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Defoe「ペスト」~17世紀ロンドンに流行した疫病の記録

Defoe「ペスト」~17世紀ロンドンに流行した疫病の記録
それは確か1664年9月初旬のことであったと思う。近所の人たちと話していた時に,私はふとペストがオランダに流行りだしたという噂を耳にした。「また流行りだした」というのはその前の年の1663年にオランダはこのペストのためにひどい目に遭っていたからである。
特にアムステルダムとロッテルダムはその中心地であった。なんでもその時の話の様子では,あるものはその疫病はイタリアから入ってきたと言い,またある者はレバント地方から紀行したトルコの商船 で運ばれた貨物にくっついて入ってきたのだとも言った。いやあれはクレタ島からであるというものもいたし,サイプラスからだと言う者もいた。
しかしどこから疫病がやってきたかは問題ではなかった。問題は再び疫病がオランダに流行りだしたということであった。これには誰も異存はなかった。当時まだ新聞などという報道を伝える印刷物はなかったし,その後長生きしたおかげで私も実際に見てきたような嘘八百を並べ立てては風説や報道をさらに煽り立て様と言ったメディアはなかったのである。
■1664年11月
政府当局は真相については正しい情報を持っていたらしく,国内侵入を防ぐ手段を講じようとしてしばしば会議を開いていたようであった。しかし実際は秘密にされていた。そういうわけでその噂も自然に立ち消えになっていき,我々も元々大して我々に関係したことでもなかったのだという風にいつのまにか忘れかけていた。またあれは本当ではなかったらしいとホッとしたような気にもなっていた。
しかし同じ年1664年11月下旬だったか,それとも12月上旬だったか,突然二人の男がロングエイカーでドルアリ通りの上手の家で疫病のために死んだのである。二人が泊まっていた家の者はできるだけこのことを隠そうと努めたらしい。しかしいつのまにか近所の話題になって,当局者の知るところになった。このことは直ちに教区役員に正式に報告され,教区役員はまた教区役員本部に通報した。死亡週報にはただ簡単にこともなげに
感染 2
感染教区 1
という記事が掲載された。これを見た市民の不安は大変なものであった。ロンドンは上を下への大騒ぎになった。
■1664年12月
その折も折同じ1664年12月の最後の週に同じ家で同じ病気で死んだ者がもう1名でたものだから,その不安には一層大きくなった。しかしまたそれから6週間ばかり平穏無事の日が続いた。その間死者でベストに犯された痕跡を示していたものはなかった。「悪疫は退散した」などと言いあったりした。
■1665年2月
しかしそれも束の間のことで,翌年1665年2月12日頃だと記憶するが,死亡者が1名が同じ教区の別の家からでた。区域も同じなら病気の経過をまた同じであった。
こうなると全市民の目は自然その界隈に注がれるようになった。セントジャイルズ教区の死者数は普段よりもグッと跳ね上がっているのが死亡週報にはっきり表れていた。したがってその界隈の住民の間に疫病患者がいるらしいということが恐れられた。またできるだけ世間の目から隠そうとも勤めていたが,それにもかかわらずおそらく大多数の人が疫病で死んだと思われた。この不安は深刻に市民の頭に染み込んいったようであった。
 死亡者数の増加は次の通りであった。
セントジャイルズ インザフィールズ教区とホウボン区のセント・アンドルー教区の一週間の普通の死体埋葬数は多少の増減はあるがだいたいにおいて12~19というところであった。
ところがセントジャイルズ教区に初めてペストが発生してからというもの,普通の病気による死者数が著しく増加してるのが認められた。例えば
12月27日~01月03日 34
01月03日~01月10日 30
01月31日~02月07日 44
02月07日~02月14日 24
すべての教区の死亡者数は普通240~300の間であった。300という数字でも相当に高い死亡者数であると考えられていた。ところがベスト発生以後死者数はみるみるうちにうなぎ上りに上がっていった。すなわち
12月20日~12月27日 291
12月27日~01月03日 349
01月03日~01月10日 394
01月10日~01月17日 415
01月17日~01月24日 474
この数字の増加は前回のペストの流行の1656年以降わずか一週間としては実に未曽有のものであってその点まさに恐るべきものであった。
しかしながらこれ以降は何事もなく済んでしまった。天候は寒くなって,前年12月に始まった寒気はほとんど2月の終わりまで衰えずに寒さは極めた。その上まるで肌を刺すような風が吹いた。
死亡者数はずっと減ってロンドンは再び生気を取り戻した。誰も彼も危険はもうさったも同じだと思い始めた。ただそれでもなおセントジャイルズ教区の死者数だけは相変わらず相当なものであった。
■1665年4月
セントジャイルズ教区の死者数は特に4月上旬からはその数は毎週常に25を下らなかったが毎月18~25日に至る1週間ではこの区域で埋葬したした死体の数だけで30に達した。そのうち
疫病によるもの 2
発疹チフスによるもの 8
ということになっていた。しかし発疹チフスと言っても本当は疫病だと考えられていた。同じような理由で全死亡者数の中でこのチフスのために死亡した者の占める数もずいぶん増えてきた。前の週に8であったものが今週では12といった具合であった。これには我々も再び驚いた。深刻な憂鬱の色が市民の間に漂い始めた。特に気候もだんだんと暖かくなってゆこうとしていたし,夏もおっつけやって来ようという気配であったので一層深刻な物があった。
その翌週にはまた希望の色がみえ始めた。死亡率が下がってロンドン全市を通じて死亡者数はわずかに388人で,疫病によるものは一人もなく,チフスもわずか4人であった。
■1665年5月
しかし次の週にはまたぶり返してきた。疫病は他の2~3の教区,すなわちボウモン教区,セントアンドリュー教区,セントクレメントレインズ教区にも蔓延していった。しかもその上市民を慄然とさせたことはとうとういわゆるシティ(城中)のセントメアリーチャーチ区域に1名の死亡者を出したことであった。
つまりその場所は正確に言えば 食料品市場の近くのベアバインダー通りであった。この週の死者数のうち疫病によるものは9人,発疹チフス6人であった。しかしさらに調べてみるとこの日ペストバインド通りで死亡した人はフランス人で,かつてはロングエーカーの感染ホテル近くに住んでいたこともあって病気にかかるの恐れて移ってきた人であることが分かった。ところが実にはその人はもうすでに病気に感染していたのを本人が気づかなかったのである。
これが5月の初めのことであった。まだ気候は温和でしのぎやすく程よい涼しさであった。従って市民は未だ幾ばくかの希望を持っていた。こんな風に望みを繋いでいたのは次のような事情もあった。それはロンドンがまだ健全と思われていたことだった。97の教区のうちで疫病に倒れたものはわずか54人に過ぎなかったからである。我々も病気の蔓延しているのはロンドンの中でも専ら問題になっている端の方の教区にすぎない。従ってそれ以上広まる心配はあるまい。そう高をくくり始めた。
5月の9~16日までの7日間わずかに死亡者数は3人になった。しかもそのうち一人も市内・自由区にはいなかったのである。セントジャイルズ教区では患者が32もあったことは本当であるがそれでも疫病にかかって死んだのはわずか1名に過ぎなかった。こう死亡率が下がってくるとそろそろまた市民たちは安堵の笑みを浮かべるようになった。前週の死亡者はロンドン全体で347人。今週はそれが343人になっていた。
次の死亡通報は5月23~30日までの期間。セントジャイルズ教区の死亡者数は実に53というまさに戦慄すべき数であった。このうち疫病によるものは9と公表されていた。しかし市長の要請に基づき治安判事たちが徹底的に調査したところ,その区域で実際に疫病で死んでいたものはこの他にも20人もいたということが判明した。しかしこのようなことはこの後に起こった事柄に比べたら全く取りに取るに足らない事柄であった。
■1665年6月
気候はもうすっかり暑くなった初夏6月第1週頃からはこの疫病は恐ろしい勢いで広がっていった。
6月第2週目を迎えるようになると,セントジャイルズ区域では死亡者数は120になった。このうち死亡通報の伝えるところによれば疫病によるものは68に過ぎなかった。しかしこの疫病のいつもの数字の数から考えてみてどう転んでも100人は疫病で死んだに違いないと誰も彼もが信じていた 。
■1665年7月
すでに7月の半ばになっていた。疫病は主としてロンドンの向こう側の地区でイレブン教区及び保護区域のセントアンドリュー教区やウエストミンスター教区よりの地域などで猛威を振るっていた。
