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ヘティ・グリーンの人生

ヘティ・グリーン(Hetty Green)の人生
ヘティ・グリーン(Hetty Green)研究
『The Witch of Wall Street Hetty Green』翻訳
1885年1月、ウォール街59番地にジョン・J・シスコ・アンド・ サン銀行があり、人々から尊敬を受けていた。
ジョン・J・シスコは、 南北戦争の間、政府の財政を助け、国債を ウォール街に売り込んだ。
その後、ジョン・J・シスコは死んで、彼の息子と、1人のパートナーが 銀行を経営していた。
当時、預金業がゆっくりと発展していたが、大部分の金融機関は、証券を保管する空間を顧客 に提供する必要があった。
ジョン・J・シスコ・アンド・ サンの預金者の中には、金持ちが何人かいたが、エドワード・H・グリーン夫妻はずば抜けて 金持ちだった。
エドワード・H・グリーンの妻の有価証券は特に多く、証券の束は 大きな金庫の棚を、 いくつも埋め尽くした。
彼女の父、エドワード・マット・ロビンソンは 南北戦争の間、ジョン・J・シスコ・アンド・サン銀行の得意先であり続け、 500万ドルを超える有価証券を銀行の金庫に貯め込んだ。
ロビンソンが死んでからの20年間、彼の娘は、銀行に証券 を預け続けた。
その証券は、鋼鉄の部屋をぎゅうぎゅう詰めにし、少なくとも 父が所有していた証券の5倍のスペースを占めた。
事務員と客を分けるガラスの仕切りが、建物の端から端まで及んでいる。
その仕切り越しに、会社の金庫が見える。金庫は、普通の部屋のように大きく、 長方形のドアを持つ。
そのドアは夜に閉められる。
ドアには、白鳥が 池にいる風景が半分ずつ描かれ、ドアを閉めると1つの風景画になる。
ドアの開き目が、いつも絵に境界線を作った。
それは、その芸術作品の 欠点の中の1つだ。しかし、そんなことは重要ではない。
ドアの後ろに 置かれているものの方が重要だ。
暗い宝箱の中に、多くの貴重な紙があった。
シカゴの不動産ローンの 証書、ニューヨークの6階建ての建物と8階建ての建物の権利書、国債、 工場、倉庫、鉄道の所有権の証書、借金の証書があった。
未亡人が 住んでいるような5番街の不動産信託が入ったマニラ紙の重い封筒に寄り添い 、より豊かな醸造業者が住んでいるような3番街の不動産信託の束がある。
そのすぐそばには、紙幣、金貨、原料の状態の銀がある。
証券の利子は、街に住む多くの家族への支払いに充てられる。
その街の大通りのそばに、 つりあいのとれた一組の馬が尾をつながれている。銀の馬具が騒音をたて、 馬車を引く短い手綱が、馬のつやつやした首を残酷に曲げる。馬車に乗る女性は、 レースのついたきついコルセットのせいで、泡を吹く馬と同じぐらい激しく苦しんでいる。
グリーン夫人は、数十の借家人に不動産を貸していることを証明する証券の束 を、シスコ銀行の大金庫に置いているにもかかわらず、馬車を持っていなかった。
証券取引所の取引終了の鐘が鳴った後、ウォール街に群がった仲買人は、 グリーン夫人が最も優れた投資家だとうわさした。
二人の取引員が、ウォール街の 建物の前面の大理石の壁にもたれて、うわさ話をした。取引所での売りと買いの 衝突ですり減ってしまった靴を人に磨かせている間、彼らはグリーン夫人の名を挙げた。
ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株とエリー株の不可解な上昇と下落は、 しばしば間違ってこの女性投資家の謎めいた力のせいにされた。グリーン夫人は、 まだ多くの人に知られていなかった。
弁護士ジョセフ・チョエイトは、時々、グリーン夫人のケチ、貪欲、 悪賢さについての面白い小話を語った。
ニューベッドフォード の鯨漁船団からお金が来たと彼は言った。
チョエイトは、グリーン夫人が 初めて社交界に出たときからずっと知っていると言った。
2代目シスコはもちろん、 グリーン夫人を知っていたが、グリーン夫人のことを話題にしたとき、 それほど注意を払わず、グリーン夫人の奇行をほのめかされても取りあわなかった。
しかし、ウォール街の取引員のほとんどは、グリーン夫人の夫を知っていた。 彼はワインを嗜む大男だ。グリーンの体重は約250ポンド(112kg)。 身長は群を抜いて高い。彼は、ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道 の社長を1期3ヶ月つとめたことがあった。その前に、ルイスヴィル・アンド・ ナッシュヴィル鉄道の副社長だったこともあった。グリーンは東洋で20年 近く貿易業に携り、1865年にアメリカに帰ったとき、百万長者として 知られていた。すでにグリーンの妻は、多くのうわさ話の種になっていた。 ある者は彼女をウォール街の女王と呼んだ。その称号をめぐって彼女と 争えるほど、ウォール街で十分な結果を残した女性はいなかった。そしてこれが グリーン夫人に関する伝説の一部になった。
1885年の初めの経済見通しは、前年ほど悲観的ではなかった、景気対策 が行われないことに人々が失望したことを除けば。大統領選挙に当選したグロバー・ クリーブランドは、1885年1月7日までニューヨーク州知事を辞職 しなかった。悲惨な年―1884年の後、経済不況は社会不安の原因となり、 その社会不安は、大統領選挙でクリーブランドの勝利をもたらした。 ニューイングランドの町は、まだ、工場労働者の賃金の10%削減を 郵便で発表していた。ホッキングバレー(鉄道会社)は、炭鉱労働者の ストライキを恐れていた。小麦価格は、数ヶ月の間、生産者をがっかり させるような水準だった。ストライキと賃金切り下げの情報が、ニューヨーク から、アメリカの多くの地域に電信で伝えられた。鉄道会社は少ししか 収入を得られなかった。ピッツバーグから、アメリカ最大の製鉄会社が、 債務不履行に陥ったとの情報が届いた。オリヴァーブラザーズ・アンド・ フィリップスは、労働者の賃金を1日あたり98セントにして操業しようと 試みた後、債務不履行に陥った。同時に、オリヴァーブラザーズ・アンド・ フィリップスの子会社のオリヴァー・アンド・ロバーツ針金会社は、 工場を閉鎖した。

題名省略
https://daimeisyouryaku.web.fc2.com/sgt164.html
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/4449/sgt164.html
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/4449/sgt114.html
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/4449/index2.html








第1章ヘティ・グリーン、ウォール街に来る
1885年1月、ウォール街59番地にジョン・J・シスコ・アンド・ サン銀行があり、人々から尊敬を受けていた。ジョン・J・シスコは、 南北戦争の間、政府の財政を助け、国債を ウォール街に売り込んだ。その後、ジョン・J・シスコは死んで、彼の息子と、1人のパートナーが 銀行を経営していた。
当時、預金業がゆっくりと発展していたが、大部分の金融機関は、証券を保管する空間を顧客 に提供する必要があった。ジョン・J・シスコ・アンド・ サンの預金者の中には、金持ちが何人かいたが、エドワード・H・グリーン夫妻はずば抜けて 金持ちだった。
エドワード・H・グリーンの妻の有価証券は特に多く、証券の束は 大きな金庫の棚を、 いくつも埋め尽くした。彼女の父、エドワード・マット・ロビンソンは 南北戦争の間、ジョン・J・シスコ・アンド・サン銀行の得意先であり続け、 500万ドルを超える有価証券を銀行の金庫に貯め込んだ。 ロビンソンが死んでからの20年間、彼の娘は、銀行に証券 を預け続けた。その証券は、鋼鉄の部屋をぎゅうぎゅう詰めにし、少なくとも 父が所有していた証券の5倍のスペースを占めた。
事務員と客を分けるガラスの仕切りが、建物の端から端まで及んでいる。 その仕切り越しに、会社の金庫が見える。金庫は、普通の部屋のように大きく、 長方形のドアを持つ。そのドアは夜に閉められる。ドアには、白鳥が 池にいる風景が半分ずつ描かれ、ドアを閉めると1つの風景画になる。 ドアの開き目が、いつも絵に境界線を作った。それは、その芸術作品の 欠点の中の1つだ。しかし、そんなことは重要ではない。ドアの後ろに 置かれているものの方が重要だ。
暗い宝箱の中に、多くの貴重な紙があった。シカゴの不動産ローンの 証書、ニューヨークの6階建ての建物と8階建ての建物の権利書、国債、 工場、倉庫、鉄道の所有権の証書、借金の証書があった。未亡人が 住んでいるような5番街の不動産信託が入ったマニラ紙の重い封筒に寄り添い 、より豊かな醸造業者が住んでいるような3番街の不動産信託の束がある。 そのすぐそばには、紙幣、金貨、原料の状態の銀がある。
証券の利子は、街に住む多くの家族への支払いに充てられる。その街の大通りのそばに、 つりあいのとれた一組の馬が尾をつながれている。銀の馬具が騒音をたて、 馬車を引く短い手綱が、馬のつやつやした首を残酷に曲げる。馬車に乗る女性は、 レースのついたきついコルセットのせいで、泡を吹く馬と同じぐらい激しく苦しんでいる。 グリーン夫人は、数十の借家人に不動産を貸していることを証明する証券の束 を、シスコ銀行の大金庫に置いているにもかかわらず、馬車を持っていなかった。
証券取引所の取引終了の鐘が鳴った後、ウォール街に群がった仲買人は、 グリーン夫人が最も優れた投資家だとうわさした。二人の取引員が、ウォール街の 建物の前面の大理石の壁にもたれて、うわさ話をした。取引所での売りと買いの 衝突ですり減ってしまった靴を人に磨かせている間、彼らはグリーン夫人の名を挙げた。 ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株とエリー株の不可解な上昇と下落は、 しばしば間違ってこの女性投資家の謎めいた力のせいにされた。グリーン夫人は、 まだ多くの人に知られていなかった。
弁護士ジョセフ・チョエイトは、時々、グリーン夫人のケチ、貪欲、 悪賢さについての面白い小話を語った。ニューベッドフォード の鯨漁船団からお金が来たと彼は言った。チョエイトは、グリーン夫人が 初めて社交界に出たときからずっと知っていると言った。2代目シスコはもちろん、 グリーン夫人を知っていたが、グリーン夫人のことを話題にしたとき、 それほど注意を払わず、グリーン夫人の奇行をほのめかされても取りあわなかった。
しかし、ウォール街の取引員のほとんどは、グリーン夫人の夫を知っていた。 彼はワインを嗜む大男だ。グリーンの体重は約250ポンド(112kg)。 身長は群を抜いて高い。彼は、ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道 の社長を1期3ヶ月つとめたことがあった。その前に、ルイスヴィル・アンド・ ナッシュヴィル鉄道の副社長だったこともあった。グリーンは東洋で20年 近く貿易業に携り、1865年にアメリカに帰ったとき、百万長者として 知られていた。すでにグリーンの妻は、多くのうわさ話の種になっていた。 ある者は彼女をウォール街の女王と呼んだ。その称号をめぐって彼女と 争えるほど、ウォール街で十分な結果を残した女性はいなかった。そしてこれが グリーン夫人に関する伝説の一部になった。
1885年の初めの経済見通しは、前年ほど悲観的ではなかった、景気対策 が行われないことに人々が失望したことを除けば。大統領選挙に当選したグロバー・ クリーブランドは、1885年1月7日までニューヨーク州知事を辞職 しなかった。悲惨な年―1884年の後、経済不況は社会不安の原因となり、 その社会不安は、大統領選挙でクリーブランドの勝利をもたらした。 ニューイングランドの町は、まだ、工場労働者の賃金の10%削減を 郵便で発表していた。ホッキングバレー(鉄道会社)は、炭鉱労働者の ストライキを恐れていた。小麦価格は、数ヶ月の間、生産者をがっかり させるような水準だった。ストライキと賃金切り下げの情報が、ニューヨーク から、アメリカの多くの地域に電信で伝えられた。鉄道会社は少ししか 収入を得られなかった。ピッツバーグから、アメリカ最大の製鉄会社が、 債務不履行に陥ったとの情報が届いた。オリヴァーブラザーズ・アンド・ フィリップスは、労働者の賃金を1日あたり98セントにして操業しようと 試みた後、債務不履行に陥った。同時に、オリヴァーブラザーズ・アンド・ フィリップスの子会社のオリヴァー・アンド・ロバーツ針金会社は、 工場を閉鎖した。
ウォール街の取引員は神経質だった。恐慌が再び起こる条件が整っていた。 そして、そのとき、老舗の銀行であるジョン・J・シスコ・アンド・サンは 債権者に利益を譲渡した。
この行動は、ウォール街の営業日の終わりと同時になるよう注意深く時間設定 されていた。20分後、3人のジョン・J・シスコ・アンド・サンの事務員が、 郡の役所に姿を現し、譲渡の証書を提出した。証書によると、譲渡された 相手の名は、ルイス・メイだった。彼は、ニューヨークの有力なユダヤ人の うちの一人だった。
。。。

