日本はパンデミックをいかに乗り越えたか~100年前のパンデミック・スペイン風邪の教訓
古谷経衡 | 文筆家/著述家
2/28(金) 23:17
1918年のスペイン風邪でマスクをする女性(豪州メルボルン・パブリックドメイン)
新型コロナウイルス禍がパンデミックの模様を呈している(2020年2月29日、WHO事実上のパンデミックを宣言)。パニックや流言飛語も相次いでいる。しかしこのようなパンデミックは、20世紀を含め過去に何度も起こり、そして人類はその都度パンデミックを乗り越えてきた。今次の新型コロナウイルス禍への対策と教訓として、私たちは人類が遭遇した過去のパンデミックから学び取れることは余りにも多いのではないか?
本稿は、20世紀最悪のパンデミックとされ、世界中で2000万人~4500万人が死亡し、日本国内でも約45万人が死亡した「スペイン風邪」を取り上げる。そして日本の流行状況と公的機関の対策を追い、現在のパンデミックに抗する教訓を歴史的教訓から得んとするものである。また本稿の執筆にあたっては、日本に於けるスペイン風邪を詳細に分析した第一級の書『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界大戦』(藤原書店、速水融著・以下速水)と、スペイン風邪が去った後に当時の内務省が編纂した『流行性感冒 ”スペイン風邪”大流行の記録』(内務省衛生局編、平凡社から復刻・以下内務省)の2冊を参考とした。
速水(左)、内務省(右)
■100年前のパンデミック「スペイン風邪」とはなにか
1918年から1920年までの約2年間、新型ウイルスによるパンデミックが起こり、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。そのうち2000万人~4500万人が死亡したのがスペイン風邪である。現在の研究では、そのウイルスはH1N1型と特定されている。
スペイン風邪の発生は、今から遡ること約百年前。1918年春。アメリカ・カンザス州にあるファンストン陸軍基地の兵営からだとされる(速水,38)。当時は第一次世界大戦の真っ最中で、ドイツ帝国は無制限潜水艦作戦によって中立国だったアメリカの商船を撃沈するに至った。このドイツの粗暴な振る舞いがアメリカの参戦を促し、アメリカは欧州に大規模な派遣軍を送ることになる。
アメリカの軍隊から発生したとされるスペイン風邪は、こうしてアメリカ軍の欧州派遣によって世界中にばら撒かれることになった。当時のパンデミックは、航空機ではなく船舶による人の移動によって、軍隊が駐屯する都市や農村から、その地の民間人に広まっていった。
ちなみに、アメリカから発生したのになぜスペイン風邪という呼称なのか。それは第一次大戦当時、スペインが欧州の中で数少ない中立国であったため、戦時報道管制の外にあったからだ。そのためこの新型ウイルスの感染と惨状が、戦時報道管制から自由なスペイン電として世界に発信されたからである。
スペインでは800万人がスペイン風邪に感染。国王アルフォンソ13世や政府関係者も感染した。日本では当初「スペインで奇病流行」と報道された(速水,49)。
■「スペイン風邪」、日本に上陸
日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。そののち、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がった(速水,328)。当時、日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」である。
速水によれば、日本に於けるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に別れるという。「前流行」は1918年の感染拡大。「後流行」は1919年の感染拡大である。どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。
