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大政奉還



大政奉還
巨大資本が世界を支配するという形は新しくない。例えば、ラテン・アメリカ諸国はアメリカの巨大資本に支配され、「バナナ共和国」と呼ばれるていた。また、イギリスなどヨーロッパ諸国は19世紀までインドを私企業である東インド会社が実行している。インドを支配するためにイギリスは傭兵を使っている。全兵力23万8000人のうちイギリス兵は3万8000人、残りの20万人はシパーヒー(またはセポイ)と呼ばれる傭兵だった。シパーヒーは上級カースト出身者が多く採用されたという。そのシパーヒーが1857年に反乱を起こした。「インド大反乱」、あるいは「第一次インド独立戦争」と名づけられているが、かつては「セポイの反乱」と呼ばれていた。当時、イギリスは技術革新にともなって工場制生産に移行している。いわゆる産業革命だが、中国(清)との貿易でイギリスは大幅な輸入超過に苦しむことになる。近代的な工場が作り出す製品が中国の絹や茶に負けたということだ。その苦境から脱するため、東インド会社はインド産のアヘンを中国へ密輸するのだが、それを中国側が禁止するとイギリスは武力による制圧に乗り出した。アヘン戦争(1840年から42年)である。この戦争で中国における利権を手にするが、まだ不十分だと考えたようで、1856年から60年にかけてはアロー戦争を仕掛けている。1865年にはイギリスが麻薬取引の拠点にしていた香港で香港上海銀行が創設され、66年に横浜へ進出、さらに大阪、神戸、長崎にも支店を開設している。1867年には「大政奉還」、長州藩と薩摩藩を中心とする新政府が誕生した。この当時、イギリスの支配層はライバルのフランス、ドイツ、ロシアに対抗するために約14万人の兵士が必要だと考えていたが、実際の兵力は7万人。そこで目を付けられたのが日本で、1902年には「日英同盟協約」が結ばれる。日本人を一種の傭兵にしようというわけだろう。この同盟は1921年、日本、アメリカ、フランス、イギリスの4カ国条約の成立によって廃止が決まるまで続いた。
1904年に日本はイギリスのライバル、帝政ロシアと戦争を始めるが、戦費とし約2億ドルを融資したのはロスチャイルド系のクーン・ローブ。この金融機関を率いていたジェイコブ・シフと日銀副総裁だった高橋是清は親しい。言うまでもなく、ロスチャイルドはイギリスの動きと深い関係にある。日清戦争の後、日本は戦艦の建設に力を入れているが、その際にイギリス海軍が協力している。ロシアと日本との戦争を見通してのことだろう。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201609080001/

★阿修羅♪ 
http://www.asyura2.com/acas/d/db/dbs/DbsSfawrpEw/100039.html
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/1174.html#c7
 

琉球占領


 アメリカと日本が戦争を始める切っ掛けは、言うまでもなく「真珠湾攻撃」。この攻撃がいかに無謀だったかを語る人は多いが、日本はすでに戦争をはじめていた。1927年5月に山東出兵、31年9月に柳条湖事件と呼ばれる偽旗作戦を実行して侵略を開始、中国東北部に「満州国」と称する傀儡国家を樹立させた。1937年7月の盧溝橋事件後、宣戦を中国の全域に拡大、そして41年12月の真珠湾攻撃だ。
しかし、日本が東アジア侵略を始めたのはその遥か前、1872年に琉球国を潰して琉球藩を設置したところから始まる。本ブログでは何度か指摘したが、1871年7月に廃藩置県を実施済みなわけで、この琉球藩設置は台湾へ派兵する口実作りの可能性が高い。実際、そのころ来日していた厦門の領事のチャールズ・リ・ジェンダーは外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を勧めていた。そこから江華島への軍艦派遣(朝鮮に対する挑発)、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦へとまっしぐらだ。この背後にはイギリスとアメリカが存在していた。
東アジアを侵略している間に盗んだ財宝も曖昧なまま、アメリカ支配層と山分けした可能性が高い。その過程で吸った甘い汁を日本の支配層は忘れていないはず。アメリカ支配層の最近の動きを見ていると、過去の「成功体験」を再現しようとして失敗しているようで、日本がアメリカの真似をして再び中国を侵略しようとしたなら、取り返しのつかないことになりそうだ。
こうした道へと日本を導いているのが安倍政権。危険な流れを察知した人びとが小沢一郎の率いる民主党を選挙で勝たせたのだが、それをマスコミと検察が潰し、菅直人や野田佳彦は国民の期待を裏切って現在がある。ここで諦めたなら、支配層の思う壺だ。
【注】
(1) ベニト・ムッソリーニは1933年11月に「資本主義と企業国家」という文章の中で、巨大資本が支配するシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張した。これが彼の考えたファシズムであり、全体主義だとも表現されている。
(2) 1938年4月29日にフランクリン・ルーズベルトはファシズムについて次のように定義した。「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201606300000/

★阿修羅♪ 
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伝研騒動~国立予防衛生研究所(予研),伝染病研究所(伝研)の歴史


