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満州事変


 


中川隆: 関東大震災>>米巨大資本の日本支配すすむ
昭和天皇に戦争責任はあった、しかし責任を追求していくと日本国民全てに責任は及ぶ(株式日記と・・・) まさちゃん
8. 中川隆[-6659] koaQ7Jey 
2017年8月16日 08:20:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
戦前の日本はウォール街、つまりアメリカの巨大資本に支配されていた。その切っ掛けは1923年の関東大震災。その復興資金を調達するため、日本政府はアメリカの巨大金融資本、JPモルガンに頼ったのだが、それ以降、日本はウォール街の影響下に入り、最近の用語を使うならば、新自由主義を導入する。
その当時、日本で最もJPモルガンと親しくしていたのは井上準之助だと言われている。「適者生存」、つまり弱者切り捨てを主張していた井上がJPモルガンとの関係を深めるのは1920年の対中国借款交渉以降。浜口雄幸内閣と第2次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣を務めている。
震災後、1925年に「治安維持法」が制定されて思想統制が本格化、27年には第1次山東出兵、翌年に第2次山東出兵と張作霖爆殺。日本共産党関係者らが大量に検挙されたのも1928年だ。
1931年には、関東軍参謀の石原莞爾中佐(当時)と板垣征四郎大佐(当時)が立案した計画に基づいてい満鉄の線路が爆破され、いわゆる満州事変が勃発、32年には日本の傀儡国家である満州国の建国が宣言された。この1932年にアメリカでは大統領選挙があったのだが、ウォール街が支援していた現職のハーバート・フーバーがニューディール派を率いていたフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。ニューディール派は資本主義を延命させるため、大企業の活動を制限、労働者の権利を拡大しようとしていた。ファシズムや植民地にも反対している。
そうした事態に慌てたウォール街はJPモルガンを中心として、1933年から34年にかけて反ニューディール派のクーデターを計画する。これは海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー退役少将の議会証言などで発覚、記録に残されている。1932年には、アメリカ大使としてジョセフ・グルーが日本へ赴任してくる。この人物のいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻、つまりJPモルガンは自分たちの強力な代理人を日本へ送り込んできた。グルーと最も親しかった日本人のひとりが松岡洋右。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。
1932年までの日米関係は基本的に今と同じで、日本政府の新自由主義的政策は不況を深刻化させた。そのころ、東北地方では娘の身売りが増え、欠食児童、争議などが問題になっている。支配層は裕福になり、庶民は貧困化、つまり貧富の差が拡大している。こうした政策を推進した浜口雄幸首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡し、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺された。その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺され、5月には五・一五事件が引き起こされている。そして1936年2月には二・二六事件だ。
ウォール街の戦略に従うならば、攻撃する相手はソ連。1939年に日本軍は中国東北部とモンゴルの国境地域でソ連軍と衝突している。ノモンハン事件だ。参謀本部と陸軍省の意向に反して関東軍が戦闘を拡大したが、ソ連軍の機械化部隊が攻撃で日本軍は壊滅してしまった。このソ連軍との衝突は日清戦争、日露戦争、韓国併合、シベリア派兵、満州事変という流れの中で引き起こされている。
ドイツがソ連に攻め込むのは1941年。「バルバロッサ作戦」だ。当初、ドイツ軍が優勢だったが、この時にアメリカやイギリスの支配層は傍観している。ルーズベルト大統領はソ連を支援する意思があったようだが、実行できなかった。ところが、1942年の冬に形成は逆転、43年1月にドイツ軍はソ連軍に降伏する。これを見てアメリカは慌てて動き出し、1944年6月にはノルマンディー海岸に上陸する。オーバーロード作戦だ。これを「反攻」と呼ぶのは適切でない。この時点でドイツ軍の主力は崩壊していたからだ。
バルバロッサ作戦が始まった半年後、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃してアメリカとの戦争に突入するが、その翌年までグルーは日本に滞在、離日の直前に岸信介からゴルフを誘われて一緒にプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)
グルー/JPモルガンという座標軸で流れを見るならば、松岡も岸も井上も浜口もウォール街の傀儡にすぎない。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201609040000/

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http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/1174.html#c7
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昭和天皇に戦争責任はあった、しかし責任を追求していくと日本国民全てに責任は及ぶ(株式日記と・・・) まさちゃん
10. 中川隆[-6657] koaQ7Jey 
2017年8月16日 08:23:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
1937年12月に日本軍は南京を攻略している。
中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将が指揮したことになっているが、事実上のトップは昭和天皇の叔父にあたる上海派遣軍の司令官だった朝香宮鳩彦だった。そこで何が行われたかをイギリスも知っていたはずだが、その直後、イギリスの支配層でソ連を第1の敵と考える勢力が「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようと考えていたという。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988)
日本の場合、最大の問題になる人物は昭和天皇。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』)が、同じことを考える人が日本軍と戦った国々、例えばイギリスやオーストラリアには少なくない。ソ連も天皇に厳しい姿勢を示していた。つまり、そうした人びとの影響力が強まる前にアメリカの支配層は天皇制官僚国家を維持するために手を打とうとする。1946年1月に設立された極東国際軍事裁判(東京裁判)の目的はそこにある。その裁判では厳罰に処せられた人がいる反面、本来なら起訴されるべき人が起訴されていない。
新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。占領時代、アメリカ軍が中心のGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の内部でも、多くの将校は天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張していたという。焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)ビッターはニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟で、この枢機卿はジョバンニ・モンティニ(ローマ教皇パウロ6世)と同様、CIAと教皇庁を結びつける重要人物だった。月刊誌「真相」の1954年4月号によると、1953年秋に来日したリチャード・ニクソンはバンク・オブ・アメリカ東京支店の副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」というのだが、この会談では闇資金の運用について話し合われたとされている。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608070001/

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アメリカと日本が戦争を始める切っ掛けは、言うまでもなく「真珠湾攻撃」。この攻撃がいかに無謀だったかを語る人は多いが、日本はすでに戦争をはじめていた。1927年5月に山東出兵、31年9月に柳条湖事件と呼ばれる偽旗作戦を実行して侵略を開始、中国東北部に「満州国」と称する傀儡国家を樹立させた。1937年7月の盧溝橋事件後、宣戦を中国の全域に拡大、そして41年12月の真珠湾攻撃だ。
しかし、日本が東アジア侵略を始めたのはその遥か前、1872年に琉球国を潰して琉球藩を設置したところから始まる。本ブログでは何度か指摘したが、1871年7月に廃藩置県を実施済みなわけで、この琉球藩設置は台湾へ派兵する口実作りの可能性が高い。実際、そのころ来日していた厦門の領事のチャールズ・リ・ジェンダーは外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を勧めていた。そこから江華島への軍艦派遣(朝鮮に対する挑発)、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦へとまっしぐらだ。この背後にはイギリスとアメリカが存在していた。
東アジアを侵略している間に盗んだ財宝も曖昧なまま、アメリカ支配層と山分けした可能性が高い。その過程で吸った甘い汁を日本の支配層は忘れていないはず。アメリカ支配層の最近の動きを見ていると、過去の「成功体験」を再現しようとして失敗しているようで、日本がアメリカの真似をして再び中国を侵略しようとしたなら、取り返しのつかないことになりそうだ。
こうした道へと日本を導いているのが安倍政権。危険な流れを察知した人びとが小沢一郎の率いる民主党を選挙で勝たせたのだが、それをマスコミと検察が潰し、菅直人や野田佳彦は国民の期待を裏切って現在がある。ここで諦めたなら、支配層の思う壺だ。
【注】
(1) ベニト・ムッソリーニは1933年11月に「資本主義と企業国家」という文章の中で、巨大資本が支配するシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張した。これが彼の考えたファシズムであり、全体主義だとも表現されている。
(2) 1938年4月29日にフランクリン・ルーズベルトはファシズムについて次のように定義した。「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」
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ニューディール政策


 

ニューディール政策
[昭和天皇に戦争責任はあった、しかし責任を追求していくと日本国民全てに責任は及ぶ(株式日記と・・・) まさちゃん
7. 中川隆[-6660] koaQ7Jey 2017年8月16日 08:19:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
ルーズベルトが率いていたニューディール派は巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認め、ファシズムや植民地に反対すると主張していた。
巨大資本を含むアメリカの支配層はその主張が自分たちの利益に反すると考え、ルーズベルトが大統領に就任した1933年から34年にかけてクーデターを計画した。
クーデターの中心はJPモルガンだったようで、彼らはドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていたという。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を攻撃し、50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることになっていたという。このクーデター計画を成功させるため、軍の内部で人望の厚かった伝説的な軍人、スメドリー・バトラー退役少将をウォール街は懐柔しようとしたのだが、拒否されてしまう。クーデター派にカウンター・クーデターの意思を伝える一方、議会で計画を明らかにしたのである。当然、その証言は公式の記録として残っているので、容易に確認できる。
バトラーからクーデターの話を聞いた知り合いのジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国を守るため、ファシスト政府が必要だ」という話を引き出している。これも議会証言として記録に残っている。クーデターを実行すればバトラー少将がカウンタークーデターで対抗、内戦になることは必至だったが、ルーズベルト大統領がクーデター派を摘発すれば、やはり内戦になる可能性が高かった。そこで有耶無耶のうちに幕引きになったが、この時代を研究している学者や記者が知らないはずはない。
第2次世界大戦の終盤、ドイツが降伏する前の月にルーズベルトは急死、ウォール街が主導権を奪還する。その後はニューディール的な要素を消し去る作業が始まり、1999年11月にはグラス・スティーガル法の求めていた銀行業務と証券業務の分離がグラム・リーチ・ブライリー法の成立で撤廃され、その目的の大半は達成された。そうした作業の総仕上げと言うべきものがTPP、TTIP、TiSAだ。これらの協定によって巨大資本が国を支配することが可能になる。その間、1970年代のアメリカでは「多国籍企業」が問題になっていたが、その時点で巨大資本による世界支配を懸念する人はいたということだろう。性が高かった。そこで有耶無耶のうちに幕引きになったが、この時代を研究している学者や記者が知らないはずはない。