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第24章ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株買占め
ニューヨーク証券取引所の古い建物の構造は、まるで、才能ある菓子職人が贅を尽くして作ったかのようだ。
外部装飾の汚れは、1865年の竣工から、1901年に現存の建物の用地の一部にするために取り壊すまで積み重なった。
しかし、そこで起こった出来事についての伝説の方が、建物についたスス汚れよりも黒かった。
この古い建物は、ブロード・ストリートとウォール街の角にはなかったが、L字型だった。
ニュー・ストリート4番地、ブロード・ストリート10・12番地、又は第三の地番で呼ばれたが、いずれも間違いではなかった。
この場所の向かい側は、政治屋、労働組合活動家、牧師など国中の扇動家に好まれた。
なぜなら、彼らは、聴衆の煮え立った感情に火をつけるには、この場所が適していることに気付いたからだ。
ウォール街13番地には、いつも演説する人がいた。
そこで活動する多くの投機家は、実際のところ、13という数字の呪いに取りつかれているようだった。
しかし、もっと不運なのは、ウォール街13番地と電線でつながった厄介な自動電信機が、人間の理解の枠組みをはるかに超えた悲惨な情報をもたらすことだ。コネチカットの工場主、テキサスの鉄道会社の株主たち、コロラドの金鉱の労働者たちは皆、合理的に説明し難い、非難されるべき一日の激しい値動きで犠牲になっただろう。これは、農業者が温度計を見て早霜を非難するように無意味なことだ。しかし、自動電信機が時々、カチカチと音を立てて、陰謀家たちの経済的不正を記録していたことは否定できない。取引規則の量が増え、表面上の厳しさが増したが、新しい規則はどれも、投機家の陰謀を抑え、取引を本当の経済状況に対応させることを意図したものだった。取引所が新しい規則を公布すると同時に、抜け目のない人が、少数の者が得をして、多数が損するような方法を考案した。それでも、取引所会員組織の中で、株の買占めが非難されるべきと信じた者はわずかだった。もし、証券取引所で売ることができる量を上回る株を買うほど機敏な投機家がいたなら、売り方を打ち負かすことができただろう。このような状況に対応する法のすべては、しばしば語られる1つの句に要約された。
「空売り屋買い戻さねば 牢屋行き」
ヘティ・グリーンのお金が、ウォール街の金融機関に流れたとき、しばしば、ヘティが何らかの株を売買しているとのうわさが流れた。フィラデルフィア・アンド・リーディングはヘティのお気に入りの株の一つだと言われていた。しかし、このような時、ヘティは表に出ようとしなかったので、誰も確かなことは知らなかった。ヘティは、株式市場の混乱を招いたとして何度も非難された。ヘティとは何の関わりもなかった時でさえもだ。ジェイ・グールドその他数人は、ドレイク・ブラザーズがグリーン夫人の仲買人だと思っていた。従って、ドレイク・ブラザーズの場立ちが、何らかの鉄道株を大量に買ったとき、一般にその注文は、ヘティ・グリーンの口座でなされたと報告された。
アディソン・カマックという名の南部人は、株式市場の一貫した売り方だった。
彼は南北戦争後にニューヨークに現れたおびただしい数の同類のうちの一人だった。
アトランタのジョン・インマンのような多くの元南軍兵士たちが、綿花の知識を使って商売を始めた。
しかし、彼らのほとんどは失敗し、綿花関係の仕事から離れていった。
大多数の者が南軍と共に崩壊していった一方で、ごくわずかの者がなんとか財産を増やすことができた。ケンタッキー生まれのアディソン・カマックは、南北戦争後に南部を離れた裕福な移住者のうちの一人だった。ウォール街のうわさで彼の経歴を知ることができる。カマックは、南北戦争中に投機的な事業で100万ドルを稼いだと言われている。ハバナの司令部で北軍の海上封鎖をかいくぐっていた、あるいは、1863年に自身はロンドンにいて、封鎖破り船団に出資していたとも言われているが、カマックはウォール街で歓迎された。行儀のいい億万長者はどこでも歓迎されたのだ。カマックは、1876年に証券取引所の会員権を買い、1897年まで持ち続けた。
ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道の幹部は、会社の利益が過去数年間の平均に比べ減少したことをカマックに打ち明けた。
カマックは、ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道が配当を減らそうとしていることに気付いた。
蹄鉄のような髭を生やし、刺しゅうのある亜麻の服を着たカマックは、ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株を大量に空売りした。
カマックが仕掛けた売りの圧力で、ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株は30ポイント下落した。
ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株はたやすく下がるので、株価が底値に達したとき、カマックは当初の2倍の額の空売りをしていた。
そのため、さらなる値下がりを予測しているカマックの含み益は数百万ドルに達したように思われた。
後日、カマックは語った。
「全て俺の言った通りになった。公報は全て悲観的だった。取締役会は配当を取りやめた。これを喜ばずにいられようか。」
「その時、その時だ。ちくしょう!俺は、もう借りる株がどこにもないことに気付いた。
俺は屠殺場の中にいたんだ。俺はどのみち、俺自身の血しぶきを見ることになった。」
カマックはこの冒険の詳細を金融街の記者、ハリー・アロウェイに打ち明けた。
取り乱したカマックは、翌日の株式市場が開く前に、手練の仲買人アル・コームズをグリーン夫人のもとに差し向け、空売りを決済するのに必要な数の株を貸してくれないか、または売ってくれないか頼ませた。コームズはケミカル・ナショナル銀行に行き、戻ってから報告した、グリーン夫人は、今日は忙し過ぎて商売の話ができないと言い張ったと。ヘティは、コームズに翌朝、会うことを約束した。そして、翌朝、コームズは、次のような皮肉を聞かされた。
「前に、カマックさんは、ルイスヴィルは持っているのが恥ずかしいような株だと言ってなかったかしら。」
コームズはもう一つ伝言を持ち帰った。その内容は「明日の早朝、カマック自身がヘティの家に来るように」だった。カマックは約束の時間に遅れまいとするあまり、夜も寝なかった。ヘティ・グリーンの鋭い視線の下、カマックは花嫁のように神経質になった。
ヘティは切り出した
「そういえば、私はルイスヴィル株を持っている。必要なら譲ってもいい。
この紙に、4万株の高値と底値の差額を計算して書いている。
お急ぎなら、1株あたり10ドル上乗せしていただけるとありがたい。いかがかな、カマックさん。」
カマックは多くを語らなかった。
カマックは、ヘティにちょうど40万ドルの利益をもたらす小切手を手渡した。
カマックは少なくとも100万ドルを失うとみられていたため、この事件の後、カマックの前でヘティ・グリーンのことを冷酷だと言う者はいなかった。ヘティは、ルイスヴィル株を買い占めた。したがって、ヘティが望むなら、カマックを身ぐるみ剥いでしまうことができた。もしも、カマックがコリス・P・ハンティントンだったなら、話は違っていただろう。ハンティントンはヘティの敵だった。
ヘティは、アディソン・カマックに情けをかけたことが、ウォール街での彼女の性格に関する評判からかけ離れていたことをよく知っていた。
ある時、ヘティは、ケミカル・ナショナル銀行の事務室で訪問者を応対して語った。
。。。
グリーン夫人に関するスティルウェルの小話は、ベロウズフォールズの歴史家ヘイズによって注意深く記録された。
ヘティがよくホテルの一室で自分の服を洗い、洗濯物の束を窓の外に投げた後、1階に降りて、ホテルの窓ガラスに洗濯物を広げて乾かしていたことについて、スティルウェルは事実だと保証した。しかし、ヘティに洗濯係として雇われた女性が流行らせた次の小話のほうがずっと公平だ。グリーン夫人が、洗濯係の賃金を彼女が仕事をやめる準備をするまで値切ったというものだ。グリーン夫人は最後の譲歩として、ペチコートの全部を洗う必要はなく、床や道に触れて汚れる裾の部分だけでよいと断言した。
ヘイズ氏の記録によると、スティルウェルがよく語っていた別の小話がある。それはヘティが、夜遅く馬預かり所に行った時のことだ。ヘティは非常に興奮し、スティルウェルに馬を手配させ、郵便切手を落としたと思われる所に戻った。ヘティが探していたのは、2セントの切手だった。切手は見つからず、グリーン夫人は鬱々として家に帰った。数時間後、ヘティは馬預かり所のドアをたたいて、スティルウェルを起こし、翌朝の捜索の指示を取り消した。ヘティは幸せそうに微笑んでいた。なぜなら、着替えの時、服の中から切手を見つけたからだ。
スティルウェルは、村で評判の有名人だ。
スティルウェルは自分自身のことを才能ある話し手だと思っていた。そして、スティルウェルは聞き手の興味を引くため、ヘティに関する話を脚色した可能性がある。確かにスティルウェルは、雇い主のヘティのために多くの仕事をした。ヘティが都会に行った時の馬の世話、ヘティの飼い犬の世話、そして、その他ヘティが留守の自宅に放置しておけない所有物の管理をした。
以前、ヘティがニューヨークに行った時、デービッドの馬小屋使用料をぐんと値切った。
ヘティが不在の間にベロウズフォールズでエピゾーティックと呼ばれる謎めいた馬の疫病が流行した。スティルウェルは馬の治療のため88セントを使い、グリーン夫人が戻った時、治療行為のおかげで老馬デービッドの命が助かったと説明した。しかし、ヘティは請求の支払いをしようとしなかった。ヘティは、デービッドがやせたのは、スティルウェルがエサを十分やらなかったからだと言った。
ある年の春、スティルウェルは、ヘティが飼っていたニューファンドランド犬の世話を放棄したためヘティとけんかになった。ヘティは旅行で村を立つ前、ジュノーという名の犬を注意深く世話するようスティルウェルに言い含めた。村のお節介屋が、スティルウェルが犬の世話を怠けているとの手紙をヘティに送った。それはジュノーではなく、村の雑種犬のことだった。
ヘティは、スティルウェルに悪意のある手紙を送り、ジュノーをニューヨークにいるヘティの許へ送り届けるよう指令した。 ジュノーは4匹の子犬を産み、それぞれが25ドルで売れた。そしてヘティが態度をやわらげたとき、スティルウェルはジュノーをヘティの許に送り届けた。スティルウェルは、ヘティが、子犬を産ませるために素晴らしい血統の犬を仕入れ、犬の相場が上がった時にジュノーも売却したとの印象を受けた。
ヘティの子供たちが人格形成期を過ごした村、ベロウズフォールズの人々が、ヘティについて覚えている事柄はこういったものだ。 にもかかわらず、ヘティは村人から好かれていた。ヘティが村を出るたび、村人たちはヘティがウォール街とかいう場所に行っていると思い込んだ。ヘティが戻ってくるたび、村人たちは、当然のようにヘティがさらに金持ちになったと思い込んだ。しかし村人たちは、ヘティの富または権力の大きさについて正当に評価していなかった。40万ドル以上のお金をアディソン・カマックからもぎ取る冒険を終えて家に帰った後、ヘティは、スティルウェルに小言を言うようになった。それは、スティルウェルが長い馬屋の列の外に馬糞を熊手で投げ捨てることに対して、デービッドの売値が下がるとの内容だった。村人たちは、ヘティは変わった人だと思った。
ヘティは、村のある貯蔵庫に途方もない数の宝石を蓄えた。
ベロウズフォールズに蓄えられた宝石については、あらゆる種類の伝説がささやかれた。
その量は1ブッシェルのかごを満たすといわれた。
快晴の日の海のように青いサファイア、
望遠鏡で見た星々のように輝くダイヤモンド、
鯨の鮮血よりも赤いルビー、
バーモント州の村々と世界を隔てる急勾配の草深い丘のように緑のエメラルド
があった。真珠もあった。
ヘティは、後年ロッキングハムの判事になったT・E・オブライエンに宝石を全部見せた。
オブライエンはヘティがどこで宝石を手に入れたのか知りたがった。
「いくつかは相続で、多くのものは取引で」とヘティは説明した。
盗難防止のため宝石の隠し場所の鍵穴をパテで埋め、その上に封印紙を貼るのがヘティの習慣だったとオブライエン氏は言った。

