薬師寺泰蔵『テクノヘゲモニー−国は技術で興り滅びる』〜大英帝国凋落の時代を考える
1989
■テクノヘゲモニー(技術覇権)
ビデオ・半導体の世界的シェアの独占から,日本の技術覇権を云々する説
は多いが,はたして本当か。東芝ココム事件のような国家安全保障と結び
つく国際技術摩擦は,どんな世界秩序の枠組で提えたらよいのか。一昔前
の武力・領土的発想や,最近の通商国家論の如き経済視点ではなく,本書
は「国家は技術によってヘゲモニー(覇権)をかち取り,技術によって失う」という観点から大国の興亡を読み直し,日本の今後の進むべき方向を示唆する。…
■大英帝国ヘゲモンの二つの要件
第二次大戦後の自由主義陣営に類まれなる産業力を誇る米国が君臨したように,ナポレオン戦後の国際システムを戦勝国英国が支配した。よく知られたパックス・ブリタニカがここに列来したのであるしかし,ヘゲモン (覇権国)と呼んだのは後世の学者であって,英国が「俺はヘゲモンである」と言ったのではない。 いうなれば,英国は自らの覇を目指したのではないし,もとより当時の世界システムがそれを求めたのではなかった。英国が開放経済体制に移行したのはまったく偶然であり,それは単に国家が経済開放を要求する国内勢力に屈したからであった。ともあれ,英国はナポレオン戦争下の財政窮乏のために所得税を導入し,さらに戦時関税入した。当時の英国は他の列強と同じように孤立主義をとっていたから,1651年の航海条例を強化し,序章で述べたような繊維機械や工作機械の禁輪や技師の痛および外国への移民の禁を行っていた。さらに1815年には,英国農産物よりも安い物の輸入を禁止したコーン・ロー(穀物法)を制定し,内国主義の国家体制を着々と進めていた。ところが,元敵国のフランスはすでに開放経済体制に移行しつつあった。それはフランスの国家財政が関税収入にあまり依存しなかったからである。英国の関税収入依存度は50%を切ることができず,開放体制に入るのを思い出していただきたい。 16世紀のポルトガルの国家財政は,リスボン商人からの関税収入であったし,エリザベスの財政は,私掠船からの物的関税収入であった。つまり,16世紀からこの頃まで,国家の主要な収入源は関税であったのである。コーン・ローは,ナポレオン戦争後,それまで戦時物資として高騰を続けていた穀物価格が戦争終結により暴落したため,地主の多い議会が制定したものである。しかし,商工業者は,穀物価格が再度上がると,労働者の賃金を上げなければならなくなるため,徹底的に反対をした。この反対派は,いわゆる当時のココム審査官であった貿易委員会総裁のハスキッソンやジョン・ブライトらの政治家に指導され,政府に圧力をかけた。とりわけ,キャラコ捺染業で財をなしたリチャード・コブデンが最も急先鋒であった。ついに政府は,1846年にコーン・ロー,三年後には航海条例の廃止を決めた。有名な『英国衰退論』を著したA・ギャンブルも指摘するように,英国はここで安上がりの選択を行ったのである。つまり,植民地に基礎を置くアウタルキー(自給自足)的保護貿易を行うには,植民地統治と諸外国との接触のコストがかかる。これに反し,世界市場を相手にする自由貿易はそのコストがまったくかからない。ところで,自由貿易には当然, 英国製品の優越性が前提になければならない。それは,ナポレオンが保証してくれた。実際,英国人は,パックス・ブリタニカの到来に関して,ナポレオンに感謝しなければならない。とりわけ,ナポレオンの大陸封鎖令に感謝しなければならない。なぜなら,この大陸封鎖令によって,世界の人々にとって英国製品は毎日の生活に欠くべからざるものであることが判明し,世界市場を前提に組み立てられた自由貿易主義を採用しても問題ないこと,実証的にも確かめられたからである。
いずれにしても英国は,最も安上がりな選択を行った。この国家の選択は1860年に対外政策として明確に現れてきた。つまり,この年にフランスと有名なコブデン・シュバリエ条約を結び,輸入フランス・ワインの関税を激減させ,一方フランスの対英国製品輸入関税25%は据置いた。これで英国のヘゲモンとしての要件は整った。その要件とは,一つはヘゲモン(英国)の指導力に従う主要国(フォロアー,つまりフランス)が在すること。いま一つはフォローする国には非対称性(英仏の関税率の差)を認めるということ
である。 序章で触れた第二のヘゲモニー,つまり相対的意味を持つへゲモニーは,このような二つの要件をその構造に持っている。しかし,皮肉なことに,歴史的に孤立主義のイメージを強く持つ英国の対外評価はさして改善されず,開放体制に移行しても通商条約を結ぼうとする国家の数は多くなかった。一方,大陸国家であるフランスは持ち前の外交力によって多くの国を集め関税条約を結び,結果的には英国ドクトリンの遂行に著しい貢献をなした。英国はナポレオン戦争から第一次世界大戦までの百年間の通商秩序に対して,ヘゲモンとしてどうやら生きながらえた。しかし,それは英国独自の力でから取ったヘゲモニーではなく,フォロアーに支えられた,いわば「君主型コンソーシウム(組合)」の世界だったともいえる。言うなれば,英国は「気がついてみたらヘゲモン」だったのである。…
