世界政策 ―ドイツの未来は海上にあり―

世界政策 ―ドイツの未来は海上にあり―
ドイツ海軍
本記事はカイザー(皇帝),ヴァイマル国,そして総統ヒトラーと変わりゆく所有者と海軍との関係を軸に, ドイツ海軍の歴史をつづってみるつもりである。
それでは,頭上にイギリス駆逐艦が回遊しているときのUボート乗組員のような気持ちになって肩の力を抜きのんびり読んでください。
1.ドイツ帝国海軍
・ドイツ帝国海軍の誕生
ドイツは元来が陸軍国家だ。統一以前のドイツの各領邦で海洋に面していたのはバルト海に接するプロイセン王国やハノーヴァー王国くらいのもので,殆どの国は内陸国だった。
過去にはリューベックなど海上交易で栄えた都市もあったが,例外と言ってよいだろう。
さて,そんなドイツ諸邦がプロイセン主導で統一され,北ドイツ連邦を経て普仏戦争を経験し,新たに皇帝ヴィルヘルム1世を戴くドイツ帝国として誕生したのが1871年。
北ドイツ連邦にも海軍は存在したが陸軍省の所属であり,独立海軍としての体裁すらなかったが,
このドイツ帝国の誕生とともに海軍局は陸軍省より独立し,帝国海軍本部となった。
本格的に海軍が整備されるのはもう少し先のヴィルヘルム2世時代となるが,ともかくここに皇帝の海軍・カイザーリッヒマリーネ(Kaiserliche Marine)は誕生した。
1873年,普仏戦争でフランスに屈辱的敗北を与えたドイツ首脳部にとって気がかりなのはフランスによる報復戦争であり,それとともに連鎖的に起こる列強各国との紛争でもあった。
とうぜん列強国との関係改善に務めたし,また一方で戦争に備えて軍備の増強も行った。
しかしながら国防予算の割り振りは陸軍が最優先で,ドイツ海軍は北海沿岸部,特にヴィルヘルムスハーフェン軍港周辺の防御に特化した装甲艦5隻を主力として保有するにとどまった。その装甲艦5隻の建造費でさえ予算獲得には8年の年月を要したという有様である。
ドイツ海軍の建軍成ったとはいえ,今しばらく不遇の時代を過ごさねばならなかった。
・世界政策 ―ドイツの未来は海上にあり―
ドイツ海軍が世界第二位の海軍へと躍り出る転機は,新皇帝の誕生であった。
1888年に即位したカイザー・ヴィルヘルム二世は海軍の増強に並々ならぬ関心を払っており,このカイザーの意思はすでに1886年に建設が始まっていたキール運河として知られるカイザー・ヴィルヘルム運河の建設計画に付随する形でのヘルゴラント=ザンジバル協定の締結(1890年)といった具体的政策を伴って現れた。
カイザー・ヴィルヘルム運河の建設によって,北海方面とバルト海方面のドイツ艦船が自由に行き来できるようになる。またザンジバル諸島の島々をイギリスに割譲することでヘルゴラント島を獲得,北海における海軍根拠地とすることが可能になり,同時にイギリスとの友好関係を深化させることができる。
この時点で,カイザーは海軍の増強にこそ関心を払っていたが,世界一の海軍国・イギリスとの関係悪化は決して望ましい事態とは考えていなかった。
またカイザーは既存の海軍本部を海軍省,海軍総司令部,海軍内局の三つの機関に分割し,皇帝直属の海軍内局を通じて統帥権を行使,海軍政策に関与できる体制を作り本格的な海軍増強に備えた。
ドイツ帝国の誕生以降,ドイツは工業の充実に力を注ぎ続け,今や世界でも有数の工業国家となった。
農業国から工業国へと脱皮すれば,工業製品の市場とその原料供給地を求め植民地を獲得しようとする。
ドイツ帝国も例外ではなく,世界政策と呼ばれる帝国主義政策を採り,ドイツ領東アフリカ,カメルーン,ナミビアなどを次々と植民地化,
膠州湾を99年間の租借地するなどし,世界最大の植民地帝国であるイギリスとの関係も1896年のクリューガー電報事件を直接の契機として悪化していった。
カイザーもここに至り英独友好の維持から,徐々にではあるが対英強硬政策へと転換し,
海外膨張政策から発生する列強各国,特にイギリスとの摩擦を避けたい宰相ビスマルクは解任された。
また海軍大国イギリスが仮想敵国として浮上するようになると,いよいよドイツは本格的な海軍建設を推進する。