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第26章ヘティ、テキサスの鉄道を買う
グリーン夫人は、かつて祖父や父が船を海に送り出したのと同じ気持ちで息子を事業に送り出した。
ヘティは、息子を信頼できると感じられるようになって初めて息子に鉄道事業家になる道を歩ませた。
ヘティが知るところでは、グールドは7年で鉄道事業界での地位を築き上げた。
ヘティの支持のもと、息子はどこまでも遠くに行けそうだった。
全ての母親は息子に幻想を抱くが、ヘティは息子が巨大な富を手に入れると約束されていると思った。
グールドは鉄道業で財産を増やした。
ウィリアム・ヴァンダービルトは同じ分野でより多くの財産を築いた。
総延長6486マイルのサザン・パシフィック鉄道は、1892年の1年間で、4900万ドルの利益を上げた。
ヘティは、ペンシルヴァニア鉄道によって運ばれる無煙炭と瀝青炭の利益も知っていた。
ヘティは、シカゴのミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道沿線の小麦と材木の産地が鉄道の所有者に利益をもたらしていることを、完全に理解していた。グリーン夫人は、鉄道会社を所有・経営する機会を徹底的に活用した。
ヘティは、ネッドのためにオハイオ・アンド・ミシシッピ鉄道の機会を見つけた。その鉄道は単線で、ケンタッキー州シンシナティとルイスヴィルから東セントルイスまで、そして、イリノイ州ベアーズタウンからイリノイ州ショーニータウンに伸びていた。1887年、ヘティは、発行済株式20万株のうちの2200株と7万6千ドル相当の社債を持っていた。2つの集団が鉄道の支配権をめぐって争っていた。ボルチモア・アンド・オハイオ・サウスウェスタン鉄道は、オハイオ・アンド・ミシシッピ鉄道を必要としていた。東部の金融界で「沈黙スミス」として知られるジェイムズ・H・スミスは、その意図に気付いていたが、ボルチモア・アンド・オハイオ・サウスウェスタン鉄道が、もっと高い代価を支払わざるを得ないようになるまで売り渋ろうと思った。グリーン夫人は、スミスを代表とする株主の集団に味方した。
争いの決着は、シンシナティで開かれた1891年の年次株主総会に持ち込まれた。3人の取締役が選ばれることになっていた。ある候補者の集団は、ボルチモア・アンド・オハイオ・サウスウェスタン鉄道との連結を望む関係者を代表していた。別の集団は、連結に反対する株主の代表だった。連結反対派の候補者は、沈黙スミス、セントルイスのエドワード・ウィテカー、ヘティの息子グリーン氏だったが敗北した。しかし、彼らは争いを最高裁判所に持ち込むことを決めた。J・F・バーナード社長は、ボルチモア・アンド・オハイオ・サウスウェスタン鉄道との合併から、自身の仕事を守ることにグリーン夫人が協力してくれることを期待し、ネッドに取締役優待乗車証を送った。
現在、ある東部の鉄道会社の副社長を務めている紳士が、当時、バーナード社長の秘書だった。彼は、ある日、帽子のつばと顔がススで汚れた、片足が不自由で背の高い若い男がシンシナティの事務所に来たことを覚えている。それは、グリーン夫人の息子で、彼の取締役優待乗車証は、ちょうどイリノイ州ベアーズタウンからシンシナティへの旅で欄が埋められていた。ネッドは全区間通して貨物列車の乗務員車に乗った。
それ以来、ネッド・グリーンは時々、シンシナティの事務所に顔を見せるようになった。ネッドは専務取締役を自称した。1893年、グリーン夫人とその同盟者たちはボルティモア・アンド・オハイオ株を全部売った。
しかし、その時までに、ネッドはシカゴ・テキサス間の旅行に多くの時間を費やしていた。成功の見込みが薄く、長年、ヘティの悩みの種となった事業案件が、ネッドのために作り出されようとしていた。もし、誰かが、アメリカ国内の町と町をでたらめに結ぶ無数の短い路線をまとめて大陸横断鉄道を作ろうとすれば、どこを起点にするかが重要になる。そして、テキサスは、他のどのような場所よりも起点にふさわしかった。たった1年前に、グールドとハンティントンは、互いにテキサスに手を出さない一種の休戦状態に入った。それはあたかも、中国の群雄が州の支配をめぐって争うかのようだった。ネッドの機会の一つは、ヒューストン・アンド・テキサス・セントラル鉄道の支線だった。コリス・P・ハンティントンもそれを必要としていた。
1892年12月のある日、テキサス州ワコのマクレノン郡裁判所の階段は人ごみであふれていた。最上段には、合衆国巡回裁判所の事務員、クリストファー・ダートが立っていた。彼は、ワコその他のテキサス州の自治体に重大な結果をもたらす鉄道資産競売の委員長だった。しかし、その大群衆の中に買値を提示した者は4人しかいなかった。供託金2万5千ドルを預けることができない者は買値を提示できなかった。
4人のうち2人は早くも沈黙した。残りの2人は競りを続けた。競りを続けている者のうちの1人はジュリアス・クラットシュニットで、当時、コリス・P・ハンティントンの助手だった。クラットシュニットは後日、ハリマンの補佐役になる。この時、クラットシュニット氏はヘティ・グリーンの息子の競争相手だった。結局、ネッドは、クラットシュニットが付けることを許された値よりも高い買値を提示し、鉄道資産は、137万5千ドルでグリーン夫人の代理人ネッドが落札した。ヘティが買ったものは、ワコ・アンド・ノースウェスタン鉄道として知られるヒューストン・アンド・テキサスセントラル鉄道の58マイルの区間だった。それは、ブレモンドからロスまで走り、27万7230エーカーの土地(鉄道建設を奨励するための補助金の一部)とテキサス州の北の境界であるレッド川まで鉄道を建設する特許権が付属していた。
ハンティントンは、自分の代理人がその支線を落札できないとは全く思っていなかった。加えて、ハンティントン本人はカリフォルニアに行っていた。クラットシュニットは自ら競売に出席せず、弁護士を代理人として競売に行かせていた。にもかかわらず、グリーン夫人の息子が、ハンティントンが代理人に許した金額のはるか上まで買値をつり上げ始めた時、ハンティントンの代理人たちは、ハンティントンに電報を送ろうとしたが、無駄に終わった。その日はグリーン親子の勝利だった。しかし、それは、ただの前哨戦に過ぎなかった。コリス・P・ハンティントンは敗北の味を極端に嫌った。
グリーン夫人が新たな鉄道区間を買うまでに2ヶ月もかからなかった。ヘティには疑いなく、以前の投資を守ること以上の深い動機があった。それは息子のためだった。新たに買収したのは、テキサス・セントラル鉄道の北東支線でギャレットとロバーツという52マイル離れた2つの自治体を結んでいた。ギャロットとロバーツは、鉄道が操業を開始した1882年には、町というよりむしろ村と呼ばれていた。
テキサス・セントラル鉄道には75万ドルの債務があったが、ヘティは、買収するにあたって75万ドルも支払わなかった。
その時、鉄道は極度の財政難に陥り、裁判所の命令によって競売にかけられた。
債券保有者を代表する委員会が買値を提示した。この買付委託者の団体として組織された委員会は、グリーン夫人を除く全員が会社の清算を強く望んでいることに気付いた。売却価格に対するヘティの取り分は11万3537ドル50セントになるはずだった。グリーン夫人は、その取り分を受け取るよりも、北東支線と呼ばれる鉄道区間およびその付属地からなる資産を買う方がいいと言った。ヘティは時価11万3537ドル50セント相当の債券と現金7万5千ドルを代価として支線の資産を手に入れるつもりだった。ヘティの提案は受け入れられた。
その後まもなく、グリーン夫人の鉄道会社は合併してテキサス・ミッドランド鉄道となった。
それは、1892年12月のことだった。
ヘティは何人かの取締役を指名した。彼らには見識がなく、会社にとって必要なのは若者だと考えた。結局、取締役会でエドワード・ヘンリー・ロビンソン・グリーン氏(ネッド)が社長に選ばれた。彼は27歳だった。ネッドの後ろのどこかで、ヘティは新聞記者から取材を受け、取締役が息子の能力を認めたことについて喜びを表現していた。
テキサス州テレルは、1928年までに人口1万人に達し、主な収入源は周囲の綿花畑だ。
しかし、グリーン若社長が母親の52マイルの鉄道会社の事務所に落ち着いた時、テレルの人口はごくわずかで、新参者は住民と知り合うことなく、2日と持たずに去っていくだろうと思われた。
町の女性たちは、その若者が大学卒業後12年間独身でいる誓約を交わしていることを知らなかった。その結果、ネッドは彼女たちの人気者になった。町の男たちは、ネッドが鉄道を拡張しようとしていたことを知っていた。その結果、ネッドは彼らの人気者になった。ネッドはつばが自分の肩幅ぐらい広いテキサス帽をかぶった。暑いときは(だいたい暑いのだが)コートなしで行動し、町の一員であることを示した。ネッドは郵便切手と珍しい硬貨を収集した。日曜日には教会の奉仕活動に参加した。ネッドは疑いなく、遠く離れた人口の少ないこの地で、他のどの新住民よりも歓迎された。人の話を聞いたとき、ネッドの巨体は深い笑い声でふるえた。
明らかに、ネッド・グリーン氏はテキサス州テレルの住人に好かれた。ネッドはうわさ話の種となり、その驚異的な人気は町の自慢になった。全米一金持ちの女性の息子!大げさな住民は、ヘティは世界一金持ちの女性だと旅人に自慢した。他のテキサスの町々は嫉妬に狂った。
グリーン社長の鉄道拡張計画は野心的だったが、実現する見込みはなかった。当時、彼はエニスからグリーンヴィルまでの73マイルの鉄道を持っていた。その列車は、綿花地帯の線路を14マイル走り、そして、パリスからコマースまでの37マイルの新しい線路を走った。世界大戦中にグリーン氏は綿花地帯に平行に走る路線を敷設して2つの路線をつなげたため、結局、グリーン氏は125マイルの鉄道に加えて、引込み線と操車場を含む148マイルの鉄道を所有することになった。
テレルの人々と線路沿いの町に住む人々は、当初、大きな成長を期待した。
1897年にオクラホマ準州のガスリーから、重要な鉄道建設計画が進行中との至急電が届いた。
ニューヨークのヘティ・グリーン夫人は、オクラホマ州に通じる鉄道を建設すると述べている。提案された路線はロックアイランドのメドフォードからテキサス州シャーマンに伸び、そこでE.R.グリーン(ネッド)の路線につながる。この路線は、カンザス州ハッチンソンからオクラホマ州ハッチソンとガルベストンにつながり、湾岸への交通の便となる。その路線は、1898年に建設されると言われている。
それは、決して実現しなかった、少なくともグリーン夫人のお金によっては。
ヘティはネッドに最高のエンジン、最も重いレール、その他の良い設備を買うことを許可したが、ネッドが鉄道事業家として路線を拡大することは、あまり奨励していなかった。これは、ヒューストン・アンド・テキサス鉄道の区間を裁判所の手続きで買った時、コリス・P・ハンティントンと争った経験によるのだろう。
この路線は、元々ガルベストン・アンド・テキサス・セントラル鉄道として知られていた。
それは、テキサス州で最初の鉄道企業の一つであり、州の中心部をデニソンまで直進した。その蒸気機関は、南北戦争以前は長年、メスキート木を燃料にしていた。1880年代初めには、利益とスポーツのために貨物列車の一つを襲撃して壊滅させることを考える人もいた。彼らは時刻表に関して十分に知らされておらず、彼らが線路上に置いた障害物に旅客列車が衝突した。死傷者は多数にのぼり、裁判所は損害賠償のためその鉄道会社を管財人の管理下に置いた。
列車が壊れたことが、鉄道会社が債務不履行に陥った真の原因だった。
そして、その結果、ニューヨークのジョン・J・シスコ・アンド・サン銀行で、あの悲惨な事件が起こった。グリーン夫人がウォール街に出向き、夫を追放した。時は流れ、列車を取り巻く状況が魅力的になった今でも、食べ物その他の物を狙って列車を前へ後ろへと追跡する解体業者がいるのは面白い。
グリーン夫人は、全部ハンティントンのせいだと何度も何度も言ったが、彼に対し列車事故の責任を問うことは難しい。他の事故に対してどんなに責任を問えたとしてもだ。再編委員会は、1885年以降、ニューヨークでヒューストン・アンド・テキサス・セントラル鉄道を建て直し不動産賃貸料を支払えるようにするため奮闘した。農業金融信託会社は一番抵当に対し貸し付けしてきたが、資金調達のため債券保有者を募集するようになった。その債券は不動産担保を裏づけとして発行された。農業金融信託会社はヘティ・グリーン夫人に宛てられた古い封筒を受け取った。ヘティの名前の上には「25万ドル」と鉛筆で書かれていた。職員はそれを見ただけでグリーン夫人が額面1000ドルの債券を250通、所有していることがわかった。一日ほどたってから、ヘティは農業金融信託会社の利子を独立して扱うことを提案したと債券保有者委員会に通知した。
1892年3月にワコの裁判所は54マイルの鉄道区間を競売にかけ、12月にネッドはハンティントンの代理人クラットシュニットより高い値を付け落札した。
この時からハンティントンは戦いを始めた。ハンティントンはその鉄道区間を手に入れたがっていた。グリーン夫人は単にハンティントンの進路に足を踏み入れただけだった。ハンティントンの最初の行動は、合衆国巡回裁判所への請願の提起だった。それは鉄道の管財人(ハンティントンの速記者の一人)が鉄道不動産について96313ドル87セントの抵当権を保有していたという内容であり、それらの抵当権は売却資産として記載されていなかった。
グリーン氏、というよりむしろテキサス・ミッドランド鉄道のグリーン社長は、入札した資産に抵当権は記載されていたと返答した。ネッドは、もし抵当権の記載がない場合は入札を撤回したいと言い、そうするために裁判所の許可を求めた。
ハンティントンはグリーンが撤退することは許されないと強く主張し、第二の訴訟を提起した。そこで、グリーン親子が入手した鉄道に対して(表向きは)様々な告訴人から訴訟の洪水が提出された。ワコの議会に国から会社に供与された州内の鉄道付属地を全部没収することを許可する法案が提出された。新しい所有者は、明らかに絶望的な訴訟の激流に巻き込まれた。それはヘティ・グリーンとその息子にはあまりにも大きかった。ハンティントンは事件を酷くもつれさせたので、新しい所有者は、掘り出し物に関する疑惑をはっきりさせることを望んだ。
ハンティントン氏はテキサス州に強い影響力を持っていると思われた。1893年3月14日、裁判所は売却を承認し、ネッドが買った資産には抵当権の記載がなかったと判決した。
ヘティ・グリーン夫人は、生涯でたった一度の不注意な買い物をしてしまったかに見えた。テキサスの鉄道は、1マイル当たり1万240エーカーの気前のよい土地供与に助けられ建設された。当時、土地は鉄道会社の資産のかなりの部分を占めていると思われた。グリーン氏は、支線と一緒に買った土地の権利はひどく混乱しているので、所有しているとは言い難いと報告した。謎の人物がわざと混乱させているように思われた。1人の相手どころではなく、テキサス州の2、3の郡の中に千人の敵がいるようだった。ネッドは助言を求めるため、母に電報を送った。
ネッドは契約した金額の支払いを渋ることにした。それは、多分、へティの指図だった。ヘティはネッドにお金を渡さなかったのだろう。とにかく、裁判記録によると、ハンティントンが裁判所に提出した書類はE・H・R・グリーンに軽蔑の念を抱かせた。しかし、ネッドは、安すぎる買値を提示したために発生した損害は全て負担するという条件で鉄道の売却を依頼した。
サザン・パシフィック鉄道を邪悪なタコと見なすカリフォルニアの人々は、ハンティントンと戦うグリーン夫人を英雄視した。グリーンとハンティントンの戦いの最中、グリーン夫人がケミカル・ナショナル銀行で玉ねぎをかじり気炎を上げていたある日、カリフォルニアから1個の小包が届いた。その中には、44口径の回転式連発拳銃と革袋が入っていた。それは、西海岸に住む熱心な支持者からの贈り物で、もしサンフランシスコに来ることがあれば盛大な歓迎を約束するとの手紙が添えてあった。その約束についてヘティは「もし、私がサンフランシスコに行ったら、1万人以上の人が駅に集まり、ハンティントンに対する勝利に向かって共に行進し、太平洋岸の人々に対する彼の極悪非道な仕打ちを罰しただろう。」と何度か語った。グリーン夫人がその強敵とあいまみえた日、手に取ろうとした拳銃は、その時贈られたものだっただろう。
期日到来によって、ひどく困難な状況にある息子を助ける気がグリーン夫人にあるかどうか確かめるため、ハンティントンは、ケミカル・ナショナル銀行に行った。グリーン夫人は友人のチャールズ・W・オグデン夫人に語った。彼女の夫は、ダラスの弁護士で、テキサスでのネッドの法律顧問だった。
。。。