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タスキギー梅毒実験

風吹けば名無し: 1932年アメリカ人「黒人600人梅毒に感染させて放置したらどうなるか見たろ!」~タスキギー梅毒実験
1932年アメリカ人「黒人600人梅毒に感染させて放置したらどうなるか見たろ!」
2020年07月01日 11:30
雑談  │ コメント(104) │ 
1: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:00:22.77 ID:fVNhYgoB0
タスキギー梅毒実験
アメリカ公衆衛生局が主導し1932年から1972年まで実施された梅毒の臨床研究である。
被験者として登録されたのはアラバマ州メイコン郡の貧しい黒人小作農たち600人であり、201人はこの病気にかかったことがなかった[3]。
6ヵ月だけと説明されていた実験は、実際にはその後40年間にわたって継続された[3]。
もともと観察期間後には治療が行われる予定だったが、そのための資金提供は研究開始直前に打ち切られた[3]。
参加者たちには実際には治療が受けられないという説明もないまま実験は続いた。
そもそも梅毒に感染している男性のなかで、それを診断結果として告知された者は一人もいなかった。
それどころか抗生物質が梅毒の治療に有効だということが証明されてからも、ペニシリンの投与を受けた者は皆無だった。
研究者たちは、まさに自分たちが研究しているこの病気について1940年代にペニシリンが治療方法として有効であるということが発見されて以降も、あえて被験者には適切な治療を行わなかったのである。
4: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:01:17.13 ID:fVNhYgoB0
梅毒菌注射の様子
12: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:03:34.57 ID:HmEPE+Jz0
>>4
なにわろてんねん
16: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:04:07.71 ID:fVNhYgoB0
この研究が終わりを迎える1972年までに生きていた被験者は74人しかいなかった。
最初の399人のうち、28人が梅毒で亡くなり、100人が梅毒の合併症により亡くなった。
彼らの配偶者40人にも感染が確認され、19人の子供が先天梅毒をもって産まれた。
死者は128/399
意外と生きてるもんなんだな
43: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:08:53.22 ID:ekbNWmJ70
>>16
つっよ
72: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:12:19.91 ID:iAeD+V1G0
>>16
そもそも40年もやったなら年齢や病気でそこそこ死んでそうやし
21: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:05:14.15 ID:QXVAiqnsa
1972なら50年前やし下手したら当時の責任者いきてるやろ
そいつの家に凸しろよ
スーパー襲うからおかしい話になるねん
25: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:06:13.50 ID:fVNhYgoB0
>>21
これは氷山の一角であって最近まで根強い差別があったんだろ
29: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:06:41.73 ID:fVNhYgoB0
実験の監督者反省してなくて草
1992年2月、ABCのテレビ番組「プライム・タイム・ライブ」において、ジャーナリストのジェイ・シャドラーが公衆衛生局で1950年から1957年まで実験を監督したシドニー・オランスキーにインタビューを行っている。
被験者たちに伝えられた嘘について質問がおよんだオランスキーは、こう答えた。
「都合がいいことに彼らは実際読み書きが不自由だった。なにがよいかといえば、新聞が読めないからだ。
そうでもなければ、実験が進むにつれて、彼らは新聞を読みだして何が起こっているかに気づいただろうから」[20]。
37: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:08:00.37 ID:sWajHl0k0
>>29
ほぼモルモットやんけ
45: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:09:00.99 ID:QXVAiqnsa
>>29
正直者やな
54: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:10:09.08 ID:Tywyi6f/r
>>29
とんでもない発想だな
51: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:09:48.48 ID:HTBA8o5Hd
こんな長く続けても大したデータとれんやろ
55: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:10:15.36 ID:17HhH0B4p
国が殺してるんやから凄いな
63: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:11:28.80 ID:fVNhYgoB0
アメリカやば過ぎやろ
グアテマラ人体実験
アメリカ合衆国政府がグアテマラ政府の協力のもと、抗生物質ペニシリン(1942年に実用化)の薬効確認を目的として[1]、意図的な菌の集団接種を行った。
対象者(被験者)は現地の受刑者、兵士、売春婦、孤児、精神科病院の入院患者[4]などで、少なくとも約1160人に梅毒スピロヘータ・淋菌の接種が行われた。
グアテマラでは売春は合法だったため[4]、性病の売春婦と性交渉させて感染させる例もあったという証言もある[3]。
被験者には実験の意図・感染の事実を知らせなかったため、家族などへの二次感染があったという指摘もある[4]。
実験という名目ながら、実際はペニシリンによる治療は一部のみで、処方されなかった被験者もいたという証言がある。
1951年までに少なくとも69人が死亡したという報道もある[3]。
86: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:14:20.67 ID:Y0FvGtQL0
邪悪すぎる
87: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:14:23.86 ID:gUhfecwK0
なんのための研究なん
93: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:15:47.99 ID:ro32L3fz0
これをネタにした話をローアンドオーダーで見た気がする
101: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:16:30.28 ID:g9dgf0f50
こういうのこそ引き合いに出すべきでは
103: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:17:07.54 ID:9SmcixXn0
差別してないって言うから拗れるんちゃう?
黒人はいまだに奴隷としか思ってないって言えばええやん
115: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:18:12.08 ID:i7/5jmJM0
フランス人なんかアフリカで治験やればいいと発言して猛反発食らってたがな
119: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:18:53.19 ID:2jn4C8gk0
>>115
身内のパスツール研究所の研究者とかにぶっ叩かれてたの草
123: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:19:31.85 ID:fVNhYgoB0
>>115
あの畜生発言草生えた
129: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:20:13.64 ID:RScsrZFba
まあこういう人体実験とかで医学が発達してるという部分もあるんやろな
138: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:22:09.04 ID:2jn4C8gk0
>>129
その人体実験も大半は大した分析もされないうえに客観性にも欠ける実験ばっかりやから
医学の発達にどの程度寄与しよるのかは謎や
160: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:25:35.58 ID:KFGeqIm7M
まぁこういう歴史があるとBLMがここまで過熱するのも理解できる
170: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:26:44.06 ID:9q8v7Jfd0
白人ってたまに倫理観消失バグ起きるよな
171: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:26:50.99 ID:kDAI0ZGMa
1972年て近代やん
187: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:29:23.15 ID:kgE+xAj3a
399人もともと梅毒で草
189: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:29:36.31 ID:YKyF3u9m0
タスキギー大学って黒人の大学やから医者も黒人だらけやったんやろ
エリート黒人が底辺の黒人使って40年間人体実験してたとか恐ろしいな
205: 風吹けば名無し 2020/07/01(水) 01:31:30.80 ID:fVNhYgoB0
>>189
主導したのはアメリカ公衆衛生局だからな
アメリカ政府だよ
当然黒人なんかいない
元スレ:http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1593532822/
コメント一覧
1. 名無しさん 2020年07月01日 11:38  ID:iHRmPGx80
最近の世界はおかしい言うとるけど前々から大分おかしいなコレ。
2. 名無しさん 2020年07月01日 11:44  ID:pNcIRkNH0
>>1
どの時代にもやべーやつはおるんやで
3. 名無しさん 2020年07月01日 11:45  ID:a.Wpcd750
最近の黒人見てると特に反感も覚えんな
4. 名無しさん 2020年07月01日 11:49  ID:dCTCe12S0
日本の731部隊の実験結果も全部アメリカに没収されたんよな
5. 名無しさん 2020年07月01日 11:51  ID:ec1.mqHF0
黒人相手にはこのくらいの扱いで丁度いいんだよ
体も強いし人体実験に丁度いい
6. 2020年07月01日 11:51  ID:CBP5cDSp0
そりゃ原爆落としても何とも思わない人間がでるよな。狂気というより無想像の結果なんだろう。
7. 名無しさん 2020年07月01日 11:52  ID:y4ZUWAHg0
こりゃ略奪されても仕方ないわ
8. 名無しさん 2020年07月01日 11:52  ID:FOP4Bb900
だいたいこの手の人体実験って途中でモラル崩壊してめちゃくちゃになるから
犠牲者の数の割に大して役に立ってなかったりする
9. 名無しさん 2020年07月01日 11:56  ID:XYggL.Pn0
国際連盟時代、日本が有色人種の差別を止めましょうって言ったら、イギリスとアメリカが大反対したんだよな。
人種的差別撤廃提案と排日移民法でググれ。
10. 名無しさん 2020年07月01日 11:57  ID:IgWRNrzH0
普段、体の作りが違うとか差別発言しときながら
モルモットにする時は限りなく自分達に近い存在だと認識してるあたり都合がいいよな。
11. 名無しさん 2020年07月01日 11:58  ID:PKbuMCWd0
こういう事実があるから「途上国の女性に打つワクチンに不妊効果も入れてる」とか陰謀論()が出てくる
12. 名無しさん 2020年07月01日 11:59  ID:1ulj68Xz0
実験対象にある程度敬意がないと
得られたデータも雑に扱うもんなのかもね
13. 名無しさん 2020年07月01日 11:59  ID:SoNoLkz00
新型コロナでもフランスの科学者がアフリカでワクチンの実験しろって言ってたよな
14. 名無しさん 2020年07月01日 12:01  ID:3dPlyW4C0
やっぱアングロサクソンっていっぺん絶滅させた方がいいわ
15. 名無しさん 2020年07月01日 12:01  ID:fJCl0SBr0
あと冷戦中は放射能関係の実験もクッソあったで。
放射性物質注射して、どういう症状が起こるかアメリカ国民で実験したり。
映画「飛べバージル プロジェクトX」はチンパンジー使った実験で、
核爆発が起きて強い放射線を浴びた操縦士が飛行機を操縦できるかというやつだったし。
16. 名無しさん 2020年07月01日 12:04  ID:6qFZLUtv0
Falloutあるある
17. 名無しさん 2020年07月01日 12:05  ID:sPi1jGBt0
白人ども黒人への人種差別は認めても
他の人種への差別は一切なかったかのように振舞うから嫌いやわ
18. 名無しさん 2020年07月01日 12:06  ID:y0MA.ZAf0
>>6
カラードは神の祝福を受けてないから白人様の家畜なんやで!
…みたいな妄想力ばっか逞しいんだよなあ
19. 名無しさん 2020年07月01日 12:08  ID:TF9tiqGP0
非戦闘員が多数生活してる都市に警告なしで原爆落す国だよ
そのことに関して肯定的な意見の方がいまでも多数だから根本的には変わってないのかも
20. 名無しさん 2020年07月01日 12:12  ID:AHmJMlSi0
黒人我慢強すぎだな…
朝鮮人と交換して欲しいわ
21. 名無しさん 2020年07月01日 12:17  ID:snKzJ7s10
白人は畜生エピソード多すぎだわ。
同じ人間だと思わないキリスト教はやっぱクソ
22. 名無しさん 2020年07月01日 12:21  ID:jRQ758wB0
これは酷いけど、現代の価値観を過去に当てはめて批判しても仕方がないわけだが。
それ以前には黒人=奴隷だったわけだし。
23. 名無しさん 2020年07月01日 12:21  ID:1v.TyrMm0
そらポリコレは必要だわな。
日本のくりえいたーなんて、ファッションポリコレなんだよなあ。あー特亜の捏造歴史信じてるやつらかな。よくもまぁ、そんなクソおいしく食ってるもんだわ。
24. 名無しさん 2020年07月01日 12:21  ID:WuY5CKOM0
アメリカの畜生実験で一番衝撃だったのはカナダの都市に毒ガスバラまいてどの位健康被害がでるか実験してたこと
これも最近の記録開示で分かったことなのになぜ国際問題にならないのか疑問だ
25. 名無しさん 2020年07月01日 12:21  ID:nyYQbFkK0
暴動はアカンがデモは続けりゃいい
デモ以上に大切なのは選挙に行くことだがな
レブロン・ジェームズとかが選挙に行くことを呼びかけてるし
前回よりは黒人の投票率上がるんじゃないかな
26. 名無しさん 2020年07月01日 12:22  ID:1v.TyrMm0
※22 味噌も糞も一緒って、ブタじゃないですか。
27. 名無しさん 2020年07月01日 12:22  ID:0ZBtfG.C0
まあBLMが正当化される材料にはならんわ
28. 名無しさん 2020年07月01日 12:23  ID:VFGWyf6.0
「ぶっちゃけやる意味は分からんけど、ずっと続いてる実験だから俺が止めさせるのはなあ」

