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Defoe「ペスト」~17世紀ロンドンに流行した疫病の記録

Defoe「ペスト」~17世紀ロンドンに流行した疫病の記録
それは確か1664年9月初旬のことであったと思う。近所の人たちと話していた時に,私はふとペストがオランダに流行りだしたという噂を耳にした。「また流行りだした」というのはその前の年の1663年にオランダはこのペストのためにひどい目に遭っていたからである。
特にアムステルダムとロッテルダムはその中心地であった。なんでもその時の話の様子では,あるものはその疫病はイタリアから入ってきたと言い,またある者はレバント地方から紀行したトルコの商船 で運ばれた貨物にくっついて入ってきたのだとも言った。いやあれはクレタ島からであるというものもいたし,サイプラスからだと言う者もいた。
しかしどこから疫病がやってきたかは問題ではなかった。問題は再び疫病がオランダに流行りだしたということであった。これには誰も異存はなかった。当時まだ新聞などという報道を伝える印刷物はなかったし,その後長生きしたおかげで私も実際に見てきたような嘘八百を並べ立てては風説や報道をさらに煽り立て様と言ったメディアはなかったのである。
■1664年11月
政府当局は真相については正しい情報を持っていたらしく,国内侵入を防ぐ手段を講じようとしてしばしば会議を開いていたようであった。しかし実際は秘密にされていた。そういうわけでその噂も自然に立ち消えになっていき,我々も元々大して我々に関係したことでもなかったのだという風にいつのまにか忘れかけていた。またあれは本当ではなかったらしいとホッとしたような気にもなっていた。
しかし同じ年1664年11月下旬だったか,それとも12月上旬だったか,突然二人の男がロングエイカーでドルアリ通りの上手の家で疫病のために死んだのである。二人が泊まっていた家の者はできるだけこのことを隠そうと努めたらしい。しかしいつのまにか近所の話題になって,当局者の知るところになった。このことは直ちに教区役員に正式に報告され,教区役員はまた教区役員本部に通報した。死亡週報にはただ簡単にこともなげに
感染 2
感染教区 1
という記事が掲載された。これを見た市民の不安は大変なものであった。ロンドンは上を下への大騒ぎになった。
■1664年12月
その折も折同じ1664年12月の最後の週に同じ家で同じ病気で死んだ者がもう1名でたものだから,その不安には一層大きくなった。しかしまたそれから6週間ばかり平穏無事の日が続いた。その間死者でベストに犯された痕跡を示していたものはなかった。「悪疫は退散した」などと言いあったりした。
■1665年2月
しかしそれも束の間のことで,翌年1665年2月12日頃だと記憶するが,死亡者が1名が同じ教区の別の家からでた。区域も同じなら病気の経過をまた同じであった。
こうなると全市民の目は自然その界隈に注がれるようになった。セントジャイルズ教区の死者数は普段よりもグッと跳ね上がっているのが死亡週報にはっきり表れていた。したがってその界隈の住民の間に疫病患者がいるらしいということが恐れられた。またできるだけ世間の目から隠そうとも勤めていたが,それにもかかわらずおそらく大多数の人が疫病で死んだと思われた。この不安は深刻に市民の頭に染み込んいったようであった。
 死亡者数の増加は次の通りであった。
セントジャイルズ インザフィールズ教区とホウボン区のセント・アンドルー教区の一週間の普通の死体埋葬数は多少の増減はあるがだいたいにおいて12~19というところであった。
ところがセントジャイルズ教区に初めてペストが発生してからというもの,普通の病気による死者数が著しく増加してるのが認められた。例えば
12月27日~01月03日 34
01月03日~01月10日 30
01月31日~02月07日 44
02月07日~02月14日 24
すべての教区の死亡者数は普通240~300の間であった。300という数字でも相当に高い死亡者数であると考えられていた。ところがベスト発生以後死者数はみるみるうちにうなぎ上りに上がっていった。すなわち
12月20日~12月27日 291
12月27日~01月03日 349
01月03日~01月10日 394
01月10日~01月17日 415
01月17日~01月24日 474
この数字の増加は前回のペストの流行の1656年以降わずか一週間としては実に未曽有のものであってその点まさに恐るべきものであった。
しかしながらこれ以降は何事もなく済んでしまった。天候は寒くなって,前年12月に始まった寒気はほとんど2月の終わりまで衰えずに寒さは極めた。その上まるで肌を刺すような風が吹いた。
死亡者数はずっと減ってロンドンは再び生気を取り戻した。誰も彼も危険はもうさったも同じだと思い始めた。ただそれでもなおセントジャイルズ教区の死者数だけは相変わらず相当なものであった。