■ヘゲモン英国のほころび
右で議論した自由貿易の選択のためには,それに違反する私掠船を英国海軍力で完全に阻止できるという自信と,自由貿易ルールを破る全ての国に対して海上武力行使を徹底的に行うということを示しておかなければならなかった。 しかし,英国のシーパワーには決定的な不完全さが残っていた。このことについて簡単に触れておこう。ショ英国は,ウェリントン将軍というアングロ・サクソン人としては傑出した陸軍人を得て,リア半島をどうやら恋守した。 しかし,それはスペイン・ゲリラ(小さな戦争という意味)に…
■大英帝国凋落の兆し
こうして大西洋,地中海のシーパワーは確保したが,太平洋だけはほころびがあった。まずアメリカが,フロンティアの西の延長として太平洋に出てきた。米海軍は捕鯨船の補給地を確保するためという名目で西進した。 ペリー提督の日本寄港は,このような脈絡で行われたのである。英国のシーパワーは卓越していたが,太平洋海域だけは完全でなかった。その意味で,英国は,第一の意味(武力的絶対覇権)でヘゲモンではなかった。英国のヘゲモニーは明らかに相対的で,かつ名目的であった。このことは,次に述べるように英国のアキレス腱となって,衰退を促す結果となった。
安上がりの選択を行った英国の自由貿易主義者は,他方で想像以上のコストを払わなければならなくなってきた。パックス・ブリタニカの構造的欠陥がそろそろ現れてきたのである。『帝国の生涯』という書物を著したG・リシュカによると,英国の凋落は,帝国統治のマネージメントから始まったという。彼は,ローマ帝国と大英帝国の比較からパックス・アメリカーナの
構造的特徴を明らかにしようとした。しかし,ローマと米国の比較よりも,ローマと英国の比較の部分の方が興味深い。リシュカは帝国というものは,ローマ帝国の東西分離のように,主要植統権を与えてしまった結果,そこから構造的な凋落の兆しが始まると主張している。英国の場合,その第一の兆しはアフガニスタン,インド,そしてアフリカの反乱運動から始まった。とりわけ,南アフリカのオランダ系植民地人であるボーア人の反乱軍は執拗で,英国が45万の軍隊を派遣しても容易に降伏しなかった。19世紀から今世紀の初めにかけて,英国が南アフリカの金鉱とダイアモンド鉱を確保するために行ったボーア戦争に払ったコストは莫大なものであった。なぜなら,1801年に連合王国となったわりには,その支社メンバーであるカナダやオーストラリアが「連合」して,本社帝国である英国の戦争に援助しなくなったからである。 リシュカのいう分権統治の構造的欠陥が現れたのである。これを「版図のツケ」と呼ぼう。リシュカのいう通り,帝国は小さな戦争が長引くことによって没落を開始するのである。これは自由貿易主義者の考えの最も脆弱な部分であった。なぜなら,彼らは,強大な版図統治のマネージメント・コストを節約するために,植民地を保護せず,世界市場を選択すべしと主張したからである。しかし,実はまったく反対であった。植民地を見捨てたコーン・ローや航海条例廃止の反動として,植民地は本国を見捨てた。自分たちは自分たちで生きなければならないからである。このため,大英帝国が払うコストは,自由貿易体制のゆえに増大する結果になった。
これを自由貿易主義の第一の構造的欠陥とすれば,第二の構造的欠陥は,もともと曖除な自由主義体制そのものにある。言いかえれば,英国は,個々のルール違反者に対して適切なえないという「安上がり」の選択を行ったがゆえに,多くのルール違反者が出てきた。そのなかでも,かつての戦争相手国アメリカの違反は深刻であった。19世紀の後半,ヨーロッパは未曾有の不況に見舞われた。それは,欧州の自由経済圏のメンバーでない米国とロシアから安い小麦がどっと流入したからであった。英国の安直な選択のツケが現れてきたのである。
対抗上,英独仏三国は,米農産物の関税率を上げた。ここで注意すべきことは,これらの国々は,開放経済体制をいとも簡単に放棄し,保護主義に走ったのではないということである。むしろ,これらの国々は,国内の保護主義勢力を抑えるために関税率をいじることによって政治的処理を図ろうとした。しかし,関税率をいったんいじり始めると,各国とも協調のバランスが崩れ,それぞれ自国のエゴが前面に出るようになった。そして1781年,悲願の国家統一を成し遂げたドイツが,1879年に統一関税法を施行し,これに応えるようにフランスも1892年,メリーヌ関税法を制定した。このように,ほぼ60年近くの長きにわたって秩序だった開放経済体制を維持したヨーロピアン・レジームは,その体制外にいた米国とロシアの小麦輸出という通商エゴによって脆くも崩れ去った。