40年経過
29. 名無しさん 2020年07月01日 12:23  ID:PIND.pCm0
核物質を埋め込む人体実験をしたのも有ったろ
障碍児にビタミン剤だと偽って放射性物質を食べさせたとかも有る
30. 名無しさん 2020年07月01日 12:26  ID:1v.TyrMm0
そんな奴らに、戦っても無意味だから降伏しとけばよかったんだとかいう家畜もいるらしいな。
自国民は奴隷、他民族は家畜か実験動物だぞ。
ただね、別に生物の世界じゃそれが普通だよ?ま、そんなんだから、極東のちっぽけな島国が世界二位なんですけどね。
31. 名無しさん 2020年07月01日 12:27  ID:c0quuYm30
アメリカの白人の差別意識ってなんでこんなに純粋なの?
幼少期に偏見持ったとしても後の教育や成長の中で疑問を持つことはないのか?
32. 名無しさん 2020年07月01日 12:29  ID:oxMQNVUB0
シナ畜に扇動された土人たちは
そんなことを全く気にせず
今日も元気にスーパーを襲撃するのであった
そうじゃない方の黒人と混同なきよう。
33. 名無しさん 2020年07月01日 12:29  ID:NQkFHnVV0
言うて731部隊とかもっとエグい事してるけどな
日本人も満州や朝鮮でやらかした事考えるとどっちもどっちだけどな
当時の関係者の証言とかでもめっちゃ残ってるし
34. 名無しさん 2020年07月01日 12:38  ID:ZcTLcDbI0
我々にも畜生の血が流れてるんだろうな
35. 名無しさん 2020年07月01日 12:39  ID:nE2rdD.K0
ワイ、ペニシリンアレルギーだから
治療受けても死ぬわ
36. 名無しさん 2020年07月01日 12:44  ID:psYs5m990
そりゃ白人様は今でも黒人なんて人間と思ってないしイエローなんか家畜ぐらいに思ってるぞ
冗談抜きで
37. 名無しさん 2020年07月01日 12:46  ID:b8d2YZX.0
ナチの人体実験と全く一緒。
38. 名無しさん 2020年07月01日 12:48  ID:tNx4D3b20
何を今更って感じやね
アジア人使ってでウランとプルトニウム型の原爆実験した畜生どもやろアメリカ人は
39. 名無しさん 2020年07月01日 12:50  ID:O.O1xk9R0
>>31
接してたらお互い嫌いになる事もあるんじゃね?
40. 名無しさん 2020年07月01日 12:58  ID:MtusH9G10
いまでも途上国でやってるんでないのか?
中国はロシアでアメリカはブラジルだったか?
41. 名無しさん 2020年07月01日 13:01  ID:cBgYQUQe0
>>11
陰謀どころか中国は普通にやってそうなのがまた
42. 名無しさん 2020年07月01日 13:03  ID:lLolYf4E0
もともとこんな倫理観だから宗教で縛らないとダメなんだろうな白人は
43. 名無しさん 2020年07月01日 13:10  ID:kDG9PDWY0
原爆投下だけじゃなく、アトミックソルジャーもいたくらいだから
連邦政府ってマジで鬼畜だわ。外国人も自国民も容赦なし
44. 名無しさん 2020年07月01日 13:12  ID:l9LlTtnw0
※4 731部隊はロシアによってハバロフスク裁判で裁かれてんだから、米国に資料が行くなんてことはない もし行くならロシアでしょ
ウイキですらさも本当にあったように書かれてるけど 非道な人体実験があった証拠は(今のところ全く)見つかってないよ、戦争中に細菌実験とか危険すぎて扱えない武漢見てみろ
45. 名無しさん 2020年07月01日 13:13  ID:h12CbslB0
戦争に負けたからナチスは叩かれたけど
戦時中はどこも非人道的な事を日常的にやっていたんだよな
46. 名無しさん 2020年07月01日 13:16  ID:Q3n5hZVG0
これをやった白人はひどいと思うし、被害にあった黒人たちはかわいそうだと思うが、今行われている黒人優遇の押し付けや価値観の押し付けには全く賛同できないし、それを当然だと思っている黒人達は侮蔑の対象として見ているけどね。
※33
押収した資料や実際の聞き取り、現場の確認をしてもただの防疫活動でその関係者の証言にあった酷い実験があったという証拠が無かったのに未だにこういう事を言っている馬鹿が居るのに驚いた。
後、その関係者って本土に居て大陸には行っていなかった少年兵や証言が捻じ曲げられて居たというのが、もうすでにバレて居るけどね。
47. 名無しさん 2020年07月01日 13:22  ID:eMihZxBj0
戦争に負けただのなんだの関係なく、非人道的なことは絶対にアウトだろ。
人間ってほんとに愚か。
48. 名無しさん 2020年07月01日 13:22  ID:yTddrKna0
うんまあ
このくらいのことするだろ
駅のトイレだって人種で分けて
←WHITE LAVATRY COLERED→
これがあの国の本音だもの
49. 名無しさん 2020年07月01日 13:33  ID:3luv2Q3a0
こういう国だから、暴動でもしないと、対等に話しすらできないってことなんだろうと思うわ
日本とは根本から違う
50. 名無しさん 2020年07月01日 13:43  ID:DDOXTdBA0
コリ国のファンタジー邪悪日本と違ってアメリカの黒人差別はガチであったうえに
現大統領が超差別主義者だからしゃーない
51. 名無しさん 2020年07月01日 13:45  ID:gvSWO4b70
25年前でもフランスが核実験やるけどタヒチでやるからな
自分に影響出なきゃいいって精神やったからな
52. 名無しさん 2020年07月01日 13:45  ID:jFhY1a2J0
>>33
はいはい祖国に帰ろうね
53. 名無しさん 2020年07月01日 13:49  ID:jFhY1a2J0
>>4
731部隊のソースって
共産党関係者の書いた小説だけなの知ってる?
54. 名無しさん 2020年07月01日 13:49  ID:J39QP5mQ0
プリンストン大学が、「学長だったウイルソン元大統領の名前を、学内で使うのを止める」って、ついこの間発表してたな。
大変な黒人差別推進者だったらしい。
逆に言うと、そんな人がほんの近頃まで評価されてたわけだ。
あの暴動は酷いと思うし、掠奪は許せないけど、多分、欧米の白人の心の中には、我々日本人には想像も付かないような「人種差別感情」というのが根付いてるのかもしれん。
55. 名無しさん 2020年07月01日 14:15  ID:.1eiL6eM0
>>22
この手の主張は実際には
『当時の「白人の」価値観で当然だったんだから現代の「黒人は」批判するな』
って意味やから無茶苦茶や
これが正当化されるなら未来の日本人が現代の日韓関係振り返るときに
『当時の韓国人の価値観では日本人には何してもいいというのが当然だったんだから現在の日本人がそれを批判するな』
って主張されたら押し黙らないといけなくなるんやで
56. 名無しさん 2020年07月01日 14:17  ID:jXuXkV7w0
差別って恐怖に基づく感情なんだよ
アメリカの白人は自分たちが奴隷として略奪してきた黒人が時代とともに次第に「白人(人間)」に近づき読み書きや権利のために声を上げると途端に恐れるようになった
今の暴動はある意味どうしようもない黒人たちの不安と不満の現れ、だけどそれを続ける限り決して融和は近づかないと思う
南アフリカのマンデラは根深い差別を超えた人種融和のために「黒人が白人に見せられる最大の武器は彼らが一度も振りかざさなかった寛容さである」と言って極端な反動政策を取らなかった
それだけの言葉やリーダーシップがいる時代の境目にトップにいるのがあの人だから…いやアイツだからこうなってんだとは思うけど
結局、ロス暴動からアメリカは何も変わっていなかったわけだな
28年間、融和ではなく型式だけの社会変革のために白人も黒人もお互いに怒りだけが蓄積されていったか
57. 名無しさん 2020年07月01日 14:30  ID:ZBf4oMKy0
>>17
黒人もそうだけどな
58. 名無しさん 2020年07月01日 14:32  ID:ZBf4oMKy0
>>23
ポリコレをの看板ににすげ替えた共産主義者に扇動されてて草
59. 名無しさん 2020年07月01日 14:38  ID:ZBf4oMKy0
アメリカの犯罪死亡者の50%以上が、黒人に殺された黒人という異常性
60. 名無しさん 2020年07月01日 14:39  ID:SDMD0.XT0
>>5
どっかの調子乗ってた国に原爆落としたのも人体実験に丁度良かったよな
61. 名無しさん 2020年07月01日 14:40  ID:pM4Ob.cU0
黒人はむしろ優しすぎると思う
デモも平和的だしキング牧師ですら自制を促してるし
62. 名無しさん 2020年07月01日 14:54  ID:ogdNW4RZ0
そらあっちの白人なんて天然痘付き毛布をインディアンに渡した奴らだし
63. 名無しさん 2020年07月01日 15:02  ID:cDdXnyQ20
>>59
それは差別の結果では
64. 名無しさん 2020年07月01日 15:09  ID:jqyRz5JE0
よく言われてる3S計画も日本人だけじゃなく
アメリカ人に対してもバリバリ行われてるよな
65. 名無しさん 2020年07月01日 15:13  ID:EwH3hp7.0
もうアメリカの州の一つに黒人を集めて独立国として国連で承認したほうが話が早いような感じだよな
66. 名無しさん 2020年07月01日 15:24  ID:.tVwAKsG0
ヨーロッパ人のアメリカ大陸進出の歴史を見ればわかるでしょ
同じヨーロッパでも十字軍なんて鬼畜エピソードのオンパレードだし
67. 名無しさん 2020年07月01日 15:31  ID:YrHfV48s0
一回白黒別れて戦争したらいいんじゃない?
好きでしょ銃とか戦争
68. 名無しさん 2020年07月01日 15:44  ID:eZl22MCq0
>>6
なんとも思わないではなくアメリカでは原爆は正義の兵器だぞ。
原爆投下のおかげで日本本土決戦にならずに数万のアメリカ人青年を救えたと教えられる。
69. 名無しさん 2020年07月01日 16:01  ID:ZBf4oMKy0
>>63
差別されたら同胞を殺すんか
黒人はアメリカの人口の15%程度しかいないのにこの数字は異常だと思わん?
70. 名無しさん 2020年07月01日 16:07  ID:lhMgSz4a0
>>67
「われわれは、敵意と憎悪の杯を干すことによって、自由への渇きをいやそうとしないようにしよう。われわれは、絶えず尊厳と規律の高い次元での闘争を展開していかなければならない。われわれの創造的な抗議を、肉体的暴力へ堕落させてはならない。われわれは、肉体的な力に魂の力で対抗するという荘厳な高みに、何度も繰り返し上がらなければならない。」
アメリカ人なら誰もが知ってるこのフレーズが理解できないなら、お前の頭脳は黒人よりも劣るってことだよ。
71. 名無しさん 2020年07月01日 16:11  ID:4MlNHzJU0
日本でも人種じゃないが差別はしてるぞ
優生保護法による強制中絶とかな
72. 名無しさん 2020年07月01日 16:20  ID:OrmA.PnE0
※71
最近ニュースでやってた請求権消滅してた事例の去勢理由が素行が悪いからってのは驚いたわ
73. 名無しさん 2020年07月01日 16:21  ID:iUM9E8tO0
こうやって医学は発展してきたんだよね。
74. 名無しさん 2020年07月01日 16:42  ID:YrHfV48s0
>>70
それどこかで言いたかったん?
75. 名無しさん 2020年07月01日 17:11  ID:G4Pai.2x0
>>65
かつて解放奴隷が建国したリベリアって国がありましてね…
76. 名無しさん 2020年07月01日 17:11  ID:jXuXkV7w0
>>69
どれだけ短絡的なんだよ
マトモな職業も教育も結婚も禁じられた集団が異常な状況に追い込まれるのは当然だろ
そういう禁忌は五十年前にようやく薄まってたくらいで精々一世代も経ってないんやぞ
極端な銃社会で貧富の差が広がり続けた結果社会の底辺層は失業率も犯罪率も高まる
それが特定の人種にだけ影響が大きいのは明らかにそれまでの社会的な秩序が影響してるだろ
白人も黒人も黄色人種も同じ生物なのにこの状況なんやで
77. 名無しさん 2020年07月01日 17:13  ID:jXuXkV7w0
>>71
他山の石とするにはまだまだ生々しい事実よな
当然のこととして考えないようにされてきた人々は日本にも世界にもいっぱいいる
78. 名無しさん 2020年07月01日 17:42  ID:jFhY1a2J0
ナイロビの蜂なんて生易しい
79. 名無しさん 2020年07月01日 17:53  ID:l9LlTtnw0
※71 優生保護法が非道だ!!!って簡単に片づけられる問題じゃないんだよ
当時複雑な事情があってこその法律なんだから
戦後 若い男の多くが消えた日本でで外国人の蛮行による望まぬ妊娠も多く報告されて
子供を食べさせられない時代だったんだから
80. 名無しさん 2020年07月01日 17:58  ID:L8C.aPHD0
>>9
今も、ロシアとかの23カ国は国連によるウイグル人権を守る法に反対してるよ
81. 名無しさん 2020年07月01日 18:11  ID:L8C.aPHD0
>>71
「日本は差別なんかない!」っての大嘘だってはっきり分かんだね
これ↑を主張してるのは無知か差別と自覚してない(彼らが悪い、居てはいけないので"排除"しただけ、など)だけだよ
人間が集まって自然に生活してて、差別が起こらない筈がない
孫正義も幼少期散々苦しんだくらい、在日朝鮮人にたいする差別があるのも事実
82. 名無しさん 2020年07月01日 18:13  ID:L8C.aPHD0
>>79
でも決めるのは産む女性自身であって、国が強制的に決めることじゃないよね
83. 名無しさん 2020年07月01日 18:34  ID:ACNRK.L60
>>70
それ言ったやつ、晩年は武力闘争路線を選んでいる定期
むしろマルコムXの方が晩年は穏健派、平和主義路線だったりするぞ
84. 名無しさん 2020年07月01日 18:40  ID:I72RoBXw0
>>6
実験やで
85. 名無しさん 2020年07月01日 18:41  ID:MHBgMGif0
>>14
だよな、だいたいこいつらが厄災を振り撒いてる
86. 名無しさん 2020年07月01日 18:59  ID:2RFfjzLA0
>>81
でも孫正義今は大金持ちじゃん
本当に差別されてたら日本で大企業のトップになれないだろ
アメリカの黒人に大企業のトップはいないだろ
87. 名無しさん 2020年07月01日 19:32  ID:R0B7ZUvG0
>>1
むしろ人種差別なんかは80年代からどんどんマシになって
いまの状態まで来たんやで
88. 名無しさん 2020年07月01日 19:49  ID:ot1GkDaS0
やっぱ白人の上級以外は人間じゃないんやなあ
89. 名無しさん 2020年07月01日 20:13  ID:XTbKgbh.0
日本も原爆落とされたしな
あれも実験だろ
90. 名無しさん 2020年07月01日 20:53  ID:4dslgzDX0
>>45
戦争中でもないのにウイグル人を収容施設に入れて臓器摘出してる国がありましてね
91. 名無しさん 2020年07月01日 21:19  ID:eI.bMvDF0
そもそもアメリカは若い白人の兵士もたくさんいる師団丸ごと使って核爆発の放射能間近で浴びせて記録とる実験何回もやっていまだに知らん言うてるぐらいやからなあ。
普段は英雄扱いしてるアメリカ軍にたいしてもそんなんやる国やから黒人なんかマジで遊び半分でも実験するやろ。
92. 名無しさん 2020年07月01日 21:51  ID:uh9KnJv20
結局白人は差別主義者ってだけだよね
人種差別問題って
白人は世界の中心だから人種差別は
普遍的な人類の問題って思い込んでる
だから過剰で狂った運動になった
93. 名無しさん 2020年07月01日 21:53  ID:e4UaeB0W0
そりゃもうアメリカはドイツも顔負けの巨悪やで
94. 名無しさん 2020年07月01日 22:02  ID:e5DuAttv0
>>3
その理屈ならジャップは原爆落とされて当然だったな
95. 名無しさん 2020年07月01日 22:12  ID:jXuXkV7w0
>>79
アクロバティックすぎる擁護で草
去勢を行う懲罰なんて人権が存在する国家ではあり得んぞ
生物としての究極的な抹殺、死刑に相応するより残酷ともいえることだってわかりません?
96. 名無しさん 2020年07月01日 23:14  ID:lR6ldKq.0
アメリカは長い間優生学思想も健在だったし、イギリスと同じでなぜ正義面ができるのか感情的には全く共感できない国
97. 名無しさん 2020年07月02日 00:43  ID:9u9Uriwq0
>>95
頭悪すぎない?読解力大丈夫?もしくは優生保護法の内容わかってる?
98. 名無しさん 2020年07月02日 01:00  ID:9PQO2mqw0
そら正直ゴリラにしか見えないもんな黒人って
オレらもあいつらからすりゃチンパンにしか見えないんだろうけど
99. 名無しさん 2020年07月02日 03:12  ID:roJViB6X0
>>70
ナチュラルに黒人を蔑視してて草も生えんわ
100. 名無しさん 2020年07月02日 05:54  ID:5eTaK7zv0
結局、権利を勝ち取る為には力を得るか面倒な奴になるしか無いのかもな
素直で純粋な奴が淘汰されて行く世界
101. 名無しさん 2020年07月02日 06:15  ID:MjpVq73T0
>>97
「不良な子孫の出生を防止」などを目的に、1948年に施行された。遺伝性の疾患や精神障害、知的障害などと診断され、都道府県の審査会で「適当」とされた場合、本人の同意がなくても不妊手術ができた。96年に母体保護法に改正されるまで、全国で少なくとも男女1万6475人が不妊手術を強いられたとされる。
この異常な人権軽視をどう考えたら容認できるんだ?
102. 名無しさん 2020年07月02日 10:35  ID:solaUmLK0
何と言っても、731部隊のデータ一人占めした世界中のマトモな社会からはじき出されて米大陸現地人の資産・生命をパクりまくって平然として自分達を正当化する広報機関(ハリウッド)を使って世界中のバカなヨイコを騙しまくったイキモノ集団だから。
103. 名無しさん 2020年07月02日 23:28  ID:qoqaH0NF0
やっぱ黒人はフィジカルエリートなんだな。大して死んでねぇもんな。
104. 名無しさん 2020年07月03日 01:14  ID:aUbszYCM0
今、黒人がやってることもおかしいけど白人もやたら凶暴だし異人種を見下したがるしロクなもんじゃないどっちも嫌いだわ
日本人が1番まとも
   
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ダンピング輸出

1932年
1930年から続く農業恐慌で、欠食児童数は全国で200000人を超えた。5月に政府は政府所有米を1升8錢でダンピング輸出すると発表、各地で闘争がおきた。
(岩波新書、昭和史、1955年版)

ygggh pc

予知情報,エドガー・ケーシー予言

2013年04月24日
エドガー・ケーシー予言と地球の今後

エドガー・ケーシー予言と今
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/385e6c324ef82affa7e17771e11046a9






 ◎地球規模の大変動
 後述のエドガー・ケーシー予言では、日本も水没し、ニューヨークもアメリカ西海岸も水没する。
もっともこれら予言は1930年代のものであって、「数年後には起きる」などと気負ったところもあるので、
一概にすべてこれまで実現してこなかったからハズレと断定するわけにもいかない。
30年前にこうした予言を初めて読んだときは、暗澹たる将来に絶望的な気分になったものだが、
飢え死にもせずに30年過ごせて来れたことを神に感謝する。
しかし、それと同時に、30年覚醒できもせずに犬のような人生だったと思い、またこのまま死ねば犬死にであるとも思う。
予言された未来は、日々刻々と我々の心の持ち方によって変貌を遂げている。
街に何人か悟った人がいればその街は滅亡を免れるという法則があると信じれば、日々坐ることを避けては通れない。

大地震の予知、天変地異
http://eien33.eshizuoka.jp/e1044401.html



「管理者コメント」 日本は岐阜市より西の日本は沈没する事になる
http://eien333.meblog.biz/
『「物理的変動について再び述べよう。地球はアメリカ西部で分断されよう。
日本の大半は水没するはずである。
欧州北部はまたたく間にその容貌を変える。アメリカ東岸沖に陸が出現する。
南北両極に隆起が生じ、これが熱帯域の噴火を早め、両極の移動を起こす。
そのため今まで寒帯、亜熱帯であった地域が熱帯的になり、コケ、シダが繁茂するようになろう。
これは一九五八年から九八年までの間に始まり、この時代は神の光が再び雲間に見られる時代と宣言されるであろう。」
(三九七六-一五、一九三四年一月)

大地震の予知、天変地異
http://eien33.eshizuoka.jp/e1044401.html






 北極の移動、ポールシフトは後半期にジグザグに移動する事に成る。
 (中略)
 問一四:「北米の地球表面に何か物理的変動が起こるでしょうか。起こるとすればどのあたりが影響を受けるでしょうか。」
 答一四:「大なり小なり、多くの物理的変化を国中至るところで見ることになろう。
アメリカで我々の見る、より大きな変動は大西洋沿岸である。ニューヨークに注意せよ。」
 (三一一ー八、一九三二年四月)
「世界の、そしてこの国の地理的状況について言えば、ここでの変化は徐々に起ころうとしている。
東海岸の多くの部分と同様、西海岸の多くの場所も、アメリカ中部も乱されるであろう。
今後数年の内に、大西洋と同じく太平洋にも陸が出現するであろう。
今の多くの地方の海岸線が大洋底となり、今の戦場の多くさえも大洋となり、海となり、湾になり、
また新しい秩序が交易の上にもたらされる陸地と化すであろう。
ニューヨークにおける今の東海岸の一部、あるいはニューヨークそのものの大半が姿を消すであろう。
しかし、これは一世代後のことであろう。
一方カロライナ州南部、ジョージア州も姿を消す。
これはもっと早くになろう。」
 (一一五二-一一、一九四一年二月)
 (中略)
 「地球は多くの場所で崩壊するであろう。
アメリカ西海岸の物理的様相に先ず変化が見られるであろう。
グリーンランド北部に水域が開かれ、カリプ海沖合に新しい陸が見られ、乾いた陸が現われよう。
南米は最北端から末端に至るまで揺すぶられ、フェゴ諸島の先の南極には、水の渦まく海峡と陸ができるであろう。」
(三九七六-一五、一九三四年一月)』
 (アトランティス物語/エドガー・エヴァンズ・ケイシー/中央アート出版社P224-226から引用)