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ヘティ・グリーンと1907年恐慌
1901年、J.Pモルガンは約2億5000万ドルでカーネギースチールを買収しUSスチールを設立した。
モルガンは、繊維産業などでも企業買収によって巨大企業を作っていった。
その中のいくつかでは、関係企業の株価がつり上げられた後、買収資金をまかなうための新株が発行された。
その結果、株式ブームが起こった。好景気はやがてバブル化した。
その間、ヘティが批判めいた発言をしても、古臭く退屈な考え方としか受け取られなかった。
1907年、ニッカーボッカー信託銀行の破綻をきっかけにして、恐慌が起こった。
好景気の時には気前よくお金を貸していた銀行が、不景気になると急に 貸し出しを渋るようになった。
ニューヨーク市は資金繰りに窮し、市の清掃部門にさえ給料を支払えなくなった。
そのときヘティが現れ、ニューヨーク市にお金を貸し付けたため、ニューヨーク市は急場をしのぐことができた。
さらにヘティは、ラカワナ鉄道が、いち早く燃料に無煙炭を使って乗客にすすが付かないようにした こと(参考)に注目して、
恐慌下にもかかわらずラカワナ鉄道への貸付を増やした。
話は前後するが、 1905年11月ヘティは、ニューヨークタイムズの記者に次のように語った。
「安値で誰も欲しがらないときに品物を買う、
そして、それが値上がりして、人々が買いたいと強く望むようになるまで、相当な数のダイヤモンドを持つように、持ち続ける。
これが、事業で成功する一般的な秘訣だ。」

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ヘティ・グリーン死後の話
現在、アメリカにはヘティ・グリーン系の財閥は残っていない。
ヘティ・グリーンの子孫も残っていない。
ヘティ・グリーンの死後、巨大な遺産はどうなったのだろうか。
ヘティの死後、遺産は息子のネッドと娘のシルビアに半分ずつ相続された。
ネッドは、ヘティの死後、無茶苦茶にお金を使った。
豪邸を建て、豪華客船を買った。
また、ネッドは新奇なものには何でも手を出した。
自動車、飛行機開発に熱中し、自分のラジオ局、テレビ局を作った。
そこまでは、一般人でも理解できるのだが、極めつけは、マサチューセッツ工科大学の教授を呼び寄せて粒子加速器(参考、ネッドが作らせたものはもっと小さかったと 思う。) を作らせたことだ。
自動車や飛行機やテレビ、ラジオは日常生活で使うかもしれないが、粒子加速器を日常生活で 使うことはない。
ネッドはよほどお金の使い道に困ったようだ。
それでもネッドは世界大恐慌の直前に鉄道会社を売却し、世界大恐慌直後に買い戻したりして儲けていたので、財産は減らなかった。
やがて、ネッドが子供なしで死んで、遺産は全てシルビアのものとなった。シルビアにも子供がなかった。
ネッドにもシルビアにも子供がいなかったのには原因がある。
ヘティはネッドの恋人が金遣いが荒いことを嫌った。
そのため、ヘティが死ぬまでネッドはその恋人と結婚できなかった。
一方、シルビアに求婚する 社交界の男性も多かったが、ヘティは
「そういう男は、金儲けをしたこともなければ、お金の価値も知らない。」
と言って認めなかった。
そして、シルビアは38歳で結婚した。
だから、ネッドにもシルビアにも 子供がいなかったのは偶然ではない。
シルビアの死後、遺産は遺言により140に分割され、大学、病院、図書館、シルビアの知人などに 分け与えられ社会に還元された。
2006.6.10
ヘティ・グリーンの死亡記事
アメリカの一部の教会関係者は、今だに日曜日の説教で信者に向かって、ヘティ・グリーンは不幸な人で、 苦しみながら死んだ、と中傷しているらしい。
しかし、余り信用できない。
『Hetty:The Genius And Madness of America's First Female Tycoon』
の記述では、 ヘティは普通に脳卒中で倒れて衰弱して、息子と娘に看取られて81歳で死んでいる。
1916年のことである。
僕の印象に残ったのは、
「ヘティは毎日、息子のネッドに会った。ネッドは、ちょうど数十年前 ヘティが父と祖父にしたように、その日の経済ニュースを詳しく話した。」
という記述だ。 普通の人なら、死ぬ前にお金を 使ってしまおうと考えると思うが、ヘティはそういう考えを超越してしまっている。
一種のさわやかさを感じる。生活を派手にすることと結びつかない金銭欲は、無欲に等しいのではないか。
ヘティ・グリーンの死亡記事に関しては
「もし、ヘティが男性だったなら・・・ 莫大な財産を増やすために身も心も費やしたとしても、 人は特にそれを変わっているとは思わないであろう。」
が有名だが、 他にも何種類かある。
「ほとんど全ての町、小さい町にさえ、ヘティ・グリーンに 似た女性がいる。
ヘティがお金を貯めこむために払った犠牲は平均的なものである。
ただ、他の女性が数千ドル貯めこんだのに対して、ヘティが数千万ドル貯めこんだことが違うだけだ。」
「たぶんへティは幸せだっただろう。 ヘティは勇気を持って自分の生き方を選び、好きなだけケチな生活をした。
彼女にとって正しく 役に立つと思えるような世の中の慣習に従い、その他の全てを冷たく、または穏やかに無視した。」
2006.5.13
ヘティ・グリーン対宗教
ヘティ・グリーンは政府や企業にお金を貸していたが、善意で多くの教会にお金を低利で貸していた。
あるとき、シカゴの第5長老教会は、借金を返せなくなってしまった。
その教会の牧師は、他の教会の牧師 にまで呼びかけて、信者に向かって、ヘティは情け容赦ない金貸しだと中傷させた。
さらに、その牧師は、 ヘティに手紙を出して、担保物件を売りさばくと、天国へ行けなくなると脅した。
(まったく、ひどい宗教もあったものだ。)
この手紙に対して、ヘティはこう返事した。「脅すつもりなら、新しい教会の礎石の 上で祈ったほうがいいですよ。担保物件は売りさばきますので。」また、多くの教会関係者がヘティを弁護する側に回ったらしい。
2006.3.18
ある日、ヘティは仕事上の用事で不動産会社に行った。
ある社員は、ヘティの質素な服装を見て、雑用の仕事を求めて来たに違いないと思った。
その社員は「お手伝いさんは雇わないよ。」 と言ってヘティを追い出そうとした。
仕方が無いので、ヘティは「私はヘティ・グリーン。あなたの会社が私から50万ドル借りたいと言うので、商談のために来た。」
と言った。お金を借りようとする相手を追い出そうとするのだから、失礼極まりない社員だ。
その後の記述は無いが、きっと社長が出てきて社員に怒りつつヘティに謝るという 具合になったのではないか。
2005.12.4
へティ・グリーン対コリス・ハンティントン
『バブルの歴史』にヘティ・グリーンが鉄道事業家のコリス・ハンティントンをピストルで脅したという 謎めいた記述がある。コリス・ハンティトンは、スタンフォード(スタンフォード大学設立で有名)とともに 大陸横断鉄道の建設に関わった超大物である。 この事件には次のような背景がある。 1892年、ヘティはアメリカ西部の小さな鉄道を競りで買収した。 ハンティントンもその鉄道を 狙っていたが、提示額が少なく買えなかった。ハンティントンは何としてもその鉄道 を手に入れようとしてヘティに嫌がらせをした。 ハンティントンは裁判所を操作してヘティが買収した鉄道には土地が付属していないということにしてしまった。 当時の鉄道会社には沿線の土地が政府から無償で与えられ、その土地を売って会社の利益にすることができた。 そのため、買収した鉄道に土地が付属していないことはヘティにとって大損だった。 嫌がらせはさらにエスカレートして、ハンティントンはヘティの事務所に押しかけ、 鉄道を手放さなければヘティの息子( へティの事務を代行するためアメリカ西部に 派遣されていた。) を警察に逮捕させると脅した(無茶苦茶だ)。その時、ヘティは机からピストルを取り出しハンティントンに 向けて
「Up to now ,Huntington,you have dealt with Hetty Green,the business woman.Now you are fighting Hetty Green,the mother.
Harm one hair of Ned's head and I'll put a bullet through your heart!」
と言ったとされる。
日本語に訳すと
「ハンティントン、あんたは今まで実業家としての私と取引してきたけど、今、あんたは母親としての私と戦っているんだよ。
ネッドの髪の毛一本でも傷つけたら、 あんたの心臓を撃ち抜くよ!」
といったところだろうか。ハンティントンは叫び声をあげて逃げ去ったらしい。
その後、ヘティは自分の買値より高い値段で鉄道をハンティントンに売却して利益を上げた。
2005.8.14
1886年初夏、ヘティ・グリーンは、ジョージア・セントラル鉄道の株を1株あたり70ドルで 6700株買った。近いうちに、ジョージア・セントラル鉄道株をめぐる買収合戦が起こるという情報を聞きつけたからだ。 ジョージア・セントラル鉄道は多数の鉄道路線の寄せ集めで、非効率経営が行われていた。 ニューヨークの投資家グループはジョージア・セントラル鉄道を買収して利益が出る会社に作り変えようと画策した。 ヘティ・グリーンがジョージア・セントラル鉄道株を買った後、買収合戦は過熱化した。 ニューヨークの投資家グループは、ジョージア・セントラル鉄道の経営者を、非効率で株主に報いていないと批判した。 これに対して、ジョージア州民は、ニューヨークの投資家グループは短期間の利益しか考えてないと批判した。 (現代日本に外資が入ってくるときの論争そっくりだ。)さらに、約20年前の南北戦争の 記憶が両陣営の対立をいっそう激しくした。「南北戦争研究室」によると、南北戦争時、 北軍は、ジョージア州で、 大都市から農村・田畑に至るまで進撃路の南部人資産をことごとく収奪・焼却したといわれる。 ジョージア・セントラル鉄道株の買収合戦が過熱化した結果、株価は1886年11月に100ドルまで上がった。
株主総会の時期が近づいたとき、ニューヨークの投資家グループは取締役選挙に勝つために、 ヘティ・グリーンが持っているジョージア・セントラル鉄道株を買い取ろうと考えた。 ニューヨークの投資家グループの一員で、取締役選挙に勝った場合、 ジョージア・セントラル鉄道の社長になる予定のE・P・アレクサンダーがヘティ・グリーンとの交渉にあたった。 アレクサンダーは、ヘティ・グリーンに1株あたり115ドルで ジョージア・セントラル鉄道株を買い取ると提案した。ヘティ・グリーンは1株あたり125ドルを要求した。 アレクサンダーは、1株あたり125ドルで買い取る現金が無いので、いったん断ったが、後に、取締役選挙で自分の陣営に投票してくれたら、 選挙に買っても負けても1株あたり125ドルで買い取ると妥協案を示した。 アレクサンダーにとっては信じられないぐらい寛大な妥協案だったらしい。 しかし、ヘティ・グリーンは、現金が手に入るまで時間がかかる料金として1株あたり5ドルを加算して1株あたり130ドルを要求した。 結局、1株あたり127.5ドルで合意に達した。 1887年1月株主総会が開かれ、アレクサンダーは選挙に勝った。 この取引でヘティ・グリーンは、 38万5200ドルの利益を手に入れた。
2005.6.19
2005.4.24の補足
「南北戦争研究室」の「南北戦争時の貨幣価値について」 に、 グリーンバックス(アメリカ紙幣)の値動きの資料がある。 グリーンバックスは1864年に底値をつけた後、 値上がりし続け、1879年に金との兌換が再開された(つまり、1ドル紙幣を銀行に持っていけば、 1ドルの金貨と交換できるようになった)。 『Hetty:The Genius And Madness Of America's First Female Tycoon』 によると、ヘティ・グリーンは、 南北戦争終結後、1865年から1867年にかけてグリーンバックスを買っているので、どの時点 で売ったとしても、かなりの利益を得たと思われる。
2005.6.5
ある日、ヘティが雑誌記者に、なぜケチな生活をするのか、と聞かれた。ヘティは 、自分の家は5世代にわたって金持ちなので、富を見せびらかして社会的地位を上げる必要がない、 と答えた。この発言のため、ヘティは当時のマスコミに、金持ちは金持ちでない人より偉いのか、と批判された。たぶん、 へティは、金持ちは金持ちでない人より偉いと言いたかったのではなく、 『バブルの歴史』に出てくるような、富を誇示するにわか金持ちと自分は違うと言いたかったのだと僕は思う。
2005.5.8
ヘティ・グリーンが、銀行で大量の預金を一度に引き出せと要求して、 銀行を潰したというエピソードがある。 また、ヘティの夫、エドワードが事業で破産したが、 ヘティは結婚の条件として、夫婦の財産を別管理にしていたので無事だったというエピソードがある。 実は、この二つのエピソードは関連していた。1884年、ヘティの取引先の銀行が鉄道投資に失敗して、 経営危機に陥った。それを知ったヘティは、銀行から預金を引き出そうとした。 しかし、エドワードはその銀行から大量の借金をしていた。 ちょうど、ヘティはその銀行の最大の預金者で、エドワードは最大の借り手だった。 銀行側はヘティにエドワードの借金を払うよう頼んだが、ヘティは聞き入れず、 銀行から預金を全て引き出した。こうして銀行は潰れ、エドワードは破産した。 何の落ち度もないのに、ヘティはこの事件でずいぶんマスコミに叩かれたらしい。
2005.4.24
「J_Coffeeの株式投資日記」では、南北戦争中にヘティ・グリーンがアメリカ国債を買ったとされているが、 『Hetty:The Genius And Madness Of America's First Female Tycoon』によると、 ヘティは南北戦争後にアメリカ紙幣を買ったことになっている。 南北戦争中に北軍は戦費をまかなうために大量の紙幣を発行した。 南北戦争後、経済の先行き不安から、アメリカの紙幣の価値が下がり、 1ドル紙幣が50セントの金貨と交換されるようになった。 ヘティは、このアメリカ紙幣を大量に買った。 鉄、石炭、石油などの資源開発が押し進められ、 アメリカの戦後復興が順調に進んでいるとヘティは考えたからだ。 この本では、その後、アメリカ紙幣がどうなったかの記述がない、 アメリカ史の常識なのだろう。アメリカ史の基礎知識を身につけようと思った。
これまでの研究
2005.1.30
『Hetty:The Genius And Madness Of America's First Female Tycoon』購入。 ヘティ・グリーンの生涯を扱った洋書である。『Witch Of Wallstreet』がどうしても手に入らなくて困っていたが、 2004年11月に新しいヘティ・グリーンの伝記が出版された。早速、Amazonで注文して取り寄せた。 いちいち辞書を引くと、全く先に進まなくてつまらないので、小学生が大人向けの歴史の本を読むような感じで読んでいる。 まだ投資手法のところまで読み進んでいないが、ヘティの幼年期のエピソードで面白いものがあった。 ヘティが6歳か7歳のころ、歯医者に行かされた。普通の子供にもよくあることだが、ヘティは歯医者を怖がって泣き叫んで治療を受けようとしなかった。 歯医者が困っていたところ、召し使いがヘティの母から渡された50セント硬貨をヘティに見せた。そうするとヘティは泣き止んで、おとなしく歯の治療を受けたという。 しかも、ヘティはそのとき受け取った50セント硬貨を全く使わず貯金箱に入れたらしい。素晴らしい。
2004.3.21
大学4年の夏の話になるのだが、株式投資の研究のため「バブルの歴史」を図書館で借りて読んだ。オランダのチューリップ投機から日本のバブル経済まで世界史上のバブルを紹介するという内容の本である。ほとんどの登場人物が、バブルの発生ともに大金持ちになって贅沢な生活をするようになり、バブルの崩壊とともに破滅した。その中で、一人だけ違うタイプの人物がいた。ウォール街の魔女と呼ばれたヘティ・グリーンである。何が違うかというと、まず徹底的なケチ(ギネスブック公認らしい)。どんなに金を儲けても浪費することがなかった。そして、投資手法。ほとんどの人は暴落時に破滅するのに、ヘティ・グリーンは逆に暴落時に買うことが得意だったようだ。彼女は死ぬまでに1億ドルの財産を築いたらしい。このヘティ・グリーンの生涯と投資手法についてもっと詳しく知りたいと思っていたが、適当な本がなかった。今年の3月になって、洋書を買うことにした。
アマゾンで
「Witch of Wall Street Hetty Green」
を注文した。英語が読めるかどうか分からないが、時間をかけて読もうと思う。
到着は3月末か4月初らしい。またホームページで
「Witch of Wall Street Hetty Green」
の紹介をする予定。

