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朝鮮戦争

「朝鮮戦争と日本共産党軍」
2016/8/17(水) 午後 11:58 日記 日本史
「ねずさんのひとりごと」より
「朝鮮戦争と日本共産党軍」
朝鮮戦争といえば、北朝鮮と韓国の戦争であることは、誰もが知っていることです。
実は、この戦争に、ある政党が日本の「軍」として参戦していた、と申上げたら、みなさんは驚かれるでしょうか。
朝鮮戦争では、南朝鮮側の軍は、「韓国軍、米軍、国連軍」によって構成されていました。
一方、北朝鮮側の軍は、
「北朝鮮人民軍、中共人民義勇軍(のべ300万人)、ソ連軍」そして、日本共産党軍
が、これに参戦していたのです。
はじめに簡単に朝鮮戦争を振り返ると、昭和25年6月25日に、北朝鮮人民軍が、突然38度線を超えて、韓国側に侵攻しました。
当初、ソ連製のT型戦車を中核とする北朝鮮人民軍は、まさに無敵で、破竹の勢いで朝鮮半島を征圧していきました。
なにせ機関銃も迫撃砲もバズーカ砲も、頑丈なT型戦車の前には、まるで歯がたたない。
ソウルの南にある水原に逃げ落ちた韓国軍のもとに、当時GHQの総司令官として東京にいたマッカーサーが視察に訪問します。
そして7月には、マッカーサーは574人からなる米軍先遣隊を韓国に派遣し、米軍は同月4日午後には、水原南方の烏山近くの高地に進出します。
5日の朝7時30分、そこに北朝鮮の戦車隊が南下してくる。
8時16分、戦闘開始。
午後2時30分、米軍は150人が死亡し、持って行っていた砲門の全部を遺棄して敗退しています。
この後、国連決議に基づく国連軍も参戦するのですが、韓国軍、米軍、国連軍とも北朝鮮軍に歯がたたず、後退に継ぐ後退となり、ついに朝鮮半島南端の釜山にまで、全軍が追いつめられてしまいます。
朝鮮半島は、戦前は日本でした。
ですから朝鮮半島に住む朝鮮人で、旧陸軍士官学校を出た立派な将校もたくさんいたし、旧日本軍に志願し、勇敢に戦う兵士も数多くいました。
にもかからわず、北朝鮮にここまで追いつめられた背景には、当時の韓国大統領の李承晩が、とにもかくにも日本が嫌いで、旧日本軍所属経験のある軍人に、まるで権限を与えなかったことがあります。
ところがさすがに釜山港まで追いつめられ、あと一歩で釜山港から海に押し出されてしまうというところまできたとき、さしもの日本嫌いの李承晩も、能書きを言ってられなくなります。
そして釜山においてはじめて、日本の陸士出身の将校に、戦いの全権を委ねるのです。
このときになってようやく権限を与えられた金錫源将軍は、旧日本兵だけを集め、北朝鮮軍と果敢に戦います。
そして逃げるとみせて北の戦車隊を海岸線におびき出し、そこを米海軍の戦艦から、艦砲射撃させたのです。
いくら無敵のT型戦車とはいえ、戦艦の持つフタ抱えもあるような巨大な砲弾の前には、ひとたまりもありません。
これによって、釜山にいた北朝鮮の戦車隊は壊滅、その余勢をかって、南軍は、敵戦車部隊を海岸線におびきだしては叩くという戦法を使って、いっきに戦線を盛り返します。
9月には米軍が仁川に上陸、10月には韓、米、国連軍は、38度線を超え、いっきに平壌を目指します。
戦地が、北の敵地に移れば、活躍するのが米国のB29です。
日本を焼土にした空の要塞B29は、北朝鮮軍の戦車部隊のいるエリアを、上空からナパーム弾で焼き払い、その熱で戦車内の兵士を焼き殺すという戦法で、さかんに戦果をあげます。
これに危機感をもった北の金日成は、ソ連になんとかしてくれと泣きついた。
そこでソ連がB29対策に動員したのが、ソ連製のジェット戦闘機ミグです。
B29は、プロペラ機の空の要塞です。高高度で飛来し、上空から猛烈な爆弾の雨を降らせる。
当時のプロペラエンジンの戦闘機には、B29の高度に到達できる飛行機がなかったから、B29は無敵の要塞だったのです。
ところがジェット戦闘機のミグは、B29などよりもはるかに上空に達することができます。
しかも速度がめちゃくちゃ速い。
結果、ミグ戦闘機の前に、B29は、ただの大きな空の標的でしかなくなります。
飛んでいるB29が次々に撃ち落とされる。
これに対抗するために、米軍はF-84やロッキードF-80、F9F、英国軍はグロスター ミーティアなどを投下するのですが、これによって世界初のジェット戦闘機同士のドッグファイトが行われたのも、実は朝鮮戦争です。
この朝鮮戦争では、南北合わせて500万人が死亡しています。
大東亜の戦いにおける戦没者が310万人ですから、いかにこの戦いが凄惨なものであったかがわかります。
米軍兵士も14万人が死傷しています。
そもそも米国民にしてみれば、第二次世界大戦で「戦争は終わった」はずだったのです。
ところが、終わったと思ったら、こんどは朝鮮半島でまたドンパチはじまってしまった。
米国内には、非常に高い反戦運動が起こります。
米国にしてみれば、そもそも黄色い猿同士の戦争なのです。
猿の戦争に、なんで米国民の命が犠牲にならなければならないのか。
そんなもの、日本に戦わせれば良いではないか。
困った米政府は、日本国内で、いったん解散した陸海軍を、再び復活させようとします。
ところが米国が起草して日本が受け入れた占領統治憲法は、九条で戦争も軍も否定している。
そこで折衷案として、朝鮮戦争参戦を企図して組織されたのが警察予備隊、後の自衛隊です。
警察予備隊が組成されたのは、昭和25年8月10日のことです。
朝鮮戦争への米軍の参戦が同年7月のことですから、時期を見ればその目的は明らかなことです。
ただし、占領軍が、現地の人々に兵役を課し、他国への戦争に駆り出すというのは、中世の侵略軍ではあるまいし、いくらなんでも外聞が悪い。
そこで昭和26年には、日本との講和、つまり日本との戦争状態の終結が提案され、昭和27年にはこの講和条約が発効して、日本は主権を回復します。
ところが、当時の日本の首相の吉田茂は、GHQによって課せられた日本国憲法を盾にとり、言を左右にして、朝鮮半島への参戦を拒みます。
結果、日本は、昭和27年になっても、朝鮮戦争には出兵しないことが明らかになる。
であれば、米国としても、これ以上、朝鮮半島で戦争を継続する意味がないし、これ以上、米国民を死なせるわけにはいかない、ということで、米国が韓国を出し抜いて、昭和28年7月27日に、勝手に休戦協定を成立させてしまった。
この頃の戦場は、完全に北朝鮮の国土内です。それを米国は、開戦時の38度線まで譲歩までして、休戦協定を急いだわけです。
ですから北朝鮮と韓国は、いまだに戦争状態にあります。
これが朝鮮戦争の概略です。
さて、この朝鮮戦争において、当時、GHQによって占領されていた日本は、後方基地として使用されていました。
さしものミグ戦闘機も、米軍の守りが固くて、日本にまで空爆をすることができなかった。
けれど北が戦いを有利に進めるためには、後方基地である日本をなんとかしなければなりません。
そこで、北の後ろ盾になっているソ連共産党は、現金による資金援助として、当時のお金で55万ドル、いまの相場でいえば324億円もの大金を、戦費として日本共産党「軍」に与えています。
これは、昭和26(1956)年の援助が10万ドル、ラストボロフから大村英之助氏に手渡されたのが45万ドルという大金です。
それだけではありません。
支那共産党も、北京機関から10億円、党学校から100億円、自由日本放送から5億円、人民艦隊経由で2億円、合わせて117億円もの戦費を、日本共産党に与えています。
また支那共産党は、これとは別に279億円の戦費を日本共産党に支給したといわれています。
こうした資金援助を受けながら、日本共産党は党員からいまのお金にして25億円のカンパ、トラック部隊による強盗で799億円、あわせて824億円の現金を集めています
つまり当時の日本共産党は、共産主義諸国の手先の「軍」となり、自力調達824億円、ソ連からの援助金396億円、支那からの援助金396億円、合計で1616億円もの戦費を、朝鮮戦争当時の日本国内における内部攪乱工作資金を集めていたわけです。
こういう巨額の資金が、大卒の初任給が、まだ数千円だった時代に動いていたわけです。
そして集めた資金の使途ですが、
1 武器購入、製造、使用、保管のために数千万円
2 中核派、独立遊撃隊、祖防隊兵士1万人の人件費として800億円
3 地下の非合法アジトや合法的事務所の設置費用として数十億円
4 非合法機関誌、パンフの出版、印刷、配布費用として十数億円
5 海上航路封鎖のための人民艦隊船舶15隻の確保と数千人の朝鮮人密航者の援助金として数百億円
6 北京機関の維持運営費として10億円
7 北京機関、党学校の維持運営費に100億円
8 自由日本放送局の開設と運営費に5億円
あわせて、千数百億円が費消されたといわれています。
要するに、朝鮮戦争に際して、背後から北朝鮮を援助し、また日本国内を攪乱させ、さらに朝鮮人を密航者を日本国内に呼び込み、後の在日朝鮮人問題の原因をつくる、そのための資金が、ソ連や中共政府、そして日本共産党員のカンパによって集められ、使われていた、というわけです。
要するに、いまある在日朝鮮人問題も、もとをたどせば、韓国からの大量の難民を意図的に呼びこみ、日本に引き入れ、日本に定着させた、もっというなら、莫大な費用をかけて手引きした日本国内勢力があったわけで、それが日本共産党であったわけです。
そしてこの問題は、単に朝鮮戦争当時だけの問題に限らず、その後も、そして現在にいたるも、水面下で、なかば堂々と、外国勢力からの不法な資金援助が、国内の反日勢力に大量に与えられているという事実も想起させます。
つまり、巨額の反日工作資金ないし日本解体工作資金が、日本国内にいる反日勢力に流れ込んでいるということです。
現実問題として、原発反対デモなど、数千人から万単位の人が国会議事堂を取り囲みますが、そこに集ったプロ市民たちの日当は一日1万円といわれています。
1万人に1万円を渡したら、それだけで1億円です。
他に、お揃いのTシャツやたすき、ビラなどを取り揃える経費、そしてそんなデモが毎週のように繰り返される。
資金はいったいどこから出ているのでしょうか。
広島や長崎での終戦記念日には、同市内のホテルは、すべて全国から集まるプロ市民たちによって満室になります。
その経費は、いったいどこから出ているのでしょうか。
あるいは沖縄のオスプレイ反対デモ、あるいは普天間移設に関するデモ、座り込みをするプロ市民たちは、仕事もしないで、いったいどこから収入を得ているのでしょうか。
そして、大手新聞社という肩書きを持ちながら、肝心の新聞そのものは大赤字でろくに売れてもいないのに、なぜか日本一といっていい高給が支給されている会社は、いったいどこから収入を得ているのでしょうか。
要するに、そうした諸々の活動の裏では、我々一般庶民には想像もつかないような巨額の資金が動いているということです。
そしてそういう黒い資金によって、メディアが占拠され、地方自治体の選挙や、国政選挙においても、黒い資金によって、膨大な票が買われている。
そしてその黒い資金に群がる人々がいる。
それがいまの日本であるということです。
これに対し、保守系の活動家は、みんな手弁当で、ひたすら自己の正義感、使命感だけで行動しています。
しかし、こうした外国や国内の売国勢力による巨費を投じた工作が現実のものである以上、国政が、ただこうした動きに手をこまねいて、何もしないということで本当によいのでしょうか。
いま、日本は大きな岐路に立っているのではないでしょうか。
※朝鮮戦争に関する日本共産党軍の戦費に関する資料は、昨日ご紹介した春日部市議井上えいじ氏にいただいた資料をもとに記載させていただきました。

