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薬師寺泰蔵『テクノヘゲモニー−国は技術で興り滅びる』〜大英帝国凋落の時代を考える
1989   
■テクノヘゲモニー(技術覇権)
ビデオ・半導体の世界的シェアの独占から,日本の技術覇権を云々する説
は多いが,はたして本当か。東芝ココム事件のような国家安全保障と結び
つく国際技術摩擦は,どんな世界秩序の枠組で提えたらよいのか。一昔前
の武力・領土的発想や,最近の通商国家論の如き経済視点ではなく,本書
は「国家は技術によってヘゲモニー(覇権)をかち取り,技術によって失う」という観点から大国の興亡を読み直し,日本の今後の進むべき方向を示唆する。…
■大英帝国ヘゲモンの二つの要件
第二次大戦後の自由主義陣営に類まれなる産業力を誇る米国が君臨したように,ナポレオン戦後の国際システムを戦勝国英国が支配した。よく知られたパックス・ブリタニカがここに列来したのであるしかし,ヘゲモン (覇権国)と呼んだのは後世の学者であって,英国が「俺はヘゲモンである」と言ったのではない。 いうなれば,英国は自らの覇を目指したのではないし,もとより当時の世界システムがそれを求めたのではなかった。英国が開放経済体制に移行したのはまったく偶然であり,それは単に国家が経済開放を要求する国内勢力に屈したからであった。ともあれ,英国はナポレオン戦争下の財政窮乏のために所得税を導入し,さらに戦時関税入した。当時の英国は他の列強と同じように孤立主義をとっていたから,1651年の航海条例を強化し,序章で述べたような繊維機械や工作機械の禁輪や技師の痛および外国への移民の禁を行っていた。さらに1815年には,英国農産物よりも安い物の輸入を禁止したコーン・ロー(穀物法)を制定し,内国主義の国家体制を着々と進めていた。ところが,元敵国のフランスはすでに開放経済体制に移行しつつあった。それはフランスの国家財政が関税収入にあまり依存しなかったからである。英国の関税収入依存度は50%を切ることができず,開放体制に入るのを思い出していただきたい。 16世紀のポルトガルの国家財政は,リスボン商人からの関税収入であったし,エリザベスの財政は,私掠船からの物的関税収入であった。つまり,16世紀からこの頃まで,国家の主要な収入源は関税であったのである。コーン・ローは,ナポレオン戦争後,それまで戦時物資として高騰を続けていた穀物価格が戦争終結により暴落したため,地主の多い議会が制定したものである。しかし,商工業者は,穀物価格が再度上がると,労働者の賃金を上げなければならなくなるため,徹底的に反対をした。この反対派は,いわゆる当時のココム審査官であった貿易委員会総裁のハスキッソンやジョン・ブライトらの政治家に指導され,政府に圧力をかけた。とりわけ,キャラコ捺染業で財をなしたリチャード・コブデンが最も急先鋒であった。ついに政府は,1846年にコーン・ロー,三年後には航海条例の廃止を決めた。有名な『英国衰退論』を著したA・ギャンブルも指摘するように,英国はここで安上がりの選択を行ったのである。つまり,植民地に基礎を置くアウタルキー(自給自足)的保護貿易を行うには,植民地統治と諸外国との接触のコストがかかる。これに反し,世界市場を相手にする自由貿易はそのコストがまったくかからない。ところで,自由貿易には当然, 英国製品の優越性が前提になければならない。それは,ナポレオンが保証してくれた。実際,英国人は,パックス・ブリタニカの到来に関して,ナポレオンに感謝しなければならない。とりわけ,ナポレオンの大陸封鎖令に感謝しなければならない。なぜなら,この大陸封鎖令によって,世界の人々にとって英国製品は毎日の生活に欠くべからざるものであることが判明し,世界市場を前提に組み立てられた自由貿易主義を採用しても問題ないこと,実証的にも確かめられたからである。
いずれにしても英国は,最も安上がりな選択を行った。この国家の選択は1860年に対外政策として明確に現れてきた。つまり,この年にフランスと有名なコブデン・シュバリエ条約を結び,輸入フランス・ワインの関税を激減させ,一方フランスの対英国製品輸入関税25%は据置いた。これで英国のヘゲモンとしての要件は整った。その要件とは,一つはヘゲモン(英国)の指導力に従う主要国(フォロアー,つまりフランス)が在すること。いま一つはフォローする国には非対称性(英仏の関税率の差)を認めるということ
である。 序章で触れた第二のヘゲモニー,つまり相対的意味を持つへゲモニーは,このような二つの要件をその構造に持っている。しかし,皮肉なことに,歴史的に孤立主義のイメージを強く持つ英国の対外評価はさして改善されず,開放体制に移行しても通商条約を結ぼうとする国家の数は多くなかった。一方,大陸国家であるフランスは持ち前の外交力によって多くの国を集め関税条約を結び,結果的には英国ドクトリンの遂行に著しい貢献をなした。英国はナポレオン戦争から第一次世界大戦までの百年間の通商秩序に対して,ヘゲモンとしてどうやら生きながらえた。しかし,それは英国独自の力でから取ったヘゲモニーではなく,フォロアーに支えられた,いわば「君主型コンソーシウム(組合)」の世界だったともいえる。言うなれば,英国は「気がついてみたらヘゲモン」だったのである。…
■ヘゲモン英国のほころび
右で議論した自由貿易の選択のためには,それに違反する私掠船を英国海軍力で完全に阻止できるという自信と,自由貿易ルールを破る全ての国に対して海上武力行使を徹底的に行うということを示しておかなければならなかった。 しかし,英国のシーパワーには決定的な不完全さが残っていた。このことについて簡単に触れておこう。ショ英国は,ウェリントン将軍というアングロ・サクソン人としては傑出した陸軍人を得て,リア半島をどうやら恋守した。 しかし,それはスペイン・ゲリラ(小さな戦争という意味)に…
■大英帝国凋落の兆し
こうして大西洋,地中海のシーパワーは確保したが,太平洋だけはほころびがあった。まずアメリカが,フロンティアの西の延長として太平洋に出てきた。米海軍は捕鯨船の補給地を確保するためという名目で西進した。 ペリー提督の日本寄港は,このような脈絡で行われたのである。英国のシーパワーは卓越していたが,太平洋海域だけは完全でなかった。その意味で,英国は,第一の意味(武力的絶対覇権)でヘゲモンではなかった。英国のヘゲモニーは明らかに相対的で,かつ名目的であった。このことは,次に述べるように英国のアキレス腱となって,衰退を促す結果となった。
安上がりの選択を行った英国の自由貿易主義者は,他方で想像以上のコストを払わなければならなくなってきた。パックス・ブリタニカの構造的欠陥がそろそろ現れてきたのである。『帝国の生涯』という書物を著したG・リシュカによると,英国の凋落は,帝国統治のマネージメントから始まったという。彼は,ローマ帝国と大英帝国の比較からパックス・アメリカーナの
