松井茂『イラク』〜1980年代イラン・イラク戦争の記録
松井茂『イラク』(中公文庫)
▼イラクのイラン侵攻期
イラン,イラクの両国の国境紛争は長い歴史を持ち1979年2月のイラン・イスラム革命以降も続いた。筆者がイラクに滞在した1980年春も,紛争が燃え広がっていた。やがてこれが「中東の覇権」を求めるイラクのフセイン大統領の野心と結び付き,1980年9月17日には両国の国境を定めたアルジェー協定の破棄,続く9月22日にはイラク軍のイラン領侵攻へとつながっていった。
1980年9月,侵攻一日目,イラク空軍機はイラン各地の空軍基地を攻撃したが,与えた損害は軽微だった(いつ頃からかは分らないが,筆者が実際に視察した時には,イランの空軍基地は厚さ2m以上もあるベトン製格納庫に軍用機を収容し,その周囲に,爆風を防ぐ高いコンクリート製の防風壁を設け,空襲に対し万全を期していた)。これが以後の作戦に与えた影響は大きく,劣勢と見られていたイラン空軍は,イラクの各都市や重要施設を爆撃,たびたび首都バグダードを停電に陥れた。イラクは予備役の召集を開始し,中部のカスルエシリン地区とメヘラン地区,南部のフゼスタン州の三地域で地上戦が展開された。このうちカスルエシリン地区には師団級,メヘランには旅団級の兵力からなるイラク軍が侵攻し,カスルエシリンでは前方40km,メヘランでは前方10kmの地点をそれぞれ占領,堅固な防衛陣地を築いた。これら両地区への侵攻は,カスルエシリン地区からバグダードへ,またメヘラン地区からバグダードーバスラ街道への脅威を防ぐために実施されたもので,以後,この両地区でイラク軍は防禦に専念した。主戦場となったのは,イラン南部の平坦なフゼスタン州であった。ここに,二個機甲師団を主力とするイラク軍が侵攻した。 二個機甲師団といえば,開戦時のイラク軍の全機甲師団数の半分である。だが,フゼスタン州でのイラク軍の進撃は意外とはかどらなかった。
9月28日には,行軍中のイラク機甲部隊がイラン軍の対戦車ヘリに襲われ,多大の損害を出していイラク軍の当面の目標は,シャット・アル・アラブ河沿いのホーラムシャハルと製油所のあるアバダンであった。ホーラムシャハルは激戦の末,10月24日に陥落したが,その出血の多さにイランはフェンシャハル(血の町)と呼んだほどであった…
…
▼イラン長期消耗期
1983年2月,ラマダン作戦,ムスリム・イブン・アギル作戦の相次ぐ失敗にもかかわらず,モハラム作戦は膠着したとはいえイランの見通しを明るくした。イラク南部の大湿地帯は戦線が錯綜しており,イラン歩兵にとっては奇襲攻撃をかけるのに格好の場所であった。アシの繁る中を小型舟艇で機動し,ヘリコプターや輸送機による補給を受けて行動する新戦法をイランは編み出した。また,モハラム作戦での緒戦の成功から,イラクの兵力は十分でなく,ことに戦線を破られた穴をふさぐ予備兵力が極端に不足していることを露呈した。この時期のイランの戦略方針は,以下のものと推察される。
・イランは人口で3倍の優勢を持つ利点を生かして次々と部隊を新編し,長大な全国境線に亘って戦線を拡大,イラク軍を長期消耗戦に陥れる。
・イラク軍が防衛しにくい南部の大湿地帯及び,同国の生命線ともいうべきバグダードバスラ街道の切断をメヘラン地区から仕掛け,イラク軍を出血させる。
この第5期は,第1~7次のバル・ファジル(暁)作戦が中心となり,イランによる総計14の大規模な攻勢作戦が行われた。主攻勢は,イラク北部のハジオムラン高地,中部のメヘラン地区,南部のハウイザ原及びマジヌーン島に向けられたが,このうち,北部での作戦は多分に陽動作戦の色彩が濃く,実際1983年7月31日にはイラン外相のベラヤチが,一部の作戦を陽だと暗に認めている。以下ではこれら一連の作戦の内,特に大規模なものを取り上げてみよう。1984年2月上旬,「神の解放」作戦の第一波が北部で開始された。続く2月15日「ヤ・バハラ」作戦がメヘランデフロラン間の南西部で開始,後にこの「ヤ・バハラ」は,第5次バル・ファジル作戦の秘匿名であったと発表された。 2月21日,第6次バル・ファジル作戦が南部で開始され,これに連動して翌2月22日には,ヘイバル作戦も開始されている。以上のように,作戦の秘匿名や多くの作戦名が一時に使用されたことは,イ・イ戦争中,前にも後にもなかった。これはもちろん,イラク側の情報処理を困難にして,秘匿効果を出そうとしたものだが,イラン軍としては,それほどこの第五/六次バル・ファジル作戦に総力を傾けていたのである。1984年2月8日~2月10日にかけて,パスダランの兵士はかねてから弱点であった機動力の向上を図って全土で演習を実施し,この作戦に向けての動員体制を完了していた。 また1983年1月以降はもっぱらアラビア湾上の船団護衛に出動する程度で,イラク領内を飛ばなくなっていたイラン空軍も,2月25日の第五次バル・ファジル作戦に呼応して,イラク各地を爆撃した…
▼イラク反抗期