プレシャンブルーの風に抱かれて
https://blogs.yahoo.co.jp/mappyhappy713








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馬渕睦夫: 朝鮮戦争はアメリカが種をまきソ連が協力した戦争だった
2020-01-08
国際情勢の大変動を見抜く!-46~朝鮮戦争はアメリカが種をまきソ連が協力した戦争だった~
戦後の戦争・紛争はほぼアメリカ・ネオコン(+CIA)が主導している。背後には当然金貸しがいる。朝鮮戦争も同様で、ソ連も協力しているとのこと。十字軍の時代から戦争は極力長期化させる方向に誘導するのが金貸しの常套手段。
そのためには情報操作が肝になる。
太平洋戦争でも日本は勝機に関わるスパイからの情報を4度も無視し、わざわざ負け戦としてしまった。真珠湾攻撃もアメリカ演出の悪役として活躍した。(金貸し勢力のスパイの証言(11)~日本の勝利は確実だっだ~)
朝鮮戦争ではマッカーサーの正攻法の作戦は悉く上層部から潰され、遂には解任となった。さらに、朝鮮戦争のアメリカの作戦は双方へ筒抜けで、これはアメリカに勝敗を決する意思がないことを物語っている。かつて日本とも繋がりの深いベラスコは言った「戦争はゲームだ。」と、まさしくその通りだと思う。
『知ってはいけない現代史の正体』
(馬渕睦夫 著)
からの紹介です。
*************************************
■1950年朝鮮戦争の勃発
◇通説:北朝鮮軍が南北統一を目指して南へ侵攻、国連はこれを侵略と認定した。
◇歴史の真相:朝鮮戦争はアメリカが種をまきソ連が協力した戦争だった。
アチソン演説とスターリンの国連軍賛同
朝鮮戦争は矛盾に満ちた戦争でした。契機となったのは1950年1月12日の、当時トルーマン政権の国務長官だったディーン・アチソンの演説です。アチソンは「アメリカのアジア地域の防衛線に南朝鮮を含めない」と明言しました。
南朝鮮(韓国)が侵略されてもアメリカは関わらない、というメッセージです。意図的な発言でした。北朝鮮に対して韓国侵攻のゴーサインを出した、ということです。
アチソン演説から5カ月後の6月25日、北朝鮮軍は38度線を越え韓国になだれ込みました。国連安保理が加盟国に韓国防衛を勧告するのはその2日後です。金日成軍は南端の釜山まで侵攻します。9月15日にマッカーサーが指揮する国連軍が仁川に上陸、北朝鮮軍を中国国境付近まで押し返します。義勇軍と称した中国の共産党軍が介入するのは10月19日です。戦況は互いに一進一退で、翌年には38度線で膠着状態となり、1953年7月に休戦協定が結ばれました。国際連合軍司令部総司令官と、朝鮮人民軍最高司令官および中国人民志願軍司令官との間の協定です。
2つのポイントがあります。一つ目はアチソンの演説です。アメリカは北朝鮮を韓国へ攻め込ませなかったのです。
2つ目は、なぜ国連軍を組織できたか、ということです。国連安保理の常任理事国であるソ連が拒否権を発動すれば国連軍の編成は出来ません。ソ連は国連軍編成に反対しませんでした。安保理審議に欠席したのです。前掲『グロムイコ回想録』にはソ連代表は安保理に出席しないようスターリンが指示をしたことが書かれています。正統派の通説によれば、蒋介石の中華民国が安保理をボイコット中だった、ということですが、これが果たして同盟国・北朝鮮を見捨てる理由になるでしょうか。
アチソン演説での北朝鮮へのゴーサインとスターリンの事実上の国連軍編成賛成から、朝鮮戦争は米ソの結託によるものだったという真相が見えてきます。そして米ソ結託の様子は、朝鮮戦争時のダグラス・マッカーサーの動きを追うことで具体的にわかってきます。
■北朝鮮軍、中共軍を倒す気などないアメリカ
国連軍の最高司令官となったマッカーサーが進言する作戦は悉く本国アメリカから却下されました。また、国連軍の作戦情報はアメリカからイギリス、ソ連、インド経由で中共軍と北朝鮮軍に伝えられていたようです。中共軍の侵入経路である鴨緑江にかかる橋の爆破計画も、アメリカ政府はイギリスと協議した結果、マーシャル国防長官からの返答は「満州国境から8キロの範囲内にある目標の爆破はすべて延期する」というものでした。
マッカーサーは回想録の中で、
「ワシントンでは特に英国の影響力が非常に強く働いている」
という内容を記しています。私たちの理解とは逆に、政治的な力関係で言えば、アメリカよりイギリスの方が上なのです。また、マッカーサーへの対応から分かる通り、アメリカもイギリスも共産勢力を積極的に排除する意図はありませんでした。これは正統派の歴史観、「戦後のアメリカとソ連は互いに相手の優位に立とうと世界規模で覇権を争った」とはずいぶん違います。
朝鮮戦争はアメリカ、イギリス、ソ連が結託して演出した戦争でした。トルーマン大統領は北朝鮮軍と中共軍を倒す気などないばかりか、故意に負けるような行動をとり続けました。休戦まで3年かかり、3万人以上のアメリカ兵が犠牲になり、しかし南北朝鮮の国境はほとんど変わりませんでした。アメリカ政府の戦争指導に五問を呈したマッカーサーは1951年に解任されます。マッカーサーの後々任で休戦協定に調印したマーク・ウェイン・クラーク将軍は自著『From the Danube to the Yalu』の中で、勝利するために必要な権限も武器も兵員も与えられなかった。眼前でアメリカ軍兵士が中共軍にむざむざ殺されるのを傍観する以外になかったと、マッカーサーと同様の無念さを吐露しています。
朝鮮戦争の目的は何だったのでしょうか。戦争資金を融資した国際銀行家と、武器を売却した軍需産業が利益を得たことは言うまでもありません。朝鮮戦争末期に大統領に就任したアイゼンハワーは8年後の離任演説で、軍産複合体が民主主義にとって脅威であるとアメリカ国民に警告することになります。
■マッカーサーの「日本は自衛戦争」証言
興味深いのは、解任されたマッカーサーが帰国後に米上院軍事外交委員会で証言した内容です。マッカーサーにはアメリカ政府の真意は伝えられていませんでした。つまり、マッカーサーはすでに政府の中枢、いわゆるエスタブリッシュメントから外されていました。
1951年5月3日、マッカーサーは「日本が太平洋戦争に突入したのは、大部分は安全保障上の必要なものだった」と委員会で証言しました。ここを正統派の通説は「朝鮮戦争を戦った結果として朝鮮半島が日本の生命線だったことに気付いたからだ」と解釈しています。そうではないでしょう。生命を賭して戦ったのに祖国に裏切られたマッカーサーは太平洋戦争の真実を隠す必要はないと考え、アメリカの対日戦争の不正義を告発する意図で日本の戦争目的を擁護する発言を行ったと考えられるのです。
太平洋戦争(大東亜戦争)が日本の自衛戦争であることは戦争前からアメリカ首脳にはわかっていました。当時日本はアメリカから、消費量の大半の石油を輸入していました。常識的に考えれば、そんな国と戦争などするはずがありません。しかしアメリカは通商条約を破棄して石油を禁輸します。これは、事実上の宣戦布告です。日本は、自衛のために戦う以外にありませんでした。そしてアメリカは日本が追い詰められてアメリカを攻撃するのを待っていました。アメリカが仕組んだ戦争であって、日本の侵略戦争であるはずがないのです。
1946年から48年にかけて行われた東京裁判においてマッカーサーは、「平和に対する罪」で7人の日本人指導者を処刑しています。そのマッカーサーが、日本の戦争は侵略戦争ではなく自衛戦争だったと公式に証言したのです。この歴史的証言を重く受け止め、歴史教科書はマッカーサー発言をきちんと描くべきだと思います。
投稿者 tasog | 2020-01-08
 Posted in 07.新・世界秩序とは?, 08.金融資本家の戦略, 09.反金融支配の潮流 | No Comments » 

