1932
差別などなかった。最後の証人が語る、日本の朝鮮統治の「真実」
国内2017.10.04 752 by 伊勢雅臣『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』
北朝鮮有事で、自衛隊が最前線に送られる「日米指揮権密約」の内容
朝鮮半島38度線ツアーに参加した日本人の衝撃レポート
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日韓関係をぎくしゃくさせている原因のひとつとしてあげられることの多い、日本による「朝鮮統治」。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、朝鮮総督府で官吏をされていた西川清氏の著書『朝鮮総督府官吏、最後の証言』の内容を引きながら、朝鮮統治時代の日本人と朝鮮の人々との関係性について、メルマガ著者の伊勢雅臣さんが分析・解説しています。
朝鮮総督府の「一視同仁」チームワーク
朝鮮総督府で官吏をされていた人が、当時の体験を語った貴重な本がある。本年7月、102歳で亡くなられた西川清氏の『朝鮮総督府官吏、最後の証言』だ。
表紙の帯には「おそらく総督府の実態を語れるのは私が最後だと思います」との発言がある。
この本の裏表紙にある写真が、西川さんの証言のすべてを物語っている。そこでは4人の若い男性が桜の木の下で、肩を組んでいる。キャプションには「1934年 官吏仲間と楽しく花見する西川氏」とある。
一人は着物を着ているので日本人と分かるが、他の3人は洋服だ。
そのうちの一人が西川さんで「大和系日本人」、残る2人の青年には「朝鮮系日本人」と注意書きされている。
仲良く肩を組んでいるので、そのような注意書きがなければ、誰が日本人で誰が朝鮮人だか全くわからない。
西川さんの朝鮮総督府での業務体験を読んでいくと、日本人と朝鮮人が一体となったチームワークで仕事をしていたことがよく窺われる。
町の周囲の山が禿山だった
西川さんは昭和8(1933)年18歳で和歌山県の熊野林業学校を卒業し、校長の斡旋で朝鮮総督府に就職した。朝鮮といっても、当時は内地(国内)、外地(朝鮮、台湾)とも同じ日本だったので、日本国内の遠い地方に行くという感覚だった。任地は江原道(こうげんどう)。「道」は日本で言えば「県」にあたり、江原道は朝鮮半島の東海岸、南北ではちょうど中程にあった。
朝鮮に行ってまず驚いた事は、釜山(プサン)や京城(ケイジョウ、現ソウル)など町の周囲の山が禿山だったことです。
…朝鮮にはオンドルという薪(まき)を焚いて床を暖める設備がどこの家にもありました。朝鮮は非常に寒くなりますから、このオンドルには大量の薪が必要です。しかし、朝鮮には植林をするという技術もなく、指導者もいなかったので、街に近い山々にはほとんど樹木がなくなっていました。
(『朝鮮総督府官吏 最後の証言』桜の花出版編集部/星雲社)
西川さんの最初の仕事は、この禿山に植林をすることだった。まず土が流れないよう、70~80センチの段々を作り、そこに木を植える。植林は土砂崩れや洪水防止のために急務であった。また海の近くに植林することで、漁場に栄養が行き渡る。西川さんは日本の林業学校で「樹のない国は滅ぶ」と教えられていた。
朝鮮総督府は1911年からの30年間で、5億9,000万本もの植林を行った。朝鮮全人口の一人あたり約25本という膨大な数である。西川さんはその一翼を担ったのである。
mag2.com
http://www.mag2.com/p/news/280690
日韓併合時代の真実
かつて日本と朝鮮が手を取り合って、仲良く生きていた時代があった
日韓併合(1910-1945年)前の朝鮮。飢えと貧困にあえぐ人々。
[1880年代のソウル南大門大通り(中心街)]
日本はこの朝鮮を建て直した。
親から聞かされた「日本人は親切だった」
日本には今日、悲しい風説が飛び交い、それによって多くの人々が惑わされています。たとえば、
「日本はかつて朝鮮を侵略し、朝鮮の人たちを弾圧し、虐待し、搾取し、ひどいことをした」
といった類の風説です。学校でも習ったでしょう。
あたかも事実であるかのように。
日本は悪者だ、と教え込まれてきたのです。
しかし、こうした主張が本当なのか、それとも事実とは違うのか、私たちは、当時の実体験を持つ長老たちに聞かなければなりません。
韓国人の女性で、呉善花(お・そんふぁ)さんというかたがいます。
日韓関係についてたくさんの本を書いているかたですが、彼女は小さい頃、親の世代から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞かされていました。
ところが、学校に入学すると、先生から、
「日本人は韓国人にひどいことをした」
と教わって、すさまじいばかりの反日教育を受けたのです。
それでいつしか、学校で教えられるままに、「日本人は韓国人にひどいことをした」という認識が、彼女の中で常識となっていました。
彼女はその後日本に渡って、日本で生活するようになりました。
すると、かつて親から教えられた「日本人はとても親切な人たちだった」という言葉が、再びよみがえってきたのです。
それで彼女は、日本と韓国の歴史について、もう一度勉強し直しました。
やがて彼女は、韓国で受けた反日教育というものが、非常に偏った、間違いだらけのものであることを知るようになります。
そして、反日主義から抜け出したのです。
彼女はのちに、『生活者の日本統治時代』(三交社)という本を出版しました。
これは、かつて日本が朝鮮を統治した時代――つまり日韓併合の時代(一九一〇~一九四五年)を実際に体験した日本人や韓国人にインタビューして、それをまとめたものです。
そこには、日本統治下の朝鮮を実際に体験した日韓一五人の証言が書かれています。
いずれも、今はかなりお年をめされた方々ばかりです。
彼らは貴重な証言を残してくれました。彼らの体験談を通し、あの朝鮮における日本統治時代は実際はどんなものだったか、ということが非常にはっきり見えてきます。
私たちは彼らの証言に耳を傾けてみましょう。
日本統治下の朝鮮を体験した人々の証言
たとえば阿部元俊さんは、大正九年、三歳のときに朝鮮に渡り、そこで学生時代を過ごした人です。
文字通り、日本統治下の朝鮮を体験したのですが、彼はこう言っています。
「私が朝鮮にいたころ、日本人による朝鮮人いじめの話は、噂としてもまず聞いたことがありません。
