Ghost road....
Johnny Roads Topics
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(要約)
Johnny Roads: アメリカ・ハイウェイ夜話〜ルート58…消えゆく軍用線
2026.7
Johnny Roads
■ ルート58
このハイウェイを誰がいつなぜ建設したのか…それは誰にも確かなことは言えない。この道はGoogleマップ上では走行可能なルートとして表示されない。州運輸局の指定も氷の維持管理契約もなく,公的な記録にも建設の履歴は見当たらない。衛星画像で両都市の間にある砂漠を見てみればその姿を確認できるはずだ。まるで,誰かが風景の上に定規を置いてここに道を作れと言ったかのように,大地に直線に刻まれた白っぽい傷跡が残っている。その周囲の道に目を向けると,砂漠の床を縦横に走る未舗装の轍や土地管理局のルート,古い鉱山道路,高速用の小道などがある。それらはどれも曲がりくねっている。どの道も地形に合わせて低い場所を探し,谷の底をなぞり砂が柔らかい場所は避けるように作られている。それがむしろ普通だ。水や野生動物が作った道のように見えるが,実際その通りだからだ。タイヤや足跡によって長い時間をかけて形成された抵抗の少ない道なのだ。
ルート58(Old Highway 58 )…この謎のハイウェイを見てみよう。この道はそうした全てを無視している。地図の上に引かれた線のように風景には目もくれず,彼側や尾根を切り開き,アルカリ性の平地や柔らかい砂地を突き抜けていく。上空から見るとその対比は驚くほどだ。他の何者とも異なる人工的な設計。モハベ砂漠の他の未舗装路は全て人や動物水が砂漠を移動するように低地を曲がりくねり,抵抗の少ない道を選んでいる。しかし,この道は違う。バーストウ(Barstow )からパームデール(Palmdale)に至る50マイルものモハベ砂漠を1本の直線に整地する権限と機材資金を持ちながら,何の記録も残さずに痕跡を消したという疑問は,アメリカ西部に残る奇妙な謎の一つだ。
ルート58はカリフォルニア州ヒンクリー(Hinkley)の町外れから始まる。ヒンクリーはエリン・ブロコビッチ(Erin Brockovich)が暴露記事で有名にした場所だ。パシフィックガス&エレクトリック社が六価クロムで地下水を汚染したことで知られる町だ。西モハベの標高約2100フィートに位置し,平坦で乾燥した熱い場所だ。どの方向を見渡しても20マイル先まで見通せる。目にするもののほとんどが何もないという景観だ。ルート58はヒンクリーから南西へと続く。出発地点でコンパスを手にすればお分かりだが,南西の方角は道の全行程に渡ってほぼ完璧に保たれており,だいたい南西といった曖昧なものではない。50マイル近い道のりにおいて,そのラインのズレはわずか数分の1度という精度なのだ。なぜ,それが奇妙なのかを理解するには,バーストウ(Barstow )からパームデール(Palmdale)の間に何があるのかを知る必要がある。ここは平坦な砂漠ではない。西モハベ砂漠は遠目には平らに見える。海が平らに見えるのと似ているが,実際には浅い盆地や低山で構成されている。冬の嵐で予測不能な鉄砲水が起こる。枯れ枝は散乱し,そしてトラックの車軸を飲み込むほど深い砂地が広がっている。この2つの都市の間には集落も,信頼できる水源も,ガソリンスタンドも,携帯の電波もない。夏の気温は頻繁に華氏110°F/摂氏43℃を超える。冬の夜は氷点下まで下がることがある。年間降水量は5in/127mm未満だ。しかし,降る時は一度に全てが降り注ぐ。一度の雷雨で20分間に1インチの雨が降り,枯れ側を深さ6ft/1.8mの茶色い水の壁に変えてしまうこともある。土壌は緩くアルカリ性だ。植生はクレオソード,ブッシュ,ジョシュ,アツリー,バローブッシュで,それらは互いに十分な間隔で生えているため,その間の地面が見える。地面はむき出しでひび割れ,古い骨のような色をしている。
■ ミステリーロード