構造的特徴を明らかにしようとした。しかし,ローマと米国の比較よりも,ローマと英国の比較の部分の方が興味深い。リシュカは帝国というものは,ローマ帝国の東西分離のように,主要植統権を与えてしまった結果,そこから構造的な凋落の兆しが始まると主張している。英国の場合,その第一の兆しはアフガニスタン,インド,そしてアフリカの反乱運動から始まった。とりわけ,南アフリカのオランダ系植民地人であるボーア人の反乱軍は執拗で,英国が45万の軍隊を派遣しても容易に降伏しなかった。19世紀から今世紀の初めにかけて,英国が南アフリカの金鉱とダイアモンド鉱を確保するために行ったボーア戦争に払ったコストは莫大なものであった。なぜなら,1801年に連合王国となったわりには,その支社メンバーであるカナダやオーストラリアが「連合」して,本社帝国である英国の戦争に援助しなくなったからである。 リシュカのいう分権統治の構造的欠陥が現れたのである。これを「版図のツケ」と呼ぼう。リシュカのいう通り,帝国は小さな戦争が長引くことによって没落を開始するのである。これは自由貿易主義者の考えの最も脆弱な部分であった。なぜなら,彼らは,強大な版図統治のマネージメント・コストを節約するために,植民地を保護せず,世界市場を選択すべしと主張したからである。しかし,実はまったく反対であった。植民地を見捨てたコーン・ローや航海条例廃止の反動として,植民地は本国を見捨てた。自分たちは自分たちで生きなければならないからである。このため,大英帝国が払うコストは,自由貿易体制のゆえに増大する結果になった。
これを自由貿易主義の第一の構造的欠陥とすれば,第二の構造的欠陥は,もともと曖除な自由主義体制そのものにある。言いかえれば,英国は,個々のルール違反者に対して適切なえないという「安上がり」の選択を行ったがゆえに,多くのルール違反者が出てきた。そのなかでも,かつての戦争相手国アメリカの違反は深刻であった。19世紀の後半,ヨーロッパは未曾有の不況に見舞われた。それは,欧州の自由経済圏のメンバーでない米国とロシアから安い小麦がどっと流入したからであった。英国の安直な選択のツケが現れてきたのである。
対抗上,英独仏三国は,米農産物の関税率を上げた。ここで注意すべきことは,これらの国々は,開放経済体制をいとも簡単に放棄し,保護主義に走ったのではないということである。むしろ,これらの国々は,国内の保護主義勢力を抑えるために関税率をいじることによって政治的処理を図ろうとした。しかし,関税率をいったんいじり始めると,各国とも協調のバランスが崩れ,それぞれ自国のエゴが前面に出るようになった。そして1781年,悲願の国家統一を成し遂げたドイツが,1879年に統一関税法を施行し,これに応えるようにフランスも1892年,メリーヌ関税法を制定した。このように,ほぼ60年近くの長きにわたって秩序だった開放経済体制を維持したヨーロピアン・レジームは,その体制外にいた米国とロシアの小麦輸出という通商エゴによって脆くも崩れ去った。
このような状況を見て,『英国衰退論』の著者ギャンブルはなかなか面白い指摘を行っている。「国の衰退のは,二度の大戦でアメリカとではなくドイツと戦ったことにある」と。さらに彼は,英国の対独戦のやり方が,途中で和戦するというようなことはせずに,徹底的に潰すまで戦うという戦法であったため,自らも疲弊してしまったと言う。その結果,本来の抗争相手国であったアメリカの援助を受けるハメになった。この,やや反米的とも見られるギャンブルの考えは,なかなか当を得ている。独立戦争,奴隷貿易禁止令,米英戦争, 小麦の無秩序な輸出行為,どれをとっても英国とアメリカはお世辞にも
仲の良い国同士ではなかった。米英戦争では,英国遠征軍は,首都ワシントンを焼き払ったほどである。米英の近親憎悪は想像を絶する。
われわれ日本人は,米英は歴史的に民族や言語を同じくするので,その「特別な関係」は疑いの余地がないと思いがちである。ここに常識の盲点がある。同じドイツ語を話すプロイセンとオストリアは仲が悪かったし,第一,ゲルマン民族は長らく部族間戦争を繰り返していた。戦争は異民族間で起こるのではなく,すぐれて,国際政治のダイナミズムから生じるものである。
このように考えると,仮想敵国とまではいかなくても,ことごとく反目していた米国を味方にナポレオン戦争では何回ともなく同盟を結んだドイツを敵にまわすという英国の選択は,国際政治史からいっても理解しがたい。それはなぜであろうか? それは,多分,英国に異常なシーパワー脅威妄想症があったからではなかろうか。ドイツは海軍力を増強し,フランスのレベルに達した。一方,英国のシーパワーは,太平洋海域に不完全さが残るため,アメリカの海軍力を完全に叩くことが出来なかった。そこで,シーパワーのないド
イツを叩いた方が楽だと考えたのではなかろうか。その方が明らかに 「安上がり」には違いなかった。
■技術のこぼれ落ちと通商国家
英国は産業革命をどの国よりも早く成し遂げた。それは綿繊維産業の機械化と蒸気機関の開発によって可能となった。 ナポレオンによる英国製品ボイコットのおかげで,英国の工業製品は世界中で売れ,原料は世界中から調達可能であった。このような英国の急速な通商国家としての台頭は,ある特殊な技術を英国が完成したから出来たといって過言ではない。その特殊な技術とは「複製技術」 (Clone Technology) とも呼ぶべき民生用の生産技術である。すでに述べたように,石炭の導入は工業製品の薄利多売を促した。もう少し格好よく言えば,規模の経済を実現したのである。つまり,「同じ物」を「もっと安く」作るということが要求され,英国の技術者はこれに応えることが出来た。同じ物を作る技術は,今でこそ何でもない技術であるが,当時は大変なハイテク技術であった。品質管理技術のない時代である。同じ機械を使っても同じものは出来ない。歩留りも悪い。そこで英国人は産業機械の精度を上げ,工作機械技術を開発した。つまり,複製技術を完成したのだ。理論的には,複製技術は 「copyable」 (模倣可能) である。 しかし,基礎機械技術のないところでたやすくコピー出来るほど話は簡単でない。旋盤技術,鍛造技術, 切削技術など,どれ一つとっても高度な職人芸を必要とした。 コピーするにはこの職人を連れてくる以外にない。そこで,序章で述べたような19世紀のココム事件が起こったのである。
ユグノーの技術移民を調べたW・スコービルによれば,技術移転は二つの形をとるという。一つは,図面の取得や留学によって知識そのものを獲得して行うやり方で,もう一つは技術移民によるものである。とりわけ,高度技術は後者以外にないと彼はいう。実際,英国の複製技術は,主に後者によって伝播していった。複製技術であるがゆえに,英国は世界市場を相手とする自由貿易主義を選択した。いうなれば,通商国家はこのような複製技術がなければ成り立たない。 しかし,一方,まさに複製技術であるがゆえに,通商国家は凋落する。つまり英国のヘゲモニーは揺らぎ始めたのである。それは,英
国製品と同等かそれ以上のものが, この copyableな複製技術によって作られることから始まる。ここに「技術のこぼれ落ち」問題があるのである。へゲモニーの二つの要件のうち,非対称性原理が,この技術のこぼれ落ちを促進した。非対称原理というのは,ヘゲモンである英国は市場を開放するが,フォロアーの国は国内市場を保護してよい,というものである。英国製品が圧倒的に優勢であった時代には,この原理はうまく機能した。相手の弱味(つまり,自国の市場の閉鎖性)につけこんでフォロアーとして従属させ,国際システムのマネージメント・コストを節約出来た。ところが,その製品は複製技術に根ざしていたので,この複製技術を他の国が習得した暁には,英国のヘゲモニーはその根底からひっくり返されてしまう可能性がある。そのような国が現れたのである。ドイツである。もともと農業国であったドイツは,またたく間に複製技術を習得し,アメリカからの小麦輸入問題にかこつけて,関税同盟を国内で結び,英国製品を排斥した。同時に,国内特許法を決め,改良複製技術を門外不出とした。英国は,当然このドイツの台頭を恐れ,非難した。この辺の事情は,次章以下で詳しく述べる。…