ともあれ、このスペイン風邪によって、最終的に当時の日本内地の総人口約5600万人のうち、0.8%強に当たる45万人が死亡した。当時、日本は台湾と朝鮮等を統治していたので、日本統治下全体での死者は0.96%という(速水,426.以下、図表参照)。1945年、東京大空襲による犠牲者は10万人。日露戦争による戦死者約9万人を考えるとき、この数字が如何に巨大なものかが分かるだろう。単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になる。これは大阪市の人口の約半分にあたる。
■「スペイン風邪」の凄惨な被害~一村全滅事例も
「前流行」と「後流行」の二波による日本でのスペイン風邪の大流行は、各地で凄惨な被害をもたらした。以下速水より。*適宜筆者で追記や現代語訳にしている。
福井県九頭竜川上流の山間部では、「感冒の為一村全滅」という見出しで、面谷(おもだに)集落では人口約1000人中、970人までが罹患し、すでに70人の死亡者を出し、70人が瀕死の状態である旨報道されている。
(1919年)2月3日の東京朝日新聞は、東京の状況を「感冒猛烈 最近二週間に府下(当時は東京府)で1300の死亡」という見出しのもと、警視庁の担当者談として「今度の感冒は至って質が悪く発病後直肺炎を併発するので死亡者は著しく増加し(中略)先月11日から20日までに流行性感冒で死んだ人は289名、肺炎を併発して死んだ人は417名に達し(後略)」と報道している。各病院は満杯となり、新たな「入院は皆お断り」の始末であった。
(岩手県)盛岡市を襲った流行性感冒は、市内の各商店、工業を休業に追いやり、多数の児童の欠席を見たため、学校の休校を招いた。(1919年11月)5日には厨川(くりかわ)小学校で2名の死者を出し、さらに6日の(岩手日報)紙面は「罹患者2万を超ゆ 各方面の打撃激甚なり 全市困惑の極みに達す」との見出し
神戸には、夢野と春日野の二箇所に火葬場があったが、それぞれ100体以上の死体が運ばれ、処理能力を超えてしまい、棺桶が放置されるありさまとなった。など、日本を襲ったスペイン風邪の猛威は、列島を均等に席巻し、各地にむごたらしい被害をもたらした。とりわけ重工業地帯で人口稠密であった京都・大阪・神戸の近畿三都の被害(死亡率)は東京のそれを超えていたという。だが、上記引用を読む限り、大都市部であろうが農村部であろうが、スペイン風邪の被害は「平等」に降りかかっているように思える。
■「スペイン風邪」に当時の政府や自治体はどう対処したのか
さて、肝心なのは当時のパンデミックに日本政府や自治体がどう対応したかである。結論から言えば、様々な対処を行ったが、根本的には無策だった。なぜならスペイン風邪の病原体であるH1N1型ウイルスは、当時の光学顕微鏡で見ることが出来なかったからだ。人類がウイルスを観測できる電子顕微鏡を開発したのは1930年代。実際にこのスペイン風邪のウイルスを分離することに成功したのは、流行が終わって十五年が過ぎた1935年の出来事であった。つまり当時の人類や日本政府は、スペイン風邪の原因を特定する技術を持たなかった。当時の研究者や医師らは、このパンデミックの原因を「細菌」だと考えていたが、実際にはウイルスであった。当時の人類は、まだウイルスに対し全くの無力だったのである。それでも、政府や自治体が手をこまねいたわけではない。今度は内務省を中心に当時のパンデミックに対し、公的機関がどう対処していくのかを見てみよう。
大正8年(1919年)1月、内務省衛生局は一般向けに「流行性感冒予防心得」を出し、一般民衆にスペイン風邪への対処を大々的に呼びかけている。驚くべきことに、スペイン風邪の原因がウイルスであることすら掴めなかった当時の人々の、未知なる伝染病への対処は、現代の新型コロナ禍における一般的な対処・予防法と驚くほど酷似している。以下、内務省から抜粋したものをまとめた。*適宜筆者で追記や現代語訳にしている。
■はやりかぜはどうして伝染するか
はやりかぜは主に人から人に伝染する病気である。かぜ引いた人が咳やくしゃみをすると眼にも見えないほど細かな泡沫が3、4尺(約1メートル)周囲に吹き飛ばされ、それを吸い込んだものはこの病にかかる。
