の分析によれば、スペイン風邪流行時に感染拡大が広がった地域では、一時的に経済活動が悪化しただけでなく、長い期間にわたって経済が悪化した。これは、重要な事実である。
他方、早期に、広範囲な感染拡大抑制策を講じた米国の都市では、中期的には経済への悪影響は残らなかったという。感染拡大抑制を講じた都市では、死亡率が低い一方、製造業での雇用増加率が高くなるという傾向が見られたのである。早期に、また広範囲に厳しい感染拡大抑制策を講じれば、多少長い目で見ると、低い死亡率と安定した経済の両方をともに手に入れることができるのである。
その逆に、高い致死率となった都市では、中期的に製造業での雇用増加率が低くなる、という関係が見られた。
より早期に、より包括的に、より厳しく、そしてより長く感染拡大抑制を講じれば、中期的に製造業での雇用増加率を押し上げるだけでなく、銀行の資産、耐久財消費にもプラスとなる。
スペイン風邪流行時のデータを用いた回帰分析によれば、感染拡大抑制策を10日早めに導入すると、感染収束後に製造業の雇用者数は5%増加する。また、感染拡大防止策を50日長く実施すると、感染収束後に製造業の雇用者数は6.5%増加する、という関係が得られた。
■日本は他国の出口戦略の帰趨を見極められる
感染症の専門家の多くは、拙速な経済活動の再開が感染の再拡大を招くことに警鐘を鳴らす。また、多くの経済学者は、今まで見てきたように、感染拡大の抑制が多少長い目で見れば経済の悪化をもたらさない、ということを指摘し始めている。
ただし各国政府が、こうした考えに沿って経済活動の再開、感染拡大抑制策の出口戦略を進めていくとは限らない。自粛疲れで早期の規制緩和を求める消費者の声や、早期の経済活動再開を求める企業の声も、出口戦略を巡る政府の意思決定に大きな影響を与えるためだ。
日本での感染拡大抑制策は、中国や欧米各国よりも遅れて始まり、より緩めである、という特徴が指摘できる。その反面、対策の実施期間はより長く、経済活動再開はより遅れやすい、と考えられる(コラム「緊急事態宣言は延長:半年間で50兆円規模の個人消費が消失か」、2020年4月30日)。
そのことは一面デメリットではあるものの、他国の出口戦略の効果を見極めて自国の政策を決めることができる、というメリットもあるだろう。つまり、他国での拙速な出口戦略が感染拡大の第2波を招くことがないかどうか、その出口戦略の帰趨を確認する時間的猶予が、日本には与えられるのではないか。
木内登英(野村総合研究所 エグゼクティブ・エコノミスト)
---
この記事は、NRIウェブサイトの【木内登英のGlobal Economy & Policy Insight】(https://www.nri.com/jp/knowledge/blog)に掲載されたものです。
最終更新:5/1(金) 9:01

NRI研究員の時事解説
https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/zasshi/bus_all/nrin/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9oZWFkbGluZXMueWFob28uY28uanAvYXJ0aWNsZT9hPTIwMjAwNTAxLTAwMDEwMDAxLW5yaW4tYnVzX2FsbA--










歴史上誰もが知る最大級のパンデミックー「スペインかぜ」。1918年の春に流行したあと、同年の秋、さらに毒性を強めて流行した。
今回の新型コロナも、夏には状況がやや回復して「また秋に第2波の流行が来る」という予測が、世界の専門機関のアチコチから出始めた。
こうなると、感染を食い止めようと国内の感染火消しに頑張ってきた国たちも、長い目でウイルスと戦うことを見越して、動いてきたようだ。
米、英、仏、独、豪、次々と主要国トップが、「ウイルス発生地の中国を徹底的に調査せよ」と公式の場で言い出してきた。
世界がどこか一国を叩くとき、どれだけ半端ないことが起きるかは、リーマンショック前後でも明らかだった。今後の動きを歴史の証言者の1人として見ていくためにも、日本の報道ではまったく伝わってこなかった、12年前のあのときの世界の恐ろしい展開を知るべきじゃないだろうか…

Facebook
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=179935190130471&id=111245430332781




銀行家が戦争を起こす理由とその方法~20世紀型戦争システムを考える

銀行家が戦争を起こす理由とその方法~20世紀型戦争システムを考える
How and Why International Bankers Make War
The First President of the World
$$$$ Bankers Make War $$$$       
Included in BigEye's Federal Reserve Educational Archive.

The BigEye Blog
http://bigeye.com/bankers_make_war.htm

メモ帳
https://blogs.yahoo.co.jp/dojobzzzz/folder/1602487.html?m=lc&sv=%A5%A6%A5%A9%A1%BC%A5%D0%A1%BC%A5%B0&sk=1





(要約)
銀行家がを戦争を起こす理由とその方法
Justin Raimondo
■最初の世界大統領
1919年6月,第一次世界大戦戦勝国の代表と金融アドバイザーはパリに集まり今後のヨーロッパをどうするか話し合った。
ポール・ウォーバーグ代表はアメリカの,マックス・ウォーバーグ(Max Warburg)代表はドイツの利益を守るため交渉した。
ウィルソン(Woodrow Wilson)代表は環境問題について時間を裂いた。アメリカ上院議会,アメリカ国民がベルサイユ条約(Treaty of Versailles)の写しをとることをウィルソン大統領は禁じた。
ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領は自分がアメリカ国民の代表として行った取引の内容をアメリカ国民には伝えなかった。
イギリス,フランス,ドイツの代表は政府と国民に情報を伝えた。アメリカだけが情報を伝えられず,そのことが逆に目立つ結果となった。
すべてのアメリカ人がそうだったわけではない。ニューヨーク市民で条約について情報を与えられた者もいた。
しかしアイダホ上院議員ボラー(Borah)氏が政府文書のリークから条約の内容を知った。
ジェイコブ・シフ(Jacob Schiff),
JPモルガン(J. P. Morgan),
ポール・ウォーバーグ(Paul Warburg),
フランク・バンダーリップ(Frank A. Vanderlip),
ヘンリーPデイヴィソン(Henry P. Davison),
トーマス・ラモント(Thomas Lamont)
は証言のためにアメリカ上院に召喚された。
デイヴィソンの「個人銀行家のコンソーシアム」とはクーンローブ,JPモルガン,ナショナルシティバンクとのコネクションだった。
ロンドンやフランクフルトにいた彼のパートナーもそうだった。
デイヴィソンは新しくできた銀行を連邦銀行としてひとつにまとめたかった。そうすることでヨーロッパが背負う借金をひとつにまとめたかった。
アメリカのお金は他国に貸し出されている。しかしアメリカ政府はプロセスからはじきだされ,個人銀行家が借金の利子を集めるだろう。
リバティボンドオーガニゼーション(the Liberty Bond organization )はこの計画を遂行するためのまたとない組織であった(第一次世界大戦時アメリカは資金調達のほとんどをこのリバティボンドオーガニゼーションから行なっていた。)。
ワシントンコントロールが外側で働くシステムならこのリバティボンドオーガニゼーションは内側で働くシステムというわけだ。
■「今やヨーロッパは一国とみなすべき」
JPモルガンやバンダリップの証言を読めばこの新規融資がどう組まれるかがわかる。
大戦前夜,アメリカ政府は70億ドル以上の資金を使ってイギリスの銀行債を買った。
ヨーロッパがアメリカから借りた金が帳消しになったかバンダリップ(Frank A. Vanderlip)は語っている。
ヨーロッパは古い借金を返していたら新しい借金は返せない。
ここで思い出してほしいことはこれらの銀行家は銀行債を他人に売ってお金を儲けていたということ。
銀行が借金を完済するまで銀行家は債権をずっと持っているわけではないのだ。
債務者の債務を許す場合は一般大衆にその債務を肩代わりさせる。現在でもそういうことはたとえばIMFで行なわれている。
新規融資のシステムがつくられ,そのことでヨーロッパの経済システムはひとつの経済システムに統一された。
銀行家はこの統一されたヨーロッパ経済システムの中心的存在になった。
銀行家にとって新規融資をおさえるのが重要である理由,ヨーロッパの政府が借金の利子を支払うことができた理由をバンダリップは明らかにした。
:ヨーロッパ各国の政府はその国の通関の特権を銀行家にあたえた。つまりヨーロッパ各国の政府は銀行家に自国の製品で現物で借金の返済をおこなったというとだ。
金融業者はそれぞれの国がどういう方法で債務を決済する
かを決める。その国のどの産業が資材を仕入れるかを決める。
つまりその国でどの産業が産業を独占するかは銀行家がきめるということだ。
つまりそれが国際金融業者が共産主義や初期ファシズムを好む理由だ。
こういう金融業者がアメリカ議会やアメリカ上院の後ろ盾になったことによって,アメリカ大統領は世界の中で「何でも自分で決める」主導者の地位を得た。
ウィルソン大統領は大統領の提案は下院と上院の承認がなければ法律や命令にはならないという決まりを無視した。なぜか? アメリカ議会が金融業者の目的を無視するわけにはいかないことを大統領は知っていたからだ。
ボラー上院議員に言わせれば,金融業者ウッドロウはまるで自分が「世界の大統領」であるかのようにふるまったのである。
ニューヨークで条約のリークを掘り下げることで,委員会では少なくとも15ヶ国の国が所有している特権を廃止する努力をした。
:政治的公民権を剥奪するアメリカの特権,経済を独裁するヨーロッパの特権など。しかしこういう努力が見を結ぶのがどれだけ困難なことかあなたはわかるだろう。