砂漠を横断するにつれて標高も変化する。バーストウの標高は約2200ft/約670mで,パームデールを繋ぐ砂漠の高低差は1000ft/約300mほどの範囲がある。そこに道路を建設しようとすると,その数字以上の困難が立ちはだかる。この風景の中に道路を建設すること自体はそれほど珍しいことではない。人々は何世紀にも渡っても砂漠を横断してきた。最初は徒歩で,次に馬で,そして自動車で。異常なのは,何故これほどまっすぐな道を作るかだ。なぜならまっすぐ作るにはコストがかかるからだ。地形に沿った道路の方が建設費用は安く済む。川の中を通るのではなく,迂回すれば良いのだ。尾根を越えるのではなく,横を通り抜けるのだ。完全にまっすぐな道を作るということは,行く手にあるすべての障害物を切り開いていくことを意味する。重機が必要になる。人里離れた場所に軽油を運搬しなければならない。あらかじめ路線を測量し,杭打ちを行う技術者も必要だ。起伏の激しい砂漠で50マイル/約80kmを目測だけで弾くことはできないからだ。これは偶然ではない。誰かが計画したことだが,その人物はほとんど痕跡を残していない。その道路にはいくつかの名称が付けられていだが,それらは何も教えてはくれない。特定の区間には「土地管理局 IM-4800」という看板を設置している。これはDLMの路線番号だ。犬という接頭辞は通常DLMカリフォルニア砂漠地区(DLM California Desert District )における補修用または調査用のルートを指すが,その指定は行政上のものに過ぎず,歴史的な意味はない。それはBLMがその道路の存在を把握していることを示すだけだ。誰によってどのような権限の下で建設されたのかは教えてくれない。それはお役所が訊かれて肩をすくめるような対応そのものなのだ。Googleマップでは,ルート58の南西端にはシルバーマウンテンロード(Silver Mountain Road )と記されているが,これは道路の存在,以前の歴史的文書には一切登場しない地名だ。
一方でルート58を実際に走る人たちがいる。主にオフロード愛好家や砂漠の歴史家,時にはロケハン中の映画関係者らだ。バーストウとパームデールを結ぶルート58は,一般的に「ミステリーロード」と呼ばれる。このニックネームが定着したのは,誰もその正体を突き止められなかったからだ。ルート58が地図上に確認できる最も古いものは1943年の米国地質調査書による地形図だ。1943年以前の地図には載っていない。この時期は明白な理由から興味深いものだ。当時,アメリカは第二次世界大戦の真っ只中にあり,モハベ砂漠はかつてない規模で,そしてその後も例を見ない規模で軍事利用されていた。しかし,1943年の地図に載っているからといって1943年に建設されたとは限らない。それは1943年にUSGS米国地質調査書の測量士が初めて地図に記載したということを意味する。道路はもっと古い可能性もあれば,できたばかりだった可能性もある。建設記録がなければ,その地図は単なる最も早い可能性のある日を示す基準点に過ぎない。しかもそれ自体が異例なのだ。連邦政府の地形図に乗るような道路のほとんどには記録が残っている。誰かが資金を提供したはずだ。誰かが増税を認可したはずだ。誰かが維持管理したはずだ。しかし,この道路はただ突如として現れるのだ。説は最も単純な可能性から始まり次第に広がりを見せていく。
人々がまず指摘するのは,この道が19世紀の古い幌馬車道であり,担当者や入植者がラバや徒歩でモハベ砂漠を横断していた時代の名残だという説だ。この説は10分も検討すれば否定される。モハベの幌馬車道は水場を辿っていた。泉から泉へ,井戸から井戸へとつながり,障害物を避け,重い身を引く動物にとって扱いやすい緩い傾斜の谷間を通っていたのだ。それらは狭く凸凹で1〜2マイル以上直線が続くことはほとんどなかった。しかし,バーストウ〜パームデールの道は幌馬,車道の特徴とは真逆の性質を持っている。水場を無視している。尾根を迂回するのではなく,乗り越えている。深い砂地を避けずに,突っ切り,アメリカ西部のどの幌馬車道よりも幅が広く,意図的に造成されている。