私の住んでいる地域に向かって徐々に疫病地帯が移動していた。それは文字通りの東進であって,しかし決して我々の方に向かってまっしぐらに進んできているのではなかった。例えばシティ(城中)はまだまだ相当に平気であったし,川の向こうのサザン教区にもあまり進出してきてはいなかった。
この週の死者数は約1268人でうち疫病によるものは900人以上と考えられていた。一方シティ(城内)ではわずか28人の犠牲者に過ぎなかった。一方セントジャイルズ教区とセントマーティンズ・インザフィールズ教区の二つの教区だけでも実に421人の死者を出していた。しかしこの疫病が陰惨を極めたものは,何と言っても城外区(アウト パリス シティ)つまりかつての城の周辺にある区域だった。何しろ人口が多い上に貧乏人が多いのである。疫病は一層餌を求めて荒れ狂っていたのである。
とにかく病魔は次第に自分たちの方に近づいてくるのを我々は認めていた。すなわちクラーケンウェル教区,クリップゲート教区,ビショップスゲート教区などの区域を追加して迫って来ようとしていたのである。特にこの二つの区域はゴールドゲート教区,ホワイトチャペルし教区などの区域に接していたのであるが病気がいよいよ迫ってきた時にその凶暴さは非常な猛威をふるった。 最初に発生した西部の区域で次第に病気の勢いが衰えていった時でさえも依然として激烈を極めているというふうであった。
7月8日~7月11日の間に セントマーティンズセント教区・ジャイルズ教区の二つの教区だけでほとんど400人の人がベッドに倒れた。にもかかわらずオールドゲート教区では4人,ホワイトサドル教区では3人,ステファニー教区では1人これだけしか流れなかったこれには我々も驚きを禁じえなかった。翌週7月11~18日に至る間にロンドン市全体の死亡者数が1761人であったにも関わらず,テムズ川の向こうのシティ地区では疫病に倒れた者はわずか26人であったのである。
■1665年8月
しかしすぐに形成も一変してくる。ゲート教区を始めクラーケンウェル教区などにおいて猛勢をたくましくしつつあった。
例えば8月第2週までにクリップゲート教区だけで886人の死亡者数を出してクラーケンウェル教区も155人の死亡者数を出したが,このうちクリップゲート教区においては実に850人が疫病に関しているものと推定された。
クラーケンウェル教区でも死亡者数ホノルルところでは145人がすぐにあるとのことであった
08月22日~08月29日 7496
08月29日~09月07日 8252
09月07日~09月12日 7690
09月12日~09月19日 8297
09月19日~09月26日 6470 
8月のロンドンの人口は1月のそれの1/3もなかった。ロンドンの風景は今や全く一変してもはや昔日の面影はなかった。あらゆる大きな建物を始め
シも自由区もウエストミンスター地区もすべてが一変してしまったのである。ただあのシティと言われる特別な一角。あそこだけはまだ被害を受けてはいなかった。しかし一般の様子は前にも言ったようにすっかり面目を一変してしまっていた。どの人間の顔にも悲しみと憂鬱が漂っていた。まだ破壊的な打撃を受けていないところもあったが誰も彼も一様に不安に怯えた顔つきをしていた。私はこの在り様をそっくりそのまま伝えることができたらと思う。近親者の死を悼むために正式の喪服をつけたりする者は一人もいなかった。街にはそれらしい葬式の姿は見られなかった。しかし悲しみの声は街に溢れていた。。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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Defoe「ペスト」~17世紀ロンドンペスト封鎖, 一時収束後に第二波絶頂期
■1665年5月ペスト一時収束
ペストが収束し始めるや否や,直ちにロンドンに忽然として夥しい人々が現れた。
ペスト感染初期の頃の話であるが,逃げ出すことも思いのままにできる人々や田舎に疎開先を持っている人々は我を争って田舎へ逃げて行ったが,その数は全くおびただしいものであった。
さらにいよいよ病勢が激しくなると,頼るあてもない中流階級の市民達も避難できるとこならどこへでも全国至る所に逃げていった。なんとか自活できるお金のある人も,そういうお金のない人も,みんなぞろぞろ英国の郊外へ逃げたのである。
お金のある市民はとにかく食っていけるのでできるだけ遠い方へ逃げるというふうであった。しかし貧乏な連中となるとその難儀はひどいものであった。そしていよいよ生活に困ると田舎に迷惑をかけるということになる。そのために田舎の街が騒然となることもしばしばであった。時には避難民を逮捕することもあった。しかし逮捕したところでさてどうするというあてもなく,罰するつもりも大してあるわけではなかった。結局無理やりに追いたてるだけの話で,そんなわけで避難した者もやむなくロンドンに舞い戻るという事であった。
身寄りのない多くのロンドンの難民がいたる所の田舎に逃げていって,小さな仮小屋や納屋や離れ家などを作ってそこに住んだということも事実であった。もちろんそれができるのは地方の人たちの好意を得ることのできるところに限られていた。特に少しでも自分たちの健康の証明や,ロンドンを出たのはそんなに最近ではないということの証明をはっきりさせることの できたところではそれは容易であった。このほかこれまた大勢だが,野原や森の中に掘立小屋・避難小屋を作って住んだり,洞窟の中で仙人みたいな生活をした人々も大勢いた。そういうところでの生活がどんなに苦しく困難であるかは容易に想像できる。しかし終いにはどんな危ない目にあっても構わないという気持ちになって多くの者はロンドンに帰っていったのである。そのために掘立小屋で空っぽのままのものがずいぶんたくさん残っていた。田舎の人はこれはてっきりペストにやられて,小屋の住人が死に絶えたものと思い込んで近づこうともしなかったものである。かなり長いことそういう状態が続いた。
不運な放浪者の中には孤立無援のままに 人に知らず住んでいた者がいた。ある時などはテントだか納屋だかの中に一人の男が死んでおり,すぐ近くの畑の門のところに不揃いな字で次のような文句がナイフで刻みつけてあった。
もういけナイ
二人ともスグ死ぬ
ああ
テムズ川下流では,いわゆる「沖泊」というのであるが,幾層もの船がずっと纜(ともづな)を結び,列をなして停泊していた。聞くところによればこういう状態は下流のクレイブゼンドに至るまで続いていたということであった。波風の心配がなく安全に停泊できるところならずっと下流に至るまで,ほとんどあらゆるところでそういう光景が見られたということであった。そのような船に乗り込んでいた人たちでペストにかかった人の話は私はまだ聞いたことがなかった。乗っている人たちが上陸して近い町や村や百姓の家に新鮮な食料品・鶏肉・豚肉・牛肉などを買いにしばしば出掛けたにもかかわらず,誰も病気にかからなかった。ただ例外としてはプールやずっと上手のデッドフォド入江辺りに停泊中の船は相当にやられていた。ロンドン橋から上流にいた船頭たちも,我勝ちにと上流へと逃げていった。その大多数の者は彼らの天覆いや鏨(たが)を上からかけた船に家族を乗せていた。寝るためには船底に藁を敷き詰めていた。こういう有様であって,船頭等は川沿いの沼地にずっと上の方まで停泊していたのである。ある連中は昼間は川岸にちょっとしたテントを張って休んで,夜になると船に戻っていくという生活をしていた。話に聞くとこんな状態で川岸に沿ってずっと上流まで長蛇の列の船が並んでいた。何か食べ物が手に入るところ,その近辺から何か買えるところならばどんな遠いところでもその遠さをものともせずに船の列が続いていたという。事実田舎の人は紳士はもちろんのことその他の人たちもこういった緊急の際は喜んで援助の手を差し伸べた。ただしかし船頭等を自分の町や家に入れてやろうとは絶対にしなかった。それは無理無理もないことであった。
ロンドン近隣町村の住民が,感染を恐れて逃げてくるロンドン市民に対して残酷な態度に出たことが非難されていたことは私もよく知っている。実際無慈悲なことも行われていた。しかし自分の身に危害を加えられる事が明らかでなければ,ともかくそうでない限りは信仰の人々は良心に恥じない程度の慈善と援助の手を喜んで彼らに差し伸べていたことも私としては言っておかなければならない。しかしどの村も結局自分が可愛いことに変わりはなかった。従って苦し紛れに逃げ出したロンドン市民たちは結局虐待されて,とどのつまりロンドンに追い返されるという場合が実に多かったのである。当然ロンドン市民の間には近郊の町や村に対する喧々囂々たる不満がこだました。その非難の声は終いには収集できないほどになった。ところで町村側の警戒にもかかわらず,ロンドンを中心とする半径10マイル以内にあるちょっと名の知れた町や村ではペストに侵され,また若干の死者を出さなかった地はひとつもなかったのである。
