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御嶽山失踪事件

御嶽山失踪事件
■1979年7月15日,御嶽山失踪事件
200X年にK県の山中を家族で散策中の少女が,親がほんのわずか目を離した隙に忽然と消えてしまった。
すぐに大捜査が行われたが,手がかりはなく,少女の足跡を追った警察犬は,ある地点に来ると止まってしまって,それ以上進まなくなってしまったのであった。
現場検証とその後の実験から導き出された結論はただ1つ,少女は犬が進まなくなってしまった地点で,唐突に空中に引っ張り上げられたという何とも衝撃的なものだった。(専門家たちは,それ以外考えられなくなったのである)
だが仮にヘリコプターのようなもので引き上げたとしても,現場は森の中で機体の進入は困難だし,第一にヘリの爆音が山中に響き渡ってしまい,犯行がばれてしまうだろう。
ワイヤーかロープで吊り上げるとしても,事前に体に巻きつける等の準備が必要だし,気まぐれに歩いている子供が,必ずそこを通るとは限らない。引っ張り上げるのにも時間がかかるし,親がすぐ目の前にいたことを考えると,ありえない話だ。
まさに神隠しとしか言いようのない事件なのである。
超常現象研究の面から考えると,K県での神隠し事件が起きた周辺は,水木しげるのゲゲゲの鬼太郎で登場して広く知られるようになった,牛鬼が出た場所として知られ,近くの寺には牛鬼を封じた結界がある。
またこの場所は神隠しの代表的犯人とされる天狗が棲んでいると言い伝えられている。
極め付きはその寺のすぐ近くに,日本最大の怨霊として恐れられた某人物のの墓所がある。
問題は当時の日本人がこの人物をこの場所に押し込めたのだろうか。
現代人には想像もつかないかもしれないが,当時の日本人は,この場所が異次元と繋がっているという認識が明確にあって,恐怖していたのではないだろうか。だが,どうやら魔界と神界は背中合わせらしい。
神々の聖地として敬虔な巡礼者が山道を行きかう,いわゆる「聖地」でも神隠しは起きている。木曾の御嶽山で,巡礼者が神隠しに遭ってしまうという事件が起きたのだ。
1979年(昭和54年)7月15日のことである。
天狗の棲む霊山として,古来から人々の信仰を集めている木曾の御嶽山で,1人の男性が消えた。
この男性は御嶽山参拝ツアーに参加した1人で,ツアー仲間と山を登っていたのであるが,ふと気が付くと男性が何処にもいないことに仲間が気が付いて事件となった。
一緒に登っていた仲間たちは,消える直前まで男性の姿を目にしていたという。
このときは400人近い人数で大捜索が行われたが,男性は2度とみつからなかった。
男性が消えてわずか4日後に,再び事件は起きた。
58歳の男性が登山中に消滅したのである。
男性のすぐ真後ろを歩いていた目撃者によると,道の前方にある大きな岩陰に男性の姿が隠れたと思ったら,つぎの瞬間には消えていたいう。目撃者は岩に着くとすぐに辺りを探したが,男性の姿は何処にもなく,そのまま消えてしまったのであった。
御嶽山にはこのほかにも,1976年に登山隊のリーダーが仲間の目の前で消滅する事件が起きている。先頭を歩くリーダーを後方から追っていた仲間たちは,消える直前までリーダーの元気な声が,すぐ前から聞こえてきたという。
だがほんの一瞬,目を離した隙に,そのリーダーは掻き消えてしまったというのだ。そして,これと全く同じ事件がアメリカでも起きている。
1957年(昭和32年)カリフォルニア州の国立公園ハイキングコースで,8歳の少年が消えている。
少年は家族6人でハイキングコースを登山中に消えてしまったのだが,その消え方は目撃者である家族自身も信じられないようなものだった。
少年を先頭に,家族は一列になって山道を登っていたのだが,少年が山道の角を曲がった瞬間に消滅したことに家族は衝撃を受けた。
ほんの数歩前を歩いていただけの距離である。誘拐は考えられなかった。
この公園ではこのほかにも3年間に3人の子供が消えてしまうという不可解なケースである。
日本の御嶽山の事件の場合,古来の言い伝えの中に謎を解く鍵がある。