大地震の予知、天変地異
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このケーシー予言では、地殻変動は一気に起きるのではなく、数十年タームで徐々に発生することを見ている。
米大陸はダイナミックな変動だが、被災地域の原発や核兵器工場の放射性物質の始末はどうするのだろうか。
霊界物語では核汚染の姿を水奔草と見たのだろうか。
ケーシー予言は、医療と個人の転生を前提としたカルマ・ヨーガに重心があるが、人間の精神の成熟過程にはあまり関心がないようだ。
 今後、20年間から30年後までには太平洋には古代のムー大陸がハワイ・・イースター島ニュージランド・・フィリピン・・ハワイ
を結んだ地域に浮上して大陸となるでしょう。
そして北大西洋にはアトランチス大陸が浮上するでしょう。
貴方の魂の命が生き残ろうとすればそれには各人がエゴを取り除き心と自己の宇宙の意識とを一体化すべきです。
すると自分の前世や遠隔透視などが出来るようになるでしょう。
自分の過去世を思い出せない
人は進化していない人で宇宙的な学習が必要です。魂が消滅しないように・・大掃除が近い。

大地震の予知、天変地異
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永遠の生命
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アセンション心の浄化と命への道
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聖母マリア、イエスキリスト、賢者のメッセージ
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朝鮮人民共和国

アメリカ軍に認められなかった左右ごちゃ混ぜ統一政権
朝鮮人民共和国
首都:京城(ソウル) 人口:2500万人
1945年8月15日 日本の敗戦により朝鮮人による 建国準備委員会が発足
1945年9月6日 朝鮮人民共和国の建国を宣言
1945年9月8日 米軍が南朝鮮に上陸
1945年9月11日 在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が発足。朝鮮人民共和国を否定し軍政を開始 
1945年10月10日 軍政庁が改めて朝鮮人民共和国にた だちに解散するよう命令
朝鮮全図 日本の植民地時代(1942年)の地図
「朝 鮮人民共和国って、北朝鮮のこと?」
と思えばさにあらず。
北朝鮮は正式名称「朝鮮民主主義人民共和国」で、朝鮮の北半分を領有する左翼政権だが、朝鮮人民 共和国は朝鮮の南北一緒、そして左右一緒の政権だった。
もっとも、世界中どの国からも認められず、アメリカ軍に弾圧されてわずか数日で消滅してしまった。
戦前、朝鮮が日本の植民地だった頃、日本からの独立を求める運動が続いた。しかし朝鮮では日本の官憲に弾圧されたので、海外を拠点とす る組織ができた。
1つは大韓民国臨時政府で、1919年に 朝鮮全土で起きた
「三・一独立運動」
が鎮圧されたのを契機に、上海で設立された亡命政府で、自 由主義者の李承晩(イ・スンマン)が大統領に就いた(※)。
1932年に日本軍が上海を占領すると、蒋介石の国民政府とともに中国各地を転々と移動し、最 終的に重慶に拠点を移した。
※李承晩はアメリカ政府に朝鮮の委任統治を請願したとして 批判され、1925年に失脚。ハワイへ移りアメリカ政府へのロビー活動を続けた。
もう1つは抗日パルチザンで、これも 「三・一独立運動」の鎮圧を契機に、満州やソ連の沿海州を拠点に武力闘争を続けた。パルチザンを率 いたという「伝説の英雄」が金日成(キム・イルソン)だ (※)。
※金日成(本名:金成柱)は1912年生まれだが、抗日パ ルチザンを率いた「金日成将軍」の名は1920年代から知られており、金成柱は「伝説の英雄」金日成の名を襲名したものと 思われる。
さて1945年8月10日、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏することを決めたが、これによって日本は朝鮮の独立を認め なけれ ばならないことになった。そこで朝鮮総督府は8月12日に呂運 亨(ヨ・ウニョン)と接触。行政権を渡すので在留邦人の安全を保障してほしいと打診した。
朝鮮総督府が大韓民国臨時政府や抗日パルチザンと接触せず、呂運亨を交渉相手に選んだのは、当時、満州を占領しつつあったソ連軍がその まま朝鮮全土も占領すると予想されたので、ソ連軍による占領前に朝鮮人に権力を引き渡してしまおうと焦っていたことや、2つの組織は海外で活動していたの で急に連絡が取れなかったこと、抗日パルチザンは八路軍(中国共産党軍)とともに日本軍と長年戦闘を続け、臨時政府も米軍の特殊訓練を受けながら日本に宣 戦布告していたが、朝鮮で憲兵隊に睨まれながらも政治・文化活動を続けていた呂運亨なら、朝鮮総督府と協調しながら「平和的」な権力移譲が望めそうだった こ と・・・などの背景があるようだ。
呂運亨は1886年生まれで、1914年に中国へ亡命し、大韓民国臨時政府が樹立されると外務次官に就任したが、帝政ロシアが中国に 持っていた租界や利権をソ連が中国へ返還したのを見て共産主義運動に共鳴。23年に臨時政府を離れてソ連に渡り、レーニンと会見(※)、その後上海のタ ス通信社(ソ連国営の通信社)で働いた。
※レーニンは呂に「朝鮮では共産主義運動ではなく、民族主 義運動に力を注ぐべきだ」とアドバイスし、呂はそれに従ったという。
しかし27年に蒋介石が反共クーデターを起こし、上海で白色テロが吹き荒れると、呂運亨は朝鮮に戻り、「民族主義運動の高揚は、まず言 論とスポーツから」と朝鮮中央日報の社長や朝鮮体育会の会長に就任した(※)。
※1936年のベルリン五輪で、「日本代表」として出場し たマラソン選手の孫基禎(ソン・ギジョン)が金メダルを獲得した際、朝鮮中 央日報は東亜日報とともに孫のシャツに描かれた日の丸を抹消した写真を掲載して廃刊となった。
そして太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった44年8月、呂運亨は「朝鮮独立の日は近い」と建国同盟を結成していた。
「占領軍はソ連じゃなくてアメリカ!」で態度を 変えた総督府
総督府との交渉結果を民衆に報告する呂運亨(8月16日)
さて1945年8月15日、呂運亨は再び朝鮮総 督府に招かれ、政務総監の遠藤柳作は治安維持に対する協力を要請。
呂は
(1)政治犯の釈放、
(2)京城(現:ソウル)の食糧の3ヵ月分確保、
(3)治安維 持活動への不干渉、
(4)青年・学生の訓練への不干渉、
(5)労働者・農民の組織への不干渉
など5項目の条件を出して了承し、その日のうちに建国同盟をも とに朝鮮建国準備委員会(建準)を発足させた。
同時に治安隊 を組織して警察署の接収に乗り出した。
建準の支部と治安隊は数日のうちに朝鮮各地で結成されていった(※)。
※呂運亨は民衆に日本への 報復を控えるよう自制を呼びかけ、混乱にもかかわらず日本人に対する暴行事件は少なかった。
建準は朝鮮総督府から行政機能を引き継ぐつもりだったが、朝鮮総督府は18日に米軍から
「38度線以南はアメリカ軍が占領する」
と通告 を受けると態度を一変。
行政権の移譲を拒んだうえに、建準の解散も命じた(※)
※これには建準が猛烈に抗議して2日後に撤回。
また建準内部でもゴタゴタが続いた。委員長に就任した中道左派の呂運亨は「左右合同による統一政権」を目指して、幅広い有力者に結集を 呼び掛けたが、副委員長に迎えようとした右派の宋鎮禹(ソン・ジヌ=東亜日報元社長)は、「朝鮮総督府と勝手に交渉して政権を作ったら、日帝の傀儡だと非 難される」「大韓民国臨時政府の承認を待つべきだ」と主張して参加せず、安在鴻(アン・ジェホン=朝鮮日報元副社長)が副委員長に就任したが、左派の勢力 が強まると保守派との提携を主張した安も離脱。宋鎮禹は韓国民主党を結成し、安在鴻は韓国独立党を結成して、建準を批判し始めた。
呂運亨もテロリストに狙 われて姿を隠さざるを得なくなり、建準内部ではまずます左派の力が強まり、副委員長には許憲(ホ・ホン)が就いた(※)。
※明治大学を卒業した弁護士で、「三・一独立運動」で逮捕 者らを弁護。25年には朝鮮共産党の結成に参画した。
一方、各地の建準支部でも、当初は日本統治下で議員などに任命された有力者や資本家、民族主義者、共産主義者らが集まっていたが、やが て治安隊を掌握した左派の力が強まると、保守派は離脱して韓国民主党などに加わっていった。
アメリカ軍が上陸する前に「豪華メンバー」で独 立宣言したが・・・
左右の大同団結が崩れ、総督府から行政権を引き渡されなかった建準だが、9月6日に全国人民代表大会を開き、朝鮮人民共和国の建国を宣言した。これは9月に入って米軍の飛行機が飛 来し、「近日中に上陸」「布告及び諸命令は現存する官庁(=朝鮮総督府)を通じて発布する」というビラをまいたため、米軍がやって来る前に政府を樹立し、 朝鮮人の団結と自治能力をアピールしようというのが狙いだった。
発表された朝鮮人民共和国の閣僚名簿は、
大統領に李承晩、
副大統領は呂運亨、
国務総理(首相)が許憲、
内務部長(内相)は金九(=臨時 政府大統領)、
外交部長(外相)に金奎植(=臨時政府副大統領)、
財務部長(財相)は曺晩 植(「朝鮮のガンジー」と呼ばれた朝鮮北部のキリスト教民族主義者)
で、55人選出された人民委員には金日成も含まれるなど、大韓民国臨時 政府から抗日パルチザンまで国内外の左右両派を網羅したそうそうたるメンバーだったが、実際には李承晩や金日成、臨時政府の関係者など大部分のメンバーはまだ海外にいて、本人の承諾なしに勝手に閣僚名簿に載せられていた のだった。 
もっとも、呂運亨と許憲を除いてはいずれも 本人の承諾なし。
同時に
(1)朝鮮の自主独立、
(2)反帝反封建の民主主義実現、
(3)民衆の生活向上、
(4)国際平和共存
という政綱4原則と、日帝や 民族反逆者の土地没収と農民への無償分配、諸企業の没収と国有化という施政方針を発表したが、これらは呂運亨と許憲、朴憲永(パク・ホニョン=朝鮮共産党 再建派の指導者)がまとめたもので左派色が強く、反発した宋鎮禹ら右派は翌7日、国民大会召集準備会を開いて
「大韓民国臨時政府が唯一の存在である」
と宣 言。
呂運亨を「血を流さずに政権を奪取しようとする野望を抱いて乗り出した、日帝の走狗」と非難した。
9月8日に米軍が仁川港に上陸すると、呂運 亨は米駐留軍司令官のホッジ中将に面会を申し入れたが、「日本の手先」だと拒否され、「朝鮮独立を助けてくれた米軍を歓迎しよう」と集まった建準治安隊や 労働者は、警備していた日本軍に発砲されて死傷者が出る事態になった。
朝鮮総督府を接収した米軍は、9月11日に軍政庁を発足させて「軍政庁が南朝鮮(38度線以南)における唯一の政府である」という布 告を発表。朝鮮人民共和国は政府としての実態がないまま存在も否定された。
ポツダム宣言で朝鮮の独立を日本に求めたはずのアメリカが、なぜ朝鮮人民共和国を認めなかったかと言うと、独立を認める政府はあくまで 連合国の主導の下で作られるべきであって、降伏した日本の総督府と勝手に交渉して作った政府など、認めるはずはないから。そしてポツダム宣言に先立つヤル タ会談 はで、米英ソが「朝鮮は信託統治を経てから独立させる」と決めていたのだ。
こうして朝鮮人民共和国と建準はアメリカ軍の弾圧を受けるようになった。朝鮮人民共和国は「来年3月に総選挙を実施して、独立しよ う!」と呼びかけていたが、米軍政庁は10月10日「総選挙は軍政庁に対する最も重大な干渉であり、公然たる敵対行為である」という声明を発表し、朝鮮人 民共和国の解散を改めて命じた。建準は再び「建国同盟」を名を変え、各地の建準支部は「人民委員会」と改称して活動を続けた。地方では人民委員会が自治を 行い、治安隊が日本の敗戦で崩壊した警察に代わって治安維持を担っていたが、10月から11月にかけて米軍は南朝鮮各地に進駐して軍政庁を樹立。日本時代 に官僚や警官だった朝鮮人を再登用していった。呂運亨を当初「日本の手先」と警戒していた米軍は、や がて「容共主義者」とみなすようになっていた。
呂運亨は海外にいる李承晩や臨時政府関係者らが朝鮮人民共和国に加わってくれることを期待していた。しかし、 10月16日にアメリカから米軍機で帰国した李承晩は、米軍政庁への協力と「反共統一」を訴えて朝鮮人民共和国を非難。自らが中心となって新たに独立促成 中央協議会を結成し、総裁に就任した。一方で、11月下旬から12月にかけて中国から帰国した臨時政府の関係者らも朝鮮人民共和国を無視し、「大韓民国臨 時政府こそが政府の役割を担う正統組織」だと主張した。
李承晩にしても臨時政府の関係者にしても、終戦まで海外を拠点に独立を掲げて闘い続けた自負があり、呂運亨たちは「終戦のドサクサで朝 鮮総督府と手を結び、血を流さずに独立の主導権を握ろうとした連中」と映った。朝鮮人民共和国に合流することはプライドが許さなかったのだろう。
一方、38度線以北を占領したソ連軍は、8月下旬に38度線を跨ぐ交通や通信を遮断した。朝鮮北部の建準支部は曺晩植を中心に北朝鮮五道人民委員会連絡会議を結成し、朝鮮共産党と協力しながらソ連 軍から行政権を移譲されていたが、10月にソ連から金日成が帰国し、民衆から熱狂的に歓迎されると、主導権は金日成の手に移って行った。
南北統一による即時独立が不可能になった呂運亨は、軍政下で政治活動を行う道を選び、11月に朝鮮人民党を結成した。しかし地方では人 民委員会による自治活動が続いていた地域もあり、米軍政庁は12月12日に改めて朝鮮人民共和国は不法だと宣言。「「『政府』として行動を企てるような 組織の活動は違法行為となる」として、人民委員会を非合法化した。
呂運亨はUP通信のインタビューに対して、「アメリカが軍政府を樹立すると知っていれば、人民共和国を創設するようなことはしなかった だろう」と述べたという。
植民地から解放されたのに、混乱の中で命を落と した「英雄」たち
その後、朝鮮ではヤルタ会談による信託統治案が明るみになり、各政治勢力は賛成と反対に分かれて争い、左右合同や南北統一をめぐる動きも、李承晩派や金九 ら臨時政府派、韓国民主党、朝鮮人民党、朴憲永や許憲らが結成した南朝鮮労働党などが入り乱れて激しい抗争が続いた。呂運亨は46年7月から再び左右合作 運動に取り組み、米軍政庁の支援を取り付けて南朝鮮過渡立法議会を 創設したが、1947年に入ると右派の韓国民主党と左派の南朝鮮労働党が離脱して頓挫した。
結局、朝鮮の独立は南側が1948年8月に大韓民国として独立し、李承晩が大統領に就任。北側は翌9月に朝鮮民主主義人民共和国として独立し、金日成が首相に就任した。
朝鮮人民共和国の閣僚に名を連ねた主要メンバーのうち、許憲は北朝鮮へ移り最高人民会議の議長に就任したが、朝鮮戦争最中の51年に病死。
金九は李承晩に とって最大の政治的ライバルと目されたが49年に暗殺され、金奎植は朝鮮戦争中に北へ連行され病死、曺晩植は信託統治案に反対したことで45年末に金日成と対立して軟禁され朝鮮戦争中に殺害された。また、宋 鎮禹は45年末にテロで殺され、安在鴻は朝鮮戦争中に北へ拉致され65年に死亡、
朴憲永は南朝鮮労働党を率いて北朝鮮へ渡り金日成の最大のライバルになっ たが53年に失脚し、「朝鮮戦争を失敗させた米帝のスパイ」として55年に処刑された。
呂運亨も47年7月に右翼のテロで暗殺された。
しかし、左右合同と南北統一に最後まで情熱を傾けた人物として、今日の韓国と北朝鮮の双方で高い評価を受け ている数少ない存在だ。