この他にロンドン市民に対する田舎の人々の警戒心を一層強めさせたもう一つの問題があった。それは特にロンドンの貧乏人に対する警戒心であった。このことには,既に病気にかかった人たちの間に今度は病気を他に伝染してやろうという恐るべき傾向があるらしいということであった。このことについては医者仲間で議論が戦わされた。こういう傾向はこの病気のしからしめるところだと説く医者もいた。その説によれば,病気にかかった人間には自分の仲間に対する一種の狂乱と憎悪の念が例外無しに生まれる。病気そのものの内に他の人に伝染してやろうという悪性なものはあるばかりではなく,患者の性格の中にもそういう悪性が現れてきて,ちょうど狂犬病の場合と同じく,他にも悪意をもって悪い目つきで見るようになるというのである。狂犬病にかかった犬はどんなに大人しい犬であってもたちまち手当たり次第に飛びかかってくる。それも以前よく懐いていた人であろうとなかろうと構わずに食いつくと言われる。それと全く同じだというのである。人間の性質のものが腐敗しているからだという説明をする人もいた。つまり同じ人間の仲間でいながら自分だけが他のものよりも悲惨な状態にあるという事実に耐えられずに,あらゆる人間が自分と同じぐらい不幸な目に遭うか哀れな境遇に 落ちて欲しいという欲望を持つに至るというのである。
ロンドン市民が徒党を組んで大挙して押し寄せてくる,それも助けを求めるためどころか略奪しに来るのだという情報が田舎の人々の耳に伝わって皆愕然としたそうであるが,そう驚くのをもっともなことだと思われる。その情報によれば市民たちは病気にかかったらかかりっぱなしにただやたらにロンドン市内を右往左往しているとか,患者の家を検査して患者が他の人に感染させるのを防ぐのという何らかの手段を講じられていないとか,そういったことは言われていたのである。
しかしこれはロンドン市民の名誉のために言っておかなければならないが,先に述べた特殊な場合を除いては,伝えられたようなことは絶対に行われなかったのである。むしろ万事が綿密な考慮のもとに処理されていったというのが真相であった。ロンドン全市はもちろんその郊外も市長と市参事によって見事な秩序が保たれていたのである。外教区(アウト・パリシュ)では治安判事と教区役員が見事にその責任を果たしていた。そんなわけでペストが最悪の猛威を振るった時期でも立派な統制が取れて見事な秩序が市内至る所に保たれていた。
これについてただここで述べておきたいことは,ある一つの事が主として治安関係の役人により慎重な配慮によって達成されたということである。そしてこのことは彼らの名誉のためにも言わなければならないことだと思うのである。それは何かと言うと家屋閉鎖という困難な大事業をやるに際して彼らの取った緩急よろしきを得た措置である。家を閉じてしまうということは市民の非難の的であったことは事実である。当時としては市民唯一の非難の的と言っていいほどであった。同じ家に患者も健康の人も一緒に閉じ込めてしまうことは誰にも残酷なことと言われていた。そうやって閉じ込められた人の訴えるこえは悲惨の極みだった。その声は道路を歩いていても聞こえるほどであった。それを聞くと同情の念が悠然として湧き上がってくる。時には痛切な怒りの念を覚えることもあった。家の人々が友人と話ができるのは窓のところからだけであった。その悲痛な訴えは話し相手の心を動かすことはもちろん,たまたま通りかかった人の心を動かすことも再三あった。こうやって閉鎖された家から色々秘術を尽くして監視をごまかしたりへこましたりして逃げ出そうとする話や,実際に逃げ出した人々の話もあった。そのことにはしかし治安当局が閉鎖された家の人間に対する処置にかなりな裁量を加えていたことは言っておきたい。ことに家人が病人をペスト病院か何かに本人の希望に応じて移す場合,あるいは病j.人自身が移される場合などかなり酌量が払われた事を言っておきたい。
■1665年8月,9月,第二波絶頂期
8月・9月の1番の絶頂期に病気にかかった人間で死を逃れた人間はまずいなかった。この頃の病状は6月・7月・8月初旬の頃の一般的病状と全然違っていたということである。初夏の頃に病気にかかった人間は,かかったままで何日も生き続け血管の中に病気の毒を養ったあげくぽっくり死んでいった者が多かったのである。ところが今度は反対で,8月後半の2週間~9月前半の3週間後に病気にかかった人間はどんなに長くても2~3日でだいたい死んでいった。かかったその日に死んだ人間も多かった。こういう無残なことが起きるのは暑い土用のせいかそれとも占星術師が言うように狼星(Dog Star)の感応力からしめることかどうか私は知らない。それとも前から持っていた病気の種子がこの時期になって一気に発育したもの かどうかも私は全く知らない。とにかくこの時期は一晩で3000人以上の死者が報告された時期であった。事実を詳しく調べたと敢えて称する連中が伝えるによれば,死者はすべて2時間以下の間に,つまり午前1時~3時までの間に死んだそうである。以前に比べてこの時期になって病人の死に方があまりに唐突になった事についてはその実例がおびただしくある。
私の近所だけでもいくつかあげることが出来る。ロンドンの関門の外側の私の家からさほど遠くないところに住んでいたある家族は,月曜日に全員健康そうに見えていた。家内は10人家内であった。ところがこの月曜日の夕方に女中1人と小僧1人が発病し翌朝に死んだ。同時にもう1人の小僧と主人の子供2人が発病して3人はその夕方に死に,残りの2人が翌週の水曜日死んだ。こういうわけで土曜日の昼までに主人主婦,4人の子供,4人の方奉公人全員が死んでしまった。家ががらんとなった後にはただ一人亡くなったその主人の兄弟の依頼で家財道具を片付けに来ていた老婆だけがぽつんと残っていた。その兄弟というのはあまり遠くないところに住んでいて病気にかかっていなかったそうである。
おびただしい家屋がらんどうになった。
ロンドン関門の少し向こうのところであるが,先ほどの地区を進んでいくと「モーゼとアロン」という街の標識があった。そこから入っていった小路などなどひどいものであった。 何軒かかたまった地区では全部合わせても一人も生きている人間はいなかったという。小路の死者があまりに多くて埋葬人や墓堀人に埋める通告を出す人がいなかったという状態であった。
市民はあまり悲しみのどん底に陥って生きる望みを失って自暴自棄になった状態が続いた。すると最悪の3週間から4週間を通じて意外な現象がおk8た。つまり市民がやたらに勇敢になったのである。たがいに逃げ隠れをもなくなったし家の中に人に閉じこもるのも辞めてしまった。それどころか,どこだろうがそこだろうが構わず出歩くようになった。相手がまず話しかけるようになった。片割れの人間に向かって次のように言う人もいた。
「あなたのご機嫌を伺っても仕方ないし,私の機嫌のことを言っても仕方がない。ともかく一同揃って迎えが来たらいくわけですから。誰が病気で誰が健康だと言ったところで始まらない」
そんなわけで平気で公衆に混じり,どこへでもどんな人ごみの中でも出かけていった。平気で公衆の中に混じるようになるに連れて,教会にも群れをなして出掛けるようになった。席のそばに誰が座ってるかなどもはや問題ではなかった。悪臭を放つ人間と一緒になろうが,右がどんな様子の者であろうが介しなかった。累々と積まれた死体であるとでも考えているのか,教会に来る目的である聖なる務めに比べるならば生命は価値を持たないとでも考えているようであった。熱心に教会に来て真剣な表情で説教を聞いている姿は全く驚くほどであった。そういう光景を見ていると彼らの神を拝むということをどれだけ重要視してるかは明らかだ。
この他にも思いがけない現象が生じた。市民が教会に行って説教壇上の人間を見てもそれが誰であろうと従来のような偏見に満ちた態度を一切示さなくなったこともその一つであった。
病気の最も激しかった頃の私の見聞について話を続けよう。
もう9月になっていた。この9月ほど悲惨な9月をいまだかつてロンドンは味わったことが無かったのではないかと思う。
以前にロンドンに起こった悪疫流行の記録を全部見てみたが今度のような惨状はいまだかつてなかった。8月22日~9月26日までの僅か5週間で,死亡週報の報ずるところによれば,ほとんど40000人からの人が死んでいた。これでだけでも膨大であったがこの計算がすこぶる不十分なものだったと信じる理由があった。その理由を知ればこの5週間のどんな週でも週に1万人以上の死亡者数がいて,その期間の前後の週にもそれ相応の死者があったことを読者にも容易に信じていただけよう。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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船乗生活者であふれる港
