東大生気質


東大前本郷通商店街
朝地下鉄丸ノ内線本郷三丁目駅から東京大学へ行く道はすぐにわかる。
赤門へ向かって本郷通りをゆく学生達の流れがあるからだ。
寄り道をする者はいない。脇目も振らずに赤門か正門に吸い込まれてゆく。そして午後、授業を終えた学生達は、より寄り道することなく地下鉄の駅へ急ぐのである。せっかく天下の東京大学の正門と赤門を目の前にしながら本郷三丁目と6丁目の商店街には学生学生街の潤いが全くない。これは何故なのだろうか?
東大生に会ってみよう。優秀な東大生に本郷通り商店街の感想を聞いてみよう。そうすれば「学生のいない学生街」の秘密がわかるかもしれない。正門前にある万定フルーツパーラーの外川さんはいう。「昔の東大生は郷土の期待を担って中央に出てきたエリートぞろいでしたが、今の東大生は礼儀正しいおぼっちゃんって感じですね」。
昔はバンカラで苦学生風情が多く、教授や同僚と夜遅くまでこの店で議論していたものだが、最近の坊ちゃん学生はダラダラ店に残ったりはしない。食事が終わると手帳を出して、家庭教師のバイト先へ後の電話を入れ、さっさと出ていく。その様はまるでスケジュールに追われたサラリーマンのようだとか。
古本を扱う棚沢書店のおばあちゃんサダさんも力説する。
「怠けですよ怠け。とにかく男の学生は駄目。総代だって女の子ですもの。男の東大生が腹を閉めてくれないと、日本の将来は駄目になってしまいますよ。
商店街の人々は異口同音に昔の東大生を懐かしみ、今の東大生に失望し、合わせて日本の将来を深く憂うのだった。
東大生気質、今昔の変化はいつごろ、また何によって起こったのだろうか? 戦後における大きな転換は二つ考えられる。
  昭和42年~43年  東大紛争
  昭和54年~  共通一次試験の実施
農学部前、東大生のよく集まるおでん屋さん「呑七」4代目の主人新井さんは語る。
「昔の東大生は俺は何々がやりたいから東大へ入ったって志があったよ。でも今の学生は序列の順番、偏差値でコンピューターに自分の大学を決めさせてるんだよ。
印刷による序列化で、「東大=頂上」の図式が確固たるものになり、塾世代のできる子どもの目標を有無を言わせず「東大一直線」にした。
教育に大金をかけられる家庭の子供が勝ち残る。商店街の人々が感じていた、「今の東大生=お金持ちの坊ちゃん」を作り上げたのは共通一次試験だというのである。東大前本郷通りから路地に入ると朽ちかけた下宿をいくつも見かけることができる。戦災を免れた幸運が、町を薄暗く、重く、古くしているのが皮肉ではある。
上野は戦争でまるやけになり、戦後大勢の修学旅行生を受け入れるべく、本郷の下宿屋の多くは旅館に転業、以来、それまでたくさんあった東大生相手の下宿屋はその数が激減した。戦後は25年もあった下宿屋「泰明館」もう今や6部屋を残すだけ。敷地の大半は駐車場に変わっており、6部屋の借り手も専門学生ばかりで、東大生は一人しかいなかった。
お金持ちのお坊ちゃんは本郷界隈の薄暗さ、重さ、古さがお気に召さないのであろう。
   明るく新しい町のマンションに住む
   アルバイト、デート、それに勉強で忙しい
これが商店街で学生の姿をほとんど見かけない二つの理由である。
学生といえば麻雀だ。雀荘に行けば東大生に会えるかもしれない。
正門前の「雀酔あずま」に飛び込んでみたら、たまたま客は一人もおらず、お店の静子さんがポツリと雀卓に座って番をしていた。この際だから、「麻雀の持ち方にミル東大生今昔」を聞いてみよう。
静子さんも共通一次以降の東大生気質の変化を認めた上で、こんな話をしてくれた。
「昔の東大生はじっと我慢していい手を作る勝負師だったの。でも今の東大生は安い手ですぐは上がり、とにかくワーワー賑やかなんです」。
1回上がるごとに4人がハイを倒し、それぞれの手を見せ合う。「見てくれよ、俺の」といえば友達も「すごい!おいしかったじゃないか」と答え、こんな調子が4人分続く。だから自動卓でやっていても半荘すむのに2時間かかってしまう。これもやはり共通一次シンドロームなのでしょうかと、静子さん。
確かに今の東大生は子供っぽくなっている。商店街の人々も世の識者たちも嘆くわけだが、しずこさんの意見は少々趣を異にしている。
「昔の東大生よりも今の東大生の方がいいんじゃないですか、人間らしくて。今の世の中、東大生だから威厳を持っているなんてかわいそうですよ」。
(雑誌太陽 1987.12)
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