■1665年4月
セントジャイルズ教区の死者数は特に4月上旬からはその数は毎週常に25を下らなかったが毎月18~25日に至る1週間ではこの区域で埋葬したした死体の数だけで30に達した。そのうち
疫病によるもの 2
発疹チフスによるもの 8
ということになっていた。しかし発疹チフスと言っても本当は疫病だと考えられていた。同じような理由で全死亡者数の中でこのチフスのために死亡した者の占める数もずいぶん増えてきた。前の週に8であったものが今週では12といった具合であった。これには我々も再び驚いた。深刻な憂鬱の色が市民の間に漂い始めた。特に気候もだんだんと暖かくなってゆこうとしていたし,夏もおっつけやって来ようという気配であったので一層深刻な物があった。
その翌週にはまた希望の色がみえ始めた。死亡率が下がってロンドン全市を通じて死亡者数はわずかに388人で,疫病によるものは一人もなく,チフスもわずか4人であった。
■1665年5月
しかし次の週にはまたぶり返してきた。疫病は他の2~3の教区,すなわちボウモン教区,セントアンドリュー教区,セントクレメントレインズ教区にも蔓延していった。しかもその上市民を慄然とさせたことはとうとういわゆるシティ(城中)のセントメアリーチャーチ区域に1名の死亡者を出したことであった。
つまりその場所は正確に言えば 食料品市場の近くのベアバインダー通りであった。この週の死者数のうち疫病によるものは9人,発疹チフス6人であった。しかしさらに調べてみるとこの日ペストバインド通りで死亡した人はフランス人で,かつてはロングエーカーの感染ホテル近くに住んでいたこともあって病気にかかるの恐れて移ってきた人であることが分かった。ところが実にはその人はもうすでに病気に感染していたのを本人が気づかなかったのである。
これが5月の初めのことであった。まだ気候は温和でしのぎやすく程よい涼しさであった。従って市民は未だ幾ばくかの希望を持っていた。こんな風に望みを繋いでいたのは次のような事情もあった。それはロンドンがまだ健全と思われていたことだった。97の教区のうちで疫病に倒れたものはわずか54人に過ぎなかったからである。我々も病気の蔓延しているのはロンドンの中でも専ら問題になっている端の方の教区にすぎない。従ってそれ以上広まる心配はあるまい。そう高をくくり始めた。
5月の9~16日までの7日間わずかに死亡者数は3人になった。しかもそのうち一人も市内・自由区にはいなかったのである。セントジャイルズ教区では患者が32もあったことは本当であるがそれでも疫病にかかって死んだのはわずか1名に過ぎなかった。こう死亡率が下がってくるとそろそろまた市民たちは安堵の笑みを浮かべるようになった。前週の死亡者はロンドン全体で347人。今週はそれが343人になっていた。
次の死亡通報は5月23~30日までの期間。セントジャイルズ教区の死亡者数は実に53というまさに戦慄すべき数であった。このうち疫病によるものは9と公表されていた。しかし市長の要請に基づき治安判事たちが徹底的に調査したところ,その区域で実際に疫病で死んでいたものはこの他にも20人もいたということが判明した。しかしこのようなことはこの後に起こった事柄に比べたら全く取りに取るに足らない事柄であった。
■1665年6月
気候はもうすっかり暑くなった初夏6月第1週頃からはこの疫病は恐ろしい勢いで広がっていった。
6月第2週目を迎えるようになると,セントジャイルズ区域では死亡者数は120になった。このうち死亡通報の伝えるところによれば疫病によるものは68に過ぎなかった。しかしこの疫病のいつもの数字の数から考えてみてどう転んでも100人は疫病で死んだに違いないと誰も彼もが信じていた 。
■1665年7月
すでに7月の半ばになっていた。疫病は主としてロンドンの向こう側の地区でイレブン教区及び保護区域のセントアンドリュー教区やウエストミンスター教区よりの地域などで猛威を振るっていた。
私の住んでいる地域に向かって徐々に疫病地帯が移動していた。それは文字通りの東進であって,しかし決して我々の方に向かってまっしぐらに進んできているのではなかった。例えばシティ(城中)はまだまだ相当に平気であったし,川の向こうのサザン教区にもあまり進出してきてはいなかった。
この週の死者数は約1268人でうち疫病によるものは900人以上と考えられていた。一方シティ(城内)ではわずか28人の犠牲者に過ぎなかった。一方セントジャイルズ教区とセントマーティンズ・インザフィールズ教区の二つの教区だけでも実に421人の死者を出していた。しかしこの疫病が陰惨を極めたものは,何と言っても城外区(アウト パリス シティ)つまりかつての城の周辺にある区域だった。何しろ人口が多い上に貧乏人が多いのである。疫病は一層餌を求めて荒れ狂っていたのである。