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De Quincy「阿片常用者の告白」~無限幻想の地獄

De Quincy「阿片常用者の告白」~無限幻想の地獄
阿片を使ってから久しい。
もしそれが私の人生の子細な事件であったとしたら,私はその月日を忘れたかもしれない。
しかし大きい出来事は忘れられるものではない。そしてそれに関係する事情からして,私の阿片使用は1804年の秋に帰さなければならないように記憶している。
■阿片との出会い
その季節の間,私はロンドンにいた。大学に入学して私は初めてこの場所へ来たのである。
そして私の阿片使用は次のように起こった。
幼い頃から私は少なくとも一日に一回は冷水で頭を洗う習慣を持っていた。ところがある時突然歯痛に犯された私はこの瞬間を一時中止した。怠惰のせいに帰して寝床から飛び出して冷水のはいった鉢に頭を突っ込んで,手と髪を濡らして眠った。翌朝は言うまでもないが目が覚めると頭や顔に激しいリュウマチ的な痛みを覚え,その後約20日あまりその苦しみから解放されなかった。
21日目の日曜日,私は通りへ出た。明確な目的がっあったわけではなく,むしろ苦痛から逃げ出したいためであった。
偶然私は阿片を薦める一人の学友に出会った。阿片!思いもよらない快感と苦痛と呼び起こす恐るべき力!
私は阿片についてはアンブロージアについて聞いていたと同じ程度に知っているだけで,決してそれ以上の情報は知らなかったのである。
それは今や私の魂に何という壮麗な和音を聞かせるのか!また何という悲しいかつ楽しい思い出の魂を打ち揺るがす振動を奏でることであろう!
しかしこれらの事実を顧みる時,私は楽園を最初に自分に開いた時と所と人間と関係する微細な事情にまつわる神秘的な重大さを感じるのである。
それは湿っぽい人気の日曜日の午後であった。実際この我々のイギリスの大地においてロンドンの雨の日曜日ほど陰鬱な光景を示すものはない。
私の帰り道はオックスフォード街を通るのであった。そして「英雄なるパンテオン」の近くに私は一軒の薬商を見つけた。薬商は自ら知らずして天上の快楽を与えるものは 日曜日の雨に同情しているかのように,しかもこの世の薬商が日曜日に期待されるような陰鬱な顔付をしていた。
私が阿片を乞うと,店主は普通の人間がなすのと違わないさまで,事務的にそれを私に与え,さらに私にが渡した代金のつり銭として 真実の銅貨とおぼしきものを真実の木造のレジスターの中から取り出して私に渡した。かかる人間的性質の情報を入手するににもかかわらず,彼は私に対して特殊な使命を帯びて地上に遣わされた天上界の薬商の麗しい近影としてそれ以来私の心の中に存在している。
さて私が再びロンドンを訪れた時に「雄大なるパンテオン」の近くで 彼を捜したがついに発見することができなかったというこの事実は,先ほど述べたように彼を見なす私の確信を一層強固ならしめるのである。
しばらくして彼の名前を知らなかった私には彼が何かしら肉体的な仕方で移動したと言わいうよりは,むしろオクスフォードの町から消え失せたかのように思われた。
読者はおそらく彼を地上の薬屋以上のものではないと見なしたいのであろう。おそらくそうかもしれない。しかし私の信念の方が正しい。私は彼が焼失したがさもなければ 蒸発したと信じている。それゆえ,最初に霊薬を私に知らせいた時と場所と人間とにいかなる人間的記憶を揉む主義をつけたくないのである。
■服用
宿に帰って私は直ちに指定された分量を飲んだと想像されるかもしれない。私は服用する方法や技術を当然何一つ知らなかった。そして私が服用したのは事実に不利な状態においであった。しかし私はそれを飲んだ。そして1時間ほど経つと 非常に大きな激変が起きた。内的に精神が沈底から高揚に至ったのである。
私の内部世界の何という啓示があったことだろう。私の苦痛が消失したことは,私の目には子細な問題であった。この消極的効果よりも面前に開かれた積極的効果の無限の中に突然啓示された聖なる優越の神への中に飲み込まれてしまった。ここに一切の人間的災いの処方があった。ここに哲学者達が幾世代に渡って論争しあった幸福の秘訣がたちまちに発見された。「幸福」は今や1ペンスの値段で購入され,胸のポケットを詰めて携帯できることができるのである。持ち運びのできる幸福が1ピント入瓶に詰め込まれ,心の栄養は郵便馬車によってガロン宛で送られることもできるのだ。。
■苦痛
慇懃なるそして望むらくは寛容になる読者様。ここまで私に同行してくれたからには,約8年ほど,すなわち1804~1812年に至るまで私に同行して進んでいただきたい。
学生時代は今ではすでに過ぎ去って,ほとんど忘れられてしまった学生帽は今や私の頭を押し付けることもない。
阿片を飲んで以来,身体の加減はどうなったのか?あっさりといえば機嫌はどうなったのか?読者諸君ありがとう。かなり達者に暮らしている。婦人達の言葉を拝借して言えば「期待されうる限り達者である」。
ありのままを白状するなれば,医師の理論を満足させるためには当然病気であるはずなのに,1812年の春ぐらい健康の優れていた時期は今までになかったのである。
1804~1812年の八年に飲んだ阿片の量が私の健康を害しなかったのと同様,少しも処分の健康を害しいなかったことを希望する。アナスタシア(Percy Shelley)から医学上の忠告をお受け取りになるのがいかに危険であるかは自ずとわかるだろう。