…注目すべきは,イラク空軍によるペルシャ湾上のイラン領の島及び海上油田への攻勢である。1987年7月13日ファルシー島,7月14日ファルシー島,ラハーシュ油田,7月15日ロスタム油田......。 これらの島及び海上油田プラットホームは,パスダラン海上部隊の小型襲撃艇の基地である。時期的には,米海軍によるクウェート・タンカーの護衛開始の直前である。すなわち,この航空攻勢はクウェート,米国,さらに西側へのイラクのサービスとみられる。イラク自身,ペルシャ湾内でこれらイラン小型艇と闘う必然性がないからであ今さら繰り返すまでもないが,イ・イ戦争全般を通じて,こうした政治戦略,あるいは政治的配慮を双方ともよく行っている。これを見抜けなければ,この戦争の推移と進は理解できないといえよう。
こうした状況下で,イランに最後の止どめを刺したのは,イラクのミサイル及び化学戦力であった。1988年2~3月の双方の首都ミサイル合戦で,イラクはイランを圧倒した。 テヘラン市民の間には「イラクがミサイルに毒ガス弾頭を付けて撃ち込んでくる」との噂が流れ,パニックが生じた。実際,6月25日にはイラクはイラン南部のアカルバラ号アフワズに毒ガス弾頭付ミサイルを多数撃ち込んだ。こうした状況に,イラン指導部は動揺し,人民にとにかく戦果を示すため,2年ぶり「バル・ファジル」の栄光ある作戦名を再び掲げ,その第10次を北部で開始し,3月17日には温存に努めていた空軍を32波も出動させるほどに力を入れてハラブジェを陥落させ,戦果の宣伝に務めた。だが,イラクはミサイル攻撃で優位に立った次は,南部の要衝ファウの奪回作戦名「ラマダン・ムバラク」を決めていたとみられる。もともと,ハラブジェは少数民族クルド族の土地で,戦略性も高くない。イラクとしては堅守する気持はなかったであろう。もし堅守する意向なら,戦略予備軍たる最精鋭の大統領警備隊を投入したはずである。そうしなかったのには,この部隊をハラブジ防衛に注ぎ込んで,ファウ奪回の貴重な戦力を損いたくないという意向が,イラク指部にあったからだといえよう…
▼終戦期
…守備に当たるイラン軍は革命防衛隊を中心に約3万人と見られ,他方,攻撃するイラク軍は常勝将軍とわれたマベール・ランド第七軍司令官の指揮下に,第七軍と大統領からなる6~7万人であったが,防御の利点を考えると,イランにあながち不利ではない,ファウの周辺は大湿地帯で,バスラに通じる道路が二本,ウム・カスールに通じる道以外は機動や展開が利かないし,南は海であり,守るには有利な場所である。
だが4月17日の作戦初日からイラン守備隊は振るわず,ファウ半島北部とペルシ湾岸地域を奪還された。イラン発表によると,イラク軍は対岸のクウェート領ブビアン島を基地として上陸作戦を行ったという。イラク海軍は小規模な上陸作戦能力を持っていた。2日目の4月18日,イランは42波(それまでの最高の出動回数)に上る空軍の地上支援を行った。これからみて,イラン統帥部はファウの堅守を厳命したと見られる。海岸部にイラク軍戦車,水陸両用戦車,浮航式兵車などに上陸され,これらに圧迫されたことも考えられるが,とにかく海岸部を完全に占領された。同日午前9時,ペルシャ湾南部において,米国がイランに戦闘を仕掛けた。この報道を聞いて,イラン守備隊の戦意が急速に低下したことも考えられる。とにかく,海岸部を抑えたイラク軍が,シャット・アル・アラブ河沿いに北進すれば,イラン守備隊は退路を断たれる。そこで3日目,イラン守備隊はシャット・アル・アラブ河を渡って,撤退した。イラクによるファウ奪回は,イランの戦争継続を改めて困難とした。イラクが1986年2月の第8次バル・ファジル作戦でファウを奪われるまで,ファウ付近のラスル・ビッシュ他に対艦ミサイル「HY2シルクワーム」(中国製)の基地を置き,バングル・ホノイニ港に入港する船舶を攻撃していたが,それが再開されることになる。また,ファウ奪回により,ウム・カスールを基地とするイラク海軍がバンダル・ホメイニ港へ向かう船舶攻撃に出動しやすくなった。これらの事情のため,イランの軍需補給が著しく難しくなってきた。加えて,イラン軍の兵士の士気がとみに振るわなくなってきた。ファウは簡単に奪回されたし,バスラ東方シャラムチェ地区(イラク側作戦名「タワッカル・アラー」),マジヌーン島なども容易に奪回された(イラク側作戦名「タワッカルナー・アラー・アラー2」)。 マジヌーン島などは,外人部隊の「イラク・イスラム革命最高評議会」のバドル軍団に守らせて,イラン軍は引き揚げていた。中部戦線では,イラクの外人部隊のイラン反体制派「ムジャヘディン・ハルク」の軍事組織NLAに,革命防衛隊が敗北する有り様だった(作戦名「タワッカルナー・アラー・アラー4」)。
戦後の1989年2月,イランを訪れた筆者は次のことを聞いた。戦争の終盤,ある日本企業のテヘラン事務所に勤めているイラン人従業員たちが,革命防衛隊に志願して出征した。しかし,前線でイラクのすさまじい砲火を浴びて,部隊長以下全員が腰を抜かし,集団脱走した。 脱走した足で全員が元の職場へ復帰したが,軍内憲兵組織が確立されておらず,逮捕されなかったという。こうした例は他にも多かったといわれる。
ペルシャ人は激昂する性格だが,気分の変わるのも早い。 そのせいであろう。 他方,イラクは兵や兵逃れは手配され,捕まれば厳罰となる。以上の状況の中で,1988年7月18日,イラン指導部はついに国連の停戦決議を
受諾し,イイ戦争は終結へと向かった。
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