私は疫病がグリニッジまで広がっているかどうか男に尋ねた。すると「少なくとも約2週間前までは広がっていなかったが今頃はひょっとしたら広がっているかもしれない。しかしそれもレッドフォード橋よりの町の南の一部分にすぎないだろう」ということであった。また彼がそこで買い物に行くのは肉屋と八百屋だけで大概それらの店で頼まれた買い物を済ませるが,病気のことには自分でも随分と注意しているということなどを付け加えていた。さらに船の中に閉じこもっている連中が十分な生活必需品を貯蔵していないのはどういうわけか尋ねると,中には蓄えのある人もいる。しかしその反面いよいよの土壇場になってからやっと船の中に逃げ込んだ人もいて,その時には危なくてしかるべき商人の所に行って買い込みをするなんてことは思いもよらない事だったという答えだった。
今買い出しをしてやっている船は 3隻だけだそうで。 その船を指さして教えてくれたが,ビスケットとパンとビールの他にはほとんど食物らしい食物がないので,その他の生活物資は一切合切買ってやっているということであった。
「他にこういう風に他の船から離れている船があるのか」という私の質問に対して
「ありますとも。グリニッジのちょうど向かいの地点からライム・ハウスやレッド・リフの川岸近くまで川の真ん中に2席ずつ船内に余裕のある船が停泊しておりますよ。ある船なんか何家族も住んでいますよ。病気にはかかっていないってわけだね。いや,まだやまだでしょうな。きっと。ただね,2~3隻乗っている人たちがちょっと油断したもんで,船乗人が陸に上がったりして,とうとう病気を持ち込んだってのがありましたがね」
それからプール沖合に船がずっと停泊しているのは大変な壮観だとも言った。
潮が彼のボートの所まで来た時,私はボートに乗り込んでグリニッジまで連れて行ってもらった。
彼が頼まれものの買物をしている間に私はグリニッジの町を見下ろす丘の上まで歩いて行ったり町の東まで行ってテムズ川を眺めたりした。夥しい船が2隻ずつ並んで停泊している有様は誠に異様な壮観であった。川岸の広いところではそれが2列3列になっているところもあった。
しかもそれがずっと上流・ロンドンの町近くラドクリフやレッドリーフなどといった町を挟むいわゆるプールと呼ばれるあたりまで続いて,下流はロングビーチの端に至る下流全体に渡っていた。少なくとも丘の上から見られる限りではそういう風に見えた。それらの船の数がどれだかほとんど見当もつかなかった。しかし少なくとも数百隻の帆船が泊まっていたと思う。
それにつけても実に頭の良い計画だと感心した。こうやっていれば海運業に関係している1万人あるいはそれ以上の人が完全に感染の心配から逃れて極めて安全にまた容易に生命を全うすることができるというものである。
久しぶりの遠出に,特に今述べた船頭との交渉にすっかり気をよくして私は家に帰った。
考えてみればこういう危険時に船といういわば小さな聖域を多数の人々がその生活の場にしているということは確かに喜ぶべきことであった。
疫病の猛威が激しくなるにつれて幾世帯もの人々を乗せた船がともづなを引き錨を上げて移動して行くのを私も目撃したが,何でも噂によれば何隻かの船は海まで下っていって各自便利なところを求め,北海岸のいろいろな港や投錨地まで逃げていったということであった。
しかしまた一面から言えば,陸地を避けて船の中の生活を営んでいる人々が必ずしも絶対に安全だとも言えなかった。実際多くの人が船の中で死亡していた。その遺骸はあるものは棺に入れられて,あるものは棺にも入れられないままでテムズ川の中に投げ込まれた。川の潮の満引とともにその遺骸が浮き沈みしながら流れていくのをがいくつも見ることができた。
しかしこういう船から疫病患者を出す場合,次のような二つの原因のどれかに基づいたと思うのである。すなわち船に来るのが遅すぎて今更飛んできたところでどうにもならないといったところの実質的患者が船に来る。しかしその時にはすでに自分では気が付かず病気に冒されていた。 といった場合がその一つである。つまりその場合には病気が船に行ってきたのではなくて,実は乗り込んできた人たちが病気を持ち込んだという理由である。
次に例の船頭が言っていたように,十分な生活必需品を蓄える余裕がなかったために,是が非でも必要な物資を買いに人を陸上に送らねばならないとか,あるいは陸地からボートがやってくるのを大目に見なければならないとかいった船の場合がその二つ目の可能性。従ってこの場合は病気が知らず知らずのうちに船の中に持ち込まれたということになる。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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無策の策
ロンドンのような人口過密地帯の大都会では感染したからといって即刻あらゆる家を虱潰しに調べることはできないし,感染した家を全部が全部閉鎖してしまうことができない。
だから病人でも好きなところに,つまり自分が何番地何番の病気の家の一員だという正体が見破られないところへどこへでも自由に行けたというわけだ。これは幾人かの医者も執拗に申告したことであるが,伝染病が猛威を極め野火のごとく広がっていて多数の人々があっという間に発病してたちまち死んでゆくというような非常時には,誰が病気で誰が健康であるかを必死になって調整したり,いちいち杓子定規に家を閉めたりしようとしても,第一それが不可能であるばかりではなくて無意味でもあることは争えないことであった。
一つの通り全体のうちで,ほとんどの家が感染していたり,ところによっては家族全員が病気に冒されているということも多かったのである。もっとまずいことはこれこれの家が病気にかかったということが分かった時には,もうその家の病人は死亡していて残りの家族は隔離を恐れ逃亡してしまっているということであった。家族の者が多少とも病気にかかっているとはっきりわかる頃には病気の方は散々荒れ狂った挙句にもうその家からおさらばしているというわけである。
こういう次第で病気の蔓延を防ぐことは到底当局の手に負えることでもなければ,また人間の考える方法なり対策なりの及ぶところではないとすれば家屋閉鎖というやり方は 目的を達成するには不十分だということは常識のある人には納得していただけるだろう。いかにも公益ということが言われていたが,家を閉ざされてしまった特定の家族の被る深刻な重荷に匹敵するだけの,あるいは釣り合うだけの公益がそこにあるとも思えなかったのである。そのような過酷な処置を指揮して実行する役目を当局から仰せ遣って実際に見聞した限りでは,この法則は目的に沿うとも言えないものであるということを私は思い知らされたのである。
例えば私は見回りつまり検察員(Examinar)としていくつかの家族の病状を詳しく調べることを要求されたのであるが,我々見回りが明らかに家族の一人が悪疫にかかったことが分かっている家に入った場合,そこの者が逃亡していないということはまずなかったのである。治安当局の上司はこんな場合「誠にけしからんことだ」とばかりに憤慨して我々検察員に点検上の不行届を追求してきた。少し調べてみたところで要するにこちらにわかる以前から病気に侵されていたことがわかるだけの話であった。
ところで私は2ヶ月という正式の任期の半分にも満たない期間この危険な仕事に従っただけであるが,それだけの期間でも玄関や近所で訪ねるくらいでは病人の家の真相を突き止めることはできないことを知るに十分であった。真相調査に一軒一軒家の中に入っていくことはさすがの当局者も我々市民相手に課そうとはしなかったし,また市民の中で誰一人としてそれを引き受けようとするものもなかった。そんなことをしたら我々がこちらから好んでペストに生身を捧げに行くようなものであって,我が身はもちろん家族の破滅は必至であった。そればかりではなくてこういう過酷な目にあわなければならなかったとなればまともな市民ならロンドンを見捨て退去していただろう。
一家の戸主は自分の家の者が誰かが病気になった場合,疫病の兆候が現れた場合,それを発見次第,2時間以内にその居住区域の検察員に 報告する義務がある旨法令によって定められていた。ところが実際にはどの家も色々な口実を設けてはごまかして,なかなかその法令を履行しようとはしなかった。結局病気の有無はともかく,色々手段を講じて逃げたいものを逃して行ってからでなければ報告をすることはまずなかった。
事情がこんなふうであったから,家屋閉鎖が悪疫流行を食い止める有効な手段だと見るわけにはいかないことは明らかであった。
ーデフォー,ペスト,中公文庫