とくに、ソウル郊外の水原にいたころは、日本人が少ないからと珍しがられて、地域の人たちはみな親切にしてくれていましたしね。
少なくとも水原では、私の知る限り、日本人と朝鮮人とが衝突したとか、喧嘩したとか、何かのトラブルがあったといった話は聞いたことがありません。
……ソウルでもそうでした。……学校では、
『ここは朝鮮だ、我々は他人の国によそからやって来て住んでいる。朝鮮人と喧嘩したり、朝鮮人をいじめたりは絶対にしてはいけない』
と盛んに言われていましたし、親からも厳しくそう言われていました。……
私の父は医者で、貧困な農民たちの治療に励んでいましたが、
それで病原菌をもらってしまいまして、腸チフスと赤痢にかかってしまいました。
父が病院を辞めるときには、多くの朝鮮人が家にやって来て、『どうか辞めないで、ここにいてください』と泣いて別れを惜しんでいました。……
戦後、日本に帰ってから、朝鮮に住んでいた日本人は朝鮮人をさかんに苦しめたという言葉を、当然のようにぶつけられましたが、
自分の体験からすると、いったいそれはどういうことなのか、どう考えてもわかりません。
喧嘩ということだけでなくて、問題になるようないじめとか、差別とか、一般生活者の間ではほとんどなかったということを、私は自分自身の実体験から自信をもって言うことができます」
このように阿部さんは、一般庶民のレベルでは朝鮮人と日本人は仲良くやっていたと、証言しています。
今日、韓国の学校教育では、
「日帝は、全国いたるところで韓民族に対する徹底的な弾圧と搾取を行ない、支配体制の確立に力を注いだ」
「日帝の弾圧に苦しめられたわが韓民族は、光復(戦後の解放)を得るまでの間、植民地政策に対して自主救国運動を展開した」
等と教えられています。
このようなことを教えられると、日本人はまるで朝鮮でヤクザのようにふるまい、日本人は朝鮮人を虐待し、
両者は至る所で非常に仲が悪かったような感じですね。
しかし、実際に朝鮮における日本統治時代を体験した人々に聞くと、まったく違う様子だったのです。
たとえば、生まれも育ちも朝鮮の新義州(今日の北朝鮮北部)という林健一さんも、こう語っています。
「日本人による朝鮮人差別ということは、まったくありませんでした。
学校で生徒同士は完全に対等で、上級生の朝鮮人が下級生の日本人を呼び寄せて、『お前は服装がなっていない』とか説教することなんかがたびたびありましたね。……
朝鮮を出て、日本の内地に行きたいとも思いませんでした。
朝鮮の人々はよかったですし、私も居心地がよかったですから。
……骨をどこに埋めるかと聞かれれば、『朝鮮』と答えたものです」
また、日本統治下のソウルで青春時代を過ごした吉田多江さんは、こう語ります。
「近所の子どもたちともよく遊びました。
私は朝鮮の女の子たちの長く束ねた髪の毛がうらやましくて、私がさわりたいと言うと、よく触らせてくれました。
……何の区別もなくつき合っていました。……
仲のよかった思い出がいっぱいで、朝鮮人と日本人の間でいじめたりいじめられたりといったことは、本当に見たことも聞いたこともありません。
……朝鮮はとても治安がよくて、日本人を襲う泥棒や強盗の話など聞いたこともありません。……横暴なふるまいなど一切ありませんでした。
戦後になって日本に送還されるときも、家財道具を盗られるなんてこともなく、こちらから知り合いの人たちにあげましたし、
彼らはみな喜んで感謝の礼を表してくれました。こんな素晴らしいことって、あるでしょうか。世界に誇れることだと思います。……
創氏改名(日本人名を名乗ること)を強制的にさせたとも言われますが、私のまわりの朝鮮人はみな終戦までずっと朝鮮名のままでした。
戦後の韓国で言われてきた歴史には、あまりに嘘が多いと思います。
……私はソウルで生まれ、成年になるまでソウルで生きてきましたが、
日本人と韓国人が基本的に仲良く生きてきたことは、双方の民族にとって誇るべきことだと思っています」
朝鮮人と日本人は仲良く生きていた
また同じく、日本による朝鮮統治時代を体験した韓国人の朴承復さんも、こう語っています。
「学校では日本人生徒たちからも先生からも、差別されたことはありませんでした。
……今でも日本人の同期生たちと会うと、彼らは韓国語で話したがります。
……今なおそれほど親しくつき合っている日本人の同期生が何人もいます。
商業学校の恩師二人は、とても尊敬できる方でした。
一人は松尾先生で、国語の先生でした。この先生は韓国人、日本人にかかわりなく尊敬されていました。……
もう一人は横尾先生です。
この先生は日本人生徒たちからは嫌われていました。
めちゃめちゃに厳しくて、過ちを犯せば決して許さない方でした。
しかし、私はなぜか特別に可愛がってもらいました。
いろいろな相談にものっていただいた大恩師です。
卒業後、朝鮮殖産銀行に務めましたが、差別的な扱いを受けたことは全くありません。……行員家族全員で地方の温泉地へ一泊旅行に行ったりもしました。日本人も韓国人も区別なく、みんな仲良く楽しく遊んで過ごしました。
日帝時代にそんなことあり得ないと言われるかもしれませんが、過激な人や極端な人たちの一部での喧嘩や衝突はあっても、一般の日本人と韓国人のぶつかり合いなんか、見たこともありません。…
多くの日本人は、朝鮮人から家をちゃんと借りて住んでいました。日本人が勝手に韓国人の家を奪い取るなど、そんなことはなかったです。当時の日本人は本当に質素でした。……私自身は当時の日本人に対して悪い印象は全く持っていませんでした」
また、ソウルの京城帝国大学で学んだ韓国人の閔圭植さんは、こう語っています。
「私は個人的には日本人と仲がよくて、悪い感情はありませんでした。
日本人が韓国人に恐怖を与えたとか、韓国人が日本人に殴られたとか、何か嫌がらせをやられたとかいったことは、
個人的には見たことも聞いたこともありません。……
日本人が韓国人の家を奪って勝手に使うとか、土地や財産を搾取するとかいうことも、まったくありませんでした。
神社参拝については、何かの日には学生全部が連れて行かれました。行かなくても別に厳しい文句は言われませんでしたが」
また、日韓共同映画『愛の黙示録』を作り、三〇〇〇人の韓国人孤児を育てた日本人・田内千鶴子さんの生涯を描いた監督・金洙容さんも、こう語っています。
「農場の日本人たちはとても勤勉でした。
日本人は早くから科学的で先進的な農法を使っていました。
……日本人の経営する農場には、韓国人たちもたくさん働いていました。
日本人は日当をきちんと計算して渡してくれました。