local pc















アメリカの正体―大恐慌時代~両大戦時代,FRB,CFR誕生
さわやか易・親分と姐さん編 世界史
kan*u*uuk*u
親分,よろしくお願いいたします。アメリカの新しい金融システムを築くために,ユダヤ系の金融家たちが指名した大統領の話だったですね。
その前にアメリカの大統領がどうやって選出されるかを知らなくてはいけないな。
当時,今から百年前のことだが,既に共和党と民主党の2大政党が競い合う体制が出来ていたんだな。
大抵はどこかの州知事が候補になるんだが,選挙に勝つためには莫大な資金が必要だったし,大々的に宣伝してくれるメディアが鍵を握っていたんだ。
それは今と殆ど変わりはなかった。
成程,やはりメディアですね。
じゃあ,そのメディアを味方につけた方が勝つんですね。
ところが,その大メディアの出資者,オーナーは全てと言っていいほど,ユダヤ系が占めているんだ。
金融家たちのグループなんだよ。
つまりは,金融家たちが指名すればほぼ間違いなく選挙に勝てるという訳だ。
そして,その時,金融家たちが指名したのが,ウッドロー・ウィルソンだった。
東海岸にあるニュージャージー州の知事だった。
確実に当選させるためにある工作をするんだな。
それはな,前期の大統領が共和党のタクトで結構人気もあった。
通常だとそのまま2期目で当選するんだが,共和党を二つに分裂させるんだよ。
じつは共和党のその前の大統領がセオドア・ルーズベルトで国民的人気があったんだ。
その引退していたセオドア・ルーズベルトを担ぎ出して,進歩党として再び立候補させたんだな。
成程,そうすれば,二つに割れた方が負けちゃいますよね。いろんな方法があるんですね。
そういうことだ。国民は知らないから,そのまま選挙に突入して,民主党のウィルソン(Willson,1856~1924)が当選したんだ。
政治の世界では裏で何が起こっているか解らないものですね。
大統領といっても,そういう支配者たちに操られている役者に過ぎませんね。
結局金融家たちが操っているんでしょ。
金融家たちにはそれぞれの分野にエキスパートがいるんだよ。
お前がヘンリー・キッシンジャーが凄いと言っていたけど,キッシンジャーなみの凄腕は100年前にもいくらでもいたんだな。
例えば,このウィルソン大統領(1856~1924)の側近として大統領を動かしていたのはバーナード・バルーク(Bernard Baruk,1870~1965)というユダヤ人なんだ。
大富豪でもあり,チャーチルとも親しく,外交,政界の陰の支配者といっていい程実力があったんだ。
なるほどねー。アメリカを支配しているのがどんな人たちかが少し解ってきました。
今から100年前にはすっかり出来ていたんですね。
ところで,新しい金融組織に大統領が署名すんですよね。何かドラマがあったんですか?
例のジキル島で準備された計画を実行する時が来たんだ。
大統領は計画通り,民主党のウィルソンを当選させた。
時は1913年の12月23日なんだ。この日はクリスマス休暇で大方の上院議員は不在だったんだ。その不在の隙に法案を可決し,大統領の署名までしてしまうんだ。
発案した二人の名前をとって,「オーウェン・グラス法案」というのだが,全くめくらだましのように成立させてしまうんだ。
アメリカにとって,極めて重大な法案ですよね。それが,クリスマス休暇の間に出来ちゃったんですか。
そうなんだ。それが,「連邦準備制度理事会」という名の「FRB」なんだよ。
わざと,あいまいな,名称にしてあるんだ。本当は「アメリカ中央銀行」とするべきなんだが,民間人による銀行だということが目立たないように,取り仕切っていたポール・ウォーバークという金融家が,わざと「中央銀行」の名称を避けたんだそうだ。
ベンジャミン・フランクリンやジャクソン大統領なんかが猛反対していた民間人による中央銀行が出来たということは,アメリカの支配権が一部の金融家たちのものになったということですよね。
モルガン家やロックフェラー家たちのものになったということですよね。ドルの発行権もあるんでしょう。
そうさ。ドルはFRBで発行して,それを政府が借りるという仕組みなんだよ。
17世紀にイギリス政府とユダヤ人金融家たちが作った仕組みと同じなんだ。
しかもだ,「連邦所得法」というのを同時に成立させて,どんな場合も政府が払う利息は国民が税金で確実に返済してくれるようにしてあるのさ。
流石はユダヤ人金融家たちのすることですね。
経済と言えば,身体で言えば血液ですよね。
その国の通貨を発行する所と言えば心臓です。
その心臓をユダヤ人が押さえたということは,その国を支配するということですよ。
ジキル島での綿密な計画があったとはいえ,そんなにも簡単に出来ちゃったんでしょうね。
確かにそうだ。時代の環境として,相次ぐ経済恐慌環境から何とか解決策を見出さなけいけないという切羽詰まった事情があったんだろうな。
経済を押えたユダヤ人金融家たちの次の支配は外交問題を決定する機関をつくることなんだ。
どこの国と手を結ぶとか,戦争をするとか,貿易をどうするとか,そんな重要な問題を詰める機関だな。
それは議会の仕事でしょう。
まあ,実際は議会で決定するんだが,それを導いて行くには,権威のあるシンクタンクが必要なんだ。それは次に話そうじゃないか。
親分,重要なFRBの次に何が出来たんですか?
1910年代とは,世界史的にいっても,激動の時代だったんだな。
1914年にはサラエボ事件が起こり,そのまま第一次世界大戦になっていくし,
1917年にはロシア革命が起こるんだよ。
そんな激動の時代に,冷静沈着にことを進めていたのがユダヤ人金融家たちなんだ。
実は,ロシア革命もユダヤ人たちの関わった革命なんだが,それを話すときりがないから,アメリカの話に絞ろう。
お願いします。
1921年に,今度は「外交問題評議会」というのを作るんだ。略してCFRというんだがな。
これはイギリスにある「王立国際問題研究所」略してRIIAなんだが,世界で起こる重要な外交問題は全てここで決定されるんだ。
CFRはこのRIIAの姉妹機関になる訳なんだが,その後の重要問題はここで論議され,決定されるという機関になるんだ。
これも,政府機関ではなく,ユダヤ人金融家たちが作ったものなんだ。
そんなに権威があるんですか?
あるんだよ。その後の大統領を始め主だった人事はここで決められるし,戦争についてもここで決まるんだ。
作ったのはウィルソン大統領の外交ブレーンだったマンデル・ハウス(1858~1938)なんだが,彼はロスチャイルド家の代理人みたいな人物だよ。発起人としては例のジェイコム・シフも,バーナード・バルークもモルガンもロックフェラーもいる。全員がユダヤ人じゃないかな。そう考えると,この時代がユダヤ人金融家たちが一番,活躍した時代で,その後のアメリカを決定した時代と言っていいんじゃないか。
ドルの発行権を握った上,外交問題も彼らが支配してしまったら,完全に国を支配したのと同じですね。
その通りだ。このCFRがアメリカのというより,世界の青写真を作っていると考えた方がいいね。
冷戦時代が半世紀続いたのも,CFRの方針なんだ。彼らはアメリカを主体にして考えている訳じゃないんだ。
東西の冷戦状態が長く均衡をとって,継続するように力の配分を行っているんだよ。
ということは,アメリカの国益の為にあるんじゃないということですか?
解り難いかな。いいか,彼らの主体はユダヤ人だろう。ユダヤ人は国を持たない民族だよな。
だから,必ずしもアメリカ国家の国益を損なっても,世界が一つに向かっていくことが重要なんだよ。
だから,冷戦が長く続いたのさ。ソ連に対しては色んな形で支援しているんだ。
いいか,核兵器もだぞ。
核兵器の技術も結構流しているんだよ。
本当ですか。あれだけ,軍拡競争をやりながら,国民の知らないところで,両方の軍拡を進めていたということですか?
国民はたまったもんじゃないですね。とくにソ連側の国民は食うや食わずの窮乏生活を強いられていたんですからね。
まあ,そんなもんよ。
何しろ2000年間,迫害に逢っていた民族が主導権をにぎったんだからな。
ユダヤ人金融家たちにしてみれば,それが人類のためだと信念を持っていることなんだよ。
そして,自分たちはいつまでも権力を持ち続ける方法なんだし,良いとか悪いとかの問題じゃないな。
じゃあ,彼らが戦争を望めば,戦争になるんですよね。ふざけるんじゃないって言いたくなりますね。
必要があれば,戦争も起こすし,なんだってやるよ。世界を一つにしようというのが,彼らの進む道なんだからな。
ちょっと待って下さい。日本人にとって,それはどうなんですかね。よくよく考えなくちゃいけませんね。じゃあ,後はこの次にお願いします。

さわやか易
https://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/49760059.html

メモ帳
https://blogs.yahoo.co.jp/dojobzzzz/folder/1602487.html
https://blogs.yahoo.co.jp/dojobzzzz/folder/1602487.html?m=lc&p=10





CHAPTER EIGHT
World War One
apfn.org
http://www.apfn.org/apfn/reserve.htm
ウィルソン大統領自身民主化運動が世界を救うわけではないと考えていたようだ。
ウィルソンは後に
「第一次世界大戦は現実には経済競争だった。」
と書いている。
1917年にウッドロウウィルソン大統領が提示した戦争への呼びかけのなかでウィルソン大統領はロシアの共産主義にこの上ない敬意を表した。
共産主義はロシアという不幸な国で中産階級を滅ぼしたからだ。
「ロシアで同盟がむすばれた。このことで世界の未来の平和は保証された。」
ウィルソン大統領は血に飢えたロシア政権に賛歌をおくったのである。
6600万人の人間を殺した血に飢えたロシア政権らに親愛の情をおくり支援を宣言したのだ。
銀行家たちは血に飢えたロシア政権にお金を融資した。
ウィルソン大統領は共産主義革命に疑いの目がむけられたとき,自分の緊急戦争資金1億ドルをロシアにおくった。
ボルシェビキ政権を救うためだ。
クーンローブカンパニーの文書を読むとクーンローブカンパニーがロシア共産主義の確立に関与していたことがわかる。
あまりに量が多いのでここでは割愛する。
クーン文書にはチャーリズムや共産革命のことが書かれている。
「現アメリカのロシア帝国大使バクメチェフ氏は我々につたえたところによれば,
ボリシェヴィキの勝利してロシアが共産主義国家になった後バクメチェフ氏は我々クーンローブカンパニーに6億ルーブル相当の金を送金してくれるそうだ。
1918年から1922年にかけてだ。」。
一次世界大戦参戦後,ウッドロウウィルソン大統領は彼の資金面での支持者,
ポールウォーバーグ,
バーナードバルーク,
ユージーンマイヤー
の3大投資家を政府組織に起用した。
バーナードバルークは戦争産業委員会の委員長に指名された。
戦争産業委員会はアメリカ国内のすべての企業の命運を決める権利をもっていた。
ユージーンマイヤーは戦争政策金融公庫の公庫長に指名された。
戦争政策金融公庫は戦争にかかわる融資計画を担当した。