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シオン賢哲の議事録(シオンの議事録)

シオン賢哲の議事録(シオンの議事録)
悪魔の議事録
書庫日月神示
2011/9/21(水)午後10:40
「シオンの議定書」は、正しくは「シオン賢哲の議事録」と言う物で、これをロシア語に翻訳し、公刊したのが、ロシア人のエス・ニールスである。
ニールスは入手経路について、1901年
「これはある婦人が、マッソン(フリーメーソン)秘密結社の陰謀の策源地であるフランスの某地で開催された、ユダヤマッソン結社の秘密会議の終わった直後結社員中最も勢力がある賢哲の一人から盗み取った「シオン賢哲の議事録」の写しである」と語ったという。
1905年、ニールスは、自著の第2版中においてこれを発表したが、最初にロシアでニールスの訳が現れたとき、ユダヤ人側は大いに狼狽してこれを偽書であると宣伝する一方、黙殺、買占め、押収等の挙に出た。
(中略)
さらに、フランス語、スウェーデン語、デンマーク語、ポーランド語、イタリア語等々全世界で翻訳版が発行されたが、いづれもこのニールス版が元になっている。
「シオンの議定書」は第1議定書から第24議定書までの構成で発表されているが、その内容は明らかに「悪魔の征服計画書」と呼ぶにふさわしいものであり、その悪意に満ちた狡猾さ、執念深さには戦慄さえ覚える。
これを作成したものがユダヤ人であるかどうかはともかく、こうした内容の文書が出てしまったことは事実である。
議定書の全編に流れる政治、経済論は、まさに覇道の哲学であり、人間的感情を度外視した世界支配の方法論である。
いくつか抜粋してみよう。
「善良な性質の人間よりは、先天的不良性の人間のほうが、数において勝っているので、学理上の議論によるよりは、強制的威嚇を用いたほうが、はるかに政治上の好成績を挙げるものである。」(第1議定書)
「我々の活動に有効な計画を立てようと欲するならば、我々は、大衆が、下賤、無定見、無節操、であることを認識していなくてはならない。・・・・(中略)
尚、我々は、大衆の力は盲目で、非理知的で、判断力が無く、従って左にも右にも耳を傾けるものであることを注目しなくてはならない。
盲人が盲人達の案内役を勤めるとき、必ずや共に滅亡の淵に陥ってしまう。
従って大衆の中の者ども、または人民の中から成り上がり者は、いかに多才な者であろうとも、政治上の知識を持たぬ故に、ひとたび指導者として登場する時には、必ずや全国民を滅亡の淵に陥れないでおかぬのである。」(第1議定書)
大衆というものは、一個人レベルの利益や生活のことしか考えないか、それらを第一に優先して考えるものである。
従って、そうした大衆に主権を持たせては、良い政治など行えようはずが無い。
政治的なことはほとんど知識も無く、興味も持たぬ大衆が、選挙で選び出す代表者が、これまた自分達の小さな利益のことしか考えない利己主義者であることは、自明の理である。
ここに挙げた「議定書」の一部は、民主主義政治の有害性について、ズバリ指摘している。
真の賢人たちが集まって定めるべきである国家の方針を、無知なる大衆の「悪の多数決」により選ばれた指導者たちの手に委ねれば、確実に国は乱れるのである。
民主主義を導入した国家は、芯を失い、骨抜きにされ、やがては亡国の憂いき目に遭うことになる。
「議定書」には、恐るべき世界制覇のための経済論についても、あからさまに述べられている。
「国家機関の全ての輪転機は、我々の手中の中にある動力によって運転する。
その動力とは、即ち“黄金”である。
我々の賢哲の樹立した政治経済は、王者の威力が資本にあることを明示している。
資本が全世界に於いて絶対支配を獲得するためには、商工業企業を独占する自由を確保しなければならぬ。この計画を全世界に於いて実現すべく我々の間接直接の魔手が既にこの事業に着手している。
かかる自由は産業家に政治的勢力を与えるかこの勢力は民衆の圧迫に役立っている。」(第4議定書)
「非ユダヤ人に害を与えるために我々は、経済恐慌を惹き起こした。それが為にはただ手の届く限りの、金を全部を金融界から引き込めるだけで充分であった。かくて巨額の金額が我々の手中に貯蔵されたが、一方では非ユダヤ人国家は資金が全く枯渇したので、結局やむを得ず、我々に国債の引き受けを請わざるを得ないようになり、これが為非ユダヤ人国家はこの国債で多額の利子支払いの義務を追い込むに至った。
これは、彼等の国家経済のかなりの重荷となって、遂には国家そのものまでが、大資本家に全く依存することになってしまった。手工業及び中工業が大工業へ移るに従い、健全なる国民の全てのみならずしまいには国家までもが膏血を吸い尽くされてしまったのである。」(第20議定書)
国際事情研究センター所長の矢島釣次氏によると、1929年の世界恐慌に先んずること100年前から、イギリスでは産業革命と相前後して、約10年の周期で小規模な恐慌がおこっているという。
1925年、36年、47年、57年、66年と起こってきた恐慌は、1873~1896年にかけて起こったイギリス大恐慌につながっている。
これらの恐慌のたびに、資本を巨大化して世界の大富豪となったのが、あまりにも有名なユダヤ人のロス・チャイルドであると矢島氏は指摘する。
そして、1914年から1918年にかけて第1次世界大戦が起こり、戦後10年、1929年に世界恐慌が発生しているのである。
この歴史的な大金融パニックのピタリ10年後、1939年、第2次世界大戦が勃発している。
何者かが意図的に惹き起こしているとしか思えないこれらの周期的な経済恐慌で、世界の人々が財産を失い、貧困に喘ぐ中、
ロックフェラー家、モルガン家、シフ家、ヴァールブル家、ハリマン家、ミルナー家、ロスチャイルド家
といったユダヤ人ファミリーは巨大な富を蓄積していたのである。
■日月神示「金で世を治め金で潰す」
さて、現在の通貨経済について「日月神示」では次のように示されている。
「金では治まらん。悪神の悪では治まらん。ここまで申してもまだ判らんか。
金では治まらん。悪の総大将もそのことを知っていて、金で世を潰す計画ざぞ。
判っている守護神殿早う改心結構ぞ」
「金で世を治めて、金で潰して、地固めしてミロクの世と致すのぢゃ。
三千世界のことであるから、ちと早し遅しはあるぞ。
少し遅れると人間は、神示は嘘ぢゃと申すが、百年もづづけて嘘は云えんぞ。申さんぞ。」
「金はいらぬのざぞ、金要るのは今しばらくぞ、生命は国に捧げても、金は自分のものと思っている人間、気の毒出来るぞ。
何もかも天地へ引きあげぞと知らしてあること近づいてきたぞ。金がカタキの世来たぞ。」
「石屋の仕組みにかかりて、まだ目覚めん臣民ばかり。
日本精神ともうして仏教の精神やキリストの精神ばかりぞ。
今度は神があるかないかを、ハッキリと神力見せて、石屋も改心さすのぞ。」
上のように日月神示には、「石屋」という表現が良く出てくる。
(中略)
フリーメーソンとは、「自由石工」という意味で、「石屋」とはここからきているのである。
戦争や革命といったものは、それが大きなものであるほど、偶発的に起こるものではなく、何らかの意図をもって、トップエリートたちにより作成された“シナリオ”通りに行われるものである。
表面では、「正義」「自由」「解放」などの美辞麗句を標榜し、大衆を扇動しながら巧妙に自らの目的を達成し、利権を得ようとするものである。
ヒトラーは、「戦争とは、欺瞞であり、策略であり、詐欺である」と述べている。
「我々が、「大革命」の名を附したフランス革命を想起せられよ。この革命準備の秘密は我々の能(よ)く知る所である。何となればこの革命は実に我々の手の所業であるからである。
あの時以来我々は、諸国民を幻滅から幻滅へと導いているが、それは彼等が我々からも離反して、我々が世界の王として準備しているところの、シオンの血を受けた専制帝王を歓呼して迎えるようにするが為めである。」(第3議定書)
「我々に抵抗を試みようとする国家に対しては、我々は直ちにその隣接諸国との戦争を以ってこれに対応し得るよう準備していなければならぬ。
もしその隣接諸国もまた、その国と共同戦線を張って、我々に反抗する場合には、我々は世界大戦を勃発させて、これを反撃せねばならぬ。・・・(中略)・・・
欧州にある非ユダヤ人諸政府を屈服させる為の我々の計画を数語に要約すれば、一国、一国に対して、我々の威力を知らせる為には、暗殺計画、即ち恐怖政治テロを以ってするであろう。
しかし万一、全欧州諸国が我々を敵として共同戦線を張ることになった時には、日本、支那、米国の大砲をもってその諸国に答えるであろう。」(第7議定書)
「一時的には、全世界の非ユダヤ同盟が成立して我々を打倒することもあろう。
然し我々のこの危機に際しては、非ユダヤ国の間に抜くべからざる紛争の深き根底があって、間接直接に我々を保護していてくれるのである。
我々は二千年に亘って非ユダヤ人の心に扇動培養してきた個人的打算、又は民族的並びに宗教的憎悪を、彼等の間に対立せしめた。
ために、いずれの国家も何処からも援助を得ることは出来ない。何となれば各国家は何れも我々に反抗する協約を結ぶことは、自己に不利であると考えざるを得ない。
我々は実際にあまりにも強力であるので、何人も我々と妥協せねばならない。
今日に於いては、列強は如何なる些細な協約でも、我々が秘かにそれに関係することなくしては、相互に締結することはできないのである。」(第5議定書)
上に挙げた議定書を見るだけでも、フランス革命、ロシア革命、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦の歴史的大革命や戦争が、偶然に発生したものではなく、意図的に起こされたものであることが判るであろう。
先に述べたように、「自由」と「平等」は、決して相容れることの出来ない非両立性を持った二つの標語である。
一人一人が本当に自由を求め続ければ、必ずやどこかに不平等が生じてくる。
またすべてを平等にとり計ろうとすれば、自由を制限せざるを得ない。ここに、不満が発生する要因が出てくるのである。
したがって、単純に良い言葉だからと言って、ろくにその意味を検討することなしに
大衆がこれらの二つを同時に手に入れようとすれば、当然社会は乱れ、国は乱れることになる。
「議定書」はそのことを知り尽くした上で、次のように述べている。
「我々が自由・平等・四海同胞(現在はグローバリズム)なる語を民間に放ったのは既に古代の事である。
それ以来、これらの標語は、無意識のオウム返しによって何度となく復習され、世界の幸福と、個人の真の自由とを破壊した。
所謂賢明なる非ユダヤ人の識者と言われる人々でさえも、難解な謎のごときこの言葉の抽象的なる意味を正しく理解し得ることが出来なかったし、又その内部に含まれている矛盾を勿論看破することが出来なかった。
彼等は悲しいことには自然なるものが、平等を知らず、又その中に自由があり得ないものであり、自然そのものが、理性と性格と才能との不平等を、その自然の法則として造った物である事に気付かなかった。」
(第1議定書)
「自由・平等・四海同胞なる語は、盲従的な我々の諜者によって、世界の隅々まで宣伝せられ、幾千万の民衆は我々の陣営に投じ、この旗織を狂気して担ぎまわっている。
然るに、実際を言うと、この標語は至る所で平和安寧を破壊し、国家の基礎をも覆し、以て非ユダヤ人の幸福を侵食する獅子身中の虫(内部から害を与えるもの)となっている。
これが我々の勝利を促進したと言う事を諸君は後日首肯(納得)さるることであろう。
(第1議定書)
(中略)
真の「自由・平等」について、日月神示では次のように述べられている。
参考までにいくつか抜粋してみよう。
「平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ。
天地を良く見よ、人民の申す如き平等も公平もないであろうがな。一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ。
一寸の草には一寸が、一尺の草には一尺が頂点であるぞ。これが公平であり平等と申すもの」
「平等愛とは、差別愛のことぞ。公平と言う声に騙されるなよ。数で決めるなと申してあろうがな」
「区別すると力出るぞ。同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である。」
「悪自由・悪平等の神が最後の追込みにかかっているなれど、もう悪の世はすんで岩戸がひらけているのざから、何とやらのように前から外れてアフンぢゃ」
「人間に自由はないのであるぞ、真の自由は、大神のみあるものぞ。
大神の自由の一部が御喜びと共に神に流れ入り、神に流れ入った自由は、又神の喜びとなって人間に流れ入るから、
人間自身は自由を持っていると信ずるのであるぞ。
本質的には自由はないのであるぞ。
人間には自由の影があり、反影あるのぞ。それを人間は自由と心得ているのであるぞ。
人間は自由と心得ているが、それは自由ではなく、自分自身を首をくくるものぞ。
善自由こそ真の自由であるぞ。自由は神から流れ出ると申してあろう」
「同じもの同士では和ではない。違ったものが和することによって新しきものを
生むのであるぞ。奇数と偶数を合わせて、新しき奇数を生み出すのであるぞ。
それがマコトの和であり清めであるぞ。善は悪と、陰は陽と和することぢゃ。
和すには同じ在り方で、例えば五と五との立場で和するのであるが、位に於いて
は陽が中心であり、陰が外でなければならん。
天が主であり地が従でなければならん。男が上であり女が下ぢゃ。
これが和の正しきありかたぞ。
さかさまならんぞ。これを公平と申すぞ。」
「分け隔てするのは神の心でないと申す人民沢山あるが、世界は一平ぢゃと申して同じことぢゃ、同じ神の子ぢゃと申しているが、頭は頭、手は手、足は足と申してあろうが。同じことであって同じでないぞ。悪平等は悪平等ぞ。
世界丸つぶれのたくらみぞ。この道理良く心得なされよ。」
日月神示ではフリーメーソンのことを「石屋」と称してその全貌を暴いている。
では、その起源とはいつなのであろう。
以下説明されている。
フリーメーソンの起源については、様々な説があって定説はない。もともとは古代の西洋において、石工同士が集まって組合(ギルド)をを創設したのが始まりとされてる。
石工というのは、言わば大工や建築家のようなもので、日本でいう石切職人の類とは少し違う。
西洋では昔からあらゆる建築物が石で造られており、石工というのは社会的地位も大変に高く、様々な特権をもっていた。諸国の王侯に重宝がられた彼等石工たちは、各国の王城、殿堂、寺院などの石造建築に従事するため、どの国でも自由に往来することが許された。
このような特権を持つフリーメーソンに、ユダヤ人達が、何とか入り込みたいと願ったことは、想像に難くない。自分達の国家を持たぬユダヤ民族は、ゲットーに閉じ込められ、国外通行はおろか国内の移動さえままならぬ状態にあったからである。
14世紀頃になると、建築家以外の各層にもフリーメーソンへの加入者が出始めたが、14世紀以降に入ってきた者は、ほとんどユダヤ人であった。
そして、18世紀になると、その実権はユダヤ人によって握られることになった。
1717年、フリーメーソンはロンドンとウェストミンスターにあった4つの古い組合を合同し、ヨハネの洗礼日(6月24日)に開かれた大晩餐会の席上で大棟梁を選出すると共に、組合の儀式、規約などを決定した。
これが、近代的フリーメーソンの誕生とされる。
マスメディアは悪神の宣伝機関
大衆を扇動し、思いのままに操る最も有効な手段は、新聞、雑誌を利用することである。新聞、雑誌、を傘下に収めることができれば、元来「右にも左にも耳を傾ける」
存在である大衆をコントロールすることはたやすい。
むろん、ここで言う新聞、雑誌とは現在ではテレビ、ラジオ等を含めたマスメディア
全般を指す。
「現代の各国家の手中には、民間思想の動向を創造する一大勢力がある。
これは、即ち、新聞、雑誌である。新聞雑誌の役割は、国民の要求を支持し、世論の声を伝え、不平不満を発表し、且つこれを創造するにある。
言論の自由の勝利は、新聞雑誌に胚胎する。
然るに各国家はこの勢力の活用方法を知らぬから、それが為に我々の掌中に帰したのであるが、新聞雑誌によって我々自信は背後に隠れ居つつ、この偉大なる勢力を得たのである。」(第2議定書)
「既に希望の彼岸に近づきつつある我々の深慮に基づく計画を愈々実現せすむる為には、我々の手中にある所謂「偉大な威力」と称せられる新聞雑誌によって、秘密に我々が醸成しておいた与論を以って各非ユダヤ政府を強制する事が必要である。この新聞雑誌は、一顧だにもしない少数のものの外、全て既に我々の掌中にある。」(第7議定書)
ゲイリー・アレンの著書である「ロックフェラー・ファイル」を読めばわかるように
アメリカの一流マスメディアは、いわゆる、“パワーエリート”たちの資本下にある