ラバのチームが作った道ではない。キャタピラー社製の重機が作ったものだ。第二の説はこの道が連邦政府が19世紀の土地調査で米国全土に敷いた見えないグリッド…セクションラインに従っているというものだ。セクションラインは1マイル感覚で南北東西に走り,大平原の上空から飛行機の窓越しに見えるような四角いパッチワークを作り出している。西部の地方道の多くは測量によって通行権が確立されていたため,区画線に沿って建設された。しかし,バーストウ〜パームデール間の道路はその区画グリッドに従っていない。その道はグリッドを対角線上に横切り,東西南北の方角を完全に無視した角度で南西から北東へと走っている。区画線に沿った道路はそのようなことはしない。できない。区画線道路の目的は既存の境界線に従うことにあるからだ。
この謎の道路は既存の何物にも従っていない。それは自らの線を切り開いたのだ。3番目の説はより興味深く退けるのが難しいものだ。20世紀前半から半ばにかけて,電話会社はモハベ砂漠を横断する。長距離艦船を敷設。維持しロサンゼルスとソルトレイクシティなどの東方地点を結んだ。こうした幹線には嵐や風邪で電柱や電線が倒れた際に修理班が駆けつけられるようアクセス道路が必要だった。幹線保守道路であればいくつかの疑問が説明できる。電話線そのものが直線であるため,道路も直線であること。公道ではなく私道であったため,公的記録が存在しないこと。1930年代〜1940年代にかけて長距離電話のインフラが大幅に拡張されたという時期的な一致だ。この説の一つには,この道路は電話線の保守ルートとして建設されたが,後に技術革新によってマイクロ波中継塔や埋設ケーブルが登場し,古い電柱や架空線が時代遅れになったことで放棄されたというものがある。電話説を裏付ける最も強力な証拠は20世紀半ばのある時期,電話会社がこの道路の通行券沿いの土地の一部を所有していたという報告があることだ。しかし,問題がある。もし,この道路が電話幹線を維持するために建設されたのなら電柱があるはずだ。少なくとも電柱の跡や切り株,アンカーボルト,コンクリートの基礎あるいは何十年も電柱が立っていた場所の浅いくぼみといった証拠が残っているはずだ。実際にこの道を走行した人や衛星画像で調査した人なら誰でも,このルートのどこにも電柱や切り株あるいは何らかのユーティリティインフラの残骸がないことを証言する。50マイルに渡って一つもない。
もしこの道に沿って電話線がかけられていたのなら,それは物理的な痕跡を一切残さず完全に消え失せたことになる。不可能なことではない,砂漠の砂は時が経てばものを埋め尽くす。だが,これほどの長距離でそれが起こる可能性は極めて低いと言わざるを得ない。電力柱や電話柱は砂漠に100年残る痕跡を残すものだ。
■
そうした痕跡が全くないことは,電話説にとって大きな反証となり,そこで軍の存在が浮上してくる。1940年フランクリンルーズベルト大統領はモハベ砂漠の約1000平方マイルをモハベ対空射撃場(Mojave Anti-Aircraft Range )として指定した。これが後にフォート・アーウィン(Fort Irwin)となる施設だ。その演習場はバーストウの北東約37マイルの砂漠の奥深くに位置し,当初の常設施設は消防署,食堂,トイレしかないほど過酷な地形だった。1942年12月までに6万人以上の兵士が,この砂漠での実戦訓練のために駐留し,練習場は正式にキャンプアーウィン(Camp Irwin )と名付けられた。同時期,南西では1933年にミュロック(Muroc)のロジャーズ乾湖(Rogers Dry Lake)に設立されたブロック爆撃射撃場が急速に拡張され,国内で最も重要な軍事飛行試験施設へと変貌を遂げていた。1942年,このブロックは陸軍航空基地に正式に改称された。1943年には戦闘飛行隊の訓練やアメリカ初のジェット機の試験が行われ,爆撃機パイロットのスキップ爆撃の練習用に,ロジャース乾湖に,日本軍巡洋艦の実物大レプリカを建設するなど驚くべき試みがなされていた。35,000ドルを投じて作られたその軍艦レプリカは,角材と金網,鉄筋でできていて,全長は650フィートあった。1943年のモハベ砂漠では,軍がそのような巨大で高額な秘密の建造物を砂漠に築いており,詳細な記録が公認されないことも珍しくなかった。