世界飛び地領土研究会
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/korearepublic.html
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上海の大韓民国臨時政府

満州の抗日パルチザン

呂運亨

米軍を歓迎するため仁川へ出迎 えた朝鮮人民共和国の支持者たち







李承晩大統領
呂運亨副大統領
許憲首相
金九内相
金日成
曹晩植財相





参考資料:
パク・チョルギュ 馬淵貞利訳 「朝鮮解放直後の社会運動"慶尚南道馬山地域を中心にして"」『東京学芸大 学紀要第3部門第55集』 (東京学芸大学 2004)
ラテンアメリカの政治 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/
ナルゲ http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/index.html
wikipedia   http://ko.wikipedia.org/

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妄想の衝突
2019年09月12日 (木) 18:17
カテゴリ : 未分類
韓国人が1950年代以降、受け続けている歴史教育を概括的にいうと、
【李朝以降、朝鮮には「大韓帝国」という立派な独立国家があって、善政が敷かれ、国民は豊かな生活を謳歌していた。その素晴らしい国に、19世紀末に、突然、日本人がやってきて軍事力で朝鮮を占領し、文明を破壊し、資源を略奪し、植民地に変えた結果、朝鮮民衆は、幸せな生活を壊され、日本人の奴隷としての塗炭の苦しみに追い込まれた。朝鮮は、古代から優れた民族で、文化的にも高く、日本人に文字をはじめ文明を授けた。】というところで、こうした歴史観を、5歳くらいから、「パブロフの犬」のように、繰り返し繰り返し、教育によって洗脳され続けるのである。これでは、半数以上の韓国人が、「日本を懲らしめる」と、反日姿勢に凝り固まるのも当然だろう。
https://news.livedoor.com/article/detail/12846317/
https://ncode.syosetu.com/n4357cw/73/
実際のところは、どうか?
日清戦争の勝利を受けた下関条約で、それまで清の冊封体制隷属国であったのを、日本の介入によって独立させたのが大韓帝国で、李氏の血統を残して、日本皇室の血を入れるため、梨本宮方子が李垠=李朝27代=大韓帝国初代に政治的に嫁がされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%B9%E5%AD%90
18世紀の韓国は、ソウルでさえ、トイレのない家が大半で、道端がトイレ代わりになり悪臭に満ちていた。つまり、公共インフラらしき道路も上下水道もほぼ存在しなかった。およそ、文明国とはいえない現状はイザベラ・バードの探訪記にも詳しく書かれている。
https://www.youtube.com/watch?v=iWk3YmWQL5w
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B4%80%E8%A1%8C
為政者の両班階級は、とても残酷が好きで、激しい階級差別と奴隷制度があった。両班と手先は底辺の民衆を捕らえては拷問にかけ殺害したり強姦したりが日常茶飯だった。
https://hinode.8718.jp/photo_korea_torture.html
李朝は、見栄ばかりで無能な官僚によって自滅し、欧米が植民地にするために虎視眈々と侵攻を準備している現実を知り、日本政府は慌てて朝鮮を自国領とする工作を開始した。それまで、文明らしい文明の存在しなかった朝鮮社会に、短期間で近代文明のインフラを構築し、李朝下の奴隷制度や、「試し腹」といわれる近親相姦を禁止した。
https://leisurego.jp/archives/236281
日本が朝鮮社会を近代化したのは紛れもない事実である。その結果、わずか30年で、ソウルは見違えるような近代都市になり、世界のあらゆる文明都市と比肩しても見劣りしないまでになった。
https://www.youtube.com/watch?v=RMe07oF02Fg
https://www.youtube.com/watch?v=iWk3YmWQL5w
20世紀初頭、大韓帝国には小学校が40校しかなかったが、1940年代には1000校を超えている。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi02.htm
この結果、大半の朝鮮人は、日本人に対して、台湾と同様に、近代文明をもたらした日本に対し、強い好感を抱いていて、反日思想はほとんど存在しなかったともいえる。この時代、1920~30年代は、朝鮮の被差別下層大衆にとっては、日本社会は憧れの別天地であり、賃金が日本人の半分であっても、年間5万人もの人々が我先に日本に移住しようとした。徴用工・慰安婦問題には、こうした背景がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E5%BE%B4%E7%94%A8
しかし、日本が世界を相手に第二次世界大戦に突入すると、様相が一変し、1944年からは、徴兵代替としての強制徴用が開始される。戦争中の朝鮮民衆に対する扱いは、日本人でさえ450万人もの犠牲者が出たことから類推できよう。日本人は一等国民、朝鮮・台湾人は二等国民と区分され、日本人は生活を追い詰められるほどに朝鮮人を敵視し、友好的な姿勢を失っていった。こうした差別姿勢は、私の子供時代、1950・60年代ですら「チョンコロ・チャンコロ」などの差別用語が残るほど顕著であった。
すでに何度か書いたが、在日者は激しく差別され、まともな就職口はなく、唯一、プロスポーツ、芸能界、土建業界、ヤクザ社会、博打や歓楽街などの享楽業種のみに従事するしか生きてゆく手段がなかった。日本社会を熱狂させた、戦後、芸能界、プロスポーツ界のスーパースターの大半が在日者であった。力道山(金信洛)はもちろんだが、月光仮面のモデルも、原作者によれば大山倍達(崔永宜)だったそうだ。芸能界に至っては、今でも圧倒的な在日者の世界である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
当時の朝鮮・韓国人に対する差別の風潮を、私は、大阪西成区に類似した名古屋市中村区で、幼い頃から見聞きし続けた。同級生にはパチンコ産業開拓者であった正村の娘がいたし、歓楽街の頂点だった大門という赤線地帯を支配していたのは、大半が在日系ヤクザであり、同級生にも必ずたくさんの在日者がいた。彼らが、一様に在日者特有の差別を受けていた事実を私は目撃し続けた。だから、事情を知らない軽薄なネトウヨが、「在日差別は存在しなかった」などと主張するのには、怒りと軽蔑以外の印象はない。
だが、韓国本土の日本敵視は、李承晩時代から激しさを増した。それは、おそらく、戦時中の強制徴用労働者に対する人権無視の奴隷扱いに対する怒りが根底にあったのは間違いない。
日本人が韓国人と同等の待遇だったというのは、真っ赤なウソである。それは、例えば松代の天皇防空壕問題や雨竜ダム問題、など全国各地で、朝鮮人に対する虐待や虐殺があり、私の若い頃は、それを直接目撃した人もたくさん生きていて、証言している。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/23704/20170503/matsushiro-daihonei.htm
https://toyokeizai.net/articles/-/185509
http://eigyou.korea-np.co.jp/j-2008/06/0806j0121-00001.htm
https://johonage.exblog.jp/13655715/
これほどの国ぐるみの憎悪を引き起こすほど、戦時中の朝鮮人に対する扱いは苛酷だった。
「日本人と同等だった」と主張する者は、「日本人は偉大な民族だ」と勘違いしているネトウヨばかりで、実態をカケラも知らない者ばかりである。だいたい、今でもネトウヨが「チョン」という蔑称を多用している現実から歴史に向き合ってみたらいい。
しかし、一方で、韓国人による大韓民国発足後の歴史歪曲も甚だしいものがある。冒頭に紹介したように、「大韓帝国は素晴らしい国で、文化も高く人々が幸福な生活を送っていたのを日本人がやってきて、ぶち壊した」という主張も、ひどいウソであることは、上の方にリンクしたイザベラバードの紀行文を見れば一目瞭然だ
李朝も大韓帝国も文化的に極めて素養の高い国で、日本人に文明を教えた。古代でも、百済は王仁という博士を日本に派遣し、言語や、あらゆる文化を教授した。 https://www.shoai.ne.jp/hirakata-s/minwa/f151001/f151001.html
出口王仁三郎が名前を取った王仁博士というのは、実在の真偽は不明であるが、これは日本書紀に記録されている弓月氏らのことを指すのだろう。現実には、王仁博士が実在したとしても、百済人であるとするなら、それは韓国人の先祖ではない。むしろ、天皇家=騎馬民族の先祖であり、女真族である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B
すでに、このことは何度も書いているが、現在の韓国人の先祖は、DNA検証によって、濊族=エベンキ族であることが明らかにされているが、この研究成果を韓国人学者が公開してから数日以内に、あらゆる文献から、このことが削除されてしまった。韓国は、自分たちを彩る空想小説に合致しない歴史的事実は、たちまち隠蔽し尽くすのである。あくまでも、自分たちを讃美し続ける夢の世界に住み続けたいのだ。
https://kirari-media.net/posts/184
http://check.weblog.to/archives/4051080.html
夢の世界に生きる「夢追い人」が韓国人の本質なのである。しかし、それを日本人が批判できるだろうか? 否!日本人もまた、優越的空想・妄想に酔い痴れ、ナルシズムに夢中になってきた。だからこそ、妄想どうしの衝突が起こり、日韓対立が生まれるのである。そもそも、平泉澄東大史学部教授が作り出したといわれる皇国史観は、優越妄想に満ちた虚構にすぎない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A6%B3
そもそも、万世一系、2600余年前に高千穂に降臨したという日本武尊なんて存在は、漫画の世界だけに存在する虚構であることは誰でも分かるはずなのに、本気で信じている人がいまだにいる。
私の推理では、2600年前に呉越戦争があり、呉国が破れ、当時の戦争の掟では、敗戦国住民は生き埋め(坑刑)で皆殺しにされることが多かったので、水郷地帯(蘇州)にいた呉人は、大量の船で日本や朝鮮南岸に移住したと考えるべきである。これは中国の史書にも、たくさん掲載されている歴史的事実である。
中国では早くから、日本は太伯の末裔だとする説があり、たとえば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝、『梁書』東夷伝などには、倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とある。同様の記述は南宋の『通鑑前編』、李氏朝鮮の『海東諸国紀』や『日東壮遊歌』等にもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2
つまり、呉は国ぐるみ敗戦により、船で移住し、一部は朝鮮南岸へ、多くは九州北岸や有明海に上陸し、弥生人国家を作り、やがて邪馬台国が生み出された。それから、ヤマト国・倭国(朝鮮南岸を含む)の800年くらいの歴史を経て、こんどはAD300年くらいから、百済が国ぐるみで日本列島に移住し、高句麗・百済由来の女真族=騎馬民族が大量に日本列島西部に流入し、江上波夫が明らかにしたように、ヤマト王朝を簒奪したと私は考える。反江上説については、DNA解析上の証拠が出されているが、私は信用できないでいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC
理由は、江上説を誹謗する学者の多くが、皇国史観系の影響を受けている人物ばかりだからである。そもそも、皇国史観=平泉澄の本質は、「豚に歴史がありますか?」なのだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-827.html
つまり、神武以来の万世一系伝説を壊す江上波夫説に対する敵意が満ちていて、DNA解析を根拠にしていても、いくらでも突っ込みどころがあり、民族学・民俗学と完全に矛盾する論理を見せているし、弥生人を蘇州由来でなく、朝鮮人とするようなトンチンカンな学説もあり、私には信用に値するものではない。私に言わせれば、皇国史観もまた、朝鮮・韓国人の「偉大な大韓帝国」とよく似た夢想・妄想にすぎない。どちらも、現実を無視した夢追い人であるから、夢同士が齟齬を起こし、矛盾の連続で不協和音を奏でている。
そもそも、民俗学をきちんと学んだ者なら、天皇が切れ長の目、一重瞼で、感想耳垢で、すらりとしていて、と知るだけで、ツングース由来とピンとくるものだ。由緒正しき皇族で二重瞼がいるか? つまり彼らは源平藤橘の末裔だからだ。目の大きな二重瞼の小柄で小太りな体型を見ただけで、これこそ弥生人と理解できるのであり、彼らこそ、日本に稲作を持ち込んだ救世主だった。だからこそ、天皇が高句麗由来の騎馬民族末裔であることなど一目瞭然なのである。こんな基礎的な民俗・民族検証も無視して、何が皇国史観だ、笑わせるな!そもそも、いずれも、人間は「ただの人」であるという究極の本質的な現実認識からかけ離れ、雲間を泳ぐ殿上人であるかのような勘違いの妄想から抜け出せないでいるのだ。
「この世には、地球と人しかいない」
という現実を直視できず、「偉大な大韓国」とか、「偉大な皇国日本」とかの現実には存在しえない軽薄な妄想に酔いしれているのだ。その意味では、「偉大なアメリカ」を連発するトランプも同じ穴の狢である。我々は、地球と人しかいない現実の上に論理を組み立てなければならない。イムジン河の上を飛び交う鳥も、魚も、獣も、国境など何の関係もない。実は人も関係ないのだという現実を認識することが、日韓共和の第一歩であり、妄想の夢から覚めて、惨めな弱い人間である価値観を共有することこそが、日韓問題解決の第一歩である。
 