彼らはとても礼儀正しく、日当を支払わないようなことはまずしません」
また、新義州の中学や高校に通っていた李萬甲さんは、こう語っています。
「朝鮮人は私一人でしたが、日本人の同級生みんなに親切にしてもらいました。
……日本人の先生には立派な方がいらっしゃいました。……
創氏改名は昭和一五年からのことでした。
ほとんどの人が変えていましたね。
……しかし、官庁に務める人でも、変えないからといって首になるようなことはありませんでした。……
日本人が韓国人の生活を侵害するとか、略奪するとか、そんな類のことは日本人は全くしませんでした。
日本人は法に反することをしないようにと、非常に気をつけていました」
日本人も朝鮮人も協力しあって働いていた
朝鮮のひとり立ちを助けた日本
やがて日本が敗戦を迎え、朝鮮から日本人たちがみな去っていったとき、ひとりの人が韓国へ戻ってきました。
彼の名は李承晩(イ・スンマン)。彼は、それまでハワイにいましたが、アメリカから韓国初代大統領の座を与えられ、韓国を支配するようになりました。
もともと熱烈な反日主義者だった李承晩は、日韓併合時代中、ずっとアメリカに亡命していましたので、朝鮮における日本統治を体験していません。
彼は日本統治を知らない。その彼が、韓国初代大統領の地位につくと、親日派の人々をすべて追放し、もはや反日でなければ韓国では生きられないようにしました。
家庭でも学校でも職場でも、親日的発言はすべて禁止され、日本の悪口だけが許されるようになりました。
虚偽と捏造によりゆがめられた歴史観が学校で教え込まれ、少年少女は、すさまじい反日教育の中で育てられていったたのです。
そうやって、今日の韓国の反日主義が形成されました。
北朝鮮の金日成の場合も同様です。
今も北朝鮮、および韓国には言論の自由はありません。
そして客観的な歴史教育もないのです。
しかし少なくとも日本人は、自分の親や、おじいさんやおばあさんの世代の歴史をきちんと知っておく必要があります。
日本はなぜ朝鮮を統治したのでしょうか。
それはごく簡単にいえば、当時の朝鮮は、国家的な破産状態にあったからです。日本はその朝鮮に、助け舟を出したのです。
これはちょうど、生活力を失った家庭に、国が生活保護を適用することにも似ていました。
生活保護法では、その家庭がひとり立ちできるまで、国が保護を加え、援助をしていきます。
また職員が生活や仕事に至るまで、事細かに指導していきます。
同様に、かつて日本は朝鮮をひとり立ちできる国家にするために、朝鮮を統治していったのです。
これは、朝鮮と日本との間の国際的合意のもとで行なわれたことでした。また、当時の世界の多くの国々が賛成し、承認したものでした。
そして日本は、実際に朝鮮をひとり立ちできるまでに建て直したのです。
恨まれるようなことをやったわけではありません。
また、日本が朝鮮を統治したのは、ちょうどある会社が、破産状態にあった別の会社を吸収合併して建て直すことにも似ていました。
いわば日本株式会社が、破産した朝鮮株式会社を吸収合併して建て直したのです。
こうした吸収合併の際、日本株式会社は、朝鮮株式会社を経済的に支えるだけでなく、様々な人材を送り込んで技術や経営の指導にあたります。
そうやって会社を建て直していくのです。それと同様のことが、朝鮮の国家再建においても行なわれました。
実際、たとえば朝鮮殖産銀行の頭取として働いていた有賀光豊さんも、ふだんから、
「朝鮮は、我々がお手伝いして立派な国に育て上げ、そのうえで本来の持ち主に返すべきだ」
という信念で働いていました。息子の敏彦さんがそう述べています。朝鮮に経済的な自立をもたらし、やがてひとり立ちできるようになったら、独立国へ導いていこうと彼は願っていました。
これは、当時朝鮮で働いていた多くの日本人たちの共通意識だったのです。
韓国人の李萬甲さんも、日本統治時代を振り返ってこう語っています。
「私が通っていた高等学校には、上村先生という日本人の先生がいらっしゃって、立派な方でした。
先生は、韓国人の生徒たちが集まっている場で、よく言ってくださった言葉があります。それは、
『君たちが独立するためには経済の力だ』という言葉でした」
このように日本人は、朝鮮が力をつけて、やがて独立国家となれるよう、自立させるために働いていたのです。
真の日韓友好への道
もちろん、日本の統治が完全だったというわけではありません。
失策や失政もありました。
また日本人の中には悪い人たちもいました。
内地から来たといって威張っていた日本人もいなかったわけではありません。
一方、朝鮮人の中にも悪い人たちもいました。
しかし全般的にみれば、当時日本人と朝鮮人とは仲良く共に手を取り合って生きていたのです。
もし歴史を虫メガネでみれば、小さな部分には、汚れもあったでしょう。
けれども、私たちは全体的な姿にあらわれた良い事柄を決して忘れてはいけないのです。
いや、やはり、まずきちんと調べるでしょう。本当にそんなことがあったのか。日韓の関係についても、まさしくそうなのです。
日本は莫大なお金をつぎ込んで、朝鮮を近代国家に変えていった。
これは朝鮮に造られた水力発電所、水豊ダム。当時出力世界2位のダムで、朝鮮及び満州の電力をまかなった。
日本は悪者だと言うことが宣教ではない
以前、私がこうしたことを語ると、ある日本人がかんかんに怒って、私に言ってきました。
「悪が善を消すことはできる。しかし善は悪を消せない。日本統治時代に良いことがあったとしても、悪いことが少しでもあったならば、日本の統治は間違っていたのだ」
しかし、私はそうは思いません。
もし間違ったことがあったならば、それは個々に反省し、悔い改めればよいことです。
私たちは全体的な見方を忘れてはいけないのです。
「日本人は悪者だった」という見方は、非常に皮相的で、偏っています。
私たちはそうしたレッテル張りから解放されなければなりません。
私たちに与えられている神様からのメッセージは、「日本人よ、おまえは罪人だ」「悪者だ」ではありません。
「日本人よ、あなたは神に愛されている」
です。
Remnant
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi02.htm
歴史ある都市を戦場にし破壊していけないからです。
日本軍は圧倒的に強かったので、たいていの都市では、中国軍はたいした抵抗をすることもないまま逃げ去り、都市は明け渡されました。
しかし南京で、中国軍は珍しく若干の抵抗をみせました。