local pc








日本人に謝りたい~あるあるユダヤ長老の懺悔~
記事をクリップするクリップ追加
2012/5/19(土) 午後 11:57
≒歴史について
≒ アメリカ情勢
ルーズベルトを囲繞するブレーントラストがすべてユダヤ人でありその大部分が同時にマルクス主義者であったことは,日本でもよく知られていることである。
大部分はプライベートなブレーンであるが,見逃せないのは,国務,財務,労働の3つの重要な長官がルーズベルトのグループだったということである。
国務長官のコーデル・ハルはユダヤ人ではないが,妻君がクーン・ローブ商会のユダヤ人ヤコブ・シフの親類の出身である。
開戦後交換船で帰国した栗栖大使が語ったように,ハルは圧力のため思うように政策がすすめられなかったのであった。
野村大使ではとてもそんなハルの本音は聞き出せないだろうが,栗栖大使の腕はさすがである。
結局,ハルはがっちりルーズベルトに,いいかえればニューディーラーに組み入れられていたのであった。
■アメリカ国務長官を務めたコーデル・ハル
有名な『ハル・ノート』を日本に突き付けて,日本政府を挑発した。
1945年に「ノーベル平和賞」を受賞。
次の財務長官ヘンリー・モーゲンソーはユダヤ人である。
戦後処理をめぐって対独強硬案を出した如く最もユダヤ的なユダヤ人であった。
このモーゲンソーは,ルーズベルトの史上最大の赤字作りに最も貢献するわけである。
■アメリカ財務長官を務めたヘンリー・モーゲンソー(ユダヤ人)
戦後,「全米ユダヤ人組織連合」の名誉会長を務め,イスラエル援助機関を指導した
もう一人の労働長官はフランシス・パーキンス女史である。
彼女は,労働者に団結権を与え,階級闘争を激化させる要因をつくるのに貢献するのである。
ロシア系ユダヤ人である。
■アメリカ労働長官を務めたフランシス・パーキンス(ユダヤ人)
アメリカ史上初の女性閣僚である
これらの指導者がユダヤ人であるということは別章で述べた如くであり,共産主義を自己解放のための手段,道具として活用しようと考えるのは何ら不思議ではないはずである。
なんの臆面もなく資本主義国アメリカで共産主義化政策を追求していたわけである。
これら3人のほかに,私的ブレーンが数多く存在したことは有名である。
[ルーズベルトを囲繞するユダヤ人共産主義者群]
ルーズベルトの取り巻き連の中で特に顕著なことは,俗流ラジカルといわれるユダヤ人マルクス主義者群である。
その代表格が,ウィーン生まれのフェリックス・フランクフルターである。
彼は1882年ウィーンに生まれ,12歳の時渡米しており,1906年,ハーバード大学で法学士号をとり政界入りし,検事総長特別補佐,陸軍省法律顧問等を経て1920年最高裁判事に任命されるまで,ハーバード大学教授であった。
■フェリックス・フランクフルター
ユダヤ人法学者で,合衆国最高裁判事を務める
一見,自由主義者の如き経歴であるが,実は彼は大学で盛んに革命思想を吹き込んでいたのである。
特に,ユダヤ人学生を卒業後政府内の枢要な地位に推薦することに努力していた。
彼が最高裁判事に任命されるとルーズベルトの許へ多くの国民から抗議が寄せられたのであるが,ルーズベルトはそれらを握りつぶしたのである。
当時,9名の最高裁判事の中の2人までをユダヤ人に占めさせたことは,重大な意義があったのである。
もう一人の最高裁判事ルイス・ブランダイスも,ルーズベルトの私的アドバイザーである。
彼は「全世界シオン賢人会」の会員であった。日本国憲法の事実上の草案作製者で,現在ニューヨークで弁護士をしているケーディスは,これら2人のユダヤ系法曹人の弟子である。
■ルイス・ブランダイス
ユダヤ人として初めて最高裁判事に選任された
バーナード・バルークについては説明の要もないほど有名であるが,兵器産業界の大立物であり,
第一次大戦にアメリカが参戦したのもこのバルークの力が真に大きいのである。
当時は,バルークの許可なしには工場一つ建てられなかったといわれる。
第二次大戦中は,原爆の製造に尽力した。
彼は「米国のディズレイリ(英国のユダヤ人首相)」と呼ばれており,アメリカのユダヤ人では最大の権力者といえよう。
■ユダヤ人大富豪/バーナード・バルーク
歴代のアメリカ大統領の顧問を務め,第二次大戦中は,原爆の製造に尽力した
バルークは,第一次大戦中は,1917年,アメリカの参戦後間もなく軍需工業院総裁になり,全産業無制限的統括権を振るうことになった。
軍需工場のすべてを掌握していたこのバルークは,A・A・ハウスマン銀行の共同経営者になり,
1900年,同銀行と手を切って,ウォール街の株式取引所の有力な地位につき,一方では,自己資金で株式売買や株式市場の不正操縦により暴利を稼いでいた。
ウィルソン時代には,真の大統領はこのバルークではないかといわれたものである。
バルークは第一次大戦の煽動に続いて,なんとかアメリカを対独戦へ引きずり込もうと狂奔したのであって,彼の場合,単にドイツのユダヤ人救出だけでなく,戦争による膨大な金権支配力を得ようとしていたのである。「死の商人」とは,彼のためにつくられた言葉かも。
第一次大戦後,上院の一委員会が大戦の前史的事態について調査し,バルークを喚問した際,彼は上院議員J・ハリスの質問に答えて次の如く公言してはばからなかった。
「最後の決定権は自分にあったので──つまり陸軍と海軍とが所要の軍需品を供給されるか否かは自分次第──鉄道が果たして莫大な輸送に耐えうるか否か,
連合国が所要の機関車を米国で手に入れることができるか,それとも,ロシアかフランスで製造させる以外に手がないか否か──それらはすべて自分次第で決まるのだ」。
同時にまた,「大戦中,自分以上の権限をもった奴がいたかどうか聞くのは愚である」とも。
彼は1938年,南米からの帰途,ドイツはアメリカ侵略を目論んでいる,ドイツ軍のアメリカ侵略は近いとして,対独戦参加の伏線をしいていた。
レックス・ジー・ダグウェルはコロンビア大学教授であり,マルクス主義経済学者として知られ,ソ連とも近い人物であった。
レーモンド・モーレーはコロンビア大学教授であり,ブレーントラストの表面的首魁である。
1933年5月2日,
下院議員ハミルトン・フィッシュはルーズベルトのブレーントラスト群の中のレーモンド・モーレー,ダグウェル,モルデカイ・エゼキル,ウィリアム・ブリットの相互連絡について発表している。
ダグウェルは,社会主義者スチュアート・チェーズと共産主義者ロバート・ダンと協力して『第2回10年計画下のソ連』を出版したことがあり,
これら3人の学者は密接な関係を保っていたのである。
ダグウェルの親友である社会主義者のスチュアート・チェーズは『ニュー・ディール』の著者であり,アメリカのソ連化を企図していたのであった。
スチュアート・チェーズ(ユダヤ人)
『ニュー・ディール』の著者
ダグウェルは,かつて社会主義者の仲間として訓練されたことがあり,コロンビア大学経済学教授として,また社会党の機関誌「新共和」の寄稿家として活躍していたのである。
彼は共産主義化の方向へ進めることに全力をあげており,米国民もロシア人も両者間に性格の相違点は見出せず,したがって米国でもロシア同様の革命が可能であるという意見をもっていた。
これすなわちユダヤ革命のことであり,共産主義云々というのは所詮建前論であり,カモフラージュにすぎない。
次の問題人物はレーモンド・モーレーである。
コロンビア大学に講座をもっており,常にルーズベルトの腰巾着であった。
1933年5月8日号の『TIME』の
表紙を飾ったユダヤ人学者,レーモンド・モーレー教授
農務長官顧問モルデカイ・エゼキルは,ダグウェルの影武者として農業問題についてはユダヤの計画の代表者であり,米国の農業計画はユダヤの利益のために進められていたのである。
戦後日本で農地改革をしたラデジンスキーはポーランド系ユダヤ人であり,彼の弟子で,当時農務省にいたのであった。
国務長官補佐となったウィリアム・ブリットについては別に述べるが,彼はまたレーモンド・モーレーの親友であり共産主義者リンカン・ステフェンズの親友でもあり,長らくソ連にありレーニン,チチェリン,リトヴィノフと交渉していた。
■初代駐ソ大使/ウィリアム・ブリット(ユダヤ人)
ブリットは1933年初代駐ソ大使になっているが,彼の腰巾着が共産党員のリンカン・ステフェンズである。
彼は1917年のロシア革命の時代にはトロツキーと共にロシアに渡り革命のため画策するところあり,
莫大な資金がアメリカ政府から出ていた。
アメリカが「ソ連の助産婦」ともいわれるゆえんである。
『日本人に謝りたい』モルデカイ・モーゼ著
(日新報道/1979年出版)より抜粋しました。(続)
*画像が全てコピーや保存が出来ない形式の為お見せできないのが残念です。
 http://widget.blogram.jp/images/bgButton1_blu.gif

ダイヤモンドダスト&♡ ときめく人達♡
https://blogs.yahoo.co.jp/wood72046/34124287.html


       




19000000 バルークは一方で自己資金で株式売買や株式市場の不正操縦により暴利を稼ぐ
19000000 バルークは同銀行と手を切ってウォール街の株式取引所の有力な地位につく
19100000 1910年当時,既に共和党と民主党の2大政党が競い合う体制が出来ていた
19100000 1910年当時,米国では金融家たちが指名すればほぼ間違いなく選挙に勝てる体制
19100000 1910年当時,米国の大メディアの出資者,オーナーは全てと言っていいほどユダヤ系
19100000 1910年当時,民主党のウッドロー・ウィルソンは米国ニュージャージー州の知事
19131223 1913年12月23日,民主党のウッドロー・ウィルソン米国大統領当選
19131223 ウィルソン大統領(1856~1924)
19131223 ウィルソン大統領の側近として大統領を動かしていたバーナード・バルーク
19131223 オーウェン・グラス法案可決>>連邦準備制度理事会(FRB)誕生
19131223 オーウェン・グラス法案成立: 1913年12月23日,この日はクリスマス休暇で大方の上院議員は不在
19131223 オーウェン・グラス法案成立: 上院議の不在の隙に法案を可決>>大統領の署名までしてしまう
19131223 バーナード・バルーク: ユダヤ人,大富豪,チャーチルとも親しく,外交政界の陰の支配者
19131223 連邦準備制度理事会(FRB)誕生,民間人による中央銀行誕生
19131223 連邦準備制度理事会(FRB)誕生>>FRBでドルを発行してそれを政府が借りるという仕組が成立
19131223 連邦準備制度理事会(FRB)誕生>>モルガン家やロックフェラー家たちのものになった
19131223 連邦準備制度理事会(FRB)誕生>>米国の支配権が一部の金融家たちのものになった
19131223 連邦所得法成立: 政府が払う利息はどんな場合も国民が税金で確実に返済
19140000 1914年サラエボ事件>>第一次世界大戦
19170000 1917年ロシア革命,
19170000 ロシア革命: 莫大な資金が米国政府から出ていた>>米国が「ソ連の助産婦」といわれる
19170000 ロシア革命: 米国初代駐ソ大使/ウィリアム・ブリットの腰巾着が共産党員リンカン・ステフェンズ
19170000 ロシア革命: 米国初代駐ソ大使/ウィリアム・ブリットはトロツキーと共にロシアに渡り革命のため画策
19170000 激動の時代,冷静沈着にことを進めていたのがユダヤ人金融家たち
19170000 第一次世界大戦: バルークはA・A・ハウスマン銀行の共同経営者に
19170000 第一次世界大戦: バルークは全産業無制限的統括権を振るう
19170000 第一次世界大戦: バルークは第一次大戦の煽動
19170000 第一次世界大戦: バルークは第一次大戦中,米国の参戦後間もなく軍需工業院総裁に
19170000 第一次世界大戦: バルークは単にドイツのユダヤ人救出だけでなく,戦争による膨大な金権支配力を得ようとしていた
19170000 第一次世界大戦: バルークは米軍需工場のすべてを掌握
19170000 第一次世界大戦: バルークは米国を対独戦へ引きずり込もうと狂奔 
19190000 第一次世界大戦: 大戦後,上院が大戦の前史的事態調査>>バルーク喚問
19190000 第一次世界大戦前史調査: 最後の決定権は自分にあった バルーク
19190000 第一次世界大戦前史調査: 大戦中,自分以上の権限をもった奴がいたかどうか聞くのは愚である バルーク
19190000 第一次世界大戦前史調査: 鉄道が果たして莫大な輸送に耐えうるか否か,すべて自分次第で決まる バルーク
19190000 第一次世界大戦前史調査: 陸軍と海軍とが所要の軍需品を供給されるか否かは自分次第 バルーク
19210000 外交問題評議会(CFR): 1921年「外交問題評議会(CFR)」成立,
19210000 外交問題評議会(CFR): CFRはこのRIIAの姉妹機関
19210000 外交問題評議会(CFR): このCFRが世界の青写真を作った
19210000 外交問題評議会(CFR): その後の大統領を始め主だった人事はここで決まった
19210000 外交問題評議会(CFR): 作ったのはWillson大統領の外交ブレーンだったマンデル・ハウス
19210000 外交問題評議会(CFR): 戦争についてもここで決まった
19210000 外交問題評議会(CFR): 冷戦時代,米ソ両方の軍拡を進めた
19210000 外交問題評議会(CFR): 冷戦時代が半世紀続いたのもCFRの方針
19380000 第二次世界大戦: バルークは独軍の米侵略は近いとして対独戦参加の伏線をしいた。