一方,1942年にはジョージ・パットン将軍が砂漠訓練センターを設立した。モハベ砂漠とソノラ砂漠にまたがる18000平方マイルという史上最大の軍事演習場であり,北アフリカでの戦闘に備え,戦争を通じて100万人の兵士がここで交代訓練を受けた。この砂漠で起きていたことの規模は到底理解し難いものだった。わずか2年の間に米国本土48州で最も何もない土地が最も軍事化された地域の一つとなったのだ。至る所に道路が建設された。アクセス,道路,パトロール,道路,補給,道路そのほとんどが急増でまっすぐな道であり,あの謎の道路と同じような固く締め固められた路面に作り変えられた。そしてパームデール(Palmdale)という場所では,1940年民間航空局がパームデール陸軍飛行場(Palmdale Airfirld)を緊急着陸用滑走路として運用を開始した。戦時中ここはB25爆撃機の支援訓練に使用された。
この広大な軍事施設ネットワークの南西の端に位置していたバーストウは北東の端に位置し,軍用鉄道が砂漠を横切る重要な鉄道の結節点だった。街の経済は輸送と供給によって成り立っていた。海兵隊はバーストゥの近くに兵站基地を開設した。キャンプ・アーウィンは北の砂漠地帯に広がっていた。そしてミュロックは西へと拡張していった。1942年もしあなたが軍の平坦計画担当者で砂漠西部の地図を見ながら,バーストゥの鉄道終点とパームデール近郊の飛行場を結ぶ2つの拠点間で,人員や装備物資を最も早く輸送する方法を考えていたとしたら,あなたは迷わず直線を引くはずだ。まさにこの直線を引くことだろう。軍事理論は他の説では説明できない。この道路の謎のほとんどを解き明かしてくれた。直線の理由も説明がつく。軍の技術者は地形や水源測量グリッドに従う必要がなかったからだ。戦時下においては政治に係るコストよりも建設の速さと移動の速さが何よりも優先された。建設の時期についても説明がつく。1943年の地図に載っていることは,まさに戦時中の兵站道路として期待される出現時期と一致する。公的な記録がない理由もわかる。戦時中の軍事建設は機密扱いであるか,あるいは単に民間機関の行政手続きを通さなかったことが多いためだ。この道路がエドワーズ空軍基地−チャイナレーク海軍兵器基地−フォート・アーウィンにつながる制限空域内やその近くを通っているのは,まさにそれらの施設やその前進を支えるために建設されたからだ。
もう一つ軍事的な観点で言及すべきことがある。砂漠にある長くて完全にまっすぐな線は基準線(Calibration Functions )にも使われていた。レーダーの構成,さらには爆撃照準器の光学的な構成などだ。障害物のない平坦な風景の中にある50マイルの直線道路は航空機の計器にとって有益な基準線だったはずだ。これは推測に過ぎないが,道路の異常な直線性とその異常なまでの知名度の低さの両方を説明できる利用方法だ。構成用ラインも道路と同様にインフラだが,民間の書類が残るような性質のものではない。それは技術的な目的を果たすためのものだ。その目的が失われれば単なる地面の跡となり,なぜこの道路が放棄されたのかという理由にもなる。キャンプ・アーウィンは1944年に閉鎖された。
戦争が終わり,バーストゥ−フォート・アーウィン−パームデールを結ぶ最短経路の必要性は急速に消滅した。1956年に州間高速道路システムが承認されると,10年以内にモハベ砂漠のすべての主要軍事施設が高速道路で結ばれた。陸軍技術者が急造した50マイルの未舗装路はもはや何の役にも立たなくなった。誰も整備せず,必要とする人もいない。砂漠はゆっくりとこの道を飲み込み始めた。人々が関心を失ったものを砂漠が飲み込むようにこれが最も説得力のある説だが,それでもまだ仮説の域を出ない。軍の建設命令書も公平体のプロジェクトファイルも予算記録もこの道路の名に言及した。手紙さえも誰も見つけていないのだ。