・(はやりかぜに)かからぬには
1.病人または病人らしい者、咳する者に近寄ってはならぬ
2.たくさん人の集まっているところに立ち入るな
3.人の集まっている場所、電車、汽車などの内では必ず呼吸保護器(*マスクの事)をかけ、それでなくば鼻、口を「ハンカチ」手ぬぐいなどで軽く覆いなさい
・(はやりかぜに)かかったなら
1.かぜをひいたなと思ったらすぐに寝床に潜り込み医師を呼べ
2.病人の部屋はなるべく別にし、看護人の他はその部屋に入れてはならぬ
3.治ったと思っても医師の許しがあるまで外に出るな
(内務省,143-144)
部分的に認識違いはあるが、基本的には「マスク着用」「患者の隔離」など現在の新型コロナ禍に対する対処法と同様の認識を当時の政府が持っていたことが分かる。そして内務省は警察を通じて、全国でこの手の「衛生講話会」を劇場、寄席、理髪店、銭湯などで上演し、大衆に予防の徹底を呼び掛けている。またマスク励行のポスターを刷り、全国に配布した。マスクの無料配布も一部行われたというが、現在の新型コロナ禍と全く似ていて、マスクの生産が需要に追い付かなかったという。
ただ失敗だったのは、内務省が推進した予防接種である。病原体がウイルスであることすら知らない当時の医学は、スペイン風邪の予防に苦肉の策として北里研究所などが開発した予防薬を注射させる方針を採り、接種群と未接種群との間で死亡率の乖離を指摘しているが、これは現代の医学から考えれば全くの無意味な政策であった。だが、当時の技術ではそれが限界だった。
■100年前も全面休校
各自治体の動きはどうだったか。とりわけ被害が激甚だった神戸市では、市内の幼稚園、小学校、中学校等の全面休校を決めた(速水,198)。1919年には愛媛県が県として「予防心得」を出した。人ごみに出ない、マスクを着用する、うがいの励行、身体弱者はとりわけ注意することなど、おおむね内務省の「流行性感冒予防心得」を踏襲した内容である。学校の休校や人ごみの禁忌など、これまた現在の状態と重複する部分が多い。そしてこれもまた現在と同じように、各地での集会、興行、力士の巡業、活劇などは続々中止か、または閉鎖されていった。このようにして、日本各地で猛威を振るったスペイン風邪は、1920年が過ぎると自然に鎮静化した。なぜか?それは内務省や自治体の方針が有効だったから、というよりも、スペイン風邪を引き起こしたH1N1型ウイルスが、日本の隅々にまで拡大し、もはやそれ以上感染が拡大する限界を迎えたからだ。そしてスペイン風邪にかかり、生き残った人々が免疫抗体を獲得したからである。つまり、スペイン風邪は突然の嵐のように世界と日本を襲い、そして自然に去っていったというのが実際のところなのである。
残念ながらヒト・モノが航空機という、船舶よりも何十倍も速い速度で移動できるようになった現在、新型ウイルスの伝播の速度はスペイン風邪当時とは比較にならないだろう。だが100年前のパンデミックと違うところは、私たちの医学は驚くべきほど進化し、そして当時、その原因すらわからなかったウイルスを、私たちは直接観察することが出来、なんであれば人工的にウイルスすら制作できる技術力を保有しているという点だ。
このような状況を鑑みると、100年前のパンデミックと現在。採るべき方針はあまり変わらないように思える。すなわちウイルスの猛威に対しては防衛的な姿勢を貫き、じっと私たちの免疫がウイルスに打ち勝つのを待つ。実際にスペイン風邪はそのようにして終息し、日本は内地45万人の死者を出しながら、パンデミックを乗り越えている。
ウイルスの存在すら知らなかった当時と違って、現在の私達の社会におけるパンデミックは、伝播速度の違いはあれど集落が全滅したり、火葬場が満杯になったりするという地獄絵図には向かいにくいのではないか、というのが正直な感想である。
■100年前もデマや流言飛語
最後に、スペイン風邪当時の日本で起こったデマや流言飛語の事例を紹介する。現在ですらも、「57度から60度近いお湯を飲めば予防になる」などの根拠なき民間信仰が闊歩しているが、人間の恐怖の心理は時代を超えて共通しており、当時も様々な混乱が起こった。