御嶽山にいる山の行者たちは,この山には「幽界への入り口」があり,消えた人たちは幽界の住人に引き込まれてしまったと信じているのだ。
かつてはこの山には修行者だけが入ることを許された山なのであった。
明治・大正時代の神隠し事件のときには,犯人とされる天狗が空を飛び回る轟音を聞いたという目撃者が多数いる。
天狗の飛行コースには法則があるらしく「天狗の通り道」と言い伝えられていた場所も各地にあったようだ。
太平洋でも見えないUFOに遭遇した開洋丸の乗組員は,漆黒の夜空を飛び去っていく異様な轟音(ソニックブーム)を耳にしている。
異星人による人間誘拐事件を見ていて思うのだが,隠れるべき自然が減るつつある現代,「現代の人さらい」は天狗の格好をやめて宇宙服を着込み,宇宙船に乗って異次元から現れるらしい。

徒然ブログ
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スーパーマーケット人気





[市場]スーパーマーケットが進出
1981年
1930年代アメリカに生まれたスーパーマーケットは,第二次世界大戦後,流通革命の中心としてヨーロッパに波及して,わが国にも1960年代から生まれだして, 1970年代から1980年代に入ると,巨大スーパーは百貨店の売り上げを超えて全国に支店をはりめぐらせるするようになった。
ダイエー
イトーヨーカドー
長崎屋
ジャスコ
などがこれである。
スーパーマーケットは,セルフサービス方式をとることによって人件費を少なくして,これによるコスト低下によって薄利多売を図ろうとするだけではない。
百貨店の場合,10万種類程度の品物を揃えて,返品が効く形で問屋からものを仕入れて,問屋との了解をもとに価格を決めている。
ところがそれに対しスーパーマーケットは品物の種類を大きく制限して,ほぼ1万種類以下,本店に仕入れの専門家を置いて,これが大量買い入れ/仕入れる。従って低価格で仕入れ,これを各スーパーマーケットに回すなど,価格を自らの責任で決めていく。
こうしたシステムであるために,支店長制度の下,ベテランを配置しなければならない百貨店に対して人材供給が容易であって,また付近の商店よりも一段と安い価格で売ることができて,急速に支店網を広げることができた。
他方,既存商店はスーパーの進出によって脅威をうけるところから,一方でこれらの規制を求めて,1973年,「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律(大店法)」を整備させた。
このような規制法を成立させた背景には,1973年の第一次石油石油ショック以降,地方に進出するスーパーマーケットは都市中心部に立地するだけではなく,マイカーに便利な郊外の新興地に立地して,そのために伝統的な繁華街が衰退すると言う状態が見られた事もある。ファミリーレストランなどの普及もこうした傾向を強めている。
こうしたスーパーの攻勢に対して,夜遅くまで開店してるセブンイレブンや24時間営業を続けるサンチェーン等,連鎖店組織も生まれた。
また,スーパーマーケットをそれ自身も一方で高級化して,百貨店化する店を作って,他方でさらに安く売ることができるようにと商品を段ボール箱に入れたまま並べると言うボックスストアなども出現させた。
こうした流通業界の激しい競争の中で,1980年代にはスーパーマーケット最大のダイエーがフランスの名門百貨店オ・プランタンと提携して一方で百貨店への進出を用意すると同時に,アメリカのディスカウントストア・Kマートと連携して,国際的に共同仕入,共同開発体制を敷く反面,日本最大のボランタリー・CGCジャパンと連携して共同仕入,商品の共同開発法を図るなど,流通業界は競争と再編が進んで,新しい時代が訪れようとしている。
ー学研百科事典Brummell,1981年,       

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スーパーの販売額ランキング, 1979年度
ランク,会社名,販売額,テンポス,