とにかく病魔は次第に自分たちの方に近づいてくるのを我々は認めていた。すなわちクラーケンウェル教区,クリップゲート教区,ビショップスゲート教区などの区域を追加して迫って来ようとしていたのである。特にこの二つの区域はゴールドゲート教区,ホワイトチャペルし教区などの区域に接していたのであるが病気がいよいよ迫ってきた時にその凶暴さは非常な猛威をふるった。 最初に発生した西部の区域で次第に病気の勢いが衰えていった時でさえも依然として激烈を極めているというふうであった。
7月8日~7月11日の間に セントマーティンズセント教区・ジャイルズ教区の二つの教区だけでほとんど400人の人がベッドに倒れた。にもかかわらずオールドゲート教区では4人,ホワイトサドル教区では3人,ステファニー教区では1人これだけしか流れなかったこれには我々も驚きを禁じえなかった。翌週7月11~18日に至る間にロンドン市全体の死亡者数が1761人であったにも関わらず,テムズ川の向こうのシティ地区では疫病に倒れた者はわずか26人であったのである。
■1665年8月
しかしすぐに形成も一変してくる。ゲート教区を始めクラーケンウェル教区などにおいて猛勢をたくましくしつつあった。
例えば8月第2週までにクリップゲート教区だけで886人の死亡者数を出してクラーケンウェル教区も155人の死亡者数を出したが,このうちクリップゲート教区においては実に850人が疫病に関しているものと推定された。
クラーケンウェル教区でも死亡者数ホノルルところでは145人がすぐにあるとのことであった
08月22日~08月29日 7496
08月29日~09月07日 8252
09月07日~09月12日 7690
09月12日~09月19日 8297
09月19日~09月26日 6470 
8月のロンドンの人口は1月のそれの1/3もなかった。ロンドンの風景は今や全く一変してもはや昔日の面影はなかった。あらゆる大きな建物を始め
シも自由区もウエストミンスター地区もすべてが一変してしまったのである。ただあのシティと言われる特別な一角。あそこだけはまだ被害を受けてはいなかった。しかし一般の様子は前にも言ったようにすっかり面目を一変してしまっていた。どの人間の顔にも悲しみと憂鬱が漂っていた。まだ破壊的な打撃を受けていないところもあったが誰も彼も一様に不安に怯えた顔つきをしていた。私はこの在り様をそっくりそのまま伝えることができたらと思う。近親者の死を悼むために正式の喪服をつけたりする者は一人もいなかった。街にはそれらしい葬式の姿は見られなかった。しかし悲しみの声は街に溢れていた。。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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Defoe「ペスト」~17世紀ロンドンペスト封鎖, 一時収束後に第二波絶頂期
■1665年5月ペスト一時収束
ペストが収束し始めるや否や,直ちにロンドンに忽然として夥しい人々が現れた。
ペスト感染初期の頃の話であるが,逃げ出すことも思いのままにできる人々や田舎に疎開先を持っている人々は我を争って田舎へ逃げて行ったが,その数は全くおびただしいものであった。
さらにいよいよ病勢が激しくなると,頼るあてもない中流階級の市民達も避難できるとこならどこへでも全国至る所に逃げていった。なんとか自活できるお金のある人も,そういうお金のない人も,みんなぞろぞろ英国の郊外へ逃げたのである。
お金のある市民はとにかく食っていけるのでできるだけ遠い方へ逃げるというふうであった。しかし貧乏な連中となるとその難儀はひどいものであった。そしていよいよ生活に困ると田舎に迷惑をかけるということになる。そのために田舎の街が騒然となることもしばしばであった。時には避難民を逮捕することもあった。しかし逮捕したところでさてどうするというあてもなく,罰するつもりも大してあるわけではなかった。結局無理やりに追いたてるだけの話で,そんなわけで避難した者もやむなくロンドンに舞い戻るという事であった。
身寄りのない多くのロンドンの難民がいたる所の田舎に逃げていって,小さな仮小屋や納屋や離れ家などを作ってそこに住んだということも事実であった。もちろんそれができるのは地方の人たちの好意を得ることのできるところに限られていた。特に少しでも自分たちの健康の証明や,ロンドンを出たのはそんなに最近ではないということの証明をはっきりさせることの できたところではそれは容易であった。このほかこれまた大勢だが,野原や森の中に掘立小屋・避難小屋を作って住んだり,洞窟の中で仙人みたいな生活をした人々も大勢いた。そういうところでの生活がどんなに苦しく困難であるかは容易に想像できる。しかし終いにはどんな危ない目にあっても構わないという気持ちになって多くの者はロンドンに帰っていったのである。そのために掘立小屋で空っぽのままのものがずいぶんたくさん残っていた。田舎の人はこれはてっきりペストにやられて,小屋の住人が死に絶えたものと思い込んで近づこうともしなかったものである。かなり長いことそういう状態が続いた。