南京防衛軍司令官の唐生智が「俺に頑張らせてくれ」と言ったので、蒋介石も「頑張れ」と言ったのです。
彼が最後まで頑張れば、ある程度、中国軍の統制もとれたでしょうが、この司令官は情けないことに、途中で逃げ出してしまいました。
司令官を失なった中国兵たちは、自分たちも逃げようとしました。
けれども彼らの多くは、逃げる味方の兵隊を後ろから撃つ「督戦隊」に殺されました。
また中国兵の中には、逃げれば督戦隊に殺されるし、残れば日本軍に捕まるということで、民間人を殺し、その着物をはぎ取って着る者たちもいました。
こうした民間人に化けた中国兵は、それがばれたときに日本兵によって殺されることもありました。
そのようなことはありましたが、南京で、日本軍による住民の大量虐殺というようなことは決してなかったのです。
日中戦争の真実
日本は、内戦に明け暮れる中国を救おうとした
ローマ法王も、日本の行動を支持していた
日本兵らと遊ぶ中国人児童ら(1937年)
日本兵たちは中国の民衆からは温かく迎えられていた。
前項「中国の『正しい歴史認識』の正体」では、「夷(い 外国)をもって夷を制す」の中国政治家の考え方により、
日本が中国の内戦に引き込まれていったことをみました。
この項では、中国における日本の軍隊の行動について、もう少しみてみましょう。
中国民衆を虫けらのように殺した中国軍
中国軍と、日本軍の間には、大きな質的差異がありました。
それは、中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとしたことです。
中国では伝統的に、民衆とは、戦乱で虫けらのように殺される存在であり、少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていませんでした。
梁啓超は、中国の民衆を「戮民」(りくみん 殺戮される民)と呼んでいます。
たとえば、「国共合作」により共産軍と組んで日本との戦いを始めた蒋介石の軍隊は、
一九三八年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の堤防を爆破しました。
このとき、大雨が降ったこともあって一一の都市と、四千の村が水没し、水死者一〇〇万人、その他の被害者六〇〇万人という大惨事となりました。
しかも、それだけでは終わりませんでした。
この人為的水害の結果、黄河の水路が変わり、周辺に大飢饉が広がったのです。
そして、被災地で食糧不足に悩んだ中国軍部隊は、民衆から食糧の強奪を始めたため、飢饉はさらに深刻化しました。その惨状をみた当時のアメリカ人記者は、
「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた」
と報じています。
中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝もしていました。
しかし中国側のこの自作自演は、のちに外国人記者に見破られています。
この堤防決壊のとき、日本軍兵士は一人も死にませんでした。
それはただ、中国人を大量殺戮しただけで終わったのです。
堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ないました。
日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。
こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様でした。
いや、共産軍はもっとひどいものでした。
共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊と呼ばれていました。
それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人、強姦を働いたからです。
中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。
ですから中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。
また、そうしないと司令官が殺されてしまったからです。
日中戦争における戦闘は、たいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、という形で進みました。
ですから、激戦地を除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は多くはありませんでした。
むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を殺したものでした。
中国の軍隊というのは、兵士たちの後ろに「督戦隊」(とくせんたい)がいたのです。
督戦隊とは、後ろで「敵を殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると、その兵士を撃ち殺す中国兵です。
つまり中国兵が中国兵を殺したのです。
中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争時の死傷者は、日本軍によって殺された中国兵よりも、そうやって督戦隊に殺された中国兵たちのほうが多かったくらいだといいます。
また、中国兵は負傷すると、置き去りにされました。
ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していました。
それを発見した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。
なぜなら彼らの足には、逃亡防止のための鉄の鎖がつけられていたからです。
日本軍と中国軍とでは、質の上でそれほどの差があったのです。
道端に打ち倒されていた孫文の銅像に青天白日旗をかけてあげる日本兵。中国の伝統文化への尊敬心から出た行為である。
現地市民の間でも、日本軍は、シナ軍よりもよっぽど信用できるとの評価を得ていた。
本当の人民解放軍は日本軍だった
また中国軍と日本軍の性格を大ざっぱにみるなら、次のように言うことができます。
中国軍が通った地は至る所、はげたかの大軍が通ったように略奪されました。
さらに彼らは占領地域を去るとき、日本軍に何も残さないようにするため、「焦土(しょうど)作戦」を取りました。
つまり退却のたびに、道路や工場、橋、潅漑施設、その他の施設を次々に破壊したのです。
