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魏志倭人伝・東夷伝


卑弥呼とは一体誰か
2015/3/8(日) 午前 8:10
書庫古代の話
この国では卑弥呼、卑弥呼と喧しいが、一体誰なのか今もってはっきりした答えはない。しかしあちらの魏志倭人伝にはそれらしき存在はしっかり書き残されている。日本では神功皇后の事だと云ってみたり、果ては天照大神だと云ってみたり、第七代交霊天皇皇女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)ではないかとも言われている。
あちらの年号景初元年は西暦245年ごろに当たる。この魏志倭人伝の中の東夷伝を書いたのは陳寿と言われる人物。
陳寿がこの書を書いたのは280年頃、その中には、、
其の国元男子を持って王と為す、住(とどまる)事七、八十年、倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり、乃ち共に女子を立て王となし、名付けて卑弥呼と曰す、鬼道を事とし能く衆を惑わす。男王ありて国を治むるを佐(たす)く、年巳に長大なるも夫婿なく、王となりし自(より)し以来見る事こと少なし、、とある。
そのころこの国の歴史書、日本書記では丁度神功皇后が治めていたころになっている。神功皇后が治世していた年代は西暦201年から269年の69年の間。しかし余りにも実態とかけ離れている。これ程長年国を治めていたにも関わらず、天皇としては記載されていない。神功皇后はあくまで第14代中哀天皇の皇后でしかない。その神功皇后にある日神からお告げある。
「西の方に金銀をはじめ様々な宝に満ちた国があるその国を与えよう」と神託があった。
たちまち中哀天皇にそのことを進めたが、天皇は一向に乗り気ではなく、九州の熊襲退治に出かけようとした、がそこで死んでいる。謎の死である。
又卑弥呼は二人いた、という先生まで現れた。この先生何が何でも九州に王朝を持っていきたい方。
さて箸墓、そこに祀られているのは一体だれか、その箸墓が作られ始めたのが丁度240年頃。日本の前方後円墳の始まりと言われる巨大古墳。だがこの全長280メートルもある。そしてこの古墳は全国でも11.2番目の大きさと言われる。一番大きいのは大仙山古墳、現仁徳天皇陵と言われているが、これも最近異論が出てきている。
大体この国ではっきりしているのは、九州の岩戸山古墳に入っている筑紫の磐井以外にない。がこの国の日本書紀には一切卑弥呼は出てこない。欠史八代と言われる天皇の中にはこの交霊天皇も入っている。にもかかわらず、あの箸墓伝説だけはすこぶるその存在が大きい。
日本書紀ではその交霊天皇が治世した年代は紀元前290年から215年までの75年間。卑弥呼が存在した年代とは余りにもかけ離れているだろう。
実はあの推古天皇9年、西暦600年から一蔀(いちほう1260年)遡らせたことが大きなずれとなっていることは明白。あの箸墓伝説の中ではこの「ヤマトトトヒモモソヒメ」は大国主命の妻であり、夜ごと通ってくるがその姿を見たことがない。その為一度お姿を見たいものと大国主神にお願いした。すると大国主命が、明日貴女の櫛箱の中に入っているから開けてみてくれと云った。そしてその姿を見ても決して驚いてはいけない、とくぎを刺した。そして次の朝モモソヒメは櫛箱を開けてみて驚いた。そこには一匹の美しい子蛇が入っていたのだ。モモソヒメは驚きの声を上げた。と途端に大国主命が姿を現し、よくも私に恥を掻かせたなと怒り、三輪山の方に飛んで行ってしまった。モモソヒメは余りの事に驚き腰を抜かして座り込んだ。その時持っていた箸が陰部(ホト)に刺さり死んでしまったと云う。箸で陰部を差すなど、よくもこんな事が書けるもの、如何に日本書紀がいい加減なものであるか、しかもそれがこの国の正史である。このモモソヒメ、一日に百回も襲うという恐ろしい名前、それが卑弥呼ではないかと云われている。
しかし日本書記には一切その名前は出てこない。このほかにも日本書紀にはいかがわしい記載が多い。しかしある意味ではそれらを包み隠さず、そのまま載せている所に信憑性がある、と評価されている面もあるらしい。
さて箸墓はこの国最初の前方後円墳である。あの頃はまだこの陵を取り巻く周濠池はなかったようだ。が後に近くの農民が灌漑用の池を作った。だから一方にのみ大きな池がある様だ。その古墳を作るに於いては、昼は大坂山から人伝いに手渡しして石を運び夜は神が作ったと伝えられている。
それにしてもあの地域に集合する古墳、実に35個もある。中でも箸墓は最大級のもの、勿論奈良平城京の近辺にも多くある。空から見れば大和盆地は前方後円墳だらけだ。
ちなみに神功皇后陵は平城京の北側にある。卑弥呼が死したのは西暦245年ごろ、そのころ丁度日本列島で日食が起きる。そして巫女たる者それも予測できなかったのかと責められる。そして死している。果たして自然死なのか自殺なのか、不自然な死である。死した途端、又国内が騒然とし争いが起きる。そして卑弥呼の宗女台与(とよ)が立てられる。そしてやっと争いは収まる。
果たして台与とは何者なのか、それも日本書紀には一切記されていない。古事記は正史と認められていないが、実際にトヤマトトトヒモモソヒメが生存した年代は紀元前290年から215年頃まで、崇神天皇が日本書紀に出てくるのは紀元前97年から前30年迄、その崇神天皇には大叔母に当たる。余りにも年代が違うだろう。
丁度秦の始皇帝が中国全土を征服した頃。そのころ秦の始皇帝の征服からはじき出された多くの中国人がこの国に逃げてきた。それまでは縄文時代。一つは朝鮮半島を陸伝いに、又直接海を伝って逃げ込んだ人間が多かった。稲作を持ち込み、鉄を持ち込んだ渡来人、この国をどれ程発展させたか。一気にこの国は秩序ある国家として変身してゆく、だが当時この国は文字持たなかった。その為大権を主張するには巨大な古墳を作り人々をその権威の元に従わせていた。兎に角日本の古代は読めば読む程分からなくなってくる。卑弥呼も台与もいったい誰なのか今となっては分らない。
が意図としてわからないように編纂したのはかの藤原不比等だ。日本書記は天武天皇の発案で書かれ始めたが、それを編纂したのはこの藤原不比等だ。その日本書記の完成を見て安心するようこの世を去った。