「デマを流すな」というデマ (^_^;)   
2020年04月01日 | SARS-CoV-2と情報戦
■日本における新型コロナウイルスの感染拡大
WHOが,アジアとオセアニアでの新型コロナウイルスの再流行を警告 4月 01, 2020 05:22 Asia/Tokyo Pars Today
WHO世界保健機関は,アジアとオセアニアでの新型コロナウイルスの再流行に関して警告しました。
イルナー通信によりますと,WHO太平洋地域事務局の葛西健局長は31日火曜,アジア諸国,特に新型コロナウイルスへの感染者が減少している国々に対し,このウイルスがこれらの諸国で再流行する可能性が非常に大きいため,過小評価しないよう警告しました。
葛西局長は,新型コロナウイルスの蔓延抑制に向けたこれらの国々の措置は,これらの諸国にこの致命的なウイルスの広範囲にわたる伝染に対処するための準備時間を与えるだけであると強調しました。
「脳内の悪夢や妄想」が,唐突に現実化する「恐怖の世界」
4月1日のエイプリルフール前日の3月31日のテレビニュースでは「デマに惑わされるな」(デマを流すな)と繰り返し強調されていたのです。
ところが,もし2カ月前に「4月1日にはニューヨークやロンドンが都市封鎖(集会や外出禁止)。日本も全学休校,外出自粛でアメリカやEUなど主要国との出入国を遮断。7月開催の東京オリンピックも延期」「90年前の世界大恐慌に匹敵する株価大暴落で世界も日本も青息吐息。経済崩壊寸前」と主張したら馬鹿馬鹿しいデマ(妄想,悪夢)だと笑われるだけ。
ところが日本でも世界でも,デマや妄想,悪夢の類が全部現実化。リアルな現実とバーチャルな空想世界とが合体していた無茶苦茶。ほぼ荒唐無稽な筒井康隆の「パプリカ」(脳内の悪夢が現実世界になだれ込んで実体化する)SF世界と同じなのである。
世界に先駆けて(誰よりも早く)中国武漢からアメリカ領事館職員や家族を脱出させた米チャーター機
視点,専門家の見解からー「新型コロナウイルスが,対中生物学的戦争か」1月 30, 2020 22:04 Asia/Tokyo Pars Today
マレーシア首相の特別補佐を歴任したマティアス・チャン氏が,「人工的に製造されたの新型コロナウイルスは,中国に対するアメリカの生物学戦争に等しい」と語りました。
マティアス・チャン氏は,マレーシア・クアラルンプールでIRIB通信との電話インタビューに,「研究所で製造されたコロナウイルスは,中国に対するアメリカの生物学戦争の手段に等しい」と述べています。
また,昨年10月に中国・武漢市にアメリカ軍300人が軍事計画への参加を目的に滞在していた事にも触れ,「この出来事からちょうど2週間後にあたる,昨年11月に武漢市で最初の新型コロナウイルスへの感染例が報告された」としました。
さらに,「この2週間という期間は,学術的な発見によればこのウイルスの潜伏期間に相当する」とし,「60の国際便,100の国内便,国内最大の特急列車網を備えた交通の要所である武漢市での感染例の報告から2ヶ月後,そしてちょうど中国の新年の前夜に,危険なウイルスの発生が発表された」と語っています。
そして,「新型コロナウイルスの蔓延は,アメリカの支持を受けた香港での民主主義支持者による暴動,および米中通商戦争の激化の時期とちょうど重なっており,またこの時期は豚インフルエンザや鳥インフルエンザによる経済損失が回復してきた時期にもあたり,現在では新型コロナウイルスという新しい形で中国を襲っている」と述べました。
チャン氏はまた,アメリカとの通商戦争を理由とした中国経済の没落,というタイトルでの報告の一部に,アメリカCNNが最近満足感を示している事に触れ,「このウイルスの蔓延は,中国に対抗する手段としてアメリカが必要としていたものだった」としています。
アメリカは,1940年代にもグアテマラで梅毒や淋病を,また2014年にはアフリカ・シエラレオネでエボラウイルスを,キューバではデング熱を多数の人々に意図的に感染させるなど,生物テロ手段の行使に関しても長い経歴を有しています。
1月30日Pars Today(全文掲載)
注,
イランの国営通信社ParsTodayは早い段階からSARS2についてアメリカ軍の細菌兵器説を報道していたが,もちろん欧米リベラルメディアや日本のマスコミが「荒唐無稽なデマ」と無視した。それから2カ月後,筒井康隆のSF小説「パプリカ」のように脳内の妄想(悪夢)が実体化して現実世界になだれ込んだらしいのである。(デマと真実,バーチャルとリアルが入り乱れて世界がぐじゃぐじゃ。まさに悪夢である)
同僚の教諭に激辛カレーを無理やり食べさせられる男性教諭
少し前にマスコミでは神戸市の教員間の「いじめ問題」が大真面目に論じられていた。ところが,内容的にほぼ同じことを公共物であるテレビ電波で全国放送されて日本人全員が喜んでいたのです。(★注,テレビのお笑い番組のほとんどが単なるイジメ。なぜみんなが仲良く笑えるのか。私には理由がさっぱり分からない)
今回のSARS2の感染で元ドリフターズの志村けんさんが死亡するが「誰からも愛された不世出の芸人」と最大級の賛辞がおくられているが,同じことをした神戸市の教員は懲戒免職である。(もし神戸市の懲戒免職が正しいなら,沢尻エリカが出演した番組を放送禁止にしたのと同じで,低俗お笑い番組も放送禁止にするべきである)