そのため中国軍が通るところすべてが荒廃していきました。
彼らの行動の特徴は、略奪と破壊だったのです。
それによって中国経済は破壊され、農業も工業も壊滅的被害を受け、人民は苦しむばかりとなっていました。
とくに悲惨だったのは、民衆の大半を占める農民たちでした。
一方、そのあとにやって来た日本軍は、当初から農民たちの救済と、中国経済の再建に取り組んだのです。
日本軍が占領した地域は、中国本土の人口の約40%、また耕地面積の54%に及びましたが、
日本はすぐにその地域での農業再建、道路や潅漑施設の復興、工場の再建などに取り組みました。
日本は中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎しました。
統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて見たからです。
本当の「人民解放軍」は中国軍ではなく、日本軍だったのです。
日本が占領地域でとくに力を入れたのは、農民の救済でした。
日本政府はすでに1938年に中国での農業復興の計画を発表し、実行に移しています。
それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものでした。
それにより、日本の占領地域での農業は飛躍的に増大しました。
日本人技術者が中国農民に、日本の農業技術を提供していったからです。
もちろん戦時下のため、悪戦苦闘はありましたが、それでも日本の努力は多くのところで実を結んでいました。
農業だけでなく、軽工業、重工業などの再建にも取り組みました。
日本はまた中国に鉄道を敷き、病院を建てました。
疫病の多かった中国の衛生事情の改善にも努めました。
さらに、絶望視されていた中国の製糸業を復興させたのも、日本の対中国投資によるものです。
日本は、満州や、朝鮮、台湾などで行なっていた近代化建設事業を、中国でも、すでに日中戦争のさなかから始めていたのです。
それによって占領地域のインフラ整備、産業の復興が行なわれました。
日本政府の推計によると、一九三八年から終戦の四五年までの日本の対中国投資の累計は、約四七億円にも達していました。
当時の日本の国家予算は約二〇億円ですから、どれだけ巨額かわかるでしょう。
これは戦争に使ったお金ではありません。中国の国土と経済の復興に使ったお金なのです。
このように、中国軍が各地を焦土化し、同胞を虫けらのように殺していたときに、日本は中国民衆の救済と、中国の近代化のために働き続けていました。
中国人民の本当の敵は、日本軍ではなく、中国軍だったのです。
中国軍は、蒋介石の国民党軍も、毛沢東の共産軍も、その頭の中にあったのは中国人民のことではなく、権力奪取のみでした。
しかし日本は、なんとか中国を救おうと奔走していたのです。
ですから、中国の老人でこの時代のことを体験した人々の中には、親日的な人々が大勢います。
ふだんは中国政府の叫ぶ反日イデオロギーの中で大きな声では発言できませんが、彼らは当時の日本人が中国人にしてくれたことを知っているのです。
戦後、日本人が中国大陸から引き揚げてくるとき、多くの日本人が帰りそこなって、そこに取り残されました(いわゆる中国残留孤児)。
しかしそのとき、残留日本人を助けてくれた中国人たちがかなりいました。
そうした中国人の多くは、戦時中の中国兵がいかに悪かったか、また日本軍が中国の民衆を助けたことを、よく知っていたので、日本人を助けてくれたのです。
ローマ法王は日本の行動を支持した
もともと、中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。
しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をなしました。
またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない自立した民主的国家が誕生するよう、手を差し伸べたのです。
日本は中国を「自分の領土」とするために戦っていたのではありません。
日本は中国の「領土保全」をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生することを目指したのです。
そして日本と手をたずさえて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指しました。
ですから、日中戦争(支那事変)が始まった年である1937年10月に、
当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ一一世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、
全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。法王は、
「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。
日本は共産主義を排除するために戦っている。
共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」
といった内容の声明を出しています。
この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和一二年一〇月一六日および一七日)。新聞は、
「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、
知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。
英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」
と歓迎の意を表しています。
ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。
けれども、そのピオ一一世も、やがて一九三九年には世を去ってしまいます。
そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。
共栄圏をつくろうとした日本
1937年から始まった日中戦争でしたが、日本はすでに一九四〇年には、すでに中国の華北と、華中の一部を支配下におき、
