Defoe「ペスト」~17世紀ロンドンに流行した疫病の記録
それは確か1664年9月初旬のことであったと思う。近所の人たちと話していた時に,私はふとペストがオランダに流行りだしたという噂を耳にした。「また流行りだした」というのはその前の年の1663年にオランダはこのペストのためにひどい目に遭っていたからである。
特にアムステルダムとロッテルダムはその中心地であった。なんでもその時の話の様子では,あるものはその疫病はイタリアから入ってきたと言い,またある者はレバント地方から紀行したトルコの商船 で運ばれた貨物にくっついて入ってきたのだとも言った。いやあれはクレタ島からであるというものもいたし,サイプラスからだと言う者もいた。
しかしどこから疫病がやってきたかは問題ではなかった。問題は再び疫病がオランダに流行りだしたということであった。これには誰も異存はなかった。当時まだ新聞などという報道を伝える印刷物はなかったし,その後長生きしたおかげで私も実際に見てきたような嘘八百を並べ立てては風説や報道をさらに煽り立て様と言ったメディアはなかったのである。
■1664年11月
政府当局は真相については正しい情報を持っていたらしく,国内侵入を防ぐ手段を講じようとしてしばしば会議を開いていたようであった。しかし実際は秘密にされていた。そういうわけでその噂も自然に立ち消えになっていき,我々も元々大して我々に関係したことでもなかったのだという風にいつのまにか忘れかけていた。またあれは本当ではなかったらしいとホッとしたような気にもなっていた。
しかし同じ年1664年11月下旬だったか,それとも12月上旬だったか,突然二人の男がロングエイカーでドルアリ通りの上手の家で疫病のために死んだのである。二人が泊まっていた家の者はできるだけこのことを隠そうと努めたらしい。しかしいつのまにか近所の話題になって,当局者の知るところになった。このことは直ちに教区役員に正式に報告され,教区役員はまた教区役員本部に通報した。死亡週報にはただ簡単にこともなげに
感染 2
感染教区 1
という記事が掲載された。これを見た市民の不安は大変なものであった。ロンドンは上を下への大騒ぎになった。
■1664年12月
その折も折同じ1664年12月の最後の週に同じ家で同じ病気で死んだ者がもう1名でたものだから,その不安には一層大きくなった。しかしまたそれから6週間ばかり平穏無事の日が続いた。その間死者でベストに犯された痕跡を示していたものはなかった。「悪疫は退散した」などと言いあったりした。
■1665年2月
しかしそれも束の間のことで,翌年1665年2月12日頃だと記憶するが,死亡者が1名が同じ教区の別の家からでた。区域も同じなら病気の経過をまた同じであった。
こうなると全市民の目は自然その界隈に注がれるようになった。セントジャイルズ教区の死者数は普段よりもグッと跳ね上がっているのが死亡週報にはっきり表れていた。したがってその界隈の住民の間に疫病患者がいるらしいということが恐れられた。またできるだけ世間の目から隠そうとも勤めていたが,それにもかかわらずおそらく大多数の人が疫病で死んだと思われた。この不安は深刻に市民の頭に染み込んいったようであった。
死亡者数の増加は次の通りであった。
セントジャイルズ インザフィールズ教区とホウボン区のセント・アンドルー教区の一週間の普通の死体埋葬数は多少の増減はあるがだいたいにおいて12~19というところであった。
ところがセントジャイルズ教区に初めてペストが発生してからというもの,普通の病気による死者数が著しく増加してるのが認められた。例えば
12月27日~01月03日 34
01月03日~01月10日 30
01月31日~02月07日 44
02月07日~02月14日 24
すべての教区の死亡者数は普通240~300の間であった。300という数字でも相当に高い死亡者数であると考えられていた。ところがベスト発生以後死者数はみるみるうちにうなぎ上りに上がっていった。すなわち
12月20日~12月27日 291
12月27日~01月03日 349
01月03日~01月10日 394
01月10日~01月17日 415
01月17日~01月24日 474
この数字の増加は前回のペストの流行の1656年以降わずか一週間としては実に未曽有のものであってその点まさに恐るべきものであった。
しかしながらこれ以降は何事もなく済んでしまった。天候は寒くなって,前年12月に始まった寒気はほとんど2月の終わりまで衰えずに寒さは極めた。その上まるで肌を刺すような風が吹いた。
死亡者数はずっと減ってロンドンは再び生気を取り戻した。誰も彼も危険はもうさったも同じだと思い始めた。ただそれでもなおセントジャイルズ教区の死者数だけは相変わらず相当なものであった。
■1665年4月
セントジャイルズ教区の死者数は特に4月上旬からはその数は毎週常に25を下らなかったが毎月18~25日に至る1週間ではこの区域で埋葬したした死体の数だけで30に達した。そのうち
疫病によるもの 2
発疹チフスによるもの 8
ということになっていた。しかし発疹チフスと言っても本当は疫病だと考えられていた。同じような理由で全死亡者数の中でこのチフスのために死亡した者の占める数もずいぶん増えてきた。前の週に8であったものが今週では12といった具合であった。これには我々も再び驚いた。深刻な憂鬱の色が市民の間に漂い始めた。特に気候もだんだんと暖かくなってゆこうとしていたし,夏もおっつけやって来ようという気配であったので一層深刻な物があった。
その翌週にはまた希望の色がみえ始めた。死亡率が下がってロンドン全市を通じて死亡者数はわずかに388人で,疫病によるものは一人もなく,チフスもわずか4人であった。
■1665年5月
しかし次の週にはまたぶり返してきた。疫病は他の2~3の教区,すなわちボウモン教区,セントアンドリュー教区,セントクレメントレインズ教区にも蔓延していった。しかもその上市民を慄然とさせたことはとうとういわゆるシティ(城中)のセントメアリーチャーチ区域に1名の死亡者を出したことであった。
つまりその場所は正確に言えば 食料品市場の近くのベアバインダー通りであった。この週の死者数のうち疫病によるものは9人,発疹チフス6人であった。しかしさらに調べてみるとこの日ペストバインド通りで死亡した人はフランス人で,かつてはロングエーカーの感染ホテル近くに住んでいたこともあって病気にかかるの恐れて移ってきた人であることが分かった。ところが実にはその人はもうすでに病気に感染していたのを本人が気づかなかったのである。
これが5月の初めのことであった。まだ気候は温和でしのぎやすく程よい涼しさであった。従って市民は未だ幾ばくかの希望を持っていた。こんな風に望みを繋いでいたのは次のような事情もあった。それはロンドンがまだ健全と思われていたことだった。97の教区のうちで疫病に倒れたものはわずか54人に過ぎなかったからである。我々も病気の蔓延しているのはロンドンの中でも専ら問題になっている端の方の教区にすぎない。従ってそれ以上広まる心配はあるまい。そう高をくくり始めた。
5月の9~16日までの7日間わずかに死亡者数は3人になった。しかもそのうち一人も市内・自由区にはいなかったのである。セントジャイルズ教区では患者が32もあったことは本当であるがそれでも疫病にかかって死んだのはわずか1名に過ぎなかった。こう死亡率が下がってくるとそろそろまた市民たちは安堵の笑みを浮かべるようになった。前週の死亡者はロンドン全体で347人。今週はそれが343人になっていた。
次の死亡通報は5月23~30日までの期間。セントジャイルズ教区の死亡者数は実に53というまさに戦慄すべき数であった。このうち疫病によるものは9と公表されていた。しかし市長の要請に基づき治安判事たちが徹底的に調査したところ,その区域で実際に疫病で死んでいたものはこの他にも20人もいたということが判明した。しかしこのようなことはこの後に起こった事柄に比べたら全く取りに取るに足らない事柄であった。
■1665年6月
気候はもうすっかり暑くなった初夏6月第1週頃からはこの疫病は恐ろしい勢いで広がっていった。
6月第2週目を迎えるようになると,セントジャイルズ区域では死亡者数は120になった。このうち死亡通報の伝えるところによれば疫病によるものは68に過ぎなかった。しかしこの疫病のいつもの数字の数から考えてみてどう転んでも100人は疫病で死んだに違いないと誰も彼もが信じていた 。
■1665年7月
すでに7月の半ばになっていた。疫病は主としてロンドンの向こう側の地区でイレブン教区及び保護区域のセントアンドリュー教区やウエストミンスター教区よりの地域などで猛威を振るっていた。
私の住んでいる地域に向かって徐々に疫病地帯が移動していた。それは文字通りの東進であって,しかし決して我々の方に向かってまっしぐらに進んできているのではなかった。例えばシティ(城中)はまだまだ相当に平気であったし,川の向こうのサザン教区にもあまり進出してきてはいなかった。
この週の死者数は約1268人でうち疫病によるものは900人以上と考えられていた。一方シティ(城内)ではわずか28人の犠牲者に過ぎなかった。一方セントジャイルズ教区とセントマーティンズ・インザフィールズ教区の二つの教区だけでも実に421人の死者を出していた。しかしこの疫病が陰惨を極めたものは,何と言っても城外区(アウト パリス シティ)つまりかつての城の周辺にある区域だった。何しろ人口が多い上に貧乏人が多いのである。疫病は一層餌を求めて荒れ狂っていたのである。
とにかく病魔は次第に自分たちの方に近づいてくるのを我々は認めていた。すなわちクラーケンウェル教区,クリップゲート教区,ビショップスゲート教区などの区域を追加して迫って来ようとしていたのである。特にこの二つの区域はゴールドゲート教区,ホワイトチャペルし教区などの区域に接していたのであるが病気がいよいよ迫ってきた時にその凶暴さは非常な猛威をふるった。 最初に発生した西部の区域で次第に病気の勢いが衰えていった時でさえも依然として激烈を極めているというふうであった。
7月8日~7月11日の間に セントマーティンズセント教区・ジャイルズ教区の二つの教区だけでほとんど400人の人がベッドに倒れた。にもかかわらずオールドゲート教区では4人,ホワイトサドル教区では3人,ステファニー教区では1人これだけしか流れなかったこれには我々も驚きを禁じえなかった。翌週7月11~18日に至る間にロンドン市全体の死亡者数が1761人であったにも関わらず,テムズ川の向こうのシティ地区では疫病に倒れた者はわずか26人であったのである。
■1665年8月
しかしすぐに形成も一変してくる。ゲート教区を始めクラーケンウェル教区などにおいて猛勢をたくましくしつつあった。
例えば8月第2週までにクリップゲート教区だけで886人の死亡者数を出してクラーケンウェル教区も155人の死亡者数を出したが,このうちクリップゲート教区においては実に850人が疫病に関しているものと推定された。
クラーケンウェル教区でも死亡者数ホノルルところでは145人がすぐにあるとのことであった
08月22日~08月29日 7496
08月29日~09月07日 8252
09月07日~09月12日 7690
09月12日~09月19日 8297
09月19日~09月26日 6470
8月のロンドンの人口は1月のそれの1/3もなかった。ロンドンの風景は今や全く一変してもはや昔日の面影はなかった。あらゆる大きな建物を始め
シも自由区もウエストミンスター地区もすべてが一変してしまったのである。ただあのシティと言われる特別な一角。あそこだけはまだ被害を受けてはいなかった。しかし一般の様子は前にも言ったようにすっかり面目を一変してしまっていた。どの人間の顔にも悲しみと憂鬱が漂っていた。まだ破壊的な打撃を受けていないところもあったが誰も彼も一様に不安に怯えた顔つきをしていた。私はこの在り様をそっくりそのまま伝えることができたらと思う。近親者の死を悼むために正式の喪服をつけたりする者は一人もいなかった。街にはそれらしい葬式の姿は見られなかった。しかし悲しみの声は街に溢れていた。。
ーデフォー,ペスト,中公文庫
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Defoe「ペスト」~17世紀ロンドンペスト封鎖, 一時収束後に第二波絶頂期