ドイツ海軍にとって最初の戦艦は1890年起工,1893年に就役したブランデンブルクとその同型艦3隻である。
起工の時点では今だフランスがドイツにとって最有力の仮想敵国であり,したがって設計もフランス戦艦に類似したものとなったが,
ここにドイツ海軍は沿岸防御に特化した艦隊から外洋艦隊への一歩を踏み出した。
・海軍大臣ティルピッツ
1896年1月,カイザーは「ドイツ帝国が世界帝国へと発展した」との宣言を行い,世界政策のさらなる拡大を促した。
その一環として海軍を増強するうえで,ドイツ海軍内部ではふたつの論争が存在した。
1890年に海軍大臣に就任したホルマン提督は,通商破壊を主戦略として巡洋艦を多数建造する案を提示,
96~97年度予算で高速巡洋艦4隻を建造する法案を帝国議会で通したが,
カイザー・ヴィルヘルム2世はこの案を不服とし,東洋艦隊司令長官だったティルピッツ提督の戦闘艦隊戦略を採用して
ホルマンを解任,新たにティルピッツを海相として抜擢した。1897年のことだ。
戦闘艦隊戦略とは,すなわち戦艦中心の大艦隊を建設すべきとの計画であり,
ティルピッツは外交カードとしての戦艦戦力を大いに評価していた。
つまりドイツの仮想敵国艦隊が大ダメージを受け得るリスクを抱えるだけの規模の艦隊をドイツが保有すべきだと主張した。
このころ,ドイツ最大の仮想敵国はすでにフランスからイギリスへと移っており,この戦闘艦隊戦略はイギリス海軍に対する抑止力の効果を狙ったものだった。世界一の海軍力を持つイギリスがその戦力の過半を喪失するリスクを負ってまでドイツと交戦しようとは思わないだろう,こう考えたわけだ。
これを「危険艦隊」思想と呼ぶ。
しかし歴史をたどれば分かるとおり,イギリスは構わずドイツと開戦したし,その戦争は人類史上初の世界大戦にまで発展したのだった。
また時を同じくして外務大臣にも海軍推進論者のビューローが着任し,カイザー・ティルピッツ・ビューローの三人がドイツの世界戦略を牽引することになった。
ティルピッツの海相就任とともに1898年度には第一次艦隊法が可決され戦艦の定数は19隻,耐用年数を25年と定められ,1900年度の第二次艦隊法では戦艦の定数が38隻と倍増,装甲巡洋艦の定数が14隻,巡洋艦の定数は38隻とされるなど未曽有の建艦ラッシュとなった。
これほど急速に拡大を遂げたドイツ海軍にとって不足しているのは何よりも人員,特に士官だったが,新興のドイツ海軍は陸軍のように
士官をユンカー階級が独占するような事態はなく,中産階級が出世の機会を求めて入隊するなど充実していた。
またクルップをはじめとする重工業業界も多くの受注を受けて盛況となり,海軍を統一ドイツの国民統合の象徴とすべく海軍省主導の大規模なキャンペーンが行われた。
戦艦52隻を保有するイギリス海軍にとって38隻のドイツ戦艦は脅威以外の何物でもなく,かくして英独間に建艦競争が勃発した。
1906年,イギリス海軍は戦艦ドレッドノートを竣工させ,それ以前に建造された戦艦は前弩級戦艦となりすべて旧式化したが,
それは単に両国間の建艦競争が一層加熱するという結果を残しただけであった。
第一次世界大戦の敗戦までにドイツ海軍が建造した弩級戦艦は
・ヴェストファーレン級(ナッソー,ヴェストファーレン,ラインラント,ポーゼン)
・ヘルゴラント級(ヘルゴラント,オストフリースラント,チューリンゲン,オルデンブルク)
・カイザー級(カイザー,フリードリヒ・デア・グローセ,カイゼリン,プリンツレゲント・ルイトポルト,ケーニヒ・アルベルト)
・ケーニヒ級(ケーニヒ,グローサー・クルスフュルト,マルクグラーフ,クローンプリンツ・ヴィルヘルム)
・バイエルン級(バイエルン,バーデン)
の計19隻。
戦艦の建造費が1隻あたり国家予算の0.5%~1%を占めると言われた時代である。
帝政ドイツにとってはあまりに大きな経済的負担であった。

総力戦研究所
http://www.geocities.jp/totalwar1939/germannavy.html





・第一次世界大戦の勃発