金貸しは国家を相手に金を貸す
http://www.kanekashi.com/blog/?p=6751







日本や世界や宇宙の動向
イランの対米強硬姿勢はオバマ大統領のおかげです。
2020/01/11 11:58
オバマは、偽出生証明書で大統領になり、共産主義で散々、米国の土台を壊していきました。オバマ大統領と言えば、イラン系米国人の側近(上級顧問)のバレリー・ジャレットでしょう。彼女の指示でオバマが動いていたとも言われています。オバマはプロテスタントと言われいますが、実際はイスラム教徒であり共産主義者だと言われています。またオバマの義理の弟が中国人ということですから中国とも関係が深かったようです。ヒラリーも国務長官時代にはやり放題でした。民主党ほど邪悪な議員が集まる政党はないようです。オバマが大統領時代に行い続けてきた親イラン、反米行為により現在の米国とイランの対立があるのでしょう。
本当なら、トランプはイランからも中東からも米軍を撤退させたいのでしょう。中東での利権は何もなくなったのかもしれません。中東がどうなろうと知ったことではないというのがトランプの本音なのかもしれません。
https://www.naturalnews.com/2020-01-10-health-ranger-warned-obama-sleeper-cell-treason-iran.html
(概要)
1月10日付け
米国とイランの対立に関して、マイク・アダムズ氏が2017年に警告した通りの結果になってしまいました。
(Natural News)
マイクアダムズ氏が2017年に警告した通り、現在、米国とイランの対立がこれほどまでに激化している原因はオバマ大統領とイランが共謀した米国破壊工作が実行されているからです。
オバマ大統領は共産主義及びイスラム原理主義のスパイであり自由の敵だったのです。彼はソ連のやり方で米国を転覆させ体系的に米国を破壊することを計画しました。
オバマ大統領はその計画の一環として(核合意後に)イランに大金(現金)を手渡しました。このお金でイランは中東の米軍基地を破壊し続けてきたのです。まさに反逆行為です。
トランプ大統領は、最近のスピーチの中で、オバマ大統領が核合意と引き換えにイランに1500憶ドルをあげたと伝えました。オバマもこの事実を認めています。イランはこのお金を利用して武器を購入し中東の米軍基地や他の施設を攻撃しているのです。オバマは1500憶ドルをイランの軍事機構に寄付したのです。オバマは機会がある度に国内外にて米経済、文化、自由、国際評価を破壊するための活動を行っていました。また、彼は意図的にイランなどの敵国を支援し中東の同盟国であるイスラエルを抑え込みました。
トランプ大統領は8年間の恐ろしいオバマ政権下でオバマが行ってきた破壊行為の残骸を一つ一つ除去しているのです。米国がイランとの対立で外交面の優位性を維持したいなら、イランの挑発行為に対して米国が行うべきことはまだまだたくさんあります。
オバマは出生証明書偽造してホワイトハウスを8年間不法占領し秘密裡に米国を壊し続けた国内テロリストであり、米国から永久追放されるべきです。
彼は米国の同盟国を犠牲にして敵国(複数)を支援し続けたのです。オバマは完全に米国の敵です。彼は組織的に米国の産業や富を破壊し米国の評価も落としました。しかし反逆行為を行い続けたオバマは何の罪も受けていません。ヒラリーについても国務長官時代にロシアに米国内のウラン鉱山を売却した反逆行為をやったのにもかかわらず何の罪もうけていません。もちろんこのことはオバマ大統領の承認がないとできなかったはずです。
以下省略

日本や世界や宇宙の動向
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52048397.html









朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争』
副題:中国が鴨緑江を渡るまで
文庫版では、単行本出版後に明らかとなった情報と新たな解釈が加えられているそうだ。
本書のテーマ自体を追って、背景を詳しく資料または現存する証人からの聴取により整理して行く。
もちろん、公表されていないことや、失われてしまったことは推測するしかないが、無理がない丁寧な記述だと思う。
敵の敵は味方か?という古典的な問いも含め、登場する国や指導者たちの、それぞれの思惑があるのは、20世紀前半の列強らによるグレートゲームの騙し合いの駆け引きの名残というか、それが世界の在り様だったのだと、共産サイドからみても、改めて認識。
もちろん、中国が参戦した理由に米国の存在があるのは、現在も変わらない対峙があるのだが。
中ソ対立を伝統的なとみなすのはソルジェニーツインも、そうだった。
当時の状況は、現在からは計り知れないズレがある。ところが、そんなことは先刻ご承知で、第11章で、ことごとく虱潰しにされる。まったく見事だ。著者の研究課題リストがまた、実に真摯で今後が期待される。
自分のような横着者には、人物相関図と、その影響力のおよんだ年代表を、世界史とか冷戦史とかと対照するものが欲しい。それがあれば、現在と当時を混同して見る愚を避けられるだろう。
以前CATVで観た「毛沢東と冷戦時代」が、ここでの分析に近い描き方だったように記憶する。
3部に分かれた番組は重複があり、ネタが尽きた感があったので、十分な分析とは云えなかったが。
現在、いうところの「同盟における集団的自衛権」を検証するかの第9章が、
国境意識の薄い日本では、ケーススタディーとして興味深いのではないか。
【日本研究第一人者に聞く】沖縄の声に平和のビジョン 米覇権構造の問い直しを ジョン・ダワー氏 
http://www.47news.jp/47topics/e/253171.php
ちょっと明後日な方向から眺めるなら19世紀末の神秘主義を想い出す以下を。
黒岩幸子「アレクサンドル・ドゥーギン,『地政学の基礎 ロシアの地政学的未来/空間をもって思考する』http://ci.nii.ac.jp/els/110001000440.pdf?id=ART0001180829&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1398829499&cp=
2014.05.11.Sun
 | 読書メモ