不運な放浪者の中には孤立無援のままに 人に知らず住んでいた者がいた。ある時などはテントだか納屋だかの中に一人の男が死んでおり,すぐ近くの畑の門のところに不揃いな字で次のような文句がナイフで刻みつけてあった。
もういけナイ
二人ともスグ死ぬ
ああ
テムズ川下流では,いわゆる「沖泊」というのであるが,幾層もの船がずっと纜(ともづな)を結び,列をなして停泊していた。聞くところによればこういう状態は下流のクレイブゼンドに至るまで続いていたということであった。波風の心配がなく安全に停泊できるところならずっと下流に至るまで,ほとんどあらゆるところでそういう光景が見られたということであった。そのような船に乗り込んでいた人たちでペストにかかった人の話は私はまだ聞いたことがなかった。乗っている人たちが上陸して近い町や村や百姓の家に新鮮な食料品・鶏肉・豚肉・牛肉などを買いにしばしば出掛けたにもかかわらず,誰も病気にかからなかった。ただ例外としてはプールやずっと上手のデッドフォド入江辺りに停泊中の船は相当にやられていた。ロンドン橋から上流にいた船頭たちも,我勝ちにと上流へと逃げていった。その大多数の者は彼らの天覆いや鏨(たが)を上からかけた船に家族を乗せていた。寝るためには船底に藁を敷き詰めていた。こういう有様であって,船頭等は川沿いの沼地にずっと上の方まで停泊していたのである。ある連中は昼間は川岸にちょっとしたテントを張って休んで,夜になると船に戻っていくという生活をしていた。話に聞くとこんな状態で川岸に沿ってずっと上流まで長蛇の列の船が並んでいた。何か食べ物が手に入るところ,その近辺から何か買えるところならばどんな遠いところでもその遠さをものともせずに船の列が続いていたという。事実田舎の人は紳士はもちろんのことその他の人たちもこういった緊急の際は喜んで援助の手を差し伸べた。ただしかし船頭等を自分の町や家に入れてやろうとは絶対にしなかった。それは無理無理もないことであった。
ロンドン近隣町村の住民が,感染を恐れて逃げてくるロンドン市民に対して残酷な態度に出たことが非難されていたことは私もよく知っている。実際無慈悲なことも行われていた。しかし自分の身に危害を加えられる事が明らかでなければ,ともかくそうでない限りは信仰の人々は良心に恥じない程度の慈善と援助の手を喜んで彼らに差し伸べていたことも私としては言っておかなければならない。しかしどの村も結局自分が可愛いことに変わりはなかった。従って苦し紛れに逃げ出したロンドン市民たちは結局虐待されて,とどのつまりロンドンに追い返されるという場合が実に多かったのである。当然ロンドン市民の間には近郊の町や村に対する喧々囂々たる不満がこだました。その非難の声は終いには収集できないほどになった。ところで町村側の警戒にもかかわらず,ロンドンを中心とする半径10マイル以内にあるちょっと名の知れた町や村ではペストに侵され,また若干の死者を出さなかった地はひとつもなかったのである。
この他にロンドン市民に対する田舎の人々の警戒心を一層強めさせたもう一つの問題があった。それは特にロンドンの貧乏人に対する警戒心であった。このことには,既に病気にかかった人たちの間に今度は病気を他に伝染してやろうという恐るべき傾向があるらしいということであった。このことについては医者仲間で議論が戦わされた。こういう傾向はこの病気のしからしめるところだと説く医者もいた。その説によれば,病気にかかった人間には自分の仲間に対する一種の狂乱と憎悪の念が例外無しに生まれる。病気そのものの内に他の人に伝染してやろうという悪性なものはあるばかりではなく,患者の性格の中にもそういう悪性が現れてきて,ちょうど狂犬病の場合と同じく,他にも悪意をもって悪い目つきで見るようになるというのである。狂犬病にかかった犬はどんなに大人しい犬であってもたちまち手当たり次第に飛びかかってくる。それも以前よく懐いていた人であろうとなかろうと構わずに食いつくと言われる。それと全く同じだというのである。人間の性質のものが腐敗しているからだという説明をする人もいた。つまり同じ人間の仲間でいながら自分だけが他のものよりも悲惨な状態にあるという事実に耐えられずに,あらゆる人間が自分と同じぐらい不幸な目に遭うか哀れな境遇に 落ちて欲しいという欲望を持つに至るというのである。
ロンドン市民が徒党を組んで大挙して押し寄せてくる,それも助けを求めるためどころか略奪しに来るのだという情報が田舎の人々の耳に伝わって皆愕然としたそうであるが,そう驚くのをもっともなことだと思われる。その情報によれば市民たちは病気にかかったらかかりっぱなしにただやたらにロンドン市内を右往左往しているとか,患者の家を検査して患者が他の人に感染させるのを防ぐのという何らかの手段を講じられていないとか,そういったことは言われていたのである。
