朝鮮人民軍誕生史
お待ちかね、北朝鮮シリーズの第一弾「朝鮮人民軍の誕生」である。
朝鮮人民軍、ひいては北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の歴史を語る上では北朝鮮の公式史観も紹介しつつ、同時にそれが歴史的事実とそぐわない場合はその旨も特記しておく。
しかし北朝鮮の公式見解を何が何でも虚構と断じたい一部人士のようにはならず、公平な視点から著述していきたい。
・金日成の抗日武装闘争
朝鮮人民軍の誕生については、北朝鮮の公式史観と実際の経緯とでは大きな相違がある。
北朝鮮の公式見解では、数年来、抗日革命の道に立っていた金日成が1931年12月に『日本帝国主義に反対する武力闘争を組織し展開することについて』
と題された演説を行い、これを踏まえて1932年4月25日に抗日パルチザン部隊「朝鮮人民革命軍」が創建されたのを以て朝鮮人民軍の創建記念日(建軍節)としており、これ以前には組織的な抗日闘争は存在しなかったとされている。世にいう「抗日パルチザン神話」である。
金日成が朝鮮で最初に組織的な反日運動を開始したという神話は歴史的事実に反するが、金日成の抗日運動が全て否定されたわけではない。
このころ韓国併合から20年を経て朝鮮人の自主独立への渇望と自らを抑圧する大日本帝国にたいする憤怒は大いに高まっており、
すでに朴憲永などの共産主義指導者や、曹晩植などの民族主義指導者らが朝鮮独立のため有形無形の闘争を展開しており、共産主義に基づく武装革命路線も盛んに行われていた。そのひとつに中国共産党が指導する部隊「東北人民革命軍」があった。そしてその隊員名簿に一中隊長として金日成の名が見られる。
従って、朝鮮人民革命軍の創建が神話・虚構であっても、金日成が抗日武装闘争へと身を投じていたという事実は否定しようがないのだ。
当時の多くの朝鮮人青年たちと同じように金日成もまた祖国解放の熱情にあふれていたことだろうし、そうした日々のなかでマルクス=レーニン主義に朝鮮解放と共産主義革命の希望を見出したのも、当時の青年としては至って普通の動機だったろう。
さて、中国共産党指導のもとで反日運動を展開し1938年の普天堡戦闘で大きな戦果を挙げた金日成だが、1940年ごろには日本の軍隊と官憲による激しい攻撃を受けてソ連領内への逃亡を余儀なくされた(もちろん北朝鮮の公式見解では、この時期も白頭山に根拠地を築き朝鮮領内に踏みとどまっていたとなっている)。
ソ連領内での金日成は同じく朝鮮人共産主義者でパルチザン部隊員だった金策、姜健、、金一、崔健、呉振宇ら(彼らは「満州派・パルチザン派」と呼ばれ建国後は党と軍と国家の要職を独占する)や崔庸健などの甲山派(朝鮮共産党からの合流組、のち粛清)の一部とともにソビエト赤軍「第八十八偵察旅団」に所属し、将来起こるであろうソ連の対日参戦に備えた。
またこの時期、金日成の後継者として権力を継承することになる金正日(ロシア名:ユーリ・イルセノビッチ・キム)が誕生している。
・日本降伏と金日成
1945年8月15日の日本降伏後、金日成と満州派は密かにソ連軍用船「プガチョフ号」に乗船して元山港に到着して帰国した。
(金日成の帰国について北朝鮮の公式史観はソ連軍の対日攻勢が発動されている有利な状況の下で金日成以下の人民革命軍が祖国を解放した、と説明する)
また解放後ソウルに帰還した朝鮮共産主義運動の大物・朴憲永が戦時中に日本によって解体されていた朝鮮共産党を再建すると、金日成は10月10日にソ連の支援のもと朝鮮共産党北部分局を組織。これが後に北朝鮮労働党を経て朝鮮労働党となる。
そして10月14日には平壌でソ連軍を解放者として歓迎する祝賀大会が行われ、そこで初めて金日成が朝鮮群衆の前に立った(北朝鮮の公式史観では、この祝賀大会もソ連軍の歓迎ではなく、あくまで金日成将軍の凱旋を祝賀する大会だったとされる)。
この大会は朝鮮近現代史のうえで重要な意味を持つ。