私の知る限りではあれは神学や法律にかけては良き助言者であるが医学に関してはそうではないのだ。 この方面ではバカン博士に相談される方が遥かにマシである。私はあの人の忠告は決して忘れることはない。25オンス以上の量を決して飲まないように特別に気をつけていた。少々くらいはよかろうからとそれを良いことに 濫用する人々への復讐を,少なくとも1812年において私が知りもしないというのも適度に使用したからだと考えていた。と同時にこれまでのところ十分間を置いて使うように用心して,未だ日常の食料品となるには至らなかったということも念頭に留めていただきたい。
ところが今や別の時代が来た。
読者様1813年へ進んで頂きたい。1812年の夏の甚だ憂鬱な事件と結びついた精神の状態。大いに体の健康を害したこの事件はそのために健康を害したという他に別段目下の問題とは関係がないからこれ以上詳しく言う必要もないだろう。
1812年のこの病気が1813年のそれと何か関係があるかどうかは知らないが,ともかく私はこの1813年に実に恐ろしい胃の痙攣に襲われた。それはすべての点において青年時代に私を苦しめた頭痛と同様にまた昔の夢の再現を伴うものであった。
これは私の告白物語の要点であって,阿片服用に対する自己弁明に関して私はこれから述べようとする全部が専ら依存するといって言っても良いものである。~
■幻影
これから私はこの私自身の手記の主題ともいえる,夢の中で起こった事柄の歴史と日記とに話をうつそう。その理由はこれらが私に最も激しい苦痛の一番直接に近い原因であったからである。
私の肉体組織の内の夢に関係ある部分において進行していた重大な変化において,私が最初を気づいたことは,概して少年時代もしくは極度の焦燥状態において起こりやすい目の状態の 再発であった。
多くの子供,いやおそらく子供は大抵あらゆる種類の幻影を暗黒の表面に描く力を持っている。ある子供にあってはその力は単に目の機械的変調である。ところで,他の子供達はそういった幻影を放置したり共感したりする任意あるいは半ば任意な力を持っている。あるいはかつて私がある子供にこの事において訪ねた時その子供が言ったように「私は幻影に向かって行けと命令することができる。すると幻影は行ってしまう。しかし時とすると彼らは私が来いと命令もしないのにくることもある」。
この力が私にとってたまらなく苦しいものとなったのは1817年の半ば頃のことだったと思う。
夜分,床についたまま目を覚ましているとたくさんの幻の行列が憂いに沈んではいるが華やかに装って通り過ぎていった。果てしもなく続く物語の彫刻はエディパスやプライアもよりもタイアよりもメンフィスよりも前の時代から来た物語であるかのように悲しくもまた荘厳な気がした。
またそれと同時にそれに関連した変化が私の夢の中に起こった。ある劇場がにわかに私の頭の中に開かれて明るく照らし出された。しかもそれは現世のそれよりももっと華麗な夜景を呈するのであった。
そして次の四つの事実は日常平時における注目すべき事柄として申し述べて差し支えなかろう。
1 目が幻影を想像する状態が進むにつれて脳の目覚めた状態と夢見る状態との間にある共鳴が一点において起こるように思われた。
すなわち私が休み休み有意的意識的な動作によって暗闇の中に呼び出したりしていた幻影が夢に移動しがちであった。それゆえに私はこの力を働かせることを恐れた。マイダスがあらゆる物を黄金に化したがそれがかえって彼の希望を虚しくしてまた彼の人間的欲望を欺いたように,何によらず目に映るもの全てが闇の中でちょっと考えただけですぐその姿が目の幻影と化してしまった。そして明らかにそのそれと同様に必然的な過程によって,その幻影がしばらくして一度かすかなぼやけた色彩で描かれると,あたかもあぶり出しインキで描いたかのように,その幻影は私の猛々しい科学効果によって引き出されて私の心をイライラさせた。
2 私の夢の中で起こったこれらの事や全ての変化には言葉によっては表現しえないような深い心配と暗い憂鬱が伴った。
私は毎晩比喩的にではなく全く文字通りに岩の割れ目や太陽の照らない深い闇の中に深みから深みへとどんどんと落ち込んでいくような気がして,しかもそこから再び登ってくるのは全く絶望という気がした。そして目を覚ましてもそこから再び登ってきたという感じがしなかった。と言ってこのことを私は詳しく述べようとは思えない。なぜならこれらの華やかな風景に伴う暗黒状態には,暫時その暗黒の度合いを増していて,ついには自殺を招きかねない絶望の闇のような暗黒状態になるものであって,言葉には 表現することが、 できないからである。
3 空間の観念とそしてついには時間の観念とは両方とも強く影響された。建物とか風景といったようなものは肉眼で見えるのが困難なほどに非常な大きさで表現されて空間は膨張していき,名状しがたい無限の範囲にまで拡大された。
しかしこれとしても時間の広大な膨張ほどには私を煩わせなかった。時として私は一晩の間に70年あるいは100年もの間生活したような気がした。ある晩は一晩の間に2000年も経過したように感じて,あるいはそれほどでもないにしても経験の限度をはるかに超えた長い時間が経過したような感じがした。
4 子供の時間の極めて悲惨な出来事,もしくはその後年の忘れられた色々な場面がしばしば蘇った。しかし私もそれらのことを自分で思い出したとは思えなかったが,その理由は誰て目覚めている時にそれらの事は語られたとしても私はそれらを私の過去の経験も部分として承認することができなかったからであろうから。~
ー阿片常用者の告白,De Quincy,岩波文庫,