吉本新喜劇や志村けんを称賛する一方で,同じことをした(素人が真似た)ら罰するなどダブルスタンダードにしても酷過ぎる。
近ごろ都に流行るもの
「デマを流すな」というデマや,「陰謀論は認めない」という陰謀論。「いじめは許さない」というイジメまで世の中には不可解なものが多いが,小学生低学年定番の「アホ言うものがアホ」が大正解なのである。(★注,ただし,いくら正しくとも理論上これを言い出すと無限ループに陥り抜け出せなくなる)
■当時の日本医学会の最高峰を集めて編成された731部隊
帝国陸海軍の「亡霊」が支配する新型コロナ「専門家会議」2020年3月5日掲載デイリー新潮
日本医師会,日本感染症学会,公益を代表する弁護士などを除くと,残る9人中8人が国立感染症研究所(感染研),東京大学医科学研究所(医科研),国立国際医療研究センター,慈恵医大の4施設関係者
4組織と無関係なのは押谷仁・東北大学教授だけ。珍しいことに委員の中に東京大学医学部出身者がいない。政府の医療の専門家会議で,東大医学部卒が皆無なのは極めて珍しい。
「731部隊」関係者「感染研」
なぜ,このようなグループが仕切るのだろうか。背景には,歴史的な経緯,特に帝国陸海軍が関係する。
感染研の前身は,戦後の1947年に設立された「国立予防衛生研究所」(予研),予研は戦後,GHQ(連合国軍総司令部)の指示により,「伝染病研究所」(伝研)から分離・独立した。伝研は現在の医科研だ。戦前,伝研を支えたのは陸軍だった。伝研は,1892(明治25)年に北里柴三郎が立ち上げた民間の研究機関だ。1899(明治32)年に内務省所管の「国立伝染病研究所」となり,1906(明治39)年に現在の白金台に移転する。伝研の性格を変えたのは,1914(大正3)年の「伝研騒動」で内務省から文部省(当時)が統括する東京帝国大学に移管される。
日本医師会の前身である東京医会や大日本医会のまとめ役の北里は退職し,職員も従った。困った東大が頼ったのが,当時,陸軍医務局長だった森鴎外。軍医を派遣して伝研を支え,伝研は陸軍との関係を深めていく。戦後,分離された感染研の幹部には,陸軍防疫部隊(関東軍防疫給水部=731部隊)の関係者が名を連ねた
軍医療機関と国立病院の関係
医療センターの前身は新宿区戸山に位置することから想像できるが陸軍施設だ。1868(明治元)年に設置された「兵隊假病院」に始まり,1936(昭和11)年には「東京第一陸軍病院」と改称された帝国陸軍の中核病院だ。
敗戦で帝国陸軍が解体されると,厚生省に移管され,「国立東京第一病院」に名称が変わった。そして1993年に「国立国際医療センター」となり,2010年に独立法人化され,現在に至る。
医療センターに限らず,多くの国立病院の前身は陸海軍の医療機関だ。たとえば,「国立がん研究センター」の前身は「海軍軍医学校」で,1908(明治41)年に港区芝から中央区築地に移転した。現在の国立がん研究センターの場所だ。
敗戦で名称だけ変更
陸軍省,海軍省は1945年11月30日廃止,それぞれ第一第二復員省となる。両者は1946年6月に復員庁として統合後,1947年10月に厚生省に移管した。
(注,マザーテレサやシュバイツァー博士,ナイチンゲールなどの例を見れば明らかだが欧米一神教世界の場合,医療や看護は宗教世界と密接に結びついて発展している。そもそも歴史的にキリスト教の布教活動は都市部の疫病蔓延と関連していたのである。
ところが,日本の近代医療は軍事技術の一部門として発展したので,今の厚労省は元々が陸,海軍省なのである。このことが原因して今でも厚労省が靖国神社の祭神を決めている憲法20条の信教の自由や政教分離の大原則に真っ向から違反する不思議とは,この歴史的出自に由来していた。厚労省の歴史を知れば少しも不思議では無かったのである)
「居抜き」物件。日本軍の優良医療施設を確保したGHQ
占領軍が先ず手をつけたのは,陸海軍が保有する医療機関の厚生省への移管だった。
この際,全国146の軍施設が国立病院,国立療養所となったが,注目すべきは,建物も職員も従来のままで診療が継続されたことだ。つまり,病院自体の組織は陸海軍のままで,名称が軍病院から国立病院に変更されただけ。
この影響が現在も残っている。感染症対策も例外ではない。(注,上昌弘は日本のPCR検査を牛耳る「感染研」は臨床医ではないので患者の治療より,研究に役立つデータ収集を優先している研究機関だと指摘している。そもそも感染研はPCR検査の大規模実施はやりたくない。今のようにサボるのは当然だったのである)
慈恵医大につながる薩摩の「海軍人脈」
1881(明治14)年「成医会講習所」が1903(明治36)年の専門学校令を受け日本初の私立医学専門学校「東京慈恵医院医学専門学校」となる。「慈恵」と名付けたのは明治天皇の皇后の昭憲皇太后。現在も慈恵会総裁に皇族が就任(現在の総裁は三笠宮家の寬仁親王妃信子殿下)。薩摩とつながる海軍との関係で明治期の海軍軍医総監の大部分は成医会講習所(慈恵医大)の関係者だ。
(抜粋)
上昌弘医療ガバナンス研究所理事長
               
