産業時代

1952年、大学を卒業した私は、本を詰めたトランクを手に深夜運行の長距離バスに乗った。当時の産業界の中心で仕事をしたいと思ったからだ。
1950年代、米国は世界の心臓部だった。その心臓部の中でも五大湖周辺エリアは産業界の中心である。
心臓の中の心臓といえるこのエリアでは、工場が激しい鼓動の音を響かせていた。製鋼工場、アルミニウム工場、工作機械工場、製油所、自動車工場等の黒ずんだ建物が、行けども行けども続いていて、その中の機械があたりに轟き渡っていた。
工場こそは、産業時代の象徴であった。
中流家庭に育ち、大学でプラトンやエリオットに接し美術史や社会学を学んだ若者には、工場のような世界は珍しいものだった。
トフラー「第三の波」(1982年) 要約
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石炭、鉄道、繊維、鉄鋼、自動車、ゴム、工作機械-それらは第二の波の世界の古典的産業である。
本質的には、電気と機械の単純な組み合わせで生産を進め、大量のエネルギーを食い、膨大な廃棄物と汚染物質を吐き出す。その特徴は、長時間生産、低い技術的必要条件、反復作業、規格製品、高度集中管理等だ。
1950年代後半から、こうした産業が先進工業国で明らかに後退、衰退の色をみせてきた。例えば、米国では、1965年から1974年の間に労働力は21%上昇したのに、繊維関係の雇傭はわずか6%の伸び、鉄鋼関係では実質的に10%落ちた。同様な傾向はスウェーデン、チェコ、日本、その他の第二の波諸国で顕著に現れた。
時代遅れの産業は、次第に発展途上国に移行された。そこでは労働力が安く、技術が遅れているからだ。
量子電子工学、情報理論、分子生物学、海洋学といった新しい産業が新たに頭をもたげてきた。
これら新入り産業はいくつかの点で新入り産業とはっきり違う特色がある。 基本的には機械と電気の組み合わせ方式から脱却し、第二の波古典科学基盤から脱却した。
トフラー「第三の波」(1982年) 要約
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第一の波世界以前
マスメディア到来以前、変化の緩やかな村落に育った第一の波の子らは、教師、牧師、役人、家族のような、一握りの小さな情報源から得たイメージから「現実の心象モデル」を作っていた。
村の子ども達の持つ世界像は極度に狭いものだった。その上、子ども達の得たメッセージは二つの点で過剰だった。即ちメッセージは何気ない会話の中で警句の形で語られ、一方で様々な情報源により一連の思想の形で強められた。
子ども達は教会でも学校でも「汝、--するなかれ」を聞かされ、家族や国家が教えたメッセージがさらに強化された。
地域世界の世論の服従を強いられた子どものイメージと行動の範囲は狭いものだった。
トフラー「第三の波」(1982年) 要約
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第二の波の世界では、ものを各要素に分解していく能力をやたらに重視したが、その要素を統合する力はあまり重視されなかった。
たいていの人間は統合よりも分析が得意である。だから我々の描く未来は断片的で、つまり正しい未来は描けない。
我々が実行すべきなのは、各分野を専門的に見て行く事ではなく、全体を包括的に捉えていく事だ。
トフラー「第三の波」(1982年) 要約
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