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Q:なぜ大英帝国は明治日本にアヘンを売らなかったのでしょうか?
紳士の国として知られるイギリス…しかしそのイギリスが、アヘンという麻薬を使って大儲けしていたことをあなたはご存知ですか?
19世紀初頭の話です。
なんと、7つの海を制し、陸地の4分の1を支配していたイギリスの原動力は麻薬だったのです。
大量のアヘンが欲しいイギリスは、植民地にしたインドの子供たちを農奴にし、朝から晩まで作らせました。
インドで麻薬を栽培して…それをどこに売ったと思います?答えは、私たちのお隣、中国です。(当時は清という名前でした)
歴史の教科書で、イギリスとインドと中国の三角貿易って習ったのを覚えていますか?あれはそれです。(学校では詳しくは教えてもらってないですよね?)アヘンを中国に売ってお金儲けしたいイギリス…どれくらい売ったと思います? ヒント:アヘンは一回1グラム、2グラムとかそういう単位で使います。
正解は8000万トンです。
一回1グラムで考えると80兆回分です。そんな量の麻薬が中国に流れ込んだのです。そして、それを買う訳ですから、それだけの量のお金が中国から出て行きました。中国は崩壊するに決まってます。アヘンを売ってほしくない清(中国)とアヘンを売りたいイギリスの戦争 それがみなさんご存知のアヘン戦争です。(学校では詳しくは教えてもらってないですよね?)
イギリスは、アフリカ大陸を周って、インドを奴隷にして中国を麻薬ずけにしました。(もちろん、途中のアフリカ諸国や東南アジアのミャンマーとかインドネシアとかは植民地にされました)
皆さんがイギリス人だったら…そのまま日本に行くに決まってますよね? しかし、日本の歴史を教えてもらった限り、日本人のほとんどが麻薬中毒になったなんてことはありません。何かおかしいとは思いませんか?
実はその頃、日本ではこんな大きな出来事が起こっていました。
「明治維新」(1864年)
そういえば龍馬が乗っていた軍艦はイギリス製でした。江戸時代の終わりに突然、長崎にグラバーというイギリス人が来ました。明治維新とイギリスの侵略政策とどのように関わっていたのでしょうか…
ps.
イギリスがインドに作った麻薬農場の広さは…
南北300km
東西150km
よって、4万5000㎢
それが2つなので、9万㎢
東京ドームは0.05㎢なので東京ドーム180万個分です。

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口承インディアン神話の文書化


オカナガン族の神話
1886年、アメリカの著名な歴史学者であるヒューバート・ハウ・バンクロフト(1832年~1918年)が、失われた楽園の島「サマ・トゥミ・ウーラ」に関するオカナガン族の神話について語っている。
「むかしむかしのこと、太陽がまだまだ若くて星と同じような大きさだった頃、遠い海の向こうに島があった。島の名前は サマ・トゥミ・ウーラ。白人の島という意味だ。この島には白い巨人たちが住んでいた。彼らを治めていたのは、スコマルドという背の高い女性だった。
彼女は望むもの全てを自分の手で作り出すことができた。
白い巨人たちは長い間平和に暮らしていたが、あるとき、仲間内でいさかいが起こってしまった。いさかいは戦争へと発展していった。あちらこちらで戦いの音が聞かれ、多くの人々が殺された。
スコマルドはこの状況に怒りを隠さなかった。彼女は悪い巨人達を島の一方の端に追いやって、彼らが集まっている部分を島から切り離して海に流してしまった。悪い巨人たちを乗せた小さな島は、何日も何日も風と波に押されながら海を漂った。やめてしまに乗っていた巨人たちは男と女を一人ずつ残して、全てが死んでしまった。
島が沈みそうなのをさとり、男女の巨人ふたりはカヌーを作った。そして何日も何日も可能をこぎ続けいくつかの島が浮かんでいる海域に出た。二人はさらにこぎ続けて、大陸のある場所まで出られた。」
-MU BOOKS/アトランティスは南極大陸だった!! 1996年刊   