逝きし世の面影
https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/2fd887fd1fb54494cfee7f248658ba2b
https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/0a903c714cc4de4e50a7bda9da584594
https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/
               
               
               
               



18680000 1868(明治1)年,兵隊假病院設置,帝国陸軍の中核病院 syokunin-2008
18920000 1892(明治25)年,伝染病研究所(伝研)設立,北里柴三郎が立ち上げた民間の研究機関
18990000 1899(明治32)年,民間の伝染病研究所>>内務省所管の国立伝染病研究所へ昇格,国家機関へ
19060000 1906(明治39)年,国立伝染病研究所,現在の白金台に移転 syokunin-2008
19080000 海軍軍医学校,1908(明治41)年に港区芝から中央区築地に移転>>後に国立がん研究センターへ
19140000 1914(大正3)年,伝研騒動,指導役は北里から陸軍医務局長森鴎外へ syokunin-2008
19140000 1914(大正3)年,伝研騒動,伝研の性格を変えた syokunin-2008
19140000 1914(大正3)年,伝研騒動,東京医会(日本医師会)や大日本医会のまとめ役の北里は退職,職員も従った
19140000 1914(大正3)年,伝研騒動,内務省から文部省(当時)が統括する東京帝国大学に移管
19140000 1914(大正3)年,伝研騒動,民間の北里退職>>陸軍医森鴎外指導へ>>伝研は陸軍との関係を深めていく
19181000 スペインかぜ: 1918年から19年に流行し,全世界で5000万人が死亡したとされる「スペインかぜ」とほぼ同じ致死率
19300000 戦前,伝染病研究所(伝研)を支えたのは陸軍だった syokunin-2008
19360000 1936(昭和11))年,兵隊假病院>>東京第一陸軍病院と改称,帝国陸軍の中核病院
19360000 日本の近代医療は軍事技術の一部門として発展した syokunin-2008
19400000 731部隊:「731部隊」関係者「感染研」
19400000 731部隊:2020年コロナ肺炎で帝国陸海軍の「亡霊」が支配する新型コロナ専門家会議
19450000 敗戦で帝国陸軍解体>>東京第一陸軍病院は厚生省に移管>>国立東京第一病院と改称
19451130 敗戦後処理:陸軍省,海軍省は1945年11月30日廃止,それぞれ第一第二復員省となる
19460600 敗戦後処理:「居抜き」物件。日本軍の優良医療施設を確保したGHQ syokunin-2008
19460600 敗戦後処理:注目すべきは,建物も職員も従来の陸,海軍省のままで診療が継続された syokunin-2008
19460600 敗戦後処理:日本の近代医療は軍事技術の一部門として発展>>今の厚労省は元々が陸,海軍省 syokunin-2008
19460600 敗戦後処理:病院自体の組織は陸海軍のままで,名称が軍病院から国立病院に変更されただけ syokunin-2008
19460600 敗戦後処理:米国占領軍は陸海軍が保有する医療機関の厚生省へ移管>>全国146の軍施設が国立病院,国立療養所へ
19460600 敗戦後処理:陸軍省,海軍省はは1946年6月に復員庁として統合後,1947年10月に厚生省に移管
19471000 国立予防衛生研究所(予研),戦後,GHQ(連合国軍総司令部)の指示により設立
19471000 国立予防衛生研究所(予研),伝染病研究所(伝研)から分離・独立
19471000 戦後の1947年に国立予防衛生研究所(予研)設立,感染研の前身
19500000 戦後,分離された感染研の幹部には,陸軍防疫部隊(関東軍防疫給水部=731部隊)の関係者が名を連ねた
19601000 伝染病研究所(伝研)>>医科研
19920000 1992年の地球サミット(リオ)で何が決まったか j-out-sider-zzz
19930000 国立国際医療センター:1993年に国立東京第一病院から国立国際医療センターへ改称
19930000 国立国際医療センター:もとは軍医療機関 syokunin-2008
19930000 国立国際医療センター:新宿区戸山に位置することから想像できるが陸軍施設 syokunin-2008
19930000 国立国際医療センター:兵隊假病院>>東京第一陸軍病院>>国立東京第一病院>>国立国際医療センター
19930000 兵隊假病院>>東京第一陸軍病院>>国立東京第一病院>>国立国際医療センター syokunin-2008
20020000 [SARS] 2002~2003年に中国で流行したSARS(重症急性呼吸器症候群)
20020000 [SARS] SARSワクチン:SARSが流行した際にが作られましたが非常に危険なもの 英護婦Kate
20020000 [SARS] SARSワクチン:一度ワクチンを受けた人はSARSにはるかに感染しやすくなり酷いものになった
20020000 [SARS] SARSワクチン:実験で多くの動物が死亡した
20020000 [SARS] SARSワクチン:肺炎の患者の症状を見ていると、症状が急激に悪化する 英護婦Kate Shemirani
20081200 [H1N1インフル] 1918年スペイン風邪の猛威は3つの遺伝子による集団がウイルスを肺に侵入させ肺炎を起こしたことにある 河岡義裕
20090407 新型インフルワクチン、追加接種で幅広い免疫効果 厚労省(日本経済新聞) - そのまんま西 2009/4/07 00:36:04
20090425 [豚インフル] WHO緊急委開催へ メキシコの豚インフル(47NEWS) 
20090425 [豚インフル] WHO事務局長、豚インフル流行「深刻な状況」 パンデミックの危険性も指摘(AFP)
20090425 [豚インフル] ウイルス、人から人に感染=豚インフル、未知の混合型の可能性-米保健当局
20090425 [豚インフル] メキシコで60人死亡 800人に感染の疑い 
20090425 [豚インフル] メキシコなどで豚インフルが人間に感染、60人死亡の疑い - ドキッ!プロ奴隷だらけの水泳大会
20090425 [豚インフル] 厚労省が情報収集 専門家ら大流行を警戒 - めっちゃホリディ
20090425 [豚インフル] 豚インフルで60人死亡か=メキシコ国内、疑い例943件-WHO -
20090425 [豚インフル] 豚インフル国際的緊急事態と認定 WHO、メキシコ死者81人に(東京新聞)
20090425 [豚インフル] 米で、豚?インフル7人感染「人から人」経路の可能性も
20090425 [豚インフル] 米国で新型の豚インフルエンザ、これまでに7人感染
20090514 カナダの微生物学研究者がエボラウイルスやHIVなどの実験材料を米国に「密輸」しようとして逮捕された - passenger 2009/5/14 22:06:21
20100000 国立国際医療センター,2010年に独立法人化
                   