東海アマブログ
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日本朝鮮統治時代

1932
差別などなかった。最後の証人が語る、日本の朝鮮統治の「真実」
国内2017.10.04 752 by 伊勢雅臣『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』
北朝鮮有事で、自衛隊が最前線に送られる「日米指揮権密約」の内容
朝鮮半島38度線ツアーに参加した日本人の衝撃レポート
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日韓関係をぎくしゃくさせている原因のひとつとしてあげられることの多い、日本による「朝鮮統治」。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、朝鮮総督府で官吏をされていた西川清氏の著書『朝鮮総督府官吏、最後の証言』の内容を引きながら、朝鮮統治時代の日本人と朝鮮の人々との関係性について、メルマガ著者の伊勢雅臣さんが分析・解説しています。
朝鮮総督府の「一視同仁」チームワーク
朝鮮総督府で官吏をされていた人が、当時の体験を語った貴重な本がある。本年7月、102歳で亡くなられた西川清氏の『朝鮮総督府官吏、最後の証言』だ。
表紙の帯には「おそらく総督府の実態を語れるのは私が最後だと思います」との発言がある。
この本の裏表紙にある写真が、西川さんの証言のすべてを物語っている。そこでは4人の若い男性が桜の木の下で、肩を組んでいる。キャプションには「1934年 官吏仲間と楽しく花見する西川氏」とある。
一人は着物を着ているので日本人と分かるが、他の3人は洋服だ。
そのうちの一人が西川さんで「大和系日本人」、残る2人の青年には「朝鮮系日本人」と注意書きされている。
仲良く肩を組んでいるので、そのような注意書きがなければ、誰が日本人で誰が朝鮮人だか全くわからない。
西川さんの朝鮮総督府での業務体験を読んでいくと、日本人と朝鮮人が一体となったチームワークで仕事をしていたことがよく窺われる。
町の周囲の山が禿山だった
西川さんは昭和8(1933)年18歳で和歌山県の熊野林業学校を卒業し、校長の斡旋で朝鮮総督府に就職した。朝鮮といっても、当時は内地(国内)、外地(朝鮮、台湾)とも同じ日本だったので、日本国内の遠い地方に行くという感覚だった。任地は江原道(こうげんどう)。「道」は日本で言えば「県」にあたり、江原道は朝鮮半島の東海岸、南北ではちょうど中程にあった。
朝鮮に行ってまず驚いた事は、釜山(プサン)や京城(ケイジョウ、現ソウル)など町の周囲の山が禿山だったことです。
…朝鮮にはオンドルという薪(まき)を焚いて床を暖める設備がどこの家にもありました。朝鮮は非常に寒くなりますから、このオンドルには大量の薪が必要です。しかし、朝鮮には植林をするという技術もなく、指導者もいなかったので、街に近い山々にはほとんど樹木がなくなっていました。
(『朝鮮総督府官吏 最後の証言』桜の花出版編集部/星雲社)
西川さんの最初の仕事は、この禿山に植林をすることだった。まず土が流れないよう、70~80センチの段々を作り、そこに木を植える。植林は土砂崩れや洪水防止のために急務であった。また海の近くに植林することで、漁場に栄養が行き渡る。西川さんは日本の林業学校で「樹のない国は滅ぶ」と教えられていた。
朝鮮総督府は1911年からの30年間で、5億9,000万本もの植林を行った。朝鮮全人口の一人あたり約25本という膨大な数である。西川さんはその一翼を担ったのである。

mag2.com
http://www.mag2.com/p/news/280690








日韓併合時代の真実
かつて日本と朝鮮が手を取り合って、仲良く生きていた時代があった
日韓併合(1910-1945年)前の朝鮮。飢えと貧困にあえぐ人々。
[1880年代のソウル南大門大通り(中心街)]
日本はこの朝鮮を建て直した。
親から聞かされた「日本人は親切だった」
日本には今日、悲しい風説が飛び交い、それによって多くの人々が惑わされています。たとえば、
「日本はかつて朝鮮を侵略し、朝鮮の人たちを弾圧し、虐待し、搾取し、ひどいことをした」
といった類の風説です。学校でも習ったでしょう。
あたかも事実であるかのように。
日本は悪者だ、と教え込まれてきたのです。
しかし、こうした主張が本当なのか、それとも事実とは違うのか、私たちは、当時の実体験を持つ長老たちに聞かなければなりません。
韓国人の女性で、呉善花(お・そんふぁ)さんというかたがいます。
日韓関係についてたくさんの本を書いているかたですが、彼女は小さい頃、親の世代から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞かされていました。
ところが、学校に入学すると、先生から、
「日本人は韓国人にひどいことをした」
と教わって、すさまじいばかりの反日教育を受けたのです。
それでいつしか、学校で教えられるままに、「日本人は韓国人にひどいことをした」という認識が、彼女の中で常識となっていました。
彼女はその後日本に渡って、日本で生活するようになりました。
すると、かつて親から教えられた「日本人はとても親切な人たちだった」という言葉が、再びよみがえってきたのです。
それで彼女は、日本と韓国の歴史について、もう一度勉強し直しました。
やがて彼女は、韓国で受けた反日教育というものが、非常に偏った、間違いだらけのものであることを知るようになります。
そして、反日主義から抜け出したのです。
彼女はのちに、『生活者の日本統治時代』(三交社)という本を出版しました。
これは、かつて日本が朝鮮を統治した時代――つまり日韓併合の時代(一九一〇~一九四五年)を実際に体験した日本人や韓国人にインタビューして、それをまとめたものです。
そこには、日本統治下の朝鮮を実際に体験した日韓一五人の証言が書かれています。
いずれも、今はかなりお年をめされた方々ばかりです。
彼らは貴重な証言を残してくれました。彼らの体験談を通し、あの朝鮮における日本統治時代は実際はどんなものだったか、ということが非常にはっきり見えてきます。
私たちは彼らの証言に耳を傾けてみましょう。
日本統治下の朝鮮を体験した人々の証言
たとえば阿部元俊さんは、大正九年、三歳のときに朝鮮に渡り、そこで学生時代を過ごした人です。
文字通り、日本統治下の朝鮮を体験したのですが、彼はこう言っています。
「私が朝鮮にいたころ、日本人による朝鮮人いじめの話は、噂としてもまず聞いたことがありません。
とくに、ソウル郊外の水原にいたころは、日本人が少ないからと珍しがられて、地域の人たちはみな親切にしてくれていましたしね。
少なくとも水原では、私の知る限り、日本人と朝鮮人とが衝突したとか、喧嘩したとか、何かのトラブルがあったといった話は聞いたことがありません。
……ソウルでもそうでした。……学校では、
『ここは朝鮮だ、我々は他人の国によそからやって来て住んでいる。朝鮮人と喧嘩したり、朝鮮人をいじめたりは絶対にしてはいけない』
と盛んに言われていましたし、親からも厳しくそう言われていました。……
私の父は医者で、貧困な農民たちの治療に励んでいましたが、
それで病原菌をもらってしまいまして、腸チフスと赤痢にかかってしまいました。
父が病院を辞めるときには、多くの朝鮮人が家にやって来て、『どうか辞めないで、ここにいてください』と泣いて別れを惜しんでいました。……
戦後、日本に帰ってから、朝鮮に住んでいた日本人は朝鮮人をさかんに苦しめたという言葉を、当然のようにぶつけられましたが、
自分の体験からすると、いったいそれはどういうことなのか、どう考えてもわかりません。
喧嘩ということだけでなくて、問題になるようないじめとか、差別とか、一般生活者の間ではほとんどなかったということを、私は自分自身の実体験から自信をもって言うことができます」
このように阿部さんは、一般庶民のレベルでは朝鮮人と日本人は仲良くやっていたと、証言しています。
今日、韓国の学校教育では、
「日帝は、全国いたるところで韓民族に対する徹底的な弾圧と搾取を行ない、支配体制の確立に力を注いだ」
「日帝の弾圧に苦しめられたわが韓民族は、光復(戦後の解放)を得るまでの間、植民地政策に対して自主救国運動を展開した」
等と教えられています。
このようなことを教えられると、日本人はまるで朝鮮でヤクザのようにふるまい、日本人は朝鮮人を虐待し、
両者は至る所で非常に仲が悪かったような感じですね。
しかし、実際に朝鮮における日本統治時代を体験した人々に聞くと、まったく違う様子だったのです。
たとえば、生まれも育ちも朝鮮の新義州(今日の北朝鮮北部)という林健一さんも、こう語っています。
「日本人による朝鮮人差別ということは、まったくありませんでした。
学校で生徒同士は完全に対等で、上級生の朝鮮人が下級生の日本人を呼び寄せて、『お前は服装がなっていない』とか説教することなんかがたびたびありましたね。……
朝鮮を出て、日本の内地に行きたいとも思いませんでした。
朝鮮の人々はよかったですし、私も居心地がよかったですから。
……骨をどこに埋めるかと聞かれれば、『朝鮮』と答えたものです」
また、日本統治下のソウルで青春時代を過ごした吉田多江さんは、こう語ります。
「近所の子どもたちともよく遊びました。
私は朝鮮の女の子たちの長く束ねた髪の毛がうらやましくて、私がさわりたいと言うと、よく触らせてくれました。
……何の区別もなくつき合っていました。……
仲のよかった思い出がいっぱいで、朝鮮人と日本人の間でいじめたりいじめられたりといったことは、本当に見たことも聞いたこともありません。
……朝鮮はとても治安がよくて、日本人を襲う泥棒や強盗の話など聞いたこともありません。……横暴なふるまいなど一切ありませんでした。
戦後になって日本に送還されるときも、家財道具を盗られるなんてこともなく、こちらから知り合いの人たちにあげましたし、
彼らはみな喜んで感謝の礼を表してくれました。こんな素晴らしいことって、あるでしょうか。世界に誇れることだと思います。……
創氏改名(日本人名を名乗ること)を強制的にさせたとも言われますが、私のまわりの朝鮮人はみな終戦までずっと朝鮮名のままでした。
戦後の韓国で言われてきた歴史には、あまりに嘘が多いと思います。
……私はソウルで生まれ、成年になるまでソウルで生きてきましたが、
日本人と韓国人が基本的に仲良く生きてきたことは、双方の民族にとって誇るべきことだと思っています」
朝鮮人と日本人は仲良く生きていた
また同じく、日本による朝鮮統治時代を体験した韓国人の朴承復さんも、こう語っています。
「学校では日本人生徒たちからも先生からも、差別されたことはありませんでした。
……今でも日本人の同期生たちと会うと、彼らは韓国語で話したがります。
……今なおそれほど親しくつき合っている日本人の同期生が何人もいます。
商業学校の恩師二人は、とても尊敬できる方でした。
一人は松尾先生で、国語の先生でした。この先生は韓国人、日本人にかかわりなく尊敬されていました。……
もう一人は横尾先生です。
この先生は日本人生徒たちからは嫌われていました。
めちゃめちゃに厳しくて、過ちを犯せば決して許さない方でした。
しかし、私はなぜか特別に可愛がってもらいました。
いろいろな相談にものっていただいた大恩師です。
卒業後、朝鮮殖産銀行に務めましたが、差別的な扱いを受けたことは全くありません。……行員家族全員で地方の温泉地へ一泊旅行に行ったりもしました。日本人も韓国人も区別なく、みんな仲良く楽しく遊んで過ごしました。
 日帝時代にそんなことあり得ないと言われるかもしれませんが、過激な人や極端な人たちの一部での喧嘩や衝突はあっても、一般の日本人と韓国人のぶつかり合いなんか、見たこともありません。…
 多くの日本人は、朝鮮人から家をちゃんと借りて住んでいました。日本人が勝手に韓国人の家を奪い取るなど、そんなことはなかったです。当時の日本人は本当に質素でした。……私自身は当時の日本人に対して悪い印象は全く持っていませんでした」
また、ソウルの京城帝国大学で学んだ韓国人の閔圭植さんは、こう語っています。
「私は個人的には日本人と仲がよくて、悪い感情はありませんでした。
日本人が韓国人に恐怖を与えたとか、韓国人が日本人に殴られたとか、何か嫌がらせをやられたとかいったことは、
個人的には見たことも聞いたこともありません。……
日本人が韓国人の家を奪って勝手に使うとか、土地や財産を搾取するとかいうことも、まったくありませんでした。
神社参拝については、何かの日には学生全部が連れて行かれました。行かなくても別に厳しい文句は言われませんでしたが」
また、日韓共同映画『愛の黙示録』を作り、三〇〇〇人の韓国人孤児を育てた日本人・田内千鶴子さんの生涯を描いた監督・金洙容さんも、こう語っています。
「農場の日本人たちはとても勤勉でした。
日本人は早くから科学的で先進的な農法を使っていました。
……日本人の経営する農場には、韓国人たちもたくさん働いていました。
日本人は日当をきちんと計算して渡してくれました。
彼らはとても礼儀正しく、日当を支払わないようなことはまずしません」
また、新義州の中学や高校に通っていた李萬甲さんは、こう語っています。
「朝鮮人は私一人でしたが、日本人の同級生みんなに親切にしてもらいました。
……日本人の先生には立派な方がいらっしゃいました。……
創氏改名は昭和一五年からのことでした。
ほとんどの人が変えていましたね。
……しかし、官庁に務める人でも、変えないからといって首になるようなことはありませんでした。……
日本人が韓国人の生活を侵害するとか、略奪するとか、そんな類のことは日本人は全くしませんでした。
日本人は法に反することをしないようにと、非常に気をつけていました」
日本人も朝鮮人も協力しあって働いていた
朝鮮のひとり立ちを助けた日本
やがて日本が敗戦を迎え、朝鮮から日本人たちがみな去っていったとき、ひとりの人が韓国へ戻ってきました。
彼の名は李承晩(イ・スンマン)。彼は、それまでハワイにいましたが、アメリカから韓国初代大統領の座を与えられ、韓国を支配するようになりました。
もともと熱烈な反日主義者だった李承晩は、日韓併合時代中、ずっとアメリカに亡命していましたので、朝鮮における日本統治を体験していません。
彼は日本統治を知らない。その彼が、韓国初代大統領の地位につくと、親日派の人々をすべて追放し、もはや反日でなければ韓国では生きられないようにしました。
家庭でも学校でも職場でも、親日的発言はすべて禁止され、日本の悪口だけが許されるようになりました。
虚偽と捏造によりゆがめられた歴史観が学校で教え込まれ、少年少女は、すさまじい反日教育の中で育てられていったたのです。
そうやって、今日の韓国の反日主義が形成されました。
北朝鮮の金日成の場合も同様です。
今も北朝鮮、および韓国には言論の自由はありません。
そして客観的な歴史教育もないのです。
しかし少なくとも日本人は、自分の親や、おじいさんやおばあさんの世代の歴史をきちんと知っておく必要があります。
日本はなぜ朝鮮を統治したのでしょうか。
それはごく簡単にいえば、当時の朝鮮は、国家的な破産状態にあったからです。日本はその朝鮮に、助け舟を出したのです。
これはちょうど、生活力を失った家庭に、国が生活保護を適用することにも似ていました。
生活保護法では、その家庭がひとり立ちできるまで、国が保護を加え、援助をしていきます。
また職員が生活や仕事に至るまで、事細かに指導していきます。
同様に、かつて日本は朝鮮をひとり立ちできる国家にするために、朝鮮を統治していったのです。
これは、朝鮮と日本との間の国際的合意のもとで行なわれたことでした。また、当時の世界の多くの国々が賛成し、承認したものでした。
そして日本は、実際に朝鮮をひとり立ちできるまでに建て直したのです。
恨まれるようなことをやったわけではありません。
また、日本が朝鮮を統治したのは、ちょうどある会社が、破産状態にあった別の会社を吸収合併して建て直すことにも似ていました。
いわば日本株式会社が、破産した朝鮮株式会社を吸収合併して建て直したのです。
こうした吸収合併の際、日本株式会社は、朝鮮株式会社を経済的に支えるだけでなく、様々な人材を送り込んで技術や経営の指導にあたります。
そうやって会社を建て直していくのです。それと同様のことが、朝鮮の国家再建においても行なわれました。
実際、たとえば朝鮮殖産銀行の頭取として働いていた有賀光豊さんも、ふだんから、
「朝鮮は、我々がお手伝いして立派な国に育て上げ、そのうえで本来の持ち主に返すべきだ」
という信念で働いていました。息子の敏彦さんがそう述べています。朝鮮に経済的な自立をもたらし、やがてひとり立ちできるようになったら、独立国へ導いていこうと彼は願っていました。
これは、当時朝鮮で働いていた多くの日本人たちの共通意識だったのです。
韓国人の李萬甲さんも、日本統治時代を振り返ってこう語っています。
「私が通っていた高等学校には、上村先生という日本人の先生がいらっしゃって、立派な方でした。
先生は、韓国人の生徒たちが集まっている場で、よく言ってくださった言葉があります。それは、
『君たちが独立するためには経済の力だ』という言葉でした」
このように日本人は、朝鮮が力をつけて、やがて独立国家となれるよう、自立させるために働いていたのです。
真の日韓友好への道
もちろん、日本の統治が完全だったというわけではありません。
失策や失政もありました。
また日本人の中には悪い人たちもいました。
内地から来たといって威張っていた日本人もいなかったわけではありません。
一方、朝鮮人の中にも悪い人たちもいました。
しかし全般的にみれば、当時日本人と朝鮮人とは仲良く共に手を取り合って生きていたのです。
もし歴史を虫メガネでみれば、小さな部分には、汚れもあったでしょう。
けれども、私たちは全体的な姿にあらわれた良い事柄を決して忘れてはいけないのです。
いや、やはり、まずきちんと調べるでしょう。本当にそんなことがあったのか。日韓の関係についても、まさしくそうなのです。
日本は莫大なお金をつぎ込んで、朝鮮を近代国家に変えていった。
これは朝鮮に造られた水力発電所、水豊ダム。当時出力世界2位のダムで、朝鮮及び満州の電力をまかなった。
日本は悪者だと言うことが宣教ではない
以前、私がこうしたことを語ると、ある日本人がかんかんに怒って、私に言ってきました。
「悪が善を消すことはできる。しかし善は悪を消せない。日本統治時代に良いことがあったとしても、悪いことが少しでもあったならば、日本の統治は間違っていたのだ」
しかし、私はそうは思いません。
もし間違ったことがあったならば、それは個々に反省し、悔い改めればよいことです。
私たちは全体的な見方を忘れてはいけないのです。
「日本人は悪者だった」という見方は、非常に皮相的で、偏っています。
私たちはそうしたレッテル張りから解放されなければなりません。
私たちに与えられている神様からのメッセージは、「日本人よ、おまえは罪人だ」「悪者だ」ではありません。
「日本人よ、あなたは神に愛されている」
です。