情報公開法に基づいて,国防総省や陸軍航平隊に請求を行った研究者たちも何も手にすることができなかった。土地管理局の記録には,この道路について軍事機関に通行券や地駅券を認めた記録は一切存在しない。物理的な世界には確かに存在したが,文書の世界には存在しないのだ。重機や燃料測量士,そして体制の建設作業員を擁した50マイルもの道路において,その記録の欠如は極めて異例だ。軍は多くのことで知られていだが,自らのインフラを把握し損ねることは通常ありえない。つまり,第二次世界大戦中にモハベ砂漠一帯に築かれた基地や演習場に関連して,軍によって建設された可能性が極めて高いにもかかわらず,それを証明する術がないのだ。証拠は状況証拠のみだ。書面による記録は皆無だ。道路はただそこにあり,朽ち果てていくばかりだ。
■ 温室の廃墟
しかし,この道を走って見つかる奇妙なものは道路そのものだけではない。道のほぼ中間地点最寄りの舗装道路までどの方向に進んでも15マイル以上ある広大な砂漠の中に2つの温室がある。今では廃墟となっている,金属の骨組み,砕け散ったガラスパネル…かつては囲われていた栽培スペースに砂が吹き込んでいる。その骨組みは趣味用ではなく産業用だ。裏庭にあるような小さな構造物ではない。今日でも衛星画像で確認できるほどの大きさで多くの人がその存在を知るきっかけもそれによるものだ。GoogleEarthで道路を辿っていて,砂漠に全く場違いな2つの大きい長方形が突然現れるのだ。そのうちの1つは土の堤防。つまり土を固めた低い壁で囲まれており,土木機械を使えるものが建設したのは明らかだ。堤防の高さは4フィートほどで温室を完全に囲んでいるため,道路や上空といった遠くからは温室が全く見えない。見えるのは砂漠にある低い円形の壁だけで,それ以外には何もない。当然の疑問として,なぜ誰がモハベ砂漠のど真ん中に水源からも何マイルも離れ,公式には存在しない道路沿いに温室を立て誰にも見られないよう壁で囲ったのか?明らかな答えは人に見られたくないものを栽培していたということだ。それが合法だったかどうかは物理的な証拠からは分かりないが,その堤防は多くのことを示唆している。これほど人里離れた場所に端子を気にせず,温室の周りにプライバシー用の壁を築くことはない。そして,ここで観察を行う可能性があるのは航空機だけだ。訓練や試験飛行で,この砂漠の上空を定期的に飛行する軍用機のことだ。誰かが多大な労力を費やして,これらの温室を空から隠そうとしていた。水の問題は実に不可解だ。モハベ砂漠のこの地域の年間降水量は5インチ未満である。調査地図には給水管も井戸も一切記されていない。井戸も泉も季節川も存在しない。温室で何かを育てるには水が不可欠だ。大量の水を継続的に供給する必要がある。誰かがトラックで水を運んでいたか,あるいは公的記録にない。水源がここにあるかのどちらかだ。どちらの答えも納得できるものではない。道の先にはハウゼ・プレイス(Hauze Place)と呼ばれる場所がある。言及しているわずかな資料の間でも綴りが統一されていない。ハウス・プレイスだったりハウスだったり,あるいは別の表記だったり,このこと自体がこの場所がいかに知られていないかを物語っている。固定資産台帳によるとハウス・プレイスは1960年代には私有地であり,その後少なくとも一度所有者が変わっている。しかし,それが何だったのか,何のための場所だったのか?なぜ,誰もが認めるような道路ではない場所に住居を構えたのかについては,記録には何も記されていない。いくつかのコンクリートの基礎と散乱したがれきが残っており,かつて誰かがここで暮らそうとした,あるいは何らかの目的でこの場所を使おうとして辞めてしまったという気配が漂っている。
■ 映画セット