01,ダイエー, 10兆2594億円,159
02,イトーヨーカドー, 05兆7353億円, 092,
03,西友ストアズ, 05兆2654億円, 144
04,ジャスコ, 05兆0238億円,127,
05,三越, 04兆9055億円,014
06,大丸, 04兆1277億円,007,
07,ニチイ, 03兆9692億円, 148,
08,高島屋, 03兆7501億円,005, 
09,西武百貨店, 03兆4111億円,010,
10,松坂屋, 02兆9869億円,009,
ー学研百科事典Brummell,1981年,       

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食糧戦争

BIG MANパニックレポート
1982年は食糧戦争の幕開けになる
(小説 食糧危機 )
1982年2月。北極から張り出してきた寒気団はカナダを覆い尽くし、瞬く間に五大湖の上空に侵入した。
東京大手町のある総合商社10階。ミシシッピ川の凍結がケイロまで進んだという情報が入って以来、穀物セクションの部屋は殺気立っている。
「荷が川を下りてこない以上、契約通りの受け渡しは困難ですよ。現地の穀物商社等は、いつ不可抗力宣言を出して受け渡しを送らせようかという談合を始めたとの情報もあるくらいです。」
日本の食料品店の店頭から豆腐屋油揚げが姿を消すのに時間はかからなかった。つい昨日までスーパーの目玉商品に使われていたサラダ油が、客1人に一缶という割り当て販売になった。食用油不足から営業時間の短縮を余儀なくされた天ぷら屋が続出。肉は急に安くなった。
エサ不足とエサ価格急騰で、畜産業者は豚などを買い続けるのは難しくなって、どんどん屠殺しているからだ。
「消費者に朗報」などと喜んでいられるのは短い間だ。まもなく供給がガタ減りし、肉は前よりも高嶺の花になる。大量屠殺の後遺症はまず1年は残る。
食料危機という声が高まるにつれて色々な物の出周りが少なくなってきた。社会不安の高まりを恐れて政府は売り惜しみ買い占め防止法(投機防止法)をちらつかせる必要を感じ始めた。
以上はフィクションであるが、全くの作り事ではない。
1977年のミシシッピー川凍結はこれと似たような状況を作り出した。カーター前大統領は陸軍工作兵を送り出し、凍結した川をダイナマイトで砕いて穀物を積んだバージ(はしけ)が通れるように手を打った。
それでも正常化するまでに2ヶ月以上かかっている。
日本国内では関連商品が高騰し、大混乱となった。
当時は3ヶ月以上の再婚あったものの、第一次石油危機の記憶が生々しかったためか、パニック寸前までいった。
先ほどの商社マンの話ではないが、現在の在庫は1ヶ月分ぐらいしかない。1977年以上に危険な状態にあるわけだ。
例えば日本の大豆の輸入量440tの96%がアメリカ。しかもアメリカからの船積みの70%はミシシッピ川-ガルフを経由している。 ミシシッピ川は日本の台所に直結しているというわけだ。
現在の日本の食料状況は、輸入に占めるアメリカの比率もさることながら、自給率も低く、海外市場の演歌をもろに受ける体質になっている。
日本の米の年間生産量は約1300万t。
これに対して、小麦、大麦、大豆、トウモロコシの年間輸入量は約2800万tと、米生産量の約2.2倍である。穀物自給率はわずか34%。
農政審議会の見通しでは、1990年には30%に減り、以後じりじりと自給率は落ちていく。
「不測の事態」が起きて、輸入が減ったらどうなるか。一人当たりの栄養水準で見ていくとわかりやすい。
現在日本人の1日あたりの栄養水準は2500カロリー。もし輸入が現在の3分の2に減少しとしたら、2151カロリーと、昭和30年代初めの水準になる。輸入が半分に減った場合は1914カロリーしか摂取できず、まだ戦後間もなく、あちこちにやけあとが残っていた30年前に逆戻りしてしまうのだ。
「不測の事態」のうち、最も起こり得る可能性が高いのはミシシッピ川凍結であるが、日本の日本にとっての影響は軽い方であろう。一時的なパニック状態は起きるものの、それは時間が解決してくれるだろう。