曰く、「厄除けの札を貼ったり」、「ネズミを焼いて粉末にした”薬”を飲んだり」したという(速水,178)。
とりわけ医学的には無意味な神頼みは尋常ではなく、例えば現在の兵庫県神戸市須磨区にある多井畑(たいはた)厄除八幡宮では、神戸新聞の報道として、「善男善女で…非常な賑わいを呈し兵庫電鉄は朝のほどから鮓(すし)詰めの客を乗せて月見山停車場に美しい女も職工さんも爺さんも婆さんも十把ひとからげに吐き出す」(速水,198)で、駅から神社まではさらに二キロ程度の山道で、社務所が用意した護符は飛ぶように売れた(速水,同)という。
人ごみを避けろ、と言っておきながら満員電車はOKというダブルスタンダードまで、現在の日本の状況と何ら変わらない。
日本に於けるスペイン風邪の大流行から、私たちは時代を超えた共通項を見出すことが出来る。そして人間の心理は、100年を経てもあまり進歩がない、という側面をもさらけ出しているように思える。どうあれ、私たちはスペイン風邪を乗り越えていま生きている。デマや流言飛語に惑わされず、私たちは常に過去から学び、「スペイン風邪から100年」という節目に現出したパンデミックに泰然自若として対応すべきではないか。(了)
*WHO事実上のパンデミック認定に際して、2/29,AM1:30追記
Yahoo!ニュース
https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/bylines/all/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9uZXdzLnlhaG9vLmNvLmpwL2J5bGluZS9mdXJ1eWF0c3VuZWhpcmEvMjAyMDAyMjgtMDAxNjUxOTEv
1918(大正七)年に世界でまん延した「スペイン風邪」が広がり、その後、離村へと追い込まれた集落が福井県大野市和泉地区の山奥にあったそうです。ここは私の曽祖母の生まれ故郷の近くです。その集落跡に石碑が立っており、住民の一割近くが死亡し、壊滅的な被害を受けたと克明に記されています。新型コロナウイルスの感染が広がる今、約百年前の惨状を繰り返してはいけないと、不住の地から訴えかけているようです。(かわ)
集落は、大野市和泉地区の九頭竜湖南側に位置する面谷(おもだに)。同市教委文化財課によると、かつて、良質な銅を産出する鉱山町だった。幕末は大野藩の財政改革に寄与し、明治に入ると財閥の合資会社が鉱山経営を引き継ぎ隆盛を極めた。当時の大野市街地にはなかった電気も通り、「穴馬の銀座」と称されたほど。海外から安価な銅が輸入されるようになっていたところにスペイン風邪のまん延が追い打ちをかけ、鉱山は二二年に閉鎖。集落も解散した。
石碑はいつ、誰が建てたかはっきりしないが、集落の関係者らが後年、火葬場跡につくったとみられる。記述は「南無阿弥陀仏」で始まる。集落で「成金風邪」と呼ばれたスペイン風邪に襲われたのは一八年十月中旬。医師が悪性の流行性感冒(インフルエンザ)に注意するよう住民らに伝えた直後だったと記されている。
当時、人口千人ほどだった面谷で「流行が始まって一か月余りの中、九十余名の死者が出たので、鉱山の機能は一時中止をしたような状態」に。診療所には院長や薬剤師ら五人がいたが「患者数が多いため医師の往診もままなら」なかった。死者が続出し火葬や棺おけの準備が間に合わず、ほとんどが十分な弔いも受けられなかったという。
当時の資料は他になく、山奥の集落への感染ルートは分からないが、同課主任学芸員の田中孝志さんは、銅の搬出や鉱山会社関係者らの出入りとの関連に注目する。集落内の劇場が今で言う「クラスター」(感染者集団)となり、「三密」の環境だった鉱山の坑道内でさらに感染が拡大したと推測。「鉱山は賃金が出来高払いで、五~十人が一班で働く。休むと生活に影響し、住民のつながりが強かったので周りに迷惑を掛けられないと、無理に働いた人もいたのでは」とみる。
