ハワード・ヒューズ....20年間の密室暮し〜大富豪の奇妙な人生
20年間の密室暮し
ハワード・ヒューズ(1905〜1976)は映画プロデューサーとして,また世界有数のアメリカの大富豪として知られているが,それよりも生前から謎につつまれた伝説的な人物として有名であった。50 歳をすぎる頃から公開の場に姿をあらわすことをやめ,その生活は秘密の厚いヴェールにおおわれ,その死亡は遺体解剖と指紋照合とによって確認されるほどだった。この謎の大富豪をめぐってはさまざまな憶説がとびかいにせの伝記が出版されたりしたこともあったが,彼のかっての部下が書いた信頼できる手記などが発表されるに及んでわかってきたのは,彼もまた淋しい大富豪の一人であったという事実である。もちろん、彼ははじめから大富豪でも孤独な人間でもなかった。人間というものは行を先が皆目見当のつかない生きものである。老年になって若い頃の願望を達成するのはそれはそれで願わしいことではあるが,順望の実現が必ずしも願わしい結果を生むとはかぎらないのが人生という長すぎる旅路である。
彼は10代のはじめに四つの人生の目標をたてた。
1.世界一のゴルファーになること
2.一流の飛行家になること
3.世界で最も有名な映画プロデューサーになること
4.世界一の大富豪になること
このうち,1を除き他の3つの目標はほぼ達成された。世界一の大富豪という目標については,世界一はともかく,莫大な富の所有者になったのは事実である。父親から工作機械側造会社を相続したヒューズは,この会社から得た資金を飛行機メーカー,エレクトロニクス産業,航空会社,映画産業,レジャー産業などに投資して「ヒューズ帝国」と言われる大企業集団を築いた。ラスベガスのカジノを買収し,そのあがりの15パーセントは酒もタバコもやらないヒューズの懐にはいった。映画プロデューサーとしては1920年代後半から約30年間にわたって映画の製作にたずさわり,ジーン・ハーローやジェーン・ラッセルなどの肉体派女優を売り出し,凡作が多かったがアクションを取り入れたり,セックス・アッピールを売りものにしたりしてともかくも世に知られた。......
■細菌恐怖の世界
たいていだれにもなにかこわいものがある。カミナリがこわいという人がいる。毛虫がこわいという人がいる。蛇がこわいという人がいる。『ロジェ同義語辞典』を見ると,60以上の恐怖症が列挙されている。たとえば,尖端恐怖症,対人恐怖症,雷恐怖症,爬虫類恐怖症,書物恐怖症,広場恐怖症,閉所恐怖症,高所恐怖症,水恐怖症(恐水病).....。この世に存在するほとんどすべてのものが恐怖の対象になりうるわけであるが,たいていの人はなにかこわいものがあってもふだんはそんなことは忘れているものだ。カミナリのこわい人はカミナリの音を耳にするや恐怖にとらわれるが,カミナリが去ればけろりとしたものである。
ところが,いつもなにかがこわいと思い続け,それが頭からはなれないようになるとことは面倒になる。その恐怖の対象といつも戦っていなければならなくなり生活のすべてはその戦いのために犠牲にされるという事態にたちいたる。ハワード・ヒューズの身におこったのはまさにこういうことであった。いまでは彼が細菌恐怖症 (bacteriophobia)にとらわれていたことは,彼を親しく知る人びとの証言ではっきりしているが,はじめは単なるきれいずきといった程度だったようである。それというのも両親が早死にしたので(50 代で死亡),ヒューズは自分も早死にするかもしれないとおそれ,命をむしばむ細菌を警戒するようになったためであった。風邪をひいている人は避け,家に帰ったらうがいをする―たいていの人がしているのと同じことをヒューズも励行していた。ところがやがて50 代にさしかかるころから,人ごみを極度におそれだれとも握手をしなくなり,人に会うのを避けるようになった。そしてたとえばドアの取っ手に触れるのをきらい,部屋の出入りにはだれかにドアをあけさせた。どうしても自分であけなければならないときには、ハンカチで取っ手をつかんだ。ヒューズはすべては「長生き」のためなのだとまわりの者に説明した。病気になることを彼がどれほどおそれたかを語るこんなエピソードがある。あるとき,のどに異常が生じたと思いこんだことがあった。彼は一週間というものひとことも喋らず,会話はすべて筆談で通した。のどの調子がもとにもどるとふたたび喋りはじめた。一週間も口をきかないというのは並大抵のことではない。よほど堅い決意と思いつめた心がなければできるものではない。わずか一日でも口をきいてはいけないと言われたら,たいていの人は閉口する。しかし彼には執念にとらわれた人間に特有の忍耐力と持続が,病気にならないようにするためどんな困難もものともせずに実行できたのである。
■二十台のシボレー
はじめはきれいずきといった程度だった人間がこれほどの細菌恐怖症になったのはどういうわけなのか?心に変調をきたすことになるきっかけや原因はなかなか特定しがたいものであるが,その原因のひとつと思われるのは、50歳近くになる頃から、自動車事故の後遺症によるものと見られる神経衰弱の兆候を示したことである。そして細菌恐怖症とともに彼を一種の孤独地獄とも言うべき密室にとじこめることになったのが,極度の秘密主義であ