その統治を親日政権である汪兆銘(おうちょうめい)の南京政府にゆだねていました。
日中戦争は八年間続いたと一般にいわれますが、実際には日中の戦闘は一年半あまりで終結し、あとは日本軍はそれ以上領地を広げようとせず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中したのです。
その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、
民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差がありました。
鉄道もつくられ、人々や物資の移動が容易になりました。
よく「日本軍は一方的に略奪と破壊をした」かのように語られることがありますが、実際は全く逆だったのです。
だからこそ、汪兆銘の南京政府や、そのもとにいる多くの中国人は日本を支持し、日本と共同して、その地域の発展のために働いたのでした。
汪兆銘の南京政府が支配する地域では、戦前にも増して平和と繁栄を謳歌していました。
その象徴が上海です。
日中戦争中ですら、そのダンスホールや映画館はどこも満員という活況を呈していました。
ロシアから逃げてきたユダヤ人たちの居住区も、この上海に設けられ、彼らはそこで安全に暮らしていました。
一方、蒋介石や毛沢東が支配していた地域は、悲惨でした。
ただでさえ彼らの軍隊が入ってきたので食糧が不足したばかりか、略奪、搾取が横行したため、たちまち住民は地獄の生活へと転落したのです。
もっとも蒋介石は、日本人のような規律ある生活習慣を目指した「新生活運動」を実施し、
中国兵の乱れた規律を正そうと努力はしましたが、それでもなかなか実を結ぶことはできませんでした。
日中戦争中、アメリカがいわゆる「援蒋ルート」を通して、重慶にいる蒋介石軍に様々な物資を送り届けていたことは、よく知られています。
兵器、弾薬、医薬品、食糧などですが、しかし山を越え、川を越えているうちに、重慶まで届いた物資は多くても当初の何分の一かに減っていました。
それらの地域を支配する匪賊や、他の武装勢力に、通行料として一部物資を渡していたからです。
当時、日本の支配地域以外の中国大陸には、匪賊が約2000万人もいたといいます。それは中国軍の約一〇倍に相当します。彼らは略奪で生計をたてていたのです。
また無事に重慶に届いた物資も、国民党幹部のポケットに入ってしまい、他の者には行き渡りませんでした。
このように当時の蒋介石の政府が、米国の支援を食い物にしていたことは有名です。
このように、日本の支配地域と、そうでない地域とでは中国民衆の生活に格段の差があったのです。
日本はすでに日中戦争のさなかから、中国を近代的民主国家として自立させ、アジアの同胞として共に相携えて共栄圏をつくるために、非常な努力を積んでいたからです。
しかしその望みも、やがて日本が日米戦争で敗戦を迎えたことにより、挫折しました。
そのとき、日本は中国につくった工場や施設、インフラなどを破壊することなく、すべて正確な資産リストを添えて、
中国の未来のためにそのまま置いてきました。
それらは戦後の中国経済の発展の基礎となったものです。
日本が去ったとき、中国では再び「国共内戦」、すなわち国民党軍と共産軍の内戦が勃発しました。
これは実質的に、日本が残した遺産の奪い合いでした。
そしてこの内戦での死者は、日中戦争中の死者よりも多かったのです。
またこの国共内戦に共産軍が勝利し、中国を統一したとき、
共産党はかつて自分たちがなした中国民衆への殺戮、略奪、搾取などを、すべて日本軍の悪行と宣伝して若者たちに教える教育を始めました。
以前、私がこれら中国の歴史を「レムナント誌」に掲載したとき、
ある日本人は
「こんなことがあったなんて知りませんでした。一般に世間で言われていることと何と違うでしょう」
と言いました。しかし、日本に留学しているある中国人クリスチャンが手紙をくれたのですが、こう書いていました。
「先生は中国に関し真実を書いています。がんばってください」
中国人も、知っている人は知っているのです。
「中国無名戦士の墓」と書いた墓標の前で、慰霊祭
を行なう日本兵(1938年)。
日本軍は戦闘が終わると敵味方の区別なく、戦闘地にお墓を作ってきた。
中国の文化にはこのようなものはない。
「南京大虐殺」はなかった
今まで見てきたように、日本軍の進出は内戦の終結、平和の確立、共栄圏の建設を目的としたものであって、
決して破壊や虐殺を目的としたものではありませんでした。
これは、国土の焦土化や、民衆の殺戮を平気で行なっていた中国軍とは、きわめて対照的です。
日本には、もともとサムライの時代から、民衆の虐殺や焦土化の思想はなかったのです。
日中戦争は北京の近くで始まりましたが、北京は無傷でした。武漢三鎮も無傷のまま。他の都市も全部無傷です。
日本軍は、都市を破壊する気も、住民を虐殺する気もさらさらなかったのです。
日本軍は、都市に近づくときには必ず自由都市(オープン・シティ)宣言をしました。
降伏するなら、都市を破壊することもしないし、住民の安全を保証するということです。
歴史ある都市を戦場にし破壊していけないからです。
日本軍は圧倒的に強かったので、たいていの都市では、中国軍はたいした抵抗をすることもないまま逃げ去り、都市は明け渡されました。
しかし南京で、中国軍は珍しく若干の抵抗をみせました。
南京防衛軍司令官の唐生智が「俺に頑張らせてくれ」と言ったので、蒋介石も「頑張れ」と言ったのです。
彼が最後まで頑張れば、ある程度、中国軍の統制もとれたでしょうが、この司令官は情けないことに、途中で逃げ出してしまいました。
司令官を失なった中国兵たちは、自分たちも逃げようとしました。
けれども彼らの多くは、逃げる味方の兵隊を後ろから撃つ「督戦隊」に殺されました。
また中国兵の中には、逃げれば督戦隊に殺されるし、残れば日本軍に捕まるということで、民間人を殺し、その着物をはぎ取って着る者たちもいました。
こうした民間人に化けた中国兵は、それがばれたときに日本兵によって殺されることもありました。
そのようなことはありましたが、南京で、日本軍による住民の大量虐殺というようなことは決してなかったのです。
満州は中国の領土ではない
つぎに、満州のことをみてみましょう。朝鮮半島の北隣、現在の中国人が「中国東北部」と呼ぶ地です。
満州というのは、もともと中国に清朝をうち建てた満州族(女真族)の故郷です。
清朝は満州族がつくった王朝であって、漢族は被支配民族だったのです。