1981年11月16日。ソ連共産党中央委員会総会。
ブレジネフ書記長は、外交・軍事面で、ソビエト連邦はアメリカに対して優勢を保っていると得意満面で演説を続け、出席者は万雷の拍手を送った。ところが食料生産の項目に入ると、書記長の口調はにわかに弱々しいものになった。1981年の穀物生産目標2億3500万t。ところが実際の収穫量は1億7000万tを下回る成績になってしまったのだ。3年連続の不作であり、特に1981年は最近では最悪と言われた1975年の1億3000万t以来の低い収穫量である。
いつしかブレジネフの口調は哀願調になっている。
「ソビエト連邦、穀物不足を公式に認める」-ニュースは世界中を駆け巡り、シカゴの穀物相場は上伸、ロンドン・チューリッヒの金相場は、1トロイオンス400ドル台を割り込んだ。ともにソビエトは穀物の大量輸入に出る必要があるという予想に反応したものだ。
ソビエトの投資外貨事情では、金を売らなくては穀物は買えないはずであり、実際、このところ売主不明の金売却量が増えている。
スイスの個人銀行は顧客に金の売りを指示した。シカゴのメリルリンチ社は顧客に大豆とうもろこしの買いを支持した。史上最高の豊作で停滞している市場にとって、ソビエトの不足は願ってもないカンフル剤になる。
「4万トンでもソ連に売ってやるぞ」、相場の上げはそう叫んでいるようにも見えた。
アメリカ農務省は1981年~1981年(1981年10月~1982年9月)のあいだに曽木とは4000万tの穀物を輸入すると予想し、アメリカから2000万tは買うだろうと見ている。
ところが1981年から1982年12月の船積み物を1000万円まで買い進んだところでソビエトは買付を見送って、アルゼンチン、ブラジル、カナダなどアメリカ以外の穀物生産国での買い付けを急ぎ始めた。
そして12月13日、ポーランドに戒厳令が施行され、自主管理労働組合「連帯」の弾圧が開始された。ヤルゼルスキ軍事政権の後ろにはソビエトの影がちらつく。
アメリカは対ソビエト制裁に乗り出すだろう。穀物禁輸で締め付けてくる可能性がある。そうした事態に備えるには、アメリカからの輸入依存度を下げておかなければならない。
昨年末アメリカレーガン大統領が発表した対ソ連制裁では、穀物禁輸は見送られたが、今後の情勢次第では穀物禁輸もあり得ると威嚇している。
穀物が外交特にソビエトとの関係で有効な武器になるとアメリカが気がついたのは、1972年から1973年にかけて、ソビエトが隠密裏に大量のアメリカ産穀物を隠密に買い付けたことがきっかけであった。当時のニクソン大統領、キッシンジャー特別補佐官は、早速国務省、CIAにソ連の農業実態を調査させるチーム作成を命令、報告と偵察衛星による写真分析を重ね合わせてみた結論は、
「ソビエトの農業生産は伸び悩みがはっきりしており、増え続ける需要を自力で賄いきれなくなっている。常に大量輸入が必要な状態になってきている。」
ニクソン・キッシンジャーがソビエトとの交渉に穀物取引をを絡み始めたのは言うまでもない。
-雑誌BIG MAN 1982年3月号

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主要生産国の生産量
1979年度
アメリカ  29900万t
中国  27900万t
EC   14800万t
ソ連  17400万t
インド  12600万t
カナダ  3600万t
ブラジル  3300万t
アルゼンチン  1900万t
オーストラリア 2300万t
-雑誌BIG MAN 1982年3月号

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国鉄経営状況

国鉄経営の現状
1981年
経営的には満身創痍
国鉄は1963年まで黒字を実現できていたが,1964年以降今日まで常に赤字,1971年からは償却前赤字に陥って,今日まで改善されるところはない。
ここ数年,赤字は年8000億円から9000億円を続けている。