しかしこれはロンドン市民の名誉のために言っておかなければならないが,先に述べた特殊な場合を除いては,伝えられたようなことは絶対に行われなかったのである。むしろ万事が綿密な考慮のもとに処理されていったというのが真相であった。ロンドン全市はもちろんその郊外も市長と市参事によって見事な秩序が保たれていたのである。外教区(アウト・パリシュ)では治安判事と教区役員が見事にその責任を果たしていた。そんなわけでペストが最悪の猛威を振るった時期でも立派な統制が取れて見事な秩序が市内至る所に保たれていた。
これについてただここで述べておきたいことは,ある一つの事が主として治安関係の役人により慎重な配慮によって達成されたということである。そしてこのことは彼らの名誉のためにも言わなければならないことだと思うのである。それは何かと言うと家屋閉鎖という困難な大事業をやるに際して彼らの取った緩急よろしきを得た措置である。家を閉じてしまうということは市民の非難の的であったことは事実である。当時としては市民唯一の非難の的と言っていいほどであった。同じ家に患者も健康の人も一緒に閉じ込めてしまうことは誰にも残酷なことと言われていた。そうやって閉じ込められた人の訴えるこえは悲惨の極みだった。その声は道路を歩いていても聞こえるほどであった。それを聞くと同情の念が悠然として湧き上がってくる。時には痛切な怒りの念を覚えることもあった。家の人々が友人と話ができるのは窓のところからだけであった。その悲痛な訴えは話し相手の心を動かすことはもちろん,たまたま通りかかった人の心を動かすことも再三あった。こうやって閉鎖された家から色々秘術を尽くして監視をごまかしたりへこましたりして逃げ出そうとする話や,実際に逃げ出した人々の話もあった。そのことにはしかし治安当局が閉鎖された家の人間に対する処置にかなりな裁量を加えていたことは言っておきたい。ことに家人が病人をペスト病院か何かに本人の希望に応じて移す場合,あるいは病j.人自身が移される場合などかなり酌量が払われた事を言っておきたい。
■1665年8月,9月,第二波絶頂期
8月・9月の1番の絶頂期に病気にかかった人間で死を逃れた人間はまずいなかった。この頃の病状は6月・7月・8月初旬の頃の一般的病状と全然違っていたということである。初夏の頃に病気にかかった人間は,かかったままで何日も生き続け血管の中に病気の毒を養ったあげくぽっくり死んでいった者が多かったのである。ところが今度は反対で,8月後半の2週間~9月前半の3週間後に病気にかかった人間はどんなに長くても2~3日でだいたい死んでいった。かかったその日に死んだ人間も多かった。こういう無残なことが起きるのは暑い土用のせいかそれとも占星術師が言うように狼星(Dog Star)の感応力からしめることかどうか私は知らない。それとも前から持っていた病気の種子がこの時期になって一気に発育したもの かどうかも私は全く知らない。とにかくこの時期は一晩で3000人以上の死者が報告された時期であった。事実を詳しく調べたと敢えて称する連中が伝えるによれば,死者はすべて2時間以下の間に,つまり午前1時~3時までの間に死んだそうである。以前に比べてこの時期になって病人の死に方があまりに唐突になった事についてはその実例がおびただしくある。
私の近所だけでもいくつかあげることが出来る。ロンドンの関門の外側の私の家からさほど遠くないところに住んでいたある家族は,月曜日に全員健康そうに見えていた。家内は10人家内であった。ところがこの月曜日の夕方に女中1人と小僧1人が発病し翌朝に死んだ。同時にもう1人の小僧と主人の子供2人が発病して3人はその夕方に死に,残りの2人が翌週の水曜日死んだ。こういうわけで土曜日の昼までに主人主婦,4人の子供,4人の方奉公人全員が死んでしまった。家ががらんとなった後にはただ一人亡くなったその主人の兄弟の依頼で家財道具を片付けに来ていた老婆だけがぽつんと残っていた。その兄弟というのはあまり遠くないところに住んでいて病気にかかっていなかったそうである。
おびただしい家屋がらんどうになった。
ロンドン関門の少し向こうのところであるが,先ほどの地区を進んでいくと「モーゼとアロン」という街の標識があった。そこから入っていった小路などなどひどいものであった。 何軒かかたまった地区では全部合わせても一人も生きている人間はいなかったという。小路の死者があまりに多くて埋葬人や墓堀人に埋める通告を出す人がいなかったという状態であった。
市民はあまり悲しみのどん底に陥って生きる望みを失って自暴自棄になった状態が続いた。すると最悪の3週間から4週間を通じて意外な現象がおk8た。つまり市民がやたらに勇敢になったのである。たがいに逃げ隠れをもなくなったし家の中に人に閉じこもるのも辞めてしまった。それどころか,どこだろうがそこだろうが構わず出歩くようになった。相手がまず話しかけるようになった。片割れの人間に向かって次のように言う人もいた。