■1665年5月ペスト一時収束
ペストが収束し始めるや否や,直ちにロンドンに忽然として夥しい人々が現れた。
ペスト感染初期の頃の話であるが,逃げ出すことも思いのままにできる人々や田舎に疎開先を持っている人々は我を争って田舎へ逃げて行ったが,その数は全くおびただしいものであった。
さらにいよいよ病勢が激しくなると,頼るあてもない中流階級の市民達も避難できるとこならどこへでも全国至る所に逃げていった。なんとか自活できるお金のある人も,そういうお金のない人も,みんなぞろぞろ英国の郊外へ逃げたのである。
お金のある市民はとにかく食っていけるのでできるだけ遠い方へ逃げるというふうであった。しかし貧乏な連中となるとその難儀はひどいものであった。そしていよいよ生活に困ると田舎に迷惑をかけるということになる。そのために田舎の街が騒然となることもしばしばであった。時には避難民を逮捕することもあった。しかし逮捕したところでさてどうするというあてもなく,罰するつもりも大してあるわけではなかった。結局無理やりに追いたてるだけの話で,そんなわけで避難した者もやむなくロンドンに舞い戻るという事であった。
身寄りのない多くのロンドンの難民がいたる所の田舎に逃げていって,小さな仮小屋や納屋や離れ家などを作ってそこに住んだということも事実であった。もちろんそれができるのは地方の人たちの好意を得ることのできるところに限られていた。特に少しでも自分たちの健康の証明や,ロンドンを出たのはそんなに最近ではないということの証明をはっきりさせることの できたところではそれは容易であった。このほかこれまた大勢だが,野原や森の中に掘立小屋・避難小屋を作って住んだり,洞窟の中で仙人みたいな生活をした人々も大勢いた。そういうところでの生活がどんなに苦しく困難であるかは容易に想像できる。しかし終いにはどんな危ない目にあっても構わないという気持ちになって多くの者はロンドンに帰っていったのである。そのために掘立小屋で空っぽのままのものがずいぶんたくさん残っていた。田舎の人はこれはてっきりペストにやられて,小屋の住人が死に絶えたものと思い込んで近づこうともしなかったものである。かなり長いことそういう状態が続いた。
不運な放浪者の中には孤立無援のままに 人に知らず住んでいた者がいた。ある時などはテントだか納屋だかの中に一人の男が死んでおり,すぐ近くの畑の門のところに不揃いな字で次のような文句がナイフで刻みつけてあった。
もういけナイ
二人ともスグ死ぬ
ああ
テムズ川下流では,いわゆる「沖泊」というのであるが,幾層もの船がずっと纜(ともづな)を結び,列をなして停泊していた。聞くところによればこういう状態は下流のクレイブゼンドに至るまで続いていたということであった。波風の心配がなく安全に停泊できるところならずっと下流に至るまで,ほとんどあらゆるところでそういう光景が見られたということであった。そのような船に乗り込んでいた人たちでペストにかかった人の話は私はまだ聞いたことがなかった。乗っている人たちが上陸して近い町や村や百姓の家に新鮮な食料品・鶏肉・豚肉・牛肉などを買いにしばしば出掛けたにもかかわらず,誰も病気にかからなかった。ただ例外としてはプールやずっと上手のデッドフォド入江辺りに停泊中の船は相当にやられていた。ロンドン橋から上流にいた船頭たちも,我勝ちにと上流へと逃げていった。その大多数の者は彼らの天覆いや鏨(たが)を上からかけた船に家族を乗せていた。寝るためには船底に藁を敷き詰めていた。こういう有様であって,船頭等は川沿いの沼地にずっと上の方まで停泊していたのである。ある連中は昼間は川岸にちょっとしたテントを張って休んで,夜になると船に戻っていくという生活をしていた。話に聞くとこんな状態で川岸に沿ってずっと上流まで長蛇の列の船が並んでいた。何か食べ物が手に入るところ,その近辺から何か買えるところならばどんな遠いところでもその遠さをものともせずに船の列が続いていたという。事実田舎の人は紳士はもちろんのことその他の人たちもこういった緊急の際は喜んで援助の手を差し伸べた。ただしかし船頭等を自分の町や家に入れてやろうとは絶対にしなかった。それは無理無理もないことであった。
ロンドン近隣町村の住民が,感染を恐れて逃げてくるロンドン市民に対して残酷な態度に出たことが非難されていたことは私もよく知っている。実際無慈悲なことも行われていた。しかし自分の身に危害を加えられる事が明らかでなければ,ともかくそうでない限りは信仰の人々は良心に恥じない程度の慈善と援助の手を喜んで彼らに差し伸べていたことも私としては言っておかなければならない。しかしどの村も結局自分が可愛いことに変わりはなかった。従って苦し紛れに逃げ出したロンドン市民たちは結局虐待されて,とどのつまりロンドンに追い返されるという場合が実に多かったのである。当然ロンドン市民の間には近郊の町や村に対する喧々囂々たる不満がこだました。その非難の声は終いには収集できないほどになった。ところで町村側の警戒にもかかわらず,ロンドンを中心とする半径10マイル以内にあるちょっと名の知れた町や村ではペストに侵され,また若干の死者を出さなかった地はひとつもなかったのである。
この他にロンドン市民に対する田舎の人々の警戒心を一層強めさせたもう一つの問題があった。それは特にロンドンの貧乏人に対する警戒心であった。このことには,既に病気にかかった人たちの間に今度は病気を他に伝染してやろうという恐るべき傾向があるらしいということであった。このことについては医者仲間で議論が戦わされた。こういう傾向はこの病気のしからしめるところだと説く医者もいた。その説によれば,病気にかかった人間には自分の仲間に対する一種の狂乱と憎悪の念が例外無しに生まれる。病気そのものの内に他の人に伝染してやろうという悪性なものはあるばかりではなく,患者の性格の中にもそういう悪性が現れてきて,ちょうど狂犬病の場合と同じく,他にも悪意をもって悪い目つきで見るようになるというのである。狂犬病にかかった犬はどんなに大人しい犬であってもたちまち手当たり次第に飛びかかってくる。それも以前よく懐いていた人であろうとなかろうと構わずに食いつくと言われる。それと全く同じだというのである。人間の性質のものが腐敗しているからだという説明をする人もいた。つまり同じ人間の仲間でいながら自分だけが他のものよりも悲惨な状態にあるという事実に耐えられずに,あらゆる人間が自分と同じぐらい不幸な目に遭うか哀れな境遇に 落ちて欲しいという欲望を持つに至るというのである。
ロンドン市民が徒党を組んで大挙して押し寄せてくる,それも助けを求めるためどころか略奪しに来るのだという情報が田舎の人々の耳に伝わって皆愕然としたそうであるが,そう驚くのをもっともなことだと思われる。その情報によれば市民たちは病気にかかったらかかりっぱなしにただやたらにロンドン市内を右往左往しているとか,患者の家を検査して患者が他の人に感染させるのを防ぐのという何らかの手段を講じられていないとか,そういったことは言われていたのである。
しかしこれはロンドン市民の名誉のために言っておかなければならないが,先に述べた特殊な場合を除いては,伝えられたようなことは絶対に行われなかったのである。むしろ万事が綿密な考慮のもとに処理されていったというのが真相であった。ロンドン全市はもちろんその郊外も市長と市参事によって見事な秩序が保たれていたのである。外教区(アウト・パリシュ)では治安判事と教区役員が見事にその責任を果たしていた。そんなわけでペストが最悪の猛威を振るった時期でも立派な統制が取れて見事な秩序が市内至る所に保たれていた。
これについてただここで述べておきたいことは,ある一つの事が主として治安関係の役人により慎重な配慮によって達成されたということである。そしてこのことは彼らの名誉のためにも言わなければならないことだと思うのである。それは何かと言うと家屋閉鎖という困難な大事業をやるに際して彼らの取った緩急よろしきを得た措置である。家を閉じてしまうということは市民の非難の的であったことは事実である。当時としては市民唯一の非難の的と言っていいほどであった。同じ家に患者も健康の人も一緒に閉じ込めてしまうことは誰にも残酷なことと言われていた。そうやって閉じ込められた人の訴えるこえは悲惨の極みだった。その声は道路を歩いていても聞こえるほどであった。それを聞くと同情の念が悠然として湧き上がってくる。時には痛切な怒りの念を覚えることもあった。家の人々が友人と話ができるのは窓のところからだけであった。その悲痛な訴えは話し相手の心を動かすことはもちろん,たまたま通りかかった人の心を動かすことも再三あった。こうやって閉鎖された家から色々秘術を尽くして監視をごまかしたりへこましたりして逃げ出そうとする話や,実際に逃げ出した人々の話もあった。そのことにはしかし治安当局が閉鎖された家の人間に対する処置にかなりな裁量を加えていたことは言っておきたい。ことに家人が病人をペスト病院か何かに本人の希望に応じて移す場合,あるいは病j.人自身が移される場合などかなり酌量が払われた事を言っておきたい。
■1665年8月,9月,第二波絶頂期
8月・9月の1番の絶頂期に病気にかかった人間で死を逃れた人間はまずいなかった。この頃の病状は6月・7月・8月初旬の頃の一般的病状と全然違っていたということである。初夏の頃に病気にかかった人間は,かかったままで何日も生き続け血管の中に病気の毒を養ったあげくぽっくり死んでいった者が多かったのである。ところが今度は反対で,8月後半の2週間~9月前半の3週間後に病気にかかった人間はどんなに長くても2~3日でだいたい死んでいった。かかったその日に死んだ人間も多かった。こういう無残なことが起きるのは暑い土用のせいかそれとも占星術師が言うように狼星(Dog Star)の感応力からしめることかどうか私は知らない。それとも前から持っていた病気の種子がこの時期になって一気に発育したもの かどうかも私は全く知らない。とにかくこの時期は一晩で3000人以上の死者が報告された時期であった。事実を詳しく調べたと敢えて称する連中が伝えるによれば,死者はすべて2時間以下の間に,つまり午前1時~3時までの間に死んだそうである。以前に比べてこの時期になって病人の死に方があまりに唐突になった事についてはその実例がおびただしくある。
私の近所だけでもいくつかあげることが出来る。ロンドンの関門の外側の私の家からさほど遠くないところに住んでいたある家族は,月曜日に全員健康そうに見えていた。家内は10人家内であった。ところがこの月曜日の夕方に女中1人と小僧1人が発病し翌朝に死んだ。同時にもう1人の小僧と主人の子供2人が発病して3人はその夕方に死に,残りの2人が翌週の水曜日死んだ。こういうわけで土曜日の昼までに主人主婦,4人の子供,4人の方奉公人全員が死んでしまった。家ががらんとなった後にはただ一人亡くなったその主人の兄弟の依頼で家財道具を片付けに来ていた老婆だけがぽつんと残っていた。その兄弟というのはあまり遠くないところに住んでいて病気にかかっていなかったそうである。
おびただしい家屋がらんどうになった。
ロンドン関門の少し向こうのところであるが,先ほどの地区を進んでいくと「モーゼとアロン」という街の標識があった。そこから入っていった小路などなどひどいものであった。 何軒かかたまった地区では全部合わせても一人も生きている人間はいなかったという。小路の死者があまりに多くて埋葬人や墓堀人に埋める通告を出す人がいなかったという状態であった。
市民はあまり悲しみのどん底に陥って生きる望みを失って自暴自棄になった状態が続いた。すると最悪の3週間から4週間を通じて意外な現象がおk8た。つまり市民がやたらに勇敢になったのである。たがいに逃げ隠れをもなくなったし家の中に人に閉じこもるのも辞めてしまった。それどころか,どこだろうがそこだろうが構わず出歩くようになった。相手がまず話しかけるようになった。片割れの人間に向かって次のように言う人もいた。
「あなたのご機嫌を伺っても仕方ないし,私の機嫌のことを言っても仕方がない。ともかく一同揃って迎えが来たらいくわけですから。誰が病気で誰が健康だと言ったところで始まらない」