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予知情報 それは「真鶴」から始まる

想定と対策で運命は、個人も国家も変わります
2015-07-29 11:54:57
天津日継神示:アマツ・ヒツグ・シンジ
今朝の啓示は、現在の因果の収束のままでは、
* 「2017年9月 富士山が動く」
と出ました。
未来は白紙であり、無数の個人の幸福・不幸の総計、国家の因果の総計、
地球活動の総計が日々変化して動き、「織物を成すようにして」明日を形成して行きます。
逆に言えば、今日の行動と思いにより、明日を変えることは可能です。
(富士山の写真は、読者が飛行機から撮影しました)
歴史的に見ましても、富士山は太古から定期的に噴火を繰り返しています。
その中でも、日本の地形を変えるほどの大噴火が、
* 864年(貞観6年) 「貞観大噴火」
864年6月 - 866年初頭にかけて噴火。
広大な青木ヶ原溶岩を形成した噴火であり、
山頂から北西斜面約10Kmの(現在の長尾山)から大量の溶岩流出とスコリア噴火とを起こす。
* 1707年 「宝永大噴火」
12月16日(宝永4年)旧暦11月23日 宝永大噴火。
歴史的に大量の火山灰を噴出。
この噴火は日本最大級の地震である宝永地震の49日後に始まり、
「江戸市中まで大量の火山灰を降下させる」という特徴的な大噴火であった。
これ以外にも、この大噴火の前後に5回以上の噴火を起こしています。
なんと富士山とは、非常に活発で勢いのある若い火山と言えそうです。
この結果は、
(玉川上水事典より)
関東ローム層という、東京都内でも5m以上。
横浜では10m以上の火山灰の堆積を形成しています。
もし富士山が現代に噴火しますと、
関東全域の構造物は非常に重い火山灰にさらされることに成ります。
雨が火山灰に染み込めば、非常な重量と成るでしょう。
果たして、このような事態を、「今は起こらない」として無視していても良いのか?
だから、「2017年9月 富士山が動く」と仮想の想定をして、
* 住まいを変わる時は、屋根の形に注意する。
* 鉄筋コンクリート造を理想とする。(公団・賃貸・マンションでも大丈夫です)
* ガラス張り多用の建物は注意する。
* 都道府県は、雪国の除雪車のような重機部隊の構築を準備して行く。
東北や北陸の県では、早朝の数時間で1mほどの積雪でも完璧に除雪します。それは凄いものです。
鹿児島の火山灰の例を見ましても、準備想定を事前にして置けば、東京でも大丈夫なのです。
まったく、「そんなバカな」と舐めていれば、もしかの時は数ヶ月にわたり都市機能は完全に停止し、食料流通・航空・鉄道・道路通行が停止して、
死活問題に成ることは容易に想像が出来ます。
太平洋での新島誕生により、火山の圧力が逃げて、このまま富士山が無難に経過することも有るでしょう。
ただ、想定するか否かで、個人の財産・資産・運命、生活の選択が変化することを知って置いてください。
あくまでもこれは、想像の話であり、個人のこれからの選択の参考にして自己判断してください。
生かして頂いて ありがとう御座位ます

伊勢白山道
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/c/71d50d93bac1f68101ab6f54e4061b5e






それは「真鶴」から始まる
2015-06-20 11:07:04
天津日継神示:アマツ・ヒツグ・シンジ
先日の記事「リピート再生したデータは、知って置いたほうが良い」におきまして、
(1) 2008年11月24日 オホーツク海で深発地震発生
マグニチュード7.3 震源の深さ 491.6Km
* 2年後に
(2) 2010年11月30日 小笠原諸島西方沖で深発地震発生
マグニチュード7.1 震源の深さ494km
小笠原諸島西方沖地震の3ケ月11日後の、
*2011年3月11日に、東日本大震災が発生します。
(3) 2013年5月24日  オホーツク海で深発地震発生
マグニチュード8.3 震源の深さ 609.8Km
* 2年後に
(4) 2015年5月30日 小笠原諸島西方沖で深発地震発生
マグニチュード8.1 震源の深さ590km
の地震が現実に発生しました。
つまり、これより3ケ月11日後の、
*2015年9月11日。
とこれ以降から10月までを注目致します。
同じ震源地で、同じ2年周期で、同じ24日・30日で、震源が異常に深い似た地震が発生しました。明らかにパターンが生じています。  (引用以上)
この震源の深さ、400km~600kmの範囲で繰り返す地震とは何なのか?
どこに原因があるのか?
を夢想していました。すると、幻視した光景に一番近い図形をネットで見つけました。
(JAMSTECより引用)
日本海溝と伊豆・小笠原海溝との合流点がくの字型に切れ込んでいます。まさに今、この大「亀」裂が動き出し、400km~600kmの深さで「進行中」という感じがします。
まさに今、ここが動き出していると思います。
そうしますと、ここで過去の神示を思い出しました。
「それは、真“鶴”から入って来る」 (下記地図の1番の印です)
ということです。
日本を左右する時、“その始まりは「真鶴」から日本列島に入って来る”ということでした。
すると、「日本海溝」と「伊豆・小笠原海溝」との合流点の「亀」裂の先は、
まさに真「鶴」から上陸し、富士山に向かっています。
おそらく地下深奥の400km~600kmでの地層で、日本海溝からの大「亀」裂の動きが、富士山の火山活動にスイッチを押すことに成ると思います。
これから、「日本海溝」と「伊豆・小笠原海溝」を震源とする地下深奥の400km~600kmの地震を観測するごとに、富士山にどこまで地下で迫っているか?が分かると思います。
これはこれで、富士山の噴火時期が予測できる画期的な視点だと想像します。
これから、、「日本海溝」と「伊豆・小笠原海溝」との合流点を注視して行きましょう。
なんとか無難に、富士山の地下を通過し、日本海へと無難に抜けて欲しいと思います。
「鶴」と「亀」が出会わないように致しましょう。
地下深奥の大断層が滑らないように。
「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀が“滑った” 後ろの正面だあれ?」
後ろの正面が、富士山にならないように。
その時の無事に通過した合図としては、白い白山での火山性地震が起こりますが無難に終わることでしょう。
このようなイメージを今から未来に向けて持ちましょう。
量子論的には、これが未来に創造されます。
まさに、日本列島の住人が天から観察されている時期が今だと思います。
残されるに値する住人たちでありたいと思います。
生かして頂いて ありがとう御座位ます