Remnant
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi02.htm














歴史ある都市を戦場にし破壊していけないからです。
日本軍は圧倒的に強かったので、たいていの都市では、中国軍はたいした抵抗をすることもないまま逃げ去り、都市は明け渡されました。
しかし南京で、中国軍は珍しく若干の抵抗をみせました。
南京防衛軍司令官の唐生智が「俺に頑張らせてくれ」と言ったので、蒋介石も「頑張れ」と言ったのです。
彼が最後まで頑張れば、ある程度、中国軍の統制もとれたでしょうが、この司令官は情けないことに、途中で逃げ出してしまいました。
司令官を失なった中国兵たちは、自分たちも逃げようとしました。
けれども彼らの多くは、逃げる味方の兵隊を後ろから撃つ「督戦隊」に殺されました。
また中国兵の中には、逃げれば督戦隊に殺されるし、残れば日本軍に捕まるということで、民間人を殺し、その着物をはぎ取って着る者たちもいました。
こうした民間人に化けた中国兵は、それがばれたときに日本兵によって殺されることもありました。
そのようなことはありましたが、南京で、日本軍による住民の大量虐殺というようなことは決してなかったのです。
日中戦争の真実 
日本は、内戦に明け暮れる中国を救おうとした
ローマ法王も、日本の行動を支持していた
日本兵らと遊ぶ中国人児童ら(1937年)
日本兵たちは中国の民衆からは温かく迎えられていた。
前項「中国の『正しい歴史認識』の正体」では、「夷(い 外国)をもって夷を制す」の中国政治家の考え方により、
日本が中国の内戦に引き込まれていったことをみました。
この項では、中国における日本の軍隊の行動について、もう少しみてみましょう。
中国民衆を虫けらのように殺した中国軍
中国軍と、日本軍の間には、大きな質的差異がありました。
それは、中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとしたことです。
中国では伝統的に、民衆とは、戦乱で虫けらのように殺される存在であり、少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていませんでした。
梁啓超は、中国の民衆を「戮民」(りくみん 殺戮される民)と呼んでいます。
たとえば、「国共合作」により共産軍と組んで日本との戦いを始めた蒋介石の軍隊は、
一九三八年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の堤防を爆破しました。
このとき、大雨が降ったこともあって一一の都市と、四千の村が水没し、水死者一〇〇万人、その他の被害者六〇〇万人という大惨事となりました。
しかも、それだけでは終わりませんでした。
この人為的水害の結果、黄河の水路が変わり、周辺に大飢饉が広がったのです。
そして、被災地で食糧不足に悩んだ中国軍部隊は、民衆から食糧の強奪を始めたため、飢饉はさらに深刻化しました。その惨状をみた当時のアメリカ人記者は、
「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた」
と報じています。
中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝もしていました。
しかし中国側のこの自作自演は、のちに外国人記者に見破られています。
この堤防決壊のとき、日本軍兵士は一人も死にませんでした。
それはただ、中国人を大量殺戮しただけで終わったのです。
堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ないました。
日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。
こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様でした。
いや、共産軍はもっとひどいものでした。
共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊と呼ばれていました。
それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人、強姦を働いたからです。
中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。
ですから中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。
また、そうしないと司令官が殺されてしまったからです。
日中戦争における戦闘は、たいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、という形で進みました。
ですから、激戦地を除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は多くはありませんでした。
むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を殺したものでした。
中国の軍隊というのは、兵士たちの後ろに「督戦隊」(とくせんたい)がいたのです。
督戦隊とは、後ろで「敵を殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると、その兵士を撃ち殺す中国兵です。
つまり中国兵が中国兵を殺したのです。
中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争時の死傷者は、日本軍によって殺された中国兵よりも、そうやって督戦隊に殺された中国兵たちのほうが多かったくらいだといいます。
また、中国兵は負傷すると、置き去りにされました。
ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していました。
それを発見した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。
なぜなら彼らの足には、逃亡防止のための鉄の鎖がつけられていたからです。
日本軍と中国軍とでは、質の上でそれほどの差があったのです。
道端に打ち倒されていた孫文の銅像に青天白日旗をかけてあげる日本兵。中国の伝統文化への尊敬心から出た行為である。
現地市民の間でも、日本軍は、シナ軍よりもよっぽど信用できるとの評価を得ていた。
本当の人民解放軍は日本軍だった
また中国軍と日本軍の性格を大ざっぱにみるなら、次のように言うことができます。
中国軍が通った地は至る所、はげたかの大軍が通ったように略奪されました。
さらに彼らは占領地域を去るとき、日本軍に何も残さないようにするため、「焦土(しょうど)作戦」を取りました。
つまり退却のたびに、道路や工場、橋、潅漑施設、その他の施設を次々に破壊したのです。
そのため中国軍が通るところすべてが荒廃していきました。
彼らの行動の特徴は、略奪と破壊だったのです。
それによって中国経済は破壊され、農業も工業も壊滅的被害を受け、人民は苦しむばかりとなっていました。
とくに悲惨だったのは、民衆の大半を占める農民たちでした。
一方、そのあとにやって来た日本軍は、当初から農民たちの救済と、中国経済の再建に取り組んだのです。
日本軍が占領した地域は、中国本土の人口の約40%、また耕地面積の54%に及びましたが、
日本はすぐにその地域での農業再建、道路や潅漑施設の復興、工場の再建などに取り組みました。
日本は中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎しました。
統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて見たからです。
本当の「人民解放軍」は中国軍ではなく、日本軍だったのです。
日本が占領地域でとくに力を入れたのは、農民の救済でした。
日本政府はすでに1938年に中国での農業復興の計画を発表し、実行に移しています。
それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものでした。
それにより、日本の占領地域での農業は飛躍的に増大しました。
日本人技術者が中国農民に、日本の農業技術を提供していったからです。
もちろん戦時下のため、悪戦苦闘はありましたが、それでも日本の努力は多くのところで実を結んでいました。
農業だけでなく、軽工業、重工業などの再建にも取り組みました。
日本はまた中国に鉄道を敷き、病院を建てました。
疫病の多かった中国の衛生事情の改善にも努めました。
さらに、絶望視されていた中国の製糸業を復興させたのも、日本の対中国投資によるものです。
日本は、満州や、朝鮮、台湾などで行なっていた近代化建設事業を、中国でも、すでに日中戦争のさなかから始めていたのです。
それによって占領地域のインフラ整備、産業の復興が行なわれました。
日本政府の推計によると、一九三八年から終戦の四五年までの日本の対中国投資の累計は、約四七億円にも達していました。
当時の日本の国家予算は約二〇億円ですから、どれだけ巨額かわかるでしょう。
これは戦争に使ったお金ではありません。中国の国土と経済の復興に使ったお金なのです。
このように、中国軍が各地を焦土化し、同胞を虫けらのように殺していたときに、日本は中国民衆の救済と、中国の近代化のために働き続けていました。
中国人民の本当の敵は、日本軍ではなく、中国軍だったのです。
中国軍は、蒋介石の国民党軍も、毛沢東の共産軍も、その頭の中にあったのは中国人民のことではなく、権力奪取のみでした。
しかし日本は、なんとか中国を救おうと奔走していたのです。
ですから、中国の老人でこの時代のことを体験した人々の中には、親日的な人々が大勢います。
ふだんは中国政府の叫ぶ反日イデオロギーの中で大きな声では発言できませんが、彼らは当時の日本人が中国人にしてくれたことを知っているのです。
戦後、日本人が中国大陸から引き揚げてくるとき、多くの日本人が帰りそこなって、そこに取り残されました(いわゆる中国残留孤児)。
しかしそのとき、残留日本人を助けてくれた中国人たちがかなりいました。
そうした中国人の多くは、戦時中の中国兵がいかに悪かったか、また日本軍が中国の民衆を助けたことを、よく知っていたので、日本人を助けてくれたのです。
ローマ法王は日本の行動を支持した
もともと、中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。
しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をなしました。
またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない自立した民主的国家が誕生するよう、手を差し伸べたのです。
日本は中国を「自分の領土」とするために戦っていたのではありません。
日本は中国の「領土保全」をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生することを目指したのです。
そして日本と手をたずさえて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指しました。
ですから、日中戦争(支那事変)が始まった年である1937年10月に、
当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ一一世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、
全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。法王は、
「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。
日本は共産主義を排除するために戦っている。
共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」
といった内容の声明を出しています。
この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和一二年一〇月一六日および一七日)。新聞は、
「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、
知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。
英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」
と歓迎の意を表しています。
ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。
けれども、そのピオ一一世も、やがて一九三九年には世を去ってしまいます。
そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。
共栄圏をつくろうとした日本
1937年から始まった日中戦争でしたが、日本はすでに一九四〇年には、すでに中国の華北と、華中の一部を支配下におき、
その統治を親日政権である汪兆銘(おうちょうめい)の南京政府にゆだねていました。
日中戦争は八年間続いたと一般にいわれますが、実際には日中の戦闘は一年半あまりで終結し、あとは日本軍はそれ以上領地を広げようとせず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中したのです。
その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、
民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差がありました。
鉄道もつくられ、人々や物資の移動が容易になりました。
よく「日本軍は一方的に略奪と破壊をした」かのように語られることがありますが、実際は全く逆だったのです。
だからこそ、汪兆銘の南京政府や、そのもとにいる多くの中国人は日本を支持し、日本と共同して、その地域の発展のために働いたのでした。
汪兆銘の南京政府が支配する地域では、戦前にも増して平和と繁栄を謳歌していました。
その象徴が上海です。
日中戦争中ですら、そのダンスホールや映画館はどこも満員という活況を呈していました。
ロシアから逃げてきたユダヤ人たちの居住区も、この上海に設けられ、彼らはそこで安全に暮らしていました。
一方、蒋介石や毛沢東が支配していた地域は、悲惨でした。
ただでさえ彼らの軍隊が入ってきたので食糧が不足したばかりか、略奪、搾取が横行したため、たちまち住民は地獄の生活へと転落したのです。
もっとも蒋介石は、日本人のような規律ある生活習慣を目指した「新生活運動」を実施し、
中国兵の乱れた規律を正そうと努力はしましたが、それでもなかなか実を結ぶことはできませんでした。
日中戦争中、アメリカがいわゆる「援蒋ルート」を通して、重慶にいる蒋介石軍に様々な物資を送り届けていたことは、よく知られています。
兵器、弾薬、医薬品、食糧などですが、しかし山を越え、川を越えているうちに、重慶まで届いた物資は多くても当初の何分の一かに減っていました。
それらの地域を支配する匪賊や、他の武装勢力に、通行料として一部物資を渡していたからです。
当時、日本の支配地域以外の中国大陸には、匪賊が約2000万人もいたといいます。それは中国軍の約一〇倍に相当します。彼らは略奪で生計をたてていたのです。
また無事に重慶に届いた物資も、国民党幹部のポケットに入ってしまい、他の者には行き渡りませんでした。
このように当時の蒋介石の政府が、米国の支援を食い物にしていたことは有名です。
このように、日本の支配地域と、そうでない地域とでは中国民衆の生活に格段の差があったのです。
日本はすでに日中戦争のさなかから、中国を近代的民主国家として自立させ、アジアの同胞として共に相携えて共栄圏をつくるために、非常な努力を積んでいたからです。
しかしその望みも、やがて日本が日米戦争で敗戦を迎えたことにより、挫折しました。
そのとき、日本は中国につくった工場や施設、インフラなどを破壊することなく、すべて正確な資産リストを添えて、