ものが多い。「ニューヨークタイムス」や「ワシントンポスト」なども、記者や読者に
悟られぬような形で、巧妙に利用されているという。
日本人はそうしたアメリカの一流マスメディアが言うことを、何の疑いもなくうのみにする。
「ニューヨーク・タイムズ」にこんな記事が出ている、「タイム」誌にこういうことが書かれているという、それだけで信用してしまうのである。
識者と言われる人々でさえそんな調子であるから、一般人においては言うに及ばない世界を牛耳るパワー・エリートたちの日本のマスメディアへの直接の資本投資は今のところはほとんどないようだが、思想的に自由に扇動されてしまっている以上彼らの傘下に入っているのも同然である。
■科学が常識を盲信させる
非ユダヤ人、特に日本人において、科学の“妄信的信仰”は功を奏しているようである。
幼い頃から唯物論(金、モノ主体)を叩き込まれ、学校の教科書で教えられることがすべて正しいと信じる。
科学的に証明されていないことは、決して耳を貸そうとしない。
こういった人々にとっては、権威ある有識者や学界が言うことのみが正しく、絶対なのである。
ところが、世界的、歴史的に有名で、偉人と称される賢人や、超一流といわれる学者、専門家等により構成される団体も、実は、本人の知る知らないに係らずシオンの賢哲らにより、彼ら自身の目的達成のため、利用されてしまっているのである。
そのことは、「議定書」に、次ぎように明確に記されている。
「非ユダヤ人は、歴史を基礎とする冷静な観察を練ることを知らず、専ら理論上の旧弊に囚われて、その結果に対する批判的工作を忘却している。それ故に我々にとっては、彼等のことを意に介することは無意味である。例え彼等が、いよいよの時が来るまで享楽にふけろうと、新たなる享楽を希望して生きようと、過去の享楽を追憶して生きようと、そんなことは問題ではない。
肝要なのは、科学の命令(理論)だとして、我々が彼らに吹き込んでおいたものが彼らの為に最も重大なる役割を演じて居ればよいのである。この目的の為に我々は終始我々の新聞雑誌を利用して、この命令に対する盲目的信用を鼓吹(吹き込む)する。
非ユダヤ人中の知識階級は自己の知識を誇りとして、「科学から」得た知識を巧妙に実現しようとするのであろうが、その知識を論理的に吟味もせず、またその知識なるものが、人間を我々に必要な方向に教育するため、我々の密使によって作り上げられたものであることに気が付かないのである。
我々の主張を根拠なきものと思ってはならない。我々が仕組んだところの、ダーウィン、マルクス、ニーチェの教説の成功に注意なさるがよろしい。
非ユダヤ人の心に及ぼした、これらの破壊的作用は、少なくとも我々には明白になっていなくてはならない。」(第2議定書)
「非ユダヤ人は、我々の科学的助言なしに物を考えることが出来なくなっている。
それ故に彼等は、我々の世界支配が達成された時に、我々が一歩も譲歩することなく確保するであろうものが、いかに痛切な必要事であるかを認めていない。
即ち小学校に於いては、唯一の真実な科学、何よりも重要な科学、換言すれば人生の機構、即ち分業を要求し、その結果として人間が階級又は身分に分類されるに至る事を要求するような社会生活の機構に関する科学を教授しなくてはならない。」
(第3議定書)
ダーウィンの進化論は、いまだに公然と義務教育課程の中で教えられており、
常識ある一般大衆は皆、人間は猿から進化したものと思い込んでいる。
ところが、最近ではこの「進化論」に関して異論を唱える学者が増え始めている。
「自然界では、同じ種は変化はするが、絶対に進化はしない。小麦はグレープフルーツにはならず、豚は決して羽は生えない。」と言っている。
人類は、猿から進化したものであるとするダーウィンの説は、完全なでっちあげであった。とすれば、類人猿と人類の祖先、クロマニョン人とを結びつけるはずの
“ミッシング・リンク”など初めから存在しないことがわかってくる。
なお、マルクスが高級フリーメーソン結社員であったことはすでに述べたとおりであるし、ニーチェ哲学にしてもその通りである。
さらに言えば、アインシュタインの相対性理論も、もともとは夫人の空想だったものをアインシュタインがわざわざ難解な理論をこじつけ、編み出したものであるとする説も出てきているようだが、相対性理論の虚構性についても、おそらく近い将来に証明されることになると思う。(つい最近それが、日本人によってくつがえされようとしている。厳然たる事実がここにある。)
(中略)
ここにも、石屋(フリーメーソンとは「自由石工」という意味で日月神示ではここから石屋として良く出てくる)の悪だくみが見事に功を奏している一端を伺い知る事ができよう。
フリーメーソンは現在でも公然と存在するし、これからも世界の歴史に大きな影響を及ぼしていくことであろう。
してみると、今後の国際情勢を分析し、正しい判断を下すためには、フリーメーソンの実態を把握することが絶対に不可欠である。
「世界を思うがままに操る影の世界政府」、
「ユダヤの国際秘密結社」
として知られるフリーメーソンは完全なる秘密主義を伝統としており、その末端や公にされている部分はともかく、最奥部については今だ明かされていない。
また、所謂秘密結社組織というのは、当然フリーメーソンだけではなく、他にも数多く存在する。一部にはフリーメーソンなどよりも、イルミナティーだとか、ビルダーバーグ・ソサエティーなどのほうが重要だとする研究家もいるようだが、日月神示の観点
からすれば、そうしたことはどうでもよいのである。
ただ、歴史を操る「国際的秘密結社」は事実存在するし、それを霊的に自由に操っているのが、悪神、悪霊である。
その秘密結社の代名詞として使われているのが、最大級の組織力を誇るフリーメーソンなのだ。
■悪の仕組みが日本魂を根絶やしにする
戦後半世紀近くが過ぎ、敗戦の痛手から見事に立ち直った日本は、現在、これまでにないような経済的、物質的な繁栄に酔いしれている。
個人の生活が豊になり、国が富み栄えること自体は、決して悪いことではない。
しかし、この繁栄がこれから先も末長く続くかといえば、はなはだ残念なことではあるが、悲観的な結論を出さざるを得ない。
日本ほど、見事にフリーメーソンの占領政策にはまり、隷属国家と成り下がった国はないのである。
現在の日本にとって、「豚は太らせてから食え」という言葉は、まさにピッタリと当てはまる。
それは、次に挙げる「議定書」をみれば明らかである。
我々の原則を非ユダヤ人に適用するに当たっては、その国民の性情を考慮に入れなくてはいけない。
我々の原則の一律的な適用は、その国民が我々流に再教育されていない間は成功をもたらすことはおぼつかない。然し慎重に仕事に懸かるならば極めて強固な性格も十年そこそこで変えることが出来るのを知ることであろう。
かくなる時我々は、既に我々に屈服してしまっている諸国民の間に、新しい国民を一つ編入することが出来るのである。(弟9議定書)
「我々が国家体制の中に自由主義(民主主義)なる猛毒を注入してからは政治上の全組織が一大変化をもたらした。
これが為、今日では非ユダヤ人のどの国家も、余命いくばくもなき壊血病にかかっている。
我々はただ非ユダヤ人国家の、断末魔の速やかに来ることを待てばよいのである。」(第10議定書)
「我々は非ユダヤ人の青少年を愚昧にし、誘惑し、堕落せしめた。我々がこの目的に達したのは、青少年の教育を誤れる原則との教説との上に樹立した為であって、我々はこれらの原則と教説との欺瞞性をよく承知していながら、なおそれらを
適用せしめたのである。」(弟9議定書)
「思想を隷属化させることは、既に“視覚教育”と称する方法で実行に移されて
いるが、視覚教育の主たる使命は、非ユダヤ人を、思索力のない従順な獣と化し
絵に描いて見せなくては物を理解することの出来ないような愚鈍な動物にすることである。」(弟16議定書)
これはつまり、テレビや漫画などによる「一億総白痴化」を予告したものである。
また、フリーメーソンの3S(スポーツ、スクリーン、セックス)政策により、日本の青少年は骨抜きにされ、堕落せしめられた。
現在の日本の若者で、国家や世界をまことに論じることのできるものが、果たして何人いるというのか。
人間的に優秀な青少年が育っていないということは、そのままその国の将来が危ういということを証明しているのである。
そして驚くべきなのが、次に挙げる「議定書」である。
「自由がもし、敬神を根拠とし、天地の法則に背反した平等の観念を去った同胞主義に立脚する時は、国民の幸福を阻害することなく、国家組織の中に無害なる物として存在することが出来る。
斯くのごとき宗教と信仰を持っている時は、国民は地上に於ける神の摂理に従い教会に統制せられ、謙遜、従順に、精神的慈父たる牧師の指導に従うものである。それであるから我々は宗教の根底を覆し、非ユダヤ人の脳裡から神霊の観念を奪い取り、その代わりに個人主義的打算的利欲と肉体的享楽主義的欲求とを植えつけねばならぬ。
非ユダヤ人がこれに気がつかぬようにするには、彼らの心を商業と工業方面に向けねばならぬ。
斯くすれば各国の非ユダヤ人等は国家社会など眼中になく、唯々自己の利得のみを追い、利害戦に夢中になって、自己の共同の敵に気付かなくなるであろう。
(中略)
優越を得んがための極度に緊張した闘争と、経済生活に対する衝動とは絶望的な、しかも悲惨極まる冷酷な社会を実現するであろう。
否な既に実現したのである。斯くしかの如き社会は高等政策と宗教とを全然忌み嫌うようになり、これを指導する者は、ただ利得打算即ち金力のみとなり、金力によって享受できる物質的快楽の為に、黄金を完全に偶像化するであろう。
(弟4議定書)
まさにこれこそが、戦後、フリーメーソンの占領政策により国体を破壊させ、民族意識を退廃させられた日本の姿のほかならない。
今時、精神主義に立ち返る重要性や、敬神の必要性を説いてみたところで耳を傾ける人はほとんどいない。皆己のみの利益のことを考え、利害戦に夢中になっている。
全く「議定書」に記された通りの社会が現出している。
しかもこの「議定書」は19世紀末期に書かれたものなのである。
心ある者は、もう一度この「シオンの議定書」を読み直し、正しい社会のあり方、国家のあり方というものを真剣に検討すべきでないだろうか。
日月神示には、こう示されている。
悪の仕組みは、日本魂を根こそぎ抜いてしもうて、日本を外国同様にしておいて一呑みにする計画であるぞ。
日本の臣民、悪の計画通りになりて、尻の毛まで抜かれても、まだ気付かん。
上からやり方変えて貰わねば、下ばかりではどうにもならんぞ。
上に立ちいている人、日に日に悪くなりてきているぞ。
メグリある金でも物でも持ちいたらよい様に思うているが、えらい取り違いであるぞ。
早う神の申すこと聞きてくだされよ。
ここまで述べてきたように、「シオンの議定書」には、実に狡猾、陰険極まる悪神の世界征服計画が書かれており、それが着々と実現していることがわかる。
現在の日本は、経済的には「大国」と呼ばれるようになり、物質の面では何一つ不自由することのない、恵まれた国家と変貌したように見えるが、
実はこの豊かさの背後に、世界を動かす悪の勢力が存在することを見逃してはならない。
日本は、彼らのモデル的隷属国家として、見事にその術中にはまり、滅亡の崖っぷちへと突き進んでいるのである。
国家存亡のその危機は、ある日突然やってくるだろう。
ところが彼等によって骨抜きにされた日本民族は、もはや「石屋の仕組」(フリーメーソンの陰謀)の前に、なす術を知らないのである。
大神は、こうした悪の経綸(しくみ)を太古の昔よりすでに見通し、明治、大正、昭和と、因縁の御魂を使って天啓の形で警告を与えてきた。
その『艮(とどめ)』の啓示が、日月神示である。
悪神、悪霊たちによる世界征服計画は、今やその最終段階に入っている。
この逼迫した状況を察知し、警告を与える書物は数多く出回っているが、そのどれもが、明確な対策を打ち出せていないようだ。
人間の、平面的な考えでは、行き詰る一方なのである。
「悪を殺せば善のみが残る」というような善悪二元論に基づいたやり方では、絶対に
道はひらけない。善も悪も、高い次元から見れば、“現れ”の違いであり、“働き”の
違いであり、もとは一体のものである。
これら別々に分かれていた“善”と“悪”が、一つになることによって、いわゆる
「ミロクの世」「地上天国」「至福千年王国」が顕現するのである。
そのところは、日月神示にこう示されている。
「今に世界の臣民人民誰にも判らん様になりて上げも下ろしもならんことになりて来て、これは人民の頭や力でやっているのではないのざということハッキリして
来るのざぞ。
何処の国、どんな人民も成程なぁと得心のゆくまでゆさぶるのであるぞ。
今度は根本の天の御先祖様の御霊統と根本のお土の御先祖様の御霊統とが
なりなされて、スメラ神国(日本)とユダヤ神国と一つになりなされて末代動かん
光の世と影のない光の世といたすのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ、光て輝く御代ぞ楽しけれ。
悪いもの殺してしもうて善いものばかりにすれば、善き世が来るとでも思うているのか、肉体いくら殺しても霊までは、人民の力ではどうにもならんであろうがな。
元の霊まで改心させねば、今度の岩戸開けんのぢゃぞ。
元の霊に改心させずに肉体ばかりで、目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ。
それくらい判って居ろうが、判りて居りながら他には道ないと、仕方ないと手つけずにいるが、悪に魅入られているのぢゃ、
悪は改心早いぞ、悪神も助けなならんぞ、霊から改心させなならんぞ、
善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、天地(あめつち)ぢゃとくどう知らしてあろが。」
この先どうなるかということは、この神示を読まない限り絶対にわからない。
また実際に大変が起きた時にどうしたらよいかということも、この神示によらずして
わかるものではない。
何故、そこまで言い切れるのかと言うと、この神示とは、「実行する側」からの直言
だからである。従来の予言書や宗教書のように「こうなるのではないか」という受身的
立場からの推測ではなく、「こうするのである」という断定的口調をもって世界の
大改革を宣言する主導者としての立場からの警告だからである。
人間的知識や学問も必要であろう。しかし、何よりも肝要なのはまず、神霊界の
実在を知り、神界の経綸を知ることなのである。
神はどのような計画をしておいでか、その神(真)意をよく把握することである。
これなくして、人間界の動きを読み取ることは不可能と断言できる。
その経綸の一端を明らかにしたのが、日月神示である。
「艮(とどめ)の啓示」と言われるように、後にも先にも、この神示を超えるものは、
もはや出ないであろう。
「この神示、腹の中に入れておいてくれと申すに、言うこと聴く臣民少ないが、
今に後悔するのが、よく判りているから神はくどう気つけておくのぞ、
読めば読むほどに神徳あるぞ、
どんな事でも判るようにしてあるぞ。」
「向こう(悪神、悪霊)の言うこと、まともに聞いていたら、尻の毛まで抜かれてしまうのが、神にはよく判りて気つけていたのに、今の有様その通りでないか。
まだまだ抜かれるものあるぞ。延ばせば延ばせば、人民まだまだ苦しいことになるぞ。延ばせねば助かる人民ないし、少しは神の心も察して下されよ、
言うこと聴いて素直にいたされよ。神たのむぞ。」
「御神示通りにすれば、神の言うこと聴けば、神が守るから、人民の目からは
危ない様に見えるなれど、やがては結構になるのざぞ、
疑うから途中からガラリと変わるのざぞ。
折角縁ありて来た人民ぢゃ、神はおかげやりたくてうづうづざぞ、
手を出せば直ぐ取れるのに、何故手を出さんのぢゃ、
大き器持ちて来んのぢゃ。
神示聴きて居ると身魂太るぞ、身魂磨けるぞ。」
「身魂みがけたら、どんな所でどんなことしていても心配ないぞ」
「我が名呼びておすがりすれば、万里先に居ても云う事聞いてやるぞ、
雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地霊の神と申してお願いすれば、万里先に
居ても、この世の荒れ、地震逃らせてやるぞ、
神々様に届く行で申せよ。
こんな善き世は今までになかりたのぢゃ、
膝元に居ても言葉ばかりの願い聞こえんぞ、
口と心と行と三つ揃った行い、マコトと申して知らしてあろが。」
「平成」という字を注意して見て頂きたい。
一八十成=岩戸成る
と示されているではないか。
平成で岩戸が成るのである。ミロクの世と、いよいよひっくり返るのである。
一体人類の何分の一が、ミロクの世の実現を目の当たりにするのであろうか。
抜粋文献:日月神示(宇宙意志より人類へ、最終の大預言),中矢伸一著