「あなたのご機嫌を伺っても仕方ないし,私の機嫌のことを言っても仕方がない。ともかく一同揃って迎えが来たらいくわけですから。誰が病気で誰が健康だと言ったところで始まらない」
そんなわけで平気で公衆に混じり,どこへでもどんな人ごみの中でも出かけていった。平気で公衆の中に混じるようになるに連れて,教会にも群れをなして出掛けるようになった。席のそばに誰が座ってるかなどもはや問題ではなかった。悪臭を放つ人間と一緒になろうが,右がどんな様子の者であろうが介しなかった。累々と積まれた死体であるとでも考えているのか,教会に来る目的である聖なる務めに比べるならば生命は価値を持たないとでも考えているようであった。熱心に教会に来て真剣な表情で説教を聞いている姿は全く驚くほどであった。そういう光景を見ていると彼らの神を拝むということをどれだけ重要視してるかは明らかだ。
この他にも思いがけない現象が生じた。市民が教会に行って説教壇上の人間を見てもそれが誰であろうと従来のような偏見に満ちた態度を一切示さなくなったこともその一つであった。
病気の最も激しかった頃の私の見聞について話を続けよう。
もう9月になっていた。この9月ほど悲惨な9月をいまだかつてロンドンは味わったことが無かったのではないかと思う。
以前にロンドンに起こった悪疫流行の記録を全部見てみたが今度のような惨状はいまだかつてなかった。8月22日~9月26日までの僅か5週間で,死亡週報の報ずるところによれば,ほとんど40000人からの人が死んでいた。これでだけでも膨大であったがこの計算がすこぶる不十分なものだったと信じる理由があった。その理由を知ればこの5週間のどんな週でも週に1万人以上の死亡者数がいて,その期間の前後の週にもそれ相応の死者があったことを読者にも容易に信じていただけよう。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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船乗生活者であふれる港
私は疫病がグリニッジまで広がっているかどうか男に尋ねた。すると「少なくとも約2週間前までは広がっていなかったが今頃はひょっとしたら広がっているかもしれない。しかしそれもレッドフォード橋よりの町の南の一部分にすぎないだろう」ということであった。また彼がそこで買い物に行くのは肉屋と八百屋だけで大概それらの店で頼まれた買い物を済ませるが,病気のことには自分でも随分と注意しているということなどを付け加えていた。さらに船の中に閉じこもっている連中が十分な生活必需品を貯蔵していないのはどういうわけか尋ねると,中には蓄えのある人もいる。しかしその反面いよいよの土壇場になってからやっと船の中に逃げ込んだ人もいて,その時には危なくてしかるべき商人の所に行って買い込みをするなんてことは思いもよらない事だったという答えだった。
今買い出しをしてやっている船は 3隻だけだそうで。 その船を指さして教えてくれたが,ビスケットとパンとビールの他にはほとんど食物らしい食物がないので,その他の生活物資は一切合切買ってやっているということであった。
「他にこういう風に他の船から離れている船があるのか」という私の質問に対して
「ありますとも。グリニッジのちょうど向かいの地点からライム・ハウスやレッド・リフの川岸近くまで川の真ん中に2席ずつ船内に余裕のある船が停泊しておりますよ。ある船なんか何家族も住んでいますよ。病気にはかかっていないってわけだね。いや,まだやまだでしょうな。きっと。ただね,2~3隻乗っている人たちがちょっと油断したもんで,船乗人が陸に上がったりして,とうとう病気を持ち込んだってのがありましたがね」
それからプール沖合に船がずっと停泊しているのは大変な壮観だとも言った。
潮が彼のボートの所まで来た時,私はボートに乗り込んでグリニッジまで連れて行ってもらった。
彼が頼まれものの買物をしている間に私はグリニッジの町を見下ろす丘の上まで歩いて行ったり町の東まで行ってテムズ川を眺めたりした。夥しい船が2隻ずつ並んで停泊している有様は誠に異様な壮観であった。川岸の広いところではそれが2列3列になっているところもあった。
しかもそれがずっと上流・ロンドンの町近くラドクリフやレッドリーフなどといった町を挟むいわゆるプールと呼ばれるあたりまで続いて,下流はロングビーチの端に至る下流全体に渡っていた。少なくとも丘の上から見られる限りではそういう風に見えた。それらの船の数がどれだかほとんど見当もつかなかった。しかし少なくとも数百隻の帆船が泊まっていたと思う。
それにつけても実に頭の良い計画だと感心した。こうやっていれば海運業に関係している1万人あるいはそれ以上の人が完全に感染の心配から逃れて極めて安全にまた容易に生命を全うすることができるというものである。