田中さんは「スペイン風邪の石碑を建立しているのは、それだけ繰り返してはいけないという強いメッセージ」と指摘。東日本大震災の被災地では、石碑や地蔵で先人たちが津波からの安全地帯を教えていたことにも触れ「災禍の歴史を遺物が教えてくれている。それをいかに生かすか、考えなければならない」と話した。>
Facebook
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2941428049275459&id=100002248797702
100年前のスペイン風邪の経験に学ぶ新型コロナ対策と日本の出口戦略
5/1(金) 9:01配信
NRI研究員の時事解説
■強い感染拡大抑制措置は多少長い目で見れば経済にプラス
新型コロナウイルス対策では、その感染拡大抑制の効果と経済への悪影響とのバランスが、常に議論されている。強い感染拡大抑制策によって人々の生命や健康が損なわれるリスクを軽減できるメリットと、経済に悪影響を及ぼすというデメリットとを比較して、最適な施策を決めることは簡単ではない。最適解は、個々の価値観によって異なるためだ。
経済活動の悪化が飢餓、治安悪化などを通じて死者の増加につながるような低所得国では、経済に配慮して緩めの感染抑制措置がとられるケースが見られる。一方主要国では、総じて、感染拡大抑制の効果に重きを置いた政策が相対的に講じられやすいように思われる。
先進国においては、「強い感染拡大抑制措置は、多少長い目で見れば経済にプラスになる」という認識が、徐々に広がってきたようにも見受けられる。この際には、感染拡大抑制の効果と経済への影響とが必ずしもトレードオフの関係にならないことになる。
以下で紹介する論文“Pandemics Depress the Economy, Public Health Interventions Do Not; Evidence from the 1918 Flue(パンデミックは経済を悪化させるが、公衆衛生対策はそうではない。1918年スペイン風邪から得られる証拠), Sergio Correia, Stephan Luck, and Emil Verner, April 10, 2020“が示す結論の一つがこの点である。
■スペイン風邪流行時と変わらない感染拡大抑制策
感染拡大抑制策と経済への影響については、世界で数多くの学術論文が出されている。その多くは、理論モデルを用いた分析であるように思うが、上記の論文の特徴は、1918年のスペイン風邪という、現実に起こった現象に基づいて分析をしていることだ。
新型コロナウイルスへの有効な治療薬やワクチンが生み出されるまでは、ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)などの感染拡大抑制策については、1918年スペイン風邪当時と変わらない。また、14世紀のペストの大流行時とも大きく変わらないのである。学校、劇場、教会の閉鎖、集会や葬儀の禁止、店の営業時間制限など、対策は当時と基本的には同じだ。
スペイン風邪は1918年1月から1920年12月まで、ちょうど2年間続いた。発生地は、米国のカンザス州というのが有力な説となっている。世界では約5億人が感染したとされるが、これは当時の世界の人口の実に3分の1程度である。そして、世界では少なくとも5,000万人、米国では55.0~67.5万人、日本では38.6万人が死亡したとされる。
現在の新型コロナウイルスと大きく異なるのは、18歳から44歳という若年・壮年層や健康な成人の致死率が高かったことである。
■低い死亡率と安定した経済の両方をともに手に入れる
同論文の分析によれば、スペイン風邪流行時に感染拡大が広がった地域では、一時的に経済活動が悪化しただけでなく、長い期間にわたって経済が悪化した。これは、重要な事実である。
他方、早期に、広範囲な感染拡大抑制策を講じた米国の都市では、中期的には経済への悪影響は残らなかったという。感染拡大抑制を講じた都市では、死亡率が低い一方、製造業での雇用増加率が高くなるという傾向が見られたのである。早期に、また広範囲に厳しい感染拡大抑制策を講じれば、多少長い目で見ると、低い死亡率と安定した経済の両方をともに手に入れることができるのである。