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ハノーファー家


ハノーファー家
■貴族はどこから来たのか?
貴族とは、時代時代のビジネスで大儲けをした人たちが成り上がった後、貴族の地位を維持させてこれたか?現代でも大金持ちになれば貴族の仲間入りができます。
ここからは都市同盟の話。都市同盟って今のユーロの原型みたいですね?さらに遡ると、紀元前5世紀の古代ギリシャで都市同盟がすでに有りましたが。こうして自治権を持った都市が同盟を組み力をつけていきました。ところが、この都市同盟、次第に分裂していくことになります。
既述のフッガー、メディチの免罪符に対する反抗から始まったルターのプロテスタントの出現からアウクスブルクの宗教和議の成立までの動きです。
16世紀、ハプスブルク家が強大化して領邦の自立性が脅かされたが、幾度かの宗教戦争を経てアウクスブルクの宗教和議が成立したことで、領邦は領内における宗教選択権を獲得した。こうして領邦教会体制が成立したことは、皇帝・教皇の干渉から領邦を一層自立させることになった。
1648年、ヴェストファーレン条約において、各領邦の主権が一応は容認され、およそ300の領邦国家が成立した。これはあくまでも理念上の話であり、実際に主権国家としての地位を固めたのはごく少数の大諸侯領のみであったが、彼らは領内貴族の勢力を抑え、財政を安定させて官僚制と常備軍を養成した。こうして、隣国フランスが「絶対王政」下で中央集権化を進めるのに対し、ドイツでは各地の領邦国家ごとに集権化が進められたため、近代において統一的な国民国家を形成するのが遅れることになった。
フランスでは絶対王政で中央集権化が進みましたが、絶対王政は、聖職者・貴族・ギルドといったある種の利権団体との強固な結びつきのもとに成立していたもので、フランス人民1人1人にまで国家権力が及んでいたわけではなかった。
18世紀になると、パリでは多くのカフェが営業され、カフェや個人的なサロンにおいて、勃興しつつあるブルジョワジーや自由主義貴族が新聞を片手に社会批判を行うようになっていた。このような、王権が及ばない「公共空間」で生まれた公論(世論)は、当時高まっていた啓蒙思想によって理論武装されていき、のちのフランス革命を擁護するような諸理論を育んでいった。
この辺がフリーメイソンがフランス革命を起こしたと言われる部分です。
その後、フランスは恐怖政治、ナポレオンによる帝政、再びブルボンによる復古王政、自由主義者として知られたオルレアン家のルイ・フィリップは実は自由主義ではなく、第二共和政、再び第二帝政と80年近く安定することなく、王政と帝政、共和政のどれがふさわしいのか模索していた時期があります。結局はフランスはプロイセンとの普仏戦争に敗北し50億フランの賠償金を義務を背負い込みました。一方、各地の領邦国家ごとに集権化が進められたため、統一的な国民国家の形成が遅れたドイツ。その領邦国家の中にかつてのハンザ同盟に加盟していたドイツ騎士団がありました。
バルト海東岸と南岸を支配していたドイツ騎士団は、ヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合にタンネンベルクの戦いで敗れ大きく西方に後退。
一方、残った東プロイセンのドイツ騎士団領に1525年に成立したホーエンツォレルン家のルター派プロテスタントの世俗公領である。
ポーランド・スウェーデン戦争の講和条約である1660年のオリヴァ協定によってポーランド・リトアニア共和国から正式に独立し、プロイセン公国となった。
1525年 - アルブレヒトがプロイセン公国を成立させる(この領土はプロイセン公領とも呼ばれる)。
1618年 - 5月に三十年戦争勃発。
1618年 - 8月にブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公を継承。
1626年 - スウェーデン軍によって東プロイセンを奪われる(スウェーデン・ポーランド戦争)。
1629年 - アルトマルク休戦協定により東プロイセン奪回。
1635年 - プラハ条約締結。
1635年 - ストゥムスドルフの和約の締結によりスウェーデン軍はプロイセン一帯から撤兵。
1637年 - スウェーデン軍にブランデンブルクを占領され、プロイセン公ゲオルク・ヴィルヘルムがケーニヒスベルクに退避。
1657年 - ヴェーラウ条約によって東ポンメルンを獲得。また、ポーランド王国の影響下から離脱。
1701年 - プロイセン王国成立。
というようにドイツ(プロイセン)はハンザ都市同盟が消滅し、一部が世俗化し公国になり王国を成立。その後、ナポレオンのフランスに負け続け一時は領土と人口は半減。フランスによる支配はドイツ人に民族としての自覚を生み、フランスからの解放者としての役割をプロイセンに求める人々が現れた。
1815年のワーテルローの戦いでナポレオンを破り、プロイセンは再び大国となったわけです。
1815年と言えばウイーン会議によりウイーン体制が始まった年です。
その後、1853年のクリミア戦争勃発まで平和が続き、その時代に産業は飛躍的に発展し、農業国だったプロイセンの工業化が進んだ。駅馬車の交通網が発達して時刻表が発行されるようになり、1818年には蒸気船がブランデンブルクの運河を航行し始めた。
1837年にベルリンにはボルジッヒ鉄工所が建設され、1838年9月21日にはポツダム・ツェーレンドルフ間に鉄道が開通した。
1834年のドイツ関税同盟はプロイセン中心のドイツ経済圏を形成した。
1862年にオットー・フォン・ビスマルクがプロイセン王国の首相となった。そして、オーストリア帝国と同盟し、デンマークと戦争(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)を行った結果、デンマーク統治下にあったシュレスーヴィヒ公国およびホルシュタイン公国をオーストリアとの共同管理とした。
1866年、普墺戦争ではオーストリアを破って北ドイツ連邦を結成し、オーストリアをドイツ人国家の枠組みから追放した。1870年には普仏戦争でナポレオン3世率いるフランス帝国を破ってパリへ入城し、1871年1月18日に、ヴェルサイユ宮殿でドイツ諸侯に推戴される形でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、ここにドイツ帝国が成立した。