cffdfds pc






19000000 1880年~1900年の20年で米国人口は約5000万人から約7600万人に増加した ヒルファディング
19000001 米国人口の急増の反面,小麦の耕作面積の増加は20年で3.4万エーカー>4.2万エーカーと微増 ヒルファディング
19010000 欧米諸国で出生率減少
19010000 米国の小麦輸出量はロシアの生産量の約33% JM Rubinow
19020000 1902年,米国内の小麦消費量がはじめて5億ブシェルをこえる,米国内需要の急増
19020001 1883年,米国内の小麦消費量がはじめて3億ブシェルをこえる
19020001 1889年,米国内の小麦消費量がはじめて4億ブシェルをこえる
19020200 第14太陽周期,1902年2月~1913年8月,周期期間11.5年,
19020200 第14太陽周期,活動極大(黒点相対数の最大値)64.2(1906年2月),活動極小 (黒点相対数の最小値)1.5,
19020200 第14太陽周期,無黒点日数1019
19040000 1904年の米国内の鉄道の敷設距離は21万2349マイルで英国の2倍以上 Poors Railway Mnual
19040000 米国の小麦輸出量はロシアの生産量の約104%(1901年は33%) JM Rubinow
19100000 1910年当時,既に共和党と民主党の2大政党が競い合う体制が出来ていた
19100000 1910年当時,米国では金融家たちが指名すればほぼ間違いなく選挙に勝てる体制
19100000 1910年当時,米国の大メディアの出資者,オーナーは全てと言っていいほどユダヤ系
19100000 1910年当時,民主党のウッドロー・ウィルソンは米国ニュージャージー州の知事
19121000 第1次バルカン戦争(1912年10月-1913年5月)
19130000 FRB(連邦準備制度理事会)設立 アメリカの中央銀行に相当
19130600 第2次バルカン戦争(1913年6月-1913年8月)
19130800 第15太陽周期,1913年8月~1923年8月,周期期間10.0年,
19130800 第15太陽周期,活動極大(黒点相対数の最大値)105.4(1917年8月),活動極小 (黒点相対数の最小値)5.6,
19130800 第15太陽周期,無黒点日数534
19131223 1913年12月23日,民主党のウッドロー・ウィルソン米国大統領当選
19131223 ウィルソン大統領(1856~1924)
19131223 ウィルソン大統領の側近として大統領を動かしていたバーナード・バルーク
19131223 オーウェン・グラス法案可決>>連邦準備制度理事会(FRB)誕生
19131223 オーウェン・グラス法案成立: 1913年12月23日,この日はクリスマス休暇で大方の上院議員は不在
19131223 オーウェン・グラス法案成立: 上院議の不在の隙に法案を可決>>大統領の署名までしてしまう
19131223 バーナード・バルーク: ユダヤ人,大富豪,チャーチルとも親しく,外交政界の陰の支配者
19131223 連邦準備制度理事会(FRB)誕生,民間人による中央銀行誕生
19131223 連邦準備制度理事会(FRB)誕生>>FRBでドルを発行してそれを政府が借りるという仕組が成立
19131223 連邦準備制度理事会(FRB)誕生>>モルガン家やロックフェラー家たちのものになった
19131223 連邦準備制度理事会(FRB)誕生>>米国の支配権が一部の金融家たちのものになった
19131223 連邦所得法成立: 政府が払う利息はどんな場合も国民が税金で確実に返済
19140000 1914年サラエボ事件>>第一次世界大戦
19140000 1914年第一次世界大戦勃発,
19140000 第一次欧州大戦(第一次世界大戦),eraser1eraser
19140728 1914年第一次世界大戦勃発,
19140728 第1次世界大戦(1914年7月28日-1918年11月11日)
19140728 連合国(第1次大戦)英,仏,露(-1917年)
19140815 パナマ運河(1914年8月15日-)アメリカ大陸東海岸と西海岸を海運
19150523 日,伊参戦(1915年5月23日- )
19160000 シカゴリヴァーバンク遺伝子研究所遺伝子情報解読部,暗号部として独立,
19160000 リヴァーバンク遺伝子研究所遺伝子情報解読部,NSAの源流,
19170000 1917年ロシア革命,
19170000 激動の時代,冷静沈着にことを進めていたのがユダヤ人金融家たち
19170406 米参戦(1917年4月6日-)中央同盟国:独,墺,土など参戦
19180000 第一次世界大戦,1918年に入るとトルコ,オーストリアなどが降伏,
19180500 1918年5月,ポールウォーバーグは裁判で反逆罪に問われた,
19181111 1918年11月11日,第一次世界大戦終戦,
19181212 1918年12月12日,第一次世界大戦休戦協定,
19190000 1919年:ヴェルサイユ条約
19190118 パリ講和会議(1919年1月18日-)
19200000 1920年:国際連盟創設
19200000 1920年代にアラスカでHAARP第一号が設置,
19200000 米ユダヤ人社会,ヤコブ・シフ,トロツキーらを通じ1200万ドル援助,
19200000 米ユダヤ人社会,ロシアのユダヤ人革命家たちに多額の援助,
19210000 1921年:原敬首相暗殺
19210000 外交問題評議会(CFR): 1921年「外交問題評議会(CFR)」成立,
19210000 外交問題評議会(CFR): CFRはこのRIIAの姉妹機関
19210000 外交問題評議会(CFR): このCFRが世界の青写真を作った
19210000 外交問題評議会(CFR): その後の大統領を始め主だった人事はここで決まった
19210000 外交問題評議会(CFR): 作ったのはWillson大統領の外交ブレーンだったマンデル・ハウス
19210000 外交問題評議会(CFR): 戦争についてもここで決まった
19210000 外交問題評議会(CFR): 冷戦時代,米ソ両方の軍拡を進めた
19210000 外交問題評議会(CFR): 冷戦時代が半世紀続いたのもCFRの方針
19230000 雑誌TIME創刊,
19230800 第16太陽周期,1923年8月~1933年9月,周期期間10.1年,
19230800 第16太陽周期,活動極大(黒点相対数の最大値)78.1(1928年4月),活動極小 (黒点相対数の最小値)3.5,
19230800 第16太陽周期,無黒点日数568
19240000 世界初の投資信託=マサチューセッツ・インベスターズ・トラストが設定
19270000 1927年:金融恐慌
19270000 初めてイギリス企業に対してADRを認可
19290000 1929年,大恐慌時代
19291024 10月24日の米国株価の暴落から世界的な大恐慌へと発展,
19291024 1929年10月24日の「暗黒の木曜日」(Black Thursday) >>大恐慌時代
19300000 世界大恐慌→ニューディール政策→第二次世界大戦
19330000 1933年,ナチス・ドイツの成立,
19330000 アメリカヘのユダヤ移民の第4波,
19330309 ニューディール政策発表,
19330900 第17太陽周期,1933年9月~1944年2月,周期期間10.4年,
19330900 第17太陽周期,活動極大(黒点相対数の最大値)119.2(1937年4月),活動極小 (黒点相対数の最小値)7.7,
19330900 第17太陽周期,無黒点日数269
19350000 アメリカはたいてい「景気の悪い時」に戦争をしてきた
19350000 ハルノート,ABCD包囲網による日本追込,ボロ戦艦を真珠湾に並べ日本を罠にはめ開戦へ k氏
19350000 ルーズベルトの最終的な経済解決は戦争需要によってであったと言います
19350000 ルーズベルトはニューディール政策によって経済を回復させた
19390901 午前5時,ナチスドイツ軍ポーランドに侵入,第二次世界大戦勃発,
19390901 第二次欧州大戦(第二次世界大戦),eraser1eraser
19400000 Gallup社の1940年の調査によると,米国民の83%が米国の参戦に反対していた
19411000 ルーズベルト大統領は暗号解読により日本の真珠湾攻撃を知っていた,
19411120 20日から12月7日,真珠湾へと向かう部隊に山本五十六は通信文を送った,
19411128 オランダの潜水艦K - 17,真珠湾に向かう日本の艦隊を傍受,英に警告,
19411206 George Marshall,海軍長官Frank Knox,Roosevelt大統領はホワイトハウスにいた
19411206 昭和16(1941)年12月6日,真珠湾奇襲,太平洋戦争勃発,
19411206 米情報部は日本の航空機がハワイの400マイル沖にあるとRoosevelt大統領に警告
19411207 1941年12月7日,日本は真珠湾を奇襲
19411207 奇襲の翌日の1941年12月7日,Roosevelt大統領は米国民に向け演説
19411207 真珠湾奇襲,1941年12月7日(訳者註:日本では8日),
19411207 真珠湾奇襲で,1,200人の米国人がが負傷し,2,400人の米国人が亡くなった
19411207 父がやった事は国益のためじゃなかった Rooseveltの義理の息子Curtis Dall
19420000 1942年:ミッドウェー海戦 ,「欲しがりません勝つまでは」
19440200 第18太陽周期,1944年2月~1954年4月,周期期間10.2年,
19440200 第18太陽周期,活動極大(黒点相対数の最大値)151.8(1947年5月),活動極小 (黒点相対数の最小値)3.4,
19440200 第18太陽周期,無黒点日数446
19450000 ルーズベルト大統領死亡(1945年秋) ,
19450310 昭和20年3月10日,東京大空襲,
19450310 日本の主要都市空爆を指揮/実行したのは,空軍戦略指揮官Curtis LeMayであった
19450310 米空軍は1945年3月10日から8月15日にかけ,日本の主要63都市を空爆し100万人の市民を殺害した
19450801 1945年:終戦
19450801 第二次世界大戦終 同時に米ソ冷戦時代の幕開け,
19451200 [WW2] 第二次世界大戦における死亡者:イギリス(人口の0.94%)
19451200 [WW2] 第二次世界大戦における死亡者:フランス(人口の1.35%)
19451200 [WW2] 第二次世界大戦における死亡者:中国(人口の1.89%)
19451200 [WW2] 第二次世界大戦における死亡者:米国(人口の0.32%)