日々の妄言荘
 http://bazandgap.blog77.fc2.com/blog-date-201405.html










安基米得: 六甲山中で伝授された古代科学・風水学文献「カタカムナ文献」~イヤシロチ・ケカレチの教え

安基米得: 六甲山中で伝授された古代科学・風水学文献「カタカムナ文献」~イヤシロチ・ケカレチの教え
「カタカムナ」とは何という胡散臭気なタイトルだろうか。
「ム」をとれば「カタカナ」、普通の人には安っぽくみえるし,何のことやらさっぱりわからない。。
もっとも少しばかり神道霊学的な術後になじんだ人ならば,何かしら霊的な響きを感じ取る事はたやすいだろう。
「カムナ」は「神字(かむな)」,すなわち神代文字を連想させ,何か異端的な裏の古代史に関わる文献である事がただちにわかるだろう。
■数万年前の科学をつたえる書
「カタカムナ文献」。
それは古代から連綿と伝えられてきた謎の古代文書である。
昭和25年ころ,楢崎皐月(ならざきこうげつ)という人が兵庫県六甲山系の金鳥山中で平十字(ひらじゅうじ)と名乗る者から筆写をゆるされたものだという。
楢崎によれば,平十字はカタカムナ神社の宮司と称し,文献は「カタカムナのご神体」として秘うえTぐ匿されてきたものであった。
そして楢崎はこの文献を解読し,楢崎およびその後継者・宇野多美恵氏によれば,10万~数万年以前の日本列島に生息していた日本人がのこした失われた超古代科学の書であり,
彼らはその「上古代人の直感科学」を復興して
「相似象学」
なる秘教科学・オカルトサイエンスの奇妙な体系を築いたのである。
太古から伝わったという点では
「竹内文献」
「上津分(うえつふみ,別名富士文献)」
等のいわゆる偽書の流れに属するものと考えていい。
ただその伝えるところが,太古の歴史ではなく太古の科学であるという点に特徴がある。
いずれにしても,これを捏造の一言で切り捨てるのはいともたやすい事で,実際,平十字なる人物は楢崎しか知らないし,カタカムナ神社にしても,実際に存在したかどうかも謎のままだ。
しかしひとたびこのカタカムナの世界に足を踏み入れた人は,その幻想味をおびた世界の端々に不気味なリアリティを感じて,理性の光によっては照らし得ない,世界の背後にある第二の現実を感知するにいたるのである。
■金鳥山で猟師に出会う
このテーマのひとつの起源は,楢崎皐月が訪れた兵庫県六甲山系の金鳥山近くの山中で体験したひとつの事件にあるとされる。
金鳥山は高級住宅街として知られる阪急沿線の芦屋と岡本のちょうど中間あたりにある高さ500Mの低い山。
この低山の中腹には保久良神社(ほくらじんじゃ)があって,平安時代に編纂された「延喜式」の「神名帳」に掲載されている事から考えると,いずれ由緒ある神社にはちがいない。
この神社をとりまいて巨石を環状に配置した「磐境(いわさか)」という遺跡がある。
磐境については,社殿などの形式が現れる以前の神道の原始的祭祀形式であるとされる。
昭和24年12月~翌25年3月にかけての64日間,「大地電気」の調査のために,楢崎は数名の助手とともにこの金鳥山中の狐塚という塚のちかくに穴を掘ってこもっていたという。
ある夜,一行は猟師の訪問をうけた。
猟師は鉄砲をガチャガチャいわせながらこう言った。
「おまえたち,なんのためにここにやってきたんだ?泉に妙なものを仕掛けるから動物たちが警戒して水を飲めなくなっている。すぐに除け。それから狐は撃ってはならない。ここに兔がある。ホレ持ってけ」
と腰に下げた兔を投げた。
「妙なもの」とは微動量計測器の事であった。
楢崎らは言われたとおりに撤去した。
次の夜に再び現れた猟師は上機嫌で,
「お前さんたちは感心だ。穴居しなければ本当の事はわからんもんだ」
とほめた上で,お礼にと古い巻物を開いて見せた。
それは江戸時代の和紙に筆写されたとみられる,80個の渦巻模様に丸と十字を基本とした図象であった。
猟師は平十字と名乗り,父はカタカムナ神社の宮司であると告げた。
平十字は
「今までに刀のツバや定款の絵だろうと解した学者はいたが,そんなものではない」
と語った。
この図を見た楢崎にはふと「八鏡文字」という言葉がひらめいた。
戦時中,旧満州の吉林(キーリン)で製鉄の研究に関わっていた楢崎は満州の職工たちの信仰に敬意を持って,吉林の北山(ペーサン)にあった道院・娘々廟(ニャンニャンびょう)を詣でた。
日本人としてはじめて寄進した事から,道士・濾有三(ラウサン)に招かれて一服の茶をすすめられる。
そして次のような老子経古伝を伝えられる。
「上古代の日本の地に,アシヤ族という高度の文明をもつ種族がおり,八鏡の文字をつくり,鉄をはじめとする様々な生活技法を開発していた。そして後代の哲学・医学はその文化の流れに展開した」
いま目の前にある図象こそが,その道士のいう「八鏡の文字」ではないか。楢崎はピンときた。
そして楢崎はこの図の筆写を請い,平十字は快諾した。
-謎のカタカムナ文明,安基米得

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■イヤシロチ・ケカレチ
カタカムナ文献に出会った楢崎は次のような悟りを得た。。
「ヨモ(四方)のタカミを結ぶトコロはイヤシロチにてミソギに良し。
ヨモのヒクミを結ぶトコロはケカレチにてミソギに不良はず」
タカミ(隆身)とは地形の高い凸状,すなわち山,丘,森林などの高頂部。
このタカミ(高頂部)が同じ方向に重なって見えるとき,真後ろを振り返れば,また同じようにタカミが重なって見える事がおおい。
つまり上から見るとタカミが一直線上に連なっている。これを「高位線」という。
そして高位線と高位線を結ぶ交差地帯がイヤシロチになる。
(十:十字の交差点,山脈と山脈の交差点など)
そこは生命力を盛んにする地。
ヒクミ(低身)とは地形の低いと凹状,すなわち山の鞍部,谷,森林の低い地帯などの低底部。
このヒクミ(低身)もまた同じ方向に重なる場合が多く,これを「低位線」という。
そして低位線と低位線を結ぶ交差地帯がケカレチになり,そこは元気をなくしてしまう「気の枯れた地」を意味する。
(十:十字の交差点,谷脈と谷脈の交差点など)
「イヤシロチ」の語感からは神社の「ヤシロ」を連想させるが,実際にイヤシロチには神社が多く,ケカレチには墓地が多いという。
イヤシロチとケカレチ。それらをむすぶ線。
大地に張り巡らされた幻のパワー・ネットワーク。
それは夢ではなく多分事実なのだ。
■イヤシロチ・ケカレチの作用
ためしにイヤシロチに立つ。
その場合,多少体調がわるいほうがいい。
気分が悪かったり,胃が痛かったりする時に,イヤシロチに立つと,いつの間にかかき消えたように痛みや不快さが消えている。
食生態学者・探検家の西丸震哉氏は,ジュリアス・ファスト著「天候とからだ」の注釈で以下のように書いている。
「古代日本人は負イオンに非常に敏感であった。
彼らは聖地と決定した地に神社を建てたが,そういう土地で測定すると負イオンがおおい。
森閑とした神社で心が洗われるような気になるのは,負イオンの多い,心身の健康に適合した地であることによる」
戦前,千葉医大堂之前研究室の気候研究班で気候と病気の関係の研究を行なった。
その報告によれば,低気圧が来る数日前からイライラするとか頭が重いとか,いろいろな不定愁訴があったが,その要因は気温・湿度・気圧・風によるものではなく,
実は大気中に増加する陽イオンによるものであると考えられるとしている。
ただ,イオンの作用については,その後の北大における論争があったが,一義的には結論できない部分がある。
事実,たいへんに元気の良い人が陽イオンを浴びて,爆発的に元気になるという報告もある。
■サヌキ・アワの作用
イヤシロチ・ケカレチについての考察は,陰陽イオンの作用だけで一義的には結論できないので,もうすこし追求する。
「イヤシロチはミソギに良く,ケカレチはミソギに不良はず」
この「ミソギ」とは何か。
カタカムナの音声の思念により解読すると,それは
「ミ」を「ソグ」
こと。すなわち
サヌキ(電子)とアワ(陽電気性)
を身に吸着させる事で身(ミ)の密度が高まり,外見はソゲた形になることだという。
水浴びとはほとんど関係がないのだ。
ここで,「サヌキ」とは陰電気性あるいは電子にあたる上古代語である。
では「アワ」とは何か。
それは水中のアワ(泡)を想像していただきたい。
この泡は重力と反対方向に移動する。
それと同じように「アワ」は電磁界で電子と反対の方向に動くものだという。
「アワ」とは陽電気性あるいは半導体物理用語である正孔(ポジティブ・ホール)に近いものにあたる上古代語。
さて,楢崎皐月は全国各地の大気電気の分布構造を実地に計測して,イヤシロチ・ケカレチの条件を確認してまわった。
その結果,イヤシロチは地表の電子密度が高く,還元電圧地である事,
また,ケカレチでは地表の電子密度が低く,酸化電圧地である事がわかった。
イヤシロチは電子を与えてくれ,ケカレチでは電子をうばわれるという作用が確認されたわけである。
また,楢崎はアワを測定する機器をつくり測定した。
それによれば,イヤシロチではサヌキ(電子)・アワ(陽電気性)ともに高い密度を計測したが,ケカレチでは低い密度か,偏った状態である事がわかった。
単純化して考えるならば,
還元=生命の活性化
酸化=生命の腐敗化
とするのも面白い。
調査によれば,イヤシロチにある旧家の人たちは健康で長生きが多く,農漁畜産の収穫がおおい。
一方ケカレチは住人がよくかわり,よく病人が出て,建造物が破損されやすく,交通事故がおきやすい「魔の道路」であったりするという。
食品の鮮度も落ちやすい。
■相似象~万物を貫く相似の法則
タカミとタカミを結ぶ高位線上に,優等と劣等の日本酒を置く。
この場合,電位の高いほうに優等酒を置くように並べると,やがて劣等酒の味が優等酒の味に似てくる。
これは酒だけでなく,食物,繊維類,陶器,はては仏像などいろいろなものにあてはまるという。
それどころではない。
じつはこの相似の法則があらゆるもの,大自然全体を貫いている。
イヤシロチの山が見える。
その山のかたちと高位線上の植物の育成の形,岩石の形,さらには雲の形までが相似している。
この現象は単に自然物の形が似るという次元ではなく,動物や植物の生理現象や人間の精神現象をも貫くという。
実に恐るべき宇宙の根源的システムである。
視覚のみならず聴覚・触覚,あるいはもっと根源的なものに関連している。
それが「相似象」に近づく道なのである。
-謎のカタカムナ文明,安基米得,徳間書店,