普墺戦争、普仏戦争で完全にドイツが欧州の覇者となったのです。
これらの戦争の裏で、以前記事にしましたヴェルフ基金の話があるわけです。ヴェルフ=ハノーファーです。
ハノーファーはヴェルフから出た家系。ハノーファー家に受け継がれたヴェルフ基金、ヘッセンから欧州した資金合わせた金額をプロイセンのビスマルクに取らせた。
そしてフリーメーソン繋がりでジュゼッペ・マッツィーニ、アルバート・パイクに資金提供。
もちろん、後ろにはロスチャイルド=ヘッセン出身の無国籍陣営。普墺戦争で負けた側にいたヘッセンですが、実はプロイセン側にジュゼッペ・マッツィーニ、アルバート・パイクがおり、もちろん彼らの活動資金はロスチャイルドから供給。フランスの賠償金50億の賠償金もアルフォンス・ロスチャイルドの資金なしでは不渡手形。
フランス政府は予定より2年早く賠償金を完済。
つまり、もはやヘッセンという名前では国際的な国家区分で追っかけても表に出ない。国家、血統とかでは無く、フリーメーソン対イエズス会という括りで考える必要があります。
そしてヴェルフ対プロイセン。さらにはカトリック対プロテスタント。
オラニエが17世紀にオランダ国家として、オランダ東インド会社の交易による資金と、19世紀にビスマルクがハノーファー王朝から没収した資金等を貯えて、東南アジア諸国を植民地化した。
ハノーファー=ヴェルフ家がロシア皇帝やグレートブリテン連合王国の国王を排出し、今の英国王室ウインザーがまさにそれで、クセン=コーブルク=ゴータから改名した事実上のハノーファーの後継です。
ロンバルディアのヴェルフ=エステ家、のちにヴィッテルスバッハ家として、2人の神聖ローマ皇帝、1人のドイツ王、ハンガリー王、ボヘミア王、スウェーデン王、ネーデルラント、ギリシャ王、ジャコバイトの王等を排出。フェッラーラとモデナのヴェルフ家、これらがヴェルフ系。
上記で特にハノーファー、エステのヴェルフ系がいわゆる金融マフィア側です。ここの資産をドイツ内で凍結し、統一ドイツを目指したのがプロイセン側です。
ハノーファーもヘッセンもプロイセンもドイツ北部連合の小国でした。こちら側の争いが、フランク王国を3分割した当時の東フランク内の争い。それに対し西フランク側が、英国、フランス、スペイン等の争いになってる訳です。
しかし西フランク側の国は現在も国家として括れますから分かり易い。
東フランク側は、それぞれの国の実家筋というか、国際的な国家区分では表に出ないんです。西フランク側の各国に、東フランク側の各派閥が入り込み、国内での覇権争いをしていると言う処ですかね。
こう言う処の下部組織が日本の朝廷制度です。
この後20世紀に起こした二度の世界大戦は、ドイツ国家としては、ヨーロッパ統一。フランス国家としては、このドイツの脅威を潰すための戦争。イギリス国家としては覇権維持。
これらの中で最も普仏戦争でフランスに勝ち成立したドイツの野心が一番大きく、経済的にも軍事的にも最も強かった。しかしながらイギリスはドイツの支流です。
イギリスは渋々参戦みたいな形をとって、フランスとドイツの表の対立軸として世界大戦に結びつけた。この辺の詳細を書くと非常に長くなりますし、今回の記事はすでに長文になってしまいましたので、とにかく2度の世界大戦はドイツが仕掛けて2度とも失敗に終わるわけです。特にスターリングラードの戦いにおけるドイツの自殺行為的な失策で、それまでの形勢が逆転。日本の海軍と陸軍が対立し、誤情報により南の島々で餓死したのと非常に似ています。
一方のソビエト軍も史上最悪の死傷者を出します。
その後、1944年6月6日、アメリカはノルマンディー上陸作戦で西部戦線に参戦。そしてドイツは東西に分断されました。それから70年後の今、ドイツはすでに再統一を成し、ユーロ圏という大きな地域の中心となっています。ユーロという共通通貨を異なった国で流通させることは非常に危険であることは素人でもわかることなのに・・・
PIIGSと呼ばれる、ポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペインが財政危機に陥りました。各国はそれぞれ成長率が違います。成長率の高い国では政策金利の引き上げや通貨供給量の引き締めといった政策が対処手法であるのに対し、成長率の低い国では金融緩和策が必要です。しかし単一の金融政策ではこのような域内での格差を十分に反映できないのが問題点。固定相場制と資本移動の自由を両立させているユーロ圏各国では独立な金融政策をとることができない。この事実はユーロ圏の加盟国が不況に陥ったときに、自国通貨を切り下げて輸出競争力を高め経常収支を改善させることができなくなる。そのような状況下ではユーロ圏で経済が好調な国から不況の国へ財政支援が検討された場合のEUの力量が試される。
けれども実際にはアメリカのような財政連邦主義を現時点でのユーロ圏が有しているわけではなく、頼みの綱の財政政策も安定成長協定(SGP)によって制限をかけられ、結果として各国の成長の足かせになりうる。適切な金融政策がとれるのは変動相場制があるからであり、統一通貨ではそれは不可能である。
さらに悪いことに、ユーロ圏のように、為替レート変動による経済の調整メカニズムを放棄している場合には、国内の価格や賃金あるいは資本移動によってでしか調整メカニズムが働かないので、ユーロ圏各国が各自独立した文化や規制を有している状態のままユーロを導入すれば、ユーロ圏各国の政府が各々異なる政治的圧力にさらされ、それら政府同士での政治的軋轢が生じる。これは、現在のPIIGSとドイツのように、救済される側とする側とで異なる政治的圧力が働き、ユーロ圏政府間での交渉が行き詰っている状態をさしており、このような経済的困難が現れることを、フリードマンは予見していたと言える。
ユーロ圏全体では既に2013年度の平均失業率が12.2%に達し、スペインでは前年より売り上げが10%落ち込み、ギリシャなど一部の国ではデフレーションに陥っている状況であるにもかかわらず、欧州中央銀行(ECB)が景気回復のための適切な金融政策をとっていないという批判がある。ユーロ圏の経済成長率は1%未満にまで低下している。スペインとギリシャの失業率は27%に達しており、IMFはECBに政策金利を下げるよう要請している。だが、現段階でECBは、アメリカの連邦準備制度(FRB)などが行っているような量的緩和を検討はしないという。