中国で「義和団の乱」(北清事変・一九〇〇年)が起きたとき、ロシアはそのどさくさにまぎれて、満州を不法に占領し、そこに居すわってしまいました。
満州にロシアが居すわることは日本にとっても脅威でしたから、日本はロシアを追い出すために、日露戦争を戦います。
日本は日露戦争に勝利し、満州からロシアを追放すると共に、満州を清朝に返してあげます。
ジョンストン(満州国皇帝となった溥儀の家庭教師)の書いた『紫禁城の黄昏』には、日本が満州を清朝に取り返してくれたときのことが詳しく書かれています。
日本はこのとき、満州における鉄道の権利と、遼東半島の租借権を獲得します。
それは満州を取り返してくれたことに対する、清朝からのお礼の意味もありました。
しかし、満州は当時、盗賊の跋扈する無法地帯であり、今日のイラクより治安の悪い所でした。
そのため国際条約のもと、権益を守るために日本の「関東軍」がそこに駐留していました。
今日でいう平和維持軍、守備軍です。
この満州には、張作霖の一家が統治者として支配していました。
関東軍は当初、この統治者と共同路線を歩もうとします。
しかし張は、盗賊あがりの暴君で、満州の民衆にすさまじいばかりの搾取を行なっていました。
盗賊がそのまま支配者となっていたのです。G・B・レーは、
「張作霖一家が三千万民衆から搾取した収入は、南京政府の収入より多くなくとも之に匹敵するものであった」
と書いています。
さらに張の親子は、条約を無視して満州の経済権益を日本から奪い取ろうとするなど、露骨な背信行為に出てきました。
それを目の当たりにした関東軍は、軍事行動を起こし、張の軍隊を満州から駆逐します。
これが満州事変です。
これは日本軍の武力侵略の第一歩であると語られていますが、実際のところ当時、日本軍による張の軍隊の駆逐をみた満州全土の民衆は、大喝采を叫び、日本に感謝したのです。
なぜなら張の軍閥政権は、
「軍費を捻出するために広大肥沃な満州の土地を荒らし、民衆の膏血の七、八割は軍費に充てられ、商民の三割はついに破産した」
と言われたほど、ひどい搾取を行なっていたからでした。
当時の諸外国の反応も、日本の行動はやむを得なかったとしました。
アメリカ公使、ジョン・V・A・マクワリーは、張の行動は中国国民党政府が仕掛けたものであり、これは彼らが『自ら招いた』災いだ述べました。
アメリカの新聞記者、ウォルター・リップマンも、
「日本は激しい挑発に直面しながら、通常の国際的基準からすればきわめて忍耐強かった」
と記述しています。
当時のイギリス陸軍の元師も、
「彼ら(日本)はひどい挑発を受けてきた。……彼らが満州で地歩を固めれば、それは共産主義の侵略に対する真の防壁となる」
と述べました。
さて、そののちこの満州の地に、日本の指導によって「満州国」がつくられました。
満州国の皇帝となったのは、清朝のラスト・エンペラーだった溥儀です。
清朝が滅亡したとき、日本の公使観に溥儀が逃げてきたのです。
清朝というのは、満州人が中国を支配した王朝でした。
ですから満州は、清朝を支配した皇帝の故郷です。
溥儀は、自分の故郷の満州に帰り、そこに国をつくりたいと言いました。
それで日本は、その希望を受け、満州に満州国を建国したのです。
満州国では、皇帝が満州人であるだけでなく、大臣もひとり残らず満州人か清朝の遺臣でした。
日本はその建国を指導したわけです。
満州国はまだひとり立ちできる状態ではありませんでしたから、日本はその建国をバックアップしました。
満州国の首都・新京。
すばらしい国造りが進んだ。
中国は、日本によるこの満州国建国も、「中国の領土への侵略だった」と非難します。
しかし実際のところ、かつて満州の地が中国の領土だったことは一度もありません。
なぜなら、満州は万里の長城の外側(関外)の地なのです。
かつて清朝打倒の革命運動を主導した孫文のビジョンにも、満州は含まれていませんでした。
孫文にとって、満州は中国ではなかったからです。
蒋介石も、
「満州は中国の領土ではない」
と公言していた時期があります。
ところがその後、蒋介石の政府も、毛沢東の中国共産党も、満州の経済発展をみると一転して「満州は中国の領土だ」と言い出しました。
しかし、まったく厚顔無恥と言わざるを得ません。満州が中国の領土である根拠など、どこにもないのです。
人々の中には、
「満州は清朝の皇帝の故郷だったのなら、やはり満州は中国の領土ではないのか」
というかたもいるかもしれません。
しかし、たとえば元の時代に、中国はモンゴルに支配されました。
では、モンゴルは中国の領土かというと、そうではないでしょう。
また、かつてインドネシアはオランダに支配されました。
ではオランダは、インドネシアの領土かというと、そんなことは暴論ということになるでしょう。
同様に、満州は清朝を支配した満州人の故郷ですが、中国の領土ではないのです。
奇跡の国・満州国
清朝が滅びたとき、満州人の皇帝が満州に自分の国家を建てるのは、きわめて合理的なことでした。
満州国は、わずか一三年間の王国でしたが、世界史上、奇跡の国でした。
そこには建国以降、年間100万人を超える人々がなだれこみました。
人々は中国内地の略奪、虐殺、貧窮に満ちた生活を捨て、この平和な桃源郷を目指して移住してきたのです。
一九三二年の建国時に約三〇〇〇万人だった満州の人口は、終戦時の一九四五年には、四五〇〇万人以上にも増えていました。
現在の日本の人口の約半分もの人々が、そこに暮らしていたのです。もし今日の中国人がいうように、当時の満州が略奪と虐殺の地獄だったなら、絶対にこのような現象はみられなかったはずです。
満州国では「五族協和」をかかげていました。
いろいろな民族の人々が、満州国の平和と繁栄にあこがれ、自分もそれにあやかりたいと競ってやって来ました。
そして彼らにより、この何もない原始的だった地が、きわめて短期間のうちに近代的な法治国家、平和国家、一大重工業国家として成長したのです。しかし、
「五族協和といっても、実際は日本が指導した国で、その中枢には日本人が大多数を占めていたではないか」
という批判もあるでしょう。
けれども、これは満州国がひとり立ちする時までは、やむを得ないことでした。
なぜなら日本人以外は、字も読めない人々がほとんどであり、教育もなく、国家の理念すら理解しない人々だったからです。
そうした中、日本がリーダー的な役割をすることが求められたのです。