1976年にはそれぞれの累計赤字3兆1600億円余りのうち2兆5400億円余りを棚上げして,資本金のうちの5604億円を減額して累積赤字の大部分を消した。しかしその年も9000億円を超える赤字を生んで,1979年には再び3兆5000億円の累積赤字となって,再びこれらの額の棚上げを余儀なくされた。
200を超える国鉄路線の家で黒字は
新幹線,
山手線,
他5社
のみ(1980年度),他はすべて赤字である。 
その内容を見ると,
1978年度の赤字8664億円
のうち,
貨物の赤字は6076億円,
営業ケースは297
となっている。つまり100の収入を上げるのに実に3倍近い費用を要しているのである。
なぜこのような状態になっているのであろうか。理由は明白である。1965年以降のわが国の自動車輸送の発達が国鉄貨物の競争者としてこれを圧迫したため,国鉄の使用は年々落ちて,しかも国鉄貨物は自動車との競争上料金を引き上げることが難しい状況に追い込まれたからである。
しかし国鉄の赤字のうち貨物の赤字が他を離して大きく,貨物の再建なしに国鉄の再建はないところから,国鉄再建は極めて困難であることがわかる。
国鉄貨物の全面廃止,それによる大幅経営縮小,これ以外経営の立て直しは考えられないのかもしれない。
確かに赤字に悩む国鉄の中にあって,新幹線は営業係数60前後を続けており黒字である。しかしそれは新幹線だけをとったからであって,山陽新幹線ができることによって従来まで経営が良かった山陽本線が大きく落ち込んだことを新幹線の投資効率の中に勘定しなければ,真の意味での新幹線の投資効率にはならない。
こうした計算の第一次接近として,もし山陽新幹線5在来線の複々線化と考えると,前者のみの営業件数約90に対して,両者合計130前後,つまり100の収入に対して130の経費を必要としているのはここ数年の平均的姿である。確かに東京〜大阪間は新幹線だけだと営業ケース50以下で在来線と合計した場合でも90付近であって,黒字である。しかし山陽新幹線にしてしかり,東北新幹線,北陸新幹線など営業は決して国鉄経営上プラスにはならないのである。
21世紀を担う国鉄。それは新幹線網であり,それのみがモータリゼーションの波と戦えるものであるにもかかわらず,経営的にこうした問題が存在するのである。
在来線の国鉄旅客を見ると,ここでは経営が過密・過疎の影響をまともに受けている。
地方交通線では沿線人口の減少,自家用車の普及などによって乗客は減少して,また定期客が全体の2分の1,そのうち割引率の大きい通学が約60%を占めている。こうした結果,地方交通線の営業係数は平均して427(1979年度)であってこれが1000を超えるところもある。
他方大都市においては人口集中に伴う混雑を緩和させるために,巨額の投資を必要として,これかろ経営を大きく圧迫する一因となっている。
加えて東京などのように国鉄と私鉄が平行して走っているところでは,国鉄の運賃は私鉄に比べて著しく高くなって,この面からも運賃の引き上げが難しくなっている。ただし地方の私鉄は概ね国鉄の2倍であって,国鉄の全国一律賃率が現状にそぐわなくなった面を無視することができない。
このような国鉄経営の悪化に対処して1980年11月「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」が成立, 1981年,経営改善計画が発足した。
この計画は,
経営の合理化に努め, 1980年度41万9,500人の職員数(予算人員)を1985年には35万人に縮小する,
鉄道特性の発揮しがたい路線輸送密度1日1キロ平均4000人以下の特定地方交通先は,順次バスに転換して縮小を図る(当面は輸送密度2000人以下を転換する),
地方交通線については特別運賃を設定してこれを引き下げる,
関連企業の利益のうちで1985年までに5000億円程度を吸い上げて,国鉄の赤字を埋める,
などを骨子とするもので, 1985年度には幹線における収支均衡を達成しようというものである。