久しぶりの遠出に,特に今述べた船頭との交渉にすっかり気をよくして私は家に帰った。
考えてみればこういう危険時に船といういわば小さな聖域を多数の人々がその生活の場にしているということは確かに喜ぶべきことであった。
疫病の猛威が激しくなるにつれて幾世帯もの人々を乗せた船がともづなを引き錨を上げて移動して行くのを私も目撃したが,何でも噂によれば何隻かの船は海まで下っていって各自便利なところを求め,北海岸のいろいろな港や投錨地まで逃げていったということであった。
しかしまた一面から言えば,陸地を避けて船の中の生活を営んでいる人々が必ずしも絶対に安全だとも言えなかった。実際多くの人が船の中で死亡していた。その遺骸はあるものは棺に入れられて,あるものは棺にも入れられないままでテムズ川の中に投げ込まれた。川の潮の満引とともにその遺骸が浮き沈みしながら流れていくのをがいくつも見ることができた。
しかしこういう船から疫病患者を出す場合,次のような二つの原因のどれかに基づいたと思うのである。すなわち船に来るのが遅すぎて今更飛んできたところでどうにもならないといったところの実質的患者が船に来る。しかしその時にはすでに自分では気が付かず病気に冒されていた。 といった場合がその一つである。つまりその場合には病気が船に行ってきたのではなくて,実は乗り込んできた人たちが病気を持ち込んだという理由である。
次に例の船頭が言っていたように,十分な生活必需品を蓄える余裕がなかったために,是が非でも必要な物資を買いに人を陸上に送らねばならないとか,あるいは陸地からボートがやってくるのを大目に見なければならないとかいった船の場合がその二つ目の可能性。従ってこの場合は病気が知らず知らずのうちに船の中に持ち込まれたということになる。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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無策の策
ロンドンのような人口過密地帯の大都会では感染したからといって即刻あらゆる家を虱潰しに調べることはできないし,感染した家を全部が全部閉鎖してしまうことができない。
だから病人でも好きなところに,つまり自分が何番地何番の病気の家の一員だという正体が見破られないところへどこへでも自由に行けたというわけだ。これは幾人かの医者も執拗に申告したことであるが,伝染病が猛威を極め野火のごとく広がっていて多数の人々があっという間に発病してたちまち死んでゆくというような非常時には,誰が病気で誰が健康であるかを必死になって調整したり,いちいち杓子定規に家を閉めたりしようとしても,第一それが不可能であるばかりではなくて無意味でもあることは争えないことであった。
一つの通り全体のうちで,ほとんどの家が感染していたり,ところによっては家族全員が病気に冒されているということも多かったのである。もっとまずいことはこれこれの家が病気にかかったということが分かった時には,もうその家の病人は死亡していて残りの家族は隔離を恐れ逃亡してしまっているということであった。家族の者が多少とも病気にかかっているとはっきりわかる頃には病気の方は散々荒れ狂った挙句にもうその家からおさらばしているというわけである。
こういう次第で病気の蔓延を防ぐことは到底当局の手に負えることでもなければ,また人間の考える方法なり対策なりの及ぶところではないとすれば家屋閉鎖というやり方は 目的を達成するには不十分だということは常識のある人には納得していただけるだろう。いかにも公益ということが言われていたが,家を閉ざされてしまった特定の家族の被る深刻な重荷に匹敵するだけの,あるいは釣り合うだけの公益がそこにあるとも思えなかったのである。そのような過酷な処置を指揮して実行する役目を当局から仰せ遣って実際に見聞した限りでは,この法則は目的に沿うとも言えないものであるということを私は思い知らされたのである。
例えば私は見回りつまり検察員(Examinar)としていくつかの家族の病状を詳しく調べることを要求されたのであるが,我々見回りが明らかに家族の一人が悪疫にかかったことが分かっている家に入った場合,そこの者が逃亡していないということはまずなかったのである。治安当局の上司はこんな場合「誠にけしからんことだ」とばかりに憤慨して我々検察員に点検上の不行届を追求してきた。少し調べてみたところで要するにこちらにわかる以前から病気に侵されていたことがわかるだけの話であった。