その逆に、高い致死率となった都市では、中期的に製造業での雇用増加率が低くなる、という関係が見られた。
より早期に、より包括的に、より厳しく、そしてより長く感染拡大抑制を講じれば、中期的に製造業での雇用増加率を押し上げるだけでなく、銀行の資産、耐久財消費にもプラスとなる。
スペイン風邪流行時のデータを用いた回帰分析によれば、感染拡大抑制策を10日早めに導入すると、感染収束後に製造業の雇用者数は5%増加する。また、感染拡大防止策を50日長く実施すると、感染収束後に製造業の雇用者数は6.5%増加する、という関係が得られた。
■日本は他国の出口戦略の帰趨を見極められる
感染症の専門家の多くは、拙速な経済活動の再開が感染の再拡大を招くことに警鐘を鳴らす。また、多くの経済学者は、今まで見てきたように、感染拡大の抑制が多少長い目で見れば経済の悪化をもたらさない、ということを指摘し始めている。
ただし各国政府が、こうした考えに沿って経済活動の再開、感染拡大抑制策の出口戦略を進めていくとは限らない。自粛疲れで早期の規制緩和を求める消費者の声や、早期の経済活動再開を求める企業の声も、出口戦略を巡る政府の意思決定に大きな影響を与えるためだ。
日本での感染拡大抑制策は、中国や欧米各国よりも遅れて始まり、より緩めである、という特徴が指摘できる。その反面、対策の実施期間はより長く、経済活動再開はより遅れやすい、と考えられる(コラム「緊急事態宣言は延長:半年間で50兆円規模の個人消費が消失か」、2020年4月30日)。
そのことは一面デメリットではあるものの、他国の出口戦略の効果を見極めて自国の政策を決めることができる、というメリットもあるだろう。つまり、他国での拙速な出口戦略が感染拡大の第2波を招くことがないかどうか、その出口戦略の帰趨を確認する時間的猶予が、日本には与えられるのではないか。
木内登英(野村総合研究所 エグゼクティブ・エコノミスト)
---
この記事は、NRIウェブサイトの【木内登英のGlobal Economy & Policy Insight】(https://www.nri.com/jp/knowledge/blog)に掲載されたものです。
最終更新:5/1(金) 9:01
NRI研究員の時事解説
https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/zasshi/bus_all/nrin/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9oZWFkbGluZXMueWFob28uY28uanAvYXJ0aWNsZT9hPTIwMjAwNTAxLTAwMDEwMDAxLW5yaW4tYnVzX2FsbA--
歴史上誰もが知る最大級のパンデミックー「スペインかぜ」。1918年の春に流行したあと、同年の秋、さらに毒性を強めて流行した。
今回の新型コロナも、夏には状況がやや回復して「また秋に第2波の流行が来る」という予測が、世界の専門機関のアチコチから出始めた。
こうなると、感染を食い止めようと国内の感染火消しに頑張ってきた国たちも、長い目でウイルスと戦うことを見越して、動いてきたようだ。
米、英、仏、独、豪、次々と主要国トップが、「ウイルス発生地の中国を徹底的に調査せよ」と公式の場で言い出してきた。
世界がどこか一国を叩くとき、どれだけ半端ないことが起きるかは、リーマンショック前後でも明らかだった。今後の動きを歴史の証言者の1人として見ていくためにも、日本の報道ではまったく伝わってこなかった、12年前のあのときの世界の恐ろしい展開を知るべきじゃないだろうか…
Facebook
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=179935190130471&id=111245430332781