Roshyの独り言
https://blogs.yahoo.co.jp/rizrizriz30/46869459.html




[年表] 百済王修正年代

[年表] 百済王修正年代
半年一年暦から中国暦へ
日本古代は半年で1年と数える暦を用いていたようである。
朝鮮半島の百済及び新羅も半年一年暦を用いていたと思われる。
明らかに同世代とわかる
日本の神功皇后、
百済の近肖古王、
新羅の奈勿王
から7世代前が百済の始祖温祚、8世代前が新羅の始祖赫居世である。
日本の天皇と照合すると、
温祚が第6代孝安天皇、
赫居世が第5代孝昭天皇
と同世代となる。
三国史記では、温祚はBC18年、赫居世はBC58年即位となっている。
百済、新羅も半年一年暦を用いていたためにこのずれが生じたと考えられる。
新羅・百済の実態
しかし、新羅本紀の伝承に修正すべきところがみつかっている。
うみのさわら氏「邪馬台国と大和朝廷を推理する」より
第一の定点は、8代阿達羅(あたら)尼師今(にしきん)の20年の記事です。
そこには、倭の女王卑弥呼が使者を派遣して来訪させたとあります。
初めこの記事を信用して、年代修正をしました。
すると、16代訖解(きっかい)尼師今の310年から中国暦を採用したことになりました。
この場合、卑弥呼の記事を173年から242年に修正することになりました。
ところがこの修正にはあとで問題が発生しました。
第二の定点は、15代基臨(きりん)尼師今の3年の記事です。
そこには、楽浪・帯方の二国(二郡)が服属してきたとあります。
この記事が、二郡からの難民の流入を示すとすれば、314年以後のことと理解できます。
この記事に着目して年代修正すると、17代奈勿(なもち)尼師今の356年から中国暦を採用したことになりました。
この場合二郡からの難民の移住は328年のことになって、無理がありません。
しかし第一の定点では、難民の移住は305年になって、不自然です。
また、第二の定点による修正では、卑弥呼の記事は265年になります。
この年は魏が滅んで晋に変わった年で、女王台与が晋に朝貢した前年にあたります。
これは一見無理のようですが、卑弥呼を台与の誤りと見れば、問題がなくなります。
したがって二つの定点のうち、第二の定点が正しいと思われます。
 新羅の王家には三つの姓があります。初めは朴氏の王がいましたが、次に昔氏の王が現れました。
そして17代奈勿(なもち)尼師今からは金氏の王が続きます。この昔氏から金氏への変わり目が、
半年暦から中国暦への変わり目にもなっています。この年代修正によれば、新羅の建国は150年後半です。
新羅は地理的には中国から遠いのですが、準王や徐福の例もあるように、昔から中国方面からの移住者が多いところです。
「新羅本紀」の3代儒理尼師今の14年の条によれば、高句麗の3代大武神王が楽浪を滅ぼしたので、
その国人五千人が新羅に投降したと書かれています。紀年を修正すると、この年は197年になります。 

古代史の復元
http://www.geocities.jp/mb1527/N1-02-1nendaisuitei.html
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm










百済王修正年代
百済本紀 修正
即位 退位 在位 即位年 退位年 在位年
1 1 温 祚 -18 28 47 163.5 186.5 23
2 2 多 婁 28 77 50 186.5 211 24.5
3 3 己 婁 77 128 52 211 236.5 25.5
4 4 蓋 婁 128 166 39 236.5 255.5 19
5 5 肖 古 166 214 49 255.5 279.5 24
6 6 仇 首 214 234 21 279.5 289.5 10
7 7 沙 伴 234 234 1 289.5 289.5 0
8 5 古 爾 234 286 53 289.5 315.5 26
9 6 責 稽 286 298 13 315.5 321.5 6
10 7 汾 西 298 304 7 321.5 324.5 3
11 7 比 流 304 344 41 324.5 344.5 20
12 8 344 346 3 345 346 1
13 8 近肖古 346 375 30 346 375 29
14 9 近仇首 375 384 10 375 384 9