この計画を「後のない計画」と国鉄自らが呼んでいるように,従来ない大胆なものであるが,こうした計画をもってしても,今後開業する新幹線(東北新幹線,北陸新幹線)に伴う赤字は除外されている。また特定人件費の増加によって7700億円の赤字が単年度で発生するなど,経営の改善は事実上実現できないものと思われる。
モータリゼーションの進行によって客と貨物を奪われて,飛行機の発達によって遠距離客を失う,という国鉄の姿は日本だけではなく,先進資本主義国一様の姿である。
しかし日本ではドイツ・イギリスなどの鉄道が輸送する重量貨物の多くを内国海運が分担して,加えてドイツ・イギリスの石炭のような特定物質をエネルギー革命その他によって失っている。しかも先進国のように鉄道特性のない路線からの撤収が政治的に制限されており,思うにまかせない。加えて,政治的要求が不採算の新規路線の建設をしている。
先進国では政策割引に相当する金額を鉄道に保障しているか,これも日本では実現されていない。
しかし問題はこうした客観的条件だけではない。
今もし首都圏等の過密対策として20年間にわたって年60億円程度の黒字を生んできた山手線の利益をこれに投入していたならば,第二山手線をはじめ一大都市交通網が整備されてそれなりの収益を得ていたであろうしかし実際にはその利益を吸い上げて地方線に授入していた。大都市から金を吸い上げて,それを地方が使うと言う戦後の政治がこれを加速したのである。
それと同時に地方交通線にしても私鉄の場合には(合理化のために運賃が国鉄の2倍であるため)に乗車密度4000人以上は黒字であるのに国鉄は8000人以下で赤字である。
大井川鉄道のごときは乗車密度2000人以下でも関連企業を含めることによって経営を維持している。もし地方交通線を国鉄から分離してそれぞれの地域で独立の形態として経営にいれれば廃止することなく維持出来る路線も多いと思われる。
またバスに転換すれば赤字が縮小すると言うけれども,その実態は両者の運賃,特にその定期代の違いである。
過疎地域で国鉄バスに転換すると1日何便も出せるようになって,しかも停車間隔も縮まる等の利便が生まれるが,運賃を定期代で見ると何倍にも跳ね上がる。もしこれだけの運賃を国鉄に支払う用意があるならば国鉄路線を維持することも可能であることをに注意する必要があろう。
国鉄再建計画では地方交通費のうち輸送密度1日8000人以下4000人以上の約2000キロは鉄道の方がバスなどよりも経済的であるために経営を続けて,また輸送密度4000人以下でもバス転換不可能な約2000キロも国の補助で運営を続ける。それ以外のもののうち輸送密度1日2000人以下のもの約2000キロは1985年度までに残りの約1000キロ(輸送密度1日4000人以下 2000人以上でバス転換可能なもの)は1985年以降にバスに転換することにしている。しかしこれに対する反対は政治家を巻き込んで実現は容易ではない。
それに国鉄経営上,大きな問題は労使関連である。
それは単に繰り返される春闘をめぐる対立を言うのではない。それは表面上の対立に過ぎない。なぜならもし労使のペースアップをめぐって合意したとすれば予算の修正を伴うことになって,国会でこれらを通すことが難しくなるのである。
しかし交渉が決裂して,公共企業体労働委員会が仲裁裁定を引き出すと,その決定を労使が尊重しなければならないならない事は法的に決められているために,予算修正が容易である。このため春闘がスト突入,直ちに中止と言うパタンを含んでいるのである。
しかしこの事態を知らない株労働組合は反発して一部は民社党組合のようにストに反対して, 一部は新左翼の組合のように労働組合幹部日批判を強めて,労働対立問題が起きている。これが「山猫スト」を生み,貨物輸送を混乱させて国鉄日木貨物衰退の大きな要因となったのである。
それゆえに国鉄再建計画では労使関係の改善が改めて問題にされて,労働組合の協力の上に合理化が行われようとしている。このことが反面では地方交通線の分離など大きな構造改善政策を難しくしたしたのである。
ー学研百科事典Brummell,1981年,       

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