道の南西端には最後にもう一つの奇妙な光景があるが,これは道の起源とはなんら関係がない。アンテロープ・バレーの郊外に近づくと,地形はパームデール北部のコーチの平原へと平らになり,道はハイビスタス集落を通る…集落と呼ぶにはあまりに小さすぎる場所だ。サンクチュアリ・アドバンチスト教会(Sanctuary Advantist Church )…ハリウッドがこの建物に鐘楼と漆喰の外観を与え,個性を吹き込んだのだ。1981年,デ・ニーロの映画のセットに使われた後,2003年クエンティン・タランティーノが映画『キル・ビル』でツーパインズ・ウェディングチャペル(Two Pines Wedding Chapel )として使用し,ここは,物語の始まりとなる虐殺の舞台となった。その際に木製のポーチが増築された。内部は完全に作り替えられ,それ以来,人々は歴史ある礼拝堂だと思って,砂漠の奥地まで車を走らせてやってくる。しかし,実際には20の映画セットで変装したコミュニティホールに過ぎないのだ。皮肉なことにそれは完璧かつ偶然の産物である。誰も説明できない。現実の道の果てに立つニセモノの教会である。どちらも世間には一つの顔を見せながら,その裏では全く別の何かを隠している。
■ 消失
少なくとも教会には記録された歴史がある。改築の経緯や映画の撮影記録所有者の変遷まで全てを辿ることができる。しかし,その道には何もない。この道は50マイルに渡る答えのない問いかけだ。そして。砂漠はその問いかけさえもゆっくりと消し去ろうとしている。道が崩れつつあるからだ。年代ごとの衛星画像を見ると,かつては明確に整地されていた区間が次第にかすれ,柔らかくなり,砂と低木に飲み込まれていく様子がわかる。場所によっては鉄砲水が道を横切り,完全に侵食して跡形もなく消し去っている。その一方で表面が硬く締まっていて完成した当時と変わらないほど走行可能な場所もある。砂漠の保存状態は,場所によって極端に異なるからだ。1943年のタイヤの跡がアルカリ性の平原に今も残るエリアがある一方で,そのわずか1マイル先では整地されたはずの路面が吹き寄せられた砂の下に消えている。アメリカ地質調査書USGSや大学のアーカイブで閲覧できる1940年代後半の歴史的航空写真を見ると,すでに一部の区間で道が消え始めており,当時すでに維持管理が放棄されていたことが伺える。1950年代になると,その劣化は空からでも見て取れるようになる。1960年代から70年代にかけて,その道は所々で幽霊のように半分消えかかった古い写真の像のようにあいまいになっていく。だが,別の区間では依然として明確にその形を止めている。80年もの間,風や雨や太陽に晒されながらも路面が維持されているのは偶然その場所の土壌がうまく固まったか,排水が道を横切らずに上手く流れていったからだ。この道は黒板に書かれた文章が田んぼごとにゆっくりと消されていくように部分的に消滅していく状態にある。現在,この道を走るには車高の高い車,できれば4輪駆動車が必要であり,そして不確実性を受け入れる心構えが求められる時折見かけるBLM土地管理局のルート標識以外道しるべは何もない。ルートのほとんどで携帯電話の電波は届かない。もし故障すれば徒歩になるが。
どの方向へ向かうにも,果てしない距離を歩かなければならない。路面の状況は1マイルごとに激しく変化する。ある区間は今も固く閉まっており,整地された当時と変わらず堅固だ,窓を開けて時速50マイルで走れば白い砂煙が何マイル先からでも見えるほど,後ろにたなびくかと思えば,別の区間では表面が柔らかく砂丘化しており,タイヤは沈み込み,トラックは減速し,燃料計のことが気になり始める。鉄砲水が道を横切って3フィートもの深さの溝を刻んでいる場所もあり,そこを降りて横断し,反対側を登る間,下回りで響く異音が一体何を意味しているのかを考えさせられる。この道を全線走破した人々はその体験を不気味だと言う。劇的な何かが起こるからではなく,絶対的な孤独感とそこに明らかに存在する光学的な道の組み合わせがそう感じさせるのだ。そこは誰かが本気で作り上げた道であり,人の意志を感じさせるものが,他に何もない風景の中を走っている。フェンスはなく,廃墟と化した温室以外に建物もなく,電線もなく他の道と合流したり分かれたりすることもない。ただ,道だけがまっすぐ地平線へ,そしてその先へと伸びている……
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