伊勢白山道
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天体情報

宇宙15
2015/5/11(月) 午後 10:39
マルデクは木星と火星の間にあった大きい惑星でした。
今はセレスとヴェスタを含む小惑星帯になっています。
マルデクに対する核攻撃で、二つの都市がお互いに繰り返し攻撃され三日後に核爆発によってマルデクの中心核は破壊されました。
この大規模な破壊の中で反物質の力が風の神のように広がり、火星の表面を吹き飛ばしました。
 火星の海と川の水は重力によって地球軌道に引き付けられ、地球に蓄えられました。
これが始まって終わるまで一年かかりました。
地球の第二の結晶性の月だった月は地球の重力圏から離脱しました。
サナンダ

徹底検索、堀進
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今何故地球は次元上昇をしつつあるのでしょうか?
簡単です。そうさせられているからです。
数百万年先の未来に住む大きく技術的に進歩している者たちがこのタイムラインを見て地球とミルキーウエイ銀河の三分の一が完全に破壊されているのを発見しました。
ミルキーウエイ銀河と地球、及び隣接する星について原始の美の状態を取りもどす計画が作成されました。この巨大な仕事を完成するには、損傷を受けたタイムラインを元に戻し、未来のタイムラインとの融合を図らねばなりませんでした。
その損傷とは?
自分たちの利益のために地球の探鉱と奴隷化をした一握りの闇のカバールがETの宇宙船のリバースエンジニアリングを行い、その当時の地球上の人間には未知だった推進及びエネルギー採取システムを利用しての深宇宙への行き方を学びました。
彼らは他の星々を探鉱、奴隷化しました。
彼らを止める者は誰もいませんでした。
彼らの支配手段だった核兵器は、ニブル、マルデク、地球の結晶月及び海洋と河川を含む火星表面など、ミルキーウエイ銀河の多くを破壊しました。
サナンダ、たき

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他の天体では地磁気は強力になっており、たとえば木星の地磁気は従来の2倍になっているそうです。
地磁気がほとんどなかった火星でも大気濃度が高まり、地磁気が復活しています。
ところがわが地球だけは地磁気が減少しています。
大摩邇

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 太陽からは、電磁波や高エネルギー粒子(プラズマ)が常に放出されています。
このプラズマの海は、遥か冥王星の彼方まで広がっています。
プラズマの海のことを専門的に「太陽圏(ヘリオスフィア)」と呼びます。
宇宙空間にも高エネルギーのプラズマが広がっており、このヘリオスフィアは宇宙空間のプラズマが太陽系内に侵入しないようにバリアを張っています。
ちょうど地球の大気や電離層のようなもので、そのお蔭で太陽系の諸惑星は破壊されずに済んでいるのです。
大摩邇

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 現代に一番近い極小期は「マウンダー極小期」と呼ばれ、1645年から1715年頃までの期間で、この時期は寒さが特に厳しく、「夏が来なかった時代」として知られています。
逆に太陽活動が活発な時代は、豊かで美しい世界となり、文明も発達して太陽信仰も生まれています。
大摩邇

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 天文学者たちは何世紀にも渡り、恒星や惑星を生み出したり、天体の運動を支配する力は重力しかないと考えていた。
 極小の粒子から巨大な銀河まで、電気回路網が自然界の全てを接続し統合しているのである。
プラズマ実験は、プラズマ中で相互作用する電流には物質を回転させる性質があることを示している。電流は物質を引き寄せて、回転する恒星や銀河を形成させることができる。
 物質は全て電気的性質を持っていて、重力はこうした電気から誘発されたものだ。重力とは物質自体が起こすもので、空間とは関係なかったのだ。重力は物質自体が起こすものだから、速度に制限はない。太陽と地球間、各惑星間の重力の働きは瞬時だ。
るいネット

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宇宙開発上の大きな問題になっているスペースデブリ(宇宙ごみ)に軌道上からレーザーを照射し、除去する新しい手法を理化学研究所や欧州の研究機関などの共同チームが考案した。専用衛星を打ち上げて掃除を行えば、小さなデブリの大部分を5年で除去できるという。ヤフーニュース
木星最大の月にあるガニメデ・ポータルは、私たちの太陽系で最も重要な場所です。それは、銀河のセントラルサンに通じるエネルギーの経路として、私たちの太陽系では最強のものです。シリウスは、銀河の中心とガニメデ・ポータルの間にあり、セントラルサンのエネルギー振動周波数を、私たちの太陽系が吸収できる程度にまで落としています。ガニメデには、巨大な銀河連合の地下基地があり、私たちの太陽系、特に惑星地球を解放させることに従事している、すべてのポジティブな知的種族の中心ハブになっています。
 五月にMOSSが次の段階に入れば、ガニメデ・ポータルは劇的に活気付いていくでしょう。
このポータルはまた、イベント時に、銀河のセントラルサンから来るエネルギーの主要な送信機になります。
イベント後、光を選ばない、もしくは受け入れられないカバールのメンバーは、選別施設で処理されます。選別施設はガニメデ地下基地の一つの区域にあります。そのような大勢のカバールが、その後、リストラクチャーのために銀河のセントラルサンに連れていかれるでしょう。
あなた方は地上と海面下の両方に地球外生命体の基地があ ることを学んだことが有るかもしれません。
アガルタ人のようなある者たちが長年の間内部地球に居住 していて、地球の将来の一部になれる適当な時を待っています。
サルーサ、たき

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 コロンビアの乗員モジュールは空中分解してから数秒後に高度6万3500フィート(約1万9350メートル)の上空で気密が暴露し、ほぼ一瞬の内に空気圧が真空状態までに急激に低下。その時点で乗員の全員はヘルメットのバイザーを閉めていなかったために、減圧症での最悪の状況「Ebullism(一瞬のうちに体液が沸騰状態に陥ること)」の状態に陥り、意識を喪失したとしている。阿修羅

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あなた方の周波数の場所を訪れる時には、非常にしばしば自分の内部周波数を維持できる特別なスーツを着用して行きます。海の底を訪れるとしたら、その全く違う環境の中での暮らしの支援を受ける必要があるので、あなた方も特別なスーツを着用するでしょう。
 私たちはあなた方の間にいることを知られたくはありませんが、あなた方が想像する以上にあなた方の間を歩行しているのです。
コブラ、本当が一番

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※宇宙で最初に創られたのは祖宇宙です。
祖宇宙から何代にも渡って宇宙が創られ、母宇宙が創られました。母宇宙から、我々の住んでいるこの宇宙が創られたのです。宇宙が創られるためには、超高度に進化した知的存在が関わらなくてはできません。太陽も超高度に進化した知的存在が創ったものです。地球も生物も人間も全て、超高度に進化した知的存在が創ったものです。超高度に進化した知的存在は、神、といってもいいでしょう。
これらの宇宙船は、私たちが理解しているようなものではありません。
それらは多次元のバイオサテライト(生体衛星)です。意識と、知能をもつ光の物質との間で、有機的に交流するものです。
 小さ目の船は、アシュターコマンド、ジュピターコマンド、プレアディアン、シリアン、アンドロメダン、アークチュリアン、レジスタンスの艦隊です。
大き目の球形バイオサテライトはセントラル文明のものです。
セントラル文明の種族は太古の種族です。天の川銀河のセントラルサンの近くで進化し、何百万年も前に、天の川銀河で初めて精神的に成熟した種族です。サークルによっては、この種族はウィングメーカーとして知られています。
コブラ