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イヤシロチとケカレチ
書庫日記
カテゴリライフスタイル全般
2019/1/11(金) 午前 8:47
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イヤシロチとケカレチ
パワースポット・その二
2019.1.11
イヤシロチとケカレチ
~イヤシロチは気(風)の通り道~
■イヤシロチとケカレチ
太古に存在したといわれる超古代文明が記されたカタカムナ文献を御承知でしょうか。
良い土地のことを「イヤシロチ」と書かれてあります。イヤシロチに住む人は、気に溢れて健康長寿で一族が平和に繁栄するといわれています。
農作物も家畜もよく育つといいます。
一方、ケカレチとはその逆で、生命エネルギーに乏しく不健康で地のバランスの良くない場所を指します。
イヤシロチの条件に照らし合わせて該当しそうな地点を隈なく調査してきました。
全国の霊地・神社・山海など気のポイント、パワースポットと言われる地点を巡ってきたわけです。
しかし、文献に書書かれてある条件に該当するイヤシロチにはなかなかに出会えませんでした。
下記にあるような山がV字形で背後前面にあり、山頂の延長点にそのパワーポイントがあるという条件の地形がなかなか見つかりません。
しかし、イヤシロチを探すのとは別に全国の名だたるエネルギースポットに共通したものがあることに気づきました。
どの地点も元気が出ますしストレスが無くなるようです。
現代ではそうしたイヤシロチを霊地、聖地、パワースポット、広くは龍脈、レイラインなどといいます。
良い土地とは住む人に健康と豊かさの気を与えてくれる場所です。
イヤシロチを探索すればするほど該当する場所などあるのかどうか疑問が湧いてきたものです。
家内はそうした大地に特別な気の色を感じるそうです。
私は、感覚的に波動の重さ、軽さ、明るさなどに違いがあると体感しました。
また、見逃せないのが付近住人の波動です。良い気を求めて人々が集まります。
理に適った山地を目指し、都会では豊かな人々が集うのは波動の法則として当然です。
逆にケカレチといわれる場所は、喧騒地帯に多く、湿気の多い場所、気の抜けた、気の淀んだ状態の場所です。
ケカレチに入ると体が悪い波動を受けないように硬直するものです。
■人間の集う場所(栄える場所)には法則がある
独自に各地のパワースポット、人の集まる都市の傾向、高級住宅街の共通点など調べたことがあります。
そこからは風水の原型のような気の基本原理が見えてきます。
○山を北に背にして南下する河川は都市、町を通る場合、沖合から見て河口の左側に位置する場合が多い傾向がありました。
河川は気の流れの場で、常時山と海の間で気の循環が成されています。
その循環の気の流れは水流と同じ法則で右螺旋ないし右回転する場所がイヤシロチとなります。
都市、村、繁華な場所は山を背にして沖合から河口をみて左側に形成される場合が多いのです。
○カタカムナを通して流れる潜象世界は、現界でも隠れて存在すると考えます。
大気の流れが自然界の空間で循環しています。
海底も深層と表層の流れは法則によって混ざり合流し世界を循環します。
○山を北に背にして南下する河川は都市、町を通る場合、沖合から見て河口の左側に位置する場合が多い傾向がありました。
河川は気の流れの場で、常時山と海の間で気の循環が成されています。
その循環の気の流れは水流と同じ法則で右螺旋ないし右回転する場所がイヤシロチとなります。
都市、村、繁華な場所は山を背にして沖合から河口をみて左側に形成される場合が多いのです。
■東京都・京都府・沼津市の例
A.東京は風水で造られていると言われます。
皇居の右手に荒川、隅田川があります。
関東平野から流れ下り東京湾へ出ます。
遠く利根川にも意味があります。
河川は大きな気の流れを作っています。
その流れは北に山を置いて流れ下る気は海に近づくにつれて平野で右螺旋の大気の上昇気流を生みます。
ですから沖から見て河口の左側に気の高い場所が出来ると推測できるのです。
B.京都も北に丹波高地を控え、賀茂川と高野川の合流点の左側に京都御所を始め繁華な街並が形成されています。
C.沼津市は、以前住んだ町です。千本郷林という松林の多い気の良い場所でしたがここも空っ風で有名で富士山から愛鷹を超えて霊気が狩野川を下り地域全体が左螺旋のプラスの気で包みます。
当然そうした場所には宗教関係の建物が多く、街並みの中に寺や神社が多く点在します。
千本郷林はかつて皇室の避暑地でしたから自然と知識人や文化人が町を形づくっていったのでしょう。
■カタカムナ
超太古に存在したカタカムナ文明について書かれた古文書の一部があります。
その中に現代科学を凌ぐと言われる古代の科学が書かれてあります。
○と十字のような文字で書かれたもので私のような素人には解読できません。
使命のある方が現代語に直してくださった原書がありその一部が本になったものがありました。
その中のどうしても頭から離れなかった部分がその後の気の研究にとても役立ったので書いておきます。
その文献では、イヤシロチのありかが書かれています。
○遠くの山と山、近くの山と山の山頂をつないだ場所がイヤシロチであると書かれています。
○また、畑に棒を立てると生育がよくなるとも書かれています。
○住まいの下に炭を一定の法則で埋めると良いとも書かれていました。
書くと長くなりますから、結論からいいますと山と山の重なり頂上の結べる場所などそう或るものではありません。
散々歩いてもありませんでした。これは、京都で色々調べていて分かったことなのですが大原から八瀬にかけて南北に川沿いの道が走っています。
殊のほか気持ちがいいので光明寺で休憩しておりました。
そこでその原因を考えておりますと、山に挟まれて山風が北から南に通り抜ける風の道であることでした。
山梨の昇仙峡もそうです。前回書いた、富士川から車山から糸魚川のレイラインも風の道なのです。
図の絵でもわかるように山に挟まれた場所は風の通り道になるのです。
しかもそれが幾重にも連なる山と山の間を走る気の流れは風の道となり良い気の場所になるということだと感じました。それも蛇行した道です。なぜなら風はストレートでは気を発しません。ぶつかり合い、せめぎ合ってこそ気が発生するのが分かります。
ここまでで、建築関係、デザイン関係で風水に少しでも興味のある方はピンと来るはずです。
ご家庭でもこれは役立つのです。部屋の小窓の開け閉めで気の流れを調整できます。
水晶球をお持ちの方は、家の周囲の風のぶつかり合う場所に一つ埋めるといいのです。
きっと役立つと思います。
■超古代文化の謎解き
前回のブログでは、プレアデスの高度な科学力で地球の歴史の一部を書かせていただきました。
当初、考古学など興味もなかったのですが、ビリー氏を介してもたらされる膨大な情報の中の地球史はどこを調べても後
日整合性が認められたり、オーパーツとして出土した品々がそれを証明できたりするものばかりでした。
以前にも書きましたが、現在のクフ王のピラミッドは、七万年前に外宇宙の人びとによってサイコによって構築されたそうです。中には未来の地球の歴史が刻まれており解読されているといいます。
また、伝説のアトランティス・ムー大陸の存在も明らかになっており、都市の名前や相互の戦争から地球に大災害をもたらしたことなど明らかにしています。
日本人や中国などのモンゴロイド系は、地球史の中では新参者で26000年前にリラ座の太陽系タイゲート太陽系から来ているといいます。ですから白人系とは一味違うのです。霊的にも高い精神性と平和な文化の伝承が現在も受け継がれているのです。
ということは、現代の縄文時代は明らかにアトランティス大陸滅亡の時に始まったようになっていますが実際はこの時にはすでに長い平和な時代を経過していたと考えられます。
記紀の書かれるはるか以前に、現代を凌ぐ超科学文明が存在したとされています。
移民してきた東洋人たちは、まだ昔の科学や文化をもって生活していたのでしょう。
平和な時代が一万年以上続いたとされています。
富士山が現在の形になったのが一万年前と言われていますから日本の象徴の富士山はそれ以降に出来たものです。
本日も読んでいただき有難うございました。
【参照:土地・住まいの気】
【参照:気の通り道】
【参照:運と住まい】
☆今日も明るく元気に参りましょう。
☆太古の日本に存在したと言われる超古代文明が記されたものにカタカムナ文献があります。
現代科学を凌駕する科学力と高い精神性を備えた人びとの存在が浮き彫りにされています。
今は忘れ去れらた高度な文化も、現代日本人の心の奥には遺伝子としてその記憶は残っています。
新時代に太古の記憶が蘇ります。
☆都市と気の関係について以前調べたことがあります。カタカムナの潜象世界が現代の都市にも生きていることが実感できるものでした。風水の大元は太古の科学書の伝承です。カタカムナ文化が二万六千年前の東洋人の祖から来ていると推察できます。
当然長い年月には情報は忘れ去られ葬り去られたのでしょう。現代文に直すと太古には現代を越えた科学の存在が見えてきます。
☆人間は生身の肉体とそれを活かしめる霊体の複合で出来ております。
肉体はその生命を維持するために水分や食物を補給します。
また、肉体を健康に維持するために気のよい健全な場所に住みたくなります。
☆人びとは富と健康と成功をめざして健全で豊かな大地を探し求めてきました。
土地の気の学問のカタカムナのウガヤフキアエズ朝の古文書・情報の一部が伝わっています。土地には正負の磁気的場が存在します。現代のような狭い土地で健全な暮らしをすることは容易なことではありません。何とか自然のパワーの土地や空間を造る手立てを考察し実験を繰り返してきました。
☆これらの基本的仕組みが理解されると、自然界の鉱物界、植物界、人間界、宇宙界のそれぞれが一体化された創造の法則で成り立っていることを意識は個人のレベルに合わせて神秘のすべてを解き明かしてくれます。
☆当然長い年月には情報は忘れ去られ葬り去られたのでしょう。
現代文に直すと太古には現代を越えた科学の存在が見えてきます。
太古の情報が現代の四柱推命や方位学や風水の元になっていると考えられます。
失われてしまった過去が今また浮上してきました。新時代は、霊性と真理と進化の時代です。
物質文明を踏まえつつ一気に新たな文化が再生されることでしょう。
☆≪繰り返しの法則≫
願いや成功達成の願望はいくらやっても効果がないとか潜在意識に届かなという方がおります。
それは、本当は意識に入っているのですが、即結果が欲しいために諦めてしまうのも早い方の場合です。
願いや成功達成の願望の入りやすい方法は瞑想です。
瞑想を繰り返り返すことで意識は肉体だけだと思い込んでいた自分にハイヤーセルフ(高次の自分)との繋がりを密にしてくれるからです。
瞑想後の爽快感はやり続けた人でないと分からないともいえますがセンスや時期もあります。
ここ水晶の家れいにいらっしゃる方の中にはその場で超越的な体験をされるケースも多々あります。