そんなわけで平気で公衆に混じり,どこへでもどんな人ごみの中でも出かけていった。平気で公衆の中に混じるようになるに連れて,教会にも群れをなして出掛けるようになった。席のそばに誰が座ってるかなどもはや問題ではなかった。悪臭を放つ人間と一緒になろうが,右がどんな様子の者であろうが介しなかった。累々と積まれた死体であるとでも考えているのか,教会に来る目的である聖なる務めに比べるならば生命は価値を持たないとでも考えているようであった。熱心に教会に来て真剣な表情で説教を聞いている姿は全く驚くほどであった。そういう光景を見ていると彼らの神を拝むということをどれだけ重要視してるかは明らかだ。
この他にも思いがけない現象が生じた。市民が教会に行って説教壇上の人間を見てもそれが誰であろうと従来のような偏見に満ちた態度を一切示さなくなったこともその一つであった。
病気の最も激しかった頃の私の見聞について話を続けよう。
もう9月になっていた。この9月ほど悲惨な9月をいまだかつてロンドンは味わったことが無かったのではないかと思う。
以前にロンドンに起こった悪疫流行の記録を全部見てみたが今度のような惨状はいまだかつてなかった。8月22日~9月26日までの僅か5週間で,死亡週報の報ずるところによれば,ほとんど40000人からの人が死んでいた。これでだけでも膨大であったがこの計算がすこぶる不十分なものだったと信じる理由があった。その理由を知ればこの5週間のどんな週でも週に1万人以上の死亡者数がいて,その期間の前後の週にもそれ相応の死者があったことを読者にも容易に信じていただけよう。
ーデフォー,ペスト,中公文庫
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船乗生活者であふれる港
私は疫病がグリニッジまで広がっているかどうか男に尋ねた。すると「少なくとも約2週間前までは広がっていなかったが今頃はひょっとしたら広がっているかもしれない。しかしそれもレッドフォード橋よりの町の南の一部分にすぎないだろう」ということであった。また彼がそこで買い物に行くのは肉屋と八百屋だけで大概それらの店で頼まれた買い物を済ませるが,病気のことには自分でも随分と注意しているということなどを付け加えていた。さらに船の中に閉じこもっている連中が十分な生活必需品を貯蔵していないのはどういうわけか尋ねると,中には蓄えのある人もいる。しかしその反面いよいよの土壇場になってからやっと船の中に逃げ込んだ人もいて,その時には危なくてしかるべき商人の所に行って買い込みをするなんてことは思いもよらない事だったという答えだった。
今買い出しをしてやっている船は 3隻だけだそうで。 その船を指さして教えてくれたが,ビスケットとパンとビールの他にはほとんど食物らしい食物がないので,その他の生活物資は一切合切買ってやっているということであった。
「他にこういう風に他の船から離れている船があるのか」という私の質問に対して
「ありますとも。グリニッジのちょうど向かいの地点からライム・ハウスやレッド・リフの川岸近くまで川の真ん中に2席ずつ船内に余裕のある船が停泊しておりますよ。ある船なんか何家族も住んでいますよ。病気にはかかっていないってわけだね。いや,まだやまだでしょうな。きっと。ただね,2~3隻乗っている人たちがちょっと油断したもんで,船乗人が陸に上がったりして,とうとう病気を持ち込んだってのがありましたがね」
それからプール沖合に船がずっと停泊しているのは大変な壮観だとも言った。
潮が彼のボートの所まで来た時,私はボートに乗り込んでグリニッジまで連れて行ってもらった。
彼が頼まれものの買物をしている間に私はグリニッジの町を見下ろす丘の上まで歩いて行ったり町の東まで行ってテムズ川を眺めたりした。夥しい船が2隻ずつ並んで停泊している有様は誠に異様な壮観であった。川岸の広いところではそれが2列3列になっているところもあった。
しかもそれがずっと上流・ロンドンの町近くラドクリフやレッドリーフなどといった町を挟むいわゆるプールと呼ばれるあたりまで続いて,下流はロングビーチの端に至る下流全体に渡っていた。少なくとも丘の上から見られる限りではそういう風に見えた。それらの船の数がどれだかほとんど見当もつかなかった。しかし少なくとも数百隻の帆船が泊まっていたと思う。
それにつけても実に頭の良い計画だと感心した。こうやっていれば海運業に関係している1万人あるいはそれ以上の人が完全に感染の心配から逃れて極めて安全にまた容易に生命を全うすることができるというものである。
久しぶりの遠出に,特に今述べた船頭との交渉にすっかり気をよくして私は家に帰った。
考えてみればこういう危険時に船といういわば小さな聖域を多数の人々がその生活の場にしているということは確かに喜ぶべきことであった。
疫病の猛威が激しくなるにつれて幾世帯もの人々を乗せた船がともづなを引き錨を上げて移動して行くのを私も目撃したが,何でも噂によれば何隻かの船は海まで下っていって各自便利なところを求め,北海岸のいろいろな港や投錨地まで逃げていったということであった。
しかしまた一面から言えば,陸地を避けて船の中の生活を営んでいる人々が必ずしも絶対に安全だとも言えなかった。実際多くの人が船の中で死亡していた。その遺骸はあるものは棺に入れられて,あるものは棺にも入れられないままでテムズ川の中に投げ込まれた。川の潮の満引とともにその遺骸が浮き沈みしながら流れていくのをがいくつも見ることができた。
しかしこういう船から疫病患者を出す場合,次のような二つの原因のどれかに基づいたと思うのである。すなわち船に来るのが遅すぎて今更飛んできたところでどうにもならないといったところの実質的患者が船に来る。しかしその時にはすでに自分では気が付かず病気に冒されていた。 といった場合がその一つである。つまりその場合には病気が船に行ってきたのではなくて,実は乗り込んできた人たちが病気を持ち込んだという理由である。
次に例の船頭が言っていたように,十分な生活必需品を蓄える余裕がなかったために,是が非でも必要な物資を買いに人を陸上に送らねばならないとか,あるいは陸地からボートがやってくるのを大目に見なければならないとかいった船の場合がその二つ目の可能性。従ってこの場合は病気が知らず知らずのうちに船の中に持ち込まれたということになる。
ーデフォー,ペスト,中公文庫
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無策の策
ロンドンのような人口過密地帯の大都会では感染したからといって即刻あらゆる家を虱潰しに調べることはできないし,感染した家を全部が全部閉鎖してしまうことができない。
だから病人でも好きなところに,つまり自分が何番地何番の病気の家の一員だという正体が見破られないところへどこへでも自由に行けたというわけだ。これは幾人かの医者も執拗に申告したことであるが,伝染病が猛威を極め野火のごとく広がっていて多数の人々があっという間に発病してたちまち死んでゆくというような非常時には,誰が病気で誰が健康であるかを必死になって調整したり,いちいち杓子定規に家を閉めたりしようとしても,第一それが不可能であるばかりではなくて無意味でもあることは争えないことであった。
一つの通り全体のうちで,ほとんどの家が感染していたり,ところによっては家族全員が病気に冒されているということも多かったのである。もっとまずいことはこれこれの家が病気にかかったということが分かった時には,もうその家の病人は死亡していて残りの家族は隔離を恐れ逃亡してしまっているということであった。家族の者が多少とも病気にかかっているとはっきりわかる頃には病気の方は散々荒れ狂った挙句にもうその家からおさらばしているというわけである。
こういう次第で病気の蔓延を防ぐことは到底当局の手に負えることでもなければ,また人間の考える方法なり対策なりの及ぶところではないとすれば家屋閉鎖というやり方は 目的を達成するには不十分だということは常識のある人には納得していただけるだろう。いかにも公益ということが言われていたが,家を閉ざされてしまった特定の家族の被る深刻な重荷に匹敵するだけの,あるいは釣り合うだけの公益がそこにあるとも思えなかったのである。そのような過酷な処置を指揮して実行する役目を当局から仰せ遣って実際に見聞した限りでは,この法則は目的に沿うとも言えないものであるということを私は思い知らされたのである。
例えば私は見回りつまり検察員(Examinar)としていくつかの家族の病状を詳しく調べることを要求されたのであるが,我々見回りが明らかに家族の一人が悪疫にかかったことが分かっている家に入った場合,そこの者が逃亡していないということはまずなかったのである。治安当局の上司はこんな場合「誠にけしからんことだ」とばかりに憤慨して我々検察員に点検上の不行届を追求してきた。少し調べてみたところで要するにこちらにわかる以前から病気に侵されていたことがわかるだけの話であった。
ところで私は2ヶ月という正式の任期の半分にも満たない期間この危険な仕事に従っただけであるが,それだけの期間でも玄関や近所で訪ねるくらいでは病人の家の真相を突き止めることはできないことを知るに十分であった。真相調査に一軒一軒家の中に入っていくことはさすがの当局者も我々市民相手に課そうとはしなかったし,また市民の中で誰一人としてそれを引き受けようとするものもなかった。そんなことをしたら我々がこちらから好んでペストに生身を捧げに行くようなものであって,我が身はもちろん家族の破滅は必至であった。そればかりではなくてこういう過酷な目にあわなければならなかったとなればまともな市民ならロンドンを見捨て退去していただろう。
一家の戸主は自分の家の者が誰かが病気になった場合,疫病の兆候が現れた場合,それを発見次第,2時間以内にその居住区域の検察員に 報告する義務がある旨法令によって定められていた。ところが実際にはどの家も色々な口実を設けてはごまかして,なかなかその法令を履行しようとはしなかった。結局病気の有無はともかく,色々手段を講じて逃げたいものを逃して行ってからでなければ報告をすることはまずなかった。
事情がこんなふうであったから,家屋閉鎖が悪疫流行を食い止める有効な手段だと見るわけにはいかないことは明らかであった。
ーデフォー,ペスト,中公文庫
yhy7uuii pc
スピリチュアル情報
「守護霊様からのメッセージ その43」
「タヌエのスピリチュアル日記」さんより
守護霊様からのメッセージ’のシリーズは、私がご依頼を受けた守護霊様リサーチの際につながった守護霊様から頂いた個人宛のメッセージを、守護霊様からの許可を得て、読者の皆様宛に、必要に応じて一部改訂した内容を掲載します。
今回紹介いたします内容は、17世紀の頃、日本で女性として転生していた守護霊様からのメッセージです。守護霊様は、京都でも老舗にあたる呉服を扱うお店で、女将さんとしてこの店の切り盛りをしていたとのことです。仏教や神道を信仰していたようで、家のお仏壇のみならず、お寺様やその境内に隣接している神社にも毎日のように通って、お祈りを欠かさず行っていたようで、今自分が健康で無事にあるのは神仏のおかげでありご先祖様が守護してくださっているおかげであると、常に感謝をしていたとのことです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
〈守護霊様からのメッセージ〉
「慌てて事を急ごうとすると、慌て焦ることで波動が思いっ切り下がってしまい、なかなか事がスムーズに運ばない場合がよくあります。「急いては事を仕損じる」ということわざの通り、自分自身の行動に慌てているような焦りのような感情が沸き上がっていると認識できた時には、いったん心を落ち着かせ、深呼吸をして体のバランスを整え、心が落ち着いたと感じたら改めて何かの選択をするようにするとよいです。
これまでに失敗と思われるようなことを、何度も経験してきたわけですが、実際にはこれは失敗ではありません。あなた自身が過去世から繰り返してきた過ちを、今世の大事な時に繰り返さないようにするための、良き経験と学びをするために自らが選んできたことが多いのです。
ですから、これまでにあった失敗と思うようなことを後悔する必要はなく、すべてがよき経験であり学びであるとポジティブに捉え直し、今後同じように失敗と思うような選択をしないように努め、この先により波動の高く安定した在り方をするための糧として、教訓となることとしてポジティブに捉え直すとよいです。
あながち間違えたことではないのにくよくよ悩む必要は本来なく、あなたがその時にこれで良しと思って選択したのでしたらそれはそれで良かったわけで、後になって考え直すとやっぱりこちらの道の方が良かった、こういう選択をすれば良かった、と後悔する必要はありません。
その時点で良いと感じた自分に自信を持ち、そういう選択をした自分自身を信頼し、その時その時点でより良いと感じることを選択するというあなた自身のその基準に沿ったことを選択するというその意思を大切にし、この先もあらゆる外側のことは参考にしつつも、あなた自身の意思という内側による選択を最も大切になさるとよいでしょう。
細かいことを気にすることは、あなたの様な心の繊細さを持ち合わせている人はそれも一つの個性であり、その繊細さを持ち合わせているがゆえに、様々なことを上手くやりこなすこともできますが、時にはそれが仇となり、ネガティブに感じるような状況に陥ることもあったはずです。
でも繰り返しになりますが、どんな時でもあなたがあなた自身でその今の時点でこれで良いと感じた事に自信を持ち、何か重要で大切なことの場合には、それなりに強い責任をもってその時点で良いと思ったことを選択したと自分自身で自信が持てる選択をし続けていれば、それはあなたにとって必要なポジティブなものであるといえるのです。」
プレシャンブルーの風に抱かれて
http://blogs.yahoo.co.jp/mappyhappy713
mac dee: 新小氷河時代の懸念
Prepare For Endless Winters, New Study Finds Changing Jet stream
Sunday, February 16, 2014 15:36
(Before It's News)
Before It's News
http://beforeitsnews.com/weather/2014/02/prepare-for-endless-winters-new-study-finds-changing-jet-stream-2442626.html
dailycaller.com
http://dailycaller.com/2013/10/29/global-cooling-are-we-headed-into-a-little-ice-age/
(要約)
mac dee: 新小氷河時代の懸念
mac dee
2014年2月16日日曜日15:36
(Before It's News)
米国北東部で冬の嵐がつづいているが、ジェット気流のパターンが変化しており、この変化がこの冬世界各地でつづく寒天の原因であるとする研究が発表された。
アメリカ科学振興協会(AAAS、American Association for the Advancement of Science)の調査によれば、今年の冬は北極地方の気温が特に高く、北極上空の狭小エリアが暖かい事により、北ヨーロッパと北アメリカ上空のジェット気流の経路がゆがんで曲がりくねった長いものになりより長く停滞、結果、北極地方の気温と中緯度地方の気温差が減少し、気温差により上空に発生していたジェット気流が小さくなり、結果、北米上の寒天がより長く長引く傾向を作っているという。
レディング大学Mike Lockwood教授
「現在の太陽活動の低下率からみると、北ヨーロッパの気候は今後非常に寒冷化する事が予想できる。新しい小氷河時代(a new “Little Ice Age”)に入る懸念がある。」。
「小氷河時代(a new “Little Ice Age”、マウンダー期)」は、太陽の活動が低下(the Maunder solar minimum、マウンダー期)してヨーロッパをはじめとする地球全域が寒冷化した1600年代の時代の事。
暖かい大気が北に押され、冷たい大気は南に流れ、アラスカやスカンジナビアなど高緯度エリアは今年は例年にない異常な暖冬である反面、アトランタなどの米国南部エリアの都市では吹雪と異常低温が続いている。ボストンやニューヨークでは先週土曜日に1フィート以上の大雪を記録、米国全土で数千便の欠航となったが、今週末のボストンは最高1フィートの大雪、ニューヨーク市では最高6インチの大雪の予想となっている。
local pc
気象情報
CONTEMPT PRIOR TO INVESTIGATION
2014年2月15日土曜日21:38
(Before It's News)
http://beforeitsnews.com/weather/2014/02/the-worst-winter-in-1000-years-is-upon-us-look-at-the-signs-from-around-the-world-and-the-events-2442622.html
2013年12月9日の記事
南半球で夏なのに雪でおおわれているオーストラリア、大波が打ち寄せる英国、氷と雪でおおわれている東ヨーロッパ全土、2013年12月9日の記事で、私はこの1,000年間で最悪の冬であると書いた。
山麓地方では山で進路をふさがれた雲が留まって大量の雨や雪をもたらすので注意が必要。雨や雪が降ったら山の斜面を降った水が流れていく。土砂災害にも注意。
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天体情報:天体考
2013.5.7
西暦2013年、銀河系の双子座のエリアの出口あたりを牡牛座のエリアに向かってすすむ太陽系は秋の相。地球の1年で数えると9月20日あたり。つづく残暑の中でときおり涼しい風がふく、そんな時期。銀河系の冬の入口(氷河期)はAD4416年ごろになる計算なので本格的な氷河期のはじまりまであと約2400年。
西暦4416年から銀河系の牡羊座、魚座、水瓶座、山羊座エリアで6625年(26500/4=6625、西暦4416年-西暦11041年)つづく銀河系の冬(氷河期)の先には同じく6625年つづく銀河系の春がある。
13000年前ごろ、前回の銀河系の春をむかえた地球で栄えていたアトランチス文明、ムー文明は、溶けた氷河期の氷に飲み込まれて海底にしずんだ。そしてそのころの太陽系は銀河系の射手座エリア。今の太陽系の位置はその頃の位置のちょうど反対側。
ちなみに銀河系の72年は地球の1日にあたる。
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北米の人肉食、証拠発見…死後刻まれた少女の骨 (読売新聞) - Yahoo!ニュース
読売新聞 5月6日(月)13時16分配信
英国が北米大陸で初めて建設した恒久的入植地のジェームズタウン(現・米バージニア州)で、人肉食が行われていたことを示す証拠が初めて見つかった。
AP通信によると、ワシントンの国立自然史博物館などが、死後に体を刻まれた14歳とみられる少女の骨を発掘。骨は、入植地が厳冬による飢餓に見舞われた 1609〜1610年のものとされ、飢えをしのぐために食べられた他の動物の骨と一緒に発見された。入植地で人肉食が行われたとする当時の記録は存在するが、専門家の多くは懐疑的だった。(ワシントン支局)
最終更新:5月6日(月)14時43分
読売新聞
Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130506-00000135-yom-soc
銀河系の72年は地球の1日にあたり、西暦2013年を9月20日とするなら西暦1609年は9月15日。
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過去に地球でおきたとされる海水位上昇の時期の特定に成功
2012年4月2日
Sandiego1blog39
Before It's News
http://beforeitsnews.com/story/1968/971/The_Mega-Flood_Swept_The_World_14,600_Years_Ago.html
過去に地球でおきたとされる海水位上昇について、それがいつだったのか、これまで正確に特定する事は出来なかった。しかし、アイマーゼレー大学(an Aix-Marseille University)研究チーム、オックスフォード大学(Oxford University)Alex Thomas博士、Gideon Henderson博士による研究チームがその時を特定する事に成功した。
研究チームによると、過去に地球で海水位上昇がおきた時は、14,650年前-14,310年前。ボーリング温暖化現象(the Bolling warming)がおきた時が14,600年前なので、ちょうど重なる。この頃、地球では急激な気候変動がおき、平均気温は急激に上昇、極地に近い北半球の高緯度地方では、平均気温は10年で15度も上昇した。この頃の海水位上昇の主な原因は南極の氷が溶けた事だったという。大量の水が海に流れ込み、地球全体で海水位が上昇したようだ。
local pc
Unknown (///)
2011-02-20 09:28:58
13000年前あたり(ピラミッドが建設された時代)に、高度な航海技術を持って日本→北米→南米→インド→中東を繋げていた環太平洋文明の民族が、ヤンガードレアス期の寒冷化(北半球の半凍結)により南下してメソポタミアへ移動、やがて寒冷化が終わり、今度は温暖化で南下していた文明が北上を始め、アジア、北米に拡散していった・・・・。その後(約6500年前)に地球規模の大災害(ノアの大洪水)で低地の環太平洋文明都市は崩壊してしまい、偶然、高地に住んでいた極少数の民族だけが生き残り、約1000年後にまた低地に文明社会を築いた(←世界四大文明の勃興)!という文明周期説も参考になります。
始まりに向かって
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/639ae0033705c33515cb4b1fa2ac2a02
歴史情報:古代先進文明からまなぶ
2013年7月5日金曜日13:40
InLikeFlint
(Before It's News)
http://beforeitsnews.com/science-and-technology/2012/08/rise-of-the-killer-superstorms-2455988.html
ピラミッド、天文寺院、巨人石構造といった考古学的人工建造物の遺跡が証明するように、世界ではかつて技術的先進文明は多く存在した。これらは、世界に散ったこれらの社会の生き残りが作ったものではないか。
ゴベクリテペ(Gobekli Tepe)は1990年代に発見された12,000年前の古代寺院。保存のために完成後地中に埋められた。ギザ・スフィンクスの建設時期と同時期だったという説もある。
地質学的記録によれば、ギザピラミッドの建設時期は12,900年前でゴベクリテペ建設の前で、多くの動物相が消えた世界的破滅イベント/ヤンガードレアス期イベント(the Younger Dryas Impact Event、YD)がおきたころ。
ヤンガードレアス期イベントがおきたのは、前回の氷河期のおわりで、地球の気温上昇がはじまったころ。至る所に森が出現したころのイベント。原因は1994年7月に木星に落下したシューメイカー-レヴィ彗星(Comet Shoemaker-Levy 9)のような彗星の落下であるとされる。
ちりと氷からなるこの彗星は空中破裂爆発を引き起こし、現在の最大の水素爆弾より強力な爆発をおこした。爆発をおこしたエリアは、米国48州クラスのエリアをおおうほどの大きさだった。
結果、ローレンタイド氷床は溶け、海面は300フィート上昇、メキシコ湾流をはじめとした海流循環は変化、北半球の気温は下がるといったヤンガードレアス期イベントがおきた。このイベントは、アトランティス大陸沈没の伝説と符号する。そしてもともと赤道直下エリアにあった古代文明王国はポールシフトにより極地へ移動、そして地球は1000年ごとにおきるとされる氷河時代にはいっていった。スフィンクス、ギザピラミッド、ゴベクリテペ(Gobekli Tepe)などを造った古代文明諸国は、大洪水の生き残りで、子孫たちが文明をまたゼロから作る必要がないよう、極地の氷の下に消失した古代文明王国にあった記録をこれらの遺跡に記録したのだろう。
我々の先祖に宇宙の働き、次の大災害から記録を護る方法の知識があり、その記録を残したとするなら、彗星落下といったイベントを生き残る方法を知る事も可能なはず。大災害に周期があるなら、その大災害の警告であるかもしれない。
聖書と創世記第1章。災害を生き残ったこの記録の大部分は何世代もの間に書き換えられたとする説はあるが、まあ、しばらくはそういう疑惑を止め考えてみよう。
巨石(the megaliths)建築は、おきうる次の災害イベントの複雑な記録を巨石の配列にこめた。
創世記では、昼と夜、1週間の比喩を用い、世界の創造のタイムラインを記録した。この比喩は、複数の意味があると思う。つまり、イベントのタイムラインの記録であり、同時に宇宙論、次元の記録ではないか。
長さ、幅、高さの3つの次元と、時間によって、物理的なプロセスモデルは解説しうる。これで4日/4つの次元。創造の次のの3つの曜日はどうか?長さ、幅、高さの3つの次元と、時間の次元を越えた次元を説明可能か? 可能だ。7日/7つの次元は現在の我々の3次元力学空間外で作用する力であり、現在の我々の3次元力学にこれら7次元を加えれば合計10の次元になる。 物理学の10次元ジオメトリー(a 10-dimensional geometries)に基づいた縞理論(String Theory)というものがあり、関係あるかどうかはわからないが、いずれにせよ、古代の宇宙論に現れた「7」という数字が、一週間の日数と同じなのが面白い。生き残りが古代の先進文明を幼児にさえ教えられる形の単純な創造神話にするにはいい喩えだったのかもしれない。
しかし、なぜ、解析された古代文明の記録が一般に知られていないのか? 前にPTB(Powers That Be、その時代の権力者)の記事を書いたが、つまり、秘密オカルトが一般人から記録を隠ぺいしたからだ。「知識は力」という古い格言がある。
PTB のため、世界は持てる者と持たざる者の闘いになった。世界の恩恵の全てを望む裕福なエリートと富を得られない持たざる者の世界と言うのが今の世界の構図。まさに貪欲だ!
古代の記録が伝える事、それはかつて理解されていた宇宙論、フリーエネルギー、宇宙旅行を可能にする反重力テクノロジー。インターネットの出現でこれらの知識にアクセスできるようになった今、現在世界の持たざる者は自分自身でそれを見つけ出し、実現し、支配から逃れられる。 我々一般人が無尽蔵のフリーエネルギーを手に入れれば、PTBの一極支配のコントロールに翻弄される事はなくなり、支配から逃れられる。 何としてでも手に入れて、自分達の運命を達成するべきである。
local pc
The Extinction Protocol:約12,240年の地球温暖化は急速にすすんだ
Volcanic ash reveals rapid Ice Age climate change
Posted on December 5, 2013
by The Extinction Protocol
December 5, 2013
Climate Science
http://www.reportingclimatescience.com/news-stories/article/volcanic-ash-reveals-abrupt-climate-change-during-last-ice-age.html
The Extinction Protocol
http://theextinctionprotocol.wordpress.com/
http://theextinctionprotocol.wordpress.com/2013/12/05/volcanic-ash-reveals-rapid-ice-age-climate-change/
(要約)
The Extinction Protocol:約12,240年前の地球温暖化は急速にすすんだ
2013年12月5日
The Extinction Protocol
オックスフォード大学/クリスティーン・レーン (Christine Lane、Oxford University)
とGFZ独地質調査センター(the GFZ German Research Centre for Geosciences) /アキム・ブラウア (Achim Brauer) による独英合同地質学研究チームの調査によれば、氷河期の気候変動は地域により約120年の時間差はあるものの、地球の各地方で訪れる。気候変動ははやいスピードでおこりうるという。
約12,240年におきた前回の氷河期の終わり、氷河期終期に約1100年続いた寒冷期/ヤンガードレアス期(the younger Dryas)のおわり、アイスランドのカトラ火山(the Katla volcano)で大噴火がおき、火山灰は偏西風にのって北ヨーロッパ、中央ヨーロッパの大部分のエリアにおちたが、
独英合同地質学研究チームの最新の研究書/「Geology」の記事によれば、西ドイツ/アイフェル地域(the West German Eifel region)/マーフェルダーマール湖(the Meerfelder Maar lake)の沈殿物の堆積パターンと南ノルウェーのクラケネス湖(Lake Krakenes)のそれには約120年の時間のずれがみられた。つまり、アイフェル地域で最初に温暖化が起き、その約120年後にノルウェー南部で温暖化が起きたが、両エリアで起きた温暖化はどちらも等しく急速だった。
Achim Brauer
「湖底に沈んだ火山灰沈殿物から正確に火山灰の年齢を測定することが出来る。これにより時間を正確に特定できる。」。
local pc
2013年7月5日金曜日13:40
InLikeFlint
(Before It's News)
http://beforeitsnews.com/space/2013/07/the-universe-ancient-astronauts-and-atlantis-2-2462418.html
http://beforeitsnews.com/space/2013/07/the-universe-ancient-astronauts-and-atlantis-2-2462418.html?currentSplittedPage=2
ゴベクリテペ(Gobekli Tepe)は1990年代に発見された12,000年前の古代寺院。保存のために完成後地中に埋められた。ギザ・スフィンクスの建設時期と同時期だったという説もある。
地質学的記録によれば、ギザピラミッドの建設時期は12,900年前でゴベクリテペ建設の前で、多くの動物相が消えた世界的破滅イベント/ヤンガードレアス期イベント(the Younger Dryas Impact Event、YD)がおきたころ。
ヤンガードレアス期イベントがおきたのは、前回の氷河期のおわりで、地球の気温上昇がはじまったころ。至る所に森が出現したころのイベント。原因は1994年7月に木星に落下したシューメイカー-レヴィ彗星(Comet Shoemaker-Levy 9)のような彗星の落下であるとされる。
ちりと氷からなるこの彗星は空中破裂爆発を引き起こし、現在の最大の水素爆弾より強力な爆発をおこした。爆発をおこしたエリアは、米国48州クラスのエリアをおおうほどの大きさだった。
結果、ローレンタイド氷床は溶け、海面は300フィート上昇、メキシコ湾流をはじめとした海流循環は変化、北半球の気温は下がるといったヤンガードレアス期イベントがおきた。このイベントは、アトランティス大陸沈没の伝説と符号する。そしてもともと赤道直下エリアにあった古代文明王国はポールシフトにより極地へ移動、そして地球は1000年ごとにおきるとされる氷河時代にはいっていった。スフィンクス、ギザピラミッド、ゴベクリテペ(Gobekli Tepe)などを造った古代文明諸国は、大洪水の生き残りで、子孫たちが文明をまたゼロから作る必要がないよう、極地の氷の下に消失した古代文明王国にあった記録をこれらの遺跡に記録したのだろう。
我々の先祖に宇宙の働き、次の大災害から記録を護る方法の知識があり、その記録を残したとするなら、彗星落下といったイベントを生き残る方法を知る事も可能なはず。大災害に周期があるなら、その大災害の警告であるかもしれない。
local pc
Unknown (///)
2011-02-20 09:28:58
3000年前あたり(ピラミッドが建設された時代)に、高度な航海技術を持って日本→北米→南米→インド→中東を繋げていた環太平洋文明の民族が、ヤンガードレアス期の寒冷化(北半球の半凍結)により南下してメソポタミアへ移動、やがて寒冷化が終わり、今度は温暖化で南下していた文明が北上を始め、アジア、北米に拡散していった・・・・。その後(約6500年前)に地球規模の大災害(ノアの大洪水)で低地の環太平洋文明都市は崩壊してしまい、偶然、高地に住んでいた極少数の民族だけが生き残り、約1000年後にまた低地に文明社会を築いた(←世界四大文明の勃興)!という文明周期説も参考になります。
始まりに向かって
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/639ae0033705c33515cb4b1fa2ac2a02
2012年4月2日
Sandiego1blog39
Before It's News
http://beforeitsnews.com/story/1968/971/The_Mega-Flood_Swept_The_World_14,600_Years_Ago.html
過去に地球でおきたとされる海水位上昇について、それがいつだったのか、これまで正確に特定する事は出来なかった。しかし、アイマーゼレー大学(an Aix-Marseille University)研究チーム、オックスフォード大学(Oxford University)Alex Thomas博士、Gideon Henderson博士による研究チームがその時を特定する事に成功した。
研究チームによると、過去に地球で海水位上昇がおきた時は、14,650年前-14,310年前。ボーリング温暖化現象(the Bolling warming)がおきた時が14,600年前なので、ちょうど重なる。この頃、地球では急激な気候変動がおき、平均気温は急激に上昇、極地に近い北半球の高緯度地方では、平均気温は10年で15度も上昇した。この頃の海水位上昇の主な原因は南極の氷が溶けた事だったという。大量の水が海に流れ込み、地球全体で海水位が上昇したようだ。
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Terrence Aym
2012年10月1日
Before It's News
http://beforeitsnews.com/science-and-technology/2012/10/atlantis-found-giant-sphinxes-pyramids-in-bermuda-triangle-2475944.html
氷河期の終わり
Plato(プラトン)
「古代の氷河期の終期、海水位は約400フィート上昇したが、この時の水位上昇はあっという間におきた。当時のアトランチス文明のテクノロジーをもってしてもこの事態に対処する事は不可能だった。」。
前回の氷河期の終わり、気温の上昇によって氷が解け、特に北半球の海水位は急速に上昇、陸地の沿岸地帯から海面下に沈んでいった。島は消え、所によっては大陸さえも水面下に消えた。キューバ諸島沖は大昔は陸地だったが、海水位上昇により海底に沈み、高地の一部がキューバ諸島として陸地として残ったのだろう。
Terra Forming Terraのレポートによると、これらのピラミッド群( Cuban Subsea Pyramid Complex)をはじめとする遺跡が海底に沈んだ時期とアトランチス文明滅亡の時期は一致するという。
Terra Forming Terra
「キューバプレートとユカタンプレートの接合部は構造的に弱い。12,900年周期で発生する気候変動で増えた海水の水圧はこのエリアのプレートを圧迫し、破ったのではないか。」。
local pc
太陽活動の低下、地球への影響は?
FP=時事 12月2日(月)16時25分配信
太陽活動の低下、地球への影響は?
米航空宇宙局の太陽観測衛星「SDO」が捉えた太陽フレア(2013年5月14日撮影)。
【AFP=時事】最近の太陽表面は、驚くほど穏やかな状態が続いており、黒点の数が20世紀のどの時期よりも少なくなっている。この現象に興味をそそられた科学者たちは、それがこの地球上で何を意味するのかに思いを巡らせている。
11年、太陽活動、17世紀以来の休止期に突入か 米研究
黒点の数はおよそ11年周期の太陽活動周期にあわせて増減し、1日で突発的に増加した後に急激に活動が弱まり、その後にまた活発になったりする。
■観測史上最低レベル
だが「サイクル24(第24太陽活動周期)」と呼ばれる現在の周期は、あまりにも不活発なために科学者らを驚かせている。サイクル24が2008年に始まってからこれまでに出現した黒点の総数は、過去250年間に観測された平均値を大きく下回っており、実際に半数にも満たない。米海洋大気局(National Oceanic and Atmospheric Administration、NOAA)の物理学者、Doug Biesecker氏は「これは、宇宙時代50年で最弱のサイクルになっている」と語る。
黒点から放射される強烈な電磁エネルギーは、太陽の紫外線放射やX線放射、太陽嵐などに重大な影響を及ぼす。太陽嵐は、地球上の通信網や電子ネットワークを遮断する恐れがある。また、黒点活動は、地球の気候にも影響を及ぼす可能性がある。
「サイクル23」は2000年頃に「極大」に達し、その後、同サイクルの活動は徐々に弱まり、2008年に「極小」となった。科学者らはこの時点を現サイクルの始まりとした。サイクル23の終わりに太陽活動が極小になったことで、天文学者らはサイクル24が低調になると予測したが、現実は予想をさらに下回った。
サイクル24の初年度には、太陽活動は上昇するはずだったが、黒点が1個も出現しない日が合計で266日も観測された。
Biesecker氏は「黒点出現予測の最大値は90個だった」として、この1年で活動が上昇してきたにもかかわらず「90個に近づきそうにないのは極めて明白だ」と指摘している。同氏はまた、「黒点数は昨年、最高で67個だった。通常のサイクルの半数にも満たない」と付け加えた。以前に黒点のサイクルがこれほど低調になったのは、1906年2月の「サイクル14」極大時で、1日当たりの出現数は64個にすぎなかった。
■太陽磁場の反転
サイクル24は、もう1つ驚くべき点で、標準から外れている。
太陽磁場は通常、各11年周期の最後のあたりで北極と南極の磁場の性質が同時に反転し、極性が変化する。磁場の強度は、極性反転が起きている間はゼロ近くまで低下し、極性が逆になったら再び高くなると科学者らは説明する。
だが今回は、これとは異なることが起きているようだ。北極ではすでに数か月前に極性が反転しており、現在は南極と同じ極性になっている。
最近の人工衛星による観測によると「南半球は近い将来に反転するはずだ」と米スタンフォード大学(Stanford University)ウィルコックス太陽観測所(Wilcox Solar Observatory)のトッド・ホークセマ(Todd Hoeksema)氏は言う。同氏はこの現象について心配していないようだが、科学者らは、サイクル24が「異常」な周期になるのかどうか、あるいは現在の太陽活動の低下が次のサイクルにまでも長引くのかどうかを見極めるために、太陽を注意深く観測している。Biesecker氏は「それが判明するまでに、まだゆうに3、4年はかかるに違いない」と言う。
■地球の気候への影響は?
またこれは、長期にわたる太陽活動低下期の始まりかもしれないと推測する研究者もいる。
前回同様の現象が発生した、17世紀半ば頃から18世紀前半頃の間のいわゆる「マウンダー極小期(Maunder Minimum)」には、黒点がほとんど観測されなかった。この時期、地球上では気温が急激に低下し、欧州と北米でいわゆる小氷期(Little Ice Age)が起きた。
黒点の数が少ない状況がさらに続くと、地球の気候が再び影響を受ける可能性が出てくる。だが地球温暖化のおかげで、再び氷河期に見舞われる可能性は低いだろう。「事態はまだ寒冷化に向かっていない。それほど速やかに(黒点の数が)上昇していないだけだ」とBiesecker氏は述べている。【翻訳編集】 AFPBB News
あぁ・・・ 放射能汚染 被爆 情報収集 思う事 関東
http://blogs.yahoo.co.jp/saki_happy_life777/39884753.html
ある地方史の本を開くと、その地方の縄文時代のズット以前の、2万年ほど前の旧石器時代時代の遺跡の発掘物から、説き起こす際に、冒頭タイトルにした様なフレーズが出てきた。
地球が氷河期の寒冷な気候に覆われていた時代。海面は今よりも100メートルも下がっており、日本列島は大陸と陸続きで繋がっていた。
亜寒帯の森林におおわれた陸上にはオオツノジカやナンマンゾウが生息して、すでに日本に居住していた人類は「進化段階は現生人類と同じ新人で、私たちと思考能力も運動能力も全く差異のない、直接の祖先」だった。
過酷な環境に適応するところから出発した私たち人類は
��未だに寒冷な旧石器時代に{基本設計}の定まった身体構造>を引きずっている。
余分なカロリーを急激に脂肪に蓄える、過酷な時代がもたらした{基本設計}が、食いものが、自分で作ったり、採ったりするする現場とかけ離れて、カネよって簡単に手に入る時代に、肥満と云う形でそぐわなくなっている。
だから、脂肪をつけさせないために、運動に時間を割かなければならない。
その作業を素晴らしいとばかり、想うのは勝手な思い込みであり、本当は、馬鹿な事をやっている。
食い過ぎの快楽におぼれ、辻褄合わせをしているだけじゃないか。
そういうカネがあれば、世界中の飢えた人で助かるヒトがいる。理性で考えるとそういう事に成る。
>現人類は長く続いた過酷な生存環境を生き抜くに従って、そうした環境への強固な適応力がDNAにインプットされた。
それを著者は{基本設計}と云う適切な言葉で表現している。
その後の地球の気候の温暖化のよって海水面が上昇し、日本は大陸と切り離され、海進の最も進んだ約6000年間には海は今よりずっと列島に入りこんでいた。
>>やがて新石器時代から、縄文時代が始まるのだが、この著者の指摘している、{基本設計不適応}は、もっとスケールのデカイ事だ。
「その後の気候の温暖化」。
ここまでは自然現象の大きな変動に対する氷河期に{基本設計}された現人類の不適応であり、何のことはない常識の範囲。
>>「急激な社会変動」。
そして「価値観の多様性など」。
に「対処するには{基本設計が<余りに古い}のではないかと云う、現状認識が可能なのである」とまで云われると、つい一足飛びに、現在の地球規模に沸き起こっている諸問題への人類のDNA的基本設計の余りの古さゆえの不適応=DNA的解決能力不在をに想いを馳せてしまう。
そういえば、人類はズット戦争しつけてきたな。最後は力による解決の道を選択してきて、厄介なことにそれが起動力となって、歴史が前に進んできた。その挙句の果てが、尤も破壊的殺人兵器としての「核兵器」の開発とその使用。それが、原子力潜水艦に転用され、次に原子力発電に使用され、遂には日本の福島原発事故によって、当然の事ながら、地球のプレート移動の法則によって、その存在を否定された。にもかかわらず、利潤を追い求める資本の蓄積構造に引きずられ、原発を再稼働するという。核ミサイルを独占する大国が、自分たちの軍事的独占を維持するために、都合の良い国の核武装は許し、都合の悪い国の核武装は許さないと、核兵器の世界的多様化に圧力をかける。それだけではなく、グローバル資本制の反人間性はますます、コントロール不能状態に成っている。地球環境破壊の原因も結局、グローバル資本制に行き着く。
2万年前の最終氷河期時代に定着した人類のDNA=急激な社会変動、価値観への不適応のある基本設計、では、今のところこれらの方向性は修正できる見通しが立たない。物事には表側と裏側があるが、それにしても、表側のきらめきに反して裏側は酷過ぎて、反人類の領域に深く達している。
��>が、著者は<人間は急激に変わる>モノと、云う視点を歴史的事実から、提起している。
従来の歴史学では縄文時代から弥生時代への転換を朝鮮半島からの渡来系弥生人の移住、定着に求めているが、日本定住の縄文人、自らが主体的に、
「朝鮮半島の人々との交換や交流をきっかけに、水や土地など自然と人間の関わり方から、日常の価値観、時間の観念、ひては死生観を軸に据えた宇宙観に至るまで縄文文化をそれを完全に脱ぎ捨て、自らを水稲農耕民=朝鮮半島系渡来人風に仕立てなおして再出発した」
「しかも、朝鮮半島系の文化的要素が初期の頃から、揃って導入されているところを見れば、この再出発は集団規模で、おそらく<1世代の間に、組織的かつ短期間で生じたとみる必要がある」
「現代人の感覚になぞって表現すれば、それは宗教上の集団改宗に近い状態だと理解すべきであろう」
>以上の論説は考古学の出土品から、解き明かされており、説得力がある。
「疑いようもなくハッキリとした朝鮮半島系の墓の下に埋葬されていたのは、予想に反して縄文的形質を備えた人物であった。」
水稲稲作が日本列島に広まった頃、同じ地域の同時期に縄文的生活を送るムラと弥生的水稲稲作のムラの共存が確認されている。この時の水稲稲作弥生ムラは渡来系の弥生人ではなく、渡来系の生産様式に短期間で組織的に改宗した日本土着の縄文人だった。
>この様に考えていくと、従来の歴史学説の云う、弥生時代の爆発的人口増加の原因を朝鮮渡来人の日本への圧倒的な数に求める、不自然さが拭いされる。確かに渡来人数も増加したが、日本土着の縄文人は渡来人と混血して弥生人となって水稲稲作民に自己変革した。
��>ただし、土着の縄文式生産様式よりも、手間はかかるが渡来系の生産様式の方が労働成果は大きく得られ、安定的であるという、やはり、物的な要素によって、この自己変革は可能となったと想う。やがて、そこで取り入れた生産様式が戦争的抗争と共同体の階層分解を生む。
2012/4/8(日) 午後 2:19
反俗日記
http://blogs.yahoo.co.jp/xhhfr149/22852263.html
Posted on December 5, 2013
by The Extinction Protocol
December 5, 2013
Climate Science
http://www.reportingclimatescience.com/news-stories/article/volcanic-ash-reveals-abrupt-climate-change-during-last-ice-age.html
The Extinction Protocol
http://theextinctionprotocol.wordpress.com/
http://theextinctionprotocol.wordpress.com/2013/12/05/volcanic-ash-reveals-rapid-ice-age-climate-change/
(要約)
The Extinction Protocol:約12,240年前の地球温暖化は急速にすすんだ
2013年12月5日
The Extinction Protocol
オックスフォード大学/クリスティーン・レーン (Christine Lane、Oxford University)