本物を探す旅
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テスラの「世界システム」

テスラの「世界システム」
ニコラ・テスラの世界システム
ニコラ・テスラは真に天才科学者だった。
だが、天才はその時代には中々受入れられないのが常である。
彼の才能は狂気と混同される事さえ少なくなかったのだ。

宇宙と霊界と科学の接点
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/7073/tesura1.htm
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/








エジソン等と比較にならない尺度の大きさ
1943年1月7日の夜、86歳になる一人の老人が、マンハッタンのニューヨーカー・ホテルの一室でその長く波瀾にとんだ生涯を終えた。
最後を看取った者は誰もいない、
孤独な死であった。
翌朝、老人の死がメイドによって発見されると、生前の知人達の手によって直ちに葬儀の準備がなされた。 
葬列は寒風の吹すさぶ冬のマジソン街を葬儀場に向って黙々と進んでいった。
ところがその頃、老人が息をひきとった部屋では、その静かな死とは対照的に慌ただしい事態が起っていた。
葬列がホテルを出て間もなく、突如FBIの捜査官達がこの部屋に乱入したのである。
彼等は部屋を厳重に捜査し、老人が保管していたと思われる1個の小さな金庫を見つけると。無理矢理こじ開けて、複雑な数式や図面が描かれた書類の一切を抜取った。
そして再び影も残さずに立去ったのである。
一方、葬儀がとり行われた教会堂でも奇妙な事が起っていた。
しめやかな弔辞を述べられている最中に、突如まばゆいばかりの太陽光線が天窓を貫き、棺を光の衣で包んだのである。
会葬者達は思わず息をのんだ。
棺は神の祝福を受けたかの様に清らかな光を発し、教会堂は荘厳な光で満たされた。
そして後日、葬儀中の教会堂内を写した写真が仕上ると、そこには信じ難い映像が移っていた。
それらは何れも教会堂内部を隅々まではっきり映し出しているにも関わらず、会葬者達の姿は全て輪郭が呆けていたのである。
この不思議な老人の名はニコラ・テスラという。
とはいうものの、今日彼の名を知る者は少ない。
電気工学の知識を持つ者であれば、交流の実用化に貢献した
「テスラ・コイル」
の発明者として、テスラの名に触れた事があるかもしれない。
確かに手元の百科事典を引いてみると、ユーゴスラビア生れの電気技師、発明家としてのテスラについて何がしかの知識を得ることは出来る。
火花放電を利用して数百kvの高電圧を発生させ、自由に送電する事を可能にしたテスラの業績は、今日の電気事業の発展の上で計り知れない貢献をなした。
しかし、ニコラ・テスラという人物の全体像を知った者には、それが、彼の業績の極一部分でしかない事が分るだろう。
テスラについての記述の中には、彼が1912年にエジソンと共にノーベル賞候補とされた事から、彼は「エジソンと肩を並べる発明家」とみなす者もあるが、
とんでも無い事である。
あえて彼を「発明家」とみなすとしても、エジソン等とは比較にならない桁外れの尺度を持った発明家であったのだ。
と云うのも、彼の見果てぬ夢であった
「世界システム」
という構想は、地球そのものの電気振動と共振(共鳴)して、莫大なエネルギーを殆どタダで、しかも無限に得る事の出来るものであったのである。
これは革命的な構想であった。
しかし余りにも革命的であり過ぎた。
高エネルギーが地球上のどこからでも無限に得られるとなれば、当然、それまでエネルギー供給を独占した企業(メジャー又はロックフェラー系列(スタンダード石油))や国家の利益と真正面から対立する事になる。
これが現在、テスラの名が殆ど抹殺同然にされるに至った大きな事情である。
”自分は自動人間(オートマン)なのだ”
にも関わらず、テスラの「世界システム」は今日再び熱い視線を集めている。
だがその視線の奥には、何やら暗い云い回しげな炎が燃えているようである。
即ち兵器としての、それもレーザー光線や素粒子ビームの威力を遥かに越えた究極兵器としての「世界システム」の利用である。
実はテスラの死後、彼の部屋からFBIが持ち去った書類は、この
究極兵器(スカラー兵器、又は重力波兵器、昔の名では超能力兵器、「気」を利用した兵器)
に関する物であったと云われている。
彼等は、究極兵器の秘密が外部に漏れるの恐れて、テスラの死後、いち早く彼の論文類を差し押えたのである。
勿論テスラ本人も、「世界システム」が人類にとって両刃の剣になる事を承知していた。
それでも彼は「世界システム」が人類を必ず幸福にするであろう事を深く信じていたのである。