ジョージ・ソロスは、ECBの金融政策はその他の中央銀行が行っている量的緩和と同期していないと述べる。他にも危険性はありますが、このように、ちょっと経済が理解できれば、高校生でもわかるような危険性があります。
一方、ユーロ肯定派の意見は一般に、欧州中央銀行はインフレとの戦いという主たる使命を成し遂げてきた。事実、欧州中央銀行が設定している 2% というインフレーション・ターゲットはおおむね達成されているか、あるいは長期にわたる過度の超過は防がれてきた。インフレーション率が低いということはユーロ圏諸国の市民にとって経済安定性の基礎となっている。ユーロに対する投機は、投資家にはリスクが大きすぎ、ほかの小規模の通貨と比べると困難なものとなっている。
1990年代の通貨に対する投機はポンド危機など、欧州通貨制度に深刻な歪みをもたらし、さらにアジア通貨危機の発生原因のひとつとなった。特定の国の通貨に対する投機はその国の外貨準備を吐き出させ、また国民経済に深刻な損害をもたらしかねないものとなり、ユーロの導入はヘッジファンドによる通貨の空売りの目論見を防止することが可能となる。といったメリットを主張します。どちらも正当性はありますが、肯定派はいかにもヨーロッパ的な発想です。ですが、現実的にはユーロ危機に直面しています。これが現実ですよ。
ユーロ内で安定を図ろうとしても、それを揺るがす勢力がユーロ内にいるわけですから。それがドイツ人とは言いませんが、結果的にドイツが中心となってPIIGSにカネを工面しているのが実態。借りた方は返済できなければ国有財産を手放すしかない。かつて中世、金貸しが借金漬けにした国家の領土や固定資産を借金のかたとして取り上げたのと同じように。
いまでも全く同じ構図であることを理解すれば、ユーロ危機の本質と狙いがわかります。私は考え過ぎでしょうか?
人間、人にカネを貸すと、一気に有利になりますよね?
たとえ最初はそんな気持ちはなかったにせよ、貨した相手が返済出来ないのなら、何か取ってやろうと思うはずです。
ましてや銀行ですよ、ヤクザですよ。貸す前に何かを担保にとっておくのは常識中の常識。いや、むしろ銀行が担保も取らずに貸し付けたら不正融資で逮捕されます。
何回も書きましたが、第二次大戦後、70年間もヨーロッパで大きな戦争が無いのは何故でしょうか?IMF、BIS、CFR、各国中央銀行、核抑止力、等々、ネットで悪者扱いされている機関がちゃんと機能しているからに他ならないのです。ということで、ドイツ中心のヨーロッパ統一の3度目の正直である、ユーロ危機が、武力を使わない戦争だと私は考えています。危機が来るたび、結局はカネを融資して延命しているだけで、抜本的な改革なんて打てて無いわけです。これをいつまで繰り返すのか?参考までに過去ヨーロッパで起きた戦争のリストです。
1337年~1453年 - 百年戦争、
1453年 - コンスタンティノープルの陥落、
1455年~1485年 - 薔薇戦争、
1508年~1516年 - カンブレー同盟戦争、
1521年~1559年 - イタリア戦争、
1524年~1525年 - ドイツ農民戦争、
1546年~1547年 - シュマルカルデン戦争、
1558年~1583年 - リヴォニア戦争、
1562年~1598年 - ユグノー戦争、
1563年~1570年 - 北方七年戦争、
1568年~1648年 - 八十年戦争、
1585年~1604年 - 英西戦争、
1605年~1618年 - ロシア・ポーランド戦争、
1611年~1613年 - カルマル戦争、
1618年~1648年 - 三十年戦争、
1621年~1629年 - スウェーデン・ポーランド戦争、
1652年~1654年 - 第一次英蘭戦争、
1654年~1667年 - ロシア・ポーランド戦争、
1655年~1660年 - 北方戦争、
1655年~1659年 - スウェーデン・ポーランド戦争、
1657年~1660年 - スウェーデン・デンマーク戦争、
1665年~1667年 - 第二次英蘭戦争、
1667年~1668年 - ネーデルラント継承戦争、
1672年~1678年 - オランダ侵略戦争、
1672年~1674年 - 第三次英蘭戦争、
1675年~1679年 - スコーネ戦争、1683年~1699年 - 大トルコ戦争、
1688年~1697年 - 大同盟戦争、
1700年~1721年 - 大北方戦争、
1701年~1714年 - スペイン継承戦争、
1733年~1735年 - ポーランド継承戦争、
1740年~1748年 - オーストリア継承戦争、
1756年~1763年 - 七年戦争、
1792年~1802年 - フランス革命戦争、
1803年~1815年 - ナポレオン戦争、
1807年~1814年 - スペイン独立戦争、
1808年~1809年 - 第二次ロシア・スウェーデン戦争、ウィーン会議(1814-1815年)、ウィーン体制(1815-1848年)、
1853年~1856年 - クリミア戦争、
1848年~1850年 - 第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、
1866年 - 普墺戦争、
1870年~1871年 - 普仏戦争、
1877年~1878年 - 露土戦争、
1911年~1912年 - 伊土戦争、
1912年 - 第一次バルカン戦争、
1913年 - 第二次バルカン戦争、
1914年~1918年 - 第一次世界大戦、
1918年~1919年 - ハンガリー・ルーマニア戦争、1918年~1920年 - ロシア内戦(ロシア革命・対ソ干渉戦争・シベリア出兵)、
1919年~1922年 - アイルランド独立戦争、
1920年 - ポーランド・ソビエト戦争、
1939年~1945年 - 第二次世界大戦
14世紀以降のヨーロッパは戦争の連続。
ウィーン体制下で平和な時代が33年間有っただけ。そして第二次大戦後の70年間。私たちは、歴史的に非常にまれな、平和な時代に生きているのです。