すなわちソ連側が金日成を公式に北朝鮮の指導者に据えることを表明したからである。
北朝鮮地域におけるソ連軍政のトップであるチスチャコフ大将や政治局のレベジェフ少将は、反抗的な民族主義者である曹晩植などよりもソ連に従順にふるまう金日成こそが共産主義の朝鮮に最もふさわしい指導者と考えたようで、チスチャコフのバックにいるソ連内務大臣ベリヤを通じてスターリンがOKしたという話である。
しかし金日成はソ連の後押しだけで指導者の地位に就いたわけではなく、やはり銃の力があってこそだった。
・ソ連軍政下の金日成
8月15日の日本敗戦後ソ連軍が朝鮮北部に進駐する24日までの間、朝鮮北部は一時的に無政府状態となった。
そこで民族主義者の曹晩植が16日組織した建国準備委員会は、機能を喪失した日本官憲に代わり治安維持組織として「自衛隊」をつくった。
また共産主義者の玄俊赫は「治安隊」を組織したが、自衛隊も治安隊も所詮は自警組織にすぎず、将来の軍隊に発展する素地は見当たらなかった。
だが同じ共産主義者でも33歳の若き金日成は一味違っていた。接収した日本軍の武器を手に「赤衛隊」を編成したのである。
これらはソ連軍が公布した武装団体の解体命令によってほどなく解体され、代わりにソ連主導の「保安隊」が生まれ指導者に金日成が選ばれた。
保安隊は主に平壌を中心とした部隊であったため地方都市の治安維持が不安になってきたのと、朝鮮領内にある工場を戦利品としてソ連本土に鉄道輸送する必要から、新たに鉄道保安隊(のち鉄道警備隊に再編)が結成され、やはり金日成が隊長に指名された。
金日成は他の政治指導者が林立する国内でただ一人、13個中隊もの軍事力を手中におさめ、実力の点で他のライバルより有利な位置に立った。
こうしてソ連の強い影響下のもとで進められていく新国家建設に中国共産党は危機感を抱き、個々人ごとに武装解除した上で編入するとの条件付きで
中国共産党の息がかかった朝鮮人部隊(司令官:武亭)を送り込んだ。
・朝鮮人民軍の誕生
1947年までには装備や軍制をソ連式に整備、鉄道警備隊はミニソ連軍の様相を呈すまでに成長した。
すでに米ソ間で協議されていた朝鮮半島の統一国家を建設する米ソ共同委員会が決裂し、朝鮮半島分断が決定的となった以上、軍隊の保有は早急に行わねばならぬ事態であった。
1948年2月8日、朝鮮民主主義人民共和国の建国に先駆けて朝鮮人民軍の建軍が宣言された(ただし公式史観では前述のとおり1932年4月25日が創建日である、また朝鮮労働党の創建日も南労党などを吸収する以前の1945年10月10日に設定されている)。
事実上の国防省である民族保衛省が設置されて崔庸健が大臣に任じられ、朝鮮人民軍最高司令官には金日成が着任した。
ここにソビエト軍の思想・装備両面からの支援を受け、マルクス=レーニン主義で武装する革命的軍隊・朝鮮人民軍は誕生したのだった。
建軍当初は2個師団と1個混成旅団の戦力だったが、1950年の朝鮮戦争開戦までには10個師団に各1個戦車旅団・連隊を保有するまでに増強された。
なお1948年9月の建国直後から開始された在朝鮮ソ連軍の撤退は同年12月までには完了し、以後の北朝鮮は北南統一に向けた戦争へと向かっていく。
・参考文献
金日成の軍隊 朝鮮人民軍の全貌(青田学、教育社)
超軍事国家 北朝鮮軍事史(塚本勝一、亜紀書房)
北朝鮮 遊撃隊国家の現在(和田春樹、岩波書店)
北朝鮮 軍と政治(塚本勝一、原書房)
総力戦研究所
http://www.geocities.jp/totalwar1939/koreanarmy.html
http://www.geocities.jp/totalwar1939/socialism.html
http://www.geocities.jp/totalwar1939/index.html
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