1914年,オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の暗殺に端を発したオーストリアの対セルビア宣戦布告は
まるでドミノ倒しのように列強各国を戦争へと引きずり出し,ここに第一次世界大戦が勃発した。
開戦時,ドイツ海軍は弩級戦艦14隻,前弩級戦艦22隻,巡洋戦艦4隻,装甲巡洋艦9隻,軽巡洋艦22隻,駆逐艦149隻,潜水艦28隻を保有し,
堂々たる世界第二位の海軍大国となっていた。
開戦直後,地中海ではゾーヒョン提督に率いられた巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウが孤立していたが,中途仏領アルジェリア沿岸を砲撃するなどしつつ,なんとかイギリス地中海艦隊の追撃を逃れ中立国オスマン帝国に逃れることができた。
ドイツ海軍はこの2隻の艦船をオスマン帝国に売却することを条件にトルコの中央同盟側(ドイツ・オーストリア=ハンガリー同盟)に立っての参戦を促し,オスマン帝国は10月に参戦した。
また開戦時,ドイツ東洋艦隊主力は青島の海軍基地に停泊していたが,開戦によって本国への帰還は実質不可能となってしまった。
これらは南米・コロネル沖海戦における勝利などの戦果を挙げるも,時を経ずしてイギリス海軍に各個撃破された。
ただ2か月余りの間に30隻以上の連合軍商船・艦船を撃沈し,インド洋の海上交通を麻痺させた防護巡洋艦エムデンの活躍は現在も語り草になっている。
第一次世界大戦は,その規模の大きさに比べて海戦が少ない。
これはドイツ海軍が現存艦隊主義を採り,終戦の際に少しでも有利な条件で講和するための外交カードとして艦隊の保全を優先したのが大きな理由のひとつとなっている。
それでもヘルゴラント・バイト海戦,ドッカーバンク海戦などの中規模程度の海戦は散発的に発生していた。
しかし真の意味で英独両海軍が総力を挙げて戦った大海戦は1916年5月31日から2日間にわたるユトランド沖海戦(ドイツ側呼称はスカゲラック海戦だが,イギリス側呼称が世界的に知られているので以後こちらで通します)であり,史上最大の艦隊決戦と言われている。
イギリス川149隻,ドイツ側99隻に上る艦船を投入したこの大海戦には紙面を割いておく必要があるだろう。
・ユトランド沖海戦
イギリス海軍は,自らの主力艦隊を大艦隊(Grand Fleet)と呼称した。対するドイツ海軍もやはり主力艦隊を大海艦隊(Hochseeflotte)と呼んだ。
それぞれの艦隊は大まかに中核の戦艦部隊と,露払いとしての前衛打撃部隊である巡洋戦艦部隊に分かれており,
ドイツ戦艦部隊の司令官はラインハルト・シェーア提督,ドイツ巡洋戦艦部隊の司令官はフランツ・フォン・ヒッパー提督だった。
イギリス戦艦部隊の司令官はジョン・ジェリコー提督,イギリス巡洋戦艦部隊の司令官はデイビット・ビーティー提督。
ドイツ大海艦隊はそれまで艦隊現存主義者のため,軍港を出撃して積極的に制海権を奪おうとはしなかったが,
今回は違っていた。イギリス海軍から制海権を奪取しようとドイツ海軍の主力艦艇をすべて投入した。
対するイギリス海軍も暗号を解読しドイツ海軍主力の出撃を察知しており,こちらもまた主力艦隊を投入した。
第一次海戦はやはり前衛の巡洋戦艦部隊同士の激突となり,15時40分ごろに火ぶたが切られた。
1時間程度の砲戦でイギリス海軍は巡洋戦艦インディファティカブル,クイーン・メリーを喪失した。
第二次海戦では,先の第一次海戦で大戦果を挙げたドイツ巡洋戦艦部隊に対しイギリス戦艦部隊が襲いかかり,
ドイツ側はフォン・デア・タンやデアフリンガーなど4隻の巡洋戦艦が戦闘不能となり,フォン・ヒッパー提督は巡洋戦艦部隊を退避させた。
第三次,第四次海戦は死闘となり,イギリス側は巡洋戦艦1隻などを喪失,ドイツ側も前弩級戦艦1隻,巡洋戦艦1隻,巡洋艦3隻などを喪失した。
この海戦ではイギリス側が巡洋戦艦3隻を喪失した一方,ドイツ海軍は旧式戦艦と巡洋戦艦を各1隻ずつ失うに留まり,
戦術的にはドイツ海軍の勝利といえるが,目標としたイギリス海軍からの制海権奪取は失敗したため,戦略的敗北であると言える。
この海戦以後,ドイツ大海艦隊は艦艇の喪失を極端に恐れ,軍港内に閉じこもったまま終戦まで過ごすことになる。
・無制限潜水艦作戦
開戦時にドイツ帝国海軍が保有していた潜水艦はわずかに28隻で,大戦初期の戦果としてはたった1艦で英装甲巡洋艦3隻を撃沈したU-9などがあるが,海軍上層部もその戦力には懐疑的で海軍内部でも日陰の部署とみられていた。
しかし当時の水上艦艇は対潜戦闘能力が低く,一度潜航してしまえば潜水艦の独壇場となり,一方的に魚雷で撃沈することができる。
また潜水艦の非力な火砲では軍艦を撃沈するのは困難だが,非武装の商船ならば武装解除ののち撃沈してしまうこともできる。
しかし戦時法規では,商船を撃沈する際には必ず浮上したうえで警告を与えねばならないとされている。
これでは潜水艦の特性を生かせない。そこで1915年2月,無制限潜水艦作戦が宣言された。
無制限潜水艦作戦とは,商船を撃沈する際に浮上もせず,もちろん警告も与えず発見次第撃沈するというもので,完全な国際法違反である。
5月にはU-ボートによる月間の戦果が10万tを超え,イギリス経済は大打撃を受けたが
潜水艦に対する有効な攻撃手段を持たないイギリス艦艇にはどうすることもできない。イギリスは死滅の危機に瀕した。
同じく5月7日,アメリカ人乗客128名を乗せたイギリス客船ルシタニア号がU-20の攻撃により撃沈されたが,
この事件がアメリカ世論を激昂させてしまい,2年後のアメリカ参戦に繋がったといわれる。
もっともこの時の無制限潜水艦作戦は国際世論の非難が巻き起こったことからいったん中止され,無制限潜水艦作戦を推進した海相ティルピッツは解任された。
第一期の無制限潜水艦作戦は半年間だったが,もしこのまま継続して行われていたならイギリス本土は干上がってしまい,大英帝国は世界大戦の敗者となっていたかもしれない。
再び無制限潜水艦作戦が行われるのは1917年に入ってからで,1917年4月には月間86万tを撃沈するなど,その戦果は大きかった。
しかし数か月後には戦果が下降し始め,英国側が船団護衛を開始,水上艦艇がアスディックや爆雷を装備し始めると今度はU-ボート側の損害が増大するようになったが,無制限潜水艦作戦は終戦まで継続された。
・スカパフロー自沈
4年半に及ぶ大戦争はドイツを苦境に追い込んでいた。
依然として制海権を握るイギリス海軍は常にドイツ近海を封鎖,ドイツの国内産業は機能不全に陥っており,
陸軍も最後の大攻勢であるカイザーシュラハトが失敗し,配色が濃厚となった。
1918年10月3日,ついにドイツは連合国に休戦を打診。
敗戦を前にしてドイツ首脳部は海軍に最後の決戦を命令,自殺的な艦隊決戦へと駆り立てた。
ユトランド沖海戦以降出撃を許されず軍港内に留まっていたドイツ大海艦隊将兵には共産主義と厭戦気分が広がっておりこの命令を拒否。
ヴィルヘルムスハーフェン軍港にてストライキを開始,これがキール軍港にも飛び火して10月29日,ついにドイツ革命が勃発しカイザー・ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命,帝政が倒れた。
新生ドイツ共和国は11月3日,休戦協定に調印。第一次世界大戦はドイツの敗北に終わった。
残存したドイツ艦艇は英国スカパフロー軍港に集められ抑留された。
1919年に入りヴェルサイユ条約が発効,抑留中のドイツ艦艇は戦勝国各国に分配されることになった。
抑留ドイツ艦隊司令官ロイター提督以下将兵は,自らの艦艇たちがかつての敵国に引き渡される屈辱を良しとせず,密かにキングストン弁を開けた。
ここに世界第二位の海軍力を持った,誇り高きドイツ帝国海軍は消滅した。
これからのドイツ海軍はヴェルサイユ条約の重荷を背負い続けなければならない。再起するその日まで。

総力戦研究所
http://www.geocities.jp/totalwar1939/germannavy.html







0 件のコメント:

コメントを投稿