コアな情報
http://utg.sblo.jp/article/179325461.html






隠された西洋人のルーツ

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By Richard Cassaro (Reporter)
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The Ancient Secret Of The Swastika & The Hidden History Of The White Race (Pt. 2 of 2)
Tue Apr 17 01:14

Before It's News
http://beforeitsnews.com/story/2029/566/The_Ancient_Secret_Of_The_Swasti







(要約)
隠された西洋人のルーツ
4月17日
Richard Cassaro
欧州の古代遺跡からヒンズー教のシンボル
ヒンズー教のシンボルマーク「スワスティカ(The swastika)」が欧州の先史時代の古代遺跡から発見された。
先史時代のヨーロッパではヒンズー教があったという事になる。その後欧州にキリスト教がひろまり、すたれたと考えられる。いわば欧州の暗黒時代のはじまりだ。キリスト教下の世界で、欧州の西洋人たちは、精神性を忘れ、物質主義の考えに傾いていった。今日、欧州の西洋人の世界は物質主義が主流だ。お金と物を得て豊かさを追う生き方だ。一方、ヒンズー教の特徴は永遠の魂、転生、カルマ、ヨガ、3つの目、ニルヴァーナなど。
アーリア人によるインド侵攻
インドの先史時代、アーリア人の大群がチベットあたりの中央アジアまで侵攻した事があった。この時、インド大陸にも侵攻が行なわれた。インド大陸に侵攻したアーリア人は、温暖で豊かなインド高原に住みつき、この土地にヒンズー教が根づいた。インドの原住民をドラヴィアン(Dravidians)という。ドラヴィアンはアーリア人侵攻によってインドの南方に追いやられ、この土地に住むようになった。インドの南北の言語や文化の違いはここから来るものと考えられる。アーリア人侵攻の記録は1000-2000年前に書かれた古代インドの書物「ヴェーダ(the Vedas)」にある。「ヴェーダ(the Vedas)」はサンスクリット語で「知識体系」の意味。「ヴェーダ」によれば、インドで人類ははじめて4階層に非可触賎民を加えた階層社会を作ったという。欧州のヒンズー教はキリスト教によって滅びたが、インドのヒンズー教は残った。
アーリア人はインドヨーロッパ語(Indo-European)を使った。これが現在の欧州の言語のルーツとなった。またこのアーリア人が現在の欧州人のルーツだといわれる。インドから欧州に移住したアーリア人は今のドイツ、イギリス、フランス、スペイン、イタリア、ポーランドなどで高度な文明を築いた。また、欧州からアメリカ大陸にわたった西洋人のルーツも当然アーリア人だという事になる。
欧州人が自分たちのルーツを考える時、本来のアーリア人が住んでいたインドよりも、イスラエルをまず想起する。モーセ、十戒、出エジプト、ダビデ王、ソロモン王などの話だ。イスラエルの伝説は欧州の歴史に巧妙に組み込まれ、欧州の人の考えにイスラエルが組み込まれて、自分たちの祖先を考える時、イスラエルを思い描くようになってしまった。また、西洋の学校ではアーリア人がヒンズー教を崇拝していた歴史を教えない。
理由は何か。考えられる理由は、世界を支配するエリートたちが恐れる何かがこのアーリア人の歴史にあるからだと思う。
アーリア人とアトランチス文明
アトランチス(Atlantis)の名前を命名したのは紀元前4世紀のギリシャの思想家プラトン(Plato)。プラトンは、アトランチス大陸では高度に進化した精神の文明があったと考えた。そこでは自分の魂を視覚でとらえる装置まであったとした。
Petrovna Blavatsky氏(1831-1891)は神智学の思想家。1875年、ニューヨークで「The Theosophical Society」を創設、1888年、「The Secret Doctrine」を出版した。Blavatsky氏は聖書の記述を無視、人類は本来神で永遠の魂であり、もともと高次の天界の精神界にいたが、それが物質界に降りてきた。この時に肉体をまとうが、このプロセスで内的世界を忘れたとする。Adolf Hitlerは彼女のこの著作に心酔し影響を受けたとされる。
Blavatsky氏はアーリア人のルーツはコーカサス山脈(the Caucasus Mountains)東部からチベットにわたるエリアであるとしている。「世界の屋根」といわれるヒマラヤ山脈のエリアだ。大洪水がおきてアトランチス大陸は沈み、アトランチス人の生き残りは命からがらヒマラヤ山脈に逃げた。洪水がおわり、ヒマラヤ山脈高地で洪水を逃れたアトランチス人の生き残りたちは山から降りてきて、ユーラシア大陸にひろがったとしている。

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招魂社競馬場

[東京九段] 招魂社競馬場
靖国神社参道
招魂社競馬場は明治3年(1870)から明治31年(1898)まで招魂社の境内の馬場で奉納競馬として春秋の例大祭に競馬が行われた。
これが、日本人による国内初の洋式競馬である。
招魂社とは現在の靖国神社のことである。
競馬場は参道の両脇に柵を巡らしその端を結ぶ楕円形の一周900m(500間)のコースであった。
この競馬は当初兵部省の主催で実施されていたが明治5年に兵部省が廃止されるとその後を引き継いだ陸軍省が実施している。
競馬場としては明治34年に廃止された。

旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm