2025.8
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(要約)
Austin Williams: アメリカ製造業空洞化の歴史
2025.8
Austin Williams
かつてアメリカは製造業大国だった。世界の製品の50%をアメリカが製造し,二度の世界大戦でも殆どの物資を製造。 アメリカは偉大な製造大国だった。労働者が強力な地域社会は形成,繁栄し,企業も長期的成功を収めた。しかし,いつの間にか状況は変わりはじめた。私たちはもはや偉大ではなくなり,製造業は海外に移転し,町は空洞化した。 そして,中流階級はそれ以来苦境に立たされている。
2025年にはアメリカの雇用のわずか8%が製造業。アメリカの製造業は衰退しており,これは国内最大の議論の1つとなっている。 まるで時計の針を戻せるかのように中流階級の再建のために雇用を取り戻すことを語り,そのために必死の手段をじてきた。 しかし,誰も語らないのはそもそもなぜアメリカの製造業が衰退したのか?ということだ。私たちがサービス経済へと移行することになったきっかけは何だったのか?さて,このビデオで私が伝えたいのはまさにそのストーリー。 なぜなら「物を作る国から物を買う国に変わった」のは偶然ではなく,一連の出来事がその変化を生み出したからだ。そして,なぜ全てがうまくいかなくなったのかを理解するためには,時計の針を戻して,アメリカが世界の工業大国へと対当し始めた150年前まで遡る必要がある。
▼巨人の目覚め
物語は1880年代に始まる。アメリカはイギリスを抜いて,世界最大の製造国となり,世界の工業製品の24%を生産した。1900年にはアメリカは工業大国になりつつあった。そして,それはその規模によるところも大きかった。アメリカは広大な国で天然資源が豊富だった。 鉄道で国内に商品を輸送するインフラがあり,高い関税がアメリカの産業を外国との競争から守っていた。 1900年代に入ると,アメリカは極めて効率的な方法を学んだ。 ヘンリーフォードは自動車組立ラインを開発し,モデルTの製造時間を12時間から93分に短縮。組立ラインは最終的に近代的な製造業のモデルとなった。 生産性の向上によって大量生産が可能になり,商品価格が下がった。
アメリカはいつでも規模を拡大できるインフラとシステムを備えていた。その最初の試練は第一次世界対戦で訪れた。 アメリカは軍用車両,船舶,爆薬を製造する世界最大の戦時物資工場となった。 そして戦争が終わるとこれらの戦事工場はラジオ自動車,家電製品の生産へとシームレスに移行した。そして,1920年代後半にはアメリカは世界の製造品の40%を生産していた。 しかし,その後に何が起こるかは誰もが知っている。 大恐慌が始まり,失業率が上昇し,工場の生産が停止した。 しかし,インフラはそのまま残り次の瞬間を待ち続けた。 そしてその瞬間は10年後に訪れる。
▼民主主義の武器庫
物語の次の展開は1940年から始まる。世界は第二次世界対戦で戦火を交えていた。 しかし,当時アメリカは中立を保っており,戦争には参加していない。 フランクリン・D.ルーズベルト大統領は「アメリカは民主主義の兵器庫となり民主主義ために戦う同盟国に軍需品を供給しなければならない」と述べた。そして第一次世界大戦と同じく,アメリカはGM,フォード,クライスラーといった消費財メーカーを動員し,戦車,航空機,ジープなどの製造に回帰した。 生産においては生産性はかつてないほど向上した。アメリカは平均して1時間ごとに1機のB 24爆撃機, 1日に6〜7隻のリバティ船を製造していた。
しかし,1941年真珠湾攻撃を機にアメリカは大戦に参戦。男性が戦場を去った後,歴史上初めて女性,アフリカ系アメリカ人,そして移民が組立ラインで働き始め,民主主義の兵器庫を動かし続けた。 そして,戦争の終わりまでに,アメリカは連合国の軍事装備のほぼ2/3を生産した。つまり1940年から1945年の大戦期に29万7000機の航空機,8万6000両の戦車,200万台の軍用トラック,19万3000門の大砲を生産した。 そして,戦争の終わりには世界のGDPのほぼ半分を占め,世界最強の経済としても地位を確保し,アメリカの製造業は最盛期となった。10年後にはアメリカは世界の製造品の半分を生産していた。そして,この生産量は増加の一途をたどり続けた。
▼唯一残った工場
戦争の終わりまでに,アメリカは世界の製造品の半分を生産していた。自動車,鉄工,家電製品,もし作られたものがあれば,それはおそらくアメリカ製だった。そしてこの傾向はしばらく続いた。なぜなら他の国にはない優位性があったから。 ヨーロッパとアジアが廃墟と化した一方,アメリカの工場は海に守られ,無傷のまま残っていた。 つまり,アメリカは事実上製造業を独占しており,世界はアメリカを切実に必要としていた。 1948年〜1952年にかけて,マーシャルプランの下,西欧諸国に136億ドル以上を債権のために提供した。 これは私たちアメリカにとって大きな利益となった。なぜなら,彼らヨーロッパはその資金を使ってアメリカの製品を購入し,その資金はアメリカへ還流したからだ。アメリカでは製造業が活況を呈していた。鉄工,自動車,化学製品,家電製品の生産は過去最高を記録し,アメリカ人の雇用を創出した。
そして1950年代初頭には全雇用の1/4が製造業だった。 そしてこの頃一人の収入で家と車,家族の休暇を賄うことができた。この戦後時代は多くの人がアメリカが偉大だった時代として振り返る時代だ。しかしアメリカが落ち着きを取り戻し始めると同時に,他の国々は経済を再興し追いつき始めていた。 そして,私たちはかつてないほどの競争に直面することになった。
▼ 競争の当来
これはアメリカが偉大さの頂点に立つ物語のポイント。 しかし,我々が努力とスキルだけで,ここまで来たのではないことは否定できない。アメリカには,他のどの国も経験したことのないほどの幸運が絡んでいた。第一に国を突き上げるための天然資源が豊富にあった。第二に世界大戦中,近くに敵がいなかった。 そして,第三に2つの巨大な海が我々を守ってくれた。ナンバーワンになるのはとても簡単。競争相手がおらず,他の全ての国が爆撃されている時でも自由市場が開かれる。
しかし競争が始まり始めると,我々は自分が思っていたほど優れていないことに気づき始めた。 1960年代までにはドイツと日本は工場を再建した。 競争がアメリカの製造業に混乱を招き始めた。 最も大きな混乱の原因の1つは手頃な価格,燃費,小型,風変わりな外観により,1960年にトップの輸入者となったドイツのフォルクスワーゲンビートルだった。そして1970年代初めまでにアメリカ車の魅力は大幅に低下し始めた。 1973年にOPECがイスラエルを支援しているとして,アメリカへの禁輸のためガソリン価格が4倍になった。価格がそこまで上がったらどうするか?もっと燃費の良い車を探すことになる。アメリカ車は見た目は良いものの,燃費はよくなかった。1973年型のフォードLTDは1ガロンあたり1300万マイルしか走らなかったのに対し,1973年型の日本製ホンダ・シビックは1ガロンあたり3000万マイル以上走れた。アメリカが小型車の製造で競争しようとした時,その車はひどいものになった。 オードピントの爆発など,安全上の問題も数多くあった。 そして1980年までにアメリカにおける日本の自動車シェアは18%になった。そして,日本人は精度と品質に重点を置き,私たちの製品よりもはるかに優れた製品を作った。例えば,ソニーはアメリカ製のテレビよりも安く,軽く鮮明なテレビを製造した。そして,1970年代半ばにはアジア製のテレビがアメリカ市場の30%を占めるまでになった。
そして,最大の警告サインが現れた。第二次世界大戦中アメリカは貿易黒字つまり輸出が輸入を上回っていた。 しかし,1970年代後半には貿易赤字つまり輸入が輸出を上回っていた。 アメリカが外国との競争に破れ始めたまさにその時,見えない力がそれをさらに混乱させた。
▼ 万能ドルの呪い
1970年代後半にはアメリカ経済は破綻し,スタグフレーションと呼ばれる状況に陥った。これは経済成長の鈍化,高低失業率,そして高インフレを意味した。70年代にはインフレ率が10%を超えたことが何度もあった。これに対抗するため,連邦準備制度理事会FRB議長のポール・バルカはインフレの戦いを宣言し,金利を過去最高の20%に引き上げた。これはバルカーショックと呼ばれた。景気交代後,インフレ率は確かに低下した。 しかし,それは意図せぬ結果を伴った。ドルが魅力的な外国投資先となった。米ドルは資金を預ける最も安全な場所と見なされた。 そして,同時にロナルド・レーガン大統領は減税と国防費の増額に注力し,その結果,連邦政府は赤字を計上し,収入を上回る資質を余儀なくされた。 この差額を補うために,政府は債権の発行を増やし,米ドルへの外国投資を促した。実際,レーガン政権下では国家債務はほぼ3倍に増加した。米ドルへの魅力が高まり,米ドルの価値は急上昇した。1980年から1985年にかけて,米ドルの価値は50%上昇した。 これは製造業にとって大きな問題だった。なぜなら,それは基本的にアメリカの輸出品全てが50%も高騰したことを意味したからだ。 アメリカは市場から締め出され,競争するにはコストがかかりすぎていた。
1985年フランス西ドイツ/日本/イギリス/アメリカが米ドルを切り下げるプラザ合意に署名した時,私たちはこれに対抗しようとした。 しかし,この時点ではすでに手遅れだった。 工場は閉鎖され,製造業は衰退した。しかし,同時にビジネスリーダーたちは優先順位を変え始めていた。 利益追求のために自社の従業員に背を向け始めていたのだ。
▼ アメリカ人vsアメリカ人
何十年もの間,アメリカ企業は株主だけでなく従業員,顧客,そして地域社会に対しても責任があると認識していた。 しかし,1980年代までに全てが変わり,アメリカは自らに背を向け始めた。 ミルトン・フレリードマンという人物が70年代に書いた有名な記事から,彼は「企業の社会的責任は利益を増やすことだ」と述べた。 そして,従業員は投資すべきパートナーではなく,削減すべき高価な労働力と見なされるようになった。そして,この考えを真に実践した人物がゼネラル・エレクトリック社のCEOだったジャック・ウェルチ(Jack Welch)。ウェルチはフレリードマンの考えを極端に押し進め,従業員の削減,工場の閉鎖,そしてより安価な国への労働力のアウトソーシングを開始した。彼は後にニュートロン・ジャック(Neutron Jack)として知られるようになった。まるで中性子爆弾のように建物を倒したまま人々を消し去ったのだ。これはアメリカの労働者に打撃を与えたが,株主には喜ばれた。GE社の株価は急騰し,最終的に彼はFortune誌の「1999年の世紀の経営者」に選ばれた。 そして時が経つにつれ,他の企業もこのモデルに習った。ナイキは中国に,IBMはアジアに,WirlPoolはメキシコに製造拠点を移動。 そしてCEOたちは裕福になった。1965年には平均的なCEOの収入は従業員の20倍だったが,1980年代後半には65倍になった。不平等は拡大し,中流階級は取り残され,アメリカ人は利益の名のもに自国のアメリカ人を裏切るようになり,そして同時にワシントンはさらに大きな扉を開いた。
▼ アメリカ大陸連合
さて,皆さんはNAFTAについてご存じでしょう。これはメキシ,コカナダ,アメリカ合衆国との自由貿易を認め,ビル・クリントンによって署名され,法律として成立した。そして,基本的にアメリカ企業はより安価な労働力を求めて工場を南に移転させたのだ。 単純な話に思えるかもしれないが,このテーマはもっと奥深い話なので,独立した章で話す価値があると思う。
NAFTA成立はクリントン大統領就任からわずか11ヶ月,つまりNAFTAはクリントンのアイデアではなかったと言っても過言ではない。 北米における自由貿易のアイデアは自由貿易の最大の支持者のドナルド・レーガン大統領から始まった。「カナダ,メキシコ,アメリカ合衆国の緊密な関係が深まるにつれ,北米協定は各国の潜在能力の実現を可能にするだろう」とレーガンが言う通り,北米における自由貿易を望んでいたのはレーガン大統領だった。そして,その第一歩として,1988年にカナダ米国自由貿易協定が締結された。この協定により,カナダとアメリカが国間の関税の大部分が撤廃され,NAFTAの基盤が築かれた。しかし,当時クリントンの任期は終了間際だった。しかし,ここでジョージ・W.ブッシュ副大統領が介入した。
1990年ブッシュ大統領はメキシコの貿易交渉のため,メキシコ大統領カルロス・サリナスをワシントンに招いた。その後,カナダ首相が交渉に参加し,1992年12月17日に合意に達したが,議会の承認を待つしかなかった。しかし,ブッシュ大統領は再選を逃したため,この協定に署名し法制化することはなかった。 しかし,1992年の大統領選挙で無所属候補のロス・ペラウ氏はNAFTAが成立したらどうなるかをアメリカに警告した。 彼はこう言った。 「南へJ字路が進むだろう」。 もし国民が彼を選ばなかったらどうなるか? 代わりにビルクリントン氏が勝利した。クリントン氏は民主党員だったが,より穏健でビジネス寄りの新興民主党員だった。 就任から11ヶ月後議会の承認を得てNAFTAは成立した。 彼自身の政党は労働者階級への裏切りだと避難していたが,実際下院民主党議員の60%,上院民主党議員の50%以上が反対票を投じた。こうしてNAFTAが誕生した。
そして,まもなく多くの企業が工場を国境の南に移転するにつれ,あの巨大な吸い込み音が聞こえてきた。 何百万ものアメリカの製造業の雇用が失われたが,地球の反対側ではさらに安い労働力を提供する別の国がアメリカ企業を誘惑していた。
▼ 中国のノックアウトパンチ
この時点でアメリカの製造業は痛手を受けている。血まみれになり,弱体化し軽じて立っている状態のアメリカに,中国がノックアウトパンチを繰り出す。しかし,それがどのように起こるのかを理解するには50年前に戻る必要がある。 当時,中国は貧しく孤立し停滞していた。 しかし,1978年鄧小平の指導の下,変わり始めた。 鄧小平は中国を改革し,世界に中国を解放しようとした。 そして,外国投資を歓迎し,減税と規制緩和を提供する特別経済区を作った。基本的に,これらの都市は様々な製造業に特化した都市だった。 例えば深圳(Shenzhen)は電子機器を,西安(Wenzhou)はアパレルや家具を製造していた。 中国がこれらの製造都市を建設し始めると,利益だけを追求するアメリカの企業は,その安価な労働力と極めて早い生産速度に引かれ,NAFTAとの取引を断念せざるを得なくなった。
そして,2000年,ビルクリントンは中国との恒久的な貿易関係を求めて議会にロビー活動を開始した。 彼は中国との取引により中国のWTO加盟が認められると信じた。しかし,この法案が可決された時,彼の同僚,政党は彼の意見にあまり賛同せず,下院民主党議員の65%が反対票を投じた。 しかし,上院は超党派で反対票はわずか19%だった。 そして,2000年10月10日にクリントンによって法案が成立し,中国は約1年後にWTOに加盟した。これが決定打となった。経済学者の推定によると,中国との貿易によって300万人以上のアメリカ人の雇用が失われ,そのほとんどは製造業だった。
▼ サービス経済へようこそ
1950年代には雇用の33%が製造業だった。しかし,2025年にはその数字はわずか8%。その代わりに何が生まれたのか? 今日では工場に出勤する代わりにより多くのアメリカ人がウォルマートやスターバックスでUberしたり,ギグアプリにログインしたりしている。私たちはサービス経済に生きており,サービス業の仕事は製造業の仕事のように強力な中流階級を生み出さない。 工場で働き安定した生活を送る代わりに,ほとんどのアメリカ人は低賃金で福利厚生もなく,安定性もほとんどないサービス業についている。 そしてGDPは成長し続けるが,多くのアメリカ人はかつてないほど生産性が高くなっているにもかわらず,賃金がそれに追いついていないと感じている。 アメリカは世界の工場からサービス経済へと移行し,中流研究は取り残された。
▼ アメリカはどこへ向かうのか?
それでは,このビデオを締めくくりましょう。 私たちはこれからどこへ向かうのか? 素晴らしい物語だった。長くなるかもしれないが,このビデオのあらゆるディテールがこの物語を理解する上で非常に重要だったと思う。私たちアメリカは世界の工場としてスタートしたが,時と共に競争に追い抜かれ,文化によって形を変え,政策によって破滅させられた。そこで問題はこの膨大な情報をどう活用するかということだ。これらの歴史ビデオエッセイを制作する中で,私が個人的に学んだことが1つあるとすれば,現実の物語は平均的な政治家が私たちに信じ込ませようとしているよりも常に複雑だということ。ちなみに,私は経済学者でも歴史家でもない。ただ,ある意味とんでもない冒険に出たYouTuberであり,そこで学んだことを皆さんにお伝えしている。いつものようにこのビデオを制作する中では,私が個人的に学んだ3つの教訓で締めくくりたいと思う。
1つ目は「アメリカ人がアメリカの製造業を殺した」ということ。 このテーマに関するよくある議論を見ると,アメリカの製造業が消滅したのはメキシコのせいだ,中国のせいだと言いたがる。 しかし,この物語から私が学んだのは,実際には内部犯行だったということ。アメリカの製造業を本当に滅ぼしたのはアメリカの政策,アメリカの強欲,アメリカの利己主義だった。アメリカ人たちは他国を責めたがるが,真実は私たち自身に原因がある。
2つ目に「団結したアメリカは分裂したアメリカより常に強い」。この話を見れば私たちを本当に滅ぼしたのは外国との競争だけでなく,私たちが互いに敵対し始めた時だった。製造業が最盛期だった戦争中,アメリカ人は共通の目的のために協力していたが,団結が分裂にとって変わられると基盤が崩れ始めた。 これは工場だけの話ではなく,私たちの文化の話にも通じる。アメリカをもっと強くしたいなら,団結したアメリカは分裂したアメリカよりもはかに強いことを思い出すことから始めるべき。
そして,最後に「アメリカ人であることは依然として特権である」。YouTuberになる前,私はフェアコレのボランティアとしてエクドルで2年間英語を教えていた。 エクアドルは素晴らしい人々が住む美しい国。しかし,その2年間は大変な経験だった。一度も安全だと感じたことがなかった。多くの人々が苦しんでいるのを見て,生活の質が低いとはどういうことかを学んだ。そして,この経験を通して,本当に物事を客観的に見ることができた。私たちがここでどれほど多くのことを当たり前だと思っているかが分かった。安全安定,そして機会がある。 常にそう感じられるわけではないが,主流メディアは「世界のほとんどの国と比べて,アメリカは衰退している」とよく伝えるが,それでも私たちアメリカは信じられないほど恵まれている。もし私の言うことを信じられないなら,飛行機に乗ってもっと恵まれない場所に行ってみてほしい。そこで1日過ごせばアメリカは完璧ではないけれど,アメリカ人であることは依然として特権であることにすぐに気づくはず。ご視聴いただき,本当にありがとうございました。
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