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チェロキー族の神話
アメリカ大陸の西部にはアパラチア山脈があるが、この土地では太陽の変化、大洪水、災害の生存者の話が伝えられている。
アパラチア山脈の南の端の部分は、青々とした森林地帯である。ここはかつてチェロキー族のふるさとだった。
19世紀初頭、sequoia という名前のチェロキーが、部族の言葉を表記するためのアルファベットを作り出した。彼の仕事は、部族内で口承されてきた伝統の数々を文字に残すという間で、非常に貴重な財産を残したと言えるだろう。これらの神話の一つに、大洪水は太陽の女神の止めようのない涙のせいだったという話がある。
この女神は人間を忌み嫌っており、地上に大干ばつが起こるように呪いをかけた。困ったチェロキーの長老たちは小さな人(チェロキー族が神と崇めていた存在)に助けを求めた。
小さな神々は、「チェロキーが助かる道は太陽を殺すことしかない」と告げた。太陽の女神が死に至る一撃を加えるため、魔法の蛇が準備された。しかし、悲劇的な失敗が起きた。太陽の女神の代わりに、娘である月が噛まれてしまったのだ。
「女の月が死んでしまったのを知った太陽は、家の中に引きこもって悲しみに暮れました。こうして人々は命が助かることになりましたが、世界は闇の支配する場所になってしまいました。太陽が全く出てこようとはしなくなったからです。
長老たちは再び小さな人に会いに来ました。太陽が出てくるようにするためには女を戻さなければならないということでした。(ここで7人の男達が幽霊の国へ行って、月を取り持ちてくるが、月は帰りの道中で再び死んでしまう。太陽の女神は大声で泣いた。)
太陽の女神はその涙で洪水を起こしてしまうほどに泣き、人々は世界が水浸しになってしまうのではないかと恐れました。」
ユート族やオカナガン族と同じように、チェロキー族も世界の終わについては実に暗いトーンの予言を持っていた。
「地球は海に浮かぶ大きな島である。硬い岩でできた紐で空の至宝からぶら下げられている。世界が古くなってくると、人々が死んで紐がちぎれ、海の中に沈んでしまいそこには再び海面しかなくなる。」
チェロキー族とオカナガン族は、アメリカ大陸の海岸部から程遠い山岳部に住んでいたにもかかわらず、どちらも島と洪水を関連付けて神話を残している。オカナガン族にとって、この島は「遥かな大海のただ中」にあり、チェロキー族にとって「海に浮かぶ大きな島」は失われた大地の手がかりとなるのなるものだった。
「この下には別の世界がある。そしてその世界は季節を除けば、動物も、植物も、人間も、我々のものと全て同様である。」
実際に北半球とはまるで違う気候を持ったそのような島が存在していた。島大陸である南極には、地殻移動の前は氷に閉ざされていない部分があったのだ。これがチェロキー族やオカナガン族の神話に出てくる、沈んでしまった島なのだろうか?
-MU BOOKS/アトランティスは南極大陸だった!! 1996年刊   

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予知情報


オカナガン族の神話
1886年、アメリカの著名な歴史学者であるヒューバート・ハウ・バンクロフト(1832年~1918年)が、失われた楽園の島「サマ・トゥミ・ウーラ」に関するオカナガン族の神話について語っている。
「むかしむかしのこと、太陽がまだまだ若くて星と同じような大きさだった頃、遠い海の向こうに島があった。島の名前は サマ・トゥミ・ウーラ。白人の島という意味だ。この島には白い巨人たちが住んでいた。彼らを治めていたのは、スコマルドという背の高い女性だった。
彼女は望むもの全てを自分の手で作り出すことができた。
白い巨人たちは長い間平和に暮らしていたが、あるとき、仲間内でいさかいが起こってしまった。いさかいは戦争へと発展していった。あちらこちらで戦いの音が聞かれ、多くの人々が殺された。
スコマルドはこの状況に怒りを隠さなかった。彼女は悪い巨人達を島の一方の端に追いやって、彼らが集まっている部分を島から切り離して海に流してしまった。悪い巨人たちを乗せた小さな島は、何日も何日も風と波に押されながら海を漂った。やめてしまに乗っていた巨人たちは男と女を一人ずつ残して、全てが死んでしまった。
島が沈みそうなのをさとり、男女の巨人ふたりはカヌーを作った。そして何日も何日も可能をこぎ続けいくつかの島が浮かんでいる海域に出た。二人はさらにこぎ続けて、大陸のある場所まで出られた。」
-MU BOOKS/アトランティスは南極大陸だった!! 1996年刊

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チェロキー族の神話
アメリカ大陸の西部にはアパラチア山脈があるが、この土地では太陽の変化、大洪水、災害の生存者の話が伝えられている。
アパラチア山脈の南の端の部分は、青々とした森林地帯である。ここはかつてチェロキー族のふるさとだった。
19世紀初頭、sequoia という名前のチェロキーが、部族の言葉を表記するためのアルファベットを作り出した。彼の仕事は、部族内で口承されてきた伝統の数々を文字に残すという間で、非常に貴重な財産を残したと言えるだろう。これらの神話の一つに、大洪水は太陽の女神の止めようのない涙のせいだったという話がある。
この女神は人間を忌み嫌っており、地上に大干ばつが起こるように呪いをかけた。困ったチェロキーの長老たちは小さな人(チェロキー族が神と崇めていた存在)に助けを求めた。
小さな神々は、「チェロキーが助かる道は太陽を殺すことしかない」と告げた。太陽の女神が死に至る一撃を加えるため、魔法の蛇が準備された。しかし、悲劇的な失敗が起きた。太陽の女神の代わりに、娘である月が噛まれてしまったのだ。
「女の月が死んでしまったのを知った太陽は、家の中に引きこもって悲しみに暮れました。こうして人々は命が助かることになりましたが、世界は闇の支配する場所になってしまいました。太陽が全く出てこようとはしなくなったからです。
長老たちは再び小さな人に会いに来ました。太陽が出てくるようにするためには女を戻さなければならないということでした。(ここで7人の男達が幽霊の国へ行って、月を取り持ちてくるが、月は帰りの道中で再び死んでしまう。太陽の女神は大声で泣いた。)
太陽の女神はその涙で洪水を起こしてしまうほどに泣き、人々は世界が水浸しになってしまうのではないかと恐れました。」
ユート族やオカナガン族と同じように、チェロキー族も世界の終わについては実に暗いトーンの予言を持っていた。
「地球は海に浮かぶ大きな島である。硬い岩でできた紐で空の至宝からぶら下げられている。世界が古くなってくると、人々が死んで紐がちぎれ、海の中に沈んでしまいそこには再び海面しかなくなる。」
チェロキー族とオカナガン族は、アメリカ大陸の海岸部から程遠い山岳部に住んでいたにもかかわらず、どちらも島と洪水を関連付けて神話を残している。オカナガン族にとって、この島は「遥かな大海のただ中」にあり、チェロキー族にとって「海に浮かぶ大きな島」は失われた大地の手がかりとなるのなるものだった。
「この下には別の世界がある。そしてその世界は季節を除けば、動物も、植物も、人間も、我々のものと全て同様である。」
実際に北半球とはまるで違う気候を持ったそのような島が存在していた。島大陸である南極には、地殻移動の前は氷に閉ざされていない部分があったのだ。これがチェロキー族やオカナガン族の神話に出てくる、沈んでしまった島なのだろうか?
-MU BOOKS/アトランティスは南極大陸だった!! 1996年刊