中国の未来のためにそのまま置いてきました。
それらは戦後の中国経済の発展の基礎となったものです。
日本が去ったとき、中国では再び「国共内戦」、すなわち国民党軍と共産軍の内戦が勃発しました。
これは実質的に、日本が残した遺産の奪い合いでした。
そしてこの内戦での死者は、日中戦争中の死者よりも多かったのです。
またこの国共内戦に共産軍が勝利し、中国を統一したとき、
共産党はかつて自分たちがなした中国民衆への殺戮、略奪、搾取などを、すべて日本軍の悪行と宣伝して若者たちに教える教育を始めました。
以前、私がこれら中国の歴史を「レムナント誌」に掲載したとき、
ある日本人は
「こんなことがあったなんて知りませんでした。一般に世間で言われていることと何と違うでしょう」
と言いました。しかし、日本に留学しているある中国人クリスチャンが手紙をくれたのですが、こう書いていました。
「先生は中国に関し真実を書いています。がんばってください」
中国人も、知っている人は知っているのです。
「中国無名戦士の墓」と書いた墓標の前で、慰霊祭
を行なう日本兵(1938年)。
日本軍は戦闘が終わると敵味方の区別なく、戦闘地にお墓を作ってきた。
中国の文化にはこのようなものはない。
「南京大虐殺」はなかった
今まで見てきたように、日本軍の進出は内戦の終結、平和の確立、共栄圏の建設を目的としたものであって、
決して破壊や虐殺を目的としたものではありませんでした。
これは、国土の焦土化や、民衆の殺戮を平気で行なっていた中国軍とは、きわめて対照的です。
日本には、もともとサムライの時代から、民衆の虐殺や焦土化の思想はなかったのです。
日中戦争は北京の近くで始まりましたが、北京は無傷でした。武漢三鎮も無傷のまま。他の都市も全部無傷です。
日本軍は、都市を破壊する気も、住民を虐殺する気もさらさらなかったのです。
日本軍は、都市に近づくときには必ず自由都市(オープン・シティ)宣言をしました。
降伏するなら、都市を破壊することもしないし、住民の安全を保証するということです。
歴史ある都市を戦場にし破壊していけないからです。
日本軍は圧倒的に強かったので、たいていの都市では、中国軍はたいした抵抗をすることもないまま逃げ去り、都市は明け渡されました。
しかし南京で、中国軍は珍しく若干の抵抗をみせました。
南京防衛軍司令官の唐生智が「俺に頑張らせてくれ」と言ったので、蒋介石も「頑張れ」と言ったのです。
彼が最後まで頑張れば、ある程度、中国軍の統制もとれたでしょうが、この司令官は情けないことに、途中で逃げ出してしまいました。
司令官を失なった中国兵たちは、自分たちも逃げようとしました。
けれども彼らの多くは、逃げる味方の兵隊を後ろから撃つ「督戦隊」に殺されました。
また中国兵の中には、逃げれば督戦隊に殺されるし、残れば日本軍に捕まるということで、民間人を殺し、その着物をはぎ取って着る者たちもいました。
こうした民間人に化けた中国兵は、それがばれたときに日本兵によって殺されることもありました。
そのようなことはありましたが、南京で、日本軍による住民の大量虐殺というようなことは決してなかったのです。
満州は中国の領土ではない
つぎに、満州のことをみてみましょう。朝鮮半島の北隣、現在の中国人が「中国東北部」と呼ぶ地です。
満州というのは、もともと中国に清朝をうち建てた満州族(女真族)の故郷です。
清朝は満州族がつくった王朝であって、漢族は被支配民族だったのです。
中国で「義和団の乱」(北清事変・一九〇〇年)が起きたとき、ロシアはそのどさくさにまぎれて、満州を不法に占領し、そこに居すわってしまいました。
満州にロシアが居すわることは日本にとっても脅威でしたから、日本はロシアを追い出すために、日露戦争を戦います。
日本は日露戦争に勝利し、満州からロシアを追放すると共に、満州を清朝に返してあげます。
ジョンストン(満州国皇帝となった溥儀の家庭教師)の書いた『紫禁城の黄昏』には、日本が満州を清朝に取り返してくれたときのことが詳しく書かれています。
日本はこのとき、満州における鉄道の権利と、遼東半島の租借権を獲得します。
それは満州を取り返してくれたことに対する、清朝からのお礼の意味もありました。
しかし、満州は当時、盗賊の跋扈する無法地帯であり、今日のイラクより治安の悪い所でした。
そのため国際条約のもと、権益を守るために日本の「関東軍」がそこに駐留していました。
今日でいう平和維持軍、守備軍です。
この満州には、張作霖の一家が統治者として支配していました。
関東軍は当初、この統治者と共同路線を歩もうとします。
しかし張は、盗賊あがりの暴君で、満州の民衆にすさまじいばかりの搾取を行なっていました。
盗賊がそのまま支配者となっていたのです。G・B・レーは、
「張作霖一家が三千万民衆から搾取した収入は、南京政府の収入より多くなくとも之に匹敵するものであった」
と書いています。
さらに張の親子は、条約を無視して満州の経済権益を日本から奪い取ろうとするなど、露骨な背信行為に出てきました。
それを目の当たりにした関東軍は、軍事行動を起こし、張の軍隊を満州から駆逐します。
これが満州事変です。
これは日本軍の武力侵略の第一歩であると語られていますが、実際のところ当時、日本軍による張の軍隊の駆逐をみた満州全土の民衆は、大喝采を叫び、日本に感謝したのです。
なぜなら張の軍閥政権は、
「軍費を捻出するために広大肥沃な満州の土地を荒らし、民衆の膏血の七、八割は軍費に充てられ、商民の三割はついに破産した」
と言われたほど、ひどい搾取を行なっていたからでした。
当時の諸外国の反応も、日本の行動はやむを得なかったとしました。
アメリカ公使、ジョン・V・A・マクワリーは、張の行動は中国国民党政府が仕掛けたものであり、これは彼らが『自ら招いた』災いだ述べました。
アメリカの新聞記者、ウォルター・リップマンも、
「日本は激しい挑発に直面しながら、通常の国際的基準からすればきわめて忍耐強かった」
と記述しています。
当時のイギリス陸軍の元師も、
「彼ら(日本)はひどい挑発を受けてきた。……彼らが満州で地歩を固めれば、それは共産主義の侵略に対する真の防壁となる」
と述べました。
さて、そののちこの満州の地に、日本の指導によって「満州国」がつくられました。
満州国の皇帝となったのは、清朝のラスト・エンペラーだった溥儀です。
清朝が滅亡したとき、日本の公使観に溥儀が逃げてきたのです。
清朝というのは、満州人が中国を支配した王朝でした。
ですから満州は、清朝を支配した皇帝の故郷です。
溥儀は、自分の故郷の満州に帰り、そこに国をつくりたいと言いました。
それで日本は、その希望を受け、満州に満州国を建国したのです。
満州国では、皇帝が満州人であるだけでなく、大臣もひとり残らず満州人か清朝の遺臣でした。
日本はその建国を指導したわけです。
満州国はまだひとり立ちできる状態ではありませんでしたから、日本はその建国をバックアップしました。
満州国の首都・新京。
すばらしい国造りが進んだ。
中国は、日本によるこの満州国建国も、「中国の領土への侵略だった」と非難します。
しかし実際のところ、かつて満州の地が中国の領土だったことは一度もありません。
なぜなら、満州は万里の長城の外側(関外)の地なのです。
かつて清朝打倒の革命運動を主導した孫文のビジョンにも、満州は含まれていませんでした。
孫文にとって、満州は中国ではなかったからです。
蒋介石も、
「満州は中国の領土ではない」
と公言していた時期があります。
ところがその後、蒋介石の政府も、毛沢東の中国共産党も、満州の経済発展をみると一転して「満州は中国の領土だ」と言い出しました。
しかし、まったく厚顔無恥と言わざるを得ません。満州が中国の領土である根拠など、どこにもないのです。
人々の中には、
「満州は清朝の皇帝の故郷だったのなら、やはり満州は中国の領土ではないのか」
というかたもいるかもしれません。
しかし、たとえば元の時代に、中国はモンゴルに支配されました。
では、モンゴルは中国の領土かというと、そうではないでしょう。
また、かつてインドネシアはオランダに支配されました。
ではオランダは、インドネシアの領土かというと、そんなことは暴論ということになるでしょう。
同様に、満州は清朝を支配した満州人の故郷ですが、中国の領土ではないのです。
奇跡の国・満州国
清朝が滅びたとき、満州人の皇帝が満州に自分の国家を建てるのは、きわめて合理的なことでした。
満州国は、わずか一三年間の王国でしたが、世界史上、奇跡の国でした。
そこには建国以降、年間100万人を超える人々がなだれこみました。
人々は中国内地の略奪、虐殺、貧窮に満ちた生活を捨て、この平和な桃源郷を目指して移住してきたのです。
一九三二年の建国時に約三〇〇〇万人だった満州の人口は、終戦時の一九四五年には、四五〇〇万人以上にも増えていました。
現在の日本の人口の約半分もの人々が、そこに暮らしていたのです。もし今日の中国人がいうように、当時の満州が略奪と虐殺の地獄だったなら、絶対にこのような現象はみられなかったはずです。
満州国では「五族協和」をかかげていました。
いろいろな民族の人々が、満州国の平和と繁栄にあこがれ、自分もそれにあやかりたいと競ってやって来ました。
そして彼らにより、この何もない原始的だった地が、きわめて短期間のうちに近代的な法治国家、平和国家、一大重工業国家として成長したのです。しかし、
「五族協和といっても、実際は日本が指導した国で、その中枢には日本人が大多数を占めていたではないか」
という批判もあるでしょう。
けれども、これは満州国がひとり立ちする時までは、やむを得ないことでした。
なぜなら日本人以外は、字も読めない人々がほとんどであり、教育もなく、国家の理念すら理解しない人々だったからです。
そうした中、日本がリーダー的な役割をすることが求められたのです。
そして実際、満州国には、様々な民族が年間一〇〇万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだのです。
満州国の新京・日本橋町。満州国は、周囲からみると別天地であり、様々な民族が年間100万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだ。
かつて盗賊的な軍閥に支配され、搾取にあえいでいたこの地は、満州国の建国によって全く生まれ変わりました。
治安がみごとに確立され、つぎには近代的な司法制度、法律が完備され、賄賂の悪習も追放されました。
政府の財政も確立されました。
貨幣の統一もわずか二年間で達成されました。
満州の総面積は、現在の日本の領土の約三倍あります。
日本人はその広大な国土に、鉄道、道路、港湾、空港のほか、上下水道、治山治水、電力供給など、様々な国土開発計画を実施しました。
首都・新京は、じつに先進的な百万人都市として建設されました。
路面はすべて舗装され、東京にもなかった下水道が敷かれ、水洗便所が使用されました。
また、以前は鍋・釜しか製造できなかった満州は、やがて自動車や飛行機まで製造する一大産業国家に変身しました。
日本はそこに学校を建て、教育を普及させるとともに、病院を建て、風土病、伝染病を駆逐していきました。
もちろん、まだまだ改革しなければならないものは残っていましたし、戦時経済のひっ迫した状況もありました。
しかし全体的にみれば、そこは搾取や略奪のない、生命・財産の保護される平和郷であり、周辺地域から比べれば非常に優れたアジア人の王道楽土となっていたのです。
もし日本が敗戦することなく、満州国が存続していたら、満州国は間違いなく、その後のアジアにおいて巨大な発展を遂げ、
アジアの平和と繁栄に寄与する重要な国家となっていたでしょう。まさにアジアのアメリカ合衆国となっていたに違いありません。
しかし日本の敗戦後、満州国は中国の一部(東北部)とされました。
そして日本がそこに残した遺産は、その後の中国の重工業の九〇%を支え、中国の経済的基礎となりました。
戦後の中国は、この満州国の遺産で食いつないだのです。
日本の道義的行動
今までみてきたように、日中戦争とは、中国人からの度重なる戦争への挑発を受けた日本が、やむなく中国の内戦を平定するために乗り出していった行動でした。
日本はその中国内戦に終止符を打ち、そこに、中国人による近代的国家をつくることを支援したいと考えていたのです。
日本は中国を「侵略」したというより、同じアジアの同胞である中国の再生を願い、手を差し伸べたのです。
日本の進出は、中国の国民党軍や共産軍からみれば「侵略」だったとしても、中国の民衆からみれば「救済」だったのです。
日本の願いは、自立した近代的民主国家となった中国と共同して、この東アジアに、共存共栄の経済圏をつくり出すことでした。
また共に、西欧やロシアによるアジア侵略に対する防波堤となることだったのです。
 それは、実際もう少しで可能だったでしょう。
しかし、日米戦争で力をそがれた日本は、やがて敗戦を迎え、その願いも中途で挫折してしまいます。
日中戦争において日本は決して負けてはいませんでした。
ただ日米戦争で敗戦となったがゆえに、日本の努力は挫折したのです。
それでも、日本がアジア各国に与えた独立心は、やがて育ち、実を結んでいきました。
黄文雄氏はこう述べます。
「大日本帝国は、八〇年にして人類史に計り知れない貢献を行ない、遺産をもたらした。負の遺産はほとんどない。
『過去の一時期』に問題があるとすれば、それはただ日米戦争に負けたことだ」
日本ほど、アジアの独立と繁栄のために貢献した国は、他にありません。
日本がなければ、今日のアジアの独立と繁栄はなかったでしょう。
その過程で、悪戦苦闘はありました。
日本は中国において一番苦労しました。
なぜこれほどまでに中国で苦労しなければならなかったのか。
その一つに、日本人と中国人の気質の違いがあげられます。
かつて日本の明治維新を成功させたのは、武士たちの力でした。
彼らは「至誠」を美徳と考える人々で、「私」に仕えず「公」に仕える者でした。
そして彼らは、維新が成功すると、士農工商の階級制度を廃止し、自分たちも刀を置き、町民となっていったのです。
誰もが「国民」という平等の世界に、甘んじて身を投じていきました。
一方、中国の革命家たちに共通するのは、すさまじいばかりの「保身」すなわち「生き残りの哲学」です。「夷をもって夷を制し」、他を蹴落として何としてでも自分が生き残る、という権力への強烈な願望です。これは五〇〇〇年間、ずっと戦乱の世に生きなければならなかった中国人の身にしみついた性質なのでしょう。
 このとき、自分が生き残るためには民衆の命さえも顧みません。中国の内戦では、おびただしい民間人が虐殺されました。民間人に対する略奪、強姦も至るところで行なわれ、彼らは人々から、軍隊というより「匪賊」と呼ばれていたほどです。
 これは、日本の武士たちの戦いの様子とは大きく違います。日本の戦国時代は、武士同士が戦ったものであり、民間人は殺しませんでした。あの関ヶ原の戦いでも、百姓たちは弁当をもって山の上から戦闘を見物していたほどです。
 しかし中国の内戦では、革命家は民間人の死体を山ほどつくるのが常でした。共産党の毛沢東は、日中戦争および戦後の文化大革命、その他を通し、中国人同胞を数千万人殺しました。蒋介石も、先に述べたように数多くの民間人を犠牲にしています。
 蒋介石といえば、戦後、連合国の会議において、列強による日本の分割統治に反対し、天皇制存続を訴え、また日本への賠償請求権を放棄するなどをしてくれた人です。そこには、西安事件以来、彼が不本意にも共産党の意向にそって日本軍と戦争をしたことに対する後悔もあったのかもしれません。
 賠償請求権を放棄してくれたことは、日本にとってありがたいことではありました。しかし、中国を焦土にしたのは日本軍ではなく、蒋介石であり、また毛沢東なのですから、日本に賠償請求する権利はもともと彼らにはないのです。
 また、日本は戦後台湾に莫大な資産をそのまま残し、蒋介石はそれを受け継ぎました。その結果、彼は賠償以上の莫大な富を手に入れているのです。
 蒋介石は戦後、共産軍に負けて台湾にのがれたとき、そこで「白色テロ」と呼ばれる恐怖政治を行ない、多くの台湾人を犠牲にしました。このように中国では、伝統的に「誠」よりも「生き残り」が強く優先されたのです。

Remnant
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