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太陽は光も熱も出さない。ただ放射線を出している。私はこれをT線と呼ぶ。T線は地球の大気に当たって、光線と熱を出す。
 地球大気の薄いところほど寒くなり、暗くなる。つまり太陽に近づくほど暗くなり、冷たくなる。
 太陽の周囲にも大気がある。T線はこの大気層を通るときに熱と光を出す。したがって地球からも見える。しかし、この熱は地球までは届かない。太陽の所々から放出される火炎は、火炎ではない。時々大量に噴出されるT線の姿である。したがってもし太陽の周囲に大気層がなかったら、地球からは見えない。
 1998年に入って、太陽表面の温度が低温であることをNASAの宇宙ロケットが実証したとの情報がある。
 理論物理学を専攻した川又審一郎氏が、NASAに1977年から8年間留学し帰朝して今年の講演会の中で、太陽の表面や水星の温度はすでに実測され、前者は26~27度Cであり後者は0度C以下何百度という氷の星であると発表した。
 太陽表面に高温では到底存在しそうもない水が、現実に存在するとの確実な証拠を示す論文が権威ある米国の科学誌”Science”1995年6月26日号に発表され、ついで同誌1997年7月18日号にそれを確認するような記事が掲載された。るいネット
火星と金星にはかつてあらゆる種類の生命をはぐくむ大きい海がありました。これらは原状に復帰させる必要があります。これらの海とほかの太陽系の世界だけでなく、多くのユニークな現象も現在は失われています。
 多くの巨大なガスの世界の内部深くに住んでいる非常に多くの 肉体を持たない存在との繋がりの修復に関する責任も有ります。シェルダン、たき
①地球外生命体 - 知性を持ち、本来的に生物学的肉体を持つ、地球以外の様々な惑星に棲む高等な生命体。
②惑星生命体 - 人間の姿を持たず、惑星全体を肉体とする知的存在:例を挙げればガイアとしての地球がある。生物がそうであるように、惑星地球全体が知性を持ち、覚醒している。他の惑星、さらに太陽系、銀河系も同様に、それ全体として独立した意識的有機体と考えられる。
③その他の生物学的生命体 - 地球のイルカや鯨目など。これらは人間ではないが、高度な知性を持つと考えられる;理論的な観点から、他の惑星にも人間の姿を持たない、これらの知性を持つ生物学的生命体の系統がいると推測される。グリア、本当が一番
 火星では、核戦争が起こり、すべてのものが焼け落ちた。いくらかの人々は生き延び、新たな兵器を開発した。現在でも我々と似た火星人は地下で暮らしてい る。だが、彼らは二酸化炭素を吸って生きており、地球で暮らすことは難しい。とはいえ、火星では加齢は進まず、30~35歳程度の若さを維持できる。火星人の身長は7メートルもあり、精神性も高かったことをボリスカ君は指摘している。ボリスカ

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「出雲大社の心御柱跡」で、そこに「宇宙人の基地」が在るのだとその宮司は言う。その「宇宙人」達と当たり前の様に「会っている」と迄断言した。
カリフォルニア州のSETI研究所は宇宙からのシグナルのキャッチをすでに30年以上にわたって続けている。ところが異星に知的生命があることを示す何らかの証拠を発表するまでには至らない。
 地球と人類のアセンションを支援する地球外文明、スペースファミリーたちが、自由に地球の空へ入ってこられるようになった、ということです。
これまでは、闇の勢力のスペース兵器が、光のETのスペースシップを迎撃するために様々な場所に待機していたため、彼らがおおっぴらに地表近くまで降りて来ることは不可能でした。
Cobraたちレジスタンス・ムーブメントやポジティブ・ミリタリーが長い時間をかけて、その闇の兵器の撤去・無効化のために精力的に活動してきたのです。その掃討がついに完了した、ということでしょう。
グリア、本当が一番

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 天文学者は、私たちの太陽系が“熱い”空間めがけて進みつつあることを知っている。太陽とその遊星12個が目指している行く手は、宇宙のなかでもとくに宇宙線が強烈であるうえに周波数も高い部分であり、それがいろいろと激しい変化を生じるだろうことが予想される。
なわ

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 ジョン・リアーの最初の番組の中で驚くべき事が語られた。「金星、火星、木星、天王星、海王星などにも地球と同じくらい人間が住んでいる」「火星には600ミリオン(6億)の人が主にシドニア地区付近の地下に住んでいる」というのである。
 最近、NASAの火星探査機が火星の表面に到達した。火星に水があることを知らず、探査機が湿原にハマって転び、レンズが汚れて機能不全に陥った。
それを傍から見ていた裏NASAの職員が、現地の仲間に連絡して、レンズを綺麗に拭き取るように言った。そうやって、見事に表NASAの探査機が復活したのであった。
しかしそこには腰を屈めて探査機を修理している作業員の影まで映っていました。作業員はヘルメットも被っていないのです。
大摩邇

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ブラックホールはスターゲイトです。すべての恒星にはスターゲイトがあります。
ホワイトホールはブラックホールの出口点です。ですからスターゲイトがあれば、入り口点と出口点があります。コブラ
地球にはたくさんのスターゲイトがある。今はカバールのスターゲイトはすべて除去されました。レジスタンス・ムーブメントは、もちろん、スターゲイトの多くを手中に収めています。
スターゲイトの多くが他の恒星系に通じています。 今は、すべてのスターゲイトが光の勢力の手にある。コブラ
最近、NASAのウェブサイトにUPされた火星探査機の影の画像がネット上で大問題になっています。その画像を良く見ると火星探査機を修理している作業員らしき影が写っていたからです。火星探査機は地球を離れておらず(もちろん火星になど行っておらず)、これまでの画像は地球のどこかで撮影されたものだった可能性もあります。
アポロ11号が月面着陸したというのも嘘だったことが明らかになっています。
 宇宙プロジェクトの名の下に巨額の予算をNASA劇団に割り当て、その後、権力者が好き勝手に使っているのではないでしょうか。例えば、兵器や武器を製造したり、巨大な地下施設を建設するとか。
大摩邇

徹底検索、堀進
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まず俺が宇宙人に訊いたのは何故人は生まれるのかという事だ。宇宙人曰く様々な経験を得て魂を磨く為だという。この世界には我々のいる物質界の他に死後の世界の霊界があり、霊界では人は魂を磨く事が出来ないらしい。その為に魂を磨く場として物質界が生まれたという。
 宇宙人は沢山いるのか?どの惑星や衛星にも固有の生命が存在出来るように設計されているようだ。そして成熟期を迎えた星には必ず知的生命体が生まれるらしい。
 宇宙人は例えばどんな姿をしているのか訊いた。星ごとに異なり君たちから見ても私から見ても実にユニークな宇宙人が沢山いる。
 電気を生命力の源とするある知的生命体はクラゲのような姿をしていて、惑星を厚く覆い決して晴れる事のない雲の中を浮遊して過ごしている。
ある知的生命体は地上の大気が有毒物質で溢れているので一生を地中で過ごすと言っていた。その知的生命体は地球の団子虫のような姿をしていて蟻のような巨大なコロニーを作り生活を送っている。
 星にもよるが基本的に生命は絶滅する事がなければいずれ物質的な文明や価値観を棄てる時が来ると話していた。
どの星の生命も基本的に同じ様な進化を辿る。言葉や道具を持たない生命から進化しそれらを手にする。言葉を作り火を操り食物を栽培する知恵を身につけ原始的な文明を築く。やがて国家が生まれ高度な文明や文化が生まれ大規模な争いを繰り返すようになる。争いはそれ自体悲しい事だが避けては通れぬ宿命。いつか必ず穏やかに暮らせる時が来るようだが、人間はまだその過渡期の中にいるのでしばらくは苦しい時代を生きる事になると話していた。
どの惑星や衛星にも人間のような知的生命体は必ず一種しか存在しない。何故かと尋ねたら星の覇権を争い取り返しの付かない争いが始まり滅亡するからだ。
 死に方や生前の死生観によっては穏やかに成仏出来ず大変な苦労を伴うようで、特に自殺は犯してはならない最も罪深い行為らしいと話していた。自殺すると少なくとも本来死ぬはずだった時期、つまり寿命まで今世で苦しむ羽目になりその後も簡単には成仏出来ない為いい事がまるでないと言っていた。玉蔵、大摩邇
※この情報はニセ情報が多い。玉蔵さんは真実の宇宙情報をあまり知らないので、ニセ情報を真実と思い込んでいます。
※銀河系中心では、極めて霊性の高い存在がブラックホールをコントロールしており、そこでたとえ大爆発が起こったとしても心配要らない。それは銀河系の生物全体に必要な大爆発なのです。感謝してその異常現象を迎えましょう。
プトレマイオスが創った宇宙は1400年続いた。ニュートンが創った宇宙は300年続いた。アインシュタインが創った宇宙は100年続いた。大摩邇
ゾラが太陽として知られているヘリオスは恒星ではなく、中空の惑星。ゾラが私たちに 語った所によるとヘリオスの温度は華氏72度だとのことであった。ヘリオスは中空の惑星で太陽系の他 の全ての惑星と同じである。これが最近の写真で示されるように、宇宙船が太陽に出入りしているのが見られる理由なのである。このメッセージが完全になり、十分に文書化されると、ホログラムが元に戻り、太陽は元の姿に戻るだろう。たき
幻想は、地球が小さな固体の惑星で、その住人たちは宇宙で唯一明確な知性をもつ存在だということです。現実は、地球は惑星という肉体をもつひとつの魂で、それはその内部、上部、上空にいる存在たちの住処であり、その表面にいる住人たちのほとんどはほかの多くの宇宙文明社会人たちよりもスピリチュアルに、知的に、そしてテクノロジーの面で、はるかに遅れています。マシュー96

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マイトレーヤ(救世主)が出現する

第22回 ベンジャミン・クレーム講演会 —— 究極の選択
1:01:42 - 2 years ago  

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1665年ころからこの地球は魚座の力の支配から水瓶座の力の支配に移行しはじめた。
1978年ころ魚座の力、水瓶座の力が均衡している状況になり、現在どんどん水瓶座の力がおおきくなっている。
魚座の力は分断、分割、水瓶座の力は統合。
いま現在社会でおきているものごとがうまくいかない状況はこの宇宙パワーの移行に原因がある。魚座の力の支配のもとうまくいっていた市場原理がうまくいかなくなってきている。
従来のどん欲搾取といった方法論ではうまくいかない。
いままでの魚座の力の支配のもとでうまくいっていた過去の方法、どん欲搾取ではこれからの時代はやっていけない。分かち合い、統合が新しい時代のやりかた。
世界の6割の過去の方法にしがみつく人、世界の4割の宇宙の力に反応して新しい方法で生きようとしている人、それが現在の世界の状況。
世界はかつてない危機に直面している。
マイトレーヤはふだんは人里離れた土地で人類をみまもっているが、自らで肉体をつくられ、この世にあらわれた。
マイトレーヤはすでにこの世におり、マイトレーヤは1977年7月に生まれ、ロンドンのアジア系移民の集団のなかで生活している。
その人が救世主となり世界を救うだろう。
マイトレーヤはできるだけはやく公にでることを求めている。マイトレーヤはイエス、仏陀などの高級霊の指導者的な存在。
彼は一般人としてまずアメリカのネットワークテレビに映り、その分析力と知性によって徐々に出
演がふえていく。
その日その時(大宣言の日)、彼の演説は全世界に衛生生中継されるだろう。その時のために衛生技術が進歩している。その日その時、彼の演説は言葉をつかわずにテレパシーで伝えられる。ペンテコスタの日と同じ事が全世界規模でおきる。
人類の進むべき未来をかいま見せてくれるだろう。同時に病の治癒が宣言中におこり、全世界はこの人が人類教師であると認識するだろう。

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④ 反キリスト、ロード=マイトレーヤの出現を告げる「星」なんだって ! 
中心が燃える巨大な渦巻き状の光が2009年12月9日にノルウェー上空に見られ、天文学の専門家を含む大勢のノルウェー人を興奮させ、困惑させた。
それは何を意味するのか。
2008年12月12日、『シェア・インターナショナル』は、大きな光輝く「星」のような物体が間もなく空に見られるであろうと発表した。それは、世界教師マイトレーヤが最初のテレビ・インタビューに姿を現すのが差し迫っていることを告げる徴である。
このインタビューはアメリカで行われるであろう。この「星」は実際には、世界に現れている四つの巨大な宇宙船のうちの一つである。

シェア・インターナショナル

子羊通信





ついにマシューからの見解を得ることができた。以下スージーワードのメッセージ:
マシューによれば、これはとても意味深いサインなんだそうです。この地球の文明にとっても、それ以外の文明にとってもね。
サインの意味するところは、地球外生命が地球人のまえにあらわれる日が近づいているってこと。このノルウェーでおきた現象を人はもうどう否定しようもないでしょうね。
全体にひろがる光の渦は、魂が誕生したときから存在する、壊すことのできないすべての魂のつながりを意味しています。真ん中にある白くて大きい螺旋の光と地球にのびる青い螺旋の光は、彼らの地球人への願い、宇宙人と地球人が意識レベルでつながる日がくることの願いを意味しています。
宇宙人と地球人はお互い同じルーツからきたこと、それが地球人に理解される日がくることの願いを意味しています。
タイミングとロケーションは重要です。オバマ大統領のヴィジョンが世界平和に寄与すると認められ、オバマ大統領はノーベル平和賞の候補になりました。オバマ大統領のノーベル平和賞授与まであとわずかです。
これが地球の大きなシフトだと感じたなら、このメッセージをぜひまわりのみなさんにひろめてください。愛と光と明るい未来まであとわずか!

Galactic Channelings 






青い螺旋光は光制御他による人工重力での四次元現出の証?
http://www.asyura2.com/09/bd57/msg/614.html
投稿者 そこちょっとつんつく
日時 2009 年 12 月11 日 23:45:07: 8EItFG7yGzQIA
(回答先: 「ノルウェー上空に謎の螺旋」はミサイルの失敗?
(更新) | WIRED VISION 投稿者 卍と十と
六芒星
日時 2009 年 12 月 10 日 23:36:04)
知人超能力者の証言なのですが、光ファイバーケーブル(勿論通常のエネルギー供給レベル等や仕掛けではないのでしょうが)周辺から周囲の人間の脳に向かって、まるで生き物のように何かの触手のように螺旋状の青い光とそれと青だけでなく黄(オレンジ?)の光が曲がりくねりながら追いかけて行くのが彼の特殊な眼には見えるそうです。
(なぜこの写真には黄色の光の方が写っていないのか分からない、何れ分かる日が来るだろうとの事です。)

★阿修羅♪






神々への攻撃の結果 ノルウエーの 空に光が出現! 
千成記
【ソルチャ ファールから彼女の西側の購読者へ】の情報です
二回目の神々への攻撃が実施され、それが成功した?和訳してみないとはっきりわかりませんが、スイス地下に 建造されているCERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)が神々の天を攻撃したとのこと。
一番下には、世界各地にバベルの塔の伝説が残っていることが書いてあります。
2009年12月9日
神々への攻撃の結果 ノルウエーの 空に光が出現!現代において人類は初めて 古代の神々のいる次元に“攻撃”をしかけ、それが 成功したと米国とヨーロッパから 確たる証拠が提出された。

良い宇宙人と悪い宇宙人,







真相はあなたが判断してください。

local pc







私のなかでミサイル説はほぼきえた。もしも攻撃だったらあんなにきれいな模様をつくる必要はないはずだ。4次元は霊界であって古代神は4次元にはいない、そのあたりも勉強不足。闇の組織は、「神々への攻撃」だとか、もうウソをそのスケールにしなければ大衆をおさえつけられない状態なんだろう。
上記のコピー自体が大衆にあえたえる悪影響も計算しているかんじだ。個人的にはマシュー説、マイトレーヤ説を指示する。

local pc