とGFZ独地質調査センター(the GFZ German Research Centre for Geosciences) /アキム・ブラウア (Achim Brauer) による独英合同地質学研究チームの調査によれば、氷河期の気候変動は地域により約120年の時間差はあるものの、地球の各地方で訪れる。気候変動ははやいスピードでおこりうるという。
約12,240年におきた前回の氷河期の終わり、氷河期終期に約1100年続いた寒冷期/ヤンガードレアス期(the younger Dryas)のおわり、アイスランドのカトラ火山(the Katla volcano)で大噴火がおき、火山灰は偏西風にのって北ヨーロッパ、中央ヨーロッパの大部分のエリアにおちたが、
独英合同地質学研究チームの最新の研究書/「Geology」の記事によれば、西ドイツ/アイフェル地域(the West German Eifel region)/マーフェルダーマール湖(the Meerfelder Maar lake)の沈殿物の堆積パターンと南ノルウェーのクラケネス湖(Lake Krakenes)のそれには約120年の時間のずれがみられた。つまり、アイフェル地域で最初に温暖化が起き、その約120年後にノルウェー南部で温暖化が起きたが、両エリアで起きた温暖化はどちらも等しく急速だった。
Achim Brauer
「湖底に沈んだ火山灰沈殿物から正確に火山灰の年齢を測定することが出来る。これにより時間を正確に特定できる。」。
local pc
2013年7月5日金曜日13:40
InLikeFlint
(Before It's News)
http://beforeitsnews.com/space/2013/07/the-universe-ancient-astronauts-and-atlantis-2-2462418.html
http://beforeitsnews.com/space/2013/07/the-universe-ancient-astronauts-and-atlantis-2-2462418.html?currentSplittedPage=2
ゴベクリテペ(Gobekli Tepe)は1990年代に発見された12,000年前の古代寺院。保存のために完成後地中に埋められた。ギザ・スフィンクスの建設時期と同時期だったという説もある。
地質学的記録によれば、ギザピラミッドの建設時期は12,900年前でゴベクリテペ建設の前で、多くの動物相が消えた世界的破滅イベント/ヤンガードレアス期イベント(the Younger Dryas Impact Event、YD)がおきたころ。
ヤンガードレアス期イベントがおきたのは、前回の氷河期のおわりで、地球の気温上昇がはじまったころ。至る所に森が出現したころのイベント。原因は1994年7月に木星に落下したシューメイカー-レヴィ彗星(Comet Shoemaker-Levy 9)のような彗星の落下であるとされる。
ちりと氷からなるこの彗星は空中破裂爆発を引き起こし、現在の最大の水素爆弾より強力な爆発をおこした。爆発をおこしたエリアは、米国48州クラスのエリアをおおうほどの大きさだった。
結果、ローレンタイド氷床は溶け、海面は300フィート上昇、メキシコ湾流をはじめとした海流循環は変化、北半球の気温は下がるといったヤンガードレアス期イベントがおきた。このイベントは、アトランティス大陸沈没の伝説と符号する。そしてもともと赤道直下エリアにあった古代文明王国はポールシフトにより極地へ移動、そして地球は1000年ごとにおきるとされる氷河時代にはいっていった。スフィンクス、ギザピラミッド、ゴベクリテペ(Gobekli Tepe)などを造った古代文明諸国は、大洪水の生き残りで、子孫たちが文明をまたゼロから作る必要がないよう、極地の氷の下に消失した古代文明王国にあった記録をこれらの遺跡に記録したのだろう。
我々の先祖に宇宙の働き、次の大災害から記録を護る方法の知識があり、その記録を残したとするなら、彗星落下といったイベントを生き残る方法を知る事も可能なはず。大災害に周期があるなら、その大災害の警告であるかもしれない。
local pc
Unknown (///)
2011-02-20 09:28:58
3000年前あたり(ピラミッドが建設された時代)に、高度な航海技術を持って日本→北米→南米→インド→中東を繋げていた環太平洋文明の民族が、ヤンガードレアス期の寒冷化(北半球の半凍結)により南下してメソポタミアへ移動、やがて寒冷化が終わり、今度は温暖化で南下していた文明が北上を始め、アジア、北米に拡散していった・・・・。その後(約6500年前)に地球規模の大災害(ノアの大洪水)で低地の環太平洋文明都市は崩壊してしまい、偶然、高地に住んでいた極少数の民族だけが生き残り、約1000年後にまた低地に文明社会を築いた(←世界四大文明の勃興)!という文明周期説も参考になります。
始まりに向かって
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/639ae0033705c33515cb4b1fa2ac2a02
2012年4月2日
Sandiego1blog39
Before It's News
http://beforeitsnews.com/story/1968/971/The_Mega-Flood_Swept_The_World_14,600_Years_Ago.html
過去に地球でおきたとされる海水位上昇について、それがいつだったのか、これまで正確に特定する事は出来なかった。しかし、アイマーゼレー大学(an Aix-Marseille University)研究チーム、オックスフォード大学(Oxford University)Alex Thomas博士、Gideon Henderson博士による研究チームがその時を特定する事に成功した。
研究チームによると、過去に地球で海水位上昇がおきた時は、14,650年前-14,310年前。ボーリング温暖化現象(the Bolling warming)がおきた時が14,600年前なので、ちょうど重なる。この頃、地球では急激な気候変動がおき、平均気温は急激に上昇、極地に近い北半球の高緯度地方では、平均気温は10年で15度も上昇した。この頃の海水位上昇の主な原因は南極の氷が溶けた事だったという。大量の水が海に流れ込み、地球全体で海水位が上昇したようだ。
local pc
Terrence Aym
2012年10月1日
Before It's News
http://beforeitsnews.com/science-and-technology/2012/10/atlantis-found-giant-sphinxes-pyramids-in-bermuda-triangle-2475944.html
氷河期の終わり
Plato(プラトン)
「古代の氷河期の終期、海水位は約400フィート上昇したが、この時の水位上昇はあっという間におきた。当時のアトランチス文明のテクノロジーをもってしてもこの事態に対処する事は不可能だった。」。
前回の氷河期の終わり、気温の上昇によって氷が解け、特に北半球の海水位は急速に上昇、陸地の沿岸地帯から海面下に沈んでいった。島は消え、所によっては大陸さえも水面下に消えた。キューバ諸島沖は大昔は陸地だったが、海水位上昇により海底に沈み、高地の一部がキューバ諸島として陸地として残ったのだろう。
Terra Forming Terraのレポートによると、これらのピラミッド群( Cuban Subsea Pyramid Complex)をはじめとする遺跡が海底に沈んだ時期とアトランチス文明滅亡の時期は一致するという。
Terra Forming Terra
「キューバプレートとユカタンプレートの接合部は構造的に弱い。12,900年周期で発生する気候変動で増えた海水の水圧はこのエリアのプレートを圧迫し、破ったのではないか。」。
local pc
太陽活動の低下、地球への影響は?
FP=時事 12月2日(月)16時25分配信
太陽活動の低下、地球への影響は?
米航空宇宙局の太陽観測衛星「SDO」が捉えた太陽フレア(2013年5月14日撮影)。
【AFP=時事】最近の太陽表面は、驚くほど穏やかな状態が続いており、黒点の数が20世紀のどの時期よりも少なくなっている。この現象に興味をそそられた科学者たちは、それがこの地球上で何を意味するのかに思いを巡らせている。
11年、太陽活動、17世紀以来の休止期に突入か 米研究
黒点の数はおよそ11年周期の太陽活動周期にあわせて増減し、1日で突発的に増加した後に急激に活動が弱まり、その後にまた活発になったりする。
■観測史上最低レベル
だが「サイクル24(第24太陽活動周期)」と呼ばれる現在の周期は、あまりにも不活発なために科学者らを驚かせている。サイクル24が2008年に始まってからこれまでに出現した黒点の総数は、過去250年間に観測された平均値を大きく下回っており、実際に半数にも満たない。米海洋大気局(National Oceanic and Atmospheric Administration、NOAA)の物理学者、Doug Biesecker氏は「これは、宇宙時代50年で最弱のサイクルになっている」と語る。
黒点から放射される強烈な電磁エネルギーは、太陽の紫外線放射やX線放射、太陽嵐などに重大な影響を及ぼす。太陽嵐は、地球上の通信網や電子ネットワークを遮断する恐れがある。また、黒点活動は、地球の気候にも影響を及ぼす可能性がある。
「サイクル23」は2000年頃に「極大」に達し、その後、同サイクルの活動は徐々に弱まり、2008年に「極小」となった。科学者らはこの時点を現サイクルの始まりとした。サイクル23の終わりに太陽活動が極小になったことで、天文学者らはサイクル24が低調になると予測したが、現実は予想をさらに下回った。
サイクル24の初年度には、太陽活動は上昇するはずだったが、黒点が1個も出現しない日が合計で266日も観測された。
Biesecker氏は「黒点出現予測の最大値は90個だった」として、この1年で活動が上昇してきたにもかかわらず「90個に近づきそうにないのは極めて明白だ」と指摘している。同氏はまた、「黒点数は昨年、最高で67個だった。通常のサイクルの半数にも満たない」と付け加えた。以前に黒点のサイクルがこれほど低調になったのは、1906年2月の「サイクル14」極大時で、1日当たりの出現数は64個にすぎなかった。
■太陽磁場の反転
サイクル24は、もう1つ驚くべき点で、標準から外れている。
太陽磁場は通常、各11年周期の最後のあたりで北極と南極の磁場の性質が同時に反転し、極性が変化する。磁場の強度は、極性反転が起きている間はゼロ近くまで低下し、極性が逆になったら再び高くなると科学者らは説明する。
だが今回は、これとは異なることが起きているようだ。北極ではすでに数か月前に極性が反転しており、現在は南極と同じ極性になっている。
最近の人工衛星による観測によると「南半球は近い将来に反転するはずだ」と米スタンフォード大学(Stanford University)ウィルコックス太陽観測所(Wilcox Solar Observatory)のトッド・ホークセマ(Todd Hoeksema)氏は言う。同氏はこの現象について心配していないようだが、科学者らは、サイクル24が「異常」な周期になるのかどうか、あるいは現在の太陽活動の低下が次のサイクルにまでも長引くのかどうかを見極めるために、太陽を注意深く観測している。Biesecker氏は「それが判明するまでに、まだゆうに3、4年はかかるに違いない」と言う。
■地球の気候への影響は?