ところで私は2ヶ月という正式の任期の半分にも満たない期間この危険な仕事に従っただけであるが,それだけの期間でも玄関や近所で訪ねるくらいでは病人の家の真相を突き止めることはできないことを知るに十分であった。真相調査に一軒一軒家の中に入っていくことはさすがの当局者も我々市民相手に課そうとはしなかったし,また市民の中で誰一人としてそれを引き受けようとするものもなかった。そんなことをしたら我々がこちらから好んでペストに生身を捧げに行くようなものであって,我が身はもちろん家族の破滅は必至であった。そればかりではなくてこういう過酷な目にあわなければならなかったとなればまともな市民ならロンドンを見捨て退去していただろう。
一家の戸主は自分の家の者が誰かが病気になった場合,疫病の兆候が現れた場合,それを発見次第,2時間以内にその居住区域の検察員に 報告する義務がある旨法令によって定められていた。ところが実際にはどの家も色々な口実を設けてはごまかして,なかなかその法令を履行しようとはしなかった。結局病気の有無はともかく,色々手段を講じて逃げたいものを逃して行ってからでなければ報告をすることはまずなかった。
事情がこんなふうであったから,家屋閉鎖が悪疫流行を食い止める有効な手段だと見るわけにはいかないことは明らかであった。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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スピリチュアル情報


「守護霊様からのメッセージ その43」
「タヌエのスピリチュアル日記」さんより
守護霊様からのメッセージ’のシリーズは、私がご依頼を受けた守護霊様リサーチの際につながった守護霊様から頂いた個人宛のメッセージを、守護霊様からの許可を得て、読者の皆様宛に、必要に応じて一部改訂した内容を掲載します。
今回紹介いたします内容は、17世紀の頃、日本で女性として転生していた守護霊様からのメッセージです。守護霊様は、京都でも老舗にあたる呉服を扱うお店で、女将さんとしてこの店の切り盛りをしていたとのことです。仏教や神道を信仰していたようで、家のお仏壇のみならず、お寺様やその境内に隣接している神社にも毎日のように通って、お祈りを欠かさず行っていたようで、今自分が健康で無事にあるのは神仏のおかげでありご先祖様が守護してくださっているおかげであると、常に感謝をしていたとのことです。
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〈守護霊様からのメッセージ〉
「慌てて事を急ごうとすると、慌て焦ることで波動が思いっ切り下がってしまい、なかなか事がスムーズに運ばない場合がよくあります。「急いては事を仕損じる」ということわざの通り、自分自身の行動に慌てているような焦りのような感情が沸き上がっていると認識できた時には、いったん心を落ち着かせ、深呼吸をして体のバランスを整え、心が落ち着いたと感じたら改めて何かの選択をするようにするとよいです。
これまでに失敗と思われるようなことを、何度も経験してきたわけですが、実際にはこれは失敗ではありません。あなた自身が過去世から繰り返してきた過ちを、今世の大事な時に繰り返さないようにするための、良き経験と学びをするために自らが選んできたことが多いのです。
ですから、これまでにあった失敗と思うようなことを後悔する必要はなく、すべてがよき経験であり学びであるとポジティブに捉え直し、今後同じように失敗と思うような選択をしないように努め、この先により波動の高く安定した在り方をするための糧として、教訓となることとしてポジティブに捉え直すとよいです。
あながち間違えたことではないのにくよくよ悩む必要は本来なく、あなたがその時にこれで良しと思って選択したのでしたらそれはそれで良かったわけで、後になって考え直すとやっぱりこちらの道の方が良かった、こういう選択をすれば良かった、と後悔する必要はありません。
その時点で良いと感じた自分に自信を持ち、そういう選択をした自分自身を信頼し、その時その時点でより良いと感じることを選択するというあなた自身のその基準に沿ったことを選択するというその意思を大切にし、この先もあらゆる外側のことは参考にしつつも、あなた自身の意思という内側による選択を最も大切になさるとよいでしょう。
細かいことを気にすることは、あなたの様な心の繊細さを持ち合わせている人はそれも一つの個性であり、その繊細さを持ち合わせているがゆえに、様々なことを上手くやりこなすこともできますが、時にはそれが仇となり、ネガティブに感じるような状況に陥ることもあったはずです。
でも繰り返しになりますが、どんな時でもあなたがあなた自身でその今の時点でこれで良いと感じた事に自信を持ち、何か重要で大切なことの場合には、それなりに強い責任をもってその時点で良いと思ったことを選択したと自分自身で自信が持てる選択をし続けていれば、それはあなたにとって必要なポジティブなものであるといえるのです。」

プレシャンブルーの風に抱かれて
http://blogs.yahoo.co.jp/mappyhappy713