る。ピュリツァーも秘密主援者であったが,ことによると世の孤独な大富豪の共通点として秘密主義をあげることができるかもしれない。経営上ならびに一身上の秘密保持のために,そして護身のために20台のシボレーを買い,毎日ちがうシボレーに乗ることにしていたが,ヒューズのすることはなにごとも極端である。どう考えても20台は多すぎはしないだろうか?そのうえ「そっくりヒューズ」の男まで雇っていたのであった。ヒューズに接する者はすべて口のかたい人間でなければならなかった。彼は専任の理髪師を雇っていたが,ヒューズのことについて新聞記者などに話をもらしたりするとただちにくびになり新任が採用された。口がかたく規律をよく守るというのでモルモン教徒の理髪
師が選ばれた。もちろん理髪師にも完璧な清潔が要求され,調髪にあたっては,手術に臨む者がするように両手をよく洗ったうえで外科用のゴム手袋をはめ,けっしてヒューズに話しかけてはいけないことになっていた。その徹底した秘密主義を如実に物語っているのが厳重このうえない身辺警護である。彼は家庭というものを持たずホテルに住んでいたが,いつも最上階のすべての部屋を占領し,ヒューズがいる部屋の真下の部屋はあいたままにさせた。もちろんだれか「敵」に盗聴などされないためである。ヒューズが占領する最上階は8時間勤務三交代制でガードマンによって警備され,最上階
のエレベーターの前には武装したガードマンが待ちかまえるというものものしさに加え,ドイツ産の大きなシェパードをつれたガードマンが屋上をパトロールするという念の入れようである。
晩年のヒューズはラスベガス,バハマ,カナダのバンクーバー,ニカラグア,ロンドン,ふたたびバハマへというように各地を転々としてホテル暮しを続けていたが,いつも移動は極秘のうちに行われた。ラスベガスからバハマに移るときなどは雇っていた警備員にも内緒で,夜明け頃を見計らって非常階段から「脱出」するという有様である。このように細菌恐怖症と極度の秘密主義にとりつかれた大富豪は真っ暗なホテルの密室にとじこもって生きるという,まるで蓑虫歯ごもりの金のような生存様式を選び,それ以外の生き方ができなくなっていた。そしてテレビを見ることもなくなり,新聞を読むわけでもなく,外部からの情報の入手も途絶し数メートル四方の空間が彼にとっての世界のすべてとなった。一日中そして一年中,そのわずかな空間のなかを歩きまわったり,大部分の時間はベッドに横になったりすること,それが彼の行動のすべてである。彼は閉所恐怖症にだけはならなかった。
■感覚遮断の実験
ところで人間の精神活動は外界からの何らかの刺激を受けることによって営まれるものである。自然の風を眺めたり,人間の顔を目にしたり,人と話をしたり,本を読んだり,音楽を聞いたり,絵画や彫知を見たり―人間の精神活動をうながすためには外界からの刺激が必要だ。人間の精神活動の中心にあるのは意志や意欲といった,心のなかに秘められたものであるが,それだけでは精神の活動は雲のようにつかみどころのないものとなる。外界から得る刺激は彫刻家にとっての大理石のようなものであり,意志や意欲はノミと槌である。両者が用意されてはじめて精神は健全な活動を保証される。ところが外界からの刺激がなくなったらいったいどういうことになるだろうか?
感覚是断実験の実験報告によると感覚を遮断された密室の状態にないあいだ置かれた人間は,まず注意力や思考力が減退しやがて幻覚が生ずるようになるという。たとえば机がいくつもいくつも積み重なっているといった幻覚を見る。はじめは自分が見ているものは知覚であるとわかっているが,やがてそれを現実の映像と思い込むようになってしまう。あるいは幻聴が生ずることもある。このような実験からはっきりわかってきたのは,人間は外部からの感覚の刺激を遮断されると,感覚や知覚に変調をきたし正常な思考力を失うということである。
ヒューズが置かれた状況は,まさしくこのような感覚遮断実験のための実験室にほぼ等しい。彼の晩年は感覚遮断実験にささげられたようなものである。残念なことに彼が「実験室」のなかでどのように感じ,どのように考えていたかについてはわかっていないが,たぶん幻覚を体験したことはまちがいないだろう。また「ヒューズ帝国」に対して密室から出す指令などもだいぶ混乱していたのではなかろうか。もはや「ヒューズ帝国」は彼の手の届
かないところにあったのではなかろうか。彼は自分を巨大な企業集団の支配者だと思い込んでいたが,実のところ彼が自由にできたのは自分をホテルの密室にとじこめておくための費用だけにすぎなかったのではなかろうか?ヒューズは細菌の巣である世界,自分をつけ狙う「敵」でいっぱいの世界をシャットアウトしようとした。しかし気がついてみるとヒューズ本人の方が世界から隔離されてい
いいのではなかろうか?そのことに気がついていたかどうかはわからないが,しかし気付いたところで,彼もはや密室から外の世界に脱出することはできなかった。「ヒューズ帝国」の幹部達は,いつまでもヒューズがホテルの最上階の密室に滞在することを望んでいたに違いない。彼はいわば監禁の身であったのだ。
すべては相互のはたらきかけのなかにある。押す着は押される者でもある。頬を打つ手は頬によって打ち返されてもいる。自分を世界から隔離することは同時に自分が世界から隔離される事でもある。....
―孤独の研究,木原武一,
yguuhuuu pc
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