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Atlantis Found: Giant Sphinxes, Pyramids In Bermuda Triangle
Monday, October 1, 2012 19:27
Before It's News
http://beforeitsnews.com/science-and-technology/2012/10/atlantis-found-giant-sphinxes-pyramids-in-bermuda-triangle-2475944.html
(要約)
遺跡情報:アトランチス文明の遺跡発見される
Terrence Aym
2012年10月1日
アトランチス文明の遺跡発見される
昔、神話だとされていたトロイの木馬が実際に発見され、「トロイの木馬」伝説は神話から歴史に変わった。そして先日、架空の話だとされている「アトランチス文明」の遺跡が発見された。
遺跡があったエリアはキューバ諸島沖の深さ 約600フィートの大西洋海底。バミューダトライアングルの縁の海域の海底。発見したのはPaul Weinzweig 博士とPauline Zalitzki博士。遺跡の特徴から「アトランチス文明」の遺跡であると断定した。
Paul Weinzweig 博士とPauline Zalitzki博士は、ロボット式潜水艦 (ROV、Robotic Ocean Vehicle)でキューバ諸島沖を探査、海底に巨大な街の跡らしき人工構造物を発見した。街の跡には数体のスフィンクスやピラミッド群などが発見された。
ジャーナリスト Luis Mariano Fernandez 氏
「数十年前、キューバ危機(the Cuban Missile Crisis、キューバ核爆弾疑惑)があった時に、米政府はこの海域を調査し、この遺跡を発見している。しかし情報は公にはしていない。」。
米仏の合同調査チームは1960年代にこの海域を調査、巨大海底ピラミッドを発見しているが、情報は一般には公開されていない。
ジャーナリスト Luis Mariano Fernandez 氏
「彫刻された石を組み合わせて作った建造物がそこにはあった。その文様はエジプト文明のそれと似ているものがあった。理解に苦しむシンボルもかなりあった。」。
「オーストラリアの原住民アボリジニに、海底に沈んだ幻の文明『アトランチク(Atlanticu)』の言い伝えがある。中米ユカタン半島にも同じ言い伝えがある。どちらの言い伝えも『アトランチス』を想起させる。」。
「メキシコの古代文明オルメカ文明の人の体系のルーツの一部はキューバ人。このエリアにあった大陸の大陸沈没から逃れてメキシコに渡った大陸の生き残りがオルメカ文明を作ったとはいえないか。」。
氷河期の終わり
Plato(プラトン)
「古代の氷河期の終期、海水位は約400フィート上昇したが、この時の水位上昇はあっという間におきた。当時のアトランチス文明のテクノロジーをもってしてもこの事態に対処する事は不可能だった。」。
前回の氷河期の終わり、気温の上昇によって氷が解け、特に北半球の海水位は急速に上昇、陸地の沿岸地帯から海面下に沈んでいった。島は消え、所によっては大陸さえも水面下に消えた。キューバ諸島沖は大昔は陸地だったが、海水位上昇により海底に沈み、高地の一部がキューバ諸島として陸地として残ったのだろう。
Terra Forming Terraのレポートによると、これらのピラミッド群( Cuban Subsea Pyramid Complex)をはじめとする遺跡が海底に沈んだ時期とアトランチス文明滅亡の時期は一致するという。
Terra Forming Terra
「キューバプレートとユカタンプレートの接合部は構造的に弱い。12,900年周期で発生する気候変動で増えた海水の水圧はこのエリアのプレートを圧迫し、破ったのではないか。」。

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Terra Forming Terra
「12,900年周期で発生する気候変動で増えた海水の水圧はキューバ諸島沖のプレートを圧迫し、破ったのではないか。」。
太陽系は銀河系の中心部を中心にして銀河系を公転する。
氷河期、温暖期が入れ替わる周期が12,900年周期だとするなら、地球の公転周期1年の中に夏、冬があるが如く、太陽系の公転周期25,800年(12,900年×2、プラトン年)の中にも夏、冬があると考えていいだろう。
太陽系の季節の冬に生まれ栄えたアトランチス文明は冬の終わりに発生した雪解けとともに海底に沈み、散った。
2012年の現代の季節は?夏から秋に変わる頃、残暑(地球温暖化)が続くお盆の頃と考えられないか。
惑星二ビルなどの天体の影響による一時的な海水位上昇はあるにせよ、マクロな気候変動の観点から見るならば、夏から秋に移行する相。海水位は上がるというよりは下がる相、陸地が広がり、氷河が増える相に以降するのではないか。
2012.10

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1977年、Ari Marshall氏率いる研究チームはカイサル(Cay Sal)沖深さ150フィートの海底にピラミッド状の構造物を発見した。Marshall氏はこの時、この海底ピラミッドを写真におさめている。Marshall氏によれば、この海底ピラミッドの入口を出入りする海水は白い光を発していたという。また海底ピラミッド自体は深海の闇の中で緑色に光っていたという。