vfvxcvxc





世界政策 ―ドイツの未来は海上にあり―

世界政策 ―ドイツの未来は海上にあり―
ドイツ海軍
本記事はカイザー(皇帝),ヴァイマル国,そして総統ヒトラーと変わりゆく所有者と海軍との関係を軸に, ドイツ海軍の歴史をつづってみるつもりである。
それでは,頭上にイギリス駆逐艦が回遊しているときのUボート乗組員のような気持ちになって肩の力を抜きのんびり読んでください。
1.ドイツ帝国海軍
・ドイツ帝国海軍の誕生
ドイツは元来が陸軍国家だ。統一以前のドイツの各領邦で海洋に面していたのはバルト海に接するプロイセン王国やハノーヴァー王国くらいのもので,殆どの国は内陸国だった。
過去にはリューベックなど海上交易で栄えた都市もあったが,例外と言ってよいだろう。
さて,そんなドイツ諸邦がプロイセン主導で統一され,北ドイツ連邦を経て普仏戦争を経験し,新たに皇帝ヴィルヘルム1世を戴くドイツ帝国として誕生したのが1871年。
北ドイツ連邦にも海軍は存在したが陸軍省の所属であり,独立海軍としての体裁すらなかったが,
このドイツ帝国の誕生とともに海軍局は陸軍省より独立し,帝国海軍本部となった。
本格的に海軍が整備されるのはもう少し先のヴィルヘルム2世時代となるが,ともかくここに皇帝の海軍・カイザーリッヒマリーネ(Kaiserliche Marine)は誕生した。
1873年,普仏戦争でフランスに屈辱的敗北を与えたドイツ首脳部にとって気がかりなのはフランスによる報復戦争であり,それとともに連鎖的に起こる列強各国との紛争でもあった。
とうぜん列強国との関係改善に務めたし,また一方で戦争に備えて軍備の増強も行った。
しかしながら国防予算の割り振りは陸軍が最優先で,ドイツ海軍は北海沿岸部,特にヴィルヘルムスハーフェン軍港周辺の防御に特化した装甲艦5隻を主力として保有するにとどまった。その装甲艦5隻の建造費でさえ予算獲得には8年の年月を要したという有様である。
ドイツ海軍の建軍成ったとはいえ,今しばらく不遇の時代を過ごさねばならなかった。
・世界政策 ―ドイツの未来は海上にあり―
ドイツ海軍が世界第二位の海軍へと躍り出る転機は,新皇帝の誕生であった。
1888年に即位したカイザー・ヴィルヘルム二世は海軍の増強に並々ならぬ関心を払っており,このカイザーの意思はすでに1886年に建設が始まっていたキール運河として知られるカイザー・ヴィルヘルム運河の建設計画に付随する形でのヘルゴラント=ザンジバル協定の締結(1890年)といった具体的政策を伴って現れた。
カイザー・ヴィルヘルム運河の建設によって,北海方面とバルト海方面のドイツ艦船が自由に行き来できるようになる。またザンジバル諸島の島々をイギリスに割譲することでヘルゴラント島を獲得,北海における海軍根拠地とすることが可能になり,同時にイギリスとの友好関係を深化させることができる。
この時点で,カイザーは海軍の増強にこそ関心を払っていたが,世界一の海軍国・イギリスとの関係悪化は決して望ましい事態とは考えていなかった。
またカイザーは既存の海軍本部を海軍省,海軍総司令部,海軍内局の三つの機関に分割し,皇帝直属の海軍内局を通じて統帥権を行使,海軍政策に関与できる体制を作り本格的な海軍増強に備えた。
ドイツ帝国の誕生以降,ドイツは工業の充実に力を注ぎ続け,今や世界でも有数の工業国家となった。
農業国から工業国へと脱皮すれば,工業製品の市場とその原料供給地を求め植民地を獲得しようとする。
ドイツ帝国も例外ではなく,世界政策と呼ばれる帝国主義政策を採り,ドイツ領東アフリカ,カメルーン,ナミビアなどを次々と植民地化,
膠州湾を99年間の租借地するなどし,世界最大の植民地帝国であるイギリスとの関係も1896年のクリューガー電報事件を直接の契機として悪化していった。
カイザーもここに至り英独友好の維持から,徐々にではあるが対英強硬政策へと転換し,
海外膨張政策から発生する列強各国,特にイギリスとの摩擦を避けたい宰相ビスマルクは解任された。
また海軍大国イギリスが仮想敵国として浮上するようになると,いよいよドイツは本格的な海軍建設を推進する。
ドイツ海軍にとって最初の戦艦は1890年起工,1893年に就役したブランデンブルクとその同型艦3隻である。
起工の時点では今だフランスがドイツにとって最有力の仮想敵国であり,したがって設計もフランス戦艦に類似したものとなったが,
ここにドイツ海軍は沿岸防御に特化した艦隊から外洋艦隊への一歩を踏み出した。
・海軍大臣ティルピッツ
1896年1月,カイザーは「ドイツ帝国が世界帝国へと発展した」との宣言を行い,世界政策のさらなる拡大を促した。
その一環として海軍を増強するうえで,ドイツ海軍内部ではふたつの論争が存在した。
1890年に海軍大臣に就任したホルマン提督は,通商破壊を主戦略として巡洋艦を多数建造する案を提示,
96~97年度予算で高速巡洋艦4隻を建造する法案を帝国議会で通したが,
カイザー・ヴィルヘルム2世はこの案を不服とし,東洋艦隊司令長官だったティルピッツ提督の戦闘艦隊戦略を採用して
ホルマンを解任,新たにティルピッツを海相として抜擢した。1897年のことだ。
戦闘艦隊戦略とは,すなわち戦艦中心の大艦隊を建設すべきとの計画であり,
ティルピッツは外交カードとしての戦艦戦力を大いに評価していた。
つまりドイツの仮想敵国艦隊が大ダメージを受け得るリスクを抱えるだけの規模の艦隊をドイツが保有すべきだと主張した。
このころ,ドイツ最大の仮想敵国はすでにフランスからイギリスへと移っており,この戦闘艦隊戦略はイギリス海軍に対する抑止力の効果を狙ったものだった。世界一の海軍力を持つイギリスがその戦力の過半を喪失するリスクを負ってまでドイツと交戦しようとは思わないだろう,こう考えたわけだ。
これを「危険艦隊」思想と呼ぶ。
しかし歴史をたどれば分かるとおり,イギリスは構わずドイツと開戦したし,その戦争は人類史上初の世界大戦にまで発展したのだった。
また時を同じくして外務大臣にも海軍推進論者のビューローが着任し,カイザー・ティルピッツ・ビューローの三人がドイツの世界戦略を牽引することになった。
ティルピッツの海相就任とともに1898年度には第一次艦隊法が可決され戦艦の定数は19隻,耐用年数を25年と定められ,1900年度の第二次艦隊法では戦艦の定数が38隻と倍増,装甲巡洋艦の定数が14隻,巡洋艦の定数は38隻とされるなど未曽有の建艦ラッシュとなった。
これほど急速に拡大を遂げたドイツ海軍にとって不足しているのは何よりも人員,特に士官だったが,新興のドイツ海軍は陸軍のように
士官をユンカー階級が独占するような事態はなく,中産階級が出世の機会を求めて入隊するなど充実していた。
またクルップをはじめとする重工業業界も多くの受注を受けて盛況となり,海軍を統一ドイツの国民統合の象徴とすべく海軍省主導の大規模なキャンペーンが行われた。
戦艦52隻を保有するイギリス海軍にとって38隻のドイツ戦艦は脅威以外の何物でもなく,かくして英独間に建艦競争が勃発した。
1906年,イギリス海軍は戦艦ドレッドノートを竣工させ,それ以前に建造された戦艦は前弩級戦艦となりすべて旧式化したが,
それは単に両国間の建艦競争が一層加熱するという結果を残しただけであった。
第一次世界大戦の敗戦までにドイツ海軍が建造した弩級戦艦は
・ヴェストファーレン級(ナッソー,ヴェストファーレン,ラインラント,ポーゼン)
・ヘルゴラント級(ヘルゴラント,オストフリースラント,チューリンゲン,オルデンブルク)
・カイザー級(カイザー,フリードリヒ・デア・グローセ,カイゼリン,プリンツレゲント・ルイトポルト,ケーニヒ・アルベルト)
・ケーニヒ級(ケーニヒ,グローサー・クルスフュルト,マルクグラーフ,クローンプリンツ・ヴィルヘルム)
・バイエルン級(バイエルン,バーデン)
の計19隻。
戦艦の建造費が1隻あたり国家予算の0.5%~1%を占めると言われた時代である。
帝政ドイツにとってはあまりに大きな経済的負担であった。