またこれは、長期にわたる太陽活動低下期の始まりかもしれないと推測する研究者もいる。
前回同様の現象が発生した、17世紀半ば頃から18世紀前半頃の間のいわゆる「マウンダー極小期(Maunder Minimum)」には、黒点がほとんど観測されなかった。この時期、地球上では気温が急激に低下し、欧州と北米でいわゆる小氷期(Little Ice Age)が起きた。
黒点の数が少ない状況がさらに続くと、地球の気候が再び影響を受ける可能性が出てくる。だが地球温暖化のおかげで、再び氷河期に見舞われる可能性は低いだろう。「事態はまだ寒冷化に向かっていない。それほど速やかに(黒点の数が)上昇していないだけだ」とBiesecker氏は述べている。【翻訳編集】 AFPBB News
あぁ・・・ 放射能汚染 被爆 情報収集 思う事 関東
http://blogs.yahoo.co.jp/saki_happy_life777/39884753.html
ある地方史の本を開くと、その地方の縄文時代のズット以前の、2万年ほど前の旧石器時代時代の遺跡の発掘物から、説き起こす際に、冒頭タイトルにした様なフレーズが出てきた。
地球が氷河期の寒冷な気候に覆われていた時代。海面は今よりも100メートルも下がっており、日本列島は大陸と陸続きで繋がっていた。
亜寒帯の森林におおわれた陸上にはオオツノジカやナンマンゾウが生息して、すでに日本に居住していた人類は「進化段階は現生人類と同じ新人で、私たちと思考能力も運動能力も全く差異のない、直接の祖先」だった。
過酷な環境に適応するところから出発した私たち人類は
��未だに寒冷な旧石器時代に{基本設計}の定まった身体構造>を引きずっている。
余分なカロリーを急激に脂肪に蓄える、過酷な時代がもたらした{基本設計}が、食いものが、自分で作ったり、採ったりするする現場とかけ離れて、カネよって簡単に手に入る時代に、肥満と云う形でそぐわなくなっている。
だから、脂肪をつけさせないために、運動に時間を割かなければならない。
その作業を素晴らしいとばかり、想うのは勝手な思い込みであり、本当は、馬鹿な事をやっている。
食い過ぎの快楽におぼれ、辻褄合わせをしているだけじゃないか。
そういうカネがあれば、世界中の飢えた人で助かるヒトがいる。理性で考えるとそういう事に成る。
>現人類は長く続いた過酷な生存環境を生き抜くに従って、そうした環境への強固な適応力がDNAにインプットされた。
それを著者は{基本設計}と云う適切な言葉で表現している。
その後の地球の気候の温暖化のよって海水面が上昇し、日本は大陸と切り離され、海進の最も進んだ約6000年間には海は今よりずっと列島に入りこんでいた。
>>やがて新石器時代から、縄文時代が始まるのだが、この著者の指摘している、{基本設計不適応}は、もっとスケールのデカイ事だ。
「その後の気候の温暖化」。
ここまでは自然現象の大きな変動に対する氷河期に{基本設計}された現人類の不適応であり、何のことはない常識の範囲。
>>「急激な社会変動」。
そして「価値観の多様性など」。
に「対処するには{基本設計が<余りに古い}のではないかと云う、現状認識が可能なのである」とまで云われると、つい一足飛びに、現在の地球規模に沸き起こっている諸問題への人類のDNA的基本設計の余りの古さゆえの不適応=DNA的解決能力不在をに想いを馳せてしまう。
そういえば、人類はズット戦争しつけてきたな。最後は力による解決の道を選択してきて、厄介なことにそれが起動力となって、歴史が前に進んできた。その挙句の果てが、尤も破壊的殺人兵器としての「核兵器」の開発とその使用。それが、原子力潜水艦に転用され、次に原子力発電に使用され、遂には日本の福島原発事故によって、当然の事ながら、地球のプレート移動の法則によって、その存在を否定された。にもかかわらず、利潤を追い求める資本の蓄積構造に引きずられ、原発を再稼働するという。核ミサイルを独占する大国が、自分たちの軍事的独占を維持するために、都合の良い国の核武装は許し、都合の悪い国の核武装は許さないと、核兵器の世界的多様化に圧力をかける。それだけではなく、グローバル資本制の反人間性はますます、コントロール不能状態に成っている。地球環境破壊の原因も結局、グローバル資本制に行き着く。
2万年前の最終氷河期時代に定着した人類のDNA=急激な社会変動、価値観への不適応のある基本設計、では、今のところこれらの方向性は修正できる見通しが立たない。物事には表側と裏側があるが、それにしても、表側のきらめきに反して裏側は酷過ぎて、反人類の領域に深く達している。
��>が、著者は<人間は急激に変わる>モノと、云う視点を歴史的事実から、提起している。
従来の歴史学では縄文時代から弥生時代への転換を朝鮮半島からの渡来系弥生人の移住、定着に求めているが、日本定住の縄文人、自らが主体的に、
「朝鮮半島の人々との交換や交流をきっかけに、水や土地など自然と人間の関わり方から、日常の価値観、時間の観念、ひては死生観を軸に据えた宇宙観に至るまで縄文文化をそれを完全に脱ぎ捨て、自らを水稲農耕民=朝鮮半島系渡来人風に仕立てなおして再出発した」
「しかも、朝鮮半島系の文化的要素が初期の頃から、揃って導入されているところを見れば、この再出発は集団規模で、おそらく<1世代の間に、組織的かつ短期間で生じたとみる必要がある」
「現代人の感覚になぞって表現すれば、それは宗教上の集団改宗に近い状態だと理解すべきであろう」
>以上の論説は考古学の出土品から、解き明かされており、説得力がある。
「疑いようもなくハッキリとした朝鮮半島系の墓の下に埋葬されていたのは、予想に反して縄文的形質を備えた人物であった。」
水稲稲作が日本列島に広まった頃、同じ地域の同時期に縄文的生活を送るムラと弥生的水稲稲作のムラの共存が確認されている。この時の水稲稲作弥生ムラは渡来系の弥生人ではなく、渡来系の生産様式に短期間で組織的に改宗した日本土着の縄文人だった。
>この様に考えていくと、従来の歴史学説の云う、弥生時代の爆発的人口増加の原因を朝鮮渡来人の日本への圧倒的な数に求める、不自然さが拭いされる。確かに渡来人数も増加したが、日本土着の縄文人は渡来人と混血して弥生人となって水稲稲作民に自己変革した。
��>ただし、土着の縄文式生産様式よりも、手間はかかるが渡来系の生産様式の方が労働成果は大きく得られ、安定的であるという、やはり、物的な要素によって、この自己変革は可能となったと想う。やがて、そこで取り入れた生産様式が戦争的抗争と共同体の階層分解を生む。
2012/4/8(日) 午後 2:19
反俗日記
http://blogs.yahoo.co.jp/xhhfr149/22852263.html
6月5日寒い。ミニ氷河期は本当?
6月5日寒い。ミニ氷河期は本当?
2009/06/05 22:27
Googleで検索して貰ってもわかりますが、6月1日付けの朝日新聞の記事。
「太陽の活動低下でミニ氷河期に」
というような記事が載り、ちょっとした話題になっています。
このままでは地球温暖化ならぬ、17〜18世紀頃以来のミニ氷河期が到来してしまうということで、天文学者や研究者が慌てだしたそうです。
日本では江戸時代の頃ですが、そのころ英国のテムズ川が凍りつくほど世界の気温は低かったそうで、本当の氷河期なら、東京は北海道なみの気候になるそうですが、ミニ氷河期だと南東北ぐらいでしょうか?
現在の三浦半島も、去年より気温が低い気がします。長袖は片づけてしまい、半袖しか着てなかったと思うんですよ、去年。
赤い電車で
http://warabidani.iza.ne.jp/blog/entry/1557808/
池田信夫:地球は氷河期になる
池田信夫:地球は氷河期になる
2008/04/01 04:18
池田信夫blog(2008-04-01)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b66ce19df3085a4bf6ed6085b7434464
IPCCのリーダー、スティーヴン・シュナイダー(スタンフォード大学教授)は、"Atmospheric Carbon Dioxide and Aerosols: Effects of Large Increases on Global Climate" (Science 173, 138-141)で、次のように述べた:
It is projected that man's potential to pollute will increase 6 to 8-fold in the next 50 years. If this increased rate of injection[...] should raise the present background opacity by a factor of 4, our calculations suggest a decrease in global temperature by as much as 3.5℃. Such a large decrease in the average temperature of Earth, sustained over a period of few years, is believed to be sufficient to trigger an ice age.
彼の予測によれば、大気汚染で太陽光線が遮断される効果によって地球の温度は今後50年間に3.5℃も下がり、地球は氷河期に入るおそれが強い。凍死者の数は温暖化による死者の50倍にのぼるので、これは温暖化よりもはるかに重大な問題だ。昨年ノーベル賞の授賞式に出席したIPCCの指導者が、このような論文を権威ある学会誌に発表したことに、世界の気候学者は衝撃を受けている。IPCCは緊急会合を開き、大気汚染の影響を勘案した新しいモデルによってシミュレーションをやり直すことを決めた。
Septemberのブログiza版
http://nagatsuki07.iza.ne.jp/blog/entry/529271/
池田信夫blog
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b66ce19df3085a4bf6ed6085b7434464
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