「水晶の家れい」in横浜・ツイてる人の読むブログ究極情報無料公開
https://blogs.yahoo.co.jp/crystalrayyokohama/





オルゴナイトとは?
書庫日記
カテゴリその他歴史
2015/7/18(土) 午前 11:30
こんにちは、Deeです。
今日は、オルゴナイトって一体どういうものか?説明を載せてみます^^以下です↓
オルゴナイトの説明
その昔、オーストリア出身のウィルヘルム・ライヒ博士が自然界に充満するエネルギー、「オルゴンエネルギー」を発見しました。
オルゴンエネルギーは、東洋でいう、いわゆる「気」のエネルギーと同様のものです。
ライヒ博士の研究の後、オーストリアのカール・ハンス・ヴルツ氏によってネガティブなオルゴンエネルギーをポジティブなオルゴンエネルギーに変換するジェネレーターが開発されました。
さらに、アメリカのクロフト夫妻が、一定量の割合で金属の小片、水晶、天然石などを樹脂で固める形に改良しました。
そして、ネガティブなエネルギーを吸収し、ポジティブなエネルギーに変換させて放出するパワーグッズ・オルゴナイトが出来上がりました。
https://blogs.yahoo.co.jp/zenaway/13492657.html

Deeのブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/classyponydee/35107147.html












Glenn Canady: 宇宙計画の裏歴史~地球上空を飛ぶ宇宙船は皆地球のものではない


BEFORE IT'S NEWS
By Glenn Canady
Proof We Have Starships in Orbit! Above Top Secret!
Monday, May 20, 2019 13:58

Before It's News
https://beforeitsnews.com/v3/alternative/2019/3683455.html







(要約)
Glenn Canady: 宇宙計画の裏歴史~地球上空を飛ぶ宇宙船は皆地球のものではない
2019年5月20日月曜日13:58
Glenn Canady
地球の衛星軌道上にある宇宙船と宇宙ステーション。
我々はそれが皆地球から打ちあげられたものであると思いがちだ。
John Lenard Walsonは電子望遠鏡カメラシステムを所有しており,衛星軌道上の宇宙船を観察している。
Walsonによれば,星のようにみえる光でも,観察するとその一部は星に偽装した宇宙船であるという。
あるいはこれらの船は地球の極秘宇宙計画のものだろうか?
あるいは悪魔的エイリアン?
■ドイツの宇宙計画
100年前にNikola Teslaが反重力飛行技術を発見した。
Teslaは円盤型UFOの製造特許を取得した。
そして米軍は反重力飛行プラットフォームを構築して飛行隊を編成,
この反重力技術を使って,米国は1950年代後半に極秘にはじめて月に行き,1960年代には火星基地の建設を開始したという。
一般に知られるロケット技術は,この反重力飛行技術を一般から隠すためのスケープゴートであったという。
内部告発者によると,最初に宇宙へ行ったのはドイツ。
ナチスドイツは第二次世界大戦中に,このこの反重力技術を使って,宇宙空間への到達に成功しており,
大戦後の1940年代には月に到達して地球外文明を形成。
1950年代までには,月,火星,セレスに基地を持っていたという。
このナチスドイツの地球外文明は地球を「刑務所惑星」と見なしていた。
宇宙に移住したドイツ人の数は
セレス:数十万人,
火星:100万人以上
に及び,ドイツの独占支配状態にあったという。
当時のドイツの宇宙船計画に関わっていたTony Rodrigues(トニーロドリゲス)は,当時のナチス宇宙計画の中で撮影した宇宙船,基地の写真を持っている。
Tonyの情報には信憑性があり,またその情報でビジネスをしない事からも信頼性を感じる。
Teslaは100年前に反重力技術を発明して使っていた。
そのことは意味があるものの,大戦中にはまだ実用にまでは至っていなかった。
NASAは1969年に古代ロケット技術を駆使したアポロ計画で月に行ったものの,1970年代以降は放棄状態。。。
そういうふうに認識しているのなら,あなたは完璧なイルミナティの奴隷だ!
テレビで偽のスポーツを見て,iPhoneの最新情報に首ったけ。
行動は「TV = Tel-Lie-Vi​​sions」の言うとおり。
マスターの言いつけ通りにすべてのワクチンを接種する。。
完璧なイルミナティの奴隷だ!
キャンピー映画「Iron Sky(アイアンスカイ)」では多くの真実が語られている。
ドイツ人は大戦中にすでに宇宙にいた。
悪魔的エイリアンの助けを借りて。
■地球の衛星軌道上を飛ぶ宇宙船
John Walsonは月面を撮影した素晴らしい動画を作成したが,それにはあちこちに巨大な人工構造物が映っている。
月について言われてきた事,技術はみな嘘だという事になる。
宇宙に行くのにもともとロケットは必要ではなかった。
単に石油文明の信者を維持するための作り話だったのだ。
NSAとNASAに侵入したイギリス人ハッカーGary McKinnonの証言によれば,
McKinnonは逮捕される前に,軌道上を移動する米国の宇宙船の写真を見たという。
また,海上ではなく宇宙を航行する宇宙船のリストもあったという。
宇宙船の名前は聞いた事もない名前であったという。
また「非陸上」の将校(“Non Terrestrial” officers)のリストさえもあったという。
地球の衛星軌道上に宇宙船があるという事実。
リアジェットを発明した技術者の子John Lear氏もこの事に関する多くの情報を提供している。

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ナグ・ハマディ写本

ナグ・ハマディ写本 - Wikipedia
ナグ・ハマディ写本の一部(コーデックスII収録の「ヨハネのアポクリュフォン」の末尾と
「トマスによる福音書」の冒頭部分)
ナグ・ハマディ写本(ナグ・ハマディしゃほん、The Nag Hammadi Codices)
あるいはナグ・ハマディ文書(ナグ・ハマディぶんしょ、The Nag Hammadi library)とは
1945年に上エジプト・ケナ県のナグ・ハマディ(エジプト・アラビア語版)
(より正確には、ナグゥ・アル=ハムマーディ[1])村の近くで見つかった
初期キリスト教文書のことである。
ナグ・ハマディ写本は、二十世紀最大の考古学的発見に数えられており、
事実、初期キリスト教の研究を飛躍的に進展させた。
ナグ・ハマディ写本は、古代キリスト教を知るための原資料としては
死海写本につぐ重要性を持つと見なされている。

Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC






概要
写本は、農夫ムハマンド・アリー・アッサーマン(Muhammad ʽAlī al-Sammān)が偶然土中から掘り出したことで発見された。
発見時、文書は壷におさめられ、
羊の皮でカバーされたコーデックス(冊子状の写本)の状態であった。
ナグ・ハマディ写本は全部で13冊からなっている。
より正確に言うと、12冊の写本と8枚の断片からなっており、
後者は13冊目の写本から破られたものと6冊目の裏表紙に挟まれていたものである。
写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、
グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本や
プラトンの『国家』の抄訳も含まれている。
ナグ・ハマディ写本研究の第一人者ジェームズ・M・ロビンソン(英語版) (James M. Robinson)
 による『英訳ナグ・ハマディ文書』の解説によると、
本写本はエジプトの修道士パコミオス(英語版)がはじめた修道士共同体(後世の修道院に相当する)に所蔵されていたのかもしれないという。
写本はコプト語で書かれているが、
ギリシャ語から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。
写本の中でもっとも有名なものは新約聖書外典である『トマスによる福音書』である(同福音書の完全な写本はナグ・ハマディ写本が唯一)。調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見されたオクシリンコス・パピルス[注 2]の内容と共通することがわかっている。そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる。写本が作られた時期に関してはほとんど議論の余地がなく、西暦350年から400年の間と推定されている[7][9]。この年代は、カートナージ[注 3]やコプト語の字体から決定できる[12]。写本が土中に埋められたのは4世紀よりも以前である[13]。
一方、写本に収録された各編の原本の成立時期については異論があり確定できていない。
ナグ・ハマディ文書そのものはカイロのコプト博物館(エジプト・アラビア語版)に所蔵されている。
ナグ・ハマディ写本の発見以前、少数の例外を除くと
キリスト教グノーシス派由来の直接的な文献はほとんど発見されていなかった。
そのため、グノーシス派に関する研究は、反異端の立場からグノーシス派を非難した
古代の正統教会の教父たちが残した文献に頼らざるを得なかった。
ナグ・ハマディ写本は古代キリスト教の異端としては最初で最大の勢力だったキリスト教グノーシス派の原資料にあたり、
キリスト教グノーシス派の教理・神話論などを正統教会の偏見を通さずに知ることが出来ることから重要な写本である。

Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC







発見の経緯
写本が発見されたナグ・ハマディの位置
ナグ・ハマディ写本が発見された経緯について
最初に調査したのはフランス人古代オリエント学者ジャン・ドレス[19] (Jean Doresse) で、
1950年1月のことである。
この時の結果は1960年に
『ナグ・ハマディ文書の発見―キリスト教の基盤を揺るがす現地調査の記録』
として出版された。
ドレスの調査した時期は写本が発見されてから5年しか経っておらず、
写本発見に関する証人たちの証言内容は信頼できるものだったというが、
ドレスは厳密に言えばコプト学の専門家ではなかったことから、
J.M.ロビンソンはその調査結果に不満足だった。
そこでロビンソンは、1970年代初めに数ヵ月に渡って調査を実施し、
その結果をまとめて、
『ファクシミリ版ナグ・ハマディ文書』の最終巻の序文で公表した。
ロビンソンによる調査結果の概要は以下の通りである。
ただし、ロドルフ・カッセル(スイスのコプト学の第一人者)、
マルチン・クラウス(ドイツ・ミュンスター大学の著名なコプト学者)らのように、
ロビンソンによる調査内容に対して批判的な者も存在することにも留意する必要がある。
カッセルは、エジプトの農民は報酬を得ようとして話をでっちあげる傾向があり、
地元住民にとって何の重要性もない、取るに足らない出来事を、
発見から何十年も経っているのに詳しく覚えているのは不自然であると批判している。

Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC







ジャバル・アッターリフ
文書発見の経緯は、アラブ人農夫ムハマンド・アリー・アッサーマンが偶然土中から壷を掘り出したことにさかのぼる。
1945年12月、ムハマンドは、弟のカリファ (Kalīfah) と共にラクダに乗って、
ジャバル・アッターリフ(Jabal al-Tārif) の南側へ出かけた。
ジャバル・アッターリフは、ナイル峡谷の北壁を下限として北側に連なる石灰岩からなる山岳地帯で、
その南斜面には150以上の洞穴がミツバチの巣のようにあいている。
これらの洞穴はもともとは自然にできたものだったが、
既に第6王朝の時期には中をくりぬき彩色を施して墓所として使っていた。
この地方では、サバッサ(硝酸塩を含んだ軟土)をジャバル・アッターリフから掘り出して肥料として使っていた[3]。ムハマンドがジャバル・アッターリフからの落石と思われる巨大な石の周りを掘ってサバッサを採取していたところ、鍬の先に何かが当たった[4]。掘り下げてみると、4つの把手が付いた高さが1mもある素焼きの壷が現れた[4]。この壷が出てきた場所は、ジャバル・アッターリフのふもとの第六王朝時代の墓地跡(ケノポスキオンからほぼ真北に約30km北上した付近)から東に約1km離れた場所である[19]。
当初、ムハマンドは壷を割ることをためらっていた。
ムハマンドの証言によると、中にジンが入っているのではないかと恐れたからである[26]。しかし、金(きん)が入っているかもしれないと思い直して、鍬で壷を割ってみた[26]。壷の中から出てきたのは13冊の本で、パピルスでできており皮で装丁されていた[25]。ムハマンドはその本を服でくるんでから肩にかけて、家に持ち帰った[26]。この本が現在ナグ・ハマディ写本と呼ばれているものである。ムハマンドは持ち帰ったあと本をばらして、かまどの隣に敷いてあったわらの上に置いた[25]。これらの写本は最終的には全てコプト博物館の収蔵品になったが、そこに至った経緯は複雑である。
この発見の半年前の1945年5月7日の夜に、2人の兄弟の父親アリー(畑の灌漑の夜警の仕事をしていた)が、見回り中に1人の泥棒を殺した[26]。アリーはその仕返しを受けて翌朝までに殺された[26]。この事件が、後のナグ・ハマディ写本の運命と関係してくる。
ムハマンドが写本を発見した1ヶ月後、
家の近くの道端で日中の暑さで眠りこけている男がいた。
隣人がこの男を見かけると、男を指差してムハマンドに、
お前の父親を殺したのはこの男だ、と言った。
この男は、アーマド・イスマイル (Ahmad Īsmāʻīl) という名で、
警官イスマイル・フセインの息子だった。
アーマドはハワラ族で、父親はアル・カスル (al-Qasr) 村の外からやってきた人物だったので、
村では疎外されていた。
ムハンマドは、家に駆け込むと兄弟と母親にこのことを告げた。
アーマドを捕まえると、一家で、アーマドの手足を徐々に切り刻み、
心臓をえぐり出して全員でむさぼり食い、
血の復讐を行った。
ハワラ族はジャバル・アッターリフのふもとに村を作って住んでいたので、
復讐されることを恐れて、この後ムハマンドは壷を見つけた場所に近づこうとはしなかった。
後に、ムハマンドを説得して壷を発見した場所まで案内させたのだが、
そのためには変装をさせ、政府の護衛を付け、更に金品を見返りに与えねばならなかった。
コーデックスIII
アーマドが殺されたことをアル・カスル村の住人は喜び、
警察の捜査でも目撃者が証言しようとはしなかったが、
警察はムハマンドに目をつけ、毎日夕方になると殺害に使った武器が見つからないかと家にやってくるようになった[27]。ムハマンドは写本が警察に見つかることを恐れた[28]。
壷から発見された本がコプト語で書かれていたことから、
キリスト教のものであると言われたムハマンドは、村のコプト教の司祭、
アックンムス・バシリユス・アブド・アッマシー (al-Qummus Basīlīyūs 'Abd al-Masih)に相談して、これらの本のうち1,2冊[28]を司祭の家で預かってもらえないかと頼んだ[27]。(なお、別の文献の説明では、村を離れることになったときに司祭に文書を託した[29]ことになっている。)
バシリユスは結婚しており、義兄のラジブ・アンドラウス (Rāghib Andrawus) が、
コプト教会の学校で英語と歴史を教えていた。
村々を巡回して生徒たちに教えており、アル・カスル村にやって来てバシリユスの妻の家に泊まったときに、バシリユスは現在コーデックスIIIと呼ばれている写本を見せた[27]。
その価値に気づいたラジブは司祭を説得して写本のうち1冊を手に入れカイロへ持っていき、
友人でコプト語に興味を持っていた医者ジョージ・ソビイ (Goerge Sobhi) に見せた。
コーデックスIIIを三百ポンドで買い取ることで話はまとまったが、
支払いは遅れに遅れた。
最終的にはラジブに二百五十ポンド、コプト博物館へ五十ポンド寄付することで決着がつき、
コーデックスIIIはコプト博物館に収蔵されることになった。
収蔵されたのは1946年10月4日のことである。
13冊ある写本の中で、最も早くコプト博物館に収められたのがこのコーデックスIIIである。
コーデックスIとIII以外の行方
一方、無価値だと思ったか、もしくは災いを招くと思ったかして、
ムハマンドの母親は写本の一部を、わらと一緒に炊きつけとしてかまどで燃やしてしまった。
現在わずかの断片しか残っていないことから、
コーデックスXIIが燃やされたものと見られる。
また、中には捨ててしまったものもあった。
コーデックスIII以外の写本は、近隣の文盲のムスリムとの物々交換に使われたり
二束三文で買われたりしていった。
写本を手に入れた者の1人がナシド・バサダ (Nāshid Basādah) で、
ナグ・ハマディの金商人と計ってカイロで写本を売り、
代金を山分けした。
また、伝えられるところでは、ある穀物商(アル・カバルの複数の村人によると、フィクリー・ジャバライル (Fikrī Jabarā'īl) のことだという)が別の写本を手に入れてカイロで売り、
手に入れた代金でカイロに店を構えたとも言われている。
この話はよく知られているらしいが、
フィクリー自身は断固として関与を否定している。
写本の大部分を手に入れたのはバヒジ・アリ (Bahīj ʽAli) で、アル・カスル村のならず者だった[30][32]。この地方では有名だった古物商と一緒にカイロに行き、まずシェファード・ホテルのマンスーアの店に行き[30]、次にカイロ在住のベルギー人古物収集家[32]フォキオン・J・タノ (Phokion J. Tano) の店で売った[30]。タノは全て買い取り、また、ナグ・ハマディにまで出かけて残っている写本を全て入手した[30]。
一方、コプト博物館長(当時)のトーゴ・ミナ (Togo Mina) はタノが写本を買い取ったことを聞きつけて、国外流出はさせない、写本は全て博物館に売れと説得した[32]。1948年、エジプト公教育省はタノと交渉して、写本を買い取りコプト博物館に収納しようとしていた[32]。しかし、タノは、写本はカイロ在住のイタリア人収集家ダッターリのものであると主張して政府の介入を避けようとした[32]。国外流出を防止するためにエジプト考古最高評議会(考古最高評議会の前身)はダッターリ所有の写本を接収した[33]。写本は、1948年にコプト博物館に保管された[34]。ダッターリは対価として十万ポンドを要求したが、政府は一切支払わなかった[32]。そのため、所有権がどちらにあるのかエジプト政府とダッターリの間で裁判沙汰となり[32]、1952年まで争われた[34]。裁判は政府側の勝訴に終わった[32]。
ナセルが大統領になってからは、4千ポンドの形ばかりの代価と共に写本は国有化され、最終的にコプト博物館の所有物になった[35]。この段階でコーデックスIを除く写本がコプト博物館に収納された。
ユング・コーデックス[編集]
コーデックスIの大半は、カイロ在住のベルギー人古物商のアルベール・エイド (Albert Eid) を通じてエジプト国外に流出した[27][注 6]。
1949年、エイドは政府の介入を恐れ、大量の輸出品の中に写本を紛れ込ませてアメリカへ密輸出した[37]。同年、エイドはニューヨークで[27]、二万二千ポンドで売却しようとしたが失敗した[37]。エジプト政府が売却に反発することを顧客が恐れたのが失敗した理由らしい[32]。エイドはベルギーに戻り、写本をパスワード付きの保管箱にしまいこんだ[37]。その後、アン・アーボール (Ann Arbor) でこれらを売却しようとしたが同様に失敗した[27]。また、パリでも売却しようとした[38]がこちらも失敗している。エジプト政府はエイドを考古物の密輸出の罪で訴追し、六千ポンドの罰金刑の判決が出たが、判決前にエイドは亡くなった[37]。
一方、エイドの未亡人は秘密裏に写本を売却しようとしていた[37]。古代キリスト教史家のG.クィスペル(ユトレヒト大学教授(当時))によると、自身はこの写本が密輸出されたものだとは知らなかったとのことだが、ユング研究所を説得して、写本を購入するように急がせた[37]。写本は、1952年5月10日になって、エイドの未亡人から[27]、クィスペルを介して[34][28]チューリヒのユング研究所の手に渡った[27]。これらは、誕生日祝いのプレゼントとして研究所からユングへ贈られた[34]ため、コーデックスIの整理番号が付けられるまでは「ユング・コーデックス」と呼ばれていた[34]。
ユング・コーデックスは、1956年から1975年にかけて6巻にわたって出版された[30]。1961年にユングが亡くなると写本の扱いを巡って議論が起こった[39]が、少しずつエジプトに返却されていき、最終的にユネスコが買い取って1975年に[36]ユング・コーデックスの全てがコプト博物館に収蔵された[27]。こうして1945年の発見以来、30年ぶりにカイロに全ての写本が揃うことになった。写本の総ページ数は1000ページにも及ぶ[38]。
「トマスによる福音書」の発見
ナグ・ハマディ写本の中で最初に世間に公表されたのはコーデックスIIIの一部である。
コプト博物館の研究員(当時)だったジャン・ドレスは1947年にコーデックスIIIに含まれる
「エジプト人福音書」を解読し、
翌1948年にその内容を学会誌に公表した。
また、「ユング・コーデックス」には失われたページがあることに気づいたクィスペルは、
1955年の春にエジプトに飛んで、コプト博物館にそれらのページがないかどうかを調べた。
博物館から写本の写真を借り受けてからすぐにカイロのホテルに戻って、
クィスペルは解読を始めた[28]。この時に発見したのがコーデックスIIに含まれていた
「トマスによる福音書」である。
「トマスによる福音書」の断片は1890年代にギリシア語版が発見されていたが、
福音書全体が発見されたのはこれが初めてだった。
ドレスとクィスペルは「トマスによる福音書」を含む
ナグ・ハマディ写本の一部を学会誌に発表したり、
新聞紙上で紹介し世界のジャーナリズムにセンセーションを巻き起こした。

Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC





海面上昇、過去2800年で最速ペースに

海面上昇、過去2800年で最速ペースに 研究 20世紀の海面上昇、過去3000年間で桁外れ
http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/266.html
投稿者 ダイナモ
日時 2016 年 2 月 24 日 12:44:31: mY9T/8MdR98ug g1@DQ4Npg4I
【2月24日 AFP】
世界の海面は現在、過去2800年間で最速のペースで上昇しているとの研究結果が発表された。
人為的な気候変動の影響がなければ、海面は下降していた可能性すらあるという。
米ラトガース大学(Rutgers University)が主導した研究によると、1900年~2000年の間に、世界の海面は約14センチ上昇したという。
研究の成果は米科学アカデミー紀要(PNAS)に発表された。もし地球温暖化がなければ、
過去100年間で海面は3センチの下降から約7センチの上昇までの範囲で変化したと考えられ、
その変化の幅はより小さかったはずだとしている。
論文主執筆者で、ラトガース大学地球惑星科学学部のロバート・コップ(Robert Kopp)准教授は、
「20世紀の海面上昇は、過去3000年間でみると桁外れだった。そしてこの20年間での海面上昇のペースはさらに急速になっている」と指摘する。
研究は、化石燃料に大きく依存した状態が続けば、21世紀の間に世界の海面が50~130センチ上昇する事態は避けられないと予測するが、
たとえ化石燃料を段階的に廃止したとしても、海面は21世紀末までに約24~61センチ上昇する可能性が高いとしている。
現在の世界平均気温は、19世紀末の平均気温を約1度上回っている。
科学者らによると、地球は、気温の小さな変化に対して信じられないほど敏感だという。
ラトガース大が率いた今回の研究は、世界24か所の観測点で収集されたデータや、
66の潮位計による過去300年分の測定記録などを含むデータベースに基づくものだ。
研究論文には、米ハーバード大学(Harvard University)、米ウッズホール海洋研究所(WHOI)、ドイツ・気候変動ポツダム研究所(PIK)などの共同執筆者が名を連ねている。
米気候研究機関クライメート・セントラル(Climate Central)が22日までに発表した別の研究報告によると、
地球温暖化がなかった場合、1950年以降に米国沿岸部で起きた洪水災害8000件の半数以上は発生しなかったと想定されるという。(c)AFP
http://www.afpbb.com/articles/-/3078053  

★阿修羅♪
http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/266.html
天体情報

海王星運行一覧表(1950-01-01から2050-12-31)|本厚木@UP運するための占星術ブログ
あなたの生まれた日の海王星星座一覧表です。記事の参考にしてくださいね。
1950年01月01日~ 天秤座
1955年12月25日00時04分~ 蠍座
1956年03月12日11時09分~ 天秤座(逆行)
1956年10月19日18時20分~ 蠍座
1957年06月16日05時31分~ 天秤座(逆行)
1957年08月06日17時01分~ 蠍座
1970年01月05日04時46分~ 射手座
1970年05月03日10時43分~ 蠍座(逆行)
1970年11月07日01時26分~ 射手座
1984年01月19日11時45分~ 山羊座
1984年06月23日10時19分~ 射手座(逆行)
1984年11月21日22時11分~ 山羊座
1998年01月29日11時44分~ 水瓶座
1998年08月23日09時36分~ 山羊座(逆行)
1998年11月28日10時06分~ 水瓶座
2011年04月04日22時33分~ 魚座
2011年08月05日12時22分~ 水瓶座(逆行)
2012年02月04日03時52分~ 魚座
2025年03月30日20時37分~ 牡羊座
2025年10月22日19時32分~ 魚座(逆行)
2026年01月27日02時07分~ 牡羊座
2038年05月22日08時39分~ 牡牛座
2038年10月21日22時05分~ 牡羊座(逆行)
2039年03月24日05時02分~ 牡牛座

本厚木@UP運するための占星術ブログ
http://ameblo.jp/fortunecafe-ceres/entry-11276380650.html