そして実際、満州国には、様々な民族が年間一〇〇万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだのです。
満州国の新京・日本橋町。満州国は、周囲からみると別天地であり、様々な民族が年間100万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだ。
かつて盗賊的な軍閥に支配され、搾取にあえいでいたこの地は、満州国の建国によって全く生まれ変わりました。
治安がみごとに確立され、つぎには近代的な司法制度、法律が完備され、賄賂の悪習も追放されました。
政府の財政も確立されました。
貨幣の統一もわずか二年間で達成されました。
満州の総面積は、現在の日本の領土の約三倍あります。
日本人はその広大な国土に、鉄道、道路、港湾、空港のほか、上下水道、治山治水、電力供給など、様々な国土開発計画を実施しました。
首都・新京は、じつに先進的な百万人都市として建設されました。
路面はすべて舗装され、東京にもなかった下水道が敷かれ、水洗便所が使用されました。
また、以前は鍋・釜しか製造できなかった満州は、やがて自動車や飛行機まで製造する一大産業国家に変身しました。
日本はそこに学校を建て、教育を普及させるとともに、病院を建て、風土病、伝染病を駆逐していきました。
もちろん、まだまだ改革しなければならないものは残っていましたし、戦時経済のひっ迫した状況もありました。
しかし全体的にみれば、そこは搾取や略奪のない、生命・財産の保護される平和郷であり、周辺地域から比べれば非常に優れたアジア人の王道楽土となっていたのです。
もし日本が敗戦することなく、満州国が存続していたら、満州国は間違いなく、その後のアジアにおいて巨大な発展を遂げ、
アジアの平和と繁栄に寄与する重要な国家となっていたでしょう。まさにアジアのアメリカ合衆国となっていたに違いありません。
しかし日本の敗戦後、満州国は中国の一部(東北部)とされました。
そして日本がそこに残した遺産は、その後の中国の重工業の九〇%を支え、中国の経済的基礎となりました。
戦後の中国は、この満州国の遺産で食いつないだのです。
日本の道義的行動
今までみてきたように、日中戦争とは、中国人からの度重なる戦争への挑発を受けた日本が、やむなく中国の内戦を平定するために乗り出していった行動でした。
日本はその中国内戦に終止符を打ち、そこに、中国人による近代的国家をつくることを支援したいと考えていたのです。
日本は中国を「侵略」したというより、同じアジアの同胞である中国の再生を願い、手を差し伸べたのです。
日本の進出は、中国の国民党軍や共産軍からみれば「侵略」だったとしても、中国の民衆からみれば「救済」だったのです。
日本の願いは、自立した近代的民主国家となった中国と共同して、この東アジアに、共存共栄の経済圏をつくり出すことでした。
また共に、西欧やロシアによるアジア侵略に対する防波堤となることだったのです。
それは、実際もう少しで可能だったでしょう。
しかし、日米戦争で力をそがれた日本は、やがて敗戦を迎え、その願いも中途で挫折してしまいます。
日中戦争において日本は決して負けてはいませんでした。
ただ日米戦争で敗戦となったがゆえに、日本の努力は挫折したのです。
それでも、日本がアジア各国に与えた独立心は、やがて育ち、実を結んでいきました。
黄文雄氏はこう述べます。
「大日本帝国は、八〇年にして人類史に計り知れない貢献を行ない、遺産をもたらした。負の遺産はほとんどない。
『過去の一時期』に問題があるとすれば、それはただ日米戦争に負けたことだ」
日本ほど、アジアの独立と繁栄のために貢献した国は、他にありません。
日本がなければ、今日のアジアの独立と繁栄はなかったでしょう。
その過程で、悪戦苦闘はありました。
日本は中国において一番苦労しました。
なぜこれほどまでに中国で苦労しなければならなかったのか。
その一つに、日本人と中国人の気質の違いがあげられます。
かつて日本の明治維新を成功させたのは、武士たちの力でした。
彼らは「至誠」を美徳と考える人々で、「私」に仕えず「公」に仕える者でした。
そして彼らは、維新が成功すると、士農工商の階級制度を廃止し、自分たちも刀を置き、町民となっていったのです。
誰もが「国民」という平等の世界に、甘んじて身を投じていきました。
一方、中国の革命家たちに共通するのは、すさまじいばかりの「保身」すなわち「生き残りの哲学」です。「夷をもって夷を制し」、他を蹴落として何としてでも自分が生き残る、という権力への強烈な願望です。これは五〇〇〇年間、ずっと戦乱の世に生きなければならなかった中国人の身にしみついた性質なのでしょう。
このとき、自分が生き残るためには民衆の命さえも顧みません。中国の内戦では、おびただしい民間人が虐殺されました。民間人に対する略奪、強姦も至るところで行なわれ、彼らは人々から、軍隊というより「匪賊」と呼ばれていたほどです。
これは、日本の武士たちの戦いの様子とは大きく違います。日本の戦国時代は、武士同士が戦ったものであり、民間人は殺しませんでした。あの関ヶ原の戦いでも、百姓たちは弁当をもって山の上から戦闘を見物していたほどです。
しかし中国の内戦では、革命家は民間人の死体を山ほどつくるのが常でした。共産党の毛沢東は、日中戦争および戦後の文化大革命、その他を通し、中国人同胞を数千万人殺しました。蒋介石も、先に述べたように数多くの民間人を犠牲にしています。
蒋介石といえば、戦後、連合国の会議において、列強による日本の分割統治に反対し、天皇制存続を訴え、また日本への賠償請求権を放棄するなどをしてくれた人です。そこには、西安事件以来、彼が不本意にも共産党の意向にそって日本軍と戦争をしたことに対する後悔もあったのかもしれません。
賠償請求権を放棄してくれたことは、日本にとってありがたいことではありました。しかし、中国を焦土にしたのは日本軍ではなく、蒋介石であり、また毛沢東なのですから、日本に賠償請求する権利はもともと彼らにはないのです。
また、日本は戦後台湾に莫大な資産をそのまま残し、蒋介石はそれを受け継ぎました。その結果、彼は賠償以上の莫大な富を手に入れているのです。
蒋介石は戦後、共産軍に負けて台湾にのがれたとき、そこで「白色テロ」と呼ばれる恐怖政治を行ない、多くの台湾人を犠牲にしました。このように中国では、伝統的に「誠」よりも「生き残り」が強く優先されたのです。
Remnant
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