このような状況を見て,『英国衰退論』の著者ギャンブルはなかなか面白い指摘を行っている。「国の衰退のは,二度の大戦でアメリカとではなくドイツと戦ったことにある」と。さらに彼は,英国の対独戦のやり方が,途中で和戦するというようなことはせずに,徹底的に潰すまで戦うという戦法であったため,自らも疲弊してしまったと言う。その結果,本来の抗争相手国であったアメリカの援助を受けるハメになった。この,やや反米的とも見られるギャンブルの考えは,なかなか当を得ている。独立戦争,奴隷貿易禁止令,米英戦争, 小麦の無秩序な輸出行為,どれをとっても英国とアメリカはお世辞にも
仲の良い国同士ではなかった。米英戦争では,英国遠征軍は,首都ワシントンを焼き払ったほどである。米英の近親憎悪は想像を絶する。
われわれ日本人は,米英は歴史的に民族や言語を同じくするので,その「特別な関係」は疑いの余地がないと思いがちである。ここに常識の盲点がある。同じドイツ語を話すプロイセンとオストリアは仲が悪かったし,第一,ゲルマン民族は長らく部族間戦争を繰り返していた。戦争は異民族間で起こるのではなく,すぐれて,国際政治のダイナミズムから生じるものである。
このように考えると,仮想敵国とまではいかなくても,ことごとく反目していた米国を味方にナポレオン戦争では何回ともなく同盟を結んだドイツを敵にまわすという英国の選択は,国際政治史からいっても理解しがたい。それはなぜであろうか? それは,多分,英国に異常なシーパワー脅威妄想症があったからではなかろうか。ドイツは海軍力を増強し,フランスのレベルに達した。一方,英国のシーパワーは,太平洋海域に不完全さが残るため,アメリカの海軍力を完全に叩くことが出来なかった。そこで,シーパワーのないド
イツを叩いた方が楽だと考えたのではなかろうか。その方が明らかに 「安上がり」には違いなかった。
■技術のこぼれ落ちと通商国家
英国は産業革命をどの国よりも早く成し遂げた。それは綿繊維産業の機械化と蒸気機関の開発によって可能となった。 ナポレオンによる英国製品ボイコットのおかげで,英国の工業製品は世界中で売れ,原料は世界中から調達可能であった。このような英国の急速な通商国家としての台頭は,ある特殊な技術を英国が完成したから出来たといって過言ではない。その特殊な技術とは「複製技術」 (Clone Technology) とも呼ぶべき民生用の生産技術である。すでに述べたように,石炭の導入は工業製品の薄利多売を促した。もう少し格好よく言えば,規模の経済を実現したのである。つまり,「同じ物」を「もっと安く」作るということが要求され,英国の技術者はこれに応えることが出来た。同じ物を作る技術は,今でこそ何でもない技術であるが,当時は大変なハイテク技術であった。品質管理技術のない時代である。同じ機械を使っても同じものは出来ない。歩留りも悪い。そこで英国人は産業機械の精度を上げ,工作機械技術を開発した。つまり,複製技術を完成したのだ。理論的には,複製技術は 「copyable」 (模倣可能) である。 しかし,基礎機械技術のないところでたやすくコピー出来るほど話は簡単でない。旋盤技術,鍛造技術, 切削技術など,どれ一つとっても高度な職人芸を必要とした。 コピーするにはこの職人を連れてくる以外にない。そこで,序章で述べたような19世紀のココム事件が起こったのである。
ユグノーの技術移民を調べたW・スコービルによれば,技術移転は二つの形をとるという。一つは,図面の取得や留学によって知識そのものを獲得して行うやり方で,もう一つは技術移民によるものである。とりわけ,高度技術は後者以外にないと彼はいう。実際,英国の複製技術は,主に後者によって伝播していった。複製技術であるがゆえに,英国は世界市場を相手とする自由貿易主義を選択した。いうなれば,通商国家はこのような複製技術がなければ成り立たない。 しかし,一方,まさに複製技術であるがゆえに,通商国家は凋落する。つまり英国のヘゲモニーは揺らぎ始めたのである。それは,英
国製品と同等かそれ以上のものが, この copyableな複製技術によって作られることから始まる。ここに「技術のこぼれ落ち」問題があるのである。へゲモニーの二つの要件のうち,非対称性原理が,この技術のこぼれ落ちを促進した。非対称原理というのは,ヘゲモンである英国は市場を開放するが,フォロアーの国は国内市場を保護してよい,というものである。英国製品が圧倒的に優勢であった時代には,この原理はうまく機能した。相手の弱味(つまり,自国の市場の閉鎖性)につけこんでフォロアーとして従属させ,国際システムのマネージメント・コストを節約出来た。ところが,その製品は複製技術に根ざしていたので,この複製技術を他の国が習得した暁には,英国のヘゲモニーはその根底からひっくり返されてしまう可能性がある。そのような国が現れたのである。ドイツである。もともと農業国であったドイツは,またたく間に複製技術を習得し,アメリカからの小麦輸入問題にかこつけて,関税同盟を国内で結び,英国製品を排斥した。同時に,国内特許法を決め,改良複製技術を門外不出とした。英国は,当然このドイツの台頭を恐れ,非難した。この辺の事情は,次章以下で詳しく述べる。…
tgghhhwdg pc
0 件のコメント:
コメントを投稿