総力戦研究所
http://www.geocities.jp/totalwar1939/germannavy.html





・第一次世界大戦の勃発
1914年,オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の暗殺に端を発したオーストリアの対セルビア宣戦布告は
まるでドミノ倒しのように列強各国を戦争へと引きずり出し,ここに第一次世界大戦が勃発した。
開戦時,ドイツ海軍は弩級戦艦14隻,前弩級戦艦22隻,巡洋戦艦4隻,装甲巡洋艦9隻,軽巡洋艦22隻,駆逐艦149隻,潜水艦28隻を保有し,
堂々たる世界第二位の海軍大国となっていた。
開戦直後,地中海ではゾーヒョン提督に率いられた巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウが孤立していたが,中途仏領アルジェリア沿岸を砲撃するなどしつつ,なんとかイギリス地中海艦隊の追撃を逃れ中立国オスマン帝国に逃れることができた。
ドイツ海軍はこの2隻の艦船をオスマン帝国に売却することを条件にトルコの中央同盟側(ドイツ・オーストリア=ハンガリー同盟)に立っての参戦を促し,オスマン帝国は10月に参戦した。
また開戦時,ドイツ東洋艦隊主力は青島の海軍基地に停泊していたが,開戦によって本国への帰還は実質不可能となってしまった。
これらは南米・コロネル沖海戦における勝利などの戦果を挙げるも,時を経ずしてイギリス海軍に各個撃破された。
ただ2か月余りの間に30隻以上の連合軍商船・艦船を撃沈し,インド洋の海上交通を麻痺させた防護巡洋艦エムデンの活躍は現在も語り草になっている。
第一次世界大戦は,その規模の大きさに比べて海戦が少ない。
これはドイツ海軍が現存艦隊主義を採り,終戦の際に少しでも有利な条件で講和するための外交カードとして艦隊の保全を優先したのが大きな理由のひとつとなっている。
それでもヘルゴラント・バイト海戦,ドッカーバンク海戦などの中規模程度の海戦は散発的に発生していた。
しかし真の意味で英独両海軍が総力を挙げて戦った大海戦は1916年5月31日から2日間にわたるユトランド沖海戦(ドイツ側呼称はスカゲラック海戦だが,イギリス側呼称が世界的に知られているので以後こちらで通します)であり,史上最大の艦隊決戦と言われている。
イギリス川149隻,ドイツ側99隻に上る艦船を投入したこの大海戦には紙面を割いておく必要があるだろう。
・ユトランド沖海戦
イギリス海軍は,自らの主力艦隊を大艦隊(Grand Fleet)と呼称した。対するドイツ海軍もやはり主力艦隊を大海艦隊(Hochseeflotte)と呼んだ。
それぞれの艦隊は大まかに中核の戦艦部隊と,露払いとしての前衛打撃部隊である巡洋戦艦部隊に分かれており,
ドイツ戦艦部隊の司令官はラインハルト・シェーア提督,ドイツ巡洋戦艦部隊の司令官はフランツ・フォン・ヒッパー提督だった。
イギリス戦艦部隊の司令官はジョン・ジェリコー提督,イギリス巡洋戦艦部隊の司令官はデイビット・ビーティー提督。
ドイツ大海艦隊はそれまで艦隊現存主義者のため,軍港を出撃して積極的に制海権を奪おうとはしなかったが,
今回は違っていた。イギリス海軍から制海権を奪取しようとドイツ海軍の主力艦艇をすべて投入した。
対するイギリス海軍も暗号を解読しドイツ海軍主力の出撃を察知しており,こちらもまた主力艦隊を投入した。
第一次海戦はやはり前衛の巡洋戦艦部隊同士の激突となり,15時40分ごろに火ぶたが切られた。
1時間程度の砲戦でイギリス海軍は巡洋戦艦インディファティカブル,クイーン・メリーを喪失した。
第二次海戦では,先の第一次海戦で大戦果を挙げたドイツ巡洋戦艦部隊に対しイギリス戦艦部隊が襲いかかり,
ドイツ側はフォン・デア・タンやデアフリンガーなど4隻の巡洋戦艦が戦闘不能となり,フォン・ヒッパー提督は巡洋戦艦部隊を退避させた。
第三次,第四次海戦は死闘となり,イギリス側は巡洋戦艦1隻などを喪失,ドイツ側も前弩級戦艦1隻,巡洋戦艦1隻,巡洋艦3隻などを喪失した。
この海戦ではイギリス側が巡洋戦艦3隻を喪失した一方,ドイツ海軍は旧式戦艦と巡洋戦艦を各1隻ずつ失うに留まり,
戦術的にはドイツ海軍の勝利といえるが,目標としたイギリス海軍からの制海権奪取は失敗したため,戦略的敗北であると言える。
この海戦以後,ドイツ大海艦隊は艦艇の喪失を極端に恐れ,軍港内に閉じこもったまま終戦まで過ごすことになる。
・無制限潜水艦作戦
開戦時にドイツ帝国海軍が保有していた潜水艦はわずかに28隻で,大戦初期の戦果としてはたった1艦で英装甲巡洋艦3隻を撃沈したU-9などがあるが,海軍上層部もその戦力には懐疑的で海軍内部でも日陰の部署とみられていた。
しかし当時の水上艦艇は対潜戦闘能力が低く,一度潜航してしまえば潜水艦の独壇場となり,一方的に魚雷で撃沈することができる。
また潜水艦の非力な火砲では軍艦を撃沈するのは困難だが,非武装の商船ならば武装解除ののち撃沈してしまうこともできる。
しかし戦時法規では,商船を撃沈する際には必ず浮上したうえで警告を与えねばならないとされている。
これでは潜水艦の特性を生かせない。そこで1915年2月,無制限潜水艦作戦が宣言された。
無制限潜水艦作戦とは,商船を撃沈する際に浮上もせず,もちろん警告も与えず発見次第撃沈するというもので,完全な国際法違反である。
5月にはU-ボートによる月間の戦果が10万tを超え,イギリス経済は大打撃を受けたが
潜水艦に対する有効な攻撃手段を持たないイギリス艦艇にはどうすることもできない。イギリスは死滅の危機に瀕した。
同じく5月7日,アメリカ人乗客128名を乗せたイギリス客船ルシタニア号がU-20の攻撃により撃沈されたが,
この事件がアメリカ世論を激昂させてしまい,2年後のアメリカ参戦に繋がったといわれる。
もっともこの時の無制限潜水艦作戦は国際世論の非難が巻き起こったことからいったん中止され,無制限潜水艦作戦を推進した海相ティルピッツは解任された。
第一期の無制限潜水艦作戦は半年間だったが,もしこのまま継続して行われていたならイギリス本土は干上がってしまい,大英帝国は世界大戦の敗者となっていたかもしれない。
再び無制限潜水艦作戦が行われるのは1917年に入ってからで,1917年4月には月間86万tを撃沈するなど,その戦果は大きかった。
しかし数か月後には戦果が下降し始め,英国側が船団護衛を開始,水上艦艇がアスディックや爆雷を装備し始めると今度はU-ボート側の損害が増大するようになったが,無制限潜水艦作戦は終戦まで継続された。
・スカパフロー自沈
4年半に及ぶ大戦争はドイツを苦境に追い込んでいた。
依然として制海権を握るイギリス海軍は常にドイツ近海を封鎖,ドイツの国内産業は機能不全に陥っており,
陸軍も最後の大攻勢であるカイザーシュラハトが失敗し,配色が濃厚となった。
1918年10月3日,ついにドイツは連合国に休戦を打診。
敗戦を前にしてドイツ首脳部は海軍に最後の決戦を命令,自殺的な艦隊決戦へと駆り立てた。
ユトランド沖海戦以降出撃を許されず軍港内に留まっていたドイツ大海艦隊将兵には共産主義と厭戦気分が広がっておりこの命令を拒否。
ヴィルヘルムスハーフェン軍港にてストライキを開始,これがキール軍港にも飛び火して10月29日,ついにドイツ革命が勃発しカイザー・ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命,帝政が倒れた。
新生ドイツ共和国は11月3日,休戦協定に調印。第一次世界大戦はドイツの敗北に終わった。
残存したドイツ艦艇は英国スカパフロー軍港に集められ抑留された。
1919年に入りヴェルサイユ条約が発効,抑留中のドイツ艦艇は戦勝国各国に分配されることになった。
抑留ドイツ艦隊司令官ロイター提督以下将兵は,自らの艦艇たちがかつての敵国に引き渡される屈辱を良しとせず,密かにキングストン弁を開けた。
ここに世界第二位の海軍力を持った,誇り高きドイツ帝国海軍は消滅した。
これからのドイツ海軍はヴェルサイユ条約の重荷を背負い続けなければならない。再起するその日まで。