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では、一体「世界システム」はどの様に構想されたのか。
テスラの生涯を追いながら見て行く事にしよう。
ニコラ・テスラは1856年7月9日の深夜に生れた。
場所はユーゴスラビアのクロアチア共和国スミリアン村であった。
父はギリシア正教の牧師で、母も代々牧師という家の出であった。
ニコラには姉が二人、妹が一人、そして兄が一人いた。
兄はデンという名で、7歳の時既に天才と呼ばれる程秀でた能力の持主であった。
ニコラ自身、この兄
「生物学的に説明する事が出来ない程稀にみる天才的知性」
を持っていたと述べている。
ところが、あらゆる点でニコラより抜きん出ていた兄デンは、12歳という若さで不慮の死を遂げてしまう。
デンの死は幼かったニコラに強い衝撃を与え、後々までも彼の潜在意識に深い影響を及した
(これで、分るように千乃先生も優しい親に育てられているのを忘れた恩なし人間になりそうである。
千乃先生が何を云うとも、親を大切にする方向にスカラー波を考えなければならない!忍)。
物心ついた時には既に彼は技師になりたいと思うようになり、身の回りに有る物で様々なユニークな発明をしていた。
だがニコラが後年、稀有の天才発明家と呼ばれるまでに至るには、別の重大な要因があった。
それは、彼を少年時代から悩ませ続けていた幻視癖(透視。霊体によって見せられている。)であった。彼は述べている。
「少年時代、私は幻影に悩まされた。
それはしばしば強烈な閃光と共に現れた。
それが現れると、視野の中に現実の物体は失せ、思考や行動も妨げられるのだった。
それらの幻影は、かって私が実際に見た事のある物や景色であり、決して私が想像したものではなかった。
ある言葉が私に発せられると、その言葉が喚起するイメージがいきいきと私の脳裏に映り、時として、そのイメージが現実のものかそうでないのか、私自身見分ける事が出来なくなる事があった」
だが、17歳になって、彼が発明家の道に進む事を決心すると、この幻視癖が非常に役に立つ事になった。
というのも、彼は何かアイディアが閃いた時、それを具体化するのに図面もモデルも実験も無しに、目の前にありありと思い描く事が出来たからである。
やがて彼は、自分のあらゆる思考、行動が外的な刺戟(霊体による刺戟、今現在は、機械(スカラー波)によって刺戟を与える事が出来る!忍)によって自動的に形成されている事に気付いた。
自分は感覚器官の刺戟によって反応する「自動人間(オートマン)」なのだと痛感した。
この自覚が後に「テロートマティックス」という自律的な運動刺戟制御技術の構想へと発展するのである。
地震発生装置、地球二分割法・・・
オーストリア、グラーツのポリテクニック・スクールを中退したニコラ・テスラは、1881年、ハンガリーのブタベストの国営電信局に務めるようになる。
しかしここは2年足らずで止め、彼はパリのコンチネンタル・エジソン社に職を変えた。
この時既に彼の脳裏には交流モーターの原理のアイデアがあった。
程なくしてテスラの才能を見抜いた社長は、テスラにぜひ渡米してエジソンに会うようにと勧めた。
エジソンとの出会いはテスラの人生における最大の事件だった。
だがエジソンは、テスラの途方もない才能に気付きながらも交流の使用を認めようとはせず、ことある毎に交流の危険性を世界に呼びかけた。
一方、テスラも、露骨なまでのエジソンの批判を撤回させる為に、交流の優位性、安全性を広く知らせる為のショーを催したりした。
彼は、肉体にショックを与えるのは高電圧ではなく高電流である事を、自らの体を貫流させた電流で針金を溶かしたりランプを点灯したりして証明した。
この驚くべきショーは大好評を博し(これは異常である。こういう異常な現象は、今の日本にも起りそうである。
テスラーが大丈夫だったのは、霊体による守護のお陰である有る事を忘れてはならない。!)、
結局、エジソン対テスラの威信をかけた対立はテスラに軍配が上がった。
以後、ナイアガラ瀑布電力会社は交流の採用を決定し、交流は世界に普及していったのである。
エジソンのもとを去ったテスラは、1887年にニューヨークに自分の研究所を設立し、心おきなく自らの研究に集中するようになった。
ここで彼は後年
”マッド・サイエンティスト(狂気の科学者)”
と呼称されるようになる数々の発明や研究に打込んだ。
「地震発生装置」
「地球2分割破壊法」の考案、
「無線操縦装置」
「地球全体の照明装置」
等がその成果である。
これらの研究は一見荒唐無稽のものに思われるが、テスラの知的関心は極めて一貫したものだったのである。
つまり、彼の興味は常に自然界のエネルギーを最大限に引出す事にあったのである。
これは、彼の少年時代の次の様な体験がきっかけとなっている。
ある冬の日、テスラは仲間の少年達と雪に覆われた山に登った。
雪は大変深く積っていた。
少年達は雪玉を斜面に投げつけ、それが転げ落ちながら雪を集めて大きくなるのを見て遊んでいた。
ところが突如一個の雪玉が、斜面を転がる内に見るくる大きくなり、ついには一軒の家程の大きさになってしまった。
テスラを始め少年達は、信じ難い光景に茫然と立竦んでいた。テスラは考えた。
「どうしてあんな小さな雪玉があっと云う間にこれ程巨大な雪玉に成長してしまうのか。自然界には何ととてつもないエネルギーがあるのだろう」
この経験はテスラに強い印象を残した。
そして数十年の後に自分の研究所を持ったテスラは、漸くこの少年の日の疑問にじっくり取組み始めたのである。
彼は、この自然界に潜む巨大なエネルギーをどうしたらそのまま取出す事が出来るだろうかと真剣に考えていた。
そんなある日、テスラは一人山の中を宛もなく歩き回っていた。
すると空が厚い雲で覆われだし、吹雪になりそうな気配が漂ってきた。
彼は雨の当らない所に避難し、怪しげな空を見上げてた。
しかし、空は殆ど真っ暗にも関わらず、雨は中々降出さなかった。
その時突然、空に一閃の稲妻が走った。途端、堰を切ったように豪雨が降出した
●地球の引金を引く「世界システム」
この観察から彼は重大な直観(インスピレーション)を得た。
稲妻の電気的なエネルギーが豪雨を引き起す引金になったのを見た彼は、若し自然界のエネルギーの引金となる電気的効果を見出す事が出来れば、
地球全体の環境を変える事さえ出来るだろうと考えたのである。
そうすれば、砂漠を水で潤す事も、湖や川の造成も、驚く程簡単になる筈である。
こうして彼が取組み始めたのが、「拡大送信機」と呼ばれる高エネルギー発生・送信装置の開発であった。
拡大送信機は高周波振動の電気的共鳴を利用して、巨大な電圧を発生させる装置であり、ニューヨークの彼の研究所では400万Vの高電圧の発生に成功した。
後にニューヨークの研究所が焼け、コロラドに新たな研究所を設けたテスラは、そこで更に大がかりな拡大送信機の実験に取組んだ。
ここで彼は1200万Vに達する電圧を発生させる事に成功した。
この拡大送信機が凄まじい放電の火花を飛ばす傍らで平然と読書するテスラの写真は、マッド・サイエンティスト・ファンなら一度は目にした事があるだろう。
拡大送信機は、高周波振動の共鳴にする増幅作用を用いたものであり、それは丁度、小さな雪玉が斜面を転がる内に巨大に成長するプロセスを電気的に行ったものであった。
だが、テスラの真の狙いはもっと遥かに壮大な事だった。
彼はこう考えた。若し地球自体の定常波を見出す事が出来れば、拡大送信機の高周波と地球との間に共鳴を起す事が出来る筈だ、と。
つまり彼は、地球全体を導体としてエネルギーの発生、送信を行おうとしたのである。
もしそれが出来れば、莫大なエネルギーを低コストで発生させる事が出来、又自由に世界中に送る事が出来る筈である。
そうなれば電信電話は勿論、あらゆる情報やエネルギーが世界中に伝達される巨大な情報ネットワークが形成されるのである。
しかしそれは、現在実現されつつあるような光通信、付加価値通信網(VAN)といった情報ネットワークとは質的に異なる。
テスラの発想はあくまで自然界(地球)自体が潜在的に以ているエネルギーを抽出しようとするものであった。
それは丁度稲妻が豪雨の引金となったように、地球の引金を電気的に引こうとするものなのである。
この様にして作られる地球規模の情報通信網システムを、テスラは「世界システム」と名付けた。
テスラによれば、「世界システム」を構成する要素は、テスラの次の様な5つの発明と技術である。
①テスラ変圧器(テスラ・コイル)
②拡大送信機
③テスラ無線システム
④個別化の技術
⑤地球定常波
④の「個性化の技術」とは、どれ程多重の複雑な信号であろうと、それぞれの信号が独立して混信する事なく送信出来る技術を意味する。
この世界システムが具体的に実現されるとどんな事が可能になるのか。
テスラは、特に生産的と思われる利用法を幾つか纏めている。
それは主に現在、世界中に散らばる電信、電話局を全て相互連絡し、ニュース、文書、音楽の通信を可能にすると云う事である。
だが、とりわけ注目すべきは、船が羅針盤(コンパス)無しで正確な位置と方向を知る事が出来る事や、世界中の時計が同期して動くような機械化(メカニズム)の設定等である。こうした事が可能のは、テスラの電気理論が高速の限界と無関係だからである。地球の定常波から生じるエネルギーは、距離の2乗に比例して減る事も、無くなる事もない(ここの部分は、全ておかしい。宇宙の物理の法則は、ミクロとマクロは統一的に成立っている。ミクロに成立っている法則は、マクロにも通じるのです。だから、地球の定常波だけ、物理の法則に逃れる事という事はない!忍)。
1901年、テスラは具体的な世界システムの構想の為に、ロングアイランドのショアハムに巨大な無線送信塔の建設を始めた。
これは実際に地球を導体としてエネルギーを発生させる本格的なものになる筈だった。
しかし、建設資金が底をついて工事は中断され、アメリカが第一次大戦に参戦した1917年には、危険と云う事で取壊されてしまう憂き目を見た。
壮大な夢の計画は一方的に潰されたのであった。
●「世界は未だ準備が整っていない」
テスラの旺盛な探求心はこの出来事の後も全く衰える事はなかった。
だが、彼の世界システムへの関心は次第にその破局的側面、つまり兵器としての利用に向けられるようになっていた。
1934年にテスラは、何万馬力にも相当するエネルギーを髪の毛よりも細い光線として放射する事が可能な装置について述べている。
その発想は、今日のレーザー光線に極めて似ている。
実際、世界システムを用いれば、如何なる巨大なエネルギーであろうと遠隔誘導によって瞬時にして目的地に送る事が出来るのである。
又彼は世界システムを利用して、遠隔制御型の兵器も構想していた。
しかし、テスラは決して世界システムが軍事的に利用される事を望んでいたわけではない。
彼は平和主義者だったのである。
だが、平和が何もせずに得られるとは考えていなかった。彼は述べている。
「戦争は法的に禁じたとしても、決して無くならない。
強い国の警戒心がなくなったとしても、戦争は終らない。
戦争を停止させるには、強い国も弱い国も自己防衛力を持たねばならない。
幸い、私は防衛の為の完璧な手段を構想した。
若しこれが採用されれば、国際関係に革命が持たされるだろう。
それは、国が大きかろうが小さかろうが、あらゆる攻撃に対して難攻不落に変える事が出来る。
私の発明は大がかりな装置を必要とするが、一度装置が出来れば、人であれ機械であれ、半径300km以内に近づいたものは悉く破壊してしまう事が出来る」
テスラのこの発言は明らかに今日の核抑止力による平和の達成を先どりしている。
テスラ兵器は核兵器の様に目的地につくまでの時間もかからないし、又レーザー砲よりも遥かに大きな威力を持っている。
それは将に究極の兵器なのである。
だが、テスラの平和の願いは果して今日、生かされているだろうか。
米ソ2大大国が歩み寄りを見せ、各方面における段階的な核兵器の削減が実現しようとしているが、それだけで戦争の勃発を抑える事は出来ない様に思われる。
事実、過去に於いては、ソ連軍部はテスラの理論に従った兵器の開発、実験に取組んでいたという噂もあったのである。
アメリカ空軍情報部長のジョージ・キーガンは、1977年にカナダで起った異常な嵐はソ連の素粒子ビーム兵器の実験によって引き起されたものだと報告している。
又カザフ共和国のセミパラチンスクでは、素粒子ビーム兵器の大がかりな実験が行われているという情報もある。
この様な素粒子ビーム兵器の大規模な実験の骨組は、恐らくテスラの理論と関係がある、と多くの軍事関係者が指摘している。
カナダの科学者のアンドリュー・ミクロウスキーに至っては、自信を持って次の様に断言している。
「ロシア人達がテスラのアイデアに基づいて実験を行っている事は極めて明白だ。この実験は世界の気候をも変えてしまう」
テスラが世界という花壇に蒔いた様々な種は、今のところ萌芽したばかりで、どんな実をつけるか未だ見当もつかない。
だが、この不世出の天才が着想した事の顛末が世界の自己崩壊を促す事であるとしたら、余りにも悲しい事である。
テスラが現代に託したものは何も兵器だけではない。前出のアンドリュー・ミクロウスキーは
「地球クリーン・活力協会」
の主宰者でもあるが、彼はテスラの理論と20世紀の神秘学者ルドルフ・シュタイナーの自然農法とを2本の柱として、今後における新しいエネルギーのあり方を考察している。
地球規模でエネルギー危機が叫ばれている今日、其処にどんな可能性が開かれているのか、我々には知る由もない。
只、テスラの次の言葉に、悲運の天才学者の未来の洞察を感じ取るのみである。
「私の計画は自然の法則(自然の法則と云うよりも、自然の法則を預っている霊界の守護霊によって統制されている。
今、現在は天上界は、スカラー波研究を真剣に行い、防衛の準備に整えるようにおっしゃっている!忍 )。
世界は未だ準備が整っていない。未だ早すぎるのである。だがこの法則も最後には浸透し、勝利をもたらすだろう」

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113年前のタイムカプセル開封

(米国)113年前のタイムカプセル開封
数日前のニュースです。
米ボストンの歴史的建造物(旧州会議
事堂)のライオン像に収められていた【113年前のタイムカプセル】が開けられました。
113年前というと1901年(明治34)です。
セオドア・ルーズベルト大統領
1901年の米国では、ウイリアム・マッキンリー大統領が暗殺され、
セオドア・ルーズベルトが42歳という若さで大統領に就任した年にあたります。
米国史上最年少の大統領です。
彼は歴代米国大統領ランキングでは【偉大な大統領の一人】にあげられています。
タイムカプセルは年月が経てば経つほど貴重ですね。
米ボストンに113年前のタイムカプセル、中身は赤い本
(10/10 ロイター)
米マサチューセッツ州ボストンの歴史的建造物「オールド・ステート・ハウス」(旧州会議事堂)で
ライオン像から見つかった113年前のタイムカプセルが9日、歴史学者らの手によって開かれた。
銅製の箱からは、赤いハードカバーの小型本が発見された。
経年劣化の影響で本をすぐに開くことはできず、内容も今のところ判読不可能だ。
歴史学協会「ボスト二アン・ソサエティ」のブライアン・ルメイ会長は、
予想外の発見に「感激」していることを明らかにした。
タイムカプセルが埋められた1901年当時のボストン・デイリー・グローブ紙の記事によると、
ウィリアム・マッキンリーやセオドア・ルーズベルトといった歴代大統領の選挙戦の支援バッジ、
政治家の書簡などがタイムカプセルには含まれているという。
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2014/10/13/Mon | 国際ニュース

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