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バミューダ海域海底で水晶製巨大ピラミッド発見
6月24日
Before It's News
バミューダ海域海底で水晶製巨大ピラミッド発見
大西洋のバミューダ海域、カリブ海の深さ約10000フィートの海底で水晶製の巨大ピラミッドが発見された。かなり大きいピラミッドで、エジプトのCheopsピラミッドよりも大きいという。発見したのは米仏の合同調査チーム。
水晶は一定の周波数を発生する作用があり、初期のラジオ受信機をはじめとして広く電子機器に利用されている。初期のラジオ受信機に使われたゲルマニウム水晶は周囲を流れるラジオ電波をとらえて電気信号に変換する作用がある。一方ピラミッド構造は周囲の電磁波を集めて収める作用がある。Barry Carter氏はピラミッド構造のエネルギー集積効果を発見者Viktor S. Grebennikov氏の名前に因んで「Cavity Structural Effect(CSE)」と呼んだ。つまりピラミッドはエネルギー収集装置、エネルギー増幅装置、エネルギー集積装置であるというわけ。その作用は構造が大きければ大きいほど増える。その成分が水晶であればその効果は倍加する。またピラミッド構造には時空エネルギーのスパイラルをつくる作用もある。その成分が水晶であればその作用の大きさも倍加する。
バミューダ海域は飛行機や船舶などの消失事件やタイムトリップ事件など不可解な事件がよくおきる事で有名。今回発見されたバミューダ海域のピラミッドは、このエリアにアトランティス文明がかつてあったとする説、この海域で頻発する奇妙な現象の裏付けになる可能性がある。また、今回発見されたバミューダ海域のピラミッドは、太古に存在した超先進文明アトランティス文明のエネルギー出力装置であるとする声がある。
ムー大陸
ピラミッド型の構造物は世界中で発見されている。わかっているものだけでも、エジプト、北米、中米、南米、東欧、ロシアのシベリア地方、中国北部と中部、南極で発見されている。また数年前には太平洋中部の小島マルデン島でもピラミッド型の構造物が発見された。
太平洋のほうにはかつてムー大陸が存在したとする説がある。ハワイホノルルにある博物館the Bishop Museumの研究員Kenneth Emoryは太平洋海底にムー大陸の遺跡を探したが発見はできなかった。しかし、マルデン島で遺跡を発見、このエリアにあるとされる文明解明の手がかりとなっている。Mitch Williamson氏はこのマルデン島の遺跡についてさらに掘り下げた研究をしている。以下、Rich Hoffman氏著「Williamson's amazing findings」より。
Mitch Williamson氏
「マルデン島には石造りの寺院の遺跡が40近くあるが、その建築様式は3,400マイル (5,475 km)離れた東南アジアの町ナンマドル(Nan Madol)の遺跡のそれに非常によく似ている。つまり、今から5万年以上前はこのエリアは大陸で、その大陸で栄えた文明があったと考えると納得できる。この海域の海底で島と島をむすぶ玄武岩の石畳の道を発見したが、これはこの説の裏付けとなるだろう。」。
「今から5万年以上前にこのエリアで栄えた文明があったという説は、学会ではほとんど賛同する人はいない。一般に信じられている人類誕生の時期と矛盾するからだ。」。
アトランティス大陸
アトランティス大陸について、文書の記録にあるのはプラトンが書いた記録のみだ。
一方、1977年、Ari Marshall氏率いる研究チームはカイサル(Cay Sal)沖深さ150フィートの海底にピラミッド状の構造物を発見した。また、キューバ諸島沖にも海底遺跡がある。このカリブ東沖/フロリダ南沖のバミューダ海域海底についても同じ事が言えないか。つまり、キューバ諸島、カリブ海、フロリダ半島で囲まれたエリアの海底にかつて大陸(アトランティス大陸)があったとは考えられないか。そうだとすればこの水晶のピラミッドはこの大陸(アトランティス大陸)の中央に位置する事になる。
Rich Hoffman氏
「Heinrich Schliemannが発見したトロイの遺跡からは鉄製の花瓶が出土した。これは有名なプリアムの宝物(Priam Treasure)という出土品群のひとつ。この鉄製の花瓶の内側には花瓶がアトランティスのクロノス王からの贈り物であるという内容の文がフェニキアの絵文字が書かれていた。」。
かつてアトランティス大陸が存在し、そして海底に沈んだとするなら、その原因は何か?前回の氷河期が終わった時の海水位上昇が原因であると考えるのが妥当だろう。逆に言うなら、前回の氷河期が終わるまで、アトランティス大陸は存在した。前回の氷河期の終期における海抜は今のそれよりも400フィート下だったとされる。そして氷河期が終わり、海岸線は速いスピードで陸を侵食していった。そして当時の文明をもってしてもこれを防ぐ事は出来なかった。

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//南極のピラミッド
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石炭採掘にまつわるトンデモ発見

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Time Traps: Artifacts And Animals Caught In Time
Wed Mar 14 11:37

Before It's News
http://beforeitsnews.com/story/1889/059/Time_Traps:_Artifacts_And_Animals_Caught_In_Time.html





(要約)
石炭採掘にまつわるトンデモ発見
2012年3月4日
時間とは何だろうか?タイムトラベルは可能だろうか?
発見された事例から考えるかぎり、時空空間に迷いこんだ生物や物は、予想もできない時間、場所に放り出されるらしい。もともとタイムワープというものが存在するなら、人工によるタイムワープは可能だろう。いずれにせよ、新しい発想の学問が必要となってくる事は確かだ。
石炭採掘にまつわるトンデモ発見のエピソード
現在米国の国土に埋蔵される石炭の量は8470億トン以上だという。石炭採掘にまつわるトンデモ発見のエピソードは多い。
1818年、英国の石炭の採掘場の地下270フィートのエリアでイモリの化石が採掘された。化石には複数のイモリがはいっていた。イモリの化石を慎重に砕いて中にあるイモリを取りだし、日光に当てたところ、イモリのうち数匹が生き返り、動きだしたという。数匹は数分で死んだが、残りは元気に生きたという。
1844年、英国スコットランド州ラザフォード(Rutherford, Scotland)。Tweed川付近にある採掘場の地下8フィートの深さで、古代の石に当った。石を割ってみると、中には金でできた碑がはいっていた。エジンバラ大学(the University of Edinburgh)の分析によれば、この遺跡はローマ時代下の英国島の碑だという事だった。この碑が堅い石の中にどのようにして収められたのかはいまだ不明。
1845年、同じく英国スコットランドキングーディー(Kingoodie, Scotland)で、爪のはいった石が採掘された。爪そのものは装飾されたものではない、ただの爪。採掘された深さは、石炭を20年近く堀りつづけて達したエリア。時代は不明。
1851年、米国マサチューセッツ州ドーチェスター(Dorchester, Massachusetts)。Scientific American誌の記事によれば、岩の中から2対のベルのような物体が発見された。ベルのような物体は岩の中にあり、ドリルで割ったら出てきた。地質学の解析では、岩は1万年以上前のものだという事だった。ベルのような物体の大きさは高さ4インチ、幅0.5インチだった。何に使われていたのかは不明。現在地上にあるものからは類推できなかったという。
1852年、英国スコットランド州アトランティック(Atlantic, Scotland)の採掘場の石炭の中から強化金属でできたランプが発見された。石炭を割ったら中からランプがでてきたという。
1852年、英国イングランド州ダービー(Derby, England)にある石炭採掘場の地下12フィートのエリアでヒキガエルが発見された。ヒキガエルは発見後数分で死んだ。
1852年、英国イングランド州ダーハム(Durham, England)にある石灰石採掘場の地下25フィートのエリアで石灰石の中からヒキガエルが発見された。石灰石は泡を多く含む石灰石だったという。石灰石を割って中にあるヒキガエルを出したところ、生き返ったという。ヒキガエルは目がらんらんと輝き、脚は普通のものよりも長く、また鳴き声が吠えるような鳴き声だったという。地質学者が分析したところ、この石灰石は約6,000年前のものだったという。

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