総力戦研究所
http://www.geocities.jp/totalwar1939/germannavy.html







朝鮮人民共和国

アメリカ軍に認められなかった左右ごちゃ混ぜ統一政権
朝鮮人民共和国
首都:京城(ソウル) 人口:2500万人
1945年8月15日 日本の敗戦により朝鮮人による 建国準備委員会が発足
1945年9月6日 朝鮮人民共和国の建国を宣言
1945年9月8日 米軍が南朝鮮に上陸
1945年9月11日 在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が発足。朝鮮人民共和国を否定し軍政を開始 
1945年10月10日 軍政庁が改めて朝鮮人民共和国にた だちに解散するよう命令
朝鮮全図 日本の植民地時代(1942年)の地図
「朝 鮮人民共和国って、北朝鮮のこと?」
と思えばさにあらず。
北朝鮮は正式名称「朝鮮民主主義人民共和国」で、朝鮮の北半分を領有する左翼政権だが、朝鮮人民 共和国は朝鮮の南北一緒、そして左右一緒の政権だった。
もっとも、世界中どの国からも認められず、アメリカ軍に弾圧されてわずか数日で消滅してしまった。
戦前、朝鮮が日本の植民地だった頃、日本からの独立を求める運動が続いた。しかし朝鮮では日本の官憲に弾圧されたので、海外を拠点とす る組織ができた。
1つは大韓民国臨時政府で、1919年に 朝鮮全土で起きた
「三・一独立運動」
が鎮圧されたのを契機に、上海で設立された亡命政府で、自 由主義者の李承晩(イ・スンマン)が大統領に就いた(※)。
1932年に日本軍が上海を占領すると、蒋介石の国民政府とともに中国各地を転々と移動し、最 終的に重慶に拠点を移した。
※李承晩はアメリカ政府に朝鮮の委任統治を請願したとして 批判され、1925年に失脚。ハワイへ移りアメリカ政府へのロビー活動を続けた。
もう1つは抗日パルチザンで、これも 「三・一独立運動」の鎮圧を契機に、満州やソ連の沿海州を拠点に武力闘争を続けた。パルチザンを率 いたという「伝説の英雄」が金日成(キム・イルソン)だ (※)。
※金日成(本名:金成柱)は1912年生まれだが、抗日パ ルチザンを率いた「金日成将軍」の名は1920年代から知られており、金成柱は「伝説の英雄」金日成の名を襲名したものと 思われる。
さて1945年8月10日、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏することを決めたが、これによって日本は朝鮮の独立を認め なけれ ばならないことになった。そこで朝鮮総督府は8月12日に呂運 亨(ヨ・ウニョン)と接触。行政権を渡すので在留邦人の安全を保障してほしいと打診した。
朝鮮総督府が大韓民国臨時政府や抗日パルチザンと接触せず、呂運亨を交渉相手に選んだのは、当時、満州を占領しつつあったソ連軍がその まま朝鮮全土も占領すると予想されたので、ソ連軍による占領前に朝鮮人に権力を引き渡してしまおうと焦っていたことや、2つの組織は海外で活動していたの で急に連絡が取れなかったこと、抗日パルチザンは八路軍(中国共産党軍)とともに日本軍と長年戦闘を続け、臨時政府も米軍の特殊訓練を受けながら日本に宣 戦布告していたが、朝鮮で憲兵隊に睨まれながらも政治・文化活動を続けていた呂運亨なら、朝鮮総督府と協調しながら「平和的」な権力移譲が望めそうだった こ と・・・などの背景があるようだ。
呂運亨は1886年生まれで、1914年に中国へ亡命し、大韓民国臨時政府が樹立されると外務次官に就任したが、帝政ロシアが中国に 持っていた租界や利権をソ連が中国へ返還したのを見て共産主義運動に共鳴。23年に臨時政府を離れてソ連に渡り、レーニンと会見(※)、その後上海のタ ス通信社(ソ連国営の通信社)で働いた。
※レーニンは呂に「朝鮮では共産主義運動ではなく、民族主 義運動に力を注ぐべきだ」とアドバイスし、呂はそれに従ったという。
しかし27年に蒋介石が反共クーデターを起こし、上海で白色テロが吹き荒れると、呂運亨は朝鮮に戻り、「民族主義運動の高揚は、まず言 論とスポーツから」と朝鮮中央日報の社長や朝鮮体育会の会長に就任した(※)。
※1936年のベルリン五輪で、「日本代表」として出場し たマラソン選手の孫基禎(ソン・ギジョン)が金メダルを獲得した際、朝鮮中 央日報は東亜日報とともに孫のシャツに描かれた日の丸を抹消した写真を掲載して廃刊となった。
そして太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった44年8月、呂運亨は「朝鮮独立の日は近い」と建国同盟を結成していた。
「占領軍はソ連じゃなくてアメリカ!」で態度を 変えた総督府
総督府との交渉結果を民衆に報告する呂運亨(8月16日)
さて1945年8月15日、呂運亨は再び朝鮮総 督府に招かれ、政務総監の遠藤柳作は治安維持に対する協力を要請。
呂は
(1)政治犯の釈放、
(2)京城(現:ソウル)の食糧の3ヵ月分確保、
(3)治安維 持活動への不干渉、
(4)青年・学生の訓練への不干渉、
(5)労働者・農民の組織への不干渉
など5項目の条件を出して了承し、その日のうちに建国同盟をも とに朝鮮建国準備委員会(建準)を発足させた。
同時に治安隊 を組織して警察署の接収に乗り出した。
建準の支部と治安隊は数日のうちに朝鮮各地で結成されていった(※)。
※呂運亨は民衆に日本への 報復を控えるよう自制を呼びかけ、混乱にもかかわらず日本人に対する暴行事件は少なかった。
建準は朝鮮総督府から行政機能を引き継ぐつもりだったが、朝鮮総督府は18日に米軍から
「38度線以南はアメリカ軍が占領する」
と通告 を受けると態度を一変。
行政権の移譲を拒んだうえに、建準の解散も命じた(※)
※これには建準が猛烈に抗議して2日後に撤回。
また建準内部でもゴタゴタが続いた。委員長に就任した中道左派の呂運亨は「左右合同による統一政権」を目指して、幅広い有力者に結集を 呼び掛けたが、副委員長に迎えようとした右派の宋鎮禹(ソン・ジヌ=東亜日報元社長)は、「朝鮮総督府と勝手に交渉して政権を作ったら、日帝の傀儡だと非 難される」「大韓民国臨時政府の承認を待つべきだ」と主張して参加せず、安在鴻(アン・ジェホン=朝鮮日報元副社長)が副委員長に就任したが、左派の勢力 が強まると保守派との提携を主張した安も離脱。宋鎮禹は韓国民主党を結成し、安在鴻は韓国独立党を結成して、建準を批判し始めた。
呂運亨もテロリストに狙 われて姿を隠さざるを得なくなり、建準内部ではまずます左派の力が強まり、副委員長には許憲(ホ・ホン)が就いた(※)。
※明治大学を卒業した弁護士で、「三・一独立運動」で逮捕 者らを弁護。25年には朝鮮共産党の結成に参画した。
一方、各地の建準支部でも、当初は日本統治下で議員などに任命された有力者や資本家、民族主義者、共産主義者らが集まっていたが、やが て治安隊を掌握した左派の力が強まると、保守派は離脱して韓国民主党などに加わっていった。
アメリカ軍が上陸する前に「豪華メンバー」で独 立宣言したが・・・
左右の大同団結が崩れ、総督府から行政権を引き渡されなかった建準だが、9月6日に全国人民代表大会を開き、朝鮮人民共和国の建国を宣言した。これは9月に入って米軍の飛行機が飛 来し、「近日中に上陸」「布告及び諸命令は現存する官庁(=朝鮮総督府)を通じて発布する」というビラをまいたため、米軍がやって来る前に政府を樹立し、 朝鮮人の団結と自治能力をアピールしようというのが狙いだった。
発表された朝鮮人民共和国の閣僚名簿は、
大統領に李承晩、
副大統領は呂運亨、
国務総理(首相)が許憲、
内務部長(内相)は金九(=臨時 政府大統領)、
外交部長(外相)に金奎植(=臨時政府副大統領)、
財務部長(財相)は曺晩 植(「朝鮮のガンジー」と呼ばれた朝鮮北部のキリスト教民族主義者)
で、55人選出された人民委員には金日成も含まれるなど、大韓民国臨時 政府から抗日パルチザンまで国内外の左右両派を網羅したそうそうたるメンバーだったが、実際には李承晩や金日成、臨時政府の関係者など大部分のメンバーはまだ海外にいて、本人の承諾なしに勝手に閣僚名簿に載せられていた のだった。 
もっとも、呂運亨と許憲を除いてはいずれも 本人の承諾なし。
同時に
(1)朝鮮の自主独立、
(2)反帝反封建の民主主義実現、
(3)民衆の生活向上、
(4)国際平和共存
という政綱4原則と、日帝や 民族反逆者の土地没収と農民への無償分配、諸企業の没収と国有化という施政方針を発表したが、これらは呂運亨と許憲、朴憲永(パク・ホニョン=朝鮮共産党 再建派の指導者)がまとめたもので左派色が強く、反発した宋鎮禹ら右派は翌7日、国民大会召集準備会を開いて
「大韓民国臨時政府が唯一の存在である」
と宣 言。
呂運亨を「血を流さずに政権を奪取しようとする野望を抱いて乗り出した、日帝の走狗」と非難した。
9月8日に米軍が仁川港に上陸すると、呂運 亨は米駐留軍司令官のホッジ中将に面会を申し入れたが、「日本の手先」だと拒否され、「朝鮮独立を助けてくれた米軍を歓迎しよう」と集まった建準治安隊や 労働者は、警備していた日本軍に発砲されて死傷者が出る事態になった。
朝鮮総督府を接収した米軍は、9月11日に軍政庁を発足させて「軍政庁が南朝鮮(38度線以南)における唯一の政府である」という布 告を発表。朝鮮人民共和国は政府としての実態がないまま存在も否定された。
ポツダム宣言で朝鮮の独立を日本に求めたはずのアメリカが、なぜ朝鮮人民共和国を認めなかったかと言うと、独立を認める政府はあくまで 連合国の主導の下で作られるべきであって、降伏した日本の総督府と勝手に交渉して作った政府など、認めるはずはないから。そしてポツダム宣言に先立つヤル タ会談 はで、米英ソが「朝鮮は信託統治を経てから独立させる」と決めていたのだ。
こうして朝鮮人民共和国と建準はアメリカ軍の弾圧を受けるようになった。朝鮮人民共和国は「来年3月に総選挙を実施して、独立しよ う!」と呼びかけていたが、米軍政庁は10月10日「総選挙は軍政庁に対する最も重大な干渉であり、公然たる敵対行為である」という声明を発表し、朝鮮人 民共和国の解散を改めて命じた。建準は再び「建国同盟」を名を変え、各地の建準支部は「人民委員会」と改称して活動を続けた。地方では人民委員会が自治を 行い、治安隊が日本の敗戦で崩壊した警察に代わって治安維持を担っていたが、10月から11月にかけて米軍は南朝鮮各地に進駐して軍政庁を樹立。日本時代 に官僚や警官だった朝鮮人を再登用していった。呂運亨を当初「日本の手先」と警戒していた米軍は、や がて「容共主義者」とみなすようになっていた。
呂運亨は海外にいる李承晩や臨時政府関係者らが朝鮮人民共和国に加わってくれることを期待していた。しかし、 10月16日にアメリカから米軍機で帰国した李承晩は、米軍政庁への協力と「反共統一」を訴えて朝鮮人民共和国を非難。自らが中心となって新たに独立促成 中央協議会を結成し、総裁に就任した。一方で、11月下旬から12月にかけて中国から帰国した臨時政府の関係者らも朝鮮人民共和国を無視し、「大韓民国臨 時政府こそが政府の役割を担う正統組織」だと主張した。
李承晩にしても臨時政府の関係者にしても、終戦まで海外を拠点に独立を掲げて闘い続けた自負があり、呂運亨たちは「終戦のドサクサで朝 鮮総督府と手を結び、血を流さずに独立の主導権を握ろうとした連中」と映った。朝鮮人民共和国に合流することはプライドが許さなかったのだろう。
一方、38度線以北を占領したソ連軍は、8月下旬に38度線を跨ぐ交通や通信を遮断した。朝鮮北部の建準支部は曺晩植を中心に北朝鮮五道人民委員会連絡会議を結成し、朝鮮共産党と協力しながらソ連 軍から行政権を移譲されていたが、10月にソ連から金日成が帰国し、民衆から熱狂的に歓迎されると、主導権は金日成の手に移って行った。
南北統一による即時独立が不可能になった呂運亨は、軍政下で政治活動を行う道を選び、11月に朝鮮人民党を結成した。しかし地方では人 民委員会による自治活動が続いていた地域もあり、米軍政庁は12月12日に改めて朝鮮人民共和国は不法だと宣言。「「『政府』として行動を企てるような 組織の活動は違法行為となる」として、人民委員会を非合法化した。
呂運亨はUP通信のインタビューに対して、「アメリカが軍政府を樹立すると知っていれば、人民共和国を創設するようなことはしなかった だろう」と述べたという。
植民地から解放されたのに、混乱の中で命を落と した「英雄」たち
その後、朝鮮ではヤルタ会談による信託統治案が明るみになり、各政治勢力は賛成と反対に分かれて争い、左右合同や南北統一をめぐる動きも、李承晩派や金九 ら臨時政府派、韓国民主党、朝鮮人民党、朴憲永や許憲らが結成した南朝鮮労働党などが入り乱れて激しい抗争が続いた。呂運亨は46年7月から再び左右合作 運動に取り組み、米軍政庁の支援を取り付けて南朝鮮過渡立法議会を 創設したが、1947年に入ると右派の韓国民主党と左派の南朝鮮労働党が離脱して頓挫した。
結局、朝鮮の独立は南側が1948年8月に大韓民国として独立し、李承晩が大統領に就任。北側は翌9月に朝鮮民主主義人民共和国として独立し、金日成が首相に就任した。
朝鮮人民共和国の閣僚に名を連ねた主要メンバーのうち、許憲は北朝鮮へ移り最高人民会議の議長に就任したが、朝鮮戦争最中の51年に病死。
金九は李承晩に とって最大の政治的ライバルと目されたが49年に暗殺され、金奎植は朝鮮戦争中に北へ連行され病死、曺晩植は信託統治案に反対したことで45年末に金日成と対立して軟禁され朝鮮戦争中に殺害された。また、宋 鎮禹は45年末にテロで殺され、安在鴻は朝鮮戦争中に北へ拉致され65年に死亡、
朴憲永は南朝鮮労働党を率いて北朝鮮へ渡り金日成の最大のライバルになっ たが53年に失脚し、「朝鮮戦争を失敗させた米帝のスパイ」として55年に処刑された。
呂運亨も47年7月に右翼のテロで暗殺された。
しかし、左右合同と南北統一に最後まで情熱を傾けた人物として、今日の韓国と北朝鮮の双方で高い評価を受け ている数少ない存在だ。

世界飛び地領土研究会
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/korearepublic.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/index.html







上海の大韓民国臨時政府

満州の抗日パルチザン

呂運亨

米軍を歓迎するため仁川へ出迎 えた朝鮮人民共和国の支持者たち







李承晩大統領
呂運亨副大統領
許憲首相
金九内相
金日成
曹晩植財相





参考資料:
パク・チョルギュ 馬淵貞利訳 「朝鮮解放直後の社会運動"慶尚南道馬山地域を中心にして"」『東京学芸大 学紀要第3部門第55集』 (東京学芸大学 2004)
ラテンアメリカの政治 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/
ナルゲ http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/index.html
wikipedia   http://ko.wikipedia.org/

世界飛び地領土研究会
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/korearepublic.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/index.html







