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グレイ

2008/11/18(火) 午後 10:32      
宇宙人グレイ・陰の世界政府の今
前著で「宇宙人グレイ」のことに、そして本書の冒頭で「陰の世界政府」について触れました。最後にこうやってもう一度触れる事になる、とは思いもしませんでした。
この続編書き込み中に新たな情報を入手できたのです。
前著の情報はもはや古びてしまったように思えます。
「宇宙人グレイ」と「陰の世界政府」の後日談、つまり最新情報です。
やはりこの両者は密接に繋がっていました。
1900年から1930年の間にグレイの方から陰の政府に接触を図っています。
グレイは宇宙テクノロジーの提供と引き換えに地球上でのいろいろの人体実験の許可を得ます。
グレイは、遠い過去に自分たちの性的要素を排除していて試験管による生殖のみに頼っていたので、人類の性や感情にまつわるエネルギーを理解し応用するためにさまざまの実験を繰り返す必要があったのです。
グレイには感情体が欠落しており、愛が何であるかを理解できません。そして、自分たちのいずれ滅びゆく運命を知っており、自分たちの種をなんとか人間の中に残そうとクローン人間を作り出し後世に残そうとしましたが達成できないことを悟りました。
数年前、地球への最後のチャンスとして、人類一掃計画を企みましたが、地球を護るマスターたちの阻止に遭い、断念します。このときをもってグレイの地球への介入は終止符が打たれ、宇宙へ引き上げざるを得なかったようです。現時点において、グレイはこの地球上から一掃され、今ではオリオンベルトの中央の星の周りに散らばる何百という惑星にばらばらに住んでいるとのことです。

著書「遺言 三人の子たちへ」 

池上競馬場ほか設立

[東京行徳] 池上競馬場
池上競馬場
池上競馬場は明治39年(1906年)~明治43年にかけて東京競馬会が運営していた。。
明治43年には、
東京競馬会(池上)、
京浜競馬倶楽部(川崎)、
日本競馬会(目黒)、
東京ジョッケー倶楽部(板橋)
の4団体が合併し東京競馬倶楽部が設立され本拠地は目黒競馬場となり池上競馬場は廃止された。
地図は大正14年のものであるが競馬場の痕跡がまだ残っている。
池上線は当時文字通り池上止まりとなっている。
池上本門寺は駅の北側に位置している。
この地図を初めて見た時多摩川の流路の変遷で出来た池か沼の跡かと勝手に想像していたがまるで違っていた。
競馬場であったとは驚きである。

旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm



[東京千住] 千住競馬場
千住競馬場
千住仲組の緑町ではいわゆるヤミの草競馬が行われていた。
明治39年(1906年)馬券を発売する競馬を開催したが千住警察署長は馬券は賭博にあたると発売を禁止する措置をとりレースを中止させてしまった。
以後明治41年(1908年)正式に馬券発売は禁止となった。
地図では輪士會競走場となっており自転車倶楽部の競走場であるが競馬はここで開催されいたのではないかと想像している。
場所は千住神社(古地図では氷川社)の西側の千住緑町三丁目に相当する。

旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm






千住競馬場







[東京川崎] 川崎競馬場
川崎競馬場
京浜競馬倶楽部は明治39年(1906年)9月に板垣退助を中心に設立され、翌年の明治40年(1907年)7月に川崎競馬場で競馬が開催された。
明治43年には他の3団体と合併し、東京競馬倶楽部が設立され目黒競馬場へ移っている。
廃止された川崎競馬場はその後、富士紡績川崎工場となった。
地図は残念ながら競馬場時代のものは無く、紡績工場の時のものである。
川崎歴史ガイドより
大正の始め、競馬場の跡地に東洋一の紡績工場を建て、川崎の工業都市化を決定づけた富士紡績。
女工2000人。
沖縄出身者も多く、沖縄芸能が川崎に根付いた。
戦後、跡地は再び競馬場に。

旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm




川崎競馬場








[東京板橋] 板橋競馬場
板橋競馬場
板橋競馬場は東京ジョッケー倶楽部が明治40年(1907年)認可を受け運営した。
明治43年目黒競馬場へ他の競馬場と共に統合されている。
当時馬券は一枚十円で庶民には手が届きにくい高価なものであった。
写真上は競馬場東南部に当たる氷川図書館前のものである。
豊島病院は競馬場の敷地内の一角に出来ている。

旧道行脚
http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm





板橋競馬場




国技館




明治42年(1909年)
明治42年(1909年)、東両国に国技館が会館した。
これまでの技場は回向院にかわり国技館となった。
桟敷から4階まで16000人分の客席があったというから、
足掛け4年がかりの工事も無理はなく、
それだけの収容人員を予定するほどの人気があったわけで、前評判も大したものであった。
常陸山・梅ヶ谷の両横綱の全盛時代で、
2年ばかり後に、あまりに強すぎて人気が振るわなかった太刀山も横綱を張るが、
円筒形の館内はすべて鉄骨に支えられ、
まさに大きなこうもり傘をひろげた構造で、
「大鉄傘下の熱戦」という言葉もここからうまれた。
-中公文庫 石版東京図会

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