妄想の衝突
2019年09月12日 (木) 18:17
カテゴリ : 未分類
韓国人が1950年代以降、受け続けている歴史教育を概括的にいうと、
【李朝以降、朝鮮には「大韓帝国」という立派な独立国家があって、善政が敷かれ、国民は豊かな生活を謳歌していた。その素晴らしい国に、19世紀末に、突然、日本人がやってきて軍事力で朝鮮を占領し、文明を破壊し、資源を略奪し、植民地に変えた結果、朝鮮民衆は、幸せな生活を壊され、日本人の奴隷としての塗炭の苦しみに追い込まれた。朝鮮は、古代から優れた民族で、文化的にも高く、日本人に文字をはじめ文明を授けた。】というところで、こうした歴史観を、5歳くらいから、「パブロフの犬」のように、繰り返し繰り返し、教育によって洗脳され続けるのである。これでは、半数以上の韓国人が、「日本を懲らしめる」と、反日姿勢に凝り固まるのも当然だろう。
https://news.livedoor.com/article/detail/12846317/
https://ncode.syosetu.com/n4357cw/73/
実際のところは、どうか?
日清戦争の勝利を受けた下関条約で、それまで清の冊封体制隷属国であったのを、日本の介入によって独立させたのが大韓帝国で、李氏の血統を残して、日本皇室の血を入れるため、梨本宮方子が李垠=李朝27代=大韓帝国初代に政治的に嫁がされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%B9%E5%AD%90
18世紀の韓国は、ソウルでさえ、トイレのない家が大半で、道端がトイレ代わりになり悪臭に満ちていた。つまり、公共インフラらしき道路も上下水道もほぼ存在しなかった。およそ、文明国とはいえない現状はイザベラ・バードの探訪記にも詳しく書かれている。
https://www.youtube.com/watch?v=iWk3YmWQL5w
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B4%80%E8%A1%8C
為政者の両班階級は、とても残酷が好きで、激しい階級差別と奴隷制度があった。両班と手先は底辺の民衆を捕らえては拷問にかけ殺害したり強姦したりが日常茶飯だった。
https://hinode.8718.jp/photo_korea_torture.html
李朝は、見栄ばかりで無能な官僚によって自滅し、欧米が植民地にするために虎視眈々と侵攻を準備している現実を知り、日本政府は慌てて朝鮮を自国領とする工作を開始した。それまで、文明らしい文明の存在しなかった朝鮮社会に、短期間で近代文明のインフラを構築し、李朝下の奴隷制度や、「試し腹」といわれる近親相姦を禁止した。
https://leisurego.jp/archives/236281
日本が朝鮮社会を近代化したのは紛れもない事実である。その結果、わずか30年で、ソウルは見違えるような近代都市になり、世界のあらゆる文明都市と比肩しても見劣りしないまでになった。
https://www.youtube.com/watch?v=RMe07oF02Fg
https://www.youtube.com/watch?v=iWk3YmWQL5w
20世紀初頭、大韓帝国には小学校が40校しかなかったが、1940年代には1000校を超えている。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi02.htm
この結果、大半の朝鮮人は、日本人に対して、台湾と同様に、近代文明をもたらした日本に対し、強い好感を抱いていて、反日思想はほとんど存在しなかったともいえる。この時代、1920~30年代は、朝鮮の被差別下層大衆にとっては、日本社会は憧れの別天地であり、賃金が日本人の半分であっても、年間5万人もの人々が我先に日本に移住しようとした。徴用工・慰安婦問題には、こうした背景がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E5%BE%B4%E7%94%A8
しかし、日本が世界を相手に第二次世界大戦に突入すると、様相が一変し、1944年からは、徴兵代替としての強制徴用が開始される。戦争中の朝鮮民衆に対する扱いは、日本人でさえ450万人もの犠牲者が出たことから類推できよう。日本人は一等国民、朝鮮・台湾人は二等国民と区分され、日本人は生活を追い詰められるほどに朝鮮人を敵視し、友好的な姿勢を失っていった。こうした差別姿勢は、私の子供時代、1950・60年代ですら「チョンコロ・チャンコロ」などの差別用語が残るほど顕著であった。
すでに何度か書いたが、在日者は激しく差別され、まともな就職口はなく、唯一、プロスポーツ、芸能界、土建業界、ヤクザ社会、博打や歓楽街などの享楽業種のみに従事するしか生きてゆく手段がなかった。日本社会を熱狂させた、戦後、芸能界、プロスポーツ界のスーパースターの大半が在日者であった。力道山(金信洛)はもちろんだが、月光仮面のモデルも、原作者によれば大山倍達(崔永宜)だったそうだ。芸能界に至っては、今でも圧倒的な在日者の世界である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
当時の朝鮮・韓国人に対する差別の風潮を、私は、大阪西成区に類似した名古屋市中村区で、幼い頃から見聞きし続けた。同級生にはパチンコ産業開拓者であった正村の娘がいたし、歓楽街の頂点だった大門という赤線地帯を支配していたのは、大半が在日系ヤクザであり、同級生にも必ずたくさんの在日者がいた。彼らが、一様に在日者特有の差別を受けていた事実を私は目撃し続けた。だから、事情を知らない軽薄なネトウヨが、「在日差別は存在しなかった」などと主張するのには、怒りと軽蔑以外の印象はない。
だが、韓国本土の日本敵視は、李承晩時代から激しさを増した。それは、おそらく、戦時中の強制徴用労働者に対する人権無視の奴隷扱いに対する怒りが根底にあったのは間違いない。
日本人が韓国人と同等の待遇だったというのは、真っ赤なウソである。それは、例えば松代の天皇防空壕問題や雨竜ダム問題、など全国各地で、朝鮮人に対する虐待や虐殺があり、私の若い頃は、それを直接目撃した人もたくさん生きていて、証言している。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/23704/20170503/matsushiro-daihonei.htm
https://toyokeizai.net/articles/-/185509
http://eigyou.korea-np.co.jp/j-2008/06/0806j0121-00001.htm
https://johonage.exblog.jp/13655715/
これほどの国ぐるみの憎悪を引き起こすほど、戦時中の朝鮮人に対する扱いは苛酷だった。
「日本人と同等だった」と主張する者は、「日本人は偉大な民族だ」と勘違いしているネトウヨばかりで、実態をカケラも知らない者ばかりである。だいたい、今でもネトウヨが「チョン」という蔑称を多用している現実から歴史に向き合ってみたらいい。
しかし、一方で、韓国人による大韓民国発足後の歴史歪曲も甚だしいものがある。冒頭に紹介したように、「大韓帝国は素晴らしい国で、文化も高く人々が幸福な生活を送っていたのを日本人がやってきて、ぶち壊した」という主張も、ひどいウソであることは、上の方にリンクしたイザベラバードの紀行文を見れば一目瞭然だ
李朝も大韓帝国も文化的に極めて素養の高い国で、日本人に文明を教えた。古代でも、百済は王仁という博士を日本に派遣し、言語や、あらゆる文化を教授した。 https://www.shoai.ne.jp/hirakata-s/minwa/f151001/f151001.html
出口王仁三郎が名前を取った王仁博士というのは、実在の真偽は不明であるが、これは日本書紀に記録されている弓月氏らのことを指すのだろう。現実には、王仁博士が実在したとしても、百済人であるとするなら、それは韓国人の先祖ではない。むしろ、天皇家=騎馬民族の先祖であり、女真族である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B
すでに、このことは何度も書いているが、現在の韓国人の先祖は、DNA検証によって、濊族=エベンキ族であることが明らかにされているが、この研究成果を韓国人学者が公開してから数日以内に、あらゆる文献から、このことが削除されてしまった。韓国は、自分たちを彩る空想小説に合致しない歴史的事実は、たちまち隠蔽し尽くすのである。あくまでも、自分たちを讃美し続ける夢の世界に住み続けたいのだ。
https://kirari-media.net/posts/184
http://check.weblog.to/archives/4051080.html
夢の世界に生きる「夢追い人」が韓国人の本質なのである。しかし、それを日本人が批判できるだろうか? 否!日本人もまた、優越的空想・妄想に酔い痴れ、ナルシズムに夢中になってきた。だからこそ、妄想どうしの衝突が起こり、日韓対立が生まれるのである。そもそも、平泉澄東大史学部教授が作り出したといわれる皇国史観は、優越妄想に満ちた虚構にすぎない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A6%B3
そもそも、万世一系、2600余年前に高千穂に降臨したという日本武尊なんて存在は、漫画の世界だけに存在する虚構であることは誰でも分かるはずなのに、本気で信じている人がいまだにいる。
私の推理では、2600年前に呉越戦争があり、呉国が破れ、当時の戦争の掟では、敗戦国住民は生き埋め(坑刑)で皆殺しにされることが多かったので、水郷地帯(蘇州)にいた呉人は、大量の船で日本や朝鮮南岸に移住したと考えるべきである。これは中国の史書にも、たくさん掲載されている歴史的事実である。
中国では早くから、日本は太伯の末裔だとする説があり、たとえば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝、『梁書』東夷伝などには、倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とある。同様の記述は南宋の『通鑑前編』、李氏朝鮮の『海東諸国紀』や『日東壮遊歌』等にもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2
つまり、呉は国ぐるみ敗戦により、船で移住し、一部は朝鮮南岸へ、多くは九州北岸や有明海に上陸し、弥生人国家を作り、やがて邪馬台国が生み出された。それから、ヤマト国・倭国(朝鮮南岸を含む)の800年くらいの歴史を経て、こんどはAD300年くらいから、百済が国ぐるみで日本列島に移住し、高句麗・百済由来の女真族=騎馬民族が大量に日本列島西部に流入し、江上波夫が明らかにしたように、ヤマト王朝を簒奪したと私は考える。反江上説については、DNA解析上の証拠が出されているが、私は信用できないでいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC
理由は、江上説を誹謗する学者の多くが、皇国史観系の影響を受けている人物ばかりだからである。そもそも、皇国史観=平泉澄の本質は、「豚に歴史がありますか?」なのだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-827.html
つまり、神武以来の万世一系伝説を壊す江上波夫説に対する敵意が満ちていて、DNA解析を根拠にしていても、いくらでも突っ込みどころがあり、民族学・民俗学と完全に矛盾する論理を見せているし、弥生人を蘇州由来でなく、朝鮮人とするようなトンチンカンな学説もあり、私には信用に値するものではない。私に言わせれば、皇国史観もまた、朝鮮・韓国人の「偉大な大韓帝国」とよく似た夢想・妄想にすぎない。どちらも、現実を無視した夢追い人であるから、夢同士が齟齬を起こし、矛盾の連続で不協和音を奏でている。
そもそも、民俗学をきちんと学んだ者なら、天皇が切れ長の目、一重瞼で、感想耳垢で、すらりとしていて、と知るだけで、ツングース由来とピンとくるものだ。由緒正しき皇族で二重瞼がいるか? つまり彼らは源平藤橘の末裔だからだ。目の大きな二重瞼の小柄で小太りな体型を見ただけで、これこそ弥生人と理解できるのであり、彼らこそ、日本に稲作を持ち込んだ救世主だった。だからこそ、天皇が高句麗由来の騎馬民族末裔であることなど一目瞭然なのである。こんな基礎的な民俗・民族検証も無視して、何が皇国史観だ、笑わせるな!そもそも、いずれも、人間は「ただの人」であるという究極の本質的な現実認識からかけ離れ、雲間を泳ぐ殿上人であるかのような勘違いの妄想から抜け出せないでいるのだ。
「この世には、地球と人しかいない」
という現実を直視できず、「偉大な大韓国」とか、「偉大な皇国日本」とかの現実には存在しえない軽薄な妄想に酔いしれているのだ。その意味では、「偉大なアメリカ」を連発するトランプも同じ穴の狢である。我々は、地球と人しかいない現実の上に論理を組み立てなければならない。イムジン河の上を飛び交う鳥も、魚も、獣も、国境など何の関係もない。実は人も関係ないのだという現実を認識することが、日韓共和の第一歩であり、妄想の夢から覚めて、惨めな弱い人間である価値観を共有することこそが、日韓問題解決の第一歩である。
 
東海